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タイトルタイトル: 「無防備な輸送船」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] トラック諸島 消えた連合艦隊
名前名前: 松原 正夫さん(トラック大空襲 戦地戦地: トラック諸島  収録年月日収録年月日: 2011年2月3日

チャプター

[1]1 チャプター1 通信を学ぶ  05:50
[2]2 チャプター2 敵前上陸  08:18
[3]3 チャプター3 無防備な輸送船  04:19
[4]4 チャプター4 トラック環礁  02:46
[5]5 チャプター5 トラック諸島へ  02:35
[6]6 チャプター6 大空襲が始まった  04:45
[7]7 チャプター7 漂流  04:47
[8]8 チャプター8 多くの船員が犠牲になった  04:09
[9]9 チャプター9 船を下りる  03:32

チャプター

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] トラック諸島 消えた連合艦隊
収録年月日収録年月日: 2011年2月3日

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アメリカいうとこ見てみたいなと思って、思っていたんですよ。それで商船学校入らないといけんゆうて、広島に商船学校あったんで。あそこは5年かかるいうて、大学がね。そんなことじゃ戦争が終わってしまうがってね。
東京行って聞いたら、目黒無線がある。そのころ通信士いうのはね、大正の時代から入ってきて、人がおらんのですよ。「トン・ツー」がね。ほんで、私らは60人2組おりましたがね。そこに入って、通信の勉強した。

Q:学校卒業と同時に?

そう同時に。そのころ、国際汽船かな、アメリカによく行っとったぜ。(日本)郵船もよく行っとったで。で・・・郵船は今、横浜におる氷川丸ね。あれなんかシアトル航路でね・・・郵便局と一緒ですよ。でわしらも無線習うんじゃ無し、郵便局の会社のやり方までこんな厚い、工率法に郵便法に、それも勉強するわけですよ。

Q:通信学校で?

うん一応ね。一々講義はせんですよ。「読め」言うてね。客船なんか氷川丸なんか郵便局と一緒やけんね。手紙も扱うし、金もやりおるしね。

まあ、郵船入ろうと思うてたがね、郵船は官立みたいな所やけんね、普通の所が良いと思って。ほいで、栗林商船いうのは北海道の大地主ですよ。登別温泉も栗林商船持っているんですよ。東京とね、10杯くらいおったかな、あのころ。船がね・・・。そこに行ったら、今通信士足らんけんね、入ってくれいうて。

Q:栗林商船は何を運んでいたのですか。

荷物やねえ。北海道から色んな物を運んだりね。京浜へねえ。大阪に行くこともあるんですよ。北海道は色んな荷物があるから、北海道の室蘭港の、いや日本製鋼か・・・大きな工場があったんですよ。そういう鉄材なんかも運んだ。 
北海道を行ったり来たり二航海くらいしたかな。徴用になって台湾行って、台湾から上海、南京。

Q:徴用になったときのことを詳しく覚えていますか。

詳しくない。徴用いう命令だけじゃけ。

Q:徴用は突然がらっと変わるものですか。

がらっと変わるいうか、乗っとるまま徴用ってことで、資格はね。それで腕章くれてね判任官という腕章を。陸上上がって宇品は大体徴用船の基地ですからね。奏任官いうて隊員帽被っていきょうら、筋巻いてね、捧げ銃(ささげつつ)してくれるけんこっちも敬礼してね。軍隊教育受け取らんのに。向こうは兵舎の前通るからね、こちらは。

Q:軍隊教育は受けないんですよね?

受けてないですよ。

Q:どういう立場になるのですか。

高級船員っていってね、商船学校でた者は色んな物を高級船員で。私が知ったら、青森で乗船してくれって。青森いってポンポン船乗ってね、沖に船おってね、そしたら35歳くらいの百姓みたいなおっさんが立っていて。「松原さんですか」と言うから、「そうです」と、「今度通信士として乗って来たんです」。「ご苦労さんです。私が貴方の当番ボーイですから、部屋案内します」と(35歳のおじさん)。個室に案内された。

Q:結構扱いは良かったんですね。

最高ですよ。百円と言ったら昭和16年で大手の社長くらいですよ。100取るのはね。私は85円でしたよ。東大出の優秀なのが40円か45円ですからね。それだけしか上がらないのに。私は85円でした。船員給というのが他にもある。本給の85円に4割増です。それが乗船給です。職務給とね。

Q:乗られていた船はどれくらいの大きさだったんですか。

5千トンですよ。乗った当時はね、あのころはまだ日本も海運国じゃないんですよ。英国のケツ引いてるわけで。でね、英国から買うた・・・でね。真ん中に煙突があってね、両サイドあって昔の格好ですよ。まだ2本煙突だけぇええよ。1本だったりね。それでその後ろに石炭積む所があってね、それから部屋があってね。昔の・・・。

Q:大体そのような任務と言うのはどのようなものですか。

任務はね、4時間交代で無線通信をキャッチしとるわけです。今ころの天気図は当てになりませんが、わしらのときは1時間ちょっとかけて温度と風向きをいちいち手で書いてたんですよ。慣れたら、(北東!)と言われたらさっと引いてね(風力4!)と言われたらすっと引いてね。それが一番難しいですね。それから新聞もあったんですよ。新聞とって船内で発行するね。

Q:夕映丸の任務はどのようなものでしたか。

夕映丸は輸送船だから軍人を輸送するだけ、無事にね。

Q:大体何処から何処まで運んでいたのですか。

宇品が多かったですね。広島の宇品。ここは港あったしね。それから軍の上陸用舟艇のよけあったしね。ここが本部やったしね。

Q:ここからどこに運んだのですか。

どこへって、上海とか台湾とか。指令を受けるわけですよ。結局参謀本部から。それでそこに行くわけですよ。

Q:日本から台湾、日本から上海を行ったり来たりされてたのですか。

日本には帰って来んのですよ。帰る船もあったけどもね。シナ海とかね。南シナ海を歩いてるのはね、戦地ですよ。戦争区域ですよ。そんなの相手にしないんですよ。わしらが今保険でもめとるのは、戦闘地域におった者は1か月分(給料)プラスするって。と言うことでラバウルとかあっちの方まで行っとるけんね。太平洋の中は戦闘地域ですよ。後はたいしたこと無い。敵前上陸で70杯の船でね、大井川(巡洋艦の大井か)いう軍艦がおってね、3本煙突の。よーけ兵隊が乗っとるのに敵前上陸するのにあんなボロ軍艦きてどうすんねんって。あれがが真ん中にきてね、あと駆逐艦とか小さい船やで。ほいで、わしらはスピード遅いから一番ペチで。15杯ぐらいぐらいおった。500メートルずつ間隔置いて。

Q:15杯とは15隻ですか。

一列がね。それで70位の隻よ。

Q:どこまで?

マレー半島の敵前上陸。12月6日?5日の日に台湾を出発して。マレー半島に。

Q:マレー半島に行ったのは丁度開戦のときだったから記憶に強く覚えていらっしゃるのですか。

記憶言うても興奮するようなことはないですよ。ただ兵隊を行って下ろして。上陸用舟艇でどんどん陸上に行くんですよ。兵隊はね、田舎っぺーもおるし。鉄棒で梯子(はしご)を造ってそれで降りるから、兵隊は自分の持ち物担いどるし、鉄砲も持ってるしね、なかなか難しいんですよ。それを早く降りんか!何しとんじゃ!って上から上官が命令しよった。(Q:そんなのを見ながら?)そうそう。朝、夜が明けて直ぐだから・・・。
戦争ってこんなんかいなてね、なんも敵は何にもおらんのじゃけ。ただね、昼ごろになってね陸上の方にね飛行場があるらしいよね、そこはボンボンとなってたね。あのころはもう兵隊はあがっとるけね・・・大したことはなかった。これが戦争かと思って。

Q:危険な区域に行くこともあったのですか。

それからは、今度はジャワね。ジャワ敵前上陸があったんです。こりゃオランダ軍がおったけんね。夜中は沖で待機しとるんですよ、夜が明けるのを。ピュアーって弾丸が飛んでくるんですよ、真っ赤なのが。怖いですよあれは。わしは一日遅れて敵前上陸行った後、そこにいったんですよ。

Q:弾丸や大砲が飛び交う中を兵隊を運ぶこともあったのですか。

そうそう。それはもう早く揚がらな危ないけんね・・・。その前かな、戦争が始まって直ぐよ。(船で)走ってたら潜水艦がおったわけよ。わしらはレーダーで分かったわけよ。潜水艦がおるぞー!って。おい、白波が立って来た!この船に来るぞってね。伏せてたらカコーン!ていうだけであとは何にも無いんじゃ。どしたんなと思ったら、底に当たっただけで跳ねて向こう側に上がった。魚雷が。(Q:夕映丸に?)魚雷が底に当たったんですよ。跳ねて向こう側に行ったんですよ。何ともなかった。

それでね、兵隊が乗っとるんじゃ、5、6人ね。機関銃もって。        

Q:常にですか。

常に陸軍が。軍曹か何かが隊長でね、まあ船乗りみたいなもんじゃ。わしらと一緒で。それが潜水艦撃ってやれ、そこにおるやないかと言うんですよ。いや下手に撃ったら仕返しが怖いけん。こっちは機関銃2挺だけじゃけんね。

戦地で何も抵抗できないからね。逃げて歩くしかないんですよ。逃げるしかないんですよ。抵抗するもんが無い。(Q:抵抗する?)だから小銃を10挺くらいあってもね、わしが言うには45度の角度来たら撃てって。飛行機が45度の角度に来るからね、そしたら当たるけん。それでやってたら向こうのは自動じゃけん、ダダダダダンと食らう。何にも抵抗無し。

Q:抵抗できないということですね。

そうそう。哀れなもんですよ。

Q:輸送船を守ろうとする気がないと・・・。

それはわしも敵前上陸のときに思った。何十隻か何万人という兵隊を初めて敵前上陸するときにね、守備の最高の巡洋艦じゃけども、2本煙突か、3本煙突の昔の船やん。こんなくそのような船が何で偉そうに先頭走っとんねん。後は駆逐艦がおるだけ。そりゃ、敵前上陸で初めて戦争するんじゃけ、「愛宕」とか「妙高」とかの有名な巡洋艦がついても良かったのに。それだけ安く見てたんじゃろ。(Q:商船を?)そうじゃ。

そりゃもうパラオから一人歩きじゃ。パラオから基地にして2、3杯一緒になったことはありますが、護衛艦は小さい千トンくらいの艦だけよ。あんなもん護衛艦なら助けだされへんわ。水雷艇が潜水艦やる段ボールみたいなんを積んじゃおるけど。

Q:軍属の方は海軍に不満みたいなことは持っていたのですか?

いやー、戦争始まるときは木の模型だけで、大砲が。木で造ったやつじゃけん。(Q:夕映丸にも?)どこの船もそうよ。それで兵隊を乗せて高射砲をやっている船もあるし、木の大砲だ。人を馬鹿にしている。

Q:初めてそれ(木の大砲)が夕映丸に載っているのを見てどう思ったんですか?

何じゃこんなもんって思ったんやな。故障で撃ち落とすんじゃないんかい。過大ばっかりやんけ。アメリカが見てびっくりするような・・・使い方ばっかり。本物じゃない(Q:偽物ですか?)そうや木で造ってる。あれは一年位してかの?兵隊乗せてあげてな。木を外しての、機関銃、まあ機関銃、大きい船は高射砲1台ぐらい積んで。

Q:トラック島とはどんな所ですか。

島がいっぱいあるところですよ。冬島夏島ってあるんですよ。そん中に色々湾がありますから。だから流れが速いんですよ。それを知らなかったけどね。

Q:トラック島を初めて見たときの印象はどうでしたか。

島がようけあってね、連合艦隊がおるゆうから何処におるか見てたけどおらんかった。向こう側の湾に入っとったけんね。それで、トラック島入ったらもう安心じゃゆうて。わしらの側に飛行場があるんよ。水上機の、海いっぱい走るやつ。こう見たら2機ぐらいおったがね。それもね、明くる日朝起きたら7時ごろには飛行機の編隊が来たんじゃけ。これはもういかんと思うて。一つも抵抗せんのんじゃけ。撃っとらんけん。艦隊は夜中にパラオの方に逃げてしもうとる。遅れたのが島の沖でやられた巡洋艦がおった。

Q:連合艦隊はご覧にはなってないんですか? 

うん、連合艦隊は見とらん。他の商船は見たよ、病院船のアメリカ航路におった秩父(丸)とか何とかはね。

Q:トラック島とはいっぱい船の入る所なんですか。

入れるね。島がようけあってね。中じゃけんね。

Q:どんなものか絵で浮かばないですか。

うーん、ちょっとね。島があって続いとる島や離れてたり、冬島夏島とあるようにたくさん島があるんよ。(Q:そこに船がいっぱい?)中にね、湾の中に。

(地図を見ている。)
ポナペか。ここや。ここへね、パラオから司令官が行くわけや。交代やここの。後で聞いたんじゃがね、ここに住んどった人に。それを送って行って、すぐに降りてトラックに引き返しとんねん。私は記憶ないんや。当直中やけん。

Q:引き返したってのはどういう意味ですか?

電報が入ったけん。「アメリカ艦隊が今日おるけん、みんな避難せい」。

ここが基地なんですよ、パラオが。ほじゃけん何かあったらここへ入るんよ。ほんで休養とるわけ。品物がようけあるときは台湾に行って、台湾から目的地に行くわけ。だからここは基地なんよ。わたしは4年おったが全部ここへ入った。それでポナペで司令官が乗ったわけ。交代司令官が。それでポナペに行きよったら、ポナペに行く前だったかな?連合艦隊のアメリカが来とるから、逃げろゆうことじゃな。それで降ろして直ぐ引き返したわけ。

Q:夕映丸に陸軍兵士とかを乗せてトラック島に来たわけではないのですか?

うん、陸軍の兵士は降ろしとる。(Q:どこにですか?)兵士は目的地に行っとるけん。トラック島に来たわけは品物か何か、食糧じゃないの。

Q:そういう空の状態で何か荷物を積んでトラック島に入ったと。

揚げ荷はせんかったけんね。

朝起きたら「敵機が来たぞ」と言うたら、ピアーっとハの字になって10機ぐらいかな、輪になって。こりゃ来たぞーって、言うとった。わしらは連合艦隊と先に外れると思うて、側に飛行場あるし見とったわけ。そしたら長野丸が先にやられちゃった。ボカーンと。こりゃ恐ろしいな。1発であれですよ。真ん中に当たってね。停まっとる船じゃけん、易しいやない。

Q:夕映丸はどうしていましたか。

どうもしてない。動かへんし。空襲じゃ空襲じゃ言うだけで。ほんで、持って逃げれるもん持って逃げろっちゅう・・・ボート降ろす言うてもまとまらんねん。バラバラになって。わしは事務長(じむちょう)おって、「松原君は秘密書類持っとるけん、あれもって逃げにゃいけんぞ!」って言われた。あの重たいの持って逃げるんかい。担いで。ボートまだできんのかい言うても、「まだ出来ん」と・・・。わしら先海に飛び込んどるけん。高い所からドカーンと。そこ(船)の周りおろうとしたら流れが速くてとっととっと流された。

Q:当時夕映丸には船員はどれくらい乗っていたのですか。

船員は64、5人じゃ。それから兵隊の飯炊きがおるからもっと乗っていた。これらは軍属かどうかは知らんけどね。

Q:その60何人はどうなったのですか。

わしの勘定では2人が死んで、1人が大ケガして、すんだということしか聞いてない。(Q:3人で済んだのですか?)そりゃ確認しとらんのんですよ、わしは。流れたまま冬島いったから。冬島から岡田汽船の何丸か生き残ってる。それに乗って横須賀に帰ったんです。その間の考えが分からん。

Q:夕映丸はどうしたんですか。

沈んだよ。マストは残っとる。こないだ行った人もマストは残ってるって。

Q:夕映丸が沈む瞬間をご覧になられたのですか?

いや、なっとらん。そりゃ静かに沈んだから。穴が開いて水が入っただけじゃけ。(Q:夕映丸に爆弾が落ちる瞬間は?)見とらんのんよ。わしは事務長の部屋で何しようたか・・・話してたから。

夕映丸がやられたときには最初の弾は船の横に当たったんですよ。それで機関部に少し穴が開いて水が漏れだした。そして船長が「全員退船」言うて命令を出した。命令が無いと離れられんからね。
そのときは皆ガタガタしようたけん。ほんでわしは暗号書があるから海へ飛び込んだ。前に冬島いう島があるから。流れ早いとは知らずに飛び込んだら、救命胴衣も付けてたのにどんどん流されて行って・・・わしは4時間、こりゃ死んだなと思って。段々島から離れて行ってね・・・4時間経った後にね、遥か向こうにボートでね、うちの甲板長が探してるわけ。オーイって手を挙げてね、それで助けてもらった。

おう、4時間。あれはすごいもんじゃ。わしゃもう死ぬる思ったよ。誰もおらんのじゃけん。(Q:その時トラック島は見えたんですか?)しそりゃ島がいっぱいあるけん見えるわ。冬島も見えるし。(Q:どんなんでした?)泳いで行こう思っても泳がれせんしな。潮の流れも早いし。

Q:一回空襲されているんですよね?

1機他ん所か来たやつ(米軍機)が、バチャバチャしてるわしを見つけてな、ばーっと弾が横を飛んで来たんよ。あれは先を固定しとるからのう。45度。(Q:周りで火事とかは?)そんなんはない。

Q:結構海では孤独だったんですか?

海で4時間も孤独じゃけん、これは死んだと思ったわ。そしたら4時間してな、うちの船のボートが見えたんよ。ちょっとの。「オーイ!」って。向こうも探しとんよ「オーイ!」って。そしたら気がついてわざわざ漕いで来てくれて、冬島に上がったんよ。

Q:4時間何を考えていたんですか。

そりゃ来てくれると思っとるからの。わしが海飛び込んだの知ってるから。飛行機に見られたときには死んだなと思ったわな。(Q:隣の船がやられたと?)あれはまだ夕映丸がガンとしてるとき。戦争始まったばっかり。空襲あったばっかりで。

ここは病院船も3杯おって、商船もようけおったわけよ。それでわし等の一番近い所に長野丸がおったんよ。あれはわしの友達も乗ってたから。
それでバーンと。見てたら、飛行機がどこから来たんか分からんけど、船で言ったら石炭庫じゃ。ブリッジ言うのがあってな、その後ろに石炭庫のホールがあるわけ。そこに石炭入れてエンジンに回る。そこに(爆弾)入ったんじゃろうな。バーンって言ってからそのままじゃけんのう。よっぽどわしらは運が良かった。

Q:ご覧になったのは目の前ですよね、どんな感じでしたか。

かわいそうに、当たったのうって。避けりゃええのにのうって言ってた。あれはもうやられると思うとるけんのう。(Q:浮いてる人が見えたりは?)そんなんは見えんよ。バーンって白波立ってサーッと降りたら船は無いわ。病院船なんてガーンといったけど、船大きいじゃろ?一万トン以上あるんじゃけん、ハウスも何段もあるじゃろ?それがボカーンといってからそのままよ。(Q:跡形も?)うん。ひどいなあ、病院船はマークも付けとんのに。

Q:長野丸の横にいて、浮いてる人もいないんですか。

いない。(Q:死体もない?)うん。死体も見んな。爆発しただけですーっと無くなってから、ひどいことやられたなと言うだけじゃけ。そんなんをこうやって見るわけにもいかんしの。自分とこもやられるかも分からんし。(Q:跡形も無くとは・・・)丁度真ん中当たったらガッ!といくけんのう。これが一番ひどい。そしたら水が入ってくるけんのう。

わしらもね次の夕映丸の後にね神旺丸に乗ったんよ。直ぐ戦地のガダルカナルに・・・なんじゃ、フィリピンに行くのにわしらは食堂におったんよ。食事してた。それで空襲じゃ!と言うから、まあここならええじゃろうて。船の真ん中に食堂があったから飯食べてたんよ。そしたらダダダダーと来たんよ。わしの側に後ろからパンと弾当たって、うーと言っとる人がおったんじゃが。おいおいどしたん?と聞いたらもうやられとる。
それでわしも部屋帰ったらベットの枠に弾がシャーっと走っててね、抜けとるんですよ。部屋におったらわしは死んどるなと・・・。

Q:戦争中も知り合いや同じ会社の船が沈没した話はしょちゅう耳に入ってたんですか?

会社は分からんけどもわしらの友達は目の前で死ぬわけですからね。生きてると思ったら死んでた。わしらも船団組んどるけんボート降ろしていったけどもね、色んな物が浮いてて人形なんか・・・救助に来んわな!救助する物がないもん。何十船いても一番前に指導船がおる、軍艦がおるわな。横に何メートルか小さい船がおったが、こんなんは救助できん。

どうすることも出来ん。武器が無いんじゃけん。せめて機関銃でも撃ってくれれば気分が晴れるのに。ものすご低空じゃけん。わしらは山に逃げとんよ。船を桟橋に置いて。(相手飛行機が)直ぐ目の前を通ってるんじゃけん、ゆっくり・・・。撃てよ!と言っても仕返しされるからて撃たん。こんなんじゃ応戦できんって。

うちでも4人死んでね、船で。わしらが(遺体を)焼いてね。(Q:火葬したんですか?)そこに埋めて来た。

Q:どちらで荼毘(だび)に伏したんですか?

フィリピンに。

諦めとるよ。アメリカは飛行機で1本じゃけん。1万、2万トンの貨物船があったのが航空母艦になっとんじゃけん。日本は造ろうと思ってもちょっとやそっとで出来るもんじゃない。最後に、20年の1月に帰ってその頃は全然戦争始まって帰った事ないけん様子が分からんわ。タバコがないわ何はないはびっくりしたわ。もう戦争に負けると言ってたわ。結局原爆に会ったんじゃがわしは・・・もう踏んだり蹴ったりじゃわ。

Q:はじめて日本に戻ったようなお話しされていましたが・・・。

もう大本営の命令ばっかりよ。特別扱いのような感じでした。動くのでも大本営の命令がないといかん。これは乗った人の話じゃけど、本船は運がええ船じゃけ司令官が乗るんじゃけど、そん時は部屋が別でわしらはどこにおるかしらんが。そういう話も聞いた。だから夕映丸は有名だった。名前もええけどなあ。

Q:よく昭和19年まで生き残ってたと思いませんか?

そうそう。わしもびっくりしたんじゃ。よう残ったなと。まあ原爆おうたがの、戦争行って死に損のうで、原爆に(あって生き)残ったの。それから今度は胃がんじゃろ、これはもうあかんと思って。70歳になって祝いして、77の喜寿やって88の祝いして続いたけんの。

それで日本に帰って日本の船乗れって聞いたらコンクリートで造っとんじゃ。コンクリートの船なんかどうすんじゃ!嘘だと言うたら、本当やと!瀬戸内海の岡山とかあそこらの港行ってみいや、コンクリートの船に桟橋してあるわ。

Q:それいつころの話ですか。

終戦後、じゃなく20年じゃ。

Q:それだけ材料が無かったんですか。

船造る材料がないんよ。鉄板が・・・。
まあ戦争だけはするもじゃないよ。ええことは無いから。(Q:どうして?)お互いに死ぬとか生きるとかしかないもん。そんなあほらしい事せんでも・・・こちとら軍国少年でカチカチしとったわのう。今ではアホみたいじゃ。

Q:今でも夢に見るようなことはありますか。

今は無い。20年まで戦争あって30年ころまでは夢見たら飛行機が来るんよ。逃げる夢をしょっちゅう見てた。今はなくなったの。

出来事の背景出来事の背景

【トラック諸島 消えた連合艦隊】

出来事の背景 写真太平洋のほぼ中央に浮かぶトラック諸島。巨大なサンゴ礁に囲まれ大小200余りの島々が点在している。大正8年(1919年)に日本の委任統治領となり、民間人や軍人・軍属など約2万人の人々が暮らすようになっていた。島には町が作られ、病院や小学校、映画館や料亭までが立ち並んでいた。

昭和17年8月、連合軍の本格的な攻勢が始まると、日本軍は連合艦隊の拠点を日本国内から前線に近いトラック諸島に移す。来る決戦に備え、戦艦大和など連合艦隊の主力が集結し空母機動部隊が島を拠点に作戦を開始した。

しかし連合軍の攻勢の前に日本軍は各地で敗北を重ねた。米軍は昭和18年11月、トラック諸島の東にあるギルバート諸島を攻略、翌19年にはマーシャル諸島にも手をのばした。ラバウルの航空隊も度重なる空襲で大きな損害を受けていた。

昭和19年2月10日未明。連合艦隊の主力15隻がトラック諸島を離れた。連合艦隊司令部はトラックを拠点とした決戦は時期を逸したと判断。体勢を立て直すため作戦を変更したのだ。その際、物資や燃料を運ぶ多くの輸送船がなぜか残された。

2月17日早朝、2日間にわたるトラック大空襲が始まった。空襲開始から2時間足らずで航空部隊は壊滅。次に標的にされたのは、ほとんど防備を持たない輸送船だった。この空襲で、日本軍が出した損害は、輸送船31隻、艦艇10隻、航空機279機。死者は2000人以上にのぼった。

連合艦隊の拠点としての機能を失ったものの、トラック諸島が米軍の基地として利用されることを怖れた大本営は、多くの将兵を送り込んでいく。戦況が悪化し補給が絶たれると兵士たちは自給自足を余儀なくされた。トラック諸島では終戦までに、5000人にのぼる将兵や民間人が餓えや病で命を落とした。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1921年
広島県呉市生まれ
1941年
電信協会無線電信講習所(現・電気通信大学)卒業、夕映丸に乗船
1944年
2月、トラック大空襲 夕映丸沈没
 
4月、神旺丸乗船
 
11月、神旺丸レイテ沖にて沈没
1945年
8月、広島で原爆にあう
 
戦後は商船の乗組員として勤務

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