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タイトルタイトル: 「時間かせぎの戦争」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン・ルソン島 補給なき永久抗戦 ~陸軍第23師団~
名前名前: 江口 俊夫さん(第23師団 戦地戦地: 東シナ海 フィリピン(ルソン島、リンガエン湾、プログ山)  収録年月日収録年月日: 2011年11月15日

チャプター

[1]1 チャプター1 沈んだ輸送船  06:30
[2]2 チャプター2 限られた救助作業  04:44
[3]3 チャプター3 兵力減少  03:29
[4]4 チャプター4 圧倒的な兵力の差  03:51
[5]5 チャプター5 戦車への突入攻撃  03:11
[6]6 チャプター6 時間かせぎの戦争  02:54
[7]7 チャプター7 隊長の自決  06:31
[8]8 チャプター8 終戦、山を下りる  05:18
[9]9 チャプター9 連隊旗を燃やす  02:32

チャプター

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン・ルソン島 補給なき永久抗戦 ~陸軍第23師団~
収録年月日収録年月日: 2011年11月15日

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昭和19年の11月の17日、今の済州島をちょうど昼通りました。そしたらそのときに、29ですね、B29。アメリカの。あれが、昼、あたしたちの上を通ったんですよ。「はぁー、偵察に来たかな、どうも今日は、用心せんと危ないなあ」と思って。で、兵隊たちも今日はどうもこう最前通ったあれが臭いつって。それからちょっとでもやられたら飛び込めるよう、救命具をつけて、あれをこうして股の間を通してですね。して、「せんと、いつやられるか分からんぞ」つってね。言うて、みんなにそういう準備をさせて、そして、私たちは機関銃だったから対空射撃で来たら撃つように機関銃を上向けて置いとって、場所も船のいちばん先頭の広場のところにおったんですよ。で、なーんもなかったから「もうないなぁー」と思とったら、6時だったですよ、ちょーうど。「ガタガタガタアーッ」つってね。(魚雷に)「あらぁーーやられたー」思て。そしたら・・・一時したらまた「ガタァー」と激しくなったですよ。操舵室、こう運転する、あすこの下がやられたもんだから、あたしたちはちょうどそん前におったから。そんでもう、なんて言うんですかね、家がもう、ひっくり返ったごたった(ようだった)。

だいたいですね、船はこう行ったらね、当たった方で沈みます。そうすっとね、こっちには飛び込んだらいかんとですよ。こっちに飛び込んで。これで飛び込んだらもう、船の中が3階建て、4階建てほどありますから、水がどんどんどん吸い込みよっとです。そらもう、全部、兵隊もみんなも教育されてますから、してありますから、反対側に、吸い込まんほうに。

どうなるやら分からんですよ。「あ、もうコレで終わりだなあ」「もう、早かったなあどうもしょうがないかなあ」と思て。もーう、なかなか揚がらんとよ。そらもう、まあ。覚悟はしとったからまあって思いながら自分で諦めとったです。そうして何分ぐらいしたかね、2分もあったか知らなかったけど、ブワァーと浮き上がったです。なんで浮き上がった、たら、こう巻いとって、でモノが全部集まってプッとあって、そしてあたしの体のウウウーッと上がっていって。ごみがいっぱいあって、頭の、息ができんとですわ。そでやっと息して、「ああ、よかった助かったーっ・・・」ってやっとね。ところがいっぱいなんやかんやあるもんで。除けてやっと首だけ出してですよ、ああ助かったって。人がどげんなってるかは分からんですよ、自分だけね、それから、こーしよってたら、みんなこうばらばらになってですね。そいでもう、船はずっと動きよってですよ、まだ。そうしながらもね。沈んでしまってから、あたしたちは、モノと一緒に。で、「ああこれはもうどうも」といったら、その中にこれあの、長さがあたしの身長くらいで、そっでコレくらいの厚さの板が運良くあったんですよ。

そしたら今度は見てみたらもう6時ですねえ、ちょっと過ぎ、11月ですよ。ちょっと日がちょうどもう暗くなりかけてるところ。見たらみんな泳いどる。泳いどると言うか、モノの取り合いです。というのがね、ブイがあっでしょ。ブイってのはご存知ですか? コレに全部救助すっときの糸が、ああ綱が付けてあってで、それに全部行くわけです。すっと今度は一方の方見ると、あたしたちが向こうに着いたとき、モノ下ろすのに使う発動機の大きな船が2隻か3隻浮いとったですわ。で、こう見たらどこもここもブイの争奪戦です、船の争奪戦です。して、船は見よるうちに沈むとですよ。

Q:すいません、その争奪戦って?

取り合いっこです。これなんかもうあれでしょう? 人が余計取ったら(乗ったら)沈みますから。重みが。船もですよ。みんなが乗ったら沈みますがね。そういうまあ言えば、この世の生き地獄ですよ。

そしてある程度落ち着いたら、みんながあっちこっちで軍歌を歌い出した。歌を。うちの部隊だけじゃなくて各部隊からおるから、いろんなとこで軍歌を歌うてみんなで励まし合う。で、私は歌わなかったんですよ。なぜ歌わなかった? 体が疲れますとね、まだ今夜一晩頑張らんといかんでしょ。

で、こうして夜が来たら、こう12、3人集まってきた。みんないて、「いいか、今から誰が眠ってもいいから、眠ったやつは絶対、たたかにゃいかんぞ、起こさにゃいかんぞ、眠らしたら死ぬからね。いいか、お前たちは寝たら死ぬぞー」って、私はみんなに言うて。みんなで起こし合ってから、やっと。その間が何時間だったかは分からん。そう言いながら私も眠くなったですよ。で、たたかれる。そのうちみんなが順番順番に、こう、やっぱりねえ、昼からだいぶ乗ってから時間がたちすぎとりますからねえ。そして、まあ10人乗ってどうやら助かった。そして、助かったのが、そうしよったら夜が明けた。「あぁーー、良かったな、夜が開けた。こらー海防艦が助けに来るわ」言うてから、思たんです。みんなにも「もうねえ、来るからねえ、助けが来るからねえ。今は分からんけど頑張りよけよ」ちゅうて、そして、こう見よってですよ。で、あたし、後ろをフッて見たら、そしたら海防艦が遠ーくの方で小ーーさく見えたっですよ。「ああ、助けに来たなあ」って。2隻来たっですよ。ああ来た来た思うてねえ。

待つときは時間は長いんですよねえ。やっぱり20分か、30分かかったですかねえ。あとはこうして来っとですからねえ。エンジンがあるわけでねえ、こう漕ぐボートで来てくれて、そしてみんなを拾うてくれた。そしていちばん初め、水兵があたしに言うたのは「あなたたちは良かったねえ、分が良かったねえ」って。「なんでですか」ちゅうたら「いやー」て、「もう時間がないから」。命令があるんですよ、「いつまで救助作業」ちゅうのが。上からもらった「何時には救助して、何時には打ち切って」いかにゃいかん。それじゃなかったら点々とあちこちに1人2人おるわけです。そんなのまで拾えんわけ。

Q:じゃあ助かったときは海には、数人浮いてたんですね?

あっちこっち1人2人はおったんですよ。それはもう時間が来たって、あたしたちを拾ったらすぐ。あたしたちはギリギリだった。ほいで向こうが遠くに見たら、10人くらい固まっておったから「ああ、あれは助けにゃいかん」ということでまっすぐに来たわけですわ。他にもバラバラおったけど見向きもせんで、あたしのところに助けへ。開口一番、水兵が「よかったですねえ、あんたらはこれだけ固まっておられたから、あたしたちの目についたし、助けに行かにゃいかんと思って来ました」って。

もう、自分が助かったあれと、すまんというねえ。そらもう自分たちが助かったけども、どうすんのかって聞いたら「いやもう時間ですから」って水兵が言いましたからね。「もう時間がたい、もう、何時までって。命令出とりますから。あんたたちが最後ですよ」って。それだから私たちはまっすぐ来たっでしょうがね。「時間があればまだ本当は拾いたいですよ」って。

Q:そのフィリピンに着いたときはもう兵力は少なくなってたんじゃないですか。

兵隊ですか。

Q:はい、兵隊も武器も、です。

ああ、武器は何もないです。私は軍刀1本持っとうだけ。機関銃は全部襲われて、すっ飛んだでしょ、船と一緒に。そして普通の小隊もですよ、小銃持ってまで皆あれ(退避)してないですから。それで結局は、自分の体だけですからね。兵器は何にもないんですよ。それでその兵器はフィリピンの部隊の方で、向こうからもらいましたけどね。で、馬やら銃器やらを。で向こうでまた整備はしました。

Q:人はどうですか? 人の補充もあったんじゃないですか?

人はありましたけどね、これがもう本当の補充兵ちゅうやつでから、あの、言えば。まあ言えば私たちは甲種合格でしょ、乙種でしょ、丙種でしょ。そん次は国民兵でしょ。で、うちのこの乙しかこの辺がこないから機関銃をあんまり担ぎきらんとですよね。小銃ならまだ良かったけど、けどもしょうがない、そういう人たちを使わんわけにはいかんですけど。

もう不安はあるけど、いないからしょうがないたい。それでも内地から来て、国のため来とるですよ。そやけどそれは言うたらいかんですよ、「お前たちあれだ」って。「ありがたいと思って使わにゃ」。せやけど私たちは、あのハイラルからのは全員現役やったとですかね、もう言えば関東軍のとっておきやったです。ほやから皆元気よくあれしたっですけどね。今度向こうは補充兵で皆送られて来とって、私たちみたいな欠けたところに補充していった補充兵なんですよね。ほやから全然体が違うんですよ。

Q:結局その兵力は落ちましたか?

いや、落ちました。そりゃそりゃ言えんとですよ。兵隊さんにはね、その部下にはね。「お前たち、こがんやってつまらないやないか」ってね、もうそらありがとう言わなね。加勢してもらわにゃ、私もそうでけんとですからね。で皆で。で皆で力合わせて戦争ばせんとね、いかんですから。

体の弱い物はご飯炊きやらあんなもんに回したり、ね。普通の雑用ば。元気な者をなるだけ前に立たせるようにしてですね、したです。ま、そういうふうにして上手く使って行かなきゃね、しょうがないですもん。

リンガエン湾に、敵(の艦船)がいっぱい入ってあれだったからね、私、サナダっていって士官候補生のね、先輩と2人で裏山の方に上りましてね、そして見たらね、500隻くらい(湾に)入っとるんですよ。それをあの色々な船やら物資を運ぶやら、ほしてからあのね、そしてしよったら、ちょうど夕方やったです。えーっと2機か3機、日本の特攻、あれが特攻隊の飛行機が低空でズーっと私たちの頭の上を落ちて行きましたわ。ほして、あらどうするかなどうするかな思ってたらね、もうそこにね、船の近くに行ったなって思ったときには、今度は花火線香と一緒で、ババッバッバってどの船からも。もう、で、見る見るうちに多分2機だったと思うんですけんどね、2機か3機、もうやられました。

Q:それ見たときどう思いました?

はあー、すごいなって思いましたね。あれだけの砲がいっぺんに撃って来るんですから。あれだけ準備したとですからね。そしてもう近寄れるものじゃないですね。でもう、こっちはあれは飛行機はもうあんまりないんですよ。そやからやっと2機ぐらい工面してやっとるとでしょ。で行ったらもう、着くか着かんか前にもう、花火線香と一緒ですたい。当たらんのがおかしいですたい。で、パって落ちてしまいましたね。そしてら、あーすごいなー思ってね。日本の飛行機はもうなかったですからね。

あーこれはあれだなっと思ってね。「もう制空権は全然ない」と。「もう敵は上がってくるけども、もう絶対負けられんぞ」と、ほいで「もう終わり」と思ったですね。「もう戦争やからいつ死んでもいい」と、もうこの戦争で生きて帰るっていうなは一つも思わなかったです。またあれだけの物量見たらね、たまらんです。

Q:兵力の差は歴然ですか。

そらもう全然違う。それと私たちは寝るとこもないごたある(寝るところもないような)小屋をちょこっと作って寝とる。向こうは皆、テント張りのピシャってしとるのを一にも二にも奥の方に作って。でそこで飯炊きを食うて、ほして昼はちゃんと弁当持って、ほしてちょうど私たちの近くまで来て、自動車で。ほいで降りて、ほいで今度は攻撃する。その前には迫撃砲がもうものすごく飛んで来る。

Q:初めてアメリカの戦車を見たときの気分は?

凄かった。そりゃ日本の戦車こまい(小さい)でしょ、向こうでっかいですもんね、びっくりしましたわ。そいで今度は、前からちょっと聞いとったもんですね、日本の37(ミリ口径)の速射砲が撃っても、跳ね返るちゅうことをね。だからこんな大きかったら、あら跳ね返る思った。

Q:火炎瓶は効果がありましたか?

そこに行くまでにやられるんですよ。よっぽど隠れて行って攻めなん。せやから、そうは使ってないけど、そういう手法しかなかったんですよ、戦車には。

Q:隠れて行ってどうやってやるんですか? もう一回教えてください。

そやからあのサイダー瓶の中にガソリン入れとって、ほしてずっと這(は)って行って、あの戦車の上から見たら死角ですね、見えんところですね、這(は)って行ったけで、そこまでなかなか行けなんとですよ。やれって言うけど。

Q:何で行けないんですか?

見つかったらすぐ撃ちますがね、向こうは見とって。

Q:どこから撃たれるんですか?

そりゃだから戦車の方から。ちゃんと小銃持ったまた普通のやつの、ちゃんと見とりますからね。そしてなんか、草むらやなんかないですからね。せやから戦車のそばには、よっぽどベタって寝とって戦車が来ると待ってて、戦車が横通って立ち上がってぱっとしたら、そりゃ間に合いますけど、そりゃなかなかできんですもん。どこに来るか分からんが。

Q:じゃあ結局戦車には太刀打ちできなかった。

はい、全然太刀打ちできなかった。もうしょうがないですもん。

敵はただ安全地、ただちゃんと上の方にあの迫撃砲なんかであれして、「もう大丈夫やから」言うてやるわけよ。そして出て行ったら、危ないと思ったらすぐ退るわけです。うちは突っ込んで行くでしょうが、あれ向こうに、しないんですよ。もう安全安全ですよ。

あれ人たちは弾薬でも飛行機でも一杯あるから。上から飛行機でも落としてくれるし、それから守られで戦争してるんですよ。私たちがごた(私たちのように)裸で、向こうにぶち当たって行くことはないんですよ。

Q:裸でぶち当たる・・。

裸ていうのは、私たちはあんまりないでしょ、装備も。向こうからしたら貧弱ですわ。

あと補充がないから。兵隊の補充もないでしょうが。弾薬の補充もないでしょ。それこそないんですよ。それでもやっぱりジワリジワリジワリしよるうちに今度は、うちはこう前に出とっても、今度はこっちの部隊が分が悪いと下がるでしょ。そう(すると)私たちをここに置いとくと困るから、上の方から命令が出て、「どこどこ地点まで下がれ」ていう命令が出る。命令が出ないと、私たちも下がられんとですよ。

Q:下がりたいのに下がれないていうことはありましたか?

そしてそういうことは、あきらめとりますからね、もうただ守るだけです、命令を。逃げるわけにはいかんですからね。

もう兵力もないし弾薬もない、ただ命令通りここよって、ほしてジワジワジワジワジワジワ下がったわけです。そすっと今度私たちが出とって、こっちが危なくなったらね、下がるでしょ。私たちんとこ来てから、「お前たちもここまでこの線まで下がれ」って、命令があったら、一晩のうちパッと下がるわけ。それからもう全部下がる言うても、機関銃持って、弾持って、道具持ってですよ。で私たちは行った所からしたですから、普通の歩兵の機小銃部隊と違って苦労したわけですよね。

Q:何がいちばん苦労しました?

そらやっぱ物を運ぶのがですよ。結局装具と武器とで、本当は馬が、機関銃やら弾薬やら運ぶとが本当ですよ。いないでしょうが、やられて。そしたら人間は馬の分までして下がって行ったから。そすと、人の倍苦労したわけですよ。そすっと普通の小銃部隊の人はもう自分は鉄砲とああいうのでそんまま下がれるわけ、で、いっぺんでいいわけ。それが本当に苦労した。私は。それはもうしょうがないんですよ。

私たちは、弾薬を取りに行ったことがあるです。それはもうだいぶ山の中に行って、7月の中頃だったですかね、あるとき部隊長が、「機関銃は弾はどれくらいあるか」ちゅうて、検査しましたら、重たいからみんな持ってきてなかったんですよ。そしてね、「お前たちは弾をどこに置いたのか」って、「第2峠に置いてあります。隠してあります」て言うたら、「それなら取りに行け」てつって、「あるのか?」、「あります」、私じゃなくて、他のところがですよ、そしたら、命令が出ましてですね、クボタ大尉が隊長で、私が副で、20何人ぐらいで山を下りて行ったんですよ。

第2峠に行って、弾をとって、1人だいたい10連ずつ、それから、20発入りが、200発ですね。本当は一箱が40にしとったですからね、いや20にしちょったですからね。でそれを担いで、その部落に泊まったんです。そしたらあくる日ですよ、5時ごろになったらね、銃撃、ただ正規兵と違う、アメリカとは違うゲリラの、フィリピンの、それが包囲してしもうてたんです、私たちを。

Q:どうしたんですか? 

いや、私たちは、おるのを見とったんですたい。で私たち鉄砲持ってないでしょう。3人か4人は持っとったんです。あとは弾薬持って帰らないかんから鉄砲が持てんとですよ、だからテントを持っていて皆は軽くして行ったんですよ。そしたら、行ったら包囲しとっとですよ。そしたら連中も加勢してもらって、そしてそこで戦闘が始まったんですよ、撃ちあいが。そんときはもう本当に、向こうも、軽機関銃の音がちょっとしましたがね、どうせ日本の機関銃の拾いもんと思たんですね。それもあまりなかった。それで撃ち合いをずっとしましてね。でそのとき、クボタ隊長が、第3機関銃隊隊長、クボタ大尉ていうて、その人がね、指揮をしよりまして。私はちょっと離れたとこにおったんですがね。そしたら、「隊長がやられた」て言うて、やられたてとこを、「腹部の方をあれしとります」「そらいかん、ちょっと下の部落まで降ろせ」て言うてから、で、降ろしてみたらね、結局腹をやられておりまして。兵隊を連れてから、「お前(隊長を)監視しとけ」て。「隊長は拳銃を持ってるから拳銃を取って、弾を抜いといてくれ、危ないから」。そして、私が指揮とらんとしかたないから、夕方の4時ぐらいから、うちがそのとき3名ぐらい戦死しましたわ。して、敵が下がりつつあるときに、隊長に付いている当番が「隊長が自決しました」て言うから、「そんなはずはないだろうが。お前、弾抜いてただろうが」、「はい。弾は抜いたけど、弾のケースだけ抜いて弾の一点装填してあった。それで死によらした」それで亡くなったんです。自殺した。

Q:なんで自殺したんですか?

もう自分で助からんし、みんなに迷惑かけると思って、もう腹やられとって、もう担いで帰るか、私は弾抜いとけて言うたから、全部抜いとると思ったから、1発だけ装填したやつはもう、弾(拳銃)の中に入っとったです。

それはね、やっぱり自分はもう、1人で歩きできんし、連れて行くて言うたら、担架に乗せるか何か、あの山の中を、それから、みんなに迷惑かけたらいかんと思いよったんでしょ、そして言いよったら、敵が下がりだしたからまた上に上がって、5時ごろには全部ひきました。帰ってきてみたらもう、そのときは隊長はもう死んでました。

負けるとは思わなかったですね。勝てるは別として負けるとは思わなかった。それだからね、終戦になってですよ。始めに皆が言うた、「戦争は勝ったのか負けたのか」。「負けた」らそして今度は、「そんなら、どうするか」って言うたら、「俺たちはどうするて、負けたんか」て言って、言いよったら今度は3日ぐらいたったら、詔書の写し、文面が“こうこうして負けてこうこう”で、「はあやっぱりだめだったかねえ」って。それから「そんならどうするか」って、「上るか下るか」ていう話が出たんですよ。「どうせアメリカにつかまって殺されるぐらいなら、もう死のう」って。死のうっていうのは上るです。上るというのは山の方に行くわけです。どうせあとは長生きせんから。そして下るというのは、降伏するということです。そしたら、詔書が来たら、部隊長が、「お前たちは俺に預けていてくれ」って。「こうこうしてせっかく勅諭(ちょくゆ)をもらってあれだから、その代わり俺たちは武人だから、侍だから、もしも敵が自分たちに対して、ふとどきなことを千万なことをやったら、俺は真っ先に突っ込むから、そのときはみんなそこで死のう」って。「それまで辛抱してくれ」って言って、結局降伏して山下りることに決めたんです。

Q:アメリカの捕虜になって死ぬのは嫌だっていう気持ちはあったんですか?

いや、捕虜になるというより、どうせ私たちは行ったら殺されると思ったもん、どうぜ。だからもう同じあれなら上ろうて、上って山で死のうって。

Q:江口さんはどっちの考えでしたか?

私も上るつもりでしたよ。皆上るつもりだったですよ。おめおめとアメリカの捕虜となるて言うのは、全然なかったですよ。

捕虜っていうぐらい惨めなものはないですよ。そんなもん、考えられんですよ、そんなこと。それだからフィリピンなんかでも、捕虜になったものはほんのわずかですよ。皆自決したんですよ、手りゅう弾で。自分が足腰が動けんだったり、もうみんなについて行けんかった場合は。それだからあんまり、アメリカにお世話になった捕虜が、私たち以外の、負傷なんかしたりして、おらんわけですよ。ほとんど自決したんですよ。またそれがみんな当たり前だったんです。

Q:江口さんにとっての戦争って何だったでしょうかね?

何だったかって言われると、本当何だったかなーと思ったけど、やっぱり人生の中の通らなければならなかったことじゃないですかね。自分で行ったわけじゃないし。ただ、国の規則で徴兵令(徴兵)で入って、それであっち行けこっち行けでそこに行って、それでああいうふうになったんですが、これもしょうがありませんわ。それはかえって自分でしようと思ったっちゃ何もできやせんで。

私が日本に生まれて兵隊に入ったっちゅうこれはもうあれですから。これはしょうがありません。もう、私たちがどうこうじゃなくて、世の流れですからね。流れに従って行ったっちゅうだけのことですからね。

Q:今でも夢を見るとおっしゃったんですけど、どんな夢を見るんですか?

まー戦友にね、「あ、お前生きとったんか」っていうのはね、ありますよ。ありゃここで死んだっちゃがなと思ったら、あー夢だったな。と思ってね。とくに親しい人にはね、そういうふうに出てきますよ。

Q:これは何ですか?

連隊旗です。これをフィリピンの山ん中で燃やしたんです。

Q:連隊旗って。

連隊に1本ずつ天皇陛下からもらうんですわ。

Q:江口さんにとって連隊旗ってどんな存在だったんですか?

そりゃあもう、何て言うんですかね。ここに、のために、この人について行って戦争したようなもんですよ。それからこの絵は天皇陛下の代わりですから。

Q:これが焼かれたときってどんな気持ちでしたか?

いや、もう、これ終戦になりましてね、負けたから、もう持って帰るわけには行かんから。そいで、もう焼却しようというということに。またそういうふうに向こうから来とったと思いますけどね。それで、もう全部燃やして。

Q:それだけ大事なものなんですね。

そうです。これがですよ。これが中心ですから。軍旗が。それから軍旗を敵に取られたら絶対いかんやった。それから、ある部隊なんか腹へ巻いて逃げた人もあった。

Q:軍旗をとられるっていうのは、どういう意味があるんですか?

いや、とられたら、これは天皇陛下からの預かりもんですから。から、お前たちに委ねた、お前んとこのあれだって言って、預かってですからね。これが中心なんですから。天皇陛下が指揮執るのと一緒ですから。

軍旗はもうやっぱいね。で、これはもう大事に大事に持って歩いたんですよ。いつも兵隊が5、6人護衛に付いてね。将校は1人ちゃんとおってね。したんですよ。

Q:今でもですね。今これを見て、どんな気持ちになりますか?

いやー。ねー。これがもう、連隊長室にね、行ったらもう、いつも飾ってありよったですがね。懐かしいですよね。

出来事の背景出来事の背景

【フィリピン・ルソン島 補給なき永久抗戦 ~陸軍第23師団~】

出来事の背景 写真太平洋戦争終盤の昭和19年秋、日本軍はアメリカ軍に対し、フィリピン・レイテ島で起死回生の戦いを挑み、大敗北を喫しました。その後、戦いの舞台はルソン島に移り、日本本土を目指して攻勢を強めるアメリカ軍とそれを押しとどめようとする日本軍との激しい攻防が続きました。
その戦いで、主力の一翼を担ったのが陸軍第23師団です。兵士たちは、本土決戦までの時間を稼ぐため、戦力が続く限り、アメリカ軍を島に足止めさせることを求められました。しかし、圧倒的な兵力を持つアメリカ軍を前に、23師団は苦戦を強いられます。兵士たちは死を覚悟して、戦車への突入攻撃を繰り返していきました。

この時、すでに日本軍は、制空権・制海権を奪われ、ルソン島への補給は途絶えていました。しかも、太平洋の島々で激戦を繰り返してきたため、島に蓄えられていた物資の多くを使い果たしていました。
こうした中で、兵士たちに下されていた命令があります。「自活自戦・永久抗戦」。食料も物資も自ら調達し、永久に戦い続けろというものでした。兵士たちは、農家の作物や家畜を無断で持ち去る事実上の略奪などで食料を得ましたが、圧倒的に量が足らず、飢えや病で次々と倒れていきました。

昭和20年4月、日本軍は司令部のあるバギオを放棄。その2か月後、アメリカ軍はルソン島作戦の終了を宣言します。飢えや病にさらされながら山岳地帯に逃げ込んだ兵士たちがアメリカ軍に投降したのは、終戦から1か月後のことでした。
補給のないまま戦い続けることを命じられた陸軍第23師団。補充された将兵を含む3万人のうち生きて日本に帰ることができたのは、5千人だけでした。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1921年
佐賀県神埼郡神埼町に生まれる
 
戦前、新京(現・中国吉林省長春)で金融業に従事
1942年
現役兵として西部第17部隊に入隊
 
歩兵第72連隊に転属
 
旧満州で国境警備に就く
1944年
フィリピン・ルソン島へ
1945年
ルソン島プログ山で終戦
1946年
復員 戦後、食料品小売店、洋裁小売店を営む

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