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タイトル 「3年の抑留生活後北朝鮮へ」 番組名 [証言記録 兵士たちの戦争] 朝鮮人皇軍兵士 遥かなる祖国
氏名 キム・ギリョンさん(朝鮮半島からの徴用・徴兵 戦地 満州(孫呉) シベリア(ブラゴヴェシチェンスク) 朝鮮(興南)  収録年月日 2010年2月18日

チャプター

[1] チャプター1 ソ連軍の侵攻  01:22
[2] チャプター2 終戦 国へ帰られると思っていた  05:33
[3] チャプター3 ソ連軍の捕虜に  04:13
[4] チャプター4 収容所での対立・暴動  05:20
[5] チャプター5 逃亡した同胞  05:13
[6] チャプター6 ハバロフスク  03:17
[7] チャプター7 故郷への帰還  03:54
[8] チャプター8 ロシア語教師となった  04:21
[9] チャプター9 「北のスパイ」といわれて  05:03

再生テキスト

キャタピラーの中へ入って、飛び込んで爆発させる。まあ、戦車1台と兵士1人が、まあ、散花(華)するという形でした。

Q:というと、キムさんは特攻隊員みたいなものでした。

「特攻隊」という名前は、特につきませんでした。でもね、工兵の任務は「ソ連の戦車を爆発する」そういう任務がありました。そういう任務が各自に与えられたわけですよ。

花見山(北孫呉周辺の山。日本名)という、南花台(陣地)という所で、毎日のようにソ連軍と対立した。日本軍と一緒に交わっていましたから、時たまによっては、特攻隊みたいなやり方でソ連軍を撃退した。だから、ソ連軍もなかなかあそこは、あの方からは、攻撃してこなかったわけですよ。戦車でやらなければいけなかったですから。そういう状態が約1週間くらい続いたわけですよ。ところが、8月15、16日あたりになると、「ちょっと、おかしい」という気持がしました。話によると、日本の斥候という人たちが、関東軍司令部に行って、「日本が戦争で負けた」という情報を伝えたらしいんですよ。

それから急に、(8月17日になって)「武装解除」っていう命令が出ましたよ。それで、私たちは武装を解除されて、「もう(日本が)戦争に負けたからすぐ国へ帰れる」と、それで、非常に喜んでいたんですよ。

Q:戦争が終わって、やはり国へ帰れるっていう話が。

もう日本の兵士たちが全部そう言ったんですよ。「もう、全部、自分たちも国へ帰れる」って。「お前たちも故郷へ帰れる」それは、よく考えられるんですよ。戦争に負けてから。捕虜っていうことは考えられなかったですよ。

Q:キムさんも、やはり、喜びを感じたんですね。

もちろんですよ。でもね、喜びの気持ちを表わすことは出来なかったですよ。というのは、非常におかしな状態になって、私たちが、そういう気持ちを(表に)出すと、やられるかもしれないと思いましたから、日本の兵士たちに。だから、そういう気持ちがあったんだけど、それを(表に)出すことはできなかった。「ああ、残念でしかたがない」という、日本の兵士と一緒に、なんて言いましょうか、態度を取ったわけですね。あそこで、約1か月半か、2か月くらい、兵舎っていうのがないわけですから、山だからね。そこで適当に食べたり、眠ったりして。でも、陣地の中には食料とか、戦争物資は非常に豊富にありましたよ。だから、腹が減ったりとかはなかったです。ただ、「いつ帰れるか」、それだけ考えました。それで、部隊が移動するのは、一時全部移動したわけじゃなかったんですよ。(移動する部隊を見て)「あーあ、あの部隊は国へ帰る。」私たちはそう思いました。ところが、部隊移動の命令が出されて、(私も)歩き始めたんです。しかし、おかしなことに、北に進んだわけですね。そして、先の愛琿(中国北東部・現黒竜江省黒河市)まで行ったところで、ものすごい戦闘が起こったといって、目に見えるから、馬とか戦死した兵士の遺体の悪い臭いがすごく感じられて・・・でも、しかたなかった。ソ連軍が馬に乗って捕虜たちを監視というのは、ソ連軍が馬に乗って、何人しかいなかったけど、(私たちは)武装解除されたので、言われるがままに、北へ北へと、進んだわけですよ。

Q:そのころは、もう捕虜になるっていうことは分かったんですか。

分からなかったです。というのは、日本の兵士たちも、「お前たちはソ連に行っても、シベリア鉄道で国へ帰れる」と、こういうかたちだと。私たちもそう思いましたよ。

それで、黒河(中国黒竜江省北部)っていう所があるんです。そこまで行くと、日本の兵士たちが黒河の支流の川端に、何千人も座っていたんですよ。そこにはソ連軍の記者たちが、従軍記者っていうんですか、行ったり来たりして写真を撮ると。そのようにして、一晩過ごしたかもしれませんね。それで、川を渡って、それから到着したのがブラゴベシチェンスクでした。聞いたことありますか?それは、極東で、ハバロフスクとウラジオストクに次ぐ3番目に大きい都市でしょう。そこに、私たちは収容されて、それから捕虜生活というのが始まったわけですよ。

Q:捕虜って分かってどんな気持ちになりました。

ああ、それはもう、何と言いましょうか、それはもう、絶望的でしたね。というのは、ソ連というスターリンは、同じ社会主義共産主義国家でも、あれがないですよ。あの、新聞報道とかそういうのが見られない。だから、「これは、いつ、どれくらい苦労したら国へ帰れるか、その見当がつかない」と、そういう心になったんです。それから、ソ連側から「捕虜を何人か渡してくれ」と言って、50名、100名として各仕事場に連れて行くわけですよ。まあ、私たちは2中隊でしたが、一緒に同じ収容所に収容された5中隊っていうのがありまして、5中隊の中にも韓国出身が、第1期生が・・・。

Q:韓国の人もいたんですか。

ええ。それが第1期生です。5中隊には。そして、私たちは2中隊で第2期生。でも、割合に私たちの収容所には韓国出身が多かったですよ。今、考えてみると、約400人か500人くらいいたと思うんですよ。

Q:その兵士たちは日本軍の兵士として、日本軍として・・・。

もちろんですよ。ソ連側は、そういうのを全然聞いてみなかったんですよ。「お前たちは、志願してきたのか、徴兵されてきたのか」って。結局、聞いてこなかったんですね。それで、私たちは日本出身の兵士たちと一緒に暮らしたわけですよ。そういう形が、約5~6か月くらい続いて。

おかしいのは、日本はですね、一応、捕虜になるとですね、最初はそんなふうに取り扱わなかったけれども、一応、捕虜になってしまうと日本は軍隊の階級を、あれを使っていましたよ。お前たちはいちばん下のもんだから、「使役」っていうもんがあるんです。靴を磨くとか、軍服を洗ったりとかね。色々な非常に難しい、そればかりさせるんですよ。だから、自然に、「なんだ、みんな一緒に捕虜になったのに、今、軍隊の階級なんか問題になるか」という形で、あれがありましたよ。それで、暴動みたいなのがあって、ソ連のその警備兵がやってきて、銃を撃ちました。そういう困難な立場もありましたよ。

Q:それはどういう暴動だったですか。みんなで話をして。

その暴動というのは、ソ連に対するものじゃなくて、日本軍隊の同じ捕虜の中での暴動です。というのは、日本の兵士たちは、全部、早く軍隊に入ったわけですから、全部上の階級になったわけでしょう。で、下のものをいじめるわけですよ。何でもかんでも、させるんですよ。だから、これは同じ捕虜になって、いま階級っていうのはなんだ、おかしいじゃないか、これはダメだという形になって、いろいろとケンカも起こったしね。それで・・・。

Q:どんなふうなケンカだったですか。

それはもう、殴ったり、いじめたり色々なことがありましたよ。

Q:日本兵を・・・。

日本兵が朝鮮出身兵を、いろいろ、いじめたわけです。だから、それに対して、朝鮮兵もいろいろ暴力を使うと。それが問題になって、約8か月後に分離されました。「これではいけない」というソ連側の方でもね。それが分離されて。そして、働いたところ、場所によっては非常に良いところもありましたよ。例えば、食べ物を製造するところとか、そういうところで働いた人たちは、まず腹が減るんだから、なんでも社会主義はおかしなところがありますよ。何でも、盗んで食べても知らない振りをするんですよ。いまの韓国や、日本では、考えられないですね。で、良いときもありましたけれども、非常にその建物を造るとか、(建物を)造るために土を掘るとか、そういうところに配置されたら・・・。

日本の兵士っていうのは、全部良い環境で暮らしていた人たちですよ。銀行とか、学校とかね。それが、後で、兵士が足りないから、補充兵として召集されたわけでしょう。あの人たちは耐えられなくて。私たちは20代ほどでいいんだけど。食べ物さえ確かにあればね。それで、非常に残念なことに6万名ほど死んでいきましたよ。私の収容所でも毎日5,6名、10名、朝起きたら死んでいたんですよ。でも、あの当時の状況は、第2次世界大戦が終わった後で、全部、自国の状態が非常に難しかったので、そういう事件があっても、誰も、それに関心を持つ人がなかったわけですよ。

ところが、うちの収容所でも韓国出身、今のそのうちの1人、住んでいますが、ナ・カングクさんは。4名が脱出しました。川の近くで仕事している間、舟から川の中に飛び込んで、対岸に泳いで(脱出した)。それから2か月間、全然便りがないもんで、「ああ、あの人たちも成功した」と思ったところ、当時の満州は、蒋介石軍隊が全部破られ、八路軍が(支配してたんだけど)、八路軍に見つけられて戻ってきたわけですよ。捕まえてきて、銃殺とかなんとか、いろいろ、脅かしましたが、「今度だけは許す」と、それで無事に終わった。

私はそのときですね、「全部集めろ」というあれ(命令)がありましたよ。それで全部集まったわけでしょう。そうすると、両手を縛られた4名が入って来るんですよ。収容所長さんが、全部集まった中に、彼たちを座らせて、「いくらお前たちが脱出しても、失敗する」と、「これは、今後は銃殺するつもりだけれども、今回だけは特別に許す」と、「その代わりに、お前たちは、今後脱出するという考えなんかは、一切持ったらいけない」と、そういうふうに脅かしたわけですよ。そういうあれがありました。ずっと昔の話だけどね。

Q:それを見て、キムさんはどう思いましたか。

「やっぱりだめだ」と、「脱出はできない」と。これは、もう満州というのはあれがなければ、蒋介石の軍隊がまだ生き残っていたら、それはまた別の問題だけれど、これは八路軍ですから、ソ連と密接なあれ(関係)があるんですよ。「だめだ」と。もう、脱出した人はね、幸い、朝鮮人の家を見つけてそこへ隠れて、2か月間くらいいたわけですよ。ところが、なんか情報が入ってきて、捕まえられてやって来たんですよ。

でも、一時、そういう事件が起こったわけで、「これじゃいけない」とソ連側が考えたらしいんですよ。翌年の7月か、北の方に移動されました。それがミハイロチェスナスコプスカヤというところでした。そこにもやはり朝鮮出身の人はいましたけれど、ほとんどは日本の兵士たちでした。

Q:それはもう逃げ出さないようにという意味があったんですか。

私はそういう意味だと思いますよ。そういう事件がなかったら、そのままブラゴベシチェンスクに収容されていたかもしれません。ところが、逃亡者が出るから、「これじゃいかん」と朝鮮出身の者たちは逃げられないようにとして、北へ移動させたかもしれません。そこが、もっと難しいところだったんですね。枕木というのがあるでしょう。汽車の枕木を(機械で)製造するところでね、それは、もう、機械を相手にする仕事ですから。そこでも、ひどい目にあった。そこでも、死亡者も出たけれども。

Q:そこでは、朝鮮の方でも死亡したっていうことですか。

そう、死亡しましたよ。死亡したというよりも、食べられなくてね、全部、なんていいましょうか、骨ばかり残って。それで収容所長が変更されて、ようやく、そこでまた、移動されましたね。・・・という所へ。

またハバロフスクに移動したわけですよ。ハバロフスクの第4分所という所に。そこへ行ったら、朝鮮人出身の捕虜たちがほとんどいました。それで難しいことになったのは、共産主義運動というのが起こりまして。ブラゴベシチェンスクもミハイロチェスナスコプスカヤなどにもそういう形の運動が起こりましたけれども、ハバロフスクの第4分所での運動は、非常に北朝鮮以上のもんでしょう。北朝鮮と同じ形だった。そういう耐えられない、私は。毎日反動や闘争というのがありまして、反動・・・とか。特に日本の上の将校、上の士官たちは、全部、反動に尽くしたんです。毎日、反動運動というのが起こりまして、耐えられない。時間さえあればもう、そればかりだから。それを仕掛ける人は、もうそれで、自分の位置を強化する。そういう形で、おかしな状況でした。ところが、一部はホールという所へ、ちょっと、北の方ですけど、あそこへ行きました。私もホールという所へ行きました。ホールもあまり良い環境じゃなっかたけれども、やはり、あそこでも反動という、運動というのがありました。少尉以上、大尉など、それから、少佐、中佐、大佐の人が毎日引き連れられて、反動運動だ。中に腰を下して、大きな声を出しながら、いわば反動運動というのをやったわけですよ。

Q:それに加わらないといけないんですか。

ああ、それは全然考えられない。それに加わらないと、逆に「反動」になるわけですよ。そういう形ですよ。「お前らはブルジョア根性がまだ残っているから、この運動に参加しなきゃいけない」と。反動に一応なると、それはもう、耐えられないですよ。

そこで、そのときが、1948年10月ほどでしたけれども、北朝鮮の政府から「朝鮮出身の兵士を返してもらいたい」という要求がありました。収容所長が、そう言っても、私たちは信じられなかった。というのは、ソ連に入ってから「お前たちは」、毎日、「帰る」と、「帰る」と、「もうすぐ帰る」(帰れる)と言われましたから、これは全然信じられなかった。いつまでもここに置かされるか、5年、10年たったら私たちは死んでしまうだろうと、もう絶望的でしたね。ところが、ホールに行ったら、そういう、あれがありましたよ。それで、朝鮮出身の兵士たちはウラジオストクのすぐ近くにナホトカという商港があります。そこに、全部集結されたわけですよ。それで初めて、朝鮮出身の関東軍は、生き残った人が2300名がいました。それで、ノーボシビルスキという商船に乗らされて、北朝鮮の、南は国境がないもんですから、北の興南、フンナムという所ね。そこへ、全部連れられたわけですよ。そこで、北朝鮮の方からは、なんと言いましょうか、「審問」という形で収容されて色々な精神的な、その「・・・押収する」とか。その中でもまた反動、闘争というのが、苦しい立場でありました。そして、私のお父さんは、北朝鮮の最高人民代議員に選出されまして、彼は自分の職責を持って収容所に入って来て、「この中には私の息子がいるんだから、私が連れて行く」と。歩哨たちは、「そうはいかない。何を言うのか。最高人民代議員だから、どこでも行って、自分の考えることはなんでもできると思うのか」と言いましたが、父は、私を強制的に連れて故郷に行ったんですよ。

私は故郷が北朝鮮なもので、そして、うちのお父さんが故郷に連れて行ったら、北朝鮮の今の高等学校みたいなところでね、すぐ、英語は廃止すると、英語はやめると、英語はもう習えなくなったんです。そうすると、キム・イルソン首領がね、「直ちに、ロシア語を習わないといけない」と言ったんですね。しかし、北朝鮮の男性たちは、ほとんど、南朝鮮に行ったわけですよ。逃げて行ったわけですよ。だから、北朝鮮には、教育を受けた者は、ほとんどいなかったわけですよ。だから、ロシア語というのは知る人がなかったんですよ。だから、6週間特別講習を受けた人は、無条件に「高等学校の先生に、まあ、なれ」と命令されました。ところが、私はね、ソ連で生きるために、しかたなくロシア語を習ったわけですよ。で、北朝鮮の故郷に帰ると、やはり6.25戦争を始めるつもりでそうしたかもしれませんが、ソ連軍が、はじめて、撤退したんですよ。南朝鮮にはアメリカ軍がそのまま残っていたんですよ。私が到着したときは。それで私に、「お前は、先進国ソ連から本物のロシア語を習ってきた、と思うんだから、直ちに、ロシア語の教師をやりなさい」と言われて、学校でロシア語を教えたわけですよ。非常に人気があったんですよ。そのときは、北朝鮮にはソ連軍が全部撤退して、通信兵2人だけ、残したんですよ。その人たちは、いつも学校へやってきて、色々な要求ばかりするんですね。「待遇を良くしてくれ」とか何とか。まあ、でも当たり前だったんでしょう、その人たちにとっては。で、私は学校で1年くらい、教えている間に、6.25、朝鮮戦争が始まったんですよ。そのときに私のお父さんは、非常に、その政治的な戦争に反対したんですよ。それが問題になって。それから、またはじめに「朝鮮出身の捕虜たちを引き戻してくれ」と、それをピョンヤンにやったんですよ。共産主義国家でそういう要求するのは非常に難しい。そういうわけで「これは危ない」と、家族を全部連れて、南へやってきたわけですよ。彼(父)は南へやってきたけれども、すぐ捕まえられて。あの、最高人民代議員っていうあれで、すぐ捕まえられて、裁判にまわされましたね。そういうふうにして、私は、北からまた、南へやってきたわけです。

最初はね。こっちにはなんの親戚もないし。労働者として、最初に、南に到着したのがプサンでしたから。教会の中で200名ほど、北からやって来た避難民っていいましょうか、全部埠頭に出て労働して、アメリカ軍の物資、主に食料品を運搬したわけですよ。戦争中だったから。で、ちょっと恥ずかしい話ですけど、食べ物なんか、缶詰なんかを盗んで。でも、盗んだといっても罪という気持はなかった。当たり前のことだ、という気持ちでした。そのときは。そういう形で、約1年間労働者として、ケイジョウからソウルから、全部、同じだったんですよ。全部、労働者でした。でも、1年たつと、医者は医者として戻っていくし、大学の教授は、また教授として戻っていくし、会社員は会社へ。(労働者として)生き残った者たちは本当の、北からやって来た労働者しかなかったんです。そうした形で、家族を扶養しなければいけないでしょう。非常に苦しい惨めな、いわば、そういう形でした。そして10年くらいたってから。

Q:10年もそういう労働をしたんですか。

いや、労働をしたのは約1年しかなかった。で、北からやってきたものは、これはちょっと恥ずかしい話ですが、うちの親父が最高代議員なんとかで。ところが、このイ・スンマン自由党政権時代っていうのは、法といのは効かないんですね。「お前は北のスパイだ」とか、「ソ連からやってきた」とか、毎日やってくるんですよ。それは、陸軍特務隊というところだったんです。私も捕まられてそこで色々と質問されて、これはもう不安で不安で・・・。

Q:あのう、キムさんもスパイだと思われたんですか。

そう、そういう形で捕まえられたんですよ。ところがまあ、そのときは・・・。

Q:捕まってどうなったんですか。

でも私はそうでなかったと(主張しました)。

Q:その前に捕まえられたんですか。

ええ、捕まえられたのは、収容所に、釜山の収容所に収容されるとき。そのとき、特務隊というのが釜山にありましたから。その人たちが、思う勝手に、「お前やってこい」と言ったらですよ。それで、いろいろと審問されて、幸いに、昔、北朝鮮の故郷にいた・・・という人に審問されまして、その人が私の故郷で時計を修理した経験があると言って、それで色々審問してそうでなかったと。それで、もし、スパイだとしたら、1人か2人でやって来るのに、これは、もう家族全体やってきたでしょう。でも、非常にやられたわけですよ。そして、これではいけないと、海軍情報局文官として私が勤めたわけですよ。ところが、海軍情報局のほうで、私がロシア語が出来るというわけで、自分たちが、私たちの方へやってきなさいと、それで情報局の文官として雇われたわけですよ。

出来事の背景

【朝鮮人皇軍兵士 遥かなる祖国】

出来事の背景 写真1910年(明治43年)、日本は大韓帝国を併合、朝鮮半島を日本の統治下に置いた。

1937年(昭和12年)、日中戦争が勃発すると翌年には朝鮮半島で志願兵制度が始まった。朝鮮半島では六年間でおよそ80万人の若者が志願し、その中から18000人が日本軍の兵士に選ばれた。日本に暮らす、いわゆる在日朝鮮人の中にも志願をする者がいた。

太平洋戦争が始まり、日本の戦況が悪化すると満州(現・中国東北部)を守る関東軍の精鋭部隊は次々に南方戦線へ転出していった。足らない兵力を補うために朝鮮半島で徴兵制が施行された。満州に住む朝鮮民族、在満朝鮮人も徴兵の対象となり、10万を超える新たな「皇軍兵士」が誕生した。若者たちは主にソ満国境に送られ、1945年8月9日のソ連軍侵攻に直面することになった。

関東軍の朝鮮人兵士の中には、戦後シベリアに抑留され日本人将兵とともに重労働を強いられた人たちもいる。さらに太平洋戦争の終結から5年後の1950年には朝鮮戦争が勃発。祖国が南北に分断される中、過酷な運命に翻弄されていった。

韓国に暮らす元関東軍兵士たちは、日本の戦争に荷担した「対日協力者」として戦後、韓国社会から疎外されてきたが、ようやく2006年に韓国政府から戦争被害者と認められ、名誉が回復された。

証言者プロフィール

1925年
ハムギョンナムド(咸鏡南道)に生まれる
1945年
徴兵され、孫呉(旧満州)の関東軍・工兵第123連隊15206部隊へ。ソ連軍により捕虜となりシベリア・ブラゴヴエスチェンスク強制収容所へ
1948年
10月、北朝鮮へ送られ、共産思想教育を受けた後、ロシア語教師に
1951年
朝鮮戦争の際、韓国へ
1990年
同様の体験者らと「シベリア朔風会」を結成

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