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タイトルタイトル: 「偵察隊を壊滅させた中隊長」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン・レイテ島 誤報が生んだ決戦 ~陸軍第1師団~
名前名前: エドワード・ファーマーさん(アメリカ軍 戦地戦地: フィリピン(レイテ島)  収録年月日収録年月日: 2008年6月30日

チャプター

[1]1 チャプター1 激戦地・ブレイクネック・リッジ  07:36
[2]2 チャプター2 1525高地をめぐる戦い  18:12

チャプター

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン・レイテ島 誤報が生んだ決戦 ~陸軍第1師団~
収録年月日収録年月日: 2008年6月30日

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正確な日は覚えていませんが、11月の2日か3日だったと思います。我々はレイテ(島)のカリガラに到着しました。そのすぐ後に、ブレイクネック・リッジ(首折り尾根)に派遣されて、そこで日本軍に取り囲まれ2、3日間戦っていた第3大隊のところに到着しました。それから、後方を切り開くために、軍は第1大隊のA中隊を送ることを決めたのを思い出しました。そうすれば第3大隊がブレイクネックから引き返せるからです。

しかしA中隊も第2大隊と第3大隊の間のところで取り囲まれてしまいました。A中隊で最初に戦死したのはA中隊・中隊長のビル・ヒューズでした。その日は他に2人の将校が戦死しました。その1人のアーニー・アンダーソンという将校は、後に知ったのですが、背中を数回撃たれ、はい出るまでに数日間草の上に横たわっていました。私は第1大隊の副官の地位に就いていました。大隊長が私を呼んで言いました。「ファーマー、君はA中隊を指揮するのだ」と。私は、「わかりました。A中隊は取り囲まれています。彼らがどこにいるのか教えていただけますか?」と言うと、彼は、「君が中隊長だ。行って探せ」と言ったのです。

私が生きている限り、決して忘れられないひとりの兵士がいます。ギャレットという名で、快活な赤毛の男でした。彼が、「中尉、隊がどこにいるのか知っています。私はそこから出てきたのです」と言うので、「オーケイ、彼らがどこにいて、どのように、どこに留まっているのか教えてくれ」と言うと、「あなたは私の隊の指揮官です。一緒に行きます」と言ったのです。それで、我々は道を進み、少し銃撃戦もありましたが、何とか部隊と合流し、隊をまとめました。
我々は午後の遅くに撤退を開始しました。たくさん負傷者がいたのです。ブレイクネック・リッジから戻るとき、2.5トントラックを見つけました。「これの運転の仕方をわかる者は動かしてくれ」と言うと、ひとりが名乗り出て、「私ができます、中尉」と言い、私は、「オーケイ、動かしてくれ」と言いました。それで、負傷者を全員トラックに乗せて、丘を下り始めました。そのころは夕暮れにさしかかり、辺りは暗くなり始めていました。私はトラックの右側のフェンダーに座り、兵士のひとりが持っていたライフルを抱えていました。私は突然、日本人兵士が飛びかかってきたと思いました。私は十分な訓練を受けていたので、こん身の一撃をくらわせると、それは木の幹でした。兵士ではなかったのです。私は武器も何もかも壊してしまい、トラックの中でいちばん重傷だった兵士でさえ笑い始めました。それ以来、彼らは私のことを「幹の殺し屋」と呼ぶようになりました。

ブレイクネックの頂上では、そこからオルモックが見えると言うのですが、そこにあるのは知っていましたが、生い茂った草のせいで、見通しが悪く、全く見えませんでした。何に出くわすのか草をかき分けるまでわからないのです。機関銃の銃座や、さまざまな形の塹壕などが作られていました。

Q:では、第3大隊がしばらくそこにいた後へ、あなたの隊が行かなくてはならなかった。

彼らと交代するためです。第3大隊は尾根でかなりの苦戦を強いられていたので、彼らを撤退させたかったということを除いて、誰が彼らをそこから戻す命令を出したのかはわかりません。しかし、彼らは取り囲まれてしまい、身動きが取れず、激しい攻撃を浴びていました。だから、A中隊が救出のために送られたのです。

我々は尾根を下り、大隊に戻りると、再編成されました。そしてブレイクネック・リッジの主要な部分に行くことが、私がそこにいた間の第1大隊の最後の目標になりました。我々は1525号と呼ばれる丘を占領するために派遣されました。お見せした写真にもあったように、その丘の頂上に着くまで、あのように草木が生い茂っていました。そこは一面にチガヤや8から10フィート(2.5から3メートル)の高さがある、ヤシや他のジャングルにあるようなものが広がっていました。我々は丘の頂上を制し、塹壕を掘りました。そのときは1日中、前から後ろから攻撃されました。私はパトロールに出す中尉を探さなくてはなりませんでした。偵察隊は1時間半くらい後に戻ってきたのですが、中尉と他にも何人か欠けた状態でした。私は隊に残った唯一の将校になったので、行って様子を見るための偵察隊を編成しました。75ヤード(70メートル)くらい進んだかと思うのですが我々は十字の道にぶつかりました。そこにいた2人の偵察兵に「道を渡れ」と言いました。私は左に曲がってその道を登っていと、中尉とその部下の1人が死んでいるのを発見しました。私は2人の遺体を運ばせる兵を呼び出しました。そして立ち上がると、真正面に日本軍の偵察隊がいたのです。

25か30フィート(7.5から9メートル)くらいの距離でした。私はカービン銃で1発放ちました、偵察隊のリーダーをしとめ、また引き金を引くと、何も起こりません。下を見ると銃詰まりでした。カービン銃でしたが、幸運にも私には訓練が染みついていました。素早く次の行動に移り、道ばたに、トンプソン短機関銃を見つけました。弾倉に30発入っていて、1発撃つと次の弾が送り込まれます。この間ずっと、日本軍の偵察隊はまだそこに立っていました。彼らはひたすら命令を待っていたのです。私はそのすきにトンプソン短機関銃を拾い、8人全員を殺しました。私が8人と言ったのは、その後何年も悪夢に襲われ、その偵察隊の全員の顔が浮かぶからです。私は、何年もその夢を見ては起きていたので、だから数を知っているのです。どうしてそれが頭から離れなかったのかはわかりませんが、数えることができて、覚えているのです。それから日本兵が軽機関銃を発砲してきたので、私は道の外へ倒れ込み、彼らが撃った弾が上から降ってきました。彼らは攻撃の手を止め、発砲があると、私はただそこに横たわっていました。そしてまた発砲してきたのです。そのときに弾が私の手などに当たったのです。私はトンプソン短機関銃を発射し、手りゅう弾で抵抗しました。すると、「痛い、痛い、痛い、痛い、痛い」というのを聞いたので、さらに手りゅう弾を投げると、機関銃は全て止みました。私は自分の偵察隊のところへ戻り、大隊のいるエリアに帰ることができました。

Q:丘を登っていき、日本兵と戦おうとしたとき、あなた方は有利でしたか、不利でしたか? 天気以外に戦闘状況はどのようなものでしたか?

我々は常に不利でした。なぜなら日本軍は我々よりも先にいて尾根全体を要塞化していたからです。レイテ島は全ての尾根がそのような状況でした。彼らはあらゆる種類の塹壕(ざんごう)を築いていました。えんぺい壕や少人数用の塹壕もありました。彼らは陣地を無力化しようとするため、砲撃の部隊も攻撃を行いました。後で分かったことですが、日本軍には戦略があったのです。日本兵士たちは、尾根の背面に行き、構築しておいた別の陣地に向かいます。塹壕も整えてありました。尾根の前面に砲撃が数発着弾すると、彼らは尾根の向こうの第2陣地に後退するのです。砲撃が止むと、また戻ってきて元の陣地を取り戻すのです。我々は、彼らを追い出すために、しばしば一対一でも戦いました。

我々に与えられた使命は、丘を登って行き、尾根の頂上にたどり着くまで戦うことでした。既にお話したとおり、我々は横に広がりながら頂上を目指し登っていきました。背の高い草をかき分けて進まなければなりませんでした。すぐ横にいる仲間の位置さえも分からない状況です。小さな声でしか仲間とのやりとりはできませんでした。仲間の前へ飛び出さないように注意しました。わかりませんが、厳しい状況だったと思います。例えば、草木のない開けた場所を見つけたとします。しかし無防備にただそこを走り抜けたりはしませんよね。少し進んでみて、もし敵に見つかったら茂みに引き返すでしょう。そこに前線を作り、身をひそめながら反撃を行います。敵の攻撃がやむまで撃ち続けるのです。いくら通りやすい場所があっても簡単には通行できないのです。

それから日本人兵士たちはカモフラージュが得意でした。彼らは突然姿を現すのです。我々が気づいてもいないうちに近くにいます。それと彼らから学んだことが1つあります。日本兵と戦い始めてすぐに知ったことでした。日本兵士は指揮官から命令がないかぎりどんな行動も起こさないということです。こんなこともありました。あなたが道を歩いているとしましょう。2発ピストル音が聞こえたら伏せるのです。それは彼らの攻撃の合図だからです。よって、日本軍の将校たちは、何度も我々の役に立ってくれました。直ちに地面に伏せろというメッセージを送ってくれたからです。

Q:あなた方は丘を登って行ったのですよね?そして、彼らはその丘に塹壕を掘っていた?

あらゆる形の塹壕が複雑に配置されていました。多くの場合、単なる直線ではありませんでした。たぶん、ここに1つの塹壕が作られていると、10ヤード(約9メートル)くらい後ろに別の塹壕を掘るのです。彼らは塹壕だけでなく、トーチカも作っていました。機関銃部隊や迫撃砲部隊がそこに展開されていました。それらを1つずつ制していくしかありません。

Q:日本軍は既に塹壕にいたから有利だったのですか? あるいは丘の頂上にいたからですか?

私も詳しいことは分かりません。そもそも、彼らがいつからレイテを守ることになったのか不明です。我々の理解では、彼らはおそらくレイテを攻撃されるとは想定していなかったと。そのため、陣地を攻撃したのは、我々がカリガラのビーチを攻撃した後でした。彼らは、塹壕を掘るのがとても上手かったし、とても速かったのです。1人や数人用の塹壕などすぐに作ります。とにかく丘を登り続けるしかありません。我々の願いは頂上にたどり着き、占拠することでした。

台風にも襲われました。雨も激しく降りました。真横から打ちつけられているようでした。我々は堀ってあった塹壕に避難しました。ポンチョを着るより、塹壕にたまった水の中に座っているほうが暖かかったからです。雨はひょうのようなものも混ざった冷たい雨だったのです。大隊指揮官である少佐は頂上からの撤退を決断しました。お見せした地図にあった道を下りていきました。草木が密集する道をまた通っていったのです。

大隊全体が道を下っているときのことです。私は7人の部下と一緒にいました。後衛としてA中隊から来た兵士たちでした。我々はみなBAR(ブローニング自動小銃)やトンプソン短機関銃のような自動小銃を持っていました。我々が撤退を始め丘を下りていくと、日本兵が後ろから追いかけてきました。我々がどれだけ殺そうが、次から次ぎに現れてどんどん迫ってきました。別の隊のところに到着してもまだいました。私と7人の部下たちが、その別の隊のところを通り抜けると、今度はその隊が後を引き受けてくれました。そのため我々は追いかけられなくなったのです。彼らは狂信的で、彼らにとって命はあまり重要ではないようでした。私にとって命が重要であったのと同じではなかったのは確かです。丘のふもとに着くと、私は病院に送られました。どのくらいたでしょう。おそらく1か月を少し超えるくらい病院にいました。

それから私はレイテ島からビアク島に引き揚げることになりました。しかし、ブレイクネック・リッジと、そこのエリア全体の戦いは、激しいものでした。まさに激戦地だったのです。

出来事の背景出来事の背景

【フィリピン・レイテ島 誤報が生んだ決戦 ~陸軍第1師団~】

出来事の背景 写真昭和19年10月中旬、マッカーサー率いる20万の大軍がフィリピンに接近、上陸地点はレイテ島が選ばれた。レイテ島は、日本軍にとっても5つの飛行場がある重要な軍事拠点であった。
10月、太平洋戦争中最大の誤報がレイテ決戦の決行につながった。米軍機動部隊はフィリピン侵攻の前哨戦として台湾を空襲。迎え撃つ日本軍との間で激しい航空戦を展開した。ほとんど戦果はなかったにもかかわらず、海軍が報告した米機動部隊撃滅の大戦果を大本営は鵜呑みにし、昭和19年10月20日、レイテ島で一勝をあげることで和平につなごうとしたのだ。

昭和19年11月、1週間で勝てると言われた第1師団がレイテ島に上陸した時点で、既に制空権は米軍の手に握られ、米軍機が次々と襲いかかってきた。また、米軍の上陸直後から猛烈な砲撃を受けた。短期間の戦いを予想して十分な物資を持たなかった兵士たちは、すぐに食料・弾薬が尽きてしまった。
さらに兵士たちに過酷な命令が下された。限られた武器を手に敵陣に突っ込む「斬り込み攻撃」である。次々に兵士たちの命は失われていった。

食料や弾薬を運ぶはずの日本の輸送船は攻撃され次々と撃沈され、レイテ島の日本軍は孤立。生き残った兵士たちは食糧を求めて、密林をさまよった。

第1師団上陸から50日あまりたった12月21日、大本営はついに、レイテ島の放棄を決断、兵士たちに転進命令が下る。米軍が上陸していないセブ島で再起を図れというものだった。しかし、セブ島に行くために用意されたのは、わずか4隻の小型艇。第1師団1万3000人のうち集結地点にたどり着いた兵士は2600人。船に乗れなかった2000人はレイテ島に置き去りにされ、米軍とフィリピン人ゲリラの掃討にあい、全滅していった。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1918年
4月生まれ
1936年
陸軍入隊
1944年
フィリピン・レイテ島へ
1945年
フィリピン・ダバオで終戦を迎える
 
戦後は保険・不動産業

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フィリピン(レイテ島)

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