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タイトルタイトル: 「失われた食糧・弾薬」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン・ルソン島 補給なき永久抗戦 ~陸軍第23師団~
名前名前: 竹ノ内 寛さん(第23師団 戦地戦地: フィリピン(ルソン島、マニラ、リンガエン湾、バギオ、プログ山)  収録年月日収録年月日: 2011年11月16日

チャプター

[1]1 チャプター1 物資をルソン島へ  07:49
[2]2 チャプター2 米軍上陸  07:23
[3]3 チャプター3 「あの物資があれば」  06:11
[4]4 チャプター4 軍旗を焼く  06:24
[5]5 チャプター5 生還者のつらさ  03:42

チャプター

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン・ルソン島 補給なき永久抗戦 ~陸軍第23師団~
収録年月日収録年月日: 2011年11月16日

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私どもの行く先はね、鹿児島の、鹿児島沖を通過してフィリピンに行くということが分かったんで、そしてフィリピンに高雄、台湾の高雄で一休みして、そして台湾の最南端で休んで、バシー海峡という大きな海峡がありますから、フィリピンと台湾の間。そこを突破して行かなければならなかった。ほいでバシー海峡その中に、今まで大分船はやられているもんだから、もう各個船、速度の遅い船、速い船、大きい船、小さい船、兵隊がいっぱい乗っておりましたから。ほいで私どもの船は、幸い何事もなくバシー海峡を突破して、フィリピンの沿岸に着きました。ルソン島の沿岸に。

マニラ港に着いて、埠頭(ふとう=岸壁)の大きなヤシの木の根元に転がったときには、すっ、もう肩の荷が下りて、なんもかんも辛かったことが、忘れたようでした。満州を思ったりしてね。遠いところまで来たもんだねぇと。満州を思い、果たしてこれからどんなところに行くんだろうと。ヤシの木の下で同僚と寝そべって、天を眺めて南十字星をあんとき初めて見ました。あれが南十字星かと思って。

それが12月の十何日・・確か12日だったと思います。マニラ湾、マニラ港に入っていって、そして、ま降りて、遠いところまで来たもんだと思いましてね。みんな布団に、ヤシの木の並木の下に寝転がって船から降りても、やっと一休みしておったところに日本人小学校がありまして、マニラに、そこに物資・弾薬・糧まつ、持って行ったものを全て運ぶ命令が出ましてね。一晩中かかって、そこに運び終わったときに夜明けでした。そしてそれからね、着くなり南の方にロスバニオスという町がありまして。

南の方のロスバニオスというところに命令が下って、そこに行ったんです。マニラから南の方ですね。ほして、そこに行っておって1週間くらいしたらね、今度は、マニラに引き返して北部ルソンのね、どうもアメリカがね、元日本軍が昭和に戦争が始まって、フィリピン戦争するときに、フィリピンに上陸した場所があるんです。リンガエン湾ですね。そこに、その沿岸らしいということで、そこに敵が上陸してくるらしいということで、その沿岸に行ったんです。

Q:そのマニラからロスバニオスに行って、またすぐにリンガエン湾まで引き返したんですね。それを聞いたときにどんな気持ちでした?

それはね、もう大変な気持ちでした。200、マニラから250kmの地点ですから。それはもう相当な覚悟がいりましたよ。歩く、歩き通したら何日かかるだろうか言ってね。そうしている間にね、あの、リンガエン湾の入り口までね、マニラから、満州から持って行った物資が届いておったんですよ。弾薬・糧まつ、色んなものがね。医薬品から。

Q:そこに着いたとき、すごいお疲れだったんじゃないんですか?

はい。私は幸いね、自動車を持っておったんですよ。貨物輸送のトラックを持っておりましてね、その部隊におったもんだから。本隊の人たちを輸送したり、あるいは糧まつやら弾薬を輸送して途中まで運んで行ったりして。あるいは部隊長を師団司令部まで送って行ったり。

Q:そこでもう、竹ノ内さんのお仕事はどういうことだったんですか?

私の仕事はね、マニラから、満州から運んだ荷物がマニラに上陸して、そして日本人小学校に運ばれて、そしてそれから汽車で北部ルソンのリンガエン湾のね、ダモルテスという駅があったんですよ。そこに荷物が着いておりましたのでね、その荷物を本隊が集結する場所にとりあえず運ぶことだったんですよ。

送る役割の部隊がおったんです。それは輸送隊だったんですね。その輸送隊がいるところに荷物が着いていましたので、その荷物を、北部ルソンの部隊が集結する所まで運ばにゃいかんかったんです。トラックで12、3車両でね、そこまで運び続ける仕事だったんです。

今まで各地で協力的とみなしていた比軍が、そのころは日本軍の指揮下でフィリピン軍が動いていたんですね。

夜襲をかけ、我が軍の車両のタイヤを打ち抜いて、行動を阻止し始めた。運転手を狙い、運転手を狙ってきた。このときコワキ上等兵が大腿貫通銃創を受けた。それを以来、警備援護に各中隊より軽機関銃の護衛が派遣され、運転席の上に装備、懸命に行動した。ある夜満載して、満載した車両隊がビナロナン港岸に差し掛かると、待ち伏せのゲリラ隊が襲撃、襲撃され、一晩中撃ち合いとなり、明け方近くになって近くの友軍戦車隊が駆けつけ、ゲリラを蹂躙して、我々を救出したことがあった。

Q:あの、その後米軍が上陸するんですけれども、そのときの光景を見られていましたか?

そっすとね、私なんかがね、米軍を最初発見したのがね、1月の3日か4日だったですかね。マニラ湾に針の先みたいに見えるころ、マニラ湾じゃない、リンガエン湾に。だんだん現れて、日ごとに大きくなって、だんだんリンガエン湾の中に入ってきました。

Q:どんな様子でしたか?

それがね、針先のようなやつがね、だんだん大きくなってね。そして1月5日か6日にはね、もう、ものすごく大きくなってきまして。ほいで、そのうちに飛行機が、その飛び回るように、艦載機が機がね、我々の頭上に迫ってきました。私なんかはその敵が上陸しない間に、マニラから満州から持ってきた弾薬・糧まつ・食糧それ全部運び終わらないといけなかった。

500隻から800隻の船がリンガエン湾を埋め尽くしておりましたから、もう海岸に置いた、海岸まで送って来ておった満州から持ってきた荷物は、半分しか運び込まれなかったですから。全部、敵さんに奪われたんですね。ほして、それはもうそのままに残して、我々はあの、ミラノナンから488(高地)に登って行ったわけです。ほいで488で1大隊と一緒になって戦闘したわけです。

Q:アメリカの上陸までの準備期間はそんなに短かったんですか?

うん。そうですよ。そりゃ上陸する前は、砲撃と艦砲射撃と、それから飛行機の爆撃で、それこそ、もう皆殺しにするような攻撃ですからね。海辺なんかには寄り付けないですよ。

Q:物資を運ぶ時間は、相当短かったんですね?

そうです。

Q:運ぶことって、すごく大事なことですよね?

大事ですねー。物資がなかったら、戦争は出来ませんから。

敵が迫ってきて、もう(海岸近くの物資集積所には)おれなくなったんです。リンガエン湾に敵が上陸してきて、その周辺におれなくなって、部隊と一緒に488高地に出発せねばならなくなって。

Q:じゃあもう、置いて行ったんですか?

半分は置いて行きました。満州から持っていった弾薬、糧まつ、いろんな機材。豚、鳥。斧で殺して、味噌漬けにして持っていっておったんですから。そんなものまで半分は持っていって、半分は残っていましたね。

Q:その物資を半分置いて行かなければならなかったとき、どんな気持ちでしたか?

ああ、もう残念でしたねぇ。その物資をマニラの海岸に、いや、リンガエン湾の海岸に置いて行くときは、もう本当に涙が出ましたよ。満州で、あんなに各部隊が寒い中を準備して持って来たのに、残念やらなんやらで堪らんかったですね。これをここに置いて行ったら、後は、敵さんが奪って利用するだけのことだと。戦争もしないうちにもう、敵に奪われたんだなぁと思って。

キャンプスリー(日本軍の司令部があったバギオの南)に着くまでの間はね、確か3月ごろだったって思うんですよ。もう疲弊(ひへい)して、マラリアにかかってね、だいぶ弱ってね。食糧なしでね。マッチ箱一杯、お米の配給があって、あとは、草っぱなんかを混ぜて食べにゃならん状態だったの。もう、熱発で、マラリアでね。もう、みんな弱りに弱っておったんです。そういう、その、3月ごろでしたからね。3月のね、1月から3月の間の488高地の戦争で、もう疲弊して弱りきって、弱りに弱って、弱りきっておったんですよ。

Q:竹ノ内さんご自身もですか?

私は、そのキャンプスリーでね、マラリアに2回ほどかかりましてね。そして、バギオまでね、マニラから、いやキャンプスリーから歩いてね、入院しました。

何もせずに残した米を一俵でも、このキャンプスリーに持って来ていれば、どんなに助かっただろうかということを思いましたよ。もう、そら、キャンプスリーの辺りのひもじさていうのは、もう、限界を超えていましたからね。

Q:それだけやっぱり、悔やまれたんですねぇ。

悔やまれましたよー。悔やんでも悔やんでも、しかたがなかったです。あのキャンプスリーへの米を一俵、このキャンプスリーの山の中に。それがね、キャンプスリーの辺まで、戦争が始まるとは思っていなかったしねぇ。で、これが戦争だろうなぁという思え方でした。予測しない事態に遭遇したり、予測しないところで品物、食糧が無くなったり、弾薬が無くなったり。あぁ、あのときに、この弾薬をここに持ってきておけば、あのときの食糧をここに持ってきておけば、こら、何人分の食料になったんだかなぁと思ったり、思いましたよ。まぁ、キャンプスリーを撤収して、バギオあたりに行くまで、それからずっと、そういうことを思いましたね。

敵の住民の物資を徴発して生きていかな、戦争は出来ませんからね。

Q:住民の? 武器?

住民の・・住民が、米を作ったり、野菜を作ったりしておるでしょう。そういうものを、そういうものを、言うなれば、頑張ってとって食べるわけです。無償で。

Q:とって食べるんですか?

かっぱらって食べるんですよ。それでないと生きていけないです。戦争では。

泥棒ですよ。そんで、我々に、私なんかが、終戦後マニラから、いや、バギオからマニラに、米軍の自動車で運び出されるとき、「泥棒、泥棒」て、盛んに罵声を浴びたですよ。

そら、戦争っちゅうもんはね、また一方において、そうなるのはつきものだと諦めるしかなかったですね。

本当に、泥棒しないと戦争っちゅうのは生きていけない。

Q:竹ノ内さんが戦争の中で見た光景のなかで、いちばんむごいなって思った光景って、どんな光景ですか?

そうですね、まぁ、キャンプスリーにおいては食糧のなかったこと。そういうマラリアで、発症したときに、バギオまで行かなければならん。遠いですからね。キャンプスリーから歩いてですから。1人じゃとても行けなかったです。やっぱ、2、3人まとまらないとね、手放してやりおらんだったようですね。

私なんかが見た死体はね、戦闘、戦闘状態で気絶した死体じゃなくしてね、途中でね、病死した患者なんかのね、死体だけでしたが、多かったですね。

終戦というと、そうですねぇ、もうそんときはね、あれ、もうちゃんと師団の方から命令がきておりましたから。そのままの状態で戦闘行為を中止しろと。私はちょうどそのとき、軍旗衛兵に立っとったっですよ。軍旗を山の中でも守って、衛兵が立って軍旗を守ってきましたからね。そのときね、軍旗衛兵に立っておったらね、そのままの状態で・・師団司令部のほうから電話みたいなものが入って、「そのままの状態で戦闘行為を中止しろ」というのが耳に入ったでね。これは何事かあったなぁというのを感じました。で、それが、終戦命令の伝達の始まりでしたね。それからだんだん、3日間の食料を用意しろというて、帰り支度が始まりました。1週間かそのぐらいの間に出発準備がされまして、食料準備やそれやら。

だからね。プログ山といいまして、フィリピンの北部のいちばん高い山があったんですよ。3000メートルぐらいの山が。その山の麓におりましたから。その山麓から、敵さんが言うてきた54キロ地点というのは、2日、3日かかるところでした。

Q:だいぶん歩いたんですねぇ。

そうです。そこまで、54キロ歩いたんでしょうね。その途中で死んだ人がまたおりました。そして、バギオからマニラまでは、またあれで、敵さんが運転した車で運んで行きましたから。捕虜収容所まで。マニラの南の方に、捕虜収容所っていうのが設けられましたから。

そのプログ山の中におるときに、命令が下って、あと出発までわずかというときに、軍旗を焼きました。そんときは、事前に連隊本部のあれは衣装を・・それから各部隊から中隊長なんかは来ましたでしょうね。

Q:どんな気持ちでしたか?

もう、それはねー、軍旗を焼くときは、フィリピンで第2回目だったんですよね。1回目は、その前に、昭和14年ごろロシアと戦ったときに。それこそ負けて軍旗を焼いたんですが。(満州の)ホロンバイルの草原で。そっで、今度は第2回目だったんです。運の悪い部隊だったんでしょうね。

Q:運の悪い部隊・・なんでですか?

それは、軍旗を2回も焼くっちゅうのは、そうめったにないですよ。

そら、軍旗っちゅうたら、部隊の象徴ですから。天皇陛下から頂いた旗ですからね。

Q:焼いたときどんな気持ちでしたか?

ああもう何とも言えない。それこそもう、今まで軍旗は、何の戦争中でもいちばん大事なところにしまってあって、一晩中、衛兵が立って守ってきた軍旗ですからね。して、軍旗衛兵と言って、兵隊の衛兵が守り、それから軍旗の旗手というのは、将校の少尉が1人命令されて、大事にされてきた旗ですから。

まあ、最初は勝つと思って戦っていましたけどね。最後はもう、生きるところまで生きて、最後は西海岸に出て、みんなで戦死して、敵さんと戦って死のうという、そういうようなあれでしたね。もう、最後は死ぬ覚悟だったですね。あるいはまた、生きるところまで生きようじゃと、戦友同士で話し合うこともありました。いろんなあれが交錯しましてね。ずーっともう、最初から最後まで持ち続けとった気持ちというものは、なかったようですね。生きられるところまで生きようというような。

もうねー、帰るときにはねー、もう、それこそね、なんちゅうたらいいか。いちばん私がきつかったのは、この辺の知り合いの兵隊が多かったですから。みんな、ほとんど死んだですけん。この辺に生きて帰ったのは私1人ですよ。

Q:たった1人ですか?

あぁ。この辺ではね。そんで、これ帰ったらね、なんちゅうーかね、それをやっぱり考えとりましたね。しかたないからもう、ありのまま言うほかないと思って。戦場の厳しい状態を話すしかないなあと。

どこでどういうふうに死んだと、どんなに、我々の結末はどんな状態だったと。部隊全体の最後の話をしないと、やっぱり、私がなぜ一人助かったか、というわけにはいかんでしょう。まぁ、フィリピンの戦闘状況。相手が米軍だったということ。食べ物がない、悲惨な戦地の状況。そういうことを一通り話さなければね、いかんと。まだ、どんな戦場があったかを知らないんですから、内地のうちにおった人たちは。

話すという事には、納得してもらうための話ですからね。食糧がなかったということ。けわしい、武器がなかったということ。そすと、アメリカさんが持ってきとる兵器は、すべて新しいもんでしたから。もう日本軍は、あのころまで耐えるに耐えて、やっと調達できた古い兵器ばっかりでしたからね。飛行機にしろ戦車にしろ新しい。ギーンギン、音を聞いただけでもう、あーこら戦車、新しいものを持ってきとるなぁちゅうのがよく分かりましたから。

Q:最初はどうでしたか?

これは、何でお前だけ帰ってきたのかということを、みんなが思わりゃせんだろうかと思ってね。それについては、あまり聞かれはせんだったですね。みんなの人たちがね、やっぱり、認識しておられたようだったですね。

おまえ、おまえだけないぶで帰ってきたのか、どんな戦争だったのか、まぁ、フィリピンの戦争ていうのは新聞やらなんやらで、みなさん、ある程度、私なんかが思っとったよりか、よく分かっておられたような気がしましたね。

出来事の背景出来事の背景

【フィリピン・ルソン島 補給なき永久抗戦 ~陸軍第23師団~】

出来事の背景 写真太平洋戦争終盤の昭和19年秋、日本軍はアメリカ軍に対し、フィリピン・レイテ島で起死回生の戦いを挑み、大敗北を喫しました。その後、戦いの舞台はルソン島に移り、日本本土を目指して攻勢を強めるアメリカ軍とそれを押しとどめようとする日本軍との激しい攻防が続きました。
その戦いで、主力の一翼を担ったのが陸軍第23師団です。兵士たちは、本土決戦までの時間を稼ぐため、戦力が続く限り、アメリカ軍を島に足止めさせることを求められました。しかし、圧倒的な兵力を持つアメリカ軍を前に、23師団は苦戦を強いられます。兵士たちは死を覚悟して、戦車への突入攻撃を繰り返していきました。

この時、すでに日本軍は、制空権・制海権を奪われ、ルソン島への補給は途絶えていました。しかも、太平洋の島々で激戦を繰り返してきたため、島に蓄えられていた物資の多くを使い果たしていました。
こうした中で、兵士たちに下されていた命令があります。「自活自戦・永久抗戦」。食料も物資も自ら調達し、永久に戦い続けろというものでした。兵士たちは、農家の作物や家畜を無断で持ち去る事実上の略奪などで食料を得ましたが、圧倒的に量が足らず、飢えや病で次々と倒れていきました。

昭和20年4月、日本軍は司令部のあるバギオを放棄。その2か月後、アメリカ軍はルソン島作戦の終了を宣言します。飢えや病にさらされながら山岳地帯に逃げ込んだ兵士たちがアメリカ軍に投降したのは、終戦から1か月後のことでした。
補給のないまま戦い続けることを命じられた陸軍第23師団。補充された将兵を含む3万人のうち生きて日本に帰ることができたのは、5千人だけでした。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1923年
鹿児島市に生まれる
 
戦前、満州・奉天の満州炭鉱事務所で働く のち銀行員となる
1944年
野砲兵第17連隊に入隊し、満州で訓練
 
11月、歩兵第71連隊に転属、輸送班員としてフィリピン・ルソン島へ
1945年
ルソン島プログ山で終戦
1946年
復員
 
戦後は銀行に勤務

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