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タイトル 「貧しさから日本軍へ志願」 番組名 [証言記録 兵士たちの戦争] 朝鮮人皇軍兵士 遥かなる祖国
氏名 イ・マンスさん(朝鮮半島からの徴用・徴兵 戦地 満州 朝鮮  収録年月日 2009年12月10日

チャプター

[1] チャプター1 皇民化教育  07:05
[2] チャプター2 志願兵として  07:25
[3] チャプター3 今思うこと  07:12

再生テキスト

1923年生まれです。

Q.その当時は既に韓国に日本が入っていたのでしょうか?

1910年に併合(日韓併合)だから、そのあと13年たって私が生まれました。朝鮮が日本に併合されて13年後に生まれました。

Q.イさんが幼いころ、日本人が多かったのでしょうか。イさんの故郷はどこですか。

ハムピョンです。

Q:そこには日本人多かった?

面(行政単位・日本の村に相当)に1人くらい、それほどいないかな。学校の校長は日本人でした。

Q:何歳で普通学校(朝鮮の小学校)に入りましたか?

23年生まれだけど、8歳で入学して、15歳で卒業しました。

Q:結構、長く通いましたね。

6年間通いました、今の小学校と同じように。いま小学校を出ても何もできないけど、当時は普通学校を卒業すれば社会にでられました。公務員にもなれました。当時は教育の水準が低かったからですね。今では大学院卒も珍しくありませんが、うちの村は大きな村でしたが、小学校には2人しか行っていません。約60世帯いたけど、普通学校通う人は私1人、いまの大学院卒よりも珍しかったんです。海保面と月位面の2つの村で小学校卒業生が29人だけです。それだけだったんです。その当時、お金がないと普通学校に通えませんでした。お金がある家の人だけが通えました。義務教育ではなかったからです。

Q:普通学校では、1年生のときから日本語教えてもらったのですか。

そうです。

Q:1年から?その話をしてください。日本語の勉強はどのようにさせられましたか。

日本語は国語の教科書がありました。朝鮮語教科書や数学、歴史などの教科書からも教えてもらいました。

Q:授業はすべて日本語でしたか? 学校では朝鮮語も使いましたか。

入学したてのころは、日本語が分かりませんから・・はっきりとは覚えていませんが、おそらく3年生までは、朝鮮語と日本語が混在していたのではと思います。高学年になると朝鮮語を使わせてもらえず、日本語のみになりました。

Q:先生はすべて日本人でしたか?

先生の半数が朝鮮人で、日本人が半分でした。

Q:校長は?

どこの学校も校長は日本人でした。朝鮮人の校長はいなかった。差別でしょうね。

Q:学校では神社参拝をしましたか?

しました。

Q:どのように?

神社参拝をするときは、先生が引率してクラス単位で行ったり、全校生が一緒に行ったりしました。神社は学校のすぐ隣にありました。個人ではあまり行かず、学校全体やクラス別で行きました。

Q:学校に入ってからすぐでしたか? いつ行ったのですか?

いつ神社ができたか分かりませんが、神社ができてから先生と一緒に行きました。何年だったか分かりません。行かなければ日本人とみなされません。つまりすべてを日本式にして、完全に日本人化させようとしたのでしょう。それを「内鮮一体」と呼んでいました。「内」は日本という意味で、「鮮」は朝鮮を指します。「皇国臣民」ですよ。

Q:幼い時期に皇国臣民になるために、どういう教育を受けましたか?

皇国臣民にするために、皇国臣民の誓いがあります。それを覚えろと言われました。今で言う・・。

Q:韓国の教育憲章ですか?

今の教育憲章に似ているもので、それを全部暗記しろと言われていました。

Q:覚えてますか?

今はもう覚えていません。

朝鮮人という信念も、日本人だという自覚もなかったんです。まだ幼かったんです。15歳で卒業するころに、自分は朝鮮人だと自覚できました。自分が朝鮮人であるという認識、子どものときにそういう認識はなかったですね。学校に通っているときはわからなかった。

Q:普通学校を卒業して、どういう仕事を?

2年制の学校へ行きました。農業実習学校です。その後、志願兵訓練所に行って訓練を受けました。

Q.普通学校を終えて、また2年間農業学校に通ったのですね。それから志願兵に行ったことになりますね。その当時、家族は何人?

家族は多かった。私の兄弟はだいたい5人だったかな。

Q.女も入れて9人ですか?

ええ、全部で9人兄弟です。

Q:当時、家は農家だったんですか? 土地を持つのが難しい時代ですね?

小作農だった。日本人が土地を持っていて、あれは何と言ったか、日本人と朝鮮人どちらの経営か知りませんが組織ができていました。その下で小作農をしていました。ほとんどの人が日本人の下で小作農でした。

Q:9人も兄弟がいたのでは、生活は厳しかったのでは?

厳しかった。生活が苦しかったから・・さっきも言ったけど、志願兵の99パーセントが強制だと言ったのには理由があります。生活が苦しかったから、役人が来て「志願兵に行きなさい」と強制が始まった。「軍隊に行ったら待遇がいい。私だけでなく家族の待遇もいい。つまり家族にも何かしてくれる」と言うのです。毎日のように警察や村長が説得に来ていました。

Q:どのくらい苦しかったですか?

とっても苦しかった。家族も多いし、ご飯食べることにも苦労しました。私が入隊した後は知りませんが、春には野草を食糧にしていました。食糧難がひどかった。うちだけではなく、ほとんどの家がそうでした。お金持ちはそんなにいなかった。

Q:村全体?

そうです。お金持ちも少しはいたけど、貧しい人が多かったのです。

Q:イさんの家はどうでしたか?

いちばん貧しかった。お金持ちだったら志願兵など考えませんよ。貧しかったから興味を持ったんです。就職という感じですね。戦争に行くと死ぬかもしれないから、行きたい人などいません。でも、「えーい、どうにでもなれ」と思ったのです。自分が「強制」と言っているのは、自分の意志とは関係ないからです。死ぬのを心配したところでどうしようもありませんでした。貧しかったから、しかたがありません。村役場とか警察の人が家に来て「軍隊に行ったら、家族にもよくしてあげる」と、甘い言葉を言うから、だからだまされて軍隊に行ったんです。

Q:甘い言葉とは?

私が兵隊に行った後、残された家族にもよくしてあげるという話です。家族の面倒までみてくれる言われたので行きました。

Q:長男だから、家族のために行くと決めたのですか?

お金を稼げるわけじゃないから、家族のためとは言えません。でも家族の面倒をみてくれるし、生活があまりに苦しかったから行ったのです。生活が苦しくても、警察(巡視)や役場の人(面庁)が来なかったら自分は志願など考えなかった。彼らが毎日来るから考え始めました。

Q:「自分が戦争に行けば口減らしができる」、「家族のためだ」と考えたのですか。

そんなことありません。お金にならないから。軍人になっても何にもなりません。

Q:その当時、朝鮮の青年たちは仕事がなかったのですか?

ありませんでした。仕事は肉体労働しかない。あのころは車もないし、運搬の手段がありません。自転車もないし、すべて人力で運びました。運搬に従事する仕事だけでした。

Q:イさんは結構勉強をなさった方ですが、それでも、仕事なかったのですか?

当時は就職できたとしても村役場しかありません。でも定員で入れませんでした。当時は試験もないし。

ソ連軍が命令しました。朝鮮の人だけ集まれと言われたのです。

Q:怖くなかったんですか?

もちろん怖かった。大変怖いと思いました。ソ連に連れて行かれるかも知れないし、胸がドキドキしました。しかし捕虜だから、命令に従うしかなかったんです。しばらく同じ場所で生活した後、日本軍はウラジオストクに移送され、残りはそこで解放されました。朝鮮人は解放されたんです。

Q:国境地帯にいた人の中には、日本軍と一緒にシベリアまで連行された人もいるそうです。朝鮮の人も。

日本人と一緒にですか。

Q:日本人も朝鮮の人も同じ部隊で、一緒になっていたんでしょうね。ですから、一緒にシベリアに連行されたそうです。でも、イさんの場合は、朝鮮人と日本人が分けられていたので、連行されずに済んだんですね。なぜ、違いが出たのでしょうか?

しっかりした命令系統が維持されていたからでしょうね。きちんと情報が伝わったかどうかですね。とにかく、日本人と一緒に連行された人は生きて帰らなかったでしょう。幸い、私は朝鮮人として区別されていたので、生還できたと思います。そうでなければ、多分死ぬか、ソ連に連行されたかでしょうね。どんな命令系統があったか、私は知りません。ただ、朝鮮人だけ集まるように言われてそうしただけですから。おそらく、その命令系統が違っていたのでしょう。

Q:今振り返ってみて、あの戦争は、イさんや国にとってどんな戦争だったと思いますか?

大東亜戦争と言って、大東亜の平和、つまりアジアの平和のための戦争でした。大東亜というのはアジアを意味するんですね。大東亜戦争、アジアの人々の平和のために戦うのだとしか知りませんでした。大東亜戦争です。平和のために。

Q:その当時、平和のために戦っていると誇らしく思ったんですか?

誇らしく思うようなことはありませんでした。軍隊に行って、使命感を持って何かをしたという記憶もないんです。ただ、上からの命令に従っただけで、日本のためだとも思わなかったんです。もし、私がそんな考えをしていたら、おかしいでしょう。ごく普通のことなんだと受け止めていました。「私は朝鮮人だ」とか、「日本人が強制的にわが国を占領した」というようなことは頭になかったんです。それを全く知らなかったからです。日本が朝鮮を占領したかどうか知らなかったんです。日本に併合されてから生まれたので。併合の前に生まれていたら、日本が朝鮮を強制的に占領したということを知っていたはずですけど、日本が占領してから生まれたので、よく知りませんでした。

Q:あの戦争によって、イさんの人生がどう変わったと思いますか。

あまり変わってないですね。参戦して得したことも、損したこともありません。約3年間軍隊に行って大変苦労はしたんですが、変わったことはそれほどないんですね。損したこともありません。得したことは死なずに生還したということでしょう。
私の母は毎朝早く起きて、当時は水道がなく、井戸の水を汲んで運んできました。昔、きれいな水を入れた器を置いて祈ることを、何と言ったか・・・。私の母は、毎朝、清水を備えて祈っていたそうです。家に帰ってきてその話を聞きました。母は1日も欠かさず祈ったと。母が祈ってくれたお陰で、生還できたと思います。私の名前はマンスですが、「マンスが無事に帰ってきますように」と祈ってくれたんです。
また、軍隊にいたとき、手足の爪を切るように言われました。私は、それは捨てられたものと思っていましたが、包んで家に送られたそうです。私はそれを知りませんでした。爪を切って名前を書いて出すように命令されて、ただそれに従っただけで、あまり関心もありませんでした。家に帰ってきてから聞けば、私の手足の爪を包んだものが実家に届けられたそうです。それで、私が日本軍に行って死んだものと噂されたそうです。私が死んで、私の手足の爪だけ送られてきたと。家族はその噂を、そのまま信じていたようです。家族はみんな号泣して、とてもすごかったそうです。後で確認すると、戦争で死んだからではなく、死んだときに備えて、前もって爪を包んで送ったのだそうです。家族はそんな事情も知らず、しばらくの間「マンスが死んだ」と噂されたようです。そんなことがありました。

出来事の背景

【朝鮮人皇軍兵士 遥かなる祖国】

出来事の背景 写真1910年(明治43年)、日本は大韓帝国を併合、朝鮮半島を日本の統治下に置いた。

1937年(昭和12年)、日中戦争が勃発すると翌年には朝鮮半島で志願兵制度が始まった。朝鮮半島では六年間でおよそ80万人の若者が志願し、その中から18000人が日本軍の兵士に選ばれた。日本に暮らす、いわゆる在日朝鮮人の中にも志願をする者がいた。

太平洋戦争が始まり、日本の戦況が悪化すると満州(現・中国東北部)を守る関東軍の精鋭部隊は次々に南方戦線へ転出していった。足らない兵力を補うために朝鮮半島で徴兵制が施行された。満州に住む朝鮮民族、在満朝鮮人も徴兵の対象となり、10万を超える新たな「皇軍兵士」が誕生した。若者たちは主にソ満国境に送られ、1945年8月9日のソ連軍侵攻に直面することになった。

関東軍の朝鮮人兵士の中には、戦後シベリアに抑留され日本人将兵とともに重労働を強いられた人たちもいる。さらに太平洋戦争の終結から5年後の1950年には朝鮮戦争が勃発。祖国が南北に分断される中、過酷な運命に翻弄されていった。

韓国に暮らす元関東軍兵士たちは、日本の戦争に荷担した「対日協力者」として戦後、韓国社会から疎外されてきたが、ようやく2006年に韓国政府から戦争被害者と認められ、名誉が回復された。

証言者プロフィール

1923年
チョラルナムド(全羅南道)ハムピョンに生まれる
1941年
志願兵として日本陸軍に入り、独立歩兵第205大隊に配属 中国戦線から満州へ
1945年
ソ連軍により武装解除を受け捕虜となる
1946年
解放され、帰国後は公務員として働く

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