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タイトル 「沖縄・嘉数の白兵戦」 番組名 [証言記録 兵士たちの戦争] 中国華北 占領地の治安戦 ~独立混成第4旅団~
氏名 渡部 真信さん(独立混成第4旅団 戦地 中華民国(山西省) 日本(沖縄)  収録年月日 2011年7月11日

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チャプター

[1] チャプター1 補充兵として中国へ  06:04
[2] チャプター2 厳しい初年兵教育  05:19
[3] チャプター3 占領地での住民との関係  09:15
[4] チャプター4 怖かったトーチカでの歩哨  08:16
[5] チャプター5 弾を捨てて歩いた  08:28
[6] チャプター6 沖縄で陣地構築  06:38
[7] チャプター7 戦車が海を渡ってきた  04:46
[8] チャプター8 嘉数の陣地へ  10:34
[9] チャプター9 潜伏  10:43

再生テキスト

昭和16年の4月か、3月に卒業やから4月からやわな。翌年の12月まで、兵隊行くまで。会計におったやわな。ほんで昭和17年の12月の初旬に召集命令が来たんよ。

Q:そのときはなんか、どう思いましたかね?

ま、死ぬとは思わなんだけどな、ほんでも何か嫌だったな。

Q:嫌でしたか。

うん。殴られるちゅう話聞いとったで。

Q:殴られる?

うん。自分がよかっても、皆一緒に殴られるでな。

Q:連帯責任みたいな。

うん、連帯責任。

Q:あの、そのころ一緒に入隊した人たちっていうのは、他の人たちはどういう人たちだったんですかね?

どういう?

Q:どういう人たちが一緒だったですかね?17年の・・・。

この、あれやねか、うちらのときはこの三重県ばっかやったわな。三重県ずーっと、紀州まで。大方紀州が多かった。尾鷲や熊野市の人が。

Q:皆あれですか、同年代ですか?

全部一緒。

Q:現役兵っていうこと?

うんうん。うちらが入ったときはまだ、召集兵はおらなんだな。45や35の人は。それでそんとき偉いさんがよくおったわ。大学教授やなんだが。

Q:ああ、そうですか。大学教授までいたんですか?

ちょうど1人は山梨大、「お前何の職業だったんや」、「はい、山梨大学の教授しとった」って、「へえー」言うたことあるもん。

Q:最初行くときは行き先って聞いてたんですかね?入隊して中国に行くときに、どこに行くっていうことは・・・。

それ全然分からん。全然分からんと汽車に乗せられたんやもん。ほんで、汽車の駅の通過するときに「ああここへ来たな」と思って、下関から船に乗って「韓国行くんかな」思った。で韓国からまた鴨緑江越えるもんで「これ満州行くのかな」と思ったん。で満州超えて万里の長城見えて「おお、これは中国やな」思ったんよ。全然知らなかったけど窓の景色で分かるわな。

Q:で、行った先が山西省だった?

うん、太原(タイゲン)(山西省)やったな。大きな町やで、太原て。山西省の省都やもんな。がーっと城壁に囲まれてな。んで四つ門があってな。立派な門やったわ。あれは山西省は、いちばん偉い人は吉本中将(吉本貞一 第1軍司令官)とかいってな。第1軍の司令官とか言った。黄の旗(中将旗)立ってな。バーッと乗用車で乗って来やったな。

Q:渡部さんが太原に着いて、任務っていうか、部隊の目的ていうのはどういうふうに聞いてたんですかね?

あれはあの、治安を維持するために行ってん。日本軍が、その山西省を平定したときに、後に八路軍(中国共産党の軍隊)が来るで、その治安を維持するために行ったやろ。うちらは戦争せんと、「治安」っちゅうたわな。日本軍の治安の区内に中国人よっけ住んどってな。その人らを守るために行ったんやわな。

任務に就いてたときはそんな略奪とか放火とかって全然せなんだわな。

Q:ああそうですか。

禁じられとったもん。初年兵兵教育で。教官が「略奪・放火・強姦はするな」って。

Q:はっきりそういう命令をしてたんですね?指示を。

紙貼っとった。兵舎の中の初年兵教育の。ほんでそんな悪いことしやへんわな。

Q:そういう指示っていうのは小隊長かなんかがするんですかね?

あれは軍やろ。軍の命令やろ。上の、北支派遣軍司令官か。そういう人の命令やろ。

Q:渡部さんが直接聞くのは小隊長だったりするんですかね?

そう。そんな上の人知らんもん。中隊長や連隊長は知っとっけどな。その上の人って見たことないもん。

そな初年兵のときは毎日殴られたわな。もう、簡単なこと。例えば「一つ、軍人は忠節を尽くすを本分とすべし。一つ.軍人は武勇を尚(とうとぶ)べし、一つ.軍人は質素を旨とすべし」って言わされんのや、朝。朝礼んときに。そしたら1人がよう言わんと、順番に回ってくるんや。1人が言わんと皆がビンタされる。簡単なことやけど。こう、その人も、覚えりゃいいんやけど、覚えらんねえずっと。そんな子もおるんやて。小学校出とらん人間もよくおったもん。

大変やなー。初年兵は。全部が全部そうやと思うけどな。好き好んで兵隊に行ったわけやないのにな。皆が同じことさせられて。まった同じ事やなあと思って。あの匍匐(ほふく)前進なんか、こうやってするやつな。ここに短剣下げとうな。それが擦らんようにサーッとこうやって持ち上げて行くん。えらかったわな、あれ。1人でも落とすと、またやり直しって言って皆やらされんもん。そいて大概やらされてから時間目一杯やらされて、遅なったって兵営まで駆け足やって。全部いて、また「遅い、もう1回」って。「行って来い」ってやられた。あれは厳しかったに。

Q:それあの、そういう生活を送ってるとどういう気持ちになってくんですかね?

そーな。どういう気持ちになるって、もうしょうないなって思うだけやわな。皆こうやってしたんかなって。うちらだけやなしに、各初年兵は皆こういう苦しみしてるやなと。

Q:その、嫌になったりとかしないんですかね?

そんなこと言ったらどえらいやられんもん。それこそ、鋲(ビョウ)のついた皮でガーンとやなしに殴られるもん。それで1人死んだもん。ここが打て、殴られてな。皮のあの、棒で殴られてパーンパーンてなって。倒れるまで殴られよるわ。1人死んだ。

Q:訓練で死んだんですか?

訓練中に。こう、駆け足でいちばん遅いやろ?「遅いやつから3名もう1回回ってこい」って。またいちばん最後やったら「お前たるんどる」ってパンパンパーンて殴って死んだ。皆ほんでも戦死やわな。一応、家族には。家には戦死って書くわな。

Q:ほんとのことは、言わないんですか?

うん。そんな殴って死んだって言わんわな。

Q:渡部さんは実際に、現地の中国人と交流したことはありましたかね?

いっぺんな、卵を分けてくれてん。初年兵の教育隊のおるところから近くにあった村で。卵を分けてくれて。ほんなとらんに。ちゃんとお金払って。初年兵の給料が19円やったかな。それでお金を出して卵を分けてもろた。

Q:それは治安地区の村ですかね?

うん。教育受けとったとこに、ランソンちゅう村。50軒くらいあったやろか。そん部落が。ランソンの部落がな。

Q:そこには見回りかなんかで行ったんですか?

いや、教育上等兵かな。机を、自分の机な。買うてきて、お前ついて来いて。護衛みたいなもんやさ。それで行ってんやな。それで教育上等兵は机を分けてもらったんや。それで教育上等兵に卵を分けてもらう訳にいかなかって、銭だったらええわさって。俺は通訳したって。そいで卵五つか、分けてもらった。そんで、羊羹(ようかん)でもなんでもな、例えば、ここから友達おるやろ、同じように3名がおったけど、それが夜中に持ってくんのや。食べようって。それ食べたら叱られるんめ、便所の中で食べよったもん。

Q:見つかったらよくない?

教育兵長に殴られるもん。羊羹でも便所の中で食べよった。ちょうどな、中隊長当番がここの人やったん。ここの近くの。顔よう知っとやろ?「お前羊羹やんで見つからんように晩に便所行って食べよう」つって食べたん。あのときの羊羹は本当にうまかったわ。

Q:そうですか。

それからもう1人はお金をくれてな。お前今から連隊本部行くのなら酒保をな。羊羹やなんか売うっとんで。これで食べてこいってくれたの。お金、5円くらいかな。うちはほんでに、2人知り合いがおったから楽したわな。その人たちが、あれあんまり殴るんなや、言うてくれるのがさ、そんな殴られんだもん。いっぺん、うちがこの部品をな、夜のうちにとられたんや。すーと定期検査があるんや。どえらいことやろ?中隊長の当番のところ、兵長やったの。小川っていう。「小川さん、の(無)うなったは」って言ったら「えらいこっちゃで」って「ほだったらやるで、黙っとれよ」って。大分初年兵のとき助けてもらったわな。ほんで沖縄帰ったときにそこの家に行って、遺品がないもんやで、サンゴ礁の白いかたまりを砂浜で持って握ってその家へ「これ骨の代わりにに仏さん据えといてくれ」って言ったの。んで初年兵のときに同郷のもんが2人おったで、えらい得したわな。

Q:現地の中国人との交流っていうのは、他には何かありましたかね?

初年兵のとき卵分けてもらったんと、あと他には、炊事の桶をこう運ぶ人がおんねや。それでようしゃべりおったな。あれは水がないもんやで、炊事や風呂の水をその人にお金出してやとっとたわな。すと、こちらが衛兵に立つとどうしてもその前を通るでな。言葉かけよったでな。

Q:あ、出入りしてたんですか?その人は。

うん。風呂とそれから炊事の水を。出入りて、若いのは二十歳前後でな。その他に中国人としゃべったことないわ。中国語が分からんもん。全然。

Q: そうですよね。

カイカイデー(急げ)とマンマンデー(ゆっくり)とニホー(こんにちは)とそのぐらいで知らんもん。あの、中隊に1人ずつ通訳がおったんやわ。入って、中国語を勉強するとかやさらされる。その人それだけ、中国語知っとっただけで他は知らんやろな。作戦があっと、その進んでた中の逃げ遅れた中国人を将校が聞くのにその人が通訳して聞きよったもん。ああいう、密偵いう、兵長やったな。

Q:聞くっていうのは何を聞くんですか?

どんな位の軍隊がおるか、そういうこと聞きおったよな。

Q:情報収集で?

その他に中国人としゃべったことないもんなあ。

Q:何かその、そういう情報収集するときに結構厳しい尋問ていうかですね。そういうのはなかったですかね?

軍用犬がおった。軍用犬。

Q:軍用犬?

それがワンワンてこう吠えた。

Q:犬で?

うん。犬が脅かしたわな。中国人を。そりゃ、噛みつきたりはしないけどな。軍用犬がこうワンワンて吠えとった。中国人にしちゃ怖かったやろな。

Q:それで脅かして・・・。

あの、本当のことをしゃべるか、しゃべるようにさせとたわな。ほら、同じ中国民族やて、日本人に好意を持っとらんで、本当のことしゃべらへんわな。と思うよ。

あの、トーチカの陣地でな。うちら北竜泉(現山西省遂川県)におるときでも初年兵のときに、怖かったわな。歩哨に立ったやろ?24時間全部交代で。すっとこの、狼の鳴き声が晩になっとしてくるし、音がしてくっともう八路軍(中国共産党の軍隊)かと思ってガーッてうつむいてガーッと見渡しよったんな。

Q: 怖くて?

怖くて。いつ襲ってくるかと思ってな。だから初年兵だ怖いでな。射撃教えてもろうたばっかりなのに、そんなの。

Q:それ、八路軍が近くにいたんですか?そのとき。

全部その、これが全部八路軍とすっと、日本軍はコップくらいで点があるだけやもん。トーチカはな。ほんでね、あの苦力(クーリー)(労働者)いうて中国の少年が炊事の水をな下から運んでくるわな。そんでも気いつけおったもん。八路軍がついて来やせんかなと。まあ、初年兵のときのあの北竜泉のトーチカおったときはいちばん怖かったな。約、あれは太行作戦(昭和18年)の間でひと月かふた月やと思うけど長かったわ。とにかく初年兵ばっかり30人、20人か30人。それから曹長が1人と教育兵長が1人で2人だけはあれだけど、後は初年兵ばっかりやもん。10人くらい古年兵がおればええけど、初年兵ばっかりで怖いわな。戦い方、実際の戦い方知らんもん。射撃訓練受けて、銃剣術のことを習てるだけであと何にも知らんもん。実際やったことないもん。

Q:それ3か月たった後ですか?初年兵の一期の検閲の後ですか?

一期の、1年たってからすぐ。その太行作戦かなんかあったらしいわな。それで初年兵が皆分散してトーチカに各班ごとに行かされた。

Q:それはどれ位の広さを警備するんですか?それは。

十里四方やろな、それは。ほんで、この道から絶対こっちは逃げたら八路軍のせいでもうあかんと思ったらこっちは南に逃げろって指示が出とったもん。日本が守ってるけど、こっから北は共産党のシマや絶対にこっちむいて逃げんなって。敵が襲撃しててもな。初年兵のときは本当にもう、厳しいし長かったわ。1年の長いこと。

Q:トーチカっていうのはどういうものなんですかね?

トーチカはね、小高い山をな、ぐるりを深さ3メートルくらい幅5メートルくらいガーっと掘ってな。ほんで、敵が来んようにして、ほんで各角に銃眼をつけてな。ほんで守っとった。朝から晩までな、交代交代で。訓練やなしにな。いつ八路軍が襲ってくるか分からんもん。

Q:そりゃ怖いですよね。

そりゃ怖いな。怖いって言えへんしな。殴られる。

Q:そこにいて実際に八路軍見たことあるんですか?

八路軍は弾撃って来たんは見た。弾撃って来たもん。

Q:じゃあ1回攻撃があったんですか?

あった。パーンパーンて弾撃ってな。下やったらパシーていうもんな、弾が。上やったらヒューヒューていうわ。ああ、今日は来たなと思ったの。んで、無線の人が中隊にすぐ連絡しよったのかな。応援頼むて。曹長怖かったやろ。頼りない人間ばっかりで。初年兵ばっかりやて。

Q:それでどうなったんですか?

中隊から中隊長以下、100名くらいやな。強行軍でうちらのトーチカ助けにきたわ。もうずーっと見えとったもん。あの八路軍の兵隊が上がっていくのが。曹長がもう顔色変えて、「おーい、八路軍がきたで。皆銃剣着け」ってな。あわくっとったもん。で、曹長は打ったやろ、無線を、中隊本部へ。「応援頼む」て。

でも中隊本部から7里くらいあんで、よーお駆け足できたよな。初年兵が全滅するか分からん思て。

60キロくらいだと思うわ。それを担いでな、完全軍装で行くと、雨に濡れた場合はびちゃびちゃだわな。雪も降ったんだわな。そんで毎日15里ばかり行軍すんのやろ。ほんで、現役のもんはええけど、応召兵、召集兵は、かわいそうやわなそら。だから落伍して、皆後方へ送られたわな。もっとひどい奴は、捕虜になってあかんでって紐で引っ張って歩いて。引きずってったよ。死ぬまで引きずってったわな。

Q: ほんとですか。

うん。無惨なことしたもんや。

Q: 歩けない人を、紐で引っ張ってったんですか?

捕虜になったらあかんでや、だって。

Q:あ、置いてくと?

うん、捕虜になるやろ。そいで紐で引きずって、死ぬまで歩いたわな。かわいそうに。

Q:それ味方の兵隊ですよね?

それ日本兵や。捕虜になったらあかんでってな。今では考えられないわ。

Q:そのときはそれ見てどういう風に感じるものなんですかね?

かわいそうやなと思ったけどな。そやけども、中隊長や小隊長にそんなことって言わへんでな。言わなあかんでな。こいらはかわいそうやで、もう後方へ送ったげって言わないけん。言わんもんやで、皆3年兵や4年兵が引っ張ってくわけや。死ぬまで。

古参兵はこすい(ずるい)でな、自分の弾をな、ほうったってまう(捨ててしまう)んだ。かろ(軽く)なるで。

Q:置いてっちゃうんですか、弾を?

ほうったん。ほうったらかろうなる(軽くなる)もん。あれ、前2つと後ろ1つな、弾入っとるな(兵隊は弾盒と呼ばれる弾入を三つ身につけていた)、それをこう、初年兵やそういう人たちは戦争のこと知らんべ、ほうることを、段々重くなってくるな、つらくなってくるで。4年兵や5年兵は知っとるやて、パッパパッパほうってくんねんや(捨てて行く)。上官の目のつかんときに。

Q:でも弾を捨てちゃだめですよね?

全部捨てたらあかんわ。撃たれへんもんな。で、分かるもん。あの、撃ったか撃たんか。銃口の中が違うもんな。まあとにかく、古年兵は要領が良かったな。

Q:でも、戦闘になったとき困っちゃいますよね?弾がないとね。

全部がほうらへんわさ。60発くらいあっかな、抜かな1つは。30発くらいずつ抜いても大分軽うなるわな。

慣れとるもんな。上官は、その人たちは慣れとるで、上手に使うもんな。戦い方知っとるもん。射撃すんのでもあれはな、日本の兵器は目測やから、ちゃんと。そやけどやっぱり古年兵は慣れとるのやで、大体目測が合うわね。初年兵は目測は、「これどのくらいや」て考えて目測せんやかんもん。そんで、射撃しても当たる人少ないわな、初年兵は。

Q:渡部さんも河南作戦(=京漢作戦)のときは大丈夫だったんですか?

まあ、どうにかこうにかついてったわな。あれはえらかったな。歩きづめに歩いて、川の中でも這(は)ってって、その水があったとこまで歩く・・・。あの皮膚が皮むけよって痛かった。50分歩いて10分間休憩やろ。立つのに重いので立てへんのもん。段々重くなって。そのとき後から聞いた話で、弾を捨てるちゅうこと知らんしな。

Q:じゃあ、渡部さんも一生懸命真面目にやってたんですか?そういう意味では。

そんな弾を捨てるっちゅうこと知らなんだもん。河南作戦は2年兵のときやもん。沖縄の戦いもえらかったけど、河南作戦は歩くのにえらかったわ。往復2か月間、歩きづめに歩いとったもん。戦闘しながらな。平坦な道ばっかやない、山や川があるし。えらかったわな。寝るところもないしな。寝るとこないやねか。上手にその、晩の6時ころになって民家あるときはええで、民家着きゃいいんだけど、ないときはもう野宿やもんな。

Q:そういうときはどうするんですか?

自分があれ持っとるもん。マント。マントをかぶって寝るわな。やけど寒いわ。日本と北支は大分温度が違うでな。日本はこの辺やったらどんだけ寒かっても5度やろ。向こうは20とか30だもんな。

Q:あ、マイナス?

マイナス。寒いときは。大分着込んじょったな。

Q:歩くのは昼間歩くわけですか?

昼間。目覚ましたらもう、7時ごろから晩の6時ごろまで歩くなわな。歩くわけ。敵がいたら戦争しながらまた進んで行かなあかん。

沖縄やな、これ。昭和19年9月。

Q:常夏の国・那覇って書いてありますね。

Q:このころはまだ、大変になるって思ってなかったんですね。

全然思わなんだな。

もっとも元気旺盛なる姿。

Q:眼鏡かけてたんですね、昔。

Q:これ、同年兵たちですね。

これ初年兵。

(数を数える)、23の中で、兵長と、これが・・・20名くらいでなっとる。これが教官で、これが教育伍長で、これが教育兵長で、それから教育上等兵がおるでな。

Q:ほとんど沖縄に行ったんですね。

これ全部。全部、で戦死しとるな。うちだけや、残っとるの。

Q:河南作戦に参加した後、19年の夏に中国を去るわけですね?

そうそう、あの鄭州(テイシュウ)(河南省)の河南作戦が済んで、ひと月間くらい鄭州におって、警備してそれから沖縄行ったわけよ。

Q:このときも最初は行く先っていうのは聞いてたんですか?最初っから。

全然分からん。船に乗っても分からなんだもん。船・・・呉淞(ウースン)(上海市)を出発したんが夜やったわな。で、こう上見とったら、南へ進むみたいで、「ああ台湾へ行くんかなあ」思っとったもん。そしたらこう、海岸へ出たら潜水艦あるな、敵の潜水艦が。もう、アメリカの潜水艦が。で、魚雷撃たれるもんで、ジグザグ運転しながら沖縄へ行ってんな、あれ。直行せんと。

着くまで分からんかった。那覇の港に。「那覇」って書いてあって「あ、これ沖縄だわ」って思った。

Q:そのときはどういう気持ちだったんですかね?

うれしかった。内地やから。「ああ、これから不寝番にも立たんでええし、衛兵に立たんでもええなあ」と思ったもん。本当にうれしかったわ。そんなまさかアメリカが沖縄に上陸するとは思わんもん。もうそんときはレイテでも何も知らんもんな。ええ情報ばっか入って悪い情報は一つも入ってこなんだもん。

Q:沖縄に上陸して、最初のころっていうのは何をされてたんですかね?

もう初めから陣地。山のな、あってな。こう陣地を作っとったんよ。

Q:あ、陣地を作って?

洞窟(洞くつ)をな。

Q:どういう陣地なんですかね?

これ山とするやろ?こういう風にな、2メートルくらいの高さ2メートルくらいの幅でコの字型でずーっとこう掘りよったんよ。んでここに、擲(てき)弾筒と機関銃、速射砲、てき(擲)弾筒と機関銃、速射砲と、山の上にな、作ったんよ。

Q:じゃあ最初はまあ、着いて陣地をひたすら作ってたと言うことなんですね。陣地作りっていうのは結構大変なんですか?

木は切らなならんしな。あの、2メートル以上の木を。で、山から担いでそれ掘った陣地を崩しくんもん。ほんで、こう重ねてどんどんどんどん、コの字型に組み立てたな。8、9、10、11、12、1、2、3・・・8か月かかった。

Q:あ、そんなに?

皆がな。それが3日でしまいや。

Q:しまいっていうのは?

(米軍の)艦砲射撃と、それから大砲と、それから飛行機で、山をばーっと爆弾を、朝の8時から晩の5時までもう爆弾がきづめやな。そうすっと山に生えとった木がなくなりんちゃう。2日目に土がなくなって、そいで岩肌ばっかになっただもん。日本人には考えられんやろ、あんなん。ほんで、飛行機の爆弾こう見えたん、それで怖い事なかったけど、艦砲射撃は見えやんもん。火噴くのは分かるけどもどこへ飛んでくんのか分からんで、怖かったわな。艦砲射撃は。飛行機は一つも怖いことなかった。ずーっとこっち来るのが分かんもん。

(渡部さんが地図を取り出す。)
うちらここのほうがぁ。うちらはここやわな。なぁ。

Q:あっ、ちょっと待って下さい。

うちらがここにおったがなぁ。

Q:宜野湾?(沖縄本島中南部)

宜野湾。ここ。ほいで、上陸地点がここやもん。

Q:読谷村(ヨミタンソン)(中頭郡)?

読谷。ここに飛行場があったん。日本の。ここいっちゃん初め艦砲射撃されたとこ。飛行機にいっちゃん初めやられたとこ、ここ。約、約1時間にこの上に。

Q:見えるんですね?

見える。ほいで、うちがここの、ここの自分の陣地の山の木の上に上がって中隊長が「お前、監視行ってこい」って、木の上にとまっていたら、もう艦砲射撃で真っ黒な空ですわって言ったら、「うんー、もっとよう見よ」って。そのうちに、戦車がバーってこう来た、読谷の飛行場から。戦車って海を渡るもんかなぁって思って、戦車が渡ってきたら、「バカー」って「戦車が渡るかー」って。後で聞いたら。水陸両用の戦車で。水も陸も。日本の戦車は陸で、アメリカは陸、海も渡れる戦車らしいわ。

Q:そんなの見たことないですよね?そんときは。

それ、今までそんなの知らなんだ。戦車は陸上のもんとばっか思っとってた。そしたら、海をバーって行くんだもん。「中隊長殿、戦車が海を渡ってきました」って言ったら、「バカー」って言われたもん。「そんなばかなことあるかー」って言って。「ほんとです」って言ったら、「うんー」って返事なかったもん。

Q:それまでいた中国とは違う感じですか?

どえらいちゅうもにゃ。雲泥の差やなぁ。

Q:砲撃が始まるわけですか?

そりゃ、3日目にも、戦車来たもん。そんときは、松の木にまぁおらんて。うちも山の上陣地におった。ひとり2年兵が撃たれたな。3人が一緒に。ほいたら、アメリカがダーッてきた。デーって、バーって。そいで、1人よかったと思って、中隊長てんであげて状況を知らせよって。中隊長のとこへ行くとき、アメリカの兵隊にバーってこの足をやられてん。

Q:痛かったですか?

痛かったも。通り越してるわ、もう。だけど、このおかげで助かったわな。野戦病院行ったで。これでやられたらもう、もう死んどるわ、戦死しとるわ。

戦友?初めのうちにほとんど亡くなったわ。3日間で。ほんで、残ったんは、初め3日間のうちで負傷した人間が残っただけであと全部やられたわ。負傷、2日間3日間での戦闘の中で負傷して後方の野戦病院に送られた人間が7人、それが残っとるだけや。あとはみんな全滅。

Q:これどういうふうに当たっちゃったんですか?これは?

これか?これ革靴、軍靴の上をかすってダーッと。

Q:これ沖縄でですか?

うん。これで命助かったんやもん。

Q:ああー、後ろに下がれたんですね。そのおかげで。

これで野戦病院送られたもん。こりゃ当たったのはな、その晩に皆斬り込みに行って皆死んだもん。全部。ほんで、野戦病院におった人間だけ残った。3日間の戦闘で、指やそんなんがのうなった人間な、野戦病院行ったわな。その人間だけ残って、あと全滅。

Q:じゃあ、死ぬかケガするかどっちかなんですね。

そうそう。ここケガしたのはもう、斬り込み行って死んどるな。そら、自分たちの作った陣地が、敵がこう上から見て連隊長が「取り返してこい」って言うけども。こう照明弾がパッパッパッパついて分かるように上からダーッとついて皆死んでまうわな。

4月の2日目にな。2日目にいて、晩に、あの連隊のいる道行ったら今から負傷兵がようけあんで、野戦病院に連れて行くって言って野戦病院に連れてかれた。そしたら、軍医が、「こんな傷ぐらい、こりゃ後回しやー」って言われて、そんで、3日間ばかしおったがな。みんな足やられた人がよーけ、いーっぱいおった。読谷の近くに12大隊がおったんでその負傷兵がようけおったがな。

手やられたり足やられたりな。もうほんとにひどい人はこの心臓が、血が、がっがって出る程度だったもん。

Q:見える?

心臓は見えないけど血が出てくんのよ。軍服のあれを通り越して。もう、1分もしないうちに死んでた。こうがっがって。軍医も何ともならんのやろな、こうやられたったら。この足やられたり手やられたりが、手当できるけども、心臓やられたらなんともならんながな。あの映画と一緒。1分までずーとこうなってたがな。天皇陛下万歳や絶対言わんかった。言えんはずやろな。もう、そんな声も出えへんのに。なんで、うちらあのあれやけども、補充兵は配偶者や子どもがおってかわいそうやったわな。ほんとに気の毒だわな。成人してる人は。みんなそういう人は写真もっとったもん。嫁さんとそれから家族の子どもといる。それがいちばん気の毒やわ。

Q:そこではもう治療は受けられなかった?

3日間な。あんたマシやって。ほいで、直してもらって4日目に。そいで、2日ばかおったら、また原隊から衛生兵がきて、まとめて連れてかれた。

Q: 後方に?

前の連隊本部のあるとこへ。帰って来たら、「お前いいところに帰ってきたわ。ここで山の上で白兵戦を何べん繰り返したか分からんへん」て言われた。山の上あがってったらよーけ黒人が死んどったもん。ほんで、アメリカも戦車や飛行機やら乗っとんのは白人が乗って歩兵は黒人ばっかやな。かわいそうに。

Q: アメリカ軍も白兵戦をやった?

うん。うちらの陣地にはやらんけど、連隊本部がやっとった。よーけ、転がっとったもん。そのままにしたった。日本の兵隊はみんな、戦死者は山から降ろしてな。処分したけども、アメリカの黒人はほったらかしやったもん。

Q:そのときは、本部にいた?

野戦病院から帰ったときはな。本部連隊の副官に報告に行ったら、「お前監視役や」て、また監視役かなと思って、山の上の監視役にずーっとおった。

そりゃうちらの中隊が来たときでも、2中隊いて、野戦病院から帰ったらその2中隊の中隊長から呼ばれて、「お前どういうふうな陣地がいちばん悪いと思う、欠点や」と思ったら「あのタコツボみたいな、あんなかわいそうに。来る前に、戦車が来る前に火炎放射器で全部死んで無駄やと思う」ったら「俺もそう思う」て言うたら「全部引きあげよう。」て。2中隊の中隊長が引きあげさせとったわ。こんな爆薬を持って戦車の下敷きなるやんもん。ありゃ日本人ようしたわ。今の日本じゃったら「こんなあほらしい」って皆反対するけど、あの時分はおとなしかったやな。

Q:爆弾持って戦車に突っ込むんですか?

下敷きになんの。自分もろともに。自分は死ぬわな、もちろん。

Q:それやった人がいるんですか?実際。

そういう訓練されたけども、その前に、もうその蛸壺の来る前にその戦車が火炎放射器ずーっとまいて。皆焼き殺された。うちら。かわいそうに。

やっぱり、武器の相違やなと思うた。兵器の。日本魂で勝てるはずはないと思うた。もう、嘉手納へ来るときに負けたなと思うたもん。夜、たまに日本の特攻隊がガーッと行くと、なんや照明灯がパーと、曳光弾でパーパーパーて撃つと日本の特攻隊がみんな海の中へ、みんな火吹いて沈んでったもん。そんでも、10機位来たかいな。きたことは来たやな。途中でやられたらしいわ。みんな。沖縄来る前に。日本の特攻隊は。

6月の23日になってもう、連隊長が「今から斬り込み行け」って、部隊全員にカンパン一袋持って行ったけども、戦車が目の前で、こんな戦車、何をもってもやられるで、って海岸にダーッて行って、そしたら戦車来ために、「これはもうあかん」て思って、みんなに「飛び降りろ―」って言って下に飛び降りた。

サンゴ礁のあれ。ガマって。このうちぐらいあるサンゴ礁が海岸にずーっとある。それから、真水がこう出よった。そんで、助かったんやろな。水があるもんやで。で、沖縄の住民よーけおった。日本の兵隊も。

Q:それは洞窟?

洞窟や。入り組んでな。で、雨が降ってて、こう入り組んでる。あれ、水があって助かったけども水がなかったらみんなあかんわな。

Q:悲しいとかはない?

あきらめに似た症状、心やわな。あきらめってたよ。それかていうて、手挙げて捕虜になって行くわけにもいかんしな。そんなもん、戦陣訓に、「生きて虜囚の辱めを受けるなかれ」って教えられとったで。初めから、捕虜になってもこんなに優遇されんのやったら、もっとはよ出ればよかったなて思うがな、後で考えたら。6月の23か4日に(沖縄戦)終わりになったけども、そんときにもっと戦争終わって出てこい言うたけど、なにをそんなて思うて出てかなんで、半年アホ見たな、と思ったもん。

Q: 終わったことを知らなかった?

言うていた。「戦い終わった」て。いちばん始め。6月の25日(沖縄戦の事実上の終結は6月23日)に。それから、8月の15日に「日本が降伏した」って言いにきたん。やけども、「そんなん嘘や」と思うて、出なんだ。そしたら、10月ごろにまた言うてた。今度は日本人が。そんときに一緒におった隣におったおんなじ在来の曹長が2人出てった。自分の当番連れて。曹長出てったな思ってた。ほんで、2月に今度は、「わしは、参謀の田中少佐や、嘘(うそ)言わんで(言ってないので)、出て来い」って何度も言いに来た。「田中少佐が言うんだから、参謀言うんだから、これは本当やな」て出てった。7人が。そして、田中少佐がもっとはよー来てくれたら、はよ出て来よったよ。信用せなんだよ。

わしゃ、あのー、田中少佐参謀いうて、参謀が言うんやったらほんとやろな思うて出て。

Q:みんなそういう意見?

うん。それまでは、出てくと後から撃たれると思ったもん。戦友に。12月か2月ごろに機関銃の曹長が出てったときに出てくのがほんとやったろうな。今考えると。あだやおろそかに(だてに)曹長やないな、思ったもん。

Q:6月から翌年の2月までずっと隠れてたのか?

何回も、ここにおったら食料がないで、芋の葉ばっかりで、海岸伝いに行って、行ったけども、川が流れるとこはこの照明弾上がってくし、雨でまた引っ帰して、で今度は陸上行ったけれども、あれやな、沖縄は墓がおっきいんやな。そこで一晩隠れておったけども。これはとっても奥行かれんなて思って、また帰ってたんよ。2回ばか行ったかな。食料がないもん。芋の葉ばっかで腹減ってしゃーないかったもん。1食やろ、それも。芋の葉を。そんで、ガラガラに痩せたわな、みんなが。ほんとのほんと。汚い話やないけど大便が出ないんだもん。食べ物食べへんでな。小便は水飲んで、出るけど。

Q:水だけは滴ってた?

沖縄は上手にあれ、清水がこう湧水みたいに出とったやな。あの、鍾乳洞いうんか、陸やと。海岸にそんなやつがいっぱいあった。あら、太平洋に面した方はあるけど東シナ海に面した方はなかったわ。砂浜やけん。

Q:何人くらいでいたんですか?そこに。

7人やねーか。1人やったら絶望して必ず死ぬわな。自爆するわな。手りゅう弾もっとったもん。よーく死んでったもん。あのあれが、なんていうんだ、ひもじいもんやでな。「あーまた歌うとるわ」って朝な。「海ゆかば、水漬く屍(みづくかばね)っ」て歌ってな、バーンて。「また自爆した」って。よーく自爆してったな。

Q:それは別の洞窟で?

うん。ずーっと続いた。摩文仁までずーっと続いとったもん。摩文仁までそんなあらへんだろ。

Q:捕虜になって敗戦のことを聞いたときの心境は?

捕虜になったときか?変わったなぁと思うたがな。今までおった道路がバーっとついたもんでなー。あれ、こんに変わったかなと思った。(捕虜収容所があった)金武村(キンソン)かぁ?摩文仁(現糸満市南東部)から金武村まで、ジープに乗せられて行ったけどな。ものすごー道路が良―なってたもん。あれから。

んで、沖縄から帰ったときな、家へ連絡すっと自分は捕虜っちゅうことを言えんかったやろ。そんで、突然に帰ってったやろ。そしたらお袋が「お前誰や」って言うんですわ。もう死んどると思ってたんだな。「俺やないか」って言ったら「お前生きとったか」って言ってさ。そんとき親父が友達の家で麻雀しとったらしいわ。そいで呼びに言ったら親父がここまで来るのに下駄割らかしてしもた。人が言うけどな。それだけお大事にされとった言うとった。そりゃあ、後継ぎのうなんで張り合いはないわな、親父は。

出来事の背景

【中国華北 占領地の治安戦 ~独立混成第4旅団~】

出来事の背景 写真昭和12年(1937年)、日中戦争勃発。独立混成第四旅団は、開戦翌年の昭和13年に編成され、日本軍が占領した山西省に派遣され治安維持にあたった。

日本軍に対し、山西省では中国共産党の軍隊・八路軍が山などの地形を巧みに利用したゲリラ戦を展開。宣伝工作によって住民を次々と味方につけていた。日本軍が確保できたのは、資源を運ぶ鉄道と拠点となる町や村だけだった。限られた兵力で広大な地域を支配するため、日本軍は部隊を少人数に分散させ「分遣隊」として配置した。こうした分遣隊は、わずか十数人で8キロ四方を受け持つ場合もあった。

昭和15年8月、八路軍は大兵力を動員し日本軍に対し一斉攻撃を行い、複数の鉄道や拠点を同時に奇襲した。中国側が百団大戦(ひゃくだんたいせん)と呼ぶこの攻撃に対し、日本軍は大規模な八路軍掃討作戦を発動。独立混成第4旅団は「根拠地となる敵性部落の焼却や、敵性ありと認めた一部の住民の殺害もやむを得ない」とする命令を下した。八路軍兵士と住民が混在する戦場で日本軍の将兵は経験したことのない困難な戦いを強いられていく。また戦争が長期化する中で、一部の将兵の間で軍紀の乱れが目立つようになる。司令部は軍紀の徹底を再三にわたり指示したが、広大な地域に分散配置された部隊の末端にまで徹底することは困難だった。

昭和18年、独立混成第4旅団は一部の兵を除いて第62師団に編成替えをし、昭和19年の京漢作戦に参加した後、沖縄に向かう。昭和20年4月、沖縄本島に上陸した米軍と最前線で戦い、将兵の9割が命を落とした。

山西省に残った将兵の一部は中国の内戦に巻き込まれ、昭和20年8月の終戦後も八路軍と戦い続けた。昭和24年までに550名余が命を落とし、700人以上が捕虜となった。

証言者プロフィール

1922年
三重県四日市市に生まれる
1941年
石原産業で会計として働く
1942年
12月、中国山西省の独立混成第4旅団独立歩兵第13大隊へ
1944年
新編成の第62師団の移動にともない沖縄へ
1946年
2月まで洞窟等に潜伏
1947年
復員 乾物の製造販売業を営む

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中華民国(山西省)

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