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タイトル 「抑留、北朝鮮をへて韓国へ」 番組名 [証言記録 兵士たちの戦争] 朝鮮人皇軍兵士 遥かなる祖国
氏名 ファン・ヒソンさん(朝鮮半島からの徴用・徴兵 戦地 満州 朝鮮 シベリア(ハバロフスク)  収録年月日 2010年2月20日

チャプター

[1] チャプター1 第1期の志願兵  02:54
[2] チャプター2 「スコラダモイ」と言われ3年8か月  05:38
[3] チャプター3 38度線越え  05:38
[4] チャプター4 帰国後も続く苦難  09:08

再生テキスト

第1期が軍隊に行くから、どうせ行くならば、志願兵として早く行きたい、という思いで行きました。それから、警察から「行きなさい、行きなさい」と。

Q:戦争に行くのはイヤじゃなかったんですか。

あのときは18歳だから、分かりませんでした。イヤなのかどうか。「よろしくて」と言って行きました。行ってから、行かない(方がいい)ということが分かりました。軍隊に行ってから、韓国人は(を)差別するから、軍隊で。「朝鮮人の奴ら」ことを言って。

Q:どんな差別があったんですか。

同年兵も「韓国人、韓国人だ」と言いました。差別して。進級するときも差別するし。そういう苦しい生活をしたんです。

あのときは「内鮮一体」と言って、朝鮮の人も日本人と同じく取り扱われるから。どうせ、行くなら、早く行こうと思いましたね。

Q:あまり、日本の戦争という気持ちはなかったんですか。

それは、分かっていました。あのときは「日本が勝つ」と思ったんですね。負けるとは思いませんでした。爆弾(原爆)が日本に投下されてから、天皇が手を上げましたけれども、軍隊に行くときは、日本が勝つと信じたからですね。

昭和20年度に解放されて、武装解除されて1か月間仕事をしたんですよ。あの鉄砲軍隊で、食べ物から食糧から鉄砲まで、全部まとめて仕事をして「トーキョー・ダモイ(東京に帰る)」、若者から先に行かされていて、前の船に乗ってきて、それが日本に来るのではなく、シベリアの、サハリンの横のところに船が到着したんです。
「スコラダモイ」、「早く帰すから、こちらに当分の間、降りなさい」と言って降ろしました。それで、ここから列車に乗って、その列車は、でこぼこな列車ですよ。きれいに備えた列車レールじゃなく、独ソ戦争のときに、アメリカに行くためにドイツ軍隊の捕虜を連れてきてそこに鉄道を敷いたというんですね。それで、1週間ほど乗ってシベリアの方に行きました。

Q:どこへ行くと思われたんですか。

それは分からないんですよ、どこに行くかは。彼らが連れていくから、連れて行かれたんです。行ってみたら、捕虜収容所があったんですよ。そこは、ドイツの捕虜がまとまった小屋ですね。そこで、3日間休んで、働かない者は食われない。食事をさせないから、仕事に行って、薪(まき)の仕事をさせられたんです。

Q:何の仕事ですか。

大きな松の木を切って、それが、そのとき、汽車が練炭を燃やすのではなく、捕虜たちが切った薪(まき)をたいて走ったんですので、その仕事をしました。

Q:大変な仕事でしたか。

きついですよ。

Q:どんなにきついですか。

それを切って、六尺が1人のノルマですよ、1日の。それをしなければいけなかったんです。最初は倒れたもの(木)を切ったんですよ。「それはいけない」と。それで、「新しい松の木を切ろう」と言われて、それをやったし。そこで、1年間いたんです。

仕事はきついし、食糧事情は悪いし、栄養失調になって、多く死んでしまいました。多く死にました。日本人は。朝鮮の人はそのとき、若かったから元気でしたけど、日本人の将兵、40代の人は弱かったんです。「寒い」、「食えない」、「仕事はきつい」。だから、多く死んだんですね。1年後は、収容所に半分しか残っていませんでした。

モスクワから視察に来た人がいました、偉い人が。(韓国語・・・)それが、「日本軍の中に朝鮮軍がいる」と話しました。それで、そこからハバロフスクに全員集まりました。それが3300名ほどでした。そこで、「スコラ・ダモイ(まもなく帰れる)、スコラ・ダモイ」と言ったところが、3年8か月間仕事されまして。

Q:シベリアのとき、早く故郷に帰りたかったですか。

それは本当ですね。祖国に妻もいなく、子どももいない。母も親父も生きているのを見てきたから、早く行きたいと思いました。早く行きたいが、いつ帰るか分らないからね。帰るのは帰るんですが、いつ帰る(帰れる)か。ソビエトでは「スコラ・ダモイ」・・・北朝鮮と南朝鮮が統一したら、帰られるというようなことを言っているから、いつ帰るか分かりませんでした。いつまで、ここで暮らすかも知らなかったし。

シベリアの軍隊が引き揚げるときに、最後の列車でウラジオストクに到着して、北朝鮮に行きました。

Q:北朝鮮ではどんなことをされたんですか。

仕事はしない。毎日、絵を見せられたり、見物したり。そういうことを繰り返したんですね。

Q:じゃ、北朝鮮では楽しかったんですね。

楽しくはない。楽しくはありません。北朝鮮から来た人は、みんな帰るし、南朝鮮出身者は38度線があるから、戻してくれない。苦しかったんですね、そのとき。

Q:ファンさんは「北朝鮮に残りたい」と言ったんですか。

彼らの(作った)映画ですね、そういうもの。「(国家に罪を犯した者たちの)首を引いて、自動車で引っぱっていって殺す」というから帰りたくありませんでした。怖いからですね。そういう映画だけ見せたり、宣伝するから帰りたくもなかったし。「するなら、ここに、とどまったらいかがですか」と言ったら、「それはいけない。帰りなさい」。

Q:その怖い国というのは韓国なんですね。韓国は残酷だという映画を見せられた。

ソビエトから来たので、共産党の人はだめだ。ですから、そういうふうに引っぱっていって、自動車で引っぱって死なせる。だから、いけない。怖かったんですね。帰りたくなかったんです。

Q:韓国に。

はい、そのときはね。

Q:38度線を越えるのは大変でしたか。

はい。

Q:どうやって越えたんですか、38度線。

そのとき、北朝鮮から南朝鮮に「こういう何名が、南朝鮮に行くから受け入れろ」と電報を打ったんです。それで、(韓国側は)分かっていました、南朝鮮でも。だから、電車に乗せてチョルウォン(鉄原)の38度線近くに降ろして「この山を越えて帰れ」というふうに帰しました。それが10名~15名ずつ分けてですね。北朝鮮から南朝鮮にもどした私たちは572人でした。

一列に 並んで行きましたが 、前の山の上から(警察が)鉄砲を撃ちました。それで、ケガした人が2人いました。それで、警察に行ったら、警察署長が「お前らはどうして鉄砲を撃ったか。言うことも聞かなく、勝手に撃ったか」と言うと、「北朝鮮の軍隊が来るのに、妻や子どもたちは避難させてないのに、どうしろっていうか」というふうに、互いにケンカして。

北朝鮮から38度線、そこを越えてポチョン(抱川)に来たんです。それから、1日過ぎてからバスが来ました。それで、インチョン(仁川)に行きました。そこに行って、2か月間収容されました。それから、帰るときには、各道の警察局からの警査が引率して、警察に行って、ホテルで1週間の調査を受けて。ここに名前(名札)を掛けて、カメラで写真を撮ったり、調査したりする。

そこで、調査を受けて故郷に帰す。帰ったところが、父も母も全部死んで誰もいない。それで、「仕事がしたい」と言うと、「仕事、受けない」(仕事は見つからない)。北朝鮮の人が来たら親日派として、朝鮮の人はシベリアにいたから「赤い水」がいる(訳注―赤い思想に染まっているという意味)から使われない。

「ここ、南朝鮮では、共産党はだめだ。だから、その精神があるならば、きれいに捨てなさい。」

Q:そう、誰が言ったんですか。

そのときに、金錫源(キム・ソクウォン)。国防准将。この人が来てそう言ってから出るのに、憲兵が、自動車の前に鉄砲を持って引率して行ったら、彼が言うのが、「お前たちは私が40年間、満州で生活したのに、お前たちの4年間はなんでもない。だから、そういう精神を持たないで、きれいな韓国人になれ」とそのようなことを言われました。

それで、生涯、チョルウォン(鉄原・韓国)に行きました。済州からチョルウォンに行って、練炭を販売して、一生暮らしてきました。

Q:仕事がなかったんですか。

仕事がなかったというより、「使わない。使わない」。

Q:雇ってくれないということですか。

はい。

Q:なんでですか。

「シベリアに行って赤い精神が叩き込まれている」と。だから、使わない。それで、チョルウォン(鉄原・韓国)に行って、一生、練炭売りをしてきました。

Q:いやなことはありましたか。

いろいろありましたけどね。1か月に1度は、警察に呼ばれて教育されたし、それから、1日ほど(どこかへ)行くなら、警察に報告しないと。

Q:どこか、行くときは。

はい。そういうふうに苦しめられたんですね。だから、子どもの教育も、全く、させられない。お金もないし。仕事、練炭売りして暮らすのが厳しいからね。チョルウォンで25年住んで、ここ(ソウル)にきたのは、27年目ですね、現在。それで、彼らが言うのは、そのときに「日本人捕虜としてソビエトで働いたので、賃金をください」と言ったら、「シベリアで働いたので、シベリアからもらいなさい」と言っているんです。それで、シベリア(ソ連)のスターリンに言ったら、「我々は、関東軍 60万人を敗戦の対価として受け入れて仕事させたので、日本からもらえ」と言いました。それが、日本が支払ってくれないから、それを(韓国政府に)言ったら、韓国は全く関係がない。それで、東京、大阪で裁判にかけても負ける。こんな生活をしてきました。

Q:シベリアから来たということを、皆、どんなふうな眼で見るんですか。どんなふうに言うんですか。

「共産党の教育を受けたんじゃないか」と疑いました。それで、仲間に入れ(てくれ)ない。苦しい生活をしてきたんですよ、一生。故郷に帰ってきたら、親父は(出征のとき)入隊した梁山の第2部隊の正門まで、私を連れて行きました。それが最後ですね。それから、親父は病気になって1週間あまりの後、死にました。47歳。母は2つ上ですよ、親父より。子どもが帰ってくるのを駅で、毎日、弁当を持って行って待ちました。それで、疲れて死にました。54歳のときに。それで、誰もいない。兄弟もない。私1人だから。

Q:(お母さんは)いつも、ファンさんを向かえに来たんですか。

私が帰ったときはいませんでした。死んで、いなくなりました。妹は結婚していましたし。誰もいませんでした。

出来事の背景

【朝鮮人皇軍兵士 遥かなる祖国】

出来事の背景 写真1910年(明治43年)、日本は大韓帝国を併合、朝鮮半島を日本の統治下に置いた。

1937年(昭和12年)、日中戦争が勃発すると翌年には朝鮮半島で志願兵制度が始まった。朝鮮半島では六年間でおよそ80万人の若者が志願し、その中から18000人が日本軍の兵士に選ばれた。日本に暮らす、いわゆる在日朝鮮人の中にも志願をする者がいた。

太平洋戦争が始まり、日本の戦況が悪化すると満州(現・中国東北部)を守る関東軍の精鋭部隊は次々に南方戦線へ転出していった。足らない兵力を補うために朝鮮半島で徴兵制が施行された。満州に住む朝鮮民族、在満朝鮮人も徴兵の対象となり、10万を超える新たな「皇軍兵士」が誕生した。若者たちは主にソ満国境に送られ、1945年8月9日のソ連軍侵攻に直面することになった。

関東軍の朝鮮人兵士の中には、戦後シベリアに抑留され日本人将兵とともに重労働を強いられた人たちもいる。さらに太平洋戦争の終結から5年後の1950年には朝鮮戦争が勃発。祖国が南北に分断される中、過酷な運命に翻弄されていった。

韓国に暮らす元関東軍兵士たちは、日本の戦争に荷担した「対日協力者」として戦後、韓国社会から疎外されてきたが、ようやく2006年に韓国政府から戦争被害者と認められ、名誉が回復された。

証言者プロフィール

1920年
カンブク(江北)に生まれる
1938年
日本陸軍に志願
1945年
千島列島の幌筵島(ほろむしろとう)で終戦。ソ連軍の捕虜となりシベリア・ハバロフスクの収容所へ
1948年
北朝鮮で共産思想教育を受けた後、韓国へ。練炭販売をして暮らす

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