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タイトル 「死を覚悟の斬り込み」 番組名 [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン・ルソン島 補給なき永久抗戦 ~陸軍第23師団~
氏名 村上 正徳さん(第23師団 戦地 フィリピン(ルソン島、リンガエン湾、バギオ、プログ山)  収録年月日 2011年11月14日、12月5日、12月6日

チャプター

[1] チャプター1 南方へ  05:24
[2] チャプター2 米軍上陸  09:09
[3] チャプター3 銃身が焼けるまで撃った  09:06
[4] チャプター4 戦死者の弾薬を使う  03:57
[5] チャプター5 死を覚悟の「斬り込み」  03:55
[6] チャプター6 決死の敵中突破  09:02
[7] チャプター7 日本軍バギオを放棄  06:34
[8] チャプター8 終戦、そして投降  04:11
[9] チャプター9 弔いの日々  05:58

再生テキスト

家に写真ば送っとったですわ。あの、写真屋行って、あの写してもらいよったですけんね。写して。

Q:このころは、兵隊に慣れて。

兵隊なってもう1年たっとったごたる、1年たつ前だったです、まだ。

Q:血気盛んなころですか?

はい。

Q:このころは、まさかそんな、フィリピンに・・

行くと思わんかったです。(満州の)関東軍は格好良かったですもんね。防寒帽かぶって、防寒着着て。なんさま(とにかく)防寒着、防寒帽はですね、こう抱えてみると抱えきらんごつ、重いですよ。そうば着て、走りよったですよ。

Q:どうやって知ったんですか?

それはですね、南方に行くっちゅうことは分かっとった。どこに行くかは分からんだったです。もう南方に行かなんとはですね、もう行くちょっと前に分かったですね。それ、その2週間ばっか前からですね、外出禁止の出たですな。それで「なんだろ?」って、

そして上級の人たちは分かっとったけどですね、わしたちまでは連絡は無かったもんですね。そして、あそこは門司だったですか。門司ですね。門司に着いてですね、そいでもうくが日本の土地だった。そいで、一生懸命日本の土地の踏み納め、足踏みせぇって言って神社に行ってですね、そいで神社で足踏みしてですね。そしてまた乗船して、そのまま乗船して出発したとです。

Q:これが日本の最後だ、というのは?

最後。「最後の踏み納め」と言うて、てもう、そいで足踏みせぇて。オイッチニーオイッチニー、足踏みしてですね。連絡される者はですね、手紙で連絡するて。そして乗船してから、そんとき乗船してからだったですか、乗船する前、いや乗船してからです。そして、まだ五島の沖に見えるとこでですね、あの船は何だったかな、「神州丸(当時の表記は「神洲丸」)だったですか、「あきつ」か「神州丸」かどっちかっだったですよ。ちょうど昼飯どきですね。「(魚雷が)ババーっで飛んできたですわ。そいでその船が真っ二つに割れてですね。(沈むのに)もう速さがですね、何分もかからんとですよ。

そいで、もう、ぼかちんぼうてフィリピンに行きよったけんです。そして、えー、その間にですね、海軍の駆逐艦が護衛しとったもんですね。そしてバンバン、船の、船団をザァーと回ってですね、警備しとったですね。護衛しとったですわ。そこまで良かったんですばってんが、爆雷落とす音ですね、心臓に響くとですよ。バーン・ジーっと、海底で爆破するとですね。そがんでんなかったですばってん、今度は台湾の沖でですね、バシー海峡で。そいで相当やられたですね、船が。運良くですね、ちょうど隣の船がやられたというときですか、その後に、私たちは吉備津丸って言うたですね、こう傾いたですわ。「わあー、やられたー」って、ずーと急回転して逃げたです。そして、台湾の高雄に一晩ずってですね、そして、バシー海峡渡ってフィリピンです。そのバシー海峡でも相当やられたです。十何隻の船団がですね、もう、何隻着いたんでしょう。わしたちは、そして北サンフェルナンドですか。

晩に上陸したとですけん。そっで、そーです、上陸してその晩の一晩、海岸に濡れとって、濡れたまんまでですね、私たちゃ寝とったです。そらやっぱ、ぐっすり寝るんですもんね。そっで歩いて、上陸して歩いて行くとですね、まだ、船に乗っとるみたいにですね、フワフワ、フワフワすっとですよ。そして、こんら、あのなんか病気じゃなかろかて思うけんですね。そしてフワフワ、なんか、「こげんならやっぱ病気じゃなかばい」ちゅーて。まさか船に乗って、それがずーっと続いとるわけなかろーて思っとったとですよ。そしてやっぱ、1週間以上はフワフワフワフワしとったですね。

Q:行軍は大変じゃなかったですか?

はー、大変だったです。もう、昼間は歩ききらんですもん、みんな暑うしてですね。もう寒い10月の、10月だったですかい、(満州の)ハイラルな雪の積んどったですたい。そっで急に南方に行ったもんですけん、フンドシ一丁で歩きよったですよ。銃、各自銃は持っとったですよ。フンドシ一丁でですね。荷物は全部、行李班がおったですから、行李班の車輌で積んでもろうてですね。して、私たちはもう、フンドシ一丁になって行軍して。「大体、ズボン、ズボンぐらいはいとけ」って、中隊長が言いよったですが、もう、ズボンもはく気にならんと、フンドシ一丁でですね。

Q:着いてから、陣地が決まるまで・・・

ずーっと、マニラまでですき。えーっと、ずーっと行軍で陣地なー、陣地なんかなかったです。そして、リンガエン(湾)の上のですね、318高地だったですか、そこに陣地作ったですもんね。それから毎日陣地構築です。

(米軍が)リンガエンに来たときはですね、もう、そうですね、リンガエンはあの湾にですね、(米艦船が)もう溢るるばかり来たですもん。もう、見てびっくりですね。そして日本はもう、飛行機な、あんまなかったですもんね。

そして、(友軍機が)1機か2機か来るでしょ。そうすっと、その弾幕がブアーッて。5連装の弾幕ですもん。それが撃つ、撃ってですね、ちょうど夕立豪雨みたいだったです。そして晩に、晩は、照明弾を撃ち上ぐっです、アメリカが。そうすっと、真昼、真昼みたいに明るうなっとですよ。そしてもう特攻機、その特攻機もうほとんど必ず、必ず落ちっですもんね。それに今度はまた日本のですね、こう、陸軍の工兵隊がですね・・船舶工兵って、あの部隊は暁部隊(陸軍所属の船舶兵。独自の上陸作戦などを担当)って言いよった、言いやせんだったですか。それが、ベニヤ板みたいな船にですね、魚雷抱いて、突っ込んで行くとですよ。そっでですね、30隻以上の船、敵の船をですね、損害与えたらしいですよ。

Q:見えてたんですか?

うん。私たちは318高地だけん真下に見えとっです。

Q:どんな、どんな情景なんですか?

はーぁ、そら、もうですね、もう涙のポロポロ出っですよ。船、突っ込んだらもう、ぜんぜん帰ってこんとですけん。工兵隊もですね。船舶工兵、ドンドン出ごったですよ。あーあ、ほんとにその当時、みじめさですね。その勇ましさていうはですね、日本な、何でこやんしてせんとだろかて。それがやっぱ兵器も飛行機もなかったでしょ。もう、2機か3機ばかり、「おーっ、飛行機がきたぞーっ」て言うて、日の丸の旗振ったら、必ず墜ちるですよ。日の丸のついとっとはですね。そして、アメリカのロッキードがですね、飛ぶですもんね。あの、あら戦爆両用ですもん。「戦闘機にもなっし爆撃機にも」て、言いよったですもん。戦爆両用で来っですよ。そして、私たちの陣地をどんどん、どんどん落とすです。そすと、ちょっと明ろうなっとですね、艦砲射撃です。もう318高地がですね、あの山が、木、1本もなかごとなったですよ。そして、きょくほう爆撃・・艦砲射撃とか爆撃したらですね、そこにわしたちは逃げよったですたい。一応。そすと、昨日砲撃爆撃したところはですね、もう撃たんです。それが隣ば撃つですもんね。一応、それは遮へい物のなか、なかごつ(無くなるように)してしまうとですよ。

Q:どんな感じですか?

どんな感じちゅうかですね、やっぱ夢遊病みたいですよね。恐ろしいていう気持ちは、なんもなかったです。恐ろしいていう気持ちはなかったです。やっぱ夢遊病みたいになりゃせんですかね。それけん、「やれやれ」ち言うごて。

Q:まずそのアメリカ兵が、あの・・

上陸した。

Q:上陸したときそのときどんな状況でしたか?

そんときはですね、アメリカの上陸するってことは大したことだったです。初めて見たときはですね。戦車が海ん中突っ込んできて、戦車が海ん中ザーッって来 っです。水陸両用の戦車がですね。

Q:初めて見たんですか?

初めて見たです。「戦車が突っ込んだぞ、海ん中突っ込けた」って言ってですね、ザーッて船みたいに来よっです。そうすると上陸用舟艇に、その後ろからずーっとアメリカの歩兵が乗っとるです。海兵隊がですね。それが船にですね、いっぱい乗っとるですね。そいで海岸まで上がって来るですわ。日本にとっては、海で止まって、それから海に入って上陸しとったですから、アメリカそのままサーッと海岸まで上がって来っです。

Q:それ見てどう思いましたか?

もう素晴らしいっちゅうくらい来っじゃなかです。もう、ぞっとするくらいです。そっで、水陸両用で上がってですね、前にこう、船にあっでしょ、こうして。それがパカッて上がっですわ、そのまま走って行くっです。日本は、船から飛び降りて行きおったですばってん。そうすると、それとですね、いちばんびっくりしたとはですよ、ブルドーザーが、見たことなかでしょ、ブルドーザーが。そしてわしたちが道路ば破壊して行くっとですよ、どんどんどんどん道路作って行きよっとですよ。「はー、大したもんで」って言って、いう調子で見とっただけです。ブルドーザーと、それから、ショベルカーですね。あれはもう初めて見たです。それは日本には無かったですもん。今ではどこでも見られるけどね。

左の目はつぶって、右目で。大したことはなかですよ。わしたちがやるですね。

Q:何かかけ声とかって・・

いえいえ、伏せ撃ちすっとですけえ。這(は)うて。

Q:この間、見せていただきましたよ。どうやって伏せってやるんですか?

ただこうして。銃口があるでしょう、こうして、この高さぐらいですけえ。こうして当てて、こうしてガンと撃つわけです。三八式歩兵銃(明治38年に陸軍が採用した小銃)というてですね、もうそればかりです。あのう、兵も、軍で持って行っとった。狙撃銃は持って行っとるですかね。うちの部隊は持って行っておらんですけえ。そうすると、ひざ撃ちちゅうとがあるですたい、ひざ撃ち。座ってこうして撃つとです。ひざにこう当てて、こうして撃つとですよ。

こうして、やっぱりこうやって片目でこう撃つ。手はこう返して。そうすると、指はですね、この第2関節に引っかけとるです。軽機関銃は第1関節です。そして、3発点射とかですね、あるんですよ、軽機関銃は。そうすると単発は撃たんですもんね、軽機は。ダダダ、ダダダ、3発ずつ撃つ。そのとき指のトッパ先にこうかける。そうすると、すぐ外されるでですね。小銃はもう自然とこうして握りしめて撃つ。

Q:村上さんの銃の腕前はいかがだったんですか?

いや、わしはあんまり大した腕でなかですわ。大体、あだ名がついとった、“3発射手”ちゅうて。5発撃って3発は当てよったですよ、実弾射撃で。じゃけん狙撃手に選ばれたです。

Q:どんな人が狙撃手に選ばれるんですか?

やっぱり射撃の成績でです。射撃の成績でですね。やっぱ、命令で出た。「狙撃手を命ず」と言うて。そうすると階級章とか何とかもらうとです。半年に1ぺんずつ階級章があるですわ。階級章は階級章の命令で出るです。そうすると山型を着けて。わしも3本着けとったですけえ。4本目になるときはフィリピンさ行ったですけえ。もう戦場じゃなかですよ、階級章も。全部はずしてなくなってしまうです。

Q:撃ったときの気持はどうだったんですか?

やっぱりいちばん最初はですね、やっぱ当たったんじゃなかろうかという気持ち、サァーとするですね。私たちは、最初はあの、満州で豚殺すので出んです。もう、ゾォーとして、豚食うごつなかったですもん。それで人間ば撃つとだけんですね、最初は嫌ですね。あの、これにも書いとるですね。なんの恨みもなか兵隊同士が、どうしてこぎゃんして殺し合わなんとかごつ書いとるです。
                            
だんだんして、もう「ええい、くそっ」っていう気持ちになるもんですね。もう1人撃たれりゃ、「かたきを討ってやる」ってごつ気持になりますよ。

Q:まだ弾があると思っていたころの最初の戦いってどんなだったんですか?

そうですね、銃がですね、熱帯地方ではあったですが、もう夕方ですと涼しかけんですね、海風吹いて。木被(銃身上部の木製のフタ)と銃身のですね、間からグリースの流れ落ちるとです。溶けて。それが銃身の焼け焦げとったですよ。銃身が焼けるというのは、グリース油が溶けるでしょう。油だけん。それが手に流れてくるとですね。

Q:銃身が溶けるということは、たくさん撃っているということ?

そうです。銃口の焼けるまで撃ったです。熱うして握られんようになるまで。ベチャベチャでですね。もう、鉄砲というものはそれが続けて撃たれんとです。それで1発1発撃つばってんですね。ガチャンと。遊底が速かなきゃいかんですね。やっぱ、隣ではやっぱ当たって死ぬしですね。(米軍は)えい光弾ば打ち上げるとですたい、バーンと。そうすると昼のようにザーッと明るくて、わしたちはまる見えです。そうすると、それにアメリカから艦砲射撃がバーンと来るしですね。昼は昼でロッキードがビューンと来るしですね。ロッキードの弾はそこにあるですたい。

Q:最初のころはどれぐらいの間隔で撃ちまくってたんですか?

やっぱ連続的急射撃、撃ちよったです。余裕で撃って、余裕持って撃つならですね、あのう、グリースは流れんですもん。どげんして撃ったか分からんして、撃ったにゃんですね。100発も撃たれんでしょうね、銃身の焼けて。機関銃あたりじゃ弾出なくなるんですわ。突っ込みを起こすと言うてですね、弾が突っ込みを起こして、弾の出なくなるけん、冷えるまで待っとかにゃんです。かえって悪かです。

Q:村上さんは、最初120発持っていたうちの、初戦ではどれぐらい使ったんですか。

そうですね、半分までは使うとらんだったですね。まだ、60発は撃ってしもうて、

補給はもう日本のあると思うとったですよ。まだ、船沈んでもほかによその船、よその部隊もあるでしょう。海軍も持っとると思うとったでわ。

Q:最初に半分近くも弾使ってしまったんですか?

半分。前後交互というですもんね。前後の帯に2つずつ。それを半分使うとるでしょう。

Q:それで、補給がないって知ったとき、どう思いましたか?

まだ、補給のなかちゅうて、そんときの補給がなかと思うて、後から来ると思うとったですわ。

弾は弾はあるとだろうっかて思いよったです。半信半疑だったですね、そんとき。もう上陸してからもですね、弾の補給はないし、そして「弾はどうなっとるんですか」って、分隊長に聞いとっちゃ。「さぁ知らん」て。「分からん」てなって。「弾はなかですか」てなって、「さぁ分からん」ち言うて。

いよいよ弾ののうなったちゅうとは、大分してからですね。1か月か2か月してからでしょうね。全然。1か月ぐらいしてからです。「ああ、辛抱せんと弾のなかぞ」と言うたったとは。そのときはやっぱり30発か40発は持っとったですけえ。終戦のときはたった3発だったです。ほかの者は持たん者が多かったです。弾のなかちゅうとほど寂しきことはなかですね。もう、何とも言われんです。心細うしてですね。そうばってん小銃を持って、近かとこは撃たれんとですけえ。かえって当たらんです。

Q:辛抱して撃たにゃんぞというのは、どんな辛抱してたんですか?

撃たんのです。必要以外は撃たんとですね。必要ちゅうとは、何か撃たにゃならんのだというのがあるでしょう。そのときはやっぱり撃つですばってんが。あそこの、あそこは何というかな、アンブクラオ(ルソン島の戦いの終盤の戦場)のときがですね、あんときはもう10発は持たんだったでしょう。アメリカ兵がどんどんどんどん撃って、アメリカ兵は弾薬とか食糧の補給ば飛行機がしよるですもん。

いややっぱり弾がなかですけん。鉄砲の弾って言ったら辛抱するもんじゃなかですよ。辛抱しまくって撃ちよったです。補給が、補給がなかなか、晩にしか補給がなかって言いよったですけん。晩に持ってこ、弾がなかですけん、全然1回も補給はしてもらったことなかったです。

Q:そのじゃあ補給のない中で、今撃ちたいのに撃てないって、そういうことだったってことですか?

はい。もう敵は亭亭に(明瞭に)見えるとこにおっとですわ。そっで、撃たれんとです。弾がなかですけん。それで戦死した人の弾入れば探してですね、それば使いよったです。

Q:見えてるのに、敵は。

敵はもう敵は見えとっとです。見えっとこにおったです。敵も日本、もうそのころになっと舐めとったですわ。

戦死しとっとるのの「弾ばもろうで行くぞね」と言うて、もう死んどったばってんですね、弾入ればふたを開けて持って行くは2~3回あるです。「もう死んでから弾要らんもんね」と言うて。やっぱり黙って持って行くことはなかですもんね。「死んでから弾要らんけんね、弾もろうて行くぞ」ちゅうて。そして行きよったですよ。

Q:まずその斬込みっていう命令が出てくるんですか?

ああ、出てくる。ひとりずつ名前も言うて。いやあの分隊長にですね、分隊長か小隊長に命令が来っとでしょ。そうするとあの、自分の分隊連れて行くか、そうとあの募集じゃなかですか。「だいけ(誰行け)、だいけ、だいけ」っちゅうて。6人なら6人、10人なら10人っちゅうてですね、行くとです。

斬り込み嫌じゃなきゃです。嫌じゃなきゃばってんですね、斬り込みは自殺しに行くのと一緒だったです。自殺に行くのと一緒だったです。

あの、「弾さえあれば斬り込み行かんだったっちゃ(行かなくてもよかったのに)」って、「鉄砲の弾で撃ち合う」っていう思いだった。それで、やっぱ「作戦だからしょうがなかたい」って、で、行きよったです。それで斬り込みって、あの敵の陣地へ行くでしょ。そうすると、ほふく前進って言って、第三ほふくって言ってですね、芋虫前進すっとですたい。

もうそんときは、敵殺すも何もなかです。夢中で(手りゅう弾を)投げるですけん。その敵のおるとこに夢中で投げるけん、やっぱおそらく死んどるでしょ。

Q:ご自身が斬り込みに行って、いちばん印象に残ったことは?

あー、帰りですね、マニラ街道ですね、アメリカの陣地があったっですたい。それ知らずにですね、なに行きよったら、(米兵が)バーッて撃ち出したですよ。そっで、小川のですね、小っさい、このくらいの小さなの川ですよ。このくらいの。このくらいだったですかね。そこん中に全部飛び込んだですよ。そして、一晩そこにおってですね、あくる晩にそこを脱出してですね、もう足はふやけてですね、もうくうか、ずーっと草ばこうしてって土手沿いにでっかかってですね、草をこうかぶって、そして、隠れとったですよ。そして、そんときの分隊長がもう、タカモリ軍曹いいよったですかね。でもやっぱ阿蘇から来とった人だったですよ。その人が戦死したですよ。その戦死して帰ってからですね、大隊長に報告したですたい。そしたら、「どうして指一本でも持ってこんかったんか」って。「それどころじゃなかったですよ」って言うたら、川から引きあげるとに精一杯だったですよ。

相当バンバンバンバン撃たれてですね、弾で。もう鉄砲、アメリカ兵から撃たれたですよ。

Q:斬り込みから帰る途中?

帰る途中で、はい。糧まつ集積所のとこですね。そう、あっても知らんもんだけね。糧まつ集積所で、ある1人の兵隊が電話線を切ってしもうた。もうタッチアウトです。それでもうジャンジャン銃撃ですね。敵が多かったですけ。こっちは12、3名しかおらんかったです。斬り込みや。それでやられてですね、タカモリ、2人ぐらいそれで死んだ。

いちばん最初はリンガエンをですね、私たちは死守命令出とったです。もう全員玉砕する覚悟でですね。死守命令。それから固守命令が出たですもん。そしたけ、あぁ、今生き残ってるのは生き残られるって、みんな言いよったですもん。そのときもう、もう死ぬっちゅうことはですね、もう覚悟しとったです。もう死守命令が出たときですね。

Q:死守命令って言うのはどういう命令なんですか?

もうそれは「死守すべし」言うて。「死んでも離れることは出来ん」って。そうすると、そしてが、「固守命令」て言うて。「固く守れ」って言うてですね。はあ、固守命令だったら撤退までよかですもんね。そして連隊長とか大隊長の命令で撤退して。それでなきゃ、自分たちが撤退しとって、撤退した逃げ出すとでけんですもん。あの見つかったら銃殺されるですけん。そいで死守命令が固守命令になって、そしてあの、「撤退命令出たか」って言うと、「敵中突破」って言ってですね、そんときに大隊長の言葉ばここに書いとったって思うんですが。「何が何でも、外はみんな敵ってことを考えて、自分の命は大切やけん、大切であるっちゅうことを覚悟せよ」って。「自覚せよ」って言って、くれぐれも。そして敵中突破したっです。

Q:その、大隊長がですね。その命は大事にしろと。

そっから大隊長の顔は見らんだったですね。先頭ば行って。

Q:その言葉はどう受け止めましたか?

いや、そんときはありがたかったですよ。ああ、死ぬなっちゅう意味ばいな、と思って。死ぬなっちゅう意味ばいなと思って。もうなんでんですね、深く考えたくなかったです。

Q:なんでですか?

もうなんも考えたくなかった。家のこともあんま考えんしですね。もう、「天皇陛下万歳」を言う者は1人もおらんです。天皇陛下万歳、聞いたことないです、私は。

Q:敵に囲まれてるっていうのは知ってましたか?

知ってる、知ってました。もう敵の重囲に陥って、今度は、この軍の玉砕って、もう玉砕覚悟しとったです。

そいで、もう敵中突破やっときはですな、あの、なんですか、河原だったですもん。集合したところは。そいで食事を済ませてね。まあ、月の出とったですけん、月が入るまでですね、休憩せいて言って。ほいで、重いものは捨ててしまったですわ。もう、鉄砲、鉄兜なんてもうもう、死んだっちゃよか(死んでもいい)と思っとるけんですね。

あのもう命令の、「突破する」っていう命令が出とっがですね、もう河原にこうひっくり返って寝るでしょ、寝とっでしょ、そして月をこうして見とったらジーンとですね、涙の出とってくっとですよ。考えは何もないです。もういよいよ日本も最後かなって思って。日本っていうより我々が最期かなって。

Q:月が入ったら行くって?

はいそうですよ。もう「闇夜になったら敵中突破するぞ」って言って。

Q:どんな掛け声でどうやって?

いえいえ、掛け声出すと敵に分かっですけん。「シーッ」って言うだけです。走って。ほとんど声は出さんです。

隠密、隠密にですね。もう担架に乗っとる負傷兵なんたるはですね、もう足負傷しとってもう、担架から飛び降りてですね、担架兵がこうして担いで行きよっでしょ、そしてかわいそうだけんね、乗っとる兵隊は飛び降りてですね、ちんばしながらやっぱ走って行ったですよ。いやもう、大したもんねって。ああ、あんだけケガしとって走って行ったぞって。骨やられとんのは走りきらん(走れない)ですが、もう貫通だけした、銃だけじゃ人はですね、全部走って自分で飛び降りて走って行ったです。

Q:実際に敵の陣地の間を抜けるんですか?

も、敵もすぐそこにおるけん、敵の陣地のなかとこを行くとです。例えば敵がずーっとしとれば、もう斥候が出て、そいで陣地は大概分かっとですけん。そいで中とこ突っ切って行くとです。それ第1大隊は敵の中を行ったんでしょ。あの敵から察知されてですね、そしてほとんど全員みたいに戦死しとるらしいです、大隊長以下。

Q:村上さんの大隊は?

無傷で行ったです。もう突っ切って、敵を突っ切って行ったです。そうすると第2大隊もですね。第1大隊だけが敵から察知されて、集中攻撃されて、全員、ほとんど全員に近いほど死んだでしょ。

敵中突破終わった後はですね、もうほんとにもう、「俺たちは神さんじゃなかろか」て。んで全然もう被害もなくですね。全員、1人も戦死者ば出さず。その後に、1大隊がほとんど玉砕らしい、もう玉砕に近か戦死者が出たて聞いたんですたい。で、「はー、そういうことだったか」言うてですね。そんまで知らんだったです。弾の音は聴いとったですばってん。

Q:じゃあ一度は死を覚悟したのにこう生き延びれたという。

まあそしてですね、こういうときに言うてよかろか悪かろかて思うですたい。死んだ人にウジできとっですたい。いっぱい。真っ白に。こぎゃんしてこんなかに死んどっでしょ。して、油が真っ黒。血の色でね。人間の油が。

もう真っ白ウジんできとんもんもおるしですね。まだやられてすぐの、目、鼻、口からウジのこう行ったり来たりしとる者もおるしね。もう、かわいそかですよ。もう、戦争はするもんじゃなかですよ。勝っても負けても、被害者は出っとですけ。もう、そうですね、あのー、リンガエンではですね、アメリカ兵も大分戦死者のおったですよ。アメリカ兵も相当死んどっですよ。

やっぱ戦死者はでとっでしょ。もう、勝ったけんちゅうて戦死者の1人もおらんちゅうことはなかっですけん。やっぱ戦争・・そうですね。やっぱ勝っても被害者は、家族は、遺族は悲しかっですけん。

Q:最後、そのバギオでは・・・バギオではこう。

はい。撃ちはせんです。ほとんど爆撃が多かったですけん。もう、弾は届かんですもん。あのころもう、ジェット機は出来ちゃあおったですけん。終戦前にブァーンいうて飛行機が来るけん、「あらなんや」ちゅうて言いよったですもん。

Q:それまでとは違う飛行機だったんですか?

ああ。普通の、普通の浮遊機じゃなかった。あの、翼の普通の飛行機です。プロペラ付きです。

Q:そのころって、もう成す術、何も無いんですけど…

はあ。ないです。なーんも出来んです。バギオに山下大将のですね壕のあったばってんが、もう山下大将の警備も何も壕に入ったままだったでしょう。「これが戦争なのか」て思ったですもん。もう、なんて言うですか、もう日本軍の方、手も足も出らんだったですもん。もうどこの部隊も弾薬は尽きてしもうとったでしょう。

もう、なんで私ばっか、こやんして苦労せなんとだろうかて。そら、まだ日本が負けとるて思うとらんもんですけん。帰ればどうにかなるて思うとったです。まぁ、それだけん、みんな、生きるだけ生きておらんと戻られんぞて言うとがですね。本当にみじめな戦争だったです。これが戦争だろうかていうですね。そすと、収容所じゃ収容所でですね。

Q:その、惨めな戦争っていうのはなんでですか?

弾はなし。食い物もなし。そしてですね、もう、戦争ていうのはこういうもんかて。みんなこういう戦争だろうかて思いよったです。

終戦になるまでですね、食料、それから、兵器弾薬ですね、1回も補給がなかったです。

Q:本当ですか?

はい。そして、斬り込み行くときは自決用の手りゅう弾使こうたんですね。それから、鉄砲の弾はもう、最初にもらうたやつばですね、そのまま持っとったですけん。そして、補給があっだろうて思って、最初バンバン撃ちよったですよ。1回も補給のなか(ない)。で、終戦のときはですね、全然持たん、弾持たん人たちが多かったですよ。わしは、たった3発しか持たんだった。120発は必ず持っとかなんとですよ。前に60発。後ろに60発ですね。そして、背のうにも入れとかなんとですよ。それが、1回も補給のなかけんですね。食料の補給もないしですね。そして、自分の食うとは自分で見つけなんですよ。草食うたりですね。それか、田んぼに水いぼが生えとっと、それを採ってきて食うたり。そして、最後の、バギオの手前にある、あそこはキャンプスリーていうとこだったですか、そこの田んぼに、田んぼにですね、オタマジャクシがだいぶおったですよ。だけん、蛙が食わるるけん、オタマジャクシも毒じゃなかろー言うて、オタマジャクシとその草とですね、この、この草ですね。種、種持ってきて植えとったです。これ、これです。

Q:これなんですか?

これは、南方春菊て言うて食いよったです。

春菊の味のするですよ。山に生えとったです。誰が見つけたかですよね。南方春菊て、前の、あのー、下がっていった(撤退していった)兵隊の食いよったけん、それぞれで。聞いてきて、私たちも採って食いよったです。山に生えとったば、採ってですね。

Q:オタマジャクシとかも食べてたんですか?

オタマジャクシは最後にです。そっが、1~2回だったですよ。もう、すーぐ終戦になったですけん。

Q:オタマジャクシや南方春菊以外に、他にどんなもの食べましたか?

他ですか、他にはデンデン虫ですね。それからバッタですね。バッタはですね、やせ我慢かなんかしてて、おかゆにして食いよったです。でんでん虫(かたつむり)はやっぱ貝のごたっですねー。それとトカゲですね。トカゲ食いよった。トカゲはうまかったですもんね。これくらいあるですよ、1メートル以上あるです。ところがまだフィリピンにもトカゲは高等料理です。

日本の負け、負ける国じゃなかて思とるですよ。バカみたいだ。最後まで「日本は粘り強く勝つ」て。日本の本土決戦なんて思いもよらんだったです。戦場はですね、俺たちばっかって。こんな惨めな戦争しよっとはって思いよったです。「日本に帰ったら、一生懸命飯食うぞ」て。「白飯食いさえすればいつ死んでもよか」て言いよったんですよ。んで、「日本に帰れば白飯食わるっぞ」て言いよったです。

わしは終戦のときは(弾薬を)3発しか持っとらんだった。持たん人が多かったです。

Q:3発って何のための3発ですか?

自分の身の。もしもあの、身を守るときに使わなあかんけん。敵の捕虜にゃなろかなかけんですね。もう、敵の捕虜になったらなぶり殺しされるぞて、聞いとるですけんね。

最初は終戦も知らんだです。終戦知ったのはですね。アメリカが、どんどんどんどんどんどん、ビラ落とすでしょう。「戦争終わりました」て。そして、銀座でですね、日本の女性と手組んで歩きよるアメリカ兵の写真の印刷してあっとですよ。「あー」と。それで、私たちはもう、それでですね、逆宣伝て思うとったです。「そっが、信用すんな」て。それが、状況が分かっとは・・この俺たちばかっだから、そして日本は健全で、そして原子爆弾のいきさつも知らんですもん。それけん、そして、「日本は勝ちよっただけん」て。

山を下ってくときはもう大体分かっとったです。「ああ日本は負けたらしいね」言うて。そんとき初めてあの原子爆弾ことも聞いた。日本には長崎と広島に新型爆弾の落ちたそうなていうこつ聞いたです。それだけです。

命令です。命令が出たですもん。山を下るて、武装解除をうけてですね。

Q:なるほど。

武装解除がもう大変だったです。あの、銃には全部菊のご紋ち付いとるんですよね。

もう菊のご紋をこう潰すときだけは涙出たですな。「ああ日本もこれで負けた」って。俺たちも負けた。そのとき、まだ日本が負けたっていう気持ちはなかったですけ。石でこう、たたいてですね、よそ、よその人だったと思うんです。命令でですね。菊のご紋は潰せっちゅう命令出たけ、潰さなきゃいかんですよ。菊のご紋潰すいうことはまだあの、小学校のときから菊のご紋あがめとったでしょう。だから菊のご紋見たら、必ずお辞儀していかにゃとなっとったですけ。連隊本部に菊のご紋あるし。菊のご紋だけは一生懸命鉄砲掃除するときも磨きよったですよ。それ潰さな(潰さねばならない)」って言うてですね、「石で潰せ」って。命令出たとき「なんでやろか」っていう気分だったです。菊のご紋のために戦争しよった気分だったです。小学1年からずーっと菊のご紋なんですね、修身の本についとったですもんね。それで習うてそれで天皇陛下の御為(おんため)とか、みんな言うとるけですね。それを今さら潰(つぶ)せ言うたですね。菊のご紋潰すとき涙が出たですけ。

蚊帳張って寝とってですね、枕元へこう、なんか、蚊帳の上にこうして出てくっとですよ。もう血だらけになってですね。

Q:誰がです?

それはあのー、全然戦友じゃなかんです。もう、やっぱ妄想でしょうね。こう、出てきて恨めしそうな顔で、「水!」とかですね。そうすと、あの、枕元のとこに、ボーとして立っとったごと夢見たです、

Q:村上さんは生きて帰ったことに対して・・

すまんだったという、帰ったときはですね、もう、俺ばっかり生きて帰って。もう、申しわけないってほ言うたですよ。もう、一緒に死んでやんなよかったって、思いよったですよ。

はい。それで、やっぱその気持ちはあったけん、やっぱ(慰霊碑の)掃除に行きよったですよね。

Q:どんな気持ち?

やっぱ、生きて帰ってもう申しわけなかったって思ってですね、そのころはまだそういう気持ちあったんですわ。

やっぱこれですね、せんではおられんだったですわ。やっぱ、して、きれいにしてやらんと、みんなやっぱ、あそこお参りするけんですね、それだけん、みんなの冥福ば祈るためにもですね、やっぱりしてやらんといかんと思う、思いよる気持ちがあったですね、ほとんど。それで、暑かっても寒かっても行きよったです。

そして、もう行かんとですね、やっぱり心苦しかごとでですね。それはもう深か気持ちじゃなかばってん、やっぱ、そういう気持ちが多かったですね。もう、風邪引いて休んで行かんでおるとですね、やっぱ気がかりになってしもうて、みんなにすまんねえって思う思いですよ。誰か掃除しよっとだろうかって。それで行くと、今度は、いっぱい散っとるですよね、木の葉が。

恐らく死んでから先まで、戦争のこの話なんてせんでしょう。もうこれが最後かしれんです、戦争の話しは。

Q:今戦争終わって60数年たったんですけど、あの戦いって村上さんにとってどういうものだったんですか?

何のために戦争したかて今は思うですね。戦争に勝っても負けても犠牲者は出っとですけんね。戦争で勝っても遺族は遺族ですけん悲しいんですね。遺族の人たちも相当やっぱしね、やっぱかわいそうですよ。

Q:その当時は何のために戦ってましたか?

やっぱし、お国のためと思ってましたな。お国のために戦争にはと思って、一生懸命したですな。お国のために何にもならんかったでしたが。

Q:そう思いますか?

はい。やっぱそうですね。いえ、何にもならんかったということではなかったばってんですね、戦争でかえって、今、平和のありがたみが分かるようになってですね。もう、平和がいちばんよかですよ。わしたちも、政治のことは何も分からんけんですね、平和で、皆ですね、家族全部で平和がいちばんよかですよ。平和というとありがたいもんですな。平和というとありがたいもんです。

出来事の背景

【フィリピン・ルソン島 補給なき永久抗戦 ~陸軍第23師団~】

出来事の背景 写真太平洋戦争終盤の昭和19年秋、日本軍はアメリカ軍に対し、フィリピン・レイテ島で起死回生の戦いを挑み、大敗北を喫しました。その後、戦いの舞台はルソン島に移り、日本本土を目指して攻勢を強めるアメリカ軍とそれを押しとどめようとする日本軍との激しい攻防が続きました。
その戦いで、主力の一翼を担ったのが陸軍第23師団です。兵士たちは、本土決戦までの時間を稼ぐため、戦力が続く限り、アメリカ軍を島に足止めさせることを求められました。しかし、圧倒的な兵力を持つアメリカ軍を前に、23師団は苦戦を強いられます。兵士たちは死を覚悟して、戦車への突入攻撃を繰り返していきました。

この時、すでに日本軍は、制空権・制海権を奪われ、ルソン島への補給は途絶えていました。しかも、太平洋の島々で激戦を繰り返してきたため、島に蓄えられていた物資の多くを使い果たしていました。
こうした中で、兵士たちに下されていた命令があります。「自活自戦・永久抗戦」。食料も物資も自ら調達し、永久に戦い続けろというものでした。兵士たちは、農家の作物や家畜を無断で持ち去る事実上の略奪などで食料を得ましたが、圧倒的に量が足らず、飢えや病で次々と倒れていきました。

昭和20年4月、日本軍は司令部のあるバギオを放棄。その2か月後、アメリカ軍はルソン島作戦の終了を宣言します。飢えや病にさらされながら山岳地帯に逃げ込んだ兵士たちがアメリカ軍に投降したのは、終戦から1か月後のことでした。
補給のないまま戦い続けることを命じられた陸軍第23師団。補充された将兵を含む3万人のうち生きて日本に帰ることができたのは、5千人だけでした。

証言者プロフィール

1921年
熊本市に生まれる
1942年
現役兵として西部第16部隊に入隊 満州で国境警備にあたる
1944年
陸軍23師団歩兵第64連隊でフィリピン・ルソン島へ派遣される
1945年
ルソン島・プログ山で終戦
1946年
復員
 
戦後は製本業を営む

関連する地図

フィリピン(ルソン島、リンガエン湾、バギオ、プログ山)

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