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タイトルタイトル: 「6時間で135人を殺した」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン・レイテ島 誤報が生んだ決戦 ~陸軍第1師団~
名前名前: ハウエル・キーターさん(アメリカ軍 戦地戦地: フィリピン(レイテ島)  収録年月日収録年月日: 2008年6月21日

チャプター

[1]1 チャプター1 レイテ上陸  02:18
[2]2 チャプター2 ゲリラ兵との共闘  02:18
[3]3 チャプター3 日本軍との衝突  01:57
[4]4 チャプター4 疲弊した兵士たち  02:05
[5]5 チャプター5 掃討戦  01:13
[6]6 チャプター6 物量の差  02:48
[7]7 チャプター7 レイテ戦の終結  03:26

チャプター

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン・レイテ島 誤報が生んだ決戦 ~陸軍第1師団~
収録年月日収録年月日: 2008年6月21日

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我々はLST(上陸用舟艇)に乗っていました。しかし日本軍機が上空を飛んでいて、海岸への道のりはとても長く感じられました。我々がそこに到着したとき・・・我々の上陸の直前に小型の駆逐艦が海岸を猛砲撃し、そこには誰も生存していないように見えました。しかし海岸に近づいたところで、機関銃の弾が船体に当たりました。けがをしたものはいませんでしたが、LSTを操縦していた兵士が船に戻ろうとして、ゲートをあげて後退を始めたので、水の中を歩いて行かなくてはなりませんでした。本来ならば水の中を歩く必要はほとんどないはずなのですが。

我々が到着したのは、日本軍の飛行場のガソリン処理施設がある場所でした。私はそのちょうど左側にいました。それは私の右側にあり、それが爆発しました。そこには小さなトーチカ(砲座)が並んでいました。すると、我々を手こずらせていたトーチカに、我々の分隊長が手りゅう弾を投げ入れました。丸太が置いてあって、ココヤシの木の丸太で、それにこれくらいの隙間があって、日本兵はそこから撃っていました。静かになったので、私と仲間のボブ・ホワイトは確認するように指示されました。我々は中に入り、日本兵の1人が死んで倒れていました。そしてホワイトは外に出て行きました。私は奥の隅の方に何かがいる気配を感じました。しかし、何であるかは分かりませんでした。そこに近寄ってよく見てみると、それはそこに座ってこちらを見上げている男でした。我々の顔はこれくらいしか離れていませんでした。私は彼をそのままにしておきました。それは良くないことなのですが。

Q:初めてゲリラ兵に出会ったのはいつでしたか?

我々がレイテに着くとすぐに彼らはどこからともなく出てきました。そして、彼らは組織されていて我々の仲間になりました。一部は本当に優秀でした。2日目の晩にはタコつぼでゲリラ兵と一緒に寝ました。

Q:本当ですか?

彼らは極めて普通の人たちでした。それに彼らの大半は英語が話せました。

Q:彼らはいつも米兵のために何をしていましたか?

彼らは偵察をしていました。日本兵がどこにいるかを教えてくれました。民間人が彼らに教えたから彼らは知っていました。彼らは彼ら同士の言葉を話すのです。たくさんの情報が入手できました。

Q:すると彼らがあなた方と一緒にいたのは良かったわけですよね?

もちろんです。彼らは、我々の戦闘服を着ていました。我々と全く同じものでした。戦後、報償金やそのようなものをもらったかどうかは知りません。それについては知りませんが、彼らは我々の仲間でした。

彼らがいて良かったです。彼らは田舎についても良く知っていました。彼らはあの、3日間かけて島を縦断するような作戦も、奥地に詳しいので要領を心得ていました。島の反対側の、海岸沿いの町へ続く・・町の名前は忘れてしまいましたが、そこに彼らはどうやったら着けるかを知っていました。さまざまな隠れた道をです。本当に助かりました。彼らは村人から日本兵がどこにいるかを見つけ出してくれるのです。

話したくないほどひどい戦いでした。分隊長を2人失いました。

Q:そんなに激しい戦闘は初めてでしか?

レイテでは、そうです。

Q:カリガラがどんな場所か知っていましたか?

彼らは我々に、あの小道を登って行くと尾根が見えると教えてくれました。日本軍がそこにいて、備えを固めていることを知っていました。我々は運河のような水路の中を歩き、尾根近くの空き地に到着しました。我々はそこで別れ、尾根を登って行きました。全員が同時に。そういう状況でした。

Q:するとあなた方は、あなたの部隊全体は、何人くらいが尾根を登って行ったのですか?

私の小隊は第3小隊で、50名ほどでした。別な小隊が我々の脇にいました。それが主要な部隊でした。この小隊は、日本軍の抵抗にあいませんでした。

Q:登って行って、何か見つけましたか?

日本兵です。我々は135人を殺しました。それが、私が話したくない部分なのです。6時間で、です。

我々は正確に記録していたわけではないのですが、我々の部隊の一部は、その前日、第32師団の一部と交替することになっていました。そして彼らが交替した兵士たちと我々が会いましたが、彼らは5、6名のグループ単位でしたが、とてもひどい状態に見えました。翌日、我々は行って、大勢の兵士と交替しました。

察するところ、私は彼らがどれくらいの期間そこにいたのかは分かりませんが、かなり長い期間いたように見えました。

Q:どうして、そう思ったのですか?

彼らがそのように見えたからです。彼らは全員おびえた様子でした。おびえていて、「2000ヤード先を見ているような目つき(実戦を長く経験した兵士の、何かに取り憑かれたような目つき)」といった感じでした。彼らの状態は芳しくないように見えました。

Q:彼らはあなた方が来て喜んでいましたか?

決して笑顔はなかったです。彼らはお互いに話すらしていませんでした。深刻な状態でした。

Q:あなた方が、そうした兵士たちを引き継いだわけですよね?

どのようなことが待ち受けているのかが分かるというものです。

Q:それによってどのように感じましたか?

嫌な気分になりました。何とかして乗り越えるしかないといった感じでした。言った通り、当時、私はたったの19歳でした。今だったら耐えられないです。

我々が(日本兵が潜む)洞窟を爆破したとき、事前に中に入っていないので、日本兵の姿を見ることはありませんでした。しかし彼らは夜間に出てきて、時折這(は)いまわっていたようです。日本兵がどのような状態だったかは分かりませんが、我々とほぼ同じだっだと思います。小川があって、そこで水筒の水をくんでいましたが、そこに浮かぶ日本兵を見たことがあります。

そこで水をくんでいました。それは、リモン峠の小川でした。死亡時期は分かりません。雨季でも、飲み水には苦労しました。蒸し暑い気候で、川の水は飲めなかったのです。

空腹だった記憶はありません。何故なら通常でもあまり食欲がないからです。しかしいつも同じ戦闘服を着ていました。靴下、ずっと替えがありませんでした。そして靴もです。初めて革靴を支給されましたが、腐ってしまいました。

Q:空腹だった記憶がないのですね?

ありません。

Kレーションでも、それは戦闘レーションでしたが、常に小さな缶詰はありました。スクランブルエッグとか、何かそういう種類のものです。13センチくらいの長さのチョコレートバーもありました。本当に固かったのですが。辛うじてかじることができるくらいの固さでした。しかしそれを水に入れて、水を温めるとホットドリンクになりました。たばこの箱にはたばこが5本入っていました。そしてガムが1個。それと「犬用ビスケット」と呼ばれた、とても固いクラッカーがあって、それには必要な栄養が入っているということでした。それが戦闘レーションです。

もし日本兵が私と同じような銃を持っていたら、私は今ここにいなかったと思います。彼らは1発撃つごとに弾を込め直さなくてはなりませんでした。我々の銃は半自動だったので、引き金を引くだけでした。日本の銃では急いで襲撃をすることができません。だからそういう銃だったので、こちらは日本兵3~4人を襲撃することができました。

Q:するとあなた方の武器の方が、優れていたと感じていたのですね?

その通りです。もし彼らが我々と同じ種類の銃を持っていたら・・・状況はかなり違うものになっていたに違いありません。そして彼らの手りゅう弾は、爆発することもありましたが、半分くらいの大きなかけらがそのまま残っていました。大量のものが。米軍の弾は、小さな四角い破片がすべてミサイルみたいに粉々に飛び散るのです。日本軍のものは、何故我々のものと同じように爆発しないのかが理解できませんでした。しかも、彼らは銃を装填するときに音を立てなくてはならなりませんでした。点火するにはヘルメットや岩で強くたたき付けなくてはなりませんでした。米軍のものとは全く違いました。

我々はオルモックの谷に行きました。そこはとてもいい場所でした。円丘がいくつかありました。芝生の生えた丘でした。その後、その間、道路が乾くと、炊事車が入って来ました。それがクリスマスの翌、12月26日です。我々は、その谷間で七面鳥のディナーを食べたのです。

Q:それはいいですね。

そしてそれぞれの隊には武器輸送車がありました。そのいちばん後ろの方は、ピックアップトラックのような物ですが、その最後部は大きなラジオでした。食堂、食堂テントの脇に置いてありました。そして我々はその周りの丘にいました。東京ローズ(日本からの対米軍宣伝放送の女性アナウンサーにつけられた愛称)の放送を聴いていました。知っていますか? それを聴いていたのです。それは素敵なクリスマス音楽でした。我々をホームシックにさせようとしていたのです。でもそれはいい曲でした。

その日にマッカーサーはレイテ作戦の終了を宣言しました。でもその後も大勢が死にました。とにかく12月26日に、そう宣言されたのです。放送を聴きました。

それから数日間、部隊の大半は方向転換をしてカリガラの方に戻り、タクロバンの方に向かいました。我々、米兵8名とフィリピン人ゲリラ兵が4名、山を越えて海岸まで歩きました。それには3日かかりました。その途中で航空隊に遭遇したとき負傷者がいたので、パイパーカブ(偵察機)がやってきて、担架を投下していきました。当時、パイパーカブは砲兵隊のための索敵機として使われていて、彼らはこの辺りを砲撃しました。我々はその先の森の中で、日本兵に遭遇しました。そして日本兵はそこで我々に向けて銃撃を始めました。そこで我々は来た道を戻り、逃げました。負傷者が2人いたので、砲兵隊に応援を頼みました。そして彼らがそこを砲撃しました。翌朝、また進んでいくと、日本兵はもう1人もいませんでした。その後、我々は海岸に無事にたどり着き、LSTに乗って、タクロバンへ戻りました。

出来事の背景出来事の背景

【フィリピン・レイテ島 誤報が生んだ決戦 ~陸軍第1師団~】

出来事の背景 写真昭和19年10月中旬、マッカーサー率いる20万の大軍がフィリピンに接近、上陸地点はレイテ島が選ばれた。レイテ島は、日本軍にとっても5つの飛行場がある重要な軍事拠点であった。
10月、太平洋戦争中最大の誤報がレイテ決戦の決行につながった。米軍機動部隊はフィリピン侵攻の前哨戦として台湾を空襲。迎え撃つ日本軍との間で激しい航空戦を展開した。ほとんど戦果はなかったにもかかわらず、海軍が報告した米機動部隊撃滅の大戦果を大本営は鵜呑みにし、昭和19年10月20日、レイテ島で一勝をあげることで和平につなごうとしたのだ。

昭和19年11月、1週間で勝てると言われた第1師団がレイテ島に上陸した時点で、既に制空権は米軍の手に握られ、米軍機が次々と襲いかかってきた。また、米軍の上陸直後から猛烈な砲撃を受けた。短期間の戦いを予想して十分な物資を持たなかった兵士たちは、すぐに食料・弾薬が尽きてしまった。
さらに兵士たちに過酷な命令が下された。限られた武器を手に敵陣に突っ込む「斬り込み攻撃」である。次々に兵士たちの命は失われていった。

食料や弾薬を運ぶはずの日本の輸送船は攻撃され次々と撃沈され、レイテ島の日本軍は孤立。生き残った兵士たちは食糧を求めて、密林をさまよった。

第1師団上陸から50日あまりたった12月21日、大本営はついに、レイテ島の放棄を決断、兵士たちに転進命令が下る。米軍が上陸していないセブ島で再起を図れというものだった。しかし、セブ島に行くために用意されたのは、わずか4隻の小型艇。第1師団1万3000人のうち集結地点にたどり着いた兵士は2600人。船に乗れなかった2000人はレイテ島に置き去りにされ、米軍とフィリピン人ゲリラの掃討にあい、全滅していった。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1943年
21歳のとき陸軍に入隊
1944年
第1騎兵師団第7騎兵連隊に配属
 
戦後、ゼネラル・モーターズに戻り1年間働き、その後建築家に

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フィリピン(レイテ島)

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