ホーム » 証言 » ポール・ケインさん

証言証言

証言をご覧になる前にお読みください。

証言一覧へ戻る証言一覧

タイトルタイトル: 「砲撃が止んで白兵戦闘」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン・レイテ島 誤報が生んだ決戦 ~陸軍第1師団~
名前名前: ポール・ケインさん(アメリカ軍 戦地戦地: フィリピン(レイテ島)  収録年月日収録年月日: 2008年6月25日

チャプター

[1]1 チャプター1 レイテ島上陸  05:10
[2]2 チャプター2 日本軍の斬り込み攻撃  01:09
[3]3 チャプター3 カリガラ  05:46
[4]4 チャプター4 ゲリラからの情報  03:38
[5]5 チャプター5 ブレイクネックリッジ(首折り尾根)の激戦  05:18
[6]6 チャプター6 掃討作戦  05:01
[7]7 チャプター7 戦争の傷跡  06:41

チャプター

1
2
3
4
5
6
7
番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン・レイテ島 誤報が生んだ決戦 ~陸軍第1師団~
収録年月日収録年月日: 2008年6月25日

証言をご覧になる前にお読みください。

再生テキスト再生テキスト

上陸のときのことですね。まず、午前5時に上陸用舟艇に移されました。上陸したのは10時ですから、それまでの間、私たちは海上をずっと周回していました。私たちの隊は突撃隊に属していましたから、最初に動き出して先頭に位置し、他の船の準備が整うのを待っていたわけです。強襲作戦でしたから、全部隊を同時に前線に進めなければなりません。こうした攻撃では 先陣が上陸するまでに部隊の全ての隊員が上陸用舟艇に乗り移っていなければならないのです。

上陸する前の船上では、恐怖にさいなまれました。しかし、陸に着いた瞬間に・・私は小隊長でしたが、上陸した瞬間に、何をすべきか考え始めていました。恐怖心はどこかへ消え去っていたのです。大地の感触が安心したのかも知れません。いずれにせよ、波の中にはそれほど長くはいませんでした。

上陸用舟艇の中には、ロケット弾を装備しているものもありました。敵に与えた実際の損害という点ではあまり効果がなかったのですが、このロケット弾はものすごく大きな音を立てたので、私たちが上陸する間、敵の動きを抑えてくれました。全ての上陸船には口径50口径の重機関銃が装備されていて、浜に向かう際にそれらを撃ち続けているわけですが、浜に着けばそれは止まります。これは敵側にとっては、潜んでいる穴から出てくるチャンスなわけです。潜んでいた穴から出てきて、こちらに向かって銃撃を始めます。

私たちの上陸は成功しました。敵の攻撃を受けずに30メートル程度、島の内部に向かって陸地を進んでいました。すると隠れていた敵が出てきて、私たちに向かって銃火を浴びせてくるので、そこから先、私たちは姿勢を低くして走り抜けました。

Q:つまり、上陸の時点では攻撃は何も受けなかったということですか?

そうです。私たちは上陸第1波でしたからそうでしたが、第5波やそれ以降の上陸船は上陸前に砲火を浴びて沈んだものもありました。やがて敵側も大砲や機関銃で攻撃を始めたのです。上陸しようとする兵士たちを狙い始めたので、後続部隊は大変でした。ある中隊では、船上で指揮官と部下数名が撃たれました。

上陸してしまえば、今度はこちらの番です。敵はその辺に生えているヤシの木の幹から作った機関銃座に潜んでいたり、いたるところに細長い塹壕を掘って潜んでいました。いちばんやっかいだったのは木の上で待ち伏せる敵兵です。木に登って、上から私たちを狙撃するわけです。

木の陰に隠れて私は辺りを探っていました。警戒している様子は誰の目にも明らかでした。そのとき、狙撃兵が私の頭上に木の皮を落としたのです。私はすぐにかがんで転がり、狙撃兵を探しました。私と一緒にいた2人の兵士も同じように狙撃兵を見つけようと見回しました。そのとき、I中隊の隊長がやってきて、 「I中隊はどこだ?」と言いました。私は「右の方にいます。しかし気をつけてください。木の上に狙撃兵がいて狙ってきています」。しかしそれは彼の耳に届きませんでした。彼は立ち上がってしまい、頭を撃ち抜かれたのです。しかし私の2人の部下のマレーとソルバーグは、そのときには狙撃兵を見つけ出し撃ち落としました。私たちはしばらく時間がかかりましたが機関銃座の敵は倒すことが出来ました。10時に上陸し、12時には浜を制圧して進みました。

まずトラックの音が聞こえました。日本兵はトラックに乗ってきたのです。彼らがどこからやってきたのかは分かりませんでした。それほど大した人数ではありませんでした。とにかく、彼らは朝の4時ごろに現れ、叫び声をあげながら突撃してきました。しかし我々は敵をなぎ倒し、全員を殺しました。翌朝、部下の1人がやってきて言いました。「1人に照準を合わせて撃つところだったのに、そいつは何かを腹に抱えて吹っ飛んでいましたよ」。敵は自爆してしまったのです。自爆自体は珍しいことではありませんでした。日本兵は追い詰められると自決しますから、時折目にすることです。

次の日を無事に迎えられますように、と祈りながら前進するだけです。私の場合は自分が隊の責任者でしたから、自分にとっていちばん重要なことは、正しい判断を下す、ということでした。自分が死ぬことはもちろん嫌ですが、部下を持つリーダーとして、自らの責任を果たさなければなりません。自分が殺されることの心配よりも、正しい判断を下すことへの気持ちの方が大きかったですね。数々の決断を下しながら進んで行くうちに、死を意識することが無くなりました。それほどたたないうちに、私は上官に呼ばれて、I中隊の中隊長となるように命じられました。上陸してから確か2~3週間後のことでした。

Q:いちばん大変だったのは何ですか?

毎日大変でした。ほとんど毎日です。もちろん、毎日先頭に立っていたわけではありませんが、あるとき、部下に偵察を任せました。大隊長か連隊長が私に話があるということでした。会議か何かだったのでしょう。私は中尉を送り出しました。彼は、実戦の経験があまりない人物でした。私たちが彼らの場所にたどり着くと、戦火を交えた後でした。翌朝分かったことですが、一晩の戦闘で私は自分の部下を6名失ったのでした。中尉が要請をすれば大砲や迫撃砲の援護ができたのに、彼は何も要請してこなかったのです。そのため私は優秀な部下を失いました。彼が戻ってきたときに、私は連隊だったか大隊だったかを相手にわめき散らしました。偵察隊をそこに送ったのは彼らでしたが、私は自分で行きたかったのに、翌日しなければならないことがあるのでここに残らなければならないと言われ、残されたのです。部下の人数が足りないことでもめました。部下の人数が15名にまで減っていたのです。人数は増えたり減ったりしました。皆が死んだわけではありません。大勢が負傷しました。

Q:部隊は初め、何名で構成されていたのですか?

中隊は通常200人ですが、私のところは約150人でした。全部で150人くらいです。

Q:それが15人まで減ったのですね?

一時、15人になりました。

それがレイテ渓谷だったかどうか分かりませんが、とにかく、I中隊は道路を分断するためにジャングルに送り込まれました。その道路は、日本軍が補給路として使っていると思われるものでした。どのくらいか分かりませんが、1日中歩き続けていたので、恐らく8キロくらいだと思います。夕暮れが近づくころに目的の道路にたどり着きました。道路に到達する前にトラックの音が聞こえていたので私たちは進むべき方向は分かっていました。道路に出た私たちは、道路を歩いている日本兵を2人殺しました。私たちはその場所に塹壕を掘りました。それから砲による攻撃も必要でした。しかし、師団の砲兵隊以外の砲撃が届かない場所にいたのです。

敵の抵抗に備え、暗くなる前に本隊に連絡し、夜間の砲撃を頼む必要があると思いました。無線は持っていましたが、夜になると湿度が上がって使い物にならなくなるのです。しかし、どちら側にも無線は通じませんでした。その夜、多分10時か11時に、片側から敵が忍び寄ってきて、見張りのものがBAR(ブローニング自動銃)を発砲したのが聞こえました。ちょうどそのころ、師団砲兵隊によるう砲撃が始まりました。それは敵陣に降り注いだのです。敵は撤退し、その夜は戻ってきませんでした。2日目のは、襲撃を受けると思っていましたが、誰も来ませんでした。3日目、こちらに向かって戦車が道を通って来るのが見えました。戦車がこんなところにあると思わなかったので私は砲撃を要請しようとしたのですが、味方の戦車でした。

私たちが手にしていたフィリピンの地図には、実際にはない丘が書かれていました。あるとき、私の中隊はある丘を制圧するよう命令を受けました。私たちはその場所に向かいましたが、丘など見つかりません。地図には載っているのですがどこにもないのです。その後、米軍は航空写真にグリッド(碁盤目)を入れて、それを使って地点を言い表すようにしました。フィリピンの地図は全くだめでした。ルソンのものは結構良かったのですが、レイテのは使い物になりませんでした。地図はありましたけれど。海図も同じようなことでしょう。欲しい情報は載っていません。そこにあるようなものです。聞いたこともない町の名前が載っていたりして、自分が必要とする情報が書かれていませんでした。まともな地図であればそれを使います。

Q:ゲリラとは一緒に戦いましたか?

後のほうになって、時折ゲリラに遭遇しました。彼らは現れたり消えたりを繰り返しました。ある日、1人の男がやって来て、「自分はゲリラだ。何か食べたい。」と言いました。多分、彼に何か食べ物を渡したと思います。

Q:ゲリラがいて良かったですか? 助けになりましたか?

情報に関しては、何かしらの助けになりました。土地の人間についても分かりました。ときには彼らも私たちを利用しようとすることもありました。ゲリラに限らず一般住民もです。例えば、「沢山の日本兵が向こうの方にいる。大勢だ。部隊を送ってやつらを追い出してくれ。」と言ってきます。そこで私たちは分隊を一つ彼らに付けてその場所に送るわけですが、本当のところは、彼らは家に帰りたくても怖くて帰れないので一緒に付いて行って欲しかったわけです。大勢の日本兵がいる、と言ってきても、実際にはそこには敵などいない、ということが何回かすると分かってきました。それからは2名ほどの兵士を付けてやるだけでした。

ゲリラからは、一般的に情報を得ることが出来ました。有益な情報もあれば、無益なものもありました。彼らは言いたいことだけ話す傾向がありました。いずれにせよ、ゲリラはそれほど役に立ちませんでした。もちろん、敵の動きや活動について知らせてくれる等、数々の情報をくれましたし、ある意味では役に立ったと言えるでしょうが、非常に役に立ったとまでは言えません。彼らは武器や銃器も持っていないので、大きな働きをしたくても出来なかったのは当然です。

私は偵察機から、その地域に向かって2か所から敵の部隊が進軍してきているという報告を受けていました。そこで、夜にはその場所を撤退した方が良いと判断したので、撤収のために10台の車両が送り込まれました。私も彼らの撤収支援、援護のために自分の小隊を2つ、現場に派遣しました。撤収の際に1名が戦死し、3名が負傷しました。かなり激しい戦いだったそうです。この敵はエリート部隊でした。指揮官が含まれていたことも明らかです。そこに私たちは奇襲攻撃をかけました。敵の部隊を分断して撤収したのです。

ブレイクネック・リッジでは、我々の部隊のところに第21連隊が到着しました。第21連隊は出撃に備えてある島に集められていた、まだ一度も戦闘を経験していない全く無傷の連隊で、私たちと交代しました。彼らは進軍して行きました。

ブレイクネック・リッジは、くねくねと曲がった上り下りの激しい道で、直ぐに移動の流れが止まってしまう状態でした。非常に難しい道程だったのです。戦術的展開を行なうための空間もないようなところでした。山腹の右側面を行ったとしても、森を抜けて、斜面のどこかで迷ってしまうようなことが起こるのです。

しばらくの間、そのような道が続きました。時折、後戻りしたり、敵に砲弾を浴びせたりしながら登って行きました。21連隊のところに第40、いや第34師団が加わりました。私たちの師団長は再び交代させられました。私たちの軍団長は、何かうまく行かないと指揮官を交代しました。いきなり困難な局面を任されるのです。

私たちは地図に記載されていた、ある丘を制圧するように命じられました。しかし地図によると左側面にあるはずのその丘は、存在していませんでした。周囲より一段高くなっている土地が続いていたので、私たちはそこを確保して見回りをすることにしました。日本軍もパトロールをしていたので、私たちは何回か彼らと交戦しました。そのころはモンスーンの時期で、ある日、何のためにそこに行ったのかよく覚えていませんが、兵士たちが道路作業を行なっていました。火器を上に運ぶためです。運搬してきたサンゴ石を敷いていました。トラックが通ると、泥が辺り一面に飛び散ります。雨季だったので、1日中、24時間、雨が降っていました。地面はぬかるみ、テントを立てることも出来ませんでした。

Q:その猛烈な雨の中では座っているしかなかったのですか?

そうです。ポンチョを着て座り込むだけです。その間にも戦闘やら何やら起きているんです。

Q:どんな戦いでしたか?

主に砲火を浴びせ合う戦いでした。大砲の撃ち合いです。出て行って敵の居場所の見当をつけたら戻り、迫撃砲を撃つのです。そうしたらまた出て行く。別のところに到達したら、また撃つ。もちろん敵も防御を固めています。敵には有利な地形でした。曲がりくねった道は、高低のあるところでしたから、我々は時間をかけてそこを進みました。

Q:ブレイクネック・リッジ地帯の側面攻撃の後、残敵の掃討作戦に入ったのですね?

ええ。

Q:場所はどこでしたか? オルモックのずっと北方ですか?

西海岸です。私はそこに座っていました。日本軍の輸送船が南方かどこからか分かりませんが、恐らくミンダナオ島あたりから向かってきていました。とにかく、米国空軍がそれを発見し、レイテ島の沖合で撃沈しました。敵の兵士が大勢泳いできて、岸から上陸してきました。彼らは武器も何も持っていませんでした。12人に1人くらいはライフルか何か持っていたかもしれませんが、ほとんどの兵士は火器を持っていませんでしたので、我々は彼らを「竹やり部隊」と名づけました。竹やりを持って攻めてきたのです。そんな状況でした。

軍艦から兵士が泳いでくることは分かっていたので、我々は敵が上陸した地帯に派遣されました。武器を持っている兵士はほとんどいないということも本部には分かっていました。そこで、一帯を確保するために私たちをそこに送ったのです。私たちは本部を漁村に設置しました。休暇のような気分でしたね。毎日兵士を見回りに出しましたが、何も収穫はありませんでした。何人の日本兵を殺したかは分かりませんが、とても少ないと思います。

Q:捕虜もなしですか?

私は戦時中一度も、実戦でも一度も捕虜を取りませんでした。そのような命令もありませんでした。それに日本兵も捕虜になる気はありませんでした。コレヒドール島と同じです。コレヒドールでは数千人の兵士が命を落としました。弾薬も底をつき、全ての装備を失い、打ち負かされても、それでも降伏しませんでした。洞穴から這(は)い出して丘の側面を逃げて行くのですが、それを私たちがまるで樽の中の魚を狙うように撃ち落していくのです。「一体なぜ?」、この疑問が私の頭の中に何度も浮かびました。こんなこともありました。ある攻撃では部隊に戦車を付けて側面を進み・・・座って、洞穴に向かって銃を撃つのです。男が1人、走り出してきました。手にはフライ返ししか持っていません。日本兵のほとんどは武器を持っていませんでした。棒切れすら持っていなかったのです。その男は料理でもしていたのかもしれません。フライ返しを持って走り出てきました。そして撃たれました。なぜ降伏しなかったのか、私には分かりません。もちろん米軍も降伏を促すような働きかけはしませんでしたが。

小さな漁村がありました。ちょうどクリスマスの時期だったことを憶えています。戦争の終盤にかかっていました。そこから引き揚げてから、私たちはルソンに行く準備を始めましたから。よく憶えているのは、それほど大勢の日本兵はいなかったということです。あまり多くはいませんでした。しかし私たちは小さな漁村一帯を確保して、見回りを行ないました。そのとき茹(ゆ)でた海老を一ザルもらいました。何か月も軍用食を食べた続けた後の私たちには、実においしかったですね。あの作戦で覚ええているのは、あのとき食べた海老のおいしさだけですよ。それから、浜から海に向かっている桟橋のところに兵士が座って、クリスマスの歌を歌っていたことを憶えています。クリスマス・イヴでした。

指揮官には、部下全てに対して監督責任があります。全員に目配りしていなければならないのです。常に注意を怠らないようにしなければなりません。先ほども言いましたが、誰もが限界に達するときがあるからです。ある日、一等軍曹がやってきて、「一緒に行くことが出来ません」と言いました。私たちには任務が与えられていて、実戦前になって言い出しました。そのときに、「自分は一緒に行くことが出来ません」と言われたのです。「自分が何を言っているのか分かっているのか?」と、私は聞きました。彼は、「分かっています。とにかく、自分は行くことが出来ないのです」と言いました。

「病気による脱落を申請しろ」と言いました。大隊の軍医の診察を受けさせ、この軍曹を師団に送って精神科に診てもらうように伝えました。しかし受診後、彼は送り返されてきてしまいました。私の管理の問題というわけです。私の問題だということです。私は連隊長とも話をしましたが、ここでも私の問題だと言われました。「お前が何とかしろ」ということです。私に出来ることは、彼を一兵卒に降格させるか、軍法会議にかけることしかできません。不名誉除隊になってしまうと彼の人生をめちゃくちゃにしてしまいます。除隊後に公職につくことも出来ません。そこで私は翌日彼を呼び出し、一兵卒への降格と転属を願い出るよう、書面で提出するように言いました。私は彼を連隊に転属させました。連隊は彼を受け入れました。連隊では、彼は電線班に配属され、そこで働きました。戦争が終わるまでに、彼は再び軍曹まで階級を上がっていったそうです。

Q:彼らが直面していたのはどういう状況だったのですか? 文字通り、自分には出来ないと言える状況だったのですか?

これは実戦です。仲間と共に進軍して行くしかありません。道路のあちら側、こちら側に兵士、いつ自分が撃たれるかと思いながら、いつ銃撃戦が始まるかと思いながら、敵の中を進んで行くわけです。こうした状況、重圧の中に絶えず置かれているわけです。こうした状況に耐えられない人も中にはいます。幸いなことに私は一度も精神が参ってしまうようなことはありませんでした。どんな状況にも耐えることができたのです。しかし戦争が終わって、帰還するために寝床を片付けていたときに、「ライフルを持って帰りたいか」と聞かれました。私は「いらない」と答えました。1日か2日、ピストルを腰につけていましたが。戦場ではピストルを身に着けて走り回っていたのに。

長い年月をかけて、私は乗り越えることができ、落ち着きました。精神が参ってしまう男を何人も見てきました。召集を受けた男が、それを免れるために指を打ち落とそうとしたのを見たことがあります。船に乗り込むとき、あるいは海外に派兵されることを訓練所で聞いた途端に精神に異常をきたす者も。先ほども述べましたように、誰にでも限界点がどこかにあるのです。

昔、あるときこんなことがありました。帰還してから間もなくのことでした。あるレストランに入りました。ディケーターという町で・・・そこにはゼネラル・モーターズの工場がありました。工場に若い日本人が2、3人いたのです。彼らがレストランに入ってくると、私は食べられなくなってしまいました。席を立って、そこから出て行かなければなりませんでした。そういう気分になったのです。

Q:気持ちが変わったきっかけのようなものがあったのですか?

いいえ、時とともに徐々にです。書物を読んで変わっていきました。本が好きなのです。国の発展や戦争のこと、物事の発展のしかたについて読んだり、帰還した人々を見たり。ある女性が、死んだ父親の所持品を整理していたときに日本兵の持ち物を見つけたそうです。家族や友人が色々と縫いこんだもので、名前は忘れてしまいましたが、胴体に巻きつけていたものでした。この女性は、これがどこから来たのか調べました。そして、持ち主の出身地を探し当てて、家族の元に返したそうです。非常に喜ばれたそうです。それを読んだとき、何て根性のある女性かと思いました。

Q:あなたの経験から、今日の戦争についてはどう思われますか?

同じです。非常にばかげていると思います。戦争の始まりからばかげていました。一体何が達成されたでしょうか? 大勢が戦死し、国を破壊しました。やめさせるには戦争ではなく、別の方法があったでしょう。しかし人間とはこういうものです。戦争しかないと考えてしまうのです。

出来事の背景出来事の背景

【フィリピン・レイテ島 誤報が生んだ決戦 ~陸軍第1師団~】

出来事の背景 写真昭和19年10月中旬、マッカーサー率いる20万の大軍がフィリピンに接近、上陸地点はレイテ島が選ばれた。レイテ島は、日本軍にとっても5つの飛行場がある重要な軍事拠点であった。
10月、太平洋戦争中最大の誤報がレイテ決戦の決行につながった。米軍機動部隊はフィリピン侵攻の前哨戦として台湾を空襲。迎え撃つ日本軍との間で激しい航空戦を展開した。ほとんど戦果はなかったにもかかわらず、海軍が報告した米機動部隊撃滅の大戦果を大本営は鵜呑みにし、昭和19年10月20日、レイテ島で一勝をあげることで和平につなごうとしたのだ。

昭和19年11月、1週間で勝てると言われた第1師団がレイテ島に上陸した時点で、既に制空権は米軍の手に握られ、米軍機が次々と襲いかかってきた。また、米軍の上陸直後から猛烈な砲撃を受けた。短期間の戦いを予想して十分な物資を持たなかった兵士たちは、すぐに食料・弾薬が尽きてしまった。
さらに兵士たちに過酷な命令が下された。限られた武器を手に敵陣に突っ込む「斬り込み攻撃」である。次々に兵士たちの命は失われていった。

食料や弾薬を運ぶはずの日本の輸送船は攻撃され次々と撃沈され、レイテ島の日本軍は孤立。生き残った兵士たちは食糧を求めて、密林をさまよった。

第1師団上陸から50日あまりたった12月21日、大本営はついに、レイテ島の放棄を決断、兵士たちに転進命令が下る。米軍が上陸していないセブ島で再起を図れというものだった。しかし、セブ島に行くために用意されたのは、わずか4隻の小型艇。第1師団1万3000人のうち集結地点にたどり着いた兵士は2600人。船に乗れなかった2000人はレイテ島に置き去りにされ、米軍とフィリピン人ゲリラの掃討にあい、全滅していった。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1915年
4月5日生まれ
1940年
陸軍に召集
1944年
レイテ島へ。第24師団第34連隊K中隊(小隊長)に配属後、I中隊(中隊長)に
 
戦後、建築材の会社へ。1960年まで陸軍予備軍

関連する地図関連する地図

フィリピン(レイテ島)

地図から検索

NHKサイトを離れます