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タイトルタイトル: 「餓死してゆく兵士たち」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン・ルソン島 補給なき永久抗戦 ~陸軍第23師団~
名前名前: 若松 達也さん(第23師団 戦地戦地: フィリピン(ルソン島、リンガエン湾、バギオ、プログ山)  収録年月日収録年月日: 2011年11月16日

チャプター

[1]1 チャプター1 過酷な夜間行軍  03:52
[2]2 チャプター2 集結する米軍艦船  01:51
[3]3 チャプター3 情報係の任務  05:43
[4]4 チャプター4 補給なき戦争  05:40
[5]5 チャプター5 餓死してゆく兵士たち  03:15
[6]6 チャプター6 終戦、そして投降  09:18

チャプター

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン・ルソン島 補給なき永久抗戦 ~陸軍第23師団~
収録年月日収録年月日: 2011年11月16日

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Q:若松さん、海を渡ってマニラに着いたと思うんですけれども、そのマニラに着いてからのこと、戦闘が始まるまで、どのように過ごされてましたか?

輸送船がマニラに着いて、それから、1か所、別な所に行くんですよね。そして、そこは、命令が来て、またマニラを経由して戦地のほうに歩いて行くんですが、その途中で・・・

Q:どこに、別な所ってどこですか?

場所が違ったんですよね、戦地の場所が、部隊が展開する場所が。それで、そこに行く途中に、もちろん歩いて行くんですがね、師団司令部に転勤ということになりました。ビナロナン(ルソン島・パンガシナン州)というところでしたからね。

とにかくもう動け動けですよ、歩け歩け。

Q:かなり大変な道のりだったんじゃないですか?

そうですね。そして、昼間は行動ができないんですよね、飛行機が来るもんだから。だから、専ら夜間行軍、昼は垣根の下にみんな寝てるわけですよね、ごろごろ。

Q:何で昼間はだめなんですか?

飛行機が、アメちゃんのあの、観測機というんですかね、ブルブルブルブル、今で言うヘリコプターですよね。あれがしょっちゅう上を飛んでるんですよ。そして、もう動くものを見るとすぐ機銃掃射をしますからね、それでもうみんな夜間行軍。だから、夜間行軍はもう行ったり来たり、国道は日本兵であふれてるわけですよね。

Q:実際に昼間に見つかって落とされたことってありますか?

いっぺんね、機銃掃射を受けたことがあって、下水の側溝があるでしょう、あの中に飛び込んで隠れたことがありますよ、いっぺん。そのあとは、まあほかはなかったですね。

Q:夜の行軍って見えない中だと思うんですけれども、危なくなかったですか?

いや、夜はもう、部隊だから、そのう、現地のゲリラもね、なかなか手を出さないんですよね。だから、もう専ら夜は、もう部隊がぞろぞろぞろぞろ、山のほうに向かってね、陣地のほうに向かって移動してましたよ。

Q:あまり休憩もなく、もうほんと、かなりの距離を。

そうですね。まあ、今なら考えられないですよね。当時はトラックがないんだから。専らトラックは偉い人用にとってありますからね。それで、もう、部隊がマニラからその山の中に入るのに何日か歩いたですよ、毎晩毎晩。

Q:もう疲れ果てる・・・

そうですね。もう、だから、「休憩」と言われたら、みんな、ゴロッと、倒れるようにね、休憩をしてましたけどね。そのころまではね、何とか、何とか食べ物があったからよかったんですけどね。

Q:最初に敵が現れたときのことを覚えてますか?

あんときはね、そこにある488高地というところの上に、私どもは師団司令部でしたから、上に、山の上に乗って眼鏡でリンガエン湾を見とけと。そうしてたら、もう軍艦がどんどんどんどん入ってくるでしょう。ただもうびっくりするだけでしたよ、「わあ」と思うだけでね。そして、うかつに前線に行くと飛行機でやられるから、私らはずっと後ろにおったから、幸いに飛行機もそこは来ないんですよね。

Q:軍艦の様子ってどんな感じでしたか?

何ちゅうんですか、今、例えば、錦江湾、錦江湾に船がグーッと入ってくるのと同じですよ。そして、来たかと言うてあ然として見てるわけですよね。

Q:その船団を見たときに、この戦いに勝てる・・・

いや、そんなことは全然考えないですよ。とても、とてもね、こんな、びっくりするだけですよね。みんなね、あ然として見ておったという感じですね。そして、もう第一線の方には爆撃をね、しょっちゅう飛行機が来て、何というんですか、ロッキードちゅうんですか、胴が2つあるのがしょっちゅう、低空でね、来てましたよ。それから、グラマンという海軍の飛行機、そして、よく見ると沖の方に航空母艦がおったと。そこから飛んできよったですね。

そのときはね、情報係将校というんですよね、第一線との連絡をせいと。しかし、連絡をするにも、自動車がないわけですからね、だから、むしろ電話だけですよ。そして、電話線が爆撃で切られると、しかたがないから徒歩で連絡に行くというのが実情でした。

Q:徒歩ですか?

はい、歩いて行くわけですよ、とにかく。私が、そのう、「電話線がね、爆撃で切られて連絡が取れません」と言ったら、タカハシという参謀がおりましてね、「歩いて行け」と、もう一言でした。

Q:そう言われてどう思いましたか?

そして、もうそれはしかたがないですからね、第一線にはノコノコ歩いて行かざるを得ない。そうね、切迫感はあんまりなかったですね、当時はね、まだね。直接弾が飛んで来るわけじゃないですから、ずーっと後ろだから。

Q:片道どれぐらいの道のりだったんですか?

大体半日ぐらいでした。そして、一晩はもう、昼間は歩けないから、夜歩くとかね。しかし、それでもね、道がよく分からないんですよね。ただ地図を持ってるだけだから。まあ、ただまあ兵隊の動きがいろいろありますから、それを聞きながら、今、部隊がどうなっておると言いながら第一線へ連絡には行ってましたけどね。

それはね、命令文を持って行くわけですよ。本当はそれは無線で送るわけですね。ところが、無線が通じないとか、あるいは電話線が切れて通じないときは、私に持って行けと。そして、私が持って行く。1回か2回ありましたけどね。

Q:どんな命令ですか?

これはね、通信紙というのに書いてあるんです、命令がね、1つ何々、1つ何々ね。それで、それはもうその戦闘の場面場面によって違いますからね。そしてまた、それをいちいち私どもが見るわけにいきませんしね。

Q:もし緊急の情報が入ったときって・・・

緊急の情報が入ったときはね、それをまず、すぐ通信紙に書いて、それを参謀に回すわけですね。そうすると、参謀が師団長まで行って、そして、必要によってはそこで参謀会議が開かれます、作戦会議が。それが今度は命令となって下達されていくというのが実情です。

ただね、もうみんなイライラしてるわけですよ。イライラしてる。何かね、もうみんなね、緊張してイライラしてましたよね。豊かな表情の人、人間ちゅうのはいない。みんな、何かね、こうイライラしてると、そんな感じでしたよ。何かね、こう、イライラちゅうのかな、緊張しておるからかもね、

Q:どこでそれを感じるんですか?

それは、参謀たちが集まったときにね、情報を持って行ったりするときにね、こうピリピリしてるわけですね。だから、もちろん物も言いませんけれどもね。私どもは参謀なんかがおるところと違ったところに、近くにまた掘立て小屋を造って、そこへ入ってるわけですね。

Q:参謀がイライラしていたのは戦況のどの辺ですか?

もう部分部分でみんなイライラしとるわけですよ、いい情報は入ってこないわけですからね。やられる、下がっていく、部隊がどんどん下がっていくわけですから、いい情報はあまり入ってこない。そうするとね、もうみんな緊張してましたよ。

あのころ、びっくりしたのは、ブルドーザー、今はもう何ともないですよ。あれが道路をずーっと造ってくるわけですよ。一方が崖(がけ)下だったら、そこをば、反対側をね、削って道路を造ってくる。こんなことまでするんだったら手も出ないなというね、実感でしたよ。そして、道路を造って、そして戦車が来る。戦車が来ると必ず米兵がついて来る。大体、1台の戦車にね、5~6人、後ろをね、米兵が通って行く。そして、米兵さんはカービン銃、銃が軽い。しかも、1回にね、6発ぐらい出るんです。日本は三八歩兵銃で、1回1回ね、こうしよったですけどね。もう、兵器の違い、補給の違い、それはね、全然違いましたからね。

初めてだからね、ブルドーザーなんて見たのは。戦車はね、連隊におるころ見たことはあったけど、ブルドーザーなんちゅうのは初めて見ましたね、ああ、すさまじいなと思いましたよ。道路を造ってくるんだから。

ただまあ困ったことには、食糧がないわけですよ、みんな。だから、戦争で死ぬというより、餓死ですよ、食べ物がないわけですからね。それで、私どもも、司令部におるけれども、ちょっと時間があるときはもう現地人の畑に行ってイモを掘るわけですよ。そうすると、イモももう残ってないんですよ、みんなもう兵隊がとって、さらっておるわけですからね。こんな小さなイモね、それ以外にはもう食糧はなかったですね。

言うなれば、現地人から見りゃあ、「カモテ泥棒」と言ってましたよ。カモテというのはイモということなんでしょう、現地語でね。泥棒だと、日本軍はね、カモテ泥棒だと言ってましたよね。しかし、それをしなけりゃ私どもは食べ物がない。補給はないんですから。だから、まあ、第一線の連中も大変だっただろうと思いますよ。私どもと第一線とは、やっぱり距離がね、2~3キロ違いますからね。食べ物にはみんな苦労しただろうなと思う。補給をしない軍隊というのはね、それは哀れなもんですよ。そして、何でしょうかね、もう、部隊、敵がどんどんどんどん前進してくる。そうすると部隊が少しずつ下がるわけですね。そのたびにみんな、腹、食べてないんだから、餓死する者がたくさん出てきたというのが実情でしょうね。

Q:申しわけないと思いますか?

そうね、今になってみますとね、ああ、やっぱり申しわけないことをしたんだなと思いますよ。あのう、現地の人はそれで生活していたんだから、それを横取りしているわけですからね、それはもう泥棒と言われてもしかたがなかったですね。やっぱり、輸送船がやられたから、ほとんど食糧が運べられないんですよね。

Q:補給がないことは、師団はもう最初から分かってたことじゃないんですか?

そうですよね。それはもう、できるだけ自活せよという命令ですよ、自ら生きよと、自活せいと。ところが、自活するにも、もうないんですから、田んぼだの畑がね。畑に残っておったのは、もうみんな現地人が持って行ってるから、ないんですよ。だから餓死者が非常に多かったというのが実情ですよ。それで、国道なんかをずっとこう下がると、国道は危ないんですよね、広いと戦車が必ず来るから。それで、そこから小さい道を通って山へ山へと逃げて行くけれども、あちらにもこちらにもみんな、兵が倒れてましたよね。

Q:補給がない中で、師団としてはどういう作戦だったんですか?

別に、そのう、補給を頼むたって無いわけだから、作戦は予定どおり逐次下がれと。逐次、ね、敵を引きつけながら下がって行く。その間に、台湾とか、あちらの防衛は急がれるだろうと。だから、ゆっくりゆっくり下がって行けと。ゆっくりゆっくりしか下がれないんですよ、食べ物も何もないんだから。だから、我々が後ろにおってそういう状況でしたからね、第一線はなお困ってたんだろうと思いますよね。まあ、少しずつはみんなね、靴下、軍隊、軍人が履いてるあの靴下ね、米を入れましたから、あれを少しずつ分け合ってね、それをお粥なんかにして第一線は食べとったんだろうと思いますけどね。

Q:自活せよというのはよく言われていたんですか。

うん。

Q:誰からどんなふうに。

それは上のほうから、大本営から言ってくるんでしょうね、自活。だから、自活せざるを得ないちゅうのは、もう輸送船が入ってこないんだから、全部やられるから。それで、自分たちで生きるためには自活する以外に方法はない。そして、もう現地自活というのは常識にね、軍の常識になってしまったんじゃないかな。

Q:師団の中でも直接言われましたか、自活せよという言葉を。

いや、直接は言われなかった。言われないけどね、もう自活せざるを得ない。腹が減ったら何か食べに行かなければ。だから、もう、暇を見てはね、探しに回ってるわけですよね。もう、ろくなものは食べられんけれども。

その、餓死して、国道でもどこでも横たわってるわけですね、兵隊がね。そうすると、昨日、第一線に私が行くときにこいつがまだこうしておったけれども、2~3日後にね、白骨になってるとかね、南方ですからね、もう腐るのも早いんですよ。そして、臭いんです、これがね、人間の死体ちゅうのは。何かおかしいなといったら死体がある。それはもう、死屍累々というかね、そのことでしたろうね。

もう、魚の腐ったようなね、そんな、とにかくそばには寄れないような臭いでしたよ。そして、日差しが強いから、すぐ腐るんですよ。そして、腐ってもう2~3日たったら白骨になってるんですからね。

いや、もう、よくよく見る気がしないんですよね、その死んでいく者をね。とにかくあそこに死体があるという、で、できるだけもう回り道してね、そばに寄りつかないように。そしてね、とにかくね、臭い、その人間の死んでいく途中はね。あのう、何ちゅうんですか、ハエ、ハエがすぐたかるんですよ。そして、ウジがね、出て。そうすると、もう、2~3日したら白骨になってますからね。

Q:そんな状況を目の当たりにして、聞いて、どんな気分でした?

あのね、初めはね、やっぱり、残念だなとかね、哀れだなとか思ったが、もう慣れてくるんです。戦場慣れしましてね、あそこにも死んでるかという程度にだんだんなってくる。怖いことですけどね、もう無感動になってきましたね。もうそれより自分がとにかく生きなくちゃいけないから、もう人のことにはだんだん構っておれなくなってきつつあったですな。

そういう実際は生々しい死体なんかがいっぱいあって、あるいは死にかかった者もたくさんおるけれども、それに対して手当てができない。力添えはできない。もう、それをしようという気力がこちらにもなくなっている。それが、ああ、むごいことじゃなと自分でも思いましたよね。むごい人間になったんだなと思いましたがね。しかし、じゃあどうするのかと言われると、どうしようもない、そういう実情でした。それはもう、みんな補給がないから、みんな食べてないから、そういう状況に陥ったんですね。

終戦のとき? 終戦がね、上のほうから師団通信に来て、それが司令部に連絡がある。何かね、そのとき、みんなね、静かでしたよ。何かね、終わったのかなというような感じでね、静かな雰囲気でしたね。もちろん、心の中ではみんなどう考えておったかは知りませんけどもね、「あ、終わったなあ」、それはまあ、私は、「あ、終わった、終わった」という気持ちはありましたね、これで終わったかと。ただ、何となくね、静かな雰囲気でしたよ。そして、私は参謀長と一緒に方面軍のほうに呼ばれて行くわけですよ。各部隊の責任者を全部、方面軍が呼んで、今、こういう状況で終戦になったというのを命令を下すんですね。それにはついて行きましたけどね。

Q:それを告げたときの告げられた兵士たちの反応はどうでしたか。

みんなね、ほっとしたという感じじゃないですかね。終わったかという感じに受け取りましたわね、みんな。

Q:その通信を、その話を聞くために集まった士官、兵の・・・

あのね、私と、参謀長と、私は参謀長について方面軍に行って、山下奉文(陸軍大将)というんかね、あの人のとこにみんな偉い人ばっかり集まって、で、命令があって、終わったと。それを持って帰ってくる。そしたら今度は、私どもが第一線の連隊長を集めるわけですね。そして、そこで、連隊旗を持ってこいと。そして、連隊旗を焼くわけですよね。もうみんなね、物は言わなかったですね。連隊旗を焼くときはね、もう、おそらくみんな、感極まっておられたんでしょうね。ものを言う人いなかったな。

Q:負けたと実感したいちばんの瞬間・・・

瞬間はね、空を仰ぎましたよ、空を。「飛行機が飛んでこない」と。「わあ、飛行機が飛んでこない」、それで、伸び伸びとね、した感じを受けましたね。もうそれまではね、朝から夕方暗くなるころまで、上をしょっちゅう飛んでるわけですよ、観測機というんですかね。そして、ものの動きがあると、すぐに手りゅう弾を落とすと。そして、それから赤い炎が出ると戦闘機が来て爆撃をするというのの繰り返しでしたから、まあ、伸び伸びと水くみもできたし、カライモも飯ごうで炊けたという状況はね、みんな、ほっとした気持ちじゃなかったですかね。

そしてね、ほどなくして、私ども、敵がどこどこに集まってくれと。そこへ行くと、幕舎が張ってあって、そこへ集められて、逐次、トラックでサンフェルナンドという所に運ばれましたけどね、何かこう、もうそのころからだんだんだんだんお互いの連絡通信もね、もう乱れていましたよ、もうなくなりましたからね。だから、とにかく人の後をついてぞろぞろ行って、「ああ、トラックが来たから乗るか」というような状況でしたかね。

みんな私どもはアメリカ軍の捕虜になるわけですね、全員ね。そしたら、あれをくれましたよ、レーションというんですかね、アメリカ軍の食事。これぐらいの箱にチョコレートやらがいっぱい入ってる。タバコも3本とかね、マッチとか。それで、このレーションはロウ引きなんです。だから、それは燃料になるわけですね、アメちゃんは。それをたいて、何かこんなのでね、コーヒーをわかして飲んでたですよ。合理的だなとびっくりしましたね。

Q:それもらったとき、どう思いましたか? それを初めて見たときに。

びっくりしたですよ。びっくりしてね、これは何だろうかなと。そして、開けてみたら、タバコも3本とかね、チョコレートとかね、乾パンとか、入ってるわけですよ。

Q:若松さんにとってあの戦争って何だったと思いますか?

一言で言うなら、ばかばかしい戦争をしたもんだというのがね、私ども、戦争が終わってから、みんな、やっぱり仲間がおるわけですね、第一線の将校もね。「ばかな戦争だったな」という言葉が多かったですよ。ばかな戦争だったと。何かね、何かこう、意義を、戦う意義をね、見出せなかったですね。というのはね、1つはやっぱり、日本の弱点というのは、全体の状況をなかなか教えてくれないんですね。今、こういう状況なのかと。目先のことしか分からんわけですよ。それがやっぱり第一線にとってはね、不安なんですよね。そして、まず、やっぱり補給がないこと、それから、兵器の違い。それはね、終戦になってね、敵さんの砲がずーっと並べてあるのを見てね、「わあ、これじゃあ負けるはずだなあ」と思いましたよ。もう全然違うんですよ。補給がないのももちろんですけどね、兵器そのものがやっぱりお粗末でしたね。アメちゃんのはね、カービン銃といって軽いんです。それはね、6発ぐらい弾がドドドドーッと出る。私どものはね、三八式歩兵いうて、1つずつ弾を込めにゃいかんわけ。もう、そういう違いがね、随所に見られましたよ。そして、向こうは小隊長ぐらいになるとね、自動機関銃ですかね、自動でね、持っておったようですね。日本は将軍はサーベルを下げてね。そうですよね、部隊がどんどん下がるにしたがって、弾薬、食糧、すべては持って逃げられないわけですからね。そして、今度は、それを今度は上のほうから補給をしてくれればいいけど、補給をしてくれない。だからもう、言うなれば着の身着のままで戦(いくさ)をして、じり貧に陥っていったと。

何分、その、自活というのがね、前提にあるわけですよね。もう自分のことは自分で生きていけと。そんなね、戦争というのはあるのかなと思ってね。連隊におって演習するときはね、食糧でも何でも、配給してね、もらっとったけど、肝心なときにはそれがないわけですよね。それは、戦場でね、さまよっている兵隊はね、雨ガッパを1枚着て、もうよれよれを。そして、先頭もよれよれしてね、飯盒を1つ持って、そして、うろうろうろうろしとるわけですね。もうまさに生きる屍ですよね、その姿は。

出来事の背景出来事の背景

【フィリピン・ルソン島 補給なき永久抗戦 ~陸軍第23師団~】

出来事の背景 写真太平洋戦争終盤の昭和19年秋、日本軍はアメリカ軍に対し、フィリピン・レイテ島で起死回生の戦いを挑み、大敗北を喫しました。その後、戦いの舞台はルソン島に移り、日本本土を目指して攻勢を強めるアメリカ軍とそれを押しとどめようとする日本軍との激しい攻防が続きました。
その戦いで、主力の一翼を担ったのが陸軍第23師団です。兵士たちは、本土決戦までの時間を稼ぐため、戦力が続く限り、アメリカ軍を島に足止めさせることを求められました。しかし、圧倒的な兵力を持つアメリカ軍を前に、23師団は苦戦を強いられます。兵士たちは死を覚悟して、戦車への突入攻撃を繰り返していきました。

この時、すでに日本軍は、制空権・制海権を奪われ、ルソン島への補給は途絶えていました。しかも、太平洋の島々で激戦を繰り返してきたため、島に蓄えられていた物資の多くを使い果たしていました。
こうした中で、兵士たちに下されていた命令があります。「自活自戦・永久抗戦」。食料も物資も自ら調達し、永久に戦い続けろというものでした。兵士たちは、農家の作物や家畜を無断で持ち去る事実上の略奪などで食料を得ましたが、圧倒的に量が足らず、飢えや病で次々と倒れていきました。

昭和20年4月、日本軍は司令部のあるバギオを放棄。その2か月後、アメリカ軍はルソン島作戦の終了を宣言します。飢えや病にさらされながら山岳地帯に逃げ込んだ兵士たちがアメリカ軍に投降したのは、終戦から1か月後のことでした。
補給のないまま戦い続けることを命じられた陸軍第23師団。補充された将兵を含む3万人のうち生きて日本に帰ることができたのは、5千人だけでした。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1921年
鹿児島市に生まれる
戦前
満州の農産公社で一般事務
1944年
初年兵として西部第18部隊に入隊、満州のハイラルで訓練。
 
11月、フィリピン・ルソン島へ
1945年
ルソン島プログ山で終戦。復員
戦後
鹿児島市役所、鹿児島県庁に勤務

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フィリピン(ルソン島、リンガエン湾、バギオ、プログ山)

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