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タイトルタイトル: 「沈没、そして漂流」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] トラック諸島 消えた連合艦隊
名前名前: 平山 豊次さん(トラック大空襲 戦地戦地: トラック諸島  収録年月日収録年月日: 2011年2月18日

チャプター

[1]1 チャプター1 唐津の海員養成所へ  06:54
[2]2 チャプター2 輸送船「天城山丸」  04:44
[3]3 チャプター3 ボーイ長の多忙な毎日  04:43
[4]4 チャプター4 バリクパパンの空襲  04:08
[5]5 チャプター5 雷撃を受ける  02:46
[6]6 チャプター6 毎日やってくる空襲  04:54
[7]7 チャプター7 トラック諸島(現・チューク諸島)へ  02:00
[8]8 チャプター8 トラック大空襲  04:37
[9]9 チャプター9 天城山丸沈没  08:50
[10]10 チャプター10 沈没船だらけのトラック環礁  04:21
[11]11 チャプター11 帰宅  03:16
[12]12 チャプター12 再び海へ  06:27
[13]13 チャプター13 再び沈没  05:53
[14]14 チャプター14 鹿屋基地で終戦を迎える  03:04

チャプター

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] トラック諸島 消えた連合艦隊
収録年月日収録年月日: 2011年2月18日

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Q:尋常高等小学校を卒業された後、平山さんはどうされたのでしょう?

カツオ漁船に乗ったんですよ。それは、その当時無線電信も付けてるカツオ漁船としては優秀船でした。しかし、4か月たったら徴用になったんです。船が。そうしますと乗組員が60人おったんですけど、もう、船長、機関長他の役員と4人ぐらいその船に残って、後は解散だったです。それですから、若い人はまた小さい船にも乗れるけど、40代以上の人はもう乗る船が無かったんです。私と同級生はほとんど海軍志願をしていったんですよ、若い人は皆。そのころは、海軍志願をしていかないと、ウチにおったら今度は軍需工場に徴用が来よったんです。

ほとんどがもう周りは同級生も、同じ年齢の一つ、二つ違うのもいなくなったから、だから17年の12月に、その唐津の海員学校は、来年の1月から開校するという話だったんです。それでそれを受けるために、その申請書を出したんですよ。で、受験番号もらっておったんだけど、そしたら受験が鹿児島市の鹿児島駅の近くだったんですよ。名前は忘れましたけどね、番地だけは、43番地は覚えてますけどねえ。

Q:船が徴用されたときに、海軍に入ろうという気持ちは無かったのですか?

私は無かったです。私は人より体が小さい方でしたから、体育関係ちゅうのは苦手でしたから。だからまあその、同じような仲間で訓練を受けるっちゅうのは嫌でしたから、海軍には行こうとは思わなかったです。兵隊にまでわざわざ志願して行かんでいいと思ってました。ただ徴兵検査で行くつかはしょうがないからと思って。まあ国民の三大義務の一つでしたからね、当時は。で、まあその関係で養成所に入った。

Q:養成所に入ろうと思ったのは、もっと正確にいうとどういう思いがあったからですか?

養成所に入るのですか?結局もう船が全部徴用されていなくなったんですよ。で、あとの船ていうのも、カツオ船の場合は今度はあの、重油の配給制ですから。そうするとやっぱりその、乗っておってもしょっちゅう漁に出て行けないと。それだったら何のためにおるか分からんから、やっぱりまともに養成所を出て汽船に乗れば、ちゃんと給料もらえるからと、そういう考え方ですよ。

Q:養成所に入るということは、カツオ漁船にのることと全然違ったのですか?
      
そうですね、カツオ漁船の場合は、出港してから入港するまでは風呂も全然ないわけですから、もう朝から海水被って、塩っぽい体になってるわけですよ。そうして今度また食事にしても、やっぱりそのときのあるオカズで食べなきゃいかんわけだし、そうすると汽船の方に乗れば、毎日風呂は使えるし、もう全然人間的にも生活は違うと思ったんです。

Q:汽船に乗ると、結果的に軍属になる可能性があったということなんですか?
      
そこまでの知識は無かったですね。だから、入って初めて分かったんです。養成所に入ってから。そのちょいちょい、養成所の生活に耐えられなくて、脱走する人がいるわけですよ。そうするともう、その朝か夕方には必ず警察から連れて帰ってきよったわけですよ。これでよう分かるもんだなと思ったし、何でそこまでせないかんのかと先生に聞いたら、みんな徴用されてるんだから絶対、国の命令だから逃げられんのやという話だったです。だから後で考えたら運輸省の徴用令で入って、で乗る船によって海軍軍属か、陸軍軍属かに分かれてたわけですよ。そうすると、やっぱり船そのものは沈んだ後は、もう軍とは関係ないわけですよ。しかしまあ内地に帰す分は、だから職員のほうは、軍の方で手配が早いわけですよ。だから部員の方は遅いわけですよ。まあそういう差ははっきりしてましたよねえ。

Q:養成所に入って、自分が徴用されることになるんだと分かったときはどういう思いでしたか?
       
もうそんときは、自然にそれは受け入れるようになってるわけですよ。まあ、全体が、社会情勢がそういうふうになってるわけですから。別に異議を挟むなんていうことはあまり考えられなかったです。

養成所を卒業しますと、乗船待機として、見習い待機として、養成所と別な予備員寮で待ってるんですよ。新しく生徒はまた入ってきて、養成所はいっぱいになりますから。そのときに乗船通知が、この船に甲板部1名、機関部2名とかいう連絡は会社から来るわけです。そうしますとそのとき、担当の教員の方で、「こりゃお前が行け」と指名が来るわけですよ。と、私はなかなか来ずにですね、えらい遅いんだなと思ってました。そしたら、後で聞いた話では、やっぱりその養成所内の成績によって、またその船の大きさとか、そういうような考え方で、この船には無理だ、これには適当だろう、という配置を考えるんですね、教員が。そういうような中で、なかなか私は来なくておったら、その天城山丸に、4月の末に来たんですよ。5月の始めだったか、4月の末に。遅かったんですけどね。その天城山丸とういうのは、大体ニューヨーク航路の優秀船でしたから、結局、員数は船のトン数の割には乗組員は少ない方だったんですよ。その代わり設備は良かったんですね、その荷役をするのに。他の船はほとんど石炭で動いとったわけですね。でもこれはディーゼルエンジンでしたから。ディーゼルエンジンで、ウインチも全部電気ウインチなんですよ。ただし一番怖かったのはウインチの電気を、配電盤のスイッチをポンとこう押すのにですね、体が小さいもんだから背伸びしておーって押さなきゃならんのですよ。触ったら火傷して死んじゃうと思って、それは怖かったと、最初は思いましたよ。それで、なかなか船の設備は良かったですよね。やっぱり違うなあと思いました。

Q;乗った船はすでに海軍に徴用されてたんですか?

徴用されとったんですよ。それで、徴用されとったから、乗船地は最初、横須賀だという話で、横須賀に行ったんですよ。で、横須賀の三井船舶の線に行ったら、こっちにはいないと言うんですよ。ちょっと待てということで、あっちこっち連絡して、そしたら横浜市いないということで、東京の芝浦だということで、東京に行ったんですよ。それで芝浦岸壁で、よう魚雷とか何かそういう武器の積み方です。そすると魚雷とか素っ裸でなくて、こんな大きな箱に入れてあるわけですから、どんどん積むときに手がラクデ当たったりすると、外れたりしましてねえ、フレームが。こうやってこう、これ何かな、これ魚雷じゃないかとか言われて、「えーっ」とか言ってびっくりしよったです。だから、もうあっちこっちで武器弾薬を積んで、それで最後に名古屋に行って、名古屋で飛行機を何台か積みましたよ。それでラバウルに向かったんです。最初行き先も全然教えないわけですよ、そのころは。ただ南方に行くとだけで。そうするとまあ先輩連中に「南方、南方ってどこ行くんですか」、「どうせラバウルだよ」とかやってると、先輩は前もって行ってるわけですから。それで本当ラバウルは近くなって、まあ赤道が近くなってきたら、南十字星が見えましてね。ほう、あれが南十字星かと感激したのを覚えてます、まだ。おー、南十字星の下まで来たのかと思ったことを覚えてます。それからもうラバウルに入って夜も昼も休みなく陸揚げして、その後パリクパパンに向かうわけですよ。

船倉掃除をして、今やっとやった後、その間甲板(部は)みんな船倉の掃除をして、それでドラム缶を積むときの、また板なんかずっと横に用意してですね。そうすると、私は一番下っ端のボーイ長でしたから、朝も4時半には起きて、甲板員の部屋、大工さんの部屋、それから操舵手の部屋が2つ、職長、甲板長の部屋と。それで食堂、それから洗面所は、部員全体がですから。それと7か所掃除をせんならんですよ。それで、掃除をした後でまた食堂に、皆食べてくれるように、こう茶わん並べて。それからその料理のつまみなんか入れる箱を持って、それでギャレー(調理室)に行って。ギャレーでは今度は、自分で漬物なんかをチャンチャン切る稽古(けいこ)をして切って。後からもう慣れたもんで、上手だったですけどね。それを切ってちゃんと入れて、それでギャレーまで運んでから、自分の艫(とも)の方、一番後ろの方、あそこが部員食堂のある所ですから、そこへ運ぶわけです。それで、そうしますと当直に入る操舵手って舵をとる人は、2人ずつ1組ですから、そうすると朝8時からの当直ですから7時半に起こしてご飯食べさせるわけですよ。そしたらもう8時10分前には行って、4時から8時の当直の人は代わると。一般の甲板員はもう7時半から8時半までの間にみんな食事は終わるわけですよ。そうすると今度は8時まで当直をした人が下がってきてから、また8時半になって、その後で私は一番最後に食べないかんわけですよ。そうすると今度は9時には、まだ一般の作業員、甲板員は作業に行きますから、そうすると私もまた片付け終わったらすぐに行って、仕事を見習わないかんわけですから、それやったわけです。そうしますと、10時半になったらまあ一服になるわけですよね。そこでタバコは吸えないから。それだからもうその時、10時半になる15分くらい前に作業を止めて帰ってきて、それで私は皆にコーヒーを沸かすか、ミルクを入れるか、というそういうような準備をしてたんです。それから、10時半から30分間休憩で、お茶飲んでまた11時に皆作業に行きますから、私もそれに合わせて、その後はもう10分か15分くらいですよ作業するのは。12時から当直に入る人は11時半に食事に来ますから。だからもう11時10分ころにはもうギャレーに行って、昼飯の用意をしてある分だけ早めに運んで、それで12時の人の分を最初に用意して。それをやって、昼食終わるのが1時過ぎるわけですよ。

そしたら今度は夜も7時半くらいになると、もう前に5時で終わって、お茶飲んで。そうすると甲板で8人部屋で同じ部屋におる人なんかも退屈して、「お茶、コーヒーいれろ」とかいう人おったら、またコーヒー沸かしに行かないかんわけですよ。それで運んでると、今度は4時8時の当直が済んだ人なんか、また風呂上がった人が顔だして、一緒にお茶飲んでると10時11時ころになりよったですよ。それを片付けよったら11時半。あるいはまた、その作業服であっても昔からの習慣でそのアイロンかけさせる人おったんですよ。アイロンかけたりしよったら、やっと寝るのは12時ごろだったです。それでもう朝4時半に、目覚まし時計を買っとったですから、それで4時半に起きよったですけどねえ。そういう生活でしたから、ボーイ長という、ボーイチョウの「チョウ」は懲役の「懲」だと言われよったんですよ、そのころは。

バリクパパンの空襲は丁度岸壁に着けて、ドラム缶を船に積みよったときに、夕方になってから空襲きたんですよ。ちょっと暗くなる前に。そしたらもう今度はその人夫の、インドネシア人の人夫はいっぱいおったんだけど・・こっちは船を、岸壁をつけてるから離そうと思ってるけど、ロープはこうみんな繋がれとったでしょう、船が。このロープを外さなきゃならないのに、よう逃げてしまっていないわけですよ。そうすると船は高いから降りてするわけにはいかんし、だから今度は船から、そのロープは船の方から全部離して、海に捨てて、それで逃げたんですよ。そうせんとタンクはもう爆撃受けたもんだから、陸上のタンクはボンボン破裂したんですよ。石油基地ですから。それで石油タンクの火がもうもうと赤い火が出る、その先はもう真っ黒い煙だったですがねえ。その煙の今度はまた下に船が逃げ込むわけですよ。直接飛行機に見えないようにと思って。その下に逃げ込むんだから船同士でトラブルを出しよったんですよ。それでそういう中で、ちょうど本船のブリッジがある後ろの海図の部屋があった、そこからこう爆弾が入ってきて・・ここはブリッジのデッキですけど、この下に二等航海士の部屋があって、その部屋の天井とこのデッキは同じですから、ここを突き破って、それでそのサイドに出て海で爆破したんですねえ。それでこの中で爆発してればほとんど死んどったんでしょうけど、それが外へ出たもんだから、この近くの船長とか三等航海士とか海軍の信号兵長はここでケガしたわけですよ。そうすると上におって亡くなった機銃隊長は、その上の方で機銃隊長やったから上におったわけですから、4、5人おったと思うんですけど、その人だけにまあまともにあれが当たったんでしょうねえ。ここが、片足が無くなってましたから。それでその人は戦死したわけです。

Q:平山さんはそのとき何をされてたんですか?

私はそのときは、もう皆と一緒に、夜ですから船がその離れるロープの、その表のサンバイで一緒に立っとったんですけど、そのうちにもう船はどうする、もうそれから皆外へばっかおったって危ないから、部屋に皆引っ込んだんです。部屋というのがその自分の部屋でなくて、その通路の方にですね。それで結局、空襲は終わって、ケガ人が出たから私もそのまま、その一等航海士の命令で、(ケガした)船長に聞いてその足を拭いたり、うちわで顔を扇いでやっとったのが、それだから言ったように、「ここを緩めてくれんと痛い」とか、そういうことをしとったです。

Q:初めて見た戦争の現実、船長がそういう状況になってしまってるのを見て平山さんはどう思われましたか?  
    
そのときはもう戦争に来てるから、それはしょうがないと思ったですよねえ。ただしその、こんなに痛い痛いって言うのを聞くと、どうしようもないから、そのやっぱりこれは、死ぬときは即死だなと思ってましたよ。まあケガしちゃいかんと。しかしこれだけは分からんしなあとか言って、皆とまた話すときもありましたけどねえ。

Q:トラック島に行かれたのは何故だったのですか?

いや、それは船底の修繕ですよ。だから船底の修繕のときに・・・。

Q:何故船底の修繕をしなければならなかったのですか?

魚雷をくらったから。その魚雷が、昼飯下げとったら非常ベルを鳴って、何かーと思って、食堂から出て左側を見たら、魚雷雷跡がくーっと3本並んでこう来よったんですよ。そうしますと、かねてからこう雷跡の見える200メートル先に本体があるんだというのは聞いてましたから、これはもう近いんじゃないかと。それで今度はもう怖くなったから、反対側に回ったんですね。右弦の方に、右側に。それでもう一生懸命ハンドルにしっかりつかまっとったんです。そしたら船底がまあ、ここにドーンと当たったら、ガラガラって揺れて、私は上の方につかまってたら、ここにボーっとそれが上がってきたんですよ。その魚雷が。

Q:目の前に?

目の前に。ここからゴウゴウゴウと上がって、ゴーっと上がってきたもんだからびっくりしたんです。ワ―って、こんな並んでる何人もの人が大声あげたですよ。それから後、この船は左回ってましたから、そしたらこう2発はかわして、ゴーっと走ってるのが見えたんですけどねえ。その後で向こうは、まあサンゴ礁に当たったんでしょうねえ、バーって大きな水柱が上がってましたよ、こう。ほーあれ爆発せんで良かったなって皆言ったんですよ。しかし、そのうちにやっぱりブリッジから調べに来て7番船倉に浸水してると。それだからどうかせにゃいかんとなって。そしたらその当時の船というものは、今みたいに溶接じゃないわけですよ。船底は鋲(びょう)で全部締めているわけですよねえ。鋲打ちで。だからそこで、だからまあガチャっと落ちずに、あっちこっちでヒビが入った状態で、その浸水したんだと思いますけどねえ。まあ急激な浸水じゃなかったですけど。しかしまあ船のきっ水線までは絶対来ますわな。だから結局、バランスを取って、それでまあトラックに入ったんでしょうけどねえ。私は下っ端だからそういうことは知りませんけど。

Q:天城山丸は防備とか護衛船とかいうものはなかったのですか?

この船はねえ、単独航海が多かったんですよ。ただその、砲はねえ、日露戦争当時の三笠の副砲だった重砲は1門ありましたよ。その船橋、船の艫(とも)の後ろの方の上に。それが1門。後はブリッジの、あの船橋の上に機関銃が1門。後はもうない。全然。兵隊は50何名乗っとったけど。それと爆雷があったです。2つ、後ろに積んで。

だから下の台から、何だあれが三笠に乗ってたのかと思って。しかし今は役に立つのかなと思っていましたけどねえ。1回あれを撃つところを見てみたいなあとやっぱり思ったけど、1回もなかったですねえ。
      
Q:1回もなかったのですか?

1回も撃たなかったです。それ、1回見てみたいと思ったですけど。

Q:ラバウル方面での任務が多かったんですか?

はい。あそこの航空艦隊付きだったんですよ。だから私は11航空艦隊て言われたと、その身分証明書を私は持っとったわけですから。だから横浜でも東京に名古屋でも上陸するときは、ちゃんとその証明書を在してないと上陸できないわけですよ。

Q:ラバウルの航空隊のための荷物を運んでらっしゃったと。

そうです。ラバウルのです。だからほとんどそのドラム缶で航空用ガソリンを運んどったんですよ。

そのころはもう毎晩定期便というくらい空襲ばっかりだったんです。

Q:その中で天城山丸というのは・・・。

やっぱり停泊して。ときたまですね、今ちょっと何ていう名前だったかな、ショートランド島という小さい島に行ったことを覚えてますよ。そのときは何故かというと、今のブーゲンビル島のちょっと南なんですよ。小さい島で。そしたらそこまであの夜の10時、9時かそのころ暗くなってから出航するんですよ。ちょっとだけ、その武器弾薬、それから食料を積んで。それでそこまで行って3時間か4時間かですかねえ、行ったらすぐにも連絡して、荷役して。向こうの小さい船が来てますから、それにドンドン下ろして、2時間くらいで。それでまたすぐラバウルに帰ってきよったんですよ。そういうのが2回か3回ありましたねえ。

そういうね、もう危険だということは日常知っているわけですからねえ、だから特別な感情というものはなかったですよ。ただあのニュースで結局山本五十六連合艦隊司令長官が亡くなったとか、あるいはマキン、タラワの島で玉砕したとか、それからクエゼリンだったかな、そこ辺りも駄目らしいと。そういうようなのはねえやっぱりニュースで見ましたよ、あの船で。これは大変だなあ、まあそれと比べればまだ船に乗っている方がええかというような考えだったですよ。別にそのもう危険だからといって逃げられやせんわけですから、そこから。だからまあ今日、朝になったら、ああ昨夜は生きとったんだと。夕方、今日も一日生き永らえたけど、今夜はどうかなと。それで結局もう危険区域だ水域だというときにはもう靴履いたまま寝とったですよ。もう靴履いたまま寝とかんと間に合わんですから、ドーンときたら。そうすると、何故かというと入口1つでしょう。8人部屋ですからねえ、誰が引っ張っかどうか分からんですから、もう靴を履いて寝とったです。他の人のベッドはこれだけの長さのベッドがありゃ、そこからポッと飛び降りられんですけど、私は下っ端だからベッドでもこれまでは壁なんですよ。そうするとここ前、ここしか開いてないんですよ、逃げられるところ。だからもう靴を履いたまま、すぐそこから出られるように思って靴履いとったです。

パイロットと整備員と飛行機とあとはそのまあガソリンはいくらか積んどったでしょうけどね。それで私は2月16日だと絶対覚えてるんだけど、これまた別のにまた2月14日て書いてある本もあるわけですよ。16日に何故固執するかといいますと、16日に入港したら、20日頃は敵の空襲がくるから19日までには船舶は出港するんだと。そしたら17日18日があるから、久しぶりに半舷上陸をさせようとという話があったんですよ。だからその半舷上陸いいなあと、何か月も陸に上がってないからねえと、皆喜んどったんですよ。そしたら16日に入って、そういう話があったときに、そっちはどこ行った、どうもサイパン行きらしいという話や、とそんとき。それまではサイパン行きという話は全然なくって、ただ軍の命令でその東へ走っとったわけですから。わからんです。

Q:トラック島の印象はどうでしたか?

いや、トラック島の印象ちゅうんは、第一番に、まあ上陸してみたい、ああいいなと思ったのと、次はその空襲に来たところで、飛行機がいっぱい飛行場にあんなら安堵じゃないかと。「おお、300機くらいある」っちゅうと、「いや200機ある」と言う人もおるし、そのすごい飛行機がざっと並んどったんですよ。だからその「あれだけ飛行機があればいくら空襲に来たって大丈夫だわ」と皆言いよったんですよ。それはそんくらい頼もしく思ってましたから。

17日の朝の4時半には起きて、掃除は済ませて、それでギャレーに向かってるときに、照明弾がバッて落ちたんですよ。それでコーって明るくなった後にびっくりしとったら日本の水上飛行機がこう飛んで来よったから、「おっ味方の飛行機だ」と思っとったら、その後から5、6機後ろから下がって突っ込んできたのがもう飛行場めがけて急降下爆撃して爆弾落としたんですよ。それから空襲警報が鳴ったんですよ。なんじゃこれは逆だなあと思ったんですけどねえ。それがもう始まりで、今度は飛行場から飛び立った飛行機もこう何機か見えたんですけど、もうこっちはそれ眺めとるわけにもいかんし、ギャレーにまた仕事やからと思って行って。そしたらそのうちもう出たときはもう飛行場の方はもう火の、ボンボン燃えとったですよ。燃えてボーンボーンって破裂したり、したように爆発して。そしたら飛行機ももうおって、それでもう朝めし皆食べた後、今度はやっぱり皆もう眠るわけにいかんから外から、デッキから眺めとったですけどねえ。

Q:見てたんですか?

ああ。そしたら私はっきり鮮明には確認、分からんから、ブリッジにおる人は眼鏡で見てるから分かるんでしょうけど、愛国丸か護国丸か、この本見たら愛国だと思うんですよねえ、

その船が爆発したときなんかも敵機が降りて、空中魚雷じゃないかあれはちゅうのはボーンっとやったのは見えたんですけど。そしたらそれと一緒にもうボーンって爆発したらもう白煙と火の煙が出て、そのまま白くなったのが、上のこの周りにはもう人間なのかデリック(クレーンの一種)なのか、もうボンボコ飛び散っとったですよ。すごいなあ、あれは人間かって最初は思ったんですけどねえ。そしたらそれがもうグッと沈んで消えたあとはもう真っ青な海。水面は何もなかったですよ。ハァー何と、いくら乗っとったのかなあて言ったら、仮装巡洋艦という話だったんですけどねえ。だからもう何百人か乗とったはずだと思うんですよ。その船のあれはすごかったです。

そのうち近くの第3図南丸が、何かでっかい音がして、今度はそしたらボーっていったんですよ。もう第3図南丸はブリッジが、手前からブリッジが無くなってましたから、消えたときに。ハーってもう、ほんともう飛行場が出来たような船がすらと何も無くて。これはすごいもんだと思いましたけどねえ。それからまた味方の飛行機と敵機が空中で体当たりして、味方の飛行機はもう降りる飛行場が無いわけですから、もうドンドン燃えていますから。だから敵機にも体当たりしてもう落ちてくるのがいるわけですよ。そんなのを見たけどねえ。そしたらもう敵機の人はパラシュートで海に落ちているのが見えて、何か石があれば投げるんだけどって誰かそばの人が言いよったですけど、投げるようなものないわけですから近くには。もうすごかったです。

Q:体当たりしてるのをご覧になってどうでしたか?

体当たりしてるのを、これやるなあって。でもそれしか方法はないもんなって、皆で言いよったんですけどねえ。もう降りる所ないわけですから自分だけやるよりやっぱり相手の飛行機と一騎討ちでやった方がいいと判断したんでしょうけどねえ。体当たりでやっぱりそういう気しやったんやろ。おお、ようやったなとは思ったですけど。

それからやっぱりあの転錨(てんびょう)を命令されて、それで冬島近くに移動したわけですよ。そんころまた昼飯の用意をせにゃいかんなったから、昼飯の用意をして置いておいたけど、誰も食べにゃこんわけで。その転錨仕事が忙しくて、乗組員の中で。で、私と機関部のボーイ長は、機関部のボーイ長は機関部の先輩のを並べてるし、私は甲板部の並べてたんですけど、それで、これはめし食うったって、食器で食べる暇はないぞと。それだから、おにぎり飯作ろうかということで、こんなパイレス(トレイの一種)をやとって握って並べてよったんですけどねえ。そしたら今度はこっちの方が、わっぜえ(ひどく)爆弾がこうやって、船がこうこう揺れたわけです。にゃ、こりゃいかん。それで今握っとったのを口に含んだまま今度は自分の部屋が下だったから、これはもう今日は死ぬ日だから、シャツを着替えて死なにゃいかんと思って下に行って部屋に帰って、シャツを着替えようと思って下に通路を降りたらグワーッと揺れてこんな倒れてしまったんです。そしたら部屋のドアもなんも倒れてきて、やられたと思ったら、かすり傷を負って血が出とったわけですけどねえ。もうそんな所でまたゴーゴーしてるから、なんどこでなくて、起き上がって、こうしたら通路のドアは倒れてるわけですよ。そうしてまあ足の踏み場もないくらい倒れとったから、そしたらこうやって1つだけドアが閉まってるわけですよ。何かなあと思ったら、その風呂場のドアだったですねえ。これはおかしいと思って、こんな風呂場のドアしとったら開かんから、「誰かおるのかー」って言って叩いたら、おーって誰かが開けてくれたわけですよ。そったら、爆雷長がそこにおったが。それで爆雷長が、「ここは安全だからここにおれ」ちゅうから、「ああそうですか」って。もう1人より2人がいいから、おったんですけどね。そしたら、しばらくしてからやっぱこうこう揺れてましたから、それでもう「爆雷長、爆雷はレックした(捨てた)ですか」って聞いたら、「いやまだだよ、命令がまだだ」ちゅうて。「これ爆雷が爆発したら駄目やがな」って言うたら、「もうその船が沈むころになったら落とすよ」って言いよったんですけど、いや、この爆雷がこっちで破裂したらもう助からんと思ったから、それでまた通路から飛び出して真ん中のその、こういうブリッジの所に走ったんですよ。そしたらもう上から爆弾が見えてましたけど、もうライン床で、そこに走り込んで。そしたら皆がもう、左行ったり右行ったりゴロゴロしとったですよ。乗組員の、皆その兵隊じゃないから、なんま、その武器を持たんわけですからねえ。逃げ惑ったです、それは。で、そんして人の顔見てほっとしたです。そしたらそれでしばらくしたら、退去ったらもう前を向いたらそん、部屋のあるこの横の通路が艫(とも・船尾)から表(船首ちかく)まである上甲板の通路は、もう煙と火の海になってこう流れてきよったですもん、もうビュービュー。こらいかんなと思ってたら退艦、退艦って兵隊も降りてくるし、ブリッジにおった船員も降りて来ましたから。それで私は同級生で、小学校から一緒だった平野ケサツケちゅうの機関部員でしたから、それが上がって来るまで、機関部の入り口で待ってたんですよ。そしたらやっぱり下っ端は、一番最後に上がってきましたわ。「おー平野君おれが後から来いち、駄目か」って言ったら、駄目だようん。

それでもう7番まで行かんうちに、「平野ー」って言ったら、「おー」って言うから、「飛び込むぞー」って言うて、そこから飛び込んだんですよ。そしたら飛び込んで、そしたらば何メートルくらい水中に入るのか、やっぱり自分の体重くらい入るのかもなあ、上まで上がってくるのがもうフーフーいうたです。
それで上がってきて、はあやれやれって思った所に、今度はもう後ろから後から飛び込むやつが肩に当たって、またズブズブいってな。それでなんとか上がっとったら、それでこう爆雷が気にかかってたもんですからねえ。爆雷が破裂したら、この近くにおっちゃ危ないということで、それでちょっと離れて泳いどったですよ。そしたら先輩方は「おい平山」言うから、「はい」って言ったら、「同県人だから一緒におろう」って言うから「はい」って言ってそこおったんですよ。それで一緒に。しかし爆雷は、ほかして片づけないといかんですよって言ったら、そうかって話しよったんですけどね。そのうちにもう今度は私にその人がしがみついて、もうズブズブ中に沈んだわけですよ。もう溺れかけて。私もびっくりして今度は足でけっ飛ばして。どかんからバンドを緩めて、足で蹴っ飛ばして横泳ぎして、それでやっと逃れたんですけどねえ。それでそのときズボンが無くなってしまって、もう靴も無くなったですねえ。片っぽだけは飛び込んだときに無くなっていましたけどねえ。それで結局その人は泳げながったら、その人も後で助かっとってなあ。何で助かったんですかって聞いたら、暑いもんだから食堂じゃなくて外で食べる大きなテーブルがあったんですよ、大工さんが作ったのが。それが浮いとったて。だからその上に乗っとったらしいですよ。

そういうようなことで、とにかく泳いどってやっとったら、これはもう、人と一緒にそばで泳いどったらいかんと、離れないとと言って離れよったら、先輩が「平山、平山」って言いよるから、何かって手を上げたら、「離れるな」って。「皆と一緒におらんと助からんぞ」って言うわけですよ。しかし皆と一緒じゃ、しがみつかれたらどうにもならんがなって思っとるし。だからその言うた人は、マレー半島の上陸作戦で行った人なんですよ。綾戸山丸か淡路山丸で行って。でそのときの経験があるからそう言ったんですけどねえ。

それから、あと皆助けてくれって言うなあって、そんな聞こえとったら、うちの積んどった大発艇2隻で、海軍航空隊員を死なしちゃいかんということで、陸に揚げたんですよね。夏島に行ったかどこ行ったか、揚げて。で、帰ってきたら船ももう沈んで泳いでるから、その近くの人を助け出したんですよ。だから今度はもう遠くおったら助けてくれって言うたって、その船の大発は他もみな人を助けないかんから、これはやっぱりもうそばにいかなと思って、またそばで泳いだんですけど、あと2メートルくらいになったらもう上へ上がったですよ。「平山ちょっともういらんか」って。「いやもう上がらん」って。手が上がらんち。やっとこうしてるだけですよ。もうこう上がらんですよ、上に。「もうよか、もう上がらん」ち言うたら、そしたら今度はロープの細いのこう投げたんですよ。それを捕まえて、それ捕まえとったら、もう捕まえとったおかげで、まあ上がったんですけどねえ。捕まえてる間にこんどはそん大発でボートに吸われてこう斜めになって。どうしたんだかって思ったら、後で聞いたらその機銃掃射を受けとって、その大発艇を動かしとった艇長はここ首にケガをして、傷を。

それで今度はそんときにも今助かったのまで全部死んだらいかんから、一旦島に行くと。そうすると残った人は「俺たちを見殺しにするのか、助けてくれ」、と言うのですよ。しかし「もう全部積んでしまうから駄目だ、また来るから」とか言って、その大発の艇長は海軍の兵隊ですから、船員じゃなくて海軍が動かしているわけですから大発は。それでそのまま冬島の手前近くのサンゴ礁があるもんですから、遠くてももう座礁するわけですよ。それでそこで降りろと。それで降ろしたらまた大発は助けに行ったんですよ、残りの人を。

まあどうせ空襲のうわさはあるから、20日ころだという見当をしとったんじゃないですかねえ。で私なんかはもう17、18の半舷上陸を楽しみにしとったわけですから、内心。それがもう17日から空襲で、もうあれだけ湾内いっぱいに船がおったのに、もうそったら一日の空襲で全部もう沈んだわけですよ。もう次の日の夕方、その夏島に行くボートの中でほんともうはるか水平線までバルブは見えてましたから、あれだけおった船は全部沈んでるんだなと思ったらですねえ、ほんとまあ助かってよかったとは思うものの、またしかし、どこでこんな機になるのかなと思ったりしましたけどねえ。もう皆そのころになったら腹は減ったと言うか、タバコを吸いたいと言う以外はもうしゃべらんかったです。

Q:空襲が始まったときに天城山丸はトラック島から出ようというふうにはならなかったのですか。

いや、それはもう軍の命令通りですからねえ。絶対出れんです。だから冬島に、近くに、その「転錨しろ」という命令が来て、それで10時か11時ころに転錨(てんびょう)をしたわけですよ。だから沈んだときが11時55分とかて最後に書いてある本がありますけどねえ、やったかもしれんですよ。私昼飯の準備をして握り飯作ったんですからね。だから12時前だったと思うんですよ。

Q:実際に船が沈んでいく姿はご覧になったのですか?

ああ、もう沈んでいくときはですねえ、じわっドンドン燃えて、結局そのケツがこう持ちあがって、それでそのまま火の海になって火が飛んでいくわけですよ。それでこれがこうして。そしたら最後に水面に没したときには涙が出ましたわ。しばらくはもう止まらんかったです。これでいよいよ終わりだったと思って。もうそん時は悲しかったですよ。もう最後にまだ燃えとるなあ、燃えてるなあって思ったらそのままズーっと無くなりましたからねえ。もうそん時は涙が出ましたよ。やっぱりもう自分の住みかが無くなったわけですからね。もう結局燃えとるしかないわけですけど、そん時まではまあ自分は助からないかんとか、周りを気にしてるわけですから。実際もうそれが無くなったときには涙が出ましたよ。もう悲しかったですよね、そのときは。

Q:一番最初に救助されたのは航空隊の人だったのですか?

航空隊の人はもうその海に泳ぐ前に陸に連れていったわけです。船が沈む前に。その海軍の大発艇で。結局そういうのは我々分からんけど、それで大発艇が全部降ろして運んだわけですね。冬島着く、転錨してから。で冬島じゃなくて、夏島の大きい所に連れていったんじゃないですかね。それで海軍の航空隊員は全部助かったわけです。だからうちの船に乗っとった海軍の兵隊は全部助かったのか、それは全然分からんです。

Q:他の船員の方々はどうだったんですか?

船員はそのときはですね、全部助かったって聞いたんですよ。それは良かったなあって言いよったですよ。それから後別なの見たら3人戦死って書いてありますけど、それは名前は書いてないから分からんですよ。それと、そんときは助かっても、今度は次の船で亡くなった人が多いんですよ。

内地に帰ってきたときには、まず呉に上がったんですよ。呉に上がっても、だから夜のうちに陸に上げるわけですよね。皆の目に見えないように。それでもまだ夜明けに上がりましたから、もう呉の市民で早起きの人はドアを開けたら変な兵隊さんがいっぱい歩いているってなもんで、もう不思議そうに眺めてる人がいましたよ。結局海軍の服を着てるでしょう、黒の。そうすると今度は帽子は被ってないし、そうすると自分で服を持ってるやつ、こうやってぶら下げてるでしょう。それだからおかしいと思ったんでしょうねえ。そのまま結局まだ夜は明けないうちに呉の水兵舎って海軍の宿舎に入ったんですよ。で、宿舎に入ってからも、絶対に家族にその遭難した、空襲でやられたと、そういうことは絶対言っちゃいかんと。それを言うたら、分かったら非国民として処罰されるという話だったのですよ。だから絶対に我が家へ帰ってきても、母にも兄弟にも一言も言わなかったです。

Q:言ってはならないというようなことを言われたときどう思いましたか?

もうしょうがないと思ったですよ。国の戦争だから。こりゃまあ国民の一人としてやっぱり守らないかんわけだからと思って。それで今日はよその船の船員もいるから、呉駅で皆一緒に帰ったら、切符をドンドン買うから分かるから、今日は何丸、明日何丸っていう順番で帰るわけですよ。で、私が何か帰ったのは4月の2日だったんだと思いますねえ。3日の夜自分の家に着きましたから。そして2日の昼ごろまあ汽車に乗って、それからやっぱり鈍行ですからね。その頃は一番優秀な汽車もいまで、鈍行と一緒ですから、それで3日の暗くなってから川辺郡の枕崎駅に着いて、それからバスは無いからもう歩いて、2里の道を歩いて帰ったんですよ。その時は友達がおったから。それで自分のうちに帰って、今帰ってきてドアを叩く、「玄関を開けろ」って言うんだけど、お母さんがもう、「ほんとかあ、うそだろ」とか言って開けんわけですよ。もう1年あまり全然音信不通でしょう、今ごろ帰ってくるっていう「だましちゃいかんよ」とか言って。そうしてもうすったもんだして、まともやがって言うたって言ってやっと開けてもらったですよ。夜の11時ごろだったですかねえ、着いたときは。

徴兵検査法の法律が19歳に変わったんですよ。1年早く受けるんやった。それでどこで受けるって、会社の方は南方で受けるという話やったんですよ。南方で受けると会社は言ってましたよって言ったら、南方では逃亡する気かと言われてですよ。「逃亡、なんで逃亡するのにこの船に乗っていますよ」って言うた。いや、これは逃亡するかもしれんと、門司の憲兵司令部に引っ張られていきましてね。それで今度は出さんわけですよ。そうしたら船長は私がいないと船が出港出来ないからって来るんだけれど、絶対出さなかった。それで今度は替わりの信号員がいなくて、なんか海軍からもらって出たっていう話は聞きましたけれど。

乗る船がちょっとなかったんですよ。それで神戸の須磨の船員訓練所で、一応信号の教員をやれと言われて、信号の教育をしよったんですよ。そうしたら9月のはじめのころに帝楓丸という船で、信号員が欠員になったと。それで会社から電話が来まして、すぐに乗ってくれと言われて。それでタクシーでその船まで行って、岸壁に乗ったんですけれど。帝楓丸というのに。7000何百トンです。乗ったらすぐ船が出港しましてね。今の韓国のプサン(釜山)に行ったんですよ。それで釜山に行ってみたら、岸壁にもう関東軍でしょうね、陸軍の兵隊が1万も2万人もずらっとおるんですよ。そうしたら次々に乗せて出ていくんですけど、うちの船にはなかなか乗せんなぁと思っていたら、兵隊の他に軍馬を20頭か30頭積んだんですよ。その他に軍馬を乗せる枠を作らなきゃいかんから、大きな柱を持ってきて、囲いを船倉の中に作って。それで軍馬を乗せて兵隊を2000人ぐらい乗せて。それでムツレイ湾に来て、それでムツレイで20隻ぐらいの船団を作って南方に向かったんですけれど。それはフィリピンになるんだろうと思っていましたけれどね。そうしたら沖縄近海になったら、暑いもんだから馬が死ぬわけですよ。馬が死ぬたびにあげて、海にレックして(捨てて)水葬にするんですけれど。

一頭一頭水葬すると、舷側によりかかって、その兵隊は泣いておったんですがね。もう上から眺めていて、本当にあれだけ出るなぁと思った。感心しましたよ。とうとううちの船だけが船団から離脱して、高雄に入って。三日間馬は慣らさきゃいかん。馬の訓練があったんですよ。その時にも兵隊さんにも、馬の飼養に6年7年という兵隊ばっかりだったんですよ。だから兵隊には上陸許可が出たんですよ。喜んでおったんですけれど、高雄の港はそのころ平和な時期でしたから、食堂もいっぱいあるし、飲み食いした後は今度はいざ馬が慣れて、高雄を出港したら、今度は兵隊さんが下痢したりどうしたりで、兵隊さんが倒れてしまったんですよ。最初のうちは日の丸つつんで水葬したんですが、こんな棺おけを作る板が無くなってですね。もうそのまま抱えて放り込んじゃったんです。だいぶ亡くなったですね。

Q:兵隊がですか。

兵隊がです。

Q:下痢で。

下痢。やっぱりもう今までのああいうこと、規則正しい生活をしておって、急に飲んだり食ったりしたもんだから、やっぱりまいったんでしょうねぇ。それで20人ぐらいは死んだんだと思いますよ。すごかったです。それから高雄でまた編成し直して。10隻ぐらい出たんですけれどね、バシー海峡で4隻沈んだんですよ。魚雷攻撃で。

出港して11隻の船で出たんですけれど、まぁ次の日の夕方1隻魚雷を受けて沈んだですよ。その夜中も大時化(しけ)だったんですよ。今考えますとね、台風だと思うんですけれどね。雨風波は高いし、もう一寸先は見えないわけです。夜の8時12時の当直だったから、12時ごろになってから、閃光がピカーっと光ったときに、うちの会社の白根山丸という船はこう傾いて沈みかかったんですもん。それで私がびっくりして、あー白根だって言うたら、みんなびっくりして何かと。いやー白根が傾いたんで、沈むわ。その前からドーンドーンっていう音は聞こえるんですけれど、何の音か分からないから、みな魚雷を受けている音だったんですね。それでどうすればいいかって言って、そうして船長は「平山、お前水中測音機を使ってみろ」っていうから、水中測音機を水中にやったら、ワーワーそれは波のあれで、エンジンの音で分からんわけですよ。「だめですよ、何も聞こえない」って言ったら、「そうか」って。夜が明けたらですね、他の船は一隻もいないわけですよ。うちの船が一隻だけで。それでどこへ行けばいって、船長は甲板員にマストの上に見張りを立ててみたけれど、見えないんです。それから昼、昼過ぎになって、夕方近かったでしょうかね。駆逐艦から発光信号が来たんですよ。「他船はどうしたか」って。船長、他船がどうしたかって言ってますよって言うたら、他船はいないからいないって言えよって。「他船は見えず」と。

それで(台湾の)基隆にも1か月ぐらいおったですかね。ちょうど雨の時期ですか、1月2月は。そうして3月の末ごろになってから、今夜夜中に出るからって言って、岸壁に並んでいたんです。そうしたら憲兵が大声でマイクで「帝楓丸の平山どこかー」って来るから、なんか名前を呼ぶなって思ったら、おう、お前かって言うから、「はーい」って手をあげたら、「キサマか、俺の後に付いてこい」って言うから、付いていったんです。こんな岸壁から降りて、よその船に乗って行って、「船長信号員を連れて来たぞ」って言って、憲兵は帰ったんですね。そうしたら、船長が明日の夜明けに出港だろうから、8時から当直に入ってくれと。部屋はあっちの部屋だって、ボーイを呼んで。そうしたら職員の部屋で、空いておった部屋があって。そこに入ったら救命胴衣が先に目についてですよ。今まで船で救命胴衣をつける事は全然しなかったわけなんです。その頃の救命胴衣って言ったら、枕みたいな形でしたから。
あんなものをしてたら仕事ができんわけですよね。ボートを下ろすにしても邪魔になるし、だからもうそれで着けなかったんですから。それがそこにあって、信号員だけの仕事をすればいいと思ったから、その救命胴衣を枕にして寝ておったんですよ。疲れてグーグー寝ておったら、今度はグゥゥーって揺れて、びっくりして。これはやられたなぁって思って見たら、ブリッジに上がったら、もう退船。こっちに降りてくるんですよ、みんな。「魚雷ですか?」「魚雷だ」って。そうしたら、船がすぐに傾きそうじゃなかったから、今までけが・・どっちに泳いだらいいかなぁと思って。雨が降っておったもんですからね、よう見えんとですよ。周りも。雨で。それだからどっちに船が傾いてどっちに沈むのかなって、ひょっと分からんのですよ。それでもボートデッキに立ってハンドルをつかまえて、こうして眺めておって、あぁあっちに沈んでいきよるなと思って。それからじわっと降りていって。そうして傾いた方じゃなくて、高い方へ泳いだんですよね。そうしたらもう今日はいよいよもう助からんだろうと。もう今日は最後だろうけれど、何日か日も分からんしねと思って。しかしもう死んでいく者が日にちも何も知らんって、また言いながら。これで一応終わりやったなぁと思って、浮いておったんですよね。そうしたらなんかどんどん音がするから、どうも音がするなと思ったら、黒っぽいのがおるなと思ったら、それが駆潜艇って小さい海軍の船やったんですよ。そうしてそれがこっちもこっちにもって、引っ張り上げているわけですよ。あぁー来ているんだと思って、そっちに一生懸命に泳いで行って、そうして上がったんですけれどね。まぁほっとしました。あの時。もう体はずぶ濡れになっていましたけれどね。もうそれで結局上着を脱いで、ずっと絞ってやった後で、今度はそれをそのときまだ気がつかなかったんですけれど、それで船底に一杯になったから、商船に連絡して、商船に乗り換えたんですよ。乗り換えて、これで助かったと。まぁしかし日本に帰るかどうか分からないしねって言いながら、上がって。そうしてフランネルのそばで体をひっつけて、体を乾かさなきゃいかんと思って、その時に、基隆の兵隊で、枕崎出身の兵隊さんがおって、その奥さんに書いた手紙を預かっておったのを、ポケットに入れておったことを思い出したんですよ。そうしたら、もう絞ってどうこうしておったもんだから、全然開けてみたらバラバラになって。これはしまったなぁと思って。しかしもう、あの付近で住所は聞いておったから、訪ねていったら分かるだろうと思って訪ねて行って。そうしたら奥さんは病気で寝ていました。その手紙を見たかったって言って泣かれたときには困りましたよ。私ももう泳いでいるときだから、絶対こんな覚えなかったですもん。自分の命が精一杯ですから。どうしたら助かるかな、どっちに泳げばいいかなしか考えていなかったですからね。あとからシマッタと思って。枕崎に入る度にいやでした。その人は助かって帰ってきたかどうかは分かりませんけれどね。私はまぁあそこに基隆におったんだから、無事復員したとは思ったんですけれどね。それから、また漁船に乗って23年か4年のころ訪ねに行ったら、その家はもうなかったですよ。

終戦時ですか。終戦は鹿屋の航空隊の戦闘指揮所付きにおったんです。

Q:ずっとそのまま戦闘指揮所付きで?

はい、そうしたら夜中に全員起床で、それで戦闘指揮所の前に集合だったんですよ。見張り、信号員だけ。そうしたら、敵の機動部隊が、明日早朝にかけて志布志湾に上陸する可能性があると。それだから、この戦闘指揮所を解散すると。各派遣部隊に帰れって言うんですよ。そうしたら私は「自分の派遣部隊がどこだったか分かりません」って聞いたら、「何でキサマは自分の派遣部隊が分からんのか」って。サシオから来て、一晩泊まって次の朝乗って来たでしょう。「何という部隊だったか覚えんですよ」って言ったら、「途中で探していけ」って言われましてね。途中で探す。それで着の身着のままですよ。半袖半ズボンを着て。そうして水筒だけを担いで。確かにこの付近かなぁってそこに行ったけれど、やっぱり分からなかったんですね。

それで終戦になって、それは8月15日の終戦は知らなかったんですよ。18日に初めて解散命令が出ました。18日の夜になってから。近頃空襲に来ないなって言いよったんですよ。それでそうしたら敵機が来てビラを撒いて。それでビラを撒いてビラを拾って読むと、ポツダム宣言を受諾すれば、平和な家庭に帰れるとかって、いろいろ書いてあるわけですよ。それで無駄な抵抗はやめろと書いてあって、これはいったい何じゃろうかって。それで空襲に来ないんだわ。戦争は終わったんじゃないかねって言って。・・兵とか同じ見張り信号兵が信用しないわけですよ。そしたら水道は使えなかったから、破裂して。それで町の畑の中に井戸があって、その井戸水をくみにいったら、もう40代の召集兵のおじさんたちが、「どこですか」「戦闘指揮所」って言ったら、「いつ帰るんですか」って。「いつ帰るって、どこに帰るんかね」って言ったら、もう戦争は終わっているって、「家へ帰るんですよ」って言うわけですよ。そうか、それだからビラは撒くし空襲も来ないんだなって。「そうですよ。私なんかまだ解散命令が来ないんですよ」って言うから、「おかしいねぇ。やっぱりそれが本当かもね」って、帰ったんですけれどね、部隊に。

出来事の背景出来事の背景

【トラック諸島 消えた連合艦隊】

出来事の背景 写真太平洋のほぼ中央に浮かぶトラック諸島。巨大なサンゴ礁に囲まれ大小200余りの島々が点在している。大正8年(1919年)に日本の委任統治領となり、民間人や軍人・軍属など約2万人の人々が暮らすようになっていた。島には町が作られ、病院や小学校、映画館や料亭までが立ち並んでいた。

昭和17年8月、連合軍の本格的な攻勢が始まると、日本軍は連合艦隊の拠点を日本国内から前線に近いトラック諸島に移す。来る決戦に備え、戦艦大和など連合艦隊の主力が集結し空母機動部隊が島を拠点に作戦を開始した。

しかし連合軍の攻勢の前に日本軍は各地で敗北を重ねた。米軍は昭和18年11月、トラック諸島の東にあるギルバート諸島を攻略、翌19年にはマーシャル諸島にも手をのばした。ラバウルの航空隊も度重なる空襲で大きな損害を受けていた。

昭和19年2月10日未明。連合艦隊の主力15隻がトラック諸島を離れた。連合艦隊司令部はトラックを拠点とした決戦は時期を逸したと判断。体勢を立て直すため作戦を変更したのだ。その際、物資や燃料を運ぶ多くの輸送船がなぜか残された。

2月17日早朝、2日間にわたるトラック大空襲が始まった。空襲開始から2時間足らずで航空部隊は壊滅。次に標的にされたのは、ほとんど防備を持たない輸送船だった。この空襲で、日本軍が出した損害は、輸送船31隻、艦艇10隻、航空機279機。死者は2000人以上にのぼった。

連合艦隊の拠点としての機能を失ったものの、トラック諸島が米軍の基地として利用されることを怖れた大本営は、多くの将兵を送り込んでいく。戦況が悪化し補給が絶たれると兵士たちは自給自足を余儀なくされた。トラック諸島では終戦までに、5000人にのぼる将兵や民間人が餓えや病で命を落とした。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1925年
鹿児島県川辺郡西南方村(現・南さつま市)に生まれる
1943年
3月、三井普通海員養成所卒業
 
その後、海軍輸送船・天城山丸に乗船
1944年
2月、トラック大空襲
1945年
5月、徴兵され鹿屋海軍航空隊へ配属される
 
鹿児島県で終戦を迎える
 
戦後は漁船や貨物船の乗組員

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