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タイトルタイトル: 「死屍累々の中で戦い続ける」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン・レイテ島 誤報が生んだ決戦 ~陸軍第1師団~
名前名前: パーシー・ハイアットさん(アメリカ軍 戦地戦地: フィリピン(レイテ島)  収録年月日収録年月日: 2008年6月29日

チャプター

[1]1 チャプター1 ブレイクネック・リッジへ  07:33
[2]2 チャプター2 「死者たちの戦場」  08:21
[3]3 チャプター3 リモンの谷へ  08:07
[4]4 チャプター4 激戦  06:25
[5]5 チャプター5 上陸した日本軍の補充兵  02:42
[6]6 チャプター6 続く戦闘  04:27
[7]7 チャプター7 タクロバンへの後退  06:43
[8]8 チャプター8 帰還  09:36

チャプター

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン・レイテ島 誤報が生んだ決戦 ~陸軍第1師団~
収録年月日収録年月日: 2008年6月29日

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我々が聞かされていたのは、日本軍は第1海兵師団という情報でした。しかしそれは陸軍第1師団の間違いでした。それで、彼らは複数の防御線を谷間に敷いていました。谷を封鎖していたようでした。実際には、4重の防御線が張られていて、1つが破られても、次の防御線に退却するだけで、4つの防御線は本当に大変なものでした。こんなような状況に放り込まれたわけです。

ブレイクネック・リッジ(首折り尾根)と呼ばれたのは、勾配が非常に急だったからです。はってようやく登れるほどの尾根でした。それでようやく上に着いても、場所によっては人が1人が歩ける程度の道幅でした。尾根の高さは50~60フィート(15~20メートル)くらいでした。ですから50~60フィートをまっすぐ、ほぼまっすぐ登るわけです。当然日本兵は尾根の頂上や横の斜面にもいます。そんな中尾根に登るのは大変でした。それにいったん頂上に登っても、何回かはまた下りなければなりませんでした。制圧に必要な人数が足りなかったからです。

それから、ブレイクネックリッジでの将校が私にとって最後の将校となりました。私は尾根の片側の斜面にいたのですが、頂上の日本軍を挟んで反対側の斜面にいた仲間から「もう1人応援を送る」と連絡を受けました。「それではそいつを送ってくれ」と答えました。いつもそんなふうに、我々はこの尾根を越えて、行き来していました。当然、頂上は急いで突破しないといけません。モタモタと周りを見渡したりしていたら、撃たれてしまいます。そのとき送り込まれた少尉は訓練を終えたばかりでした。そのため動きが遅く撃たれたのです。それで彼が私にとって最後の将校だったわけです。彼を救うことはできませんでした。私のところに来たときにはもう死んでいたのです。尾根の斜面の勾配はとても急で、木とやぶで覆われていました。入っていくにも脱出するにも大変な場所でした。しかし、我々がいた期間は1週間にも満たなかったと思います。日本軍を撃退しながら、ハイウェイ2へと抜けて行ったのです。

Q:第24師団との交替で尾根を登ったのですね、彼らには会いましたか。

ええ会いました。登っていき尾根の上で会い、塹壕(ざんごう)で交代しました。つまり、彼らは塹壕から出て行き、我々がそこに入ったわけです。

Q:あなたが交替したとき、彼らはどのような様子でしたか。

第24師団ですか。相当参っていましたね。そこに3週間くらい、レイテ島に上陸してから3週間くらいたっていたということですが、3週間の間ほとんど休息もなく、昼夜戦っていたのです。過酷な状況でした。彼らの軍服は雨と泥にまみれて腐りかけていて、ひげもそらずに、やつれきっていました。交代を喜んでいましたよ。

しかし、交代した我々には難題が待っていました。日本軍は第24師団の軍服を大量に入手しており、利用していました。困難な状況でした。暗いとき、そして昼間であっても遠くからでは、誰が誰だか良く分かりませんでした。そのせいで、敵味方の区別がつかずに、味方を誤って攻撃してしまい、我々の兵士が殺されることもありました。本来なら余分な軍服を戦地に持っていきませんが、第24師団は持ち込んでいたのです。これは大問題でした。遠目では敵と味方の区別がつかないのです。日本軍も我々も同じ色の軍服を着ていましたから。遠目ではあまり違いがありません。ヘルメットは違いましたが、帽子は似ていました。ですから本当に苦労しました。

Q:やつれきった第24師団の兵士たちと交代したとき、その先の状況について、不安になりませんでしたか。

誰かがあなたのことを撃ち殺そうとしている状況では、それは不安はありましたよ。しかし我々は1942年以来ずっと、本当に長い間、戦闘を行っていました。我々の師団は第2次世界大戦全体で1万3000時間以上の戦闘を経験しました。レイテに来たときには、すでに1万時間を超えていたでしょう。 我々はいわゆるベテラン兵士集団でした。あなたが信じるかどうかは分かりませんが、我々にとって戦闘はもう日課になっていたのです。日々こなすべき仕事でした。

ええ。死体だらけでした。あちこちに多くの死体が散乱していて、長い間、激しい戦闘が行われていたことが分かりました。比較的新しい死体だったのです。

Q:どこでそれらの死体を見たんですか。それは交代に向かう途中の光景ですか。ほかにもどのような状況を目にしたのか教えていただけませんか。

視界は悪かったです。背の高い草が生えていましたし、大きい木はありませんでしたが、小さい木が多くて、やぶが茂っていたのです。だからあまり遠くまでは見えませんでしたし、尾根自体はあまり広くありませんでした。それに戦場全体の奥行きも長かったとしてもせいぜい1マイル(2キロ)くらいだったでしょう。それに主尾根があって、その脇には山脚がたくさん張り出していました。そういう場所でした。ですからあまり周囲は見渡せませんでした。日本兵は、山脚や、突起部分を利用して隠れていました。陰に隠れ、穴を掘りいつも必ずどこかに隠れていたのです。そこに彼らがいることは分かっていました。

我々は大砲を多く持っていましたが、味方の配置地点があまりに近すぎて使えませんでした。その中で迫撃砲は使うことができました。ライフル中隊は60ミリ迫撃砲を使い、我々は81ミリ迫撃砲を使いました。しかし、両軍兵士が混在していたので、あまり使えませんでした。歩兵対歩兵の戦いでした。

銃剣も使いましたが、あまり頻繁ではありませんでしたが。でも50フィート(15メートル)先もはっきりと見えません。やぶの茂みの背後の動きならある程度は見えましたが。それに水がありませんでした。日本兵にとっても、我々にとってもね。川は2キロ近く離れたところにあったと思います。もっと遠かったかもしれませんね。ブレイクネックリッジのふもとに1つ泉がありました。そこがちょっとした水場になっていて、おそらくこの部屋より少し大きいくらいの水場です。両軍ともその水場を使っていました。そのため、水筒に水を入れるのも命がけでした。そして実際に、そのひとつの水場をめぐって両軍の間で非常に激しい戦闘が行われたのです。最終的には、その戦闘が手に負えなくなり、死体がその周りに散乱するなかで、我々はその水場を使うことを諦めざるを得ませんでした。その後は我々は非常に悪い状況に陥りました。水を取りにいくために誰かを遠くまで送らなければなりませんでしたから。ご想像できると思いますが、戦場はそういう場所でした。

私は機関銃小隊の隊長を務めていました。我々がいた場所から見えたのは、6人か8人の米兵の死体や、20人ほどの日本兵の死体もありました。その狭い区域には多くの日本兵がおり、夜にはさらなる援軍が送り込まれていました。日本軍は補充していたわけですね。それで死体も増えていきました。

Q:死体は片づけられなかったのですか?

その通りです。負傷者や死体の扱いは戦闘中ずっと、大きな問題でした。傷ついた兵士や死亡した兵士にはどうすると思いますか。たとえ負傷者に手当をしたくても、必ずしもできません。死者はその場に横たえておくしかありませんでした。我々のやり方では、誰かが殺されると、ライフルを探し、着剣しました。その銃剣を死体の横の地面に突き立て、ヘルメットをその上にかぶせたのです。米軍は、我々全員がドッグタグと呼ばれる認識票を2枚身につけていました。死体から1枚を取り外し、もう1枚を死体に残しました。そうすれば、後から来る人たちにその死体を託せると思ったからです。我々は常に前進しなければなりませんでした。しかし、あまり速く進むことができず、1つの場所に数日間とどまることもありました。そうすると、死体は大問題でした。埋めることができないからです。埋めることはできないんですね。死体を埋めようと立って穴を掘り始めれば、そんなことをすれば自分が見つかって撃たれてしまうからです。ですから何もできません。死体をそこに放っておくしかないのです。戦地の気温は高く、とにかく暑かったです。3日か4日のうちに、死体は急速に腐敗してバラバラになり始めました。そして7日ぐらいたつと、何も残っていません。軍服だけがそこに残されているだけです。それでもすぐに慣れます。おそらく理解することは難しいでしょうが、死体の中で食べ、寝る。それが日常でした。そんなことをずっとやるわけですね。これは両軍ともずっと繰り返していたのです。もし人々がこれがどれだけひどいことかを実感できれば、戦争は二度と起こらないでしょう。

それで、我々はブレイクネックリッジから離れ、ハイウェイ2の右側へ移動させられました。ちょうど谷底あたりでした。ハイウェイ2は左手に位置しており、曲がって、リモンの方向に伸びていました。我々はハイウェイ2に移動し、そのまま下っていきました。道路を挟むように両側を歩いていきました。しばらく進んでハイウェイ2を越えるときでした。丘の斜面に沿って曲がった道を進んでいたのです。回り込んでいくと、そのとき初めて、日本軍の大砲を目にしました。それらの設置場所はおそらくそう遠くはなく、6マイル(10キロ)ほど離れたところでした。彼らは我々を目視して、我々に向けて直接砲撃を加えてきました。大体の方角ではなく、直接照準を定めて撃つのです。発射音が聞こえたときには、我々に向けた砲弾が既に着弾しています。ですので、道に沿ってカーブを曲がっていくことは困難でした。ちょうどカーブに狙いを定めていましたから。最終的には、砲兵隊から来た前進観測員を使い、日本軍に砲撃を加えました。反撃したのです。この丘の背後にあり、谷に位置している日本軍の砲撃の拠点を攻撃したのです。我々は、谷の逆側に足止めされていました。

ようやく、そこを抜け出し、先に進むと、今度は台風がやってきました。すごい雨で何も見ることができませんでした。5フィートや6フィート(1~2メートル)先ですら何も見えませんでした。それで、何も見えないので、そこに立ち止まる以外は何もできませんでした。その嵐が過ぎ去るのをただ待つしかありません。坂道を流れる水かさは高さがこれくらいまでありました。雨のせいで息が全くできないほどでした。風も強く、暴風でした。私は背のうをおろして、横に置き、雨がやむのを待ちました。再び背負いなおそうと腕を肩ベルトに通したとき、腕時計のバンドが壊れて地面におちたのです。腕時計が川のように流れる水の中に落ちてしまいました。探すのは無駄でした。それから20フィートか25フィート(6~8メートル)進んだところで、道端に日本兵が腕を上げた姿勢で倒れていました。硬直した腕には腕時計が見えたので、それを取りにいきました。それはグリュエン ベリ・シン(Gruen Veri-thin)という米国製の時計で、後ろにはV.P.というイニシャルがありました。彼はそれをどこかで手に入れたのでしょうね。日本人の名前でV.P.というイニシャルはないでしょうから。とにかく私は腕時計を手に入れました。それからさらに下って行くと、谷底には川が流れており、鉄製の橋が架かっていました。そこを渡って行こうとしたわけですが、渡っては、追い返されるということを数回繰り返しました。リモンの町からはそれほど遠くない場所でした。最終的には川から引き返し、後退して待機しました。

川の流れはとても速く、大量の水が流れていました。歩いて川を渡ることはできず、渡る手段はこの鉄橋しかありませんでした。ですから、日本軍は橋に火力を集中させていました。 我々は日本軍に向けて迫撃砲を撃ち込みました。彼らの橋に対する攻撃を抑えることが目的でした。違う言い方をすれば、我々が川を渡るために、彼らの動きを封じて、その間に橋を渡ろうとしたのです。敵の砲撃も抑えます。我々の部隊には第24師団の砲兵隊が同行していました。ですから第24師団と第32師団の火器があり、ほかにも大口径の砲がありました。155ミリりゅう弾砲や8インチりゅう弾砲です。ですから、我々は通常の2倍ほどの砲火器を持っていて、実際にそれを使ったのです。2回目に橋を渡れなかったときです。少し後退した場所で、我々の周りにいた前進観測員たちに、砲撃を要請させました。展開された砲の数は単に多いというものではなく、膨大な数でした。

そのときに初めて8インチ砲を見ました。近接信管付きの砲弾を使っていました。地面に着弾することなく、一定の高度で炸裂するようになっていました。敵兵の頭上で爆発して大量の破片をばらまくわけです。これは強力です。この攻撃が功を奏し日本軍の砲撃が減少しました。そして少しだけですが、先へ進むことができたわけです。道沿いには日本軍の様々なトーチカやたこつぼや塹壕がありました。中が空だったら、我々が使うことができました。周りにはほとんど何もないので、それで身を隠す場所が必要でした。そこは木もないただの農地が多かったのです。我々は3年間、ジャングルで戦っており、見通しの良い場所で戦うのは不慣れでした。多少奇妙な感じがしました。木の陰に隠れて戦うのに慣れていましたが、そこには木はなく大変苦労しました。

日本軍の砲撃を抑えた後は、より多くの兵士が橋を渡ることができました。そして、橋を越えて展開していきました。進んでいき、リモンの町に入りました。おそらく1マイル(1~2キロ)ほど右側に抜け出ると、もう少し距離があったかもしれませんが、そこにはマホガニーの森がありました。日本人かフィリピン人の仕業か分かりませんが、その森は破壊されていました。時間がたっていたので、フィリピン人でしょうか。木の皮も葉も落とされた、裸の大木が残されているだけでした。そして、その森には日本兵が木の根元に穴を掘って隠れていました。それにたくさんの木の枝が落ちていました。これは我々にはやっかいでした。地面に落ちているものは遮蔽物になり、敵が身を隠せたからです。下に隠れたり、後ろに隠れたりするのに好都合だったのです。

森を通り抜けようとしましたが、うまくいかず、後退しなければなりませんでした。砲兵隊に連絡しました。彼らは24時間連続で砲撃を加えました。木が1本も無くなってしまって、森が平野になりました。残ったのは、木や砲弾の破片だけでした。砲撃の後我々が辺りを見に行くと、生きていた日本兵もいました。何人かは、とても悲惨な状態で、腕や足が吹き飛んでいました。さらに彼らの多くは、目が飛び出していて、顔からぶら下がっている状態でした。耳からは出血していました。砲撃によるすさまじい爆風が24時間続いたからです。あの戦闘は悲惨でした。残酷です。

そして、我々はそこからリモンの裏側の丘の斜面に移動しました。丘の斜面では、我々の左側を進んでいた第1騎兵師団が追いつくのを待っていました。彼らは茂みの深いジャングルを通り抜けていたので、我々より時間がかかっていました。彼らを待ってまとまれば行軍の幅が乱れずにまっすぐ進むことができます。リモンのそばの丘に登り、そこで第1騎兵師団が追いつくのを数日間待ちました。その間はほとんど何もおきませんでしたね。散発的な戦闘はありましたが、我々は待機の陣形を保っていたわけです。移動するような事態はなく、辺りを偵察に回るくらいでした。

丘の上に待機していたのですが、雨が常に降っていましたし、泥まみれでした。丘の頂上でも、泥がありました。粘土のような泥でした。私はこの丘の上にいる間は、ずっとポンチョを使っていました。たこつぼの上にポンチョを張り、雨よけにしていました。その間、大砲はピナモポアンの海岸近くに、拠点から拠点を一直線に結ぶかたちで並んでいました。何百もの砲が並べられました。それで、丘の上を越えるように砲撃を加えていました。その砲撃の爆風でポンチョが舞い上がりました。砲撃のたびにです。頭の真上を砲弾が飛んで行くのですよ。この状況は恐ろしかったですね。砲撃手がひとつまちがえれば、我々のいるところに着弾したかも知れないのです。遠くオルモックに向けて砲撃をしていて、私がいるところを際どく外していたわけですから。後で聞いたところによると、8インチ砲は2万ヤード先に砲撃していた、つまり10マイル(15~20キロ)ほどですよね。かなりの遠距離攻撃だったわけです。さらには、観測機を出撃させ、観測機の指示を受けながら砲撃を行っていたようでした。

大量の犠牲者が出ていました。日本軍は補充兵を次々と投入しました。少なくとも、補充を試みていました。高い丘の上からは、我々は西の方向を見渡すことができました。特に夜間には、展開している様子が頻繁に見られましたね。遠くの海上で砲火が交えているのも見えました。またそれぞれ異なった軍服や軍服に付けられた記章も目にしました。我々は第1師団の記章を覚えていました。しかしそれ以外の記章が多いことに気づき、彼らが補充兵を次々と送り込んできていることが分かったわけです。それに軍服も第1師団よりはきれいでしたから。

Q:そこで遭遇した日本兵はどのような状態だったのですか、敗残の、寄せ集めといった感じでしたか。

いいえ、そんなことはありません。彼らはニューギニアのジャングルで戦っていたようではありませんでした。日本軍はいい状態で補給を受けていました。オルモックに抜ける補給線を維持しており、オルモックから我々がいた場所までの道も彼らが掌握していました。米軍のようにハイウェイ2でのトラックによる大規模な補給も、戦車の行列もありませんでした。戦車はあることにはありましたが、我々が持っていたような重戦車ではありませんでした。雨が常に降っており、米軍は2フィートもの深さがあるような泥の道を重戦車で進むのに苦労していました。日本兵はそれなりに良い食糧も補給されていたと思います。彼らの飯ごうや、携帯調理用具には米がいつも入っていましたから。

12月になってからのことです。我々はリモンの先にいたわけですが、米軍がレイテ島は制圧されたと宣言しましたが、実際は制圧などされていませんでした。対外向けの報道はいつも現地の実際の状況よりかなり先走ったものでした。リモン以降も、ひどい戦闘がたくさん行われました。実のところ、最悪の戦闘はリモンの先でした。丘の斜面を進んでいくと、その先にはさらに高い山がありました。その先にあるオルモック谷の手前の山腹が、勢力区分の境界線になっていました。日本軍は山の斜面を登る途中でとても効率的な、防御体制をとっていました。

道の両側には巧妙にできたトーチカがありました。道の高いほうの壁側に設置されていたのです。それらのトーチカは大きなものでした。丘の斜面を掘り、90度曲がり、また90度曲がるという具合です。そのトーチカが比較的大きなもので、10人ほどの分隊が入ることができます。破壊するのは大変で、たとえ手りゅう弾を投げ込んでも、爆風を与えるだけで、手りゅう弾の破片は奥までは届きませんでした。

Q:戦い、前進し、奪還するというような困難の繰り返しですよね、軍の上層部たちが自分たちに何をやらせようとしているのだろうと疑問に思うことはありませんでしたか。

我々には軍の意図は分かりませんでした。確かにそれが分かっていたら・・・。我々の部隊には、中隊指揮官の大尉のほかに中尉がいましたが、彼らの多くはあまり現場には近寄りませんでした。我々にとっては新参者も多かったですね。部隊に新しく入ってくる人たちが多かったのです。彼らは、有能な士官は何もせず、黙って軍曹に任せていましたね。でも、ときには、士官ぶって、たくさんの命令を細かく出すんですね。そんなときには、命令を無視し、自分が正しいと思うことをしました。彼らは誤った命令も下しましたからね。

でも作戦の全体像については、そもそも我々は分かりませんでした。先がどうなるかも疑問にも思いませんでした。我々がやったことと言えば、彼らに武器や食糧の不足に文句を言うぐらいでしたね。そういうことは時々起きましたが、あまり長い間続いたわけではありませんでした。

オルモックへと続く尾根の頂上に登りました。そして、西の方向に90度体を向けました。オルモックの南側を目指すためです。西に90度の方向に歩き、海の方向に向かいました。我々の隊は一列の隊列に並んで進みました。第127連隊が横に数マイル(数キロ)離れたところを進んでいました。そのころには、日本軍の組織的な抵抗はありませんでした。しかし3、4人ずつでまとまった日本兵のグループがいくつもありました。数十のグループが、そこいらじゅうにいましたね。それで我々は、彼らが再結集し、大きな集団を作ることを防ごうとしていました。 日本兵は海の方向に向かっていたので、我々も後をついていき、その後うまく対処するつもりでした。

そしてハイウェイ2の西側についたのです。確か2日間ほどその場所にいたわけですが、1945年(1944年)のクリスマスはそこで過ごしました。その朝、電話で呼び出しがあって、クリスマスだと知りました。帰還を命ずる電話でした。装備を砲撃手に預けるように言われ、タクロバンにいる師団に合流するように命令も受けました。我々にはトラックのような移動手段がありませんでした。私と同じく帰還するもう1人と歩き出しました。我々はハイウェイ2からは遠く離れており、そこいら中に小グループに分かれた日本兵がいました。その中で我々はたった2人で、たくさんの兵士が往来するハイウェイ2まで歩いて戻らなければなりませんでした。実際に日本兵を見かけることもありましたが、我々は何もしませんでした。我々2人で、小さな谷を抜けて、ハイウェイ2に戻りました。

私が隊を離れ、ハイウェイ2に戻ると、そこに1台トラックが来ました。我々はトラックに飛び乗り、リモンまで連れていってもらいました。リモンより先には行けませんでした。日本軍がリモンを再占拠していましたから。兵士がたくさんいたわけではありませんが、激しい戦闘でした。我々はトラックを離れてう回し、ピナモポアンに向かいました。ピナモポアンの近く、町のはずれに到着しました。米軍の病院があり、日本軍はその周辺でも戦っていました。それが現状だったわけです。

レイテはこのころ、まさに乱世のような状況でした。本当にめちゃくちゃで、というのも日本兵のグループがいたるところに散らばっていて、把握できないのです。彼らは、後ろにも、前にも、横にもいて、そのへんから突然姿を現すわけですから。彼らは再結集しようとしているのか、それとも島から離れようとしているのか、私にはどちらかは分かりませんでした。隊を離れたとき、戦闘地域を離れてタクロバンに戻る途中で戦闘に2度出くわしました。

Q:でも戦闘には参加しなかったんですよね?

もちろんです。誰かに任せて、俺はうちに帰るんだ!と思っていました。分かるでしょう。

Q:すでに12月だった・・・

はい。25日、クリスマスでした。タクロバンの辺りについて、そこの師団に合流するまで、クリスマスとは知りませんでした。フィリピン人たちがいて、みんな「メリークリスマス」と言っていました。それで初めて、私はクリスマスだということに気づいたのです。

Q:フィリピン人はよく見かけましたか。

はい。彼らはいつも身近にいました。米軍は彼らを武器や食糧を運んでくれる労働者として使っていました。

Q:はい。

女性もです。米軍の飛行機はよく上空から補給物資を落とします。パラシュートは色で識別できました。例えば、武器だったら、特定の色、赤というようにです。医療品だったら、緑。食糧だったら、オレンジでした。絹のきれいなパラシュートでフィリピン人女性はみな身にまとっていました。彼女たちはみなきれいな色のドレスを着ていたわけです。フィリピン人はよく見ました。

レイテから帰還の途につきました。まずタクロバンに戻り、そこから輸送船に乗りました。オランダ領ニューギニアのホーランディアに向かいました。空の輸送船に300人ほど積み込まれました。空っぽの輸送船からなる大規模な船団に加わりました。そしてニューギニアで補給物資を船に積んでいくのです。タクロバンの港から出ようとしていました。夕方で暗くなりかけていました。我々の船に浮材が横についたカヌーが1隻近づいてきました。フィリピン人ではありません。彼らは暗い時間に動きまわりません。危険だからです。だから、それがフィリピン人だとは思いませんでした。この浮材つきカヌーに乗っている2人は日本人だと確信しました。船には武装した護衛兵が乗っていました。対空砲と5インチの対艦砲を艦首、艦橋、艦尾に備えていました。我々は「撃て。あれは敵だ。やっつけてしまえ」と言ったのですが、護衛兵は撃ちませんでした。彼らは貨物船で往復しているだけで戦闘を見たことがなかったのです。我々のように勘が働かなかったのです。だから彼らは撃ちませんでした。

翌日は何の問題もなく船は進みました。しかし翌々日、日本軍が我々を爆撃してきました。私が乗っていた船のみを標的にしていました。周りには、大型船がたくさんいて、我々の真横には大きな兵員輸送船がありました。客船を兵員輸送船に改造したものでしたが、誰も乗っていませんでした。私の知る限り、我々の船だけに兵士が乗っていたようです。それで、その日は2回爆撃を受けました。最後に攻撃を受けたとき、私は前甲板の船首部分にいました。爆弾が自分に直撃するかと思いました。落ちてくるのが見えましたから。船首をわずかに外しましたが、近くに落ちました。私から6フィート(2メートル)ほど離れた海面に落ちたのです。水中で爆発して、船首が浮き上がり、水が頭上から降ってきました。

日本軍はミンダナオではまだ活発でした。日本軍機が頭上をたくさん飛んでいました。そのひとつがカミカゼで、船の艦橋の下に突っ込んだのです。爆弾は明らかに2発でした。1つが甲板部分に当たり、もう1つが船底で爆発したからです。2回の爆発があったんです。初めの爆発のとき、私は手すりにつかまっており、手には救命具を持っていましたが、吹き飛ばされました。水の上20フィート(6メートル)ほど上空まで体が浮き、そのあと水面に打ちつけられました。まるでセメントに背中を打ちつけたようでした。それから2発目の爆発音を聞いたのです。だから、2つの爆弾があったにちがいありません。船は2つに割れ、沈んでいきました。逃れられた人は多くありません。初めに逃れたのは吹き飛ばされた私です。私は水中に置いていかれて、船団は先にどんどん進んでいきました。ミンダナオまで泳ぐのは遠いと思いました。ミンダナオまでは数百マイルもあったでしょう。海上にいたのはおそらく長くても1時間くらいでしょう。わかりません。護衛の駆逐艦が戻ってきて、私を助けてくれました。

それで、レイテに残るべきだったかと思いました。おそらく、帰還するよりも安全だったかもしれない、と。私の戦争はこうして終わりました。レイテ沖の水の中ということです。それでもその後、戦争は続きました。レイテでの戦闘は終結したとマッカーサーは宣言しましたが、私にとっても、ほかの多くの人々にとっても、レイテでの戦いはまだ終わってはいなかったのです。

Q:戦争体験をよく思い出したり、その後のご自身に影響を及ぼしましたか。

もちろんです。今でも思い出します。あの体験を考えない日はありませんよ。私は精神的に影響を受けたとは思いません。そうだった人もいるようですが。でも影響を受けたのかな。それは妻と子どもに聞いたほうがいいかもしれませんね。どうでしょう・・よく分かりません。つらいことだったせいか、ある記憶が・・帰還途中の船の上で、何日間か記憶がないのです。全く消えてしまった。頭が記憶を消そうとしているのだと思います。私が戦場で見たものややってきたことをね。でも大丈夫です。数日間の記憶がないだけです。数日間分だけです。船の上では何かで自分を忙しくしていました。読書でも、ギャンブルでも、戦争を思い出さないためにです。船の上では変わったことが起きました。多くの戦闘部隊が乗っていたのですが、中には精神を病んだ人もいましたね。気をつける必要がありました。

Q:戦争を思い出すとき、どのようなことが心に浮かぶのですか。

死体です。たくさんの死体がありました。私が戦闘に関わった3年間の中で、捕虜は2人しか取れませんでした。その2人以外はみな死んでしまいました。さっきお話したように、我々はそういうところにいました。死体に囲まれた中で食事をしていたのです。日本兵たちも同じことをしていました。トーチカや塹壕の中で、死んだ仲間と過ごしていたわけです。それでも前に進むために、やるべきことをやってきたのです。

出来事の背景出来事の背景

【フィリピン・レイテ島 誤報が生んだ決戦 ~陸軍第1師団~】

出来事の背景 写真昭和19年10月中旬、マッカーサー率いる20万の大軍がフィリピンに接近、上陸地点はレイテ島が選ばれた。レイテ島は、日本軍にとっても5つの飛行場がある重要な軍事拠点であった。
10月、太平洋戦争中最大の誤報がレイテ決戦の決行につながった。米軍機動部隊はフィリピン侵攻の前哨戦として台湾を空襲。迎え撃つ日本軍との間で激しい航空戦を展開した。ほとんど戦果はなかったにもかかわらず、海軍が報告した米機動部隊撃滅の大戦果を大本営は鵜呑みにし、昭和19年10月20日、レイテ島で一勝をあげることで和平につなごうとしたのだ。

昭和19年11月、1週間で勝てると言われた第1師団がレイテ島に上陸した時点で、既に制空権は米軍の手に握られ、米軍機が次々と襲いかかってきた。また、米軍の上陸直後から猛烈な砲撃を受けた。短期間の戦いを予想して十分な物資を持たなかった兵士たちは、すぐに食料・弾薬が尽きてしまった。
さらに兵士たちに過酷な命令が下された。限られた武器を手に敵陣に突っ込む「斬り込み攻撃」である。次々に兵士たちの命は失われていった。

食料や弾薬を運ぶはずの日本の輸送船は攻撃され次々と撃沈され、レイテ島の日本軍は孤立。生き残った兵士たちは食糧を求めて、密林をさまよった。

第1師団上陸から50日あまりたった12月21日、大本営はついに、レイテ島の放棄を決断、兵士たちに転進命令が下る。米軍が上陸していないセブ島で再起を図れというものだった。しかし、セブ島に行くために用意されたのは、わずか4隻の小型艇。第1師団1万3000人のうち集結地点にたどり着いた兵士は2600人。船に乗れなかった2000人はレイテ島に置き去りにされ、米軍とフィリピン人ゲリラの掃討にあい、全滅していった。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1942年
1月、陸軍入隊
1944年
フィリピン・レイテ島へ
1945年
米国・ワイオミング州で終戦を迎える
 
戦後は陸軍に20年務める

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フィリピン(レイテ島)

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