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タイトルタイトル: 「毎夜の斬り込み攻撃の恐怖」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン・レイテ島 誤報が生んだ決戦 ~陸軍第1師団~
名前名前: ジャック・マクグラスさん(アメリカ軍 戦地戦地: フィリピン(レイテ島)  収録年月日収録年月日: 2008年6月27日

チャプター

[1]1 チャプター1 レイテ島へ  04:06
[2]2 チャプター2 空からの補給  04:23
[3]3 チャプター3 「千人針」を身につけた日本兵  03:37
[4]4 チャプター4 ある日本兵との交流  04:45
[5]5 チャプター5 孤立した部隊  03:19
[6]6 チャプター6 レイテ戦の終結  02:55

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン・レイテ島 誤報が生んだ決戦 ~陸軍第1師団~
収録年月日収録年月日: 2008年6月27日

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僕は一兵卒でした。すでに上陸作戦が始まった後で、レイテに行きました。もともと私たちはレイテで戦う予定ではありませんでした。日本軍が上陸して、6万5千人の援軍だったと思いますが、彼らは大勢送り込んできました。その時点で私たちは山に上って、補給輸送用の山道を中断させるという任務が与えられ、私たちはそれにほぼ成功したのです。

それは道でした。丸太道がどのようなものかご存じですか?

Q:はい。

木を切って、それを横置きにするのです。それが丸太道です、非常にデコボコしました。

その道は多分、ここから壁までくらいの幅だったでしょう。そして彼らは機械を使いませんでした。すべて手作業でくり抜かれていたのです。日本軍はそれを大量に作りました。幸運なことに、僕が知る限り、日本軍はレイテでは迫撃砲は持っていましたが大砲を持っていませんでした。その大半は質の良いものでしたが、どういうわけか迫撃砲は水、湿気があるとうまくいかなかったようでした。たくさんの不発弾が飛んできました。彼らが撃つときは必ず聞こえたものです。「ウーン、ウーン、ウーン」と。そうすると、何発か数えることもできました。3回音がすれば、3発が飛んでくるのです。発射ボタンを押して爆発しないだけよかったでしょう。

日本軍は補給品輸送用の道を必要としていました。

Q:しかしその補給品輸送用の道はどこへ繋がっていたのでしょう?

それはオルモックから、ブラウエンに向けてでしょう。

島を横切るようにブラウエンは比較的大きな町で3,000人ほどが住んでいました。比較的大きな町でした。

補給路が必要な理由が後で分かりました。当時、米軍の第77師団がオルモックを奪いました。日本軍はそうされないように必死に戦っていたのだと思います、諦めずに。

日本軍の通信線は太かったです。僕の指ほどではありませんでしたが、その半分くらいでしょうか。比較するととても太かったです。私たちの陣地内を通る線から日系2世の兵士がそれを盗聴しました。それによると日本軍は我々を米軍だとは思っていませんでした。現地のゲリラ兵だと思い込んでいたのです。

Q:米軍は丸太道を使って頂上まで行ったのですか?

いいえ。頂上ではなくその途中の位置で妨害しました。

Q:では山のどの辺りまで行けたのですか? 行き詰まってしまうまでにどの程度まで進めたのですか?

20キロぐらいです。ほとんどずっと登りの山道でした。山を登って行くと熱帯雨林が広がっていました。我々はいつも雨に濡れ、いつもおびえるようになりました。いつも空腹で、いつも疲れていました。雨のせいで軍服はすべて、そして靴もひどく傷んでいました。

山中では補給品を入手することができませんでした。C-47(米軍輸送機)が常に上空を旋回していて、そのうちの1機が私たちのすぐ脇で墜落したことがありました。実際に私たちは彼らを助けに行ったのですが、山に突っ込んだため、操縦士も副操縦士も死んでいました。しかし搭乗員の1人は無傷でドアの所に立っていました。とても不思議なことでした。彼はまったくケガをしていませんでした。クラッシュのために彼は飛行機から外へ出ました。なぜなら墜落のため、ドアは地面とほぼ同じ高さにあって、すぐに地面に下りることが出来たからです。辺りに広がったガソリンに引火するのを警戒しました。そこに日本兵でもいれば、ライフル数発で私たち全員を丸焦げにできたことでしょう。

輸送機からは我々の姿が見えなかったのです。弾薬や食糧をパラシュートを使って落とそうとしましたが、風の向きのせいで、その大半が日本軍の方に行ってしまいました。私たちは入手することが出来ませんでした。

米軍にはビスケットボンバー(C47輸送機)もあれば、小さな飛行機もありました。ご存じですか?

Q:セスナのような?

あれはセスナより小型です。民間機は黄色でしたが、私たちのは茶色でした。2人乗りで、1人が前で1人が後ろでした。後部座席の人が手りゅう弾を数箱持っていて、上から投下しました。それにはパラシュートが装備されていませんでした、そして私たちは飛行機音を聞くと、全員木の後ろに隠れました。これが木だとしたら、全員木の後ろに並んだのです。落下物に当たらないように。

45口径の銃弾が詰まった袋も投下されます。それは大きくて丸い玉みたいで、90ポンド(約41キロ)もありました。そんなのに当たったら死んでしまいます。しかし誰もそれには当たりませんでした。それらは泥に沈み込んでしまうので、泥から掘り起こさなくてはなりませんでした。弾一つ一つに泥が付きました。

Q:そのようにして補給品を得ていたのですか?

はい。でも全然足りませんでした。C-47はあらゆる補給品を持っていたのですが、私たちのことを見つけることができませんでした。

Q:なぜですか?

霧や雨です。熱帯雨林だったので、熱帯雨林というのはその名の通り、常に雨が降っていました。たまに日が射すのですが、それは珍しいことでした。しかしせいぜい20分くらいのことでした。そこでは生えている植物も違い、生息する動物も違いました。

Q:そのためにいろいろ見てきたのですね? あなたが衛生兵であったのであれば、あなたたちの方が他の兵士より状態が良かったのでしょうか? どれ程つらかったですか? あなた方は薬を受け取っていましたか?

いや、登ったときに持って行ったものだけでした。そしてたまに物資が投下され、例えばあの血漿(血しょう)のボトルを受け取ったときのような物が投下されていました。

Q:補給品がなかったために負傷者を助けることができなかったこともありましたか?

もちろんです。このような状況では、常に治る可能性のある負傷者と、治る可能性のない負傷者が存在します。だから、1人分の薬しかなければ、後者には与えませんでした。なぜならその人は、いずれにせよ死んでしまうからです。医者はそれを分かっていました。「この人は治るから、この人に与えよう」と。そういうことが頻繁に行われ、死ぬ人は死んでいきました。それは、どの軍でも同じことだと思います。そういうものです。

彼らは毎晩私たちに斬り込み攻撃を仕掛けてきました。

Q:毎晩ですか?

はい、日本兵はそれがうまくいくと思っていたようですが、最初の数回は、僕らにとっては心底おびえるようなことでした。どんなことでも慣れるものなのですが。そして彼らがやってきて、私たちはマシンガンを撃ちました。そうするとジャングル全体が明るくなりました。昼間のようでした。すべてが見えました。大勢で撃って、とても明るくなりました。彼らは突撃に来ても、毎回負けていました。なぜなら私たちは全員、穴に入っていたからです。時折、剣を持った将校が同行していました。彼はあの、いまいましい剣を持ってやって来ました。僕の友人が膝の所を剣で切られました。でも彼らは剣では何も出来ませんでした。彼らにとっては名誉あることだったのかもしれません。議論の余地はありません。彼らは本当に勇敢でした。そしていかなる日本兵も、海軍陸戦隊でも航空機整備兵と戦うのでも違いはありませんでした。

それが何であれ、彼らは皆一貫していました。彼らは全員ものすごく勇敢でした。でも彼らはあまりに死にたがっていました。僕らを先に殺すことができたのに、多くの場合、先に自決することもありました。自分を殺すことの方が先決だったのです。それはひどいことだと思います。

Q:彼らがあなた方を殺すことができたというのはどういう意味ですか?

彼らは手りゅう弾を取って、ヘルメットにたたきつけて、それを自らの喉元に当てました。彼らは当然死ぬわけです。なぜそれらを僕らに投げつけなかったのでしょう。多分、彼らは手りゅう弾を4個か5個持っていたのに。彼はライフル銃を持っていました。なぜ彼は私たちを撃たなかったのでしょう。その代わりに彼は自決してしまうのです。それは悪いしきたりです。彼はどうせ死ぬのなら、なぜ米兵を道連れにしなかったのでしょう。

日本兵(の動き)は統制されておらず、一挙に迫ってくるということがありませんでした。この兵士が攻撃して、その4時間後に別な兵士が来て、といった感じでした。彼らが攻撃を統制していたら、僕らは多分圧倒されていたと思います。なぜなら私たちより彼らの方が人数が多く、充分な弾薬を持っていたのですが、私たちは持っていなかったからです。

日本兵の多くが高齢でした。私たちのように若造ではありませんでした。そして決して今まで答えが得られなかったことがあります。時折、彼らは僕らに突撃して来たときに彼らは(服などが)乾いていました。どこに隠れていたのかは分かりませんが、彼らは濡れていなかったのです。それから「千人針」をベルトとして巻いているのを知っていますか?

Q:はい

彼らはそれを軍服の下にベルトのように巻いているのです。

これくらいの厚みがありました。

大体、虎の模様(「虎は千里を行き、千里を帰る」の言い伝えから「無事の帰還」を象徴した)が付いていました。こことここに、虎が付いていました。それと、日本の、日の丸です。出征する息子のために、母親が町中で人々に結び目を作ってくれるようお願いするのです。結び目が1000になった時点で完成し、兵士はそれを着けるのでした。レイテにいた日本軍兵士の多くはそれを着けていました。

(日本兵の中で)投降した者はいませんでした。私たちのところにいた「老人」も本当に降伏したのではありませんでした。彼は撃たれて、かなり重傷を負っていて、彼を私たちのところに引きずり入れて手当をし、彼のことを普通に扱った時点で、彼は私たちの連隊に編入できると考えました。私たちは彼にヘルメットとジャケットを与えました。日本軍のヘルメットをかぶって歩き回っていたら撃たれるかもしれないと思ったのです。だから米軍のヘルメットと米軍のジャケットを与えました。そして数日後には、私たちはもう彼のことを監視すらしなくなりました。彼は自由に歩き回ることができたし、そうしていました。私たちが食べ物をもらうときには彼ももらいました。私たちが食べるものは彼も何でも食べました。なぜなら私たちは彼のことが好きになったからでした。実際に私たちは彼のことがとても好きで、彼も本当に私たちのことが好きでした。

彼は斬り込み隊の1人だったのです。航空整備兵、正式にはどういう名称かは分かりませんが、彼らは連隊ではないと思います。部隊か・・彼らが私たちを攻撃し、彼はその中の1人でした。

彼は4か所に負傷していて、かなりひどい状態でした。私たちは彼を手当し、数日間寝かせておきました。すると彼が手伝い始めたのです。墓を掘ったり、やれることだったら何でもやりました。彼は私たちの部隊の一部になりたかったのでしょう。そして僕もそうしてほしかったのです。なぜなら彼は良い人だったからです。彼は良い人でした。

同時に、私たちは日本軍の大尉を捕らえました。彼が2世に言ったところによれば、彼は可能であれば部隊に戻り、戻って私たち全員を殺したいと語ったそうです。それはそうでしょう。なぜならそれは彼の使命であるからです。しかし、我々は我慢ならず、彼は夜のうちに殺されました。私たちは捕虜としませんでした。確かに「老人」は捕虜にしたのですが、それは彼が重傷を負っていたからでした。

Q:皆さんは彼のことをどう呼んでいたのですか?

彼のことは「イチ」と呼んでいたような気がします。正確には覚えていません。それが日本語っぽいと思ったのです。「イチ」というのはナンバーワンのことですか?

Q:はい。

うる覚えです。僕が彼を捕らえたのではないですし。彼には夜寝る場所がありました。最初のうちは彼の指にヒモを付けておき、彼がトイレに行くときには分かるようにしました。当番兵が彼を守れるようにしたのです。そういうことをしていたのは知っていますが、彼がいた場所に僕はいなかったので私の担当外でした。あるとき、彼にたばこをあげたことがあります。「Kレーション」は知っていますか?

Q:はい。

「Kレーション」は素晴らしいパッケージです。肉の缶詰、クラッカー、ドライコーヒーのパック、レモネード、トイレットペーパー、そしてたばこ4本が詰め合わせになっています。私はたばこを吸わないので私のたばこを彼にあげました。彼は米国のたばこが大好きでした。

Q:彼はあなた方の部隊と一緒に下山したのですか?

私たちが出て行ったときには彼も一緒に来たのだと思うが、よく分かりません。多分山には残らなかったと思います。私たちは彼をそこに居残らせなかったと思います。一緒に来るように言ったと思います。彼は人を運ぶのを手伝うことは出来ませんでした。彼はそこまで体調が回復していなかったからです。彼は一生懸命やってくれましたが、傷によって動きが制限されていたのです。我々は、彼の傷の手当ても毎日していました。こんなことがありました。軍医のネスター大尉が泥の中に膝をついて、この写真の中のひとりが撃たれた時に、手術をしました。ものすごい大雨の中、仲間のうち4名が彼の上にポンチョを広げて立っていました。そのような状況で、大尉が彼を切開したのです。大尉は内臓を縫い合わせました。だぶん、15発分くらいの穴が開いていて、内臓を貫通していました。そして彼は硫黄の粉末をかけて縫い合わせていきました。彼は生き延びました。全員がそのような状態でした。血しょうも投下されました。粉状の血液で蒸留水と混ぜるのです。血液ではなく、血しょうです。

Q:山で過ごしたのはどれくらいの期間でしたか?

1か月です。

Q:そしてその場所に着いた後、あなた方は包囲されたのですか?

はい。

Q:それはどのように起こりましたか?

日本が占領していた場所だったのです。彼らの支配下で、僕らがその真ん中にいたということでした。

Q:最初はどうやってそこに行ったのですか?言い換えれば、どうやってそこまで辿り着いたのですか? その後、孤立したわけですよね?

どうやって説明したらいいかよく分からないですが、私たちはその補給物資輸送用の道を探していました。それを発見した時点で、そこを拠点にすることにしました。その補給物資輸送用の道で、それが私たちの任務でした。彼らのお互いの通信を遮断させることです。そしてそれに成功しました。

Q:しかしその結果、あなた方はそこから動くことができなかったということですか?

そうです。一方、日本軍の部隊の一部には食糧がきちんと届いていている人と飢えている人もいました。それも分からなかったことの一つです。彼らのうちの大勢は、靴下の中に米を入れて持っていました。それを彼らのリュックに入れていました。それが入手できたときに、私たちはとてもうれしかったです。何故ならそれは食糧だったからです。彼らはそれを持参していました。どのようなレーションかは知りませんが・・・KレーションやCレーションは持っていなかったので、どのような状況だったかは分かりません。

彼らは、僕ら同様、食べ物を探していました。そして軍服の状態が悪くなっていくのが見てとれました。彼らの軍服も、私たちと同様、擦り切れたり、破れたりしていました。そしてそれは腐っていきました。私たちのものと同じように、雨のせいで。そして彼らの靴は、彼らのベルト、銃を下げるためのヒモ、背嚢(背のう)のヒモなど、全て日本製の、何というか、キャンバス生地とゴムで出来ていました。

彼らは飢えていたようでした。最後の方で彼らは変わったように見えました。彼らはモチベーションがもうないように見えました。とても疲れていたのだと思います。彼らにとっても大変だったのです。

何と言葉にしたらよいか分からりません。朝、死体の列の所に行くと、ぼろ布の束にしか見えません。飢えていたかどうかも知りません。何となく飢えていた兵士もいたという気がするだけです。

Q:すると、彼らが骨と皮だけという印象ではなかったのですね?

それはありません。いつも、それ以上でした。そして彼らは勇敢でした、常に勇敢でした。

町の中心部ではないのですがオルモックの外れに着きました。大きな町だったと思います。そこには、赤十字のトラックがいました。ドーナツとコーヒーを配っていました。

Q:山から下りてきたわけですよね?

そうです。山を下りてきて困ることと言えば、足の具合が悪かったことです。下山する際には足の上の皮が擦り切れました。血だらけでした。もう歩けないくらいでした。全員がそういう状態でした。だから約1か月ぶらぶらして、その後ルソン島に移動しました。

彼らが去った後も我々は残りました。戦いは終わりました。

Q:しかし、あのような戦いを一度も見たことのない人に説明しなくてはならないとしたら、どれだけ大変だったかということをどのように説明しますか? どの部分がいちばん大変でしたか?

包囲されていたことでしょう。補給品が届かないこと、食糧が届かないこと、何も届かないこと。日本兵は、初めのころは絶対に、私たちより人数が多かったです。しかし彼らの情報網は何の役にも立っていませんでした。彼らが私たちをゲリラだと勘違いしていました。しかし我が軍がC-47で食糧を投下し始めた時点で、私たちが米軍であることは分かっていたはずです。米軍の輸送機は物資を投下できないと、ずっと旋回していました。どこかに空き地があることを期待して、12時間は旋回したはずでした。

Q:では、音は聞こえていたのですか?

もちろん聞こえました。彼らはとても近距離で、可能な限り低空飛行をしていました。「ビスケットボンバー(C47輸送機)」の音も聞こえていました。ひどい状況でした。日本軍と戦っているときには簡単なことは一つもありませんでした。彼らは本当に優秀でした。きちんと訓練も受けているし、良い兵士でした。自分たちの行動を理解していました。彼らはあとちょっとで、オーストラリアまで到達するところだったのです。それはすごいことです。

出来事の背景出来事の背景

【フィリピン・レイテ島 誤報が生んだ決戦 ~陸軍第1師団~】

出来事の背景 写真昭和19年10月中旬、マッカーサー率いる20万の大軍がフィリピンに接近、上陸地点はレイテ島が選ばれた。レイテ島は、日本軍にとっても5つの飛行場がある重要な軍事拠点であった。
10月、太平洋戦争中最大の誤報がレイテ決戦の決行につながった。米軍機動部隊はフィリピン侵攻の前哨戦として台湾を空襲。迎え撃つ日本軍との間で激しい航空戦を展開した。ほとんど戦果はなかったにもかかわらず、海軍が報告した米機動部隊撃滅の大戦果を大本営は鵜呑みにし、昭和19年10月20日、レイテ島で一勝をあげることで和平につなごうとしたのだ。

昭和19年11月、1週間で勝てると言われた第1師団がレイテ島に上陸した時点で、既に制空権は米軍の手に握られ、米軍機が次々と襲いかかってきた。また、米軍の上陸直後から猛烈な砲撃を受けた。短期間の戦いを予想して十分な物資を持たなかった兵士たちは、すぐに食料・弾薬が尽きてしまった。
さらに兵士たちに過酷な命令が下された。限られた武器を手に敵陣に突っ込む「斬り込み攻撃」である。次々に兵士たちの命は失われていった。

食料や弾薬を運ぶはずの日本の輸送船は攻撃され次々と撃沈され、レイテ島の日本軍は孤立。生き残った兵士たちは食糧を求めて、密林をさまよった。

第1師団上陸から50日あまりたった12月21日、大本営はついに、レイテ島の放棄を決断、兵士たちに転進命令が下る。米軍が上陸していないセブ島で再起を図れというものだった。しかし、セブ島に行くために用意されたのは、わずか4隻の小型艇。第1師団1万3000人のうち集結地点にたどり着いた兵士は2600人。船に乗れなかった2000人はレイテ島に置き去りにされ、米軍とフィリピン人ゲリラの掃討にあい、全滅していった。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1943年
19歳のとき陸軍に入隊
1944年
第511降下連隊第1大隊に配属
1945年
ルソン島で終戦を迎える
 
戦後、豪州で働き、1949年米国に帰国 ACF Industriesで安全ディレクターに

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