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タイトルタイトル: 「戦闘の巻き添えで死んだ父」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン・レイテ島 誤報が生んだ決戦 ~陸軍第1師団~
名前名前: パギータ・タガログさん(フィリピン・レイテ島の戦い 戦地戦地: フィリピン(レイテ島)  収録年月日収録年月日: 2008年6月25日

チャプター

[1]1 チャプター1 父の死  11:05
[2]2 チャプター2 逃げまどう日々  13:17
[3]3 チャプター3 姿を変えてしまったふるさと  05:31
[4]4 チャプター4 戦争に対して思うこと  04:04

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン・レイテ島 誤報が生んだ決戦 ~陸軍第1師団~
収録年月日収録年月日: 2008年6月25日

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Q:オルモック砲撃でお父様を亡くされました。当時、そのことについてどんな気持ちでしたか?

父はいつもそばにいたので、喪失感を感じました。でも、既に父は重い糖尿病にかかっていたので、(砲撃で死んだのは)神の思し召しのような気もしています。父たちは町に閉じ込められてしまい、外に出ることができなかったので、堤防のところに戻ったらしいんです。何という名の堤防だったでしょう。日本軍はオルモック中央高校に司令部を置いていたので、米軍の爆撃機はその司令部の建物を目標にしたのでしょう。そして、たぶん父の近くにたまたま落ちた爆弾、砲弾、いずれにせよ、何かの破片が伏せている父に当たったのです。家屋の軒下で、孫たちに覆い被さって、うつ伏せで倒れていたと聞きました。頭に破片が刺さったまま。しかし、米軍の目標は(市民ではなく)日本軍の司令部だったのです。司令部がそこにあったからです。高校、中央高校の建物が建っていました。私が(オルモックの町に)戻ったときも、まだその建物は建っていて見ることができました。めちゃくちゃに破壊されたがれきを除去する作業をしていました。このようにして、父は死んだのです。

Q:米軍の砲撃でお父様が無くなられたと聞いたとき、どのようなお気持ちでしたか?

米軍の砲弾に当たったにしても、日本軍の砲弾に当たったにしても、気持ちは同じです。感じたのは喪失感です。味方の砲弾に倒れたのか敵の砲弾に倒れたのかは問題ではありません。いずれにせよ、父は死んだのです。戦争中ですから、そんなことも起きるかもしれないとは覚悟していました。敵味方が銃火を交えているのですから、そんなことが起きてもおかしくありません。「誰がやったのか」と後悔・非難しても仕方がなく、人がひとり死んだという事実があるだけです。日本軍の砲弾に当たって死んだとしても同じ気持ちを持つだけです。

父に関する他の話もしましょう。父は高齢でしたが、体の動くうちは毎日教会のミサに通っていました。でも、高齢だったので(体が思うように動かず)日本兵におじぎをすることが出来ませんでした。しかし、教会には無理をして通っていました。特に聖金曜日のミサには。そして、妹、私の叔母、父のいちばん下の妹は薬局を経営していましたが、あるとき父が(薬局の前で)日本兵にビンタをされたのです。日本兵におじぎをしなかったのが理由のようでした。父はおじぎをできなかったのです。おじぎをしたらそのまま地面に倒れてしまいますから。叔母は父がビンタされる音を聞いて、とっさに仕返しだと思ったそうです。女というものは感情的ですから。それは、以前日本兵がチチャイ(叔母の名)の店に薬を買いに来たことがあり、叔母が「品切れ」だと断ったことがあったからです。本当に品切れだったのですが、日本兵は単に断られたと疑ったかもしれません。その一件があったので、叔母は仕返しだと思ったそうですが、日本兵はチチャイ(叔母の名)が父の妹だということを知るはずがありませんし、ただの偶然だったのでしょう。そして叔母は桟橋に連れて行かれ、炎天下に3時間も立たされたのです。叔母は傍らで神に祈ったそうです。このことからも分かるように、どちらの味方につくとかそういう問題ではありません。私たち皆にとって問題なのは、いかにして生き残るかということでした。また、他にも戦争による被害がありました。例えば、米軍による解放後、海岸沿いこの村ではニッパ小屋を立てて漁をする人たちがいて、そういった人たちは海岸に埋まった不発弾を掘り出して分解し、火薬を取り出してダイナマイト漁の材料にしていました。火薬はダイナマイト漁の良い材料になったのです。不発弾を分解する際に爆発し、漁師がバラバラに吹き飛ばされることがありました。脚や手を失った人たちはまだ幸運なほうでした。なかには体が粉々に吹き飛んで、遺体を集めることさえ出来ない人もいたんです。繰り返しになりますが、「誰のせいか」ということは問題ではないのです。誰のせいでもなく、ただ喪失感だけを感じたということです。ただ、家族の、個人の問題として。

Q:戦争がなければこの地はどうなっていたでしょう?

良くなっていたかもしれません。ゼロからではなかったから、元々あったところから成長していけたはずです。戦争が終わって、私たちは最初からやり直さなければなりませんでした。建物も人も、施設も、まるで町がなかったのように何もないところから復興を始めたのです。ただ、人間は自然に導かれ、進歩していきますから、私たちは今でも発展をしています。後退したり、後戻りすることなく、常に前進しています。私たちの世代か、その次の世代であれ、常に最善を尽くして前進するのです。後ろに進んでいたら、後退になってしまいます。これはどの国も望むことでしょう。日本だって発展し、非常に裕福な国になったでしょう。戦争を忘れたからです。日本は軍艦を何隻失いましたか? どれだけの人が死にましたか? どれだけの土地が打撃を受けましたか? それでも前進し続けたから、日本は発展し、大国になったのです。

Q:レイテの住人はどうですか? 戦争の体験によって、レイテの住人の考え方は変わりましたか?

完全には変わっていません。なぜなら自分たちの文化と結びついていますから。どの国にも独自の文化があり、伝統があり、尊ばれる文化的価値観があります。このことにより完全に変わりはせず、抹殺されることもありません。私たちはこの文化のもとで独自の国を創り出します。これは、我々フィリピン人の誇りでもあります。伝統的な文化や慣習を残すことが誇りなのです。後退するものもあるでしょう。フィリピン人の現状があります。今では近代化の波に乗り、モダニズムの流れになっていて、中にはよくない部分もありますが、フィリピン人はもてなしの心を持ち、年長者を敬い、信仰深く、文化を尊重します。こうした価値観を今でも持ち続けており、そのことで救われているのです。

Q:あなたの戦争体験、避難していたときの様子を知りたいのですが、避難していたときのことでいちばん印象に残っているのは何ですか? どんなつらい体験をしましたか?

食料が不足していたことです。食べ物が必要だったこと。お腹が空いては生き延びることもできません。ですから避難する前に、トウモロコシの粒を焼いて密閉容器に入れていました。避難している間にそれを食べるのです。すり潰したり、挽いたりする時間はないので、焼いたトウモロコシの粒を食べていました。それから避難センターには湧き水や滝などの水があったので、それを飲みました。きれいな天然水を飲むことができたのです。いちばんの心配は食べることで、次は、衣類の問題でした。寒さから身を守る衣服が必要です。戦争が始まって4年間、同じ洋服を着回していました。残り破ってハギレにしていました。そして、それらをピンで留めていったのです。縫ったりもしました。ひどい出来でしたけど。それからもちろんシェルターの問題です。何組もの家族でヤシの小屋に一緒に入るので、十分に休むことはできませんでした。夜中に起きて、子どもたちを寝心地の良い場所に移したりしました。大人よりも子どもたちが優先されました。それらの心配事以外に、生まれ故郷が気になりました。焼いたトウモロコシの粒以外に何も持たずに故郷を後にしたのです。皿やコップなども全部置いてきました。焼いたトウモロコシの粒だけ持って。水も飲めたので、何とか生き延びることができました。

Q:つまり避難している間はいつもお腹が空いていたのですね?

“空腹”は玄関先でよくドアをたたいてきましたよ。でも何とかごまかし、猛烈な空腹に襲われることはありませんでした。いつもお腹は空いていましたが、サトウキビを持ち歩いていました。サトウキビ畑も手入れされなくなっていたので、よく切り落としては皮をむいて、これぐらいの大きさに切っていました。それを持ち歩き、お腹が空いたり喉が渇けば、それをかじりました。砂糖の部分を食べたりして、何とか飢えをしのぐ方法を見つけていました。私たちは生き延びていました。中には米やトウモロコシを入れた袋を洋服にしている者もいました。ボロボロになった洋服の代わりに、袋に穴を開けて着ました。少しチクチクしたけれど、それしかなかったのです。洋服店もなかったのですから。隣人に頼んでも、隣人もまた衣類に不足していたのです。特に子どもがたくさんいる家は大変でした。うちは母も含めて4人でしたが、それでも雨や日差しから守ってくれる、しっかりとした洋服が必要でした。

Q:ご飯を食べるなど、調理した食事はなく、トウモロコシだけ?

そうです。火をたくとその煙が上って目印になり、爆撃されるのを恐れたのです。煙が目印になってしまいます。夕方になると、灯油の間を逆さまにかぶせて、ほのかな灯りになるようにして、家に戻りました。遠くまで旅をするでもなく、人と交わるでもなく、家にいました。家族だけで過ごしていました。攻撃の警報があると母は、「お父さんはどこ? お兄さんたちはどこ? 皆、家に戻ってきなさい」と言いました。それからシェルターへ向かいました。我が家は地下に穴を掘りました。深く掘って、かがめば、爆撃やら砲撃から身を守ることができました。最初に丸太を入れ、土をかぶせました。

Q:穴に身を隠して爆撃から逃れていたのですか? 日本兵に見つかることは怖くなかったのですか?

怖かったです。日本兵も負けていることを実感し始めると、自暴自棄になりました。執拗(しつよう)でした。市民を見つければ大量に虐殺することもありました。銃剣を使って。負ける覚悟ができていたのです。敗戦の覚悟ができていたのですが、簡単には諦めなかったので、残虐になっていました。繰り返しますが、そんな日本軍を責めるつもりはありません。それが戦争なのです。少なくても日本はフィリピンを占領していましたし、戦争が起きていたのですから。我々は占領下にいました。

Q:日本軍は避難所の付近にも来ましたか?

はい、残りの敵を探しに来ていました。フィリピン人も敵でしたから。自分たちが負けるとき、降伏するとき、島には生存者を残さないように必死だったのです。

Q:近くに来たときは物音がしないようにしていたのですか?

もちろん、私たちは物音がしないようにしました。赤ちゃんは窒息しそうなほど強く乳に押し付けました。泣いたら居場所が分かってしまうからです。乳を飲んでいる赤ちゃんがグズると、強く押し付けていました。押し付けるのです。口を塞がれて泣くのを止めるのですが、あまりやると窒息してしまいます。とにかく静かにしていました。当時は犬も飼いませんでした。犬は知らない人に吠えるので、見つかってしまいます。犬がいれば人もいると気づかれるので、犬は放しました。ここで殺しはしませんでしたが、放しました。犬も森の中に逃げて行ったのかもしれません。とにかく息を潜めていました。ブーツの音がしただけでも耳を澄まし、日本兵のかどうか分からなくても、人が近づいていることを察知しました。いつも耳を澄ましていました。敵か味方か分からなくても、気をつけていました。戦争のときは、危険な物音に敏感になっていました。銃声が聞こえれば、それが敵のか味方のか分からなくても、それを確かめることもなく、走りました。

Q:避難していた間、将来への希望はまだ持っていましたか?

ええ、戦争はいつかは終わるだろうと感じていました。その後で平和が訪れるだろうと。それがいつになるかは分かりませんでしたが、そう希望していました。いつか戦争が終わると分かっていました。どうにかして戦争が終わるだろうと。方言で歌った避難の歌も覚えています。現在、文化復興にあたって、それらの歌を英訳しているところです。避難中でも、何事もない夜には木の下でそっと歌っていました。青年たちがギターを弾きました。今でも覚えています。

朝の早い時間
山の中でのこと
みんなが探している
隠れ場所がないかと
貧乏であれ金持ちであれ
地位や身分など関係なく
なぜなら、私たちの最愛の町は
すでに廃墟となってしまった
私たちはそこから逃げている
私が耳にしたのは銃声だけ
みんなが泣いている
子どもたちを探して泣いている
子守唄を歌う母親
ブランコに揺られる赤ちゃんが
母親の足下に落ちる
母親は心配している
避難所は苦労が多いと 
持てる物は何でも持って 
そして山の中に
避難所を見つけた
そこは居心地が悪い
持てる物は何でも持って
そして山の中に
避難所を見つけた

ひどく荒廃していました。先ほども言いましたが、町にはまだ入ることはできず、郊外にしか住むことはできませんでした。がれきを除去しないといけなかったのと、金属や、からまったワイヤー、爆弾などの破片、割れたガラスなど、踏むと危険な物がたくさんあったのです。同じ状況の場所は他にもあると思いました。都市の宿命でしょう。マニラがすでに損害を受けたことは知っていました。そしてその被害は相当なものだと聞きました。オルモックは当時すでに新興の町でしたので敵側の手に落ちたら同じ運命をたどると思いました。そんな話をしていました。私たちは親せきと共に、あちらの方で生活を一から始めたのです。木材を集めて、もともと自分たちの家があった土地に家を建てました。周りをきれいにして、最終的には竹の家を建てました。以前あった家はなくなりました。みんな、家を失ったのです。家を失わずに済んだのはほんのひと握りの人だけです。年来のすばらしかった閑静な住宅街もあまり残らず、もう思い出せません。市民の学校は元の状態のままでした。

Q:崩壊した町を見て、日本人や米国人に対してどんな気持ちを持ちましたか? 壊された思いは?

特にありません。考える暇がありませんでした。有罪か無罪か、判断する時間はありませんでした。とにかく前に進まないといけないのです。先ほども言いましたように、あれは戦争の現実として受け入れました。味方によって引き起こされたかもしれません。いずれにしても戦争のせいなのです。それを理解していたので、責任を問う暇はありませんでした。瓦れきの処理など、やることが山積していましたから。子どもたちの面倒を見たり、食べる物を確保したり、病人を手当てしたり、身近なところで世話しなければいけない人がたくさんいました。私はまだ少女でしたが、誰かのせいにするようなことはなかったように記憶しています。町を取り戻すために誰もが一生懸命働いていました。崩壊が激しい区域には入れませんでしたが、自分たちの地区に落ちている木材や釘など、自分たちで片付けることができました。米兵が私たちを監視していました。片付けるところを、ケガなどをしないようにと監督していました。とにかく私たちの関心は生活のことでした。住む環境を確保するために努力しなければならなかったのです。戦争による被害をこう受け止めていました。“大災害”だと。大きな災害の一種だと。私個人の考えですが、私はすべてを戦争の現実として受け入れ、責任を追及することはありませんでした。他の町の方がもっと壊滅的な打撃を受けました。例えばパリやイギリスの都市はひどく破壊されました。私たちの町も同じことです。当然のことです。そんなふうに思っていました。他の人はどうか知りません。私はそう感じていました。周りの意見を聞く余裕もなく、前に進むことを考えていました。

Q:あなた個人的には、戦争についてどう思いますか?

何の利益にもなりません。得るものよりも、怒り、喪失感、崩壊などが後から生じるので、まったく歓迎されるものではありません。私たちは将来のことはあまり気にしません。気にしますが、将来の準備ができる範囲で十分です。私たちは現在のことに関心があります。戦争はまさに“現在”を崩壊するので、私は大反対です。戦争が国を浄化するなんて信じません。負の遺産を残します。それは罪悪感と後悔の気持ちです。他の国も同じ。どの国もそうでしょう。日本もその気持ちを持っていたでしょう。でも払拭(ふっしょく)されたのです。流れた血や奪われた命、崩壊した建物や、自尊心もすべて、払拭されたのです。あなたのような若い世代の人たちは戦争反対と言うでしょう。米国もそうでしょう。特に彼らは兵士を派遣するからです。世界に派遣して多くの命が失われています。海岸は血で染まり、海も血でいっぱいでした。私が思うに、現在の世代の人たちは、戦争に行かないと言うでしょう。実際見てとれます。だからこそ米国でもイラク戦争などには多くの市民が反対しています。私たちは戦争がもたらす代償を知っているからです。失うものは得られるものとは比べようがありません。多くの命や、平和、健やかな毎日がすべてが崩壊するのです。戦闘に参加せず、関係のない私たちでさえ、多くを失いました。自尊心、安心感、平和な生活を失ったのです。戦争に奪われたのです。私たちは銃や手りゅう弾を持っていたわけではありません。私たちは飛行機から爆弾を落としたわけではありませんが、それでも同じような喪失感を感じました。ですから個人的に、私は人を支配するよう戦争には反対です。なぜ隣人をそっとしておけないのでしょう。そして、国益のためなら他の手段をとるべきです。交渉を行い、友好的な外交を通じて、国の利益を広げていけばいいのです。武器など使う必要はないのです。一つの利益のために大勢が命を奪われるなんて、私は反対です。

出来事の背景出来事の背景

【フィリピン・レイテ島 誤報が生んだ決戦 ~陸軍第1師団~】

出来事の背景 写真昭和19年10月中旬、マッカーサー率いる20万の大軍がフィリピンに接近、上陸地点はレイテ島が選ばれた。レイテ島は、日本軍にとっても5つの飛行場がある重要な軍事拠点であった。
10月、太平洋戦争中最大の誤報がレイテ決戦の決行につながった。米軍機動部隊はフィリピン侵攻の前哨戦として台湾を空襲。迎え撃つ日本軍との間で激しい航空戦を展開した。ほとんど戦果はなかったにもかかわらず、海軍が報告した米機動部隊撃滅の大戦果を大本営は鵜呑みにし、昭和19年10月20日、レイテ島で一勝をあげることで和平につなごうとしたのだ。

昭和19年11月、1週間で勝てると言われた第1師団がレイテ島に上陸した時点で、既に制空権は米軍の手に握られ、米軍機が次々と襲いかかってきた。また、米軍の上陸直後から猛烈な砲撃を受けた。短期間の戦いを予想して十分な物資を持たなかった兵士たちは、すぐに食料・弾薬が尽きてしまった。
さらに兵士たちに過酷な命令が下された。限られた武器を手に敵陣に突っ込む「斬り込み攻撃」である。次々に兵士たちの命は失われていった。

食料や弾薬を運ぶはずの日本の輸送船は攻撃され次々と撃沈され、レイテ島の日本軍は孤立。生き残った兵士たちは食糧を求めて、密林をさまよった。

第1師団上陸から50日あまりたった12月21日、大本営はついに、レイテ島の放棄を決断、兵士たちに転進命令が下る。米軍が上陸していないセブ島で再起を図れというものだった。しかし、セブ島に行くために用意されたのは、わずか4隻の小型艇。第1師団1万3000人のうち集結地点にたどり着いた兵士は2600人。船に乗れなかった2000人はレイテ島に置き去りにされ、米軍とフィリピン人ゲリラの掃討にあい、全滅していった。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1940年
フィリピンレイテ島出身
1942年
レイテ島が日本軍の支配下に入る
1944年
10月、日本軍と米軍の戦闘が激化
 
戦火を逃れ、家族と山中をさまよう
 
米軍の砲撃で父を亡くす
1945年
終戦

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