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タイトルタイトル: 「戦果誤認でレイテ決戦へ」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン・ルソン島 補給なき永久抗戦 ~陸軍第23師団~
名前名前: 人見 潤介さん(第14方面軍 戦地戦地: フィリピン(ルソン島、マニラ、マッキンレー、プログ山)  収録年月日収録年月日: 2011年11月18日

チャプター

[1]1 チャプター1 フィリピンへ  08:00
[2]2 チャプター2 住民への宣伝活動  04:17
[3]3 チャプター3 増える抗日ゲリラ  05:30
[4]4 チャプター4 ゲリラの活動を抑える  06:21
[5]5 チャプター5 山下司令官の記者会見を担当  08:38
[6]6 チャプター6 戦果に疑問を呈した堀参謀  11:01
[7]7 チャプター7 戦果誤認でレイテ決戦へ  05:57
[8]8 チャプター8 ルソン島の戦い  06:33
[9]9 チャプター9 終わらなかった戦争  02:54

チャプター

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン・ルソン島 補給なき永久抗戦 ~陸軍第23師団~
収録年月日収録年月日: 2011年11月18日

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Q:それで宣伝班としてのお話で、宣伝活動っていうのはどういうことを行ってらっしゃったんですか?

まず、私どもが基隆(キールン 台湾北部)から船に乗ったんですけども、基隆から船に乗って16師団が奄美大島に集結していましたからね、そこへ行って、そこで奄美大島の師団司令部に参加する、の指揮下に入るというので、奄美大島へ行きました。そのときに、台北を出るときに木箱をひとつもらったの、大きなね。これは渡されるときにね、「この木箱は内容物が軍事機密だ」と。軍事機密というのはね、軍隊のいろんな書類とかいろんなもんでね、秘密のランクがあるんですよね。普通は秘密の秘と書いた判子がボンと押してあるマル秘の。それから極秘とかね。で、極秘というのは極めて秘密という極秘という判子つく。で、極秘がそんならいちばんかって、もっと機密の高いものは軍事機密ってあるんですね。その木箱をね、これ軍事機密の木箱だったんですよ。で、取り扱い十分気をつけて大事に持って行って、そんでこのフタを開けるのは輸送船に乗ってからしか開けてはいけないと。で、この箱ひとつ持って行けということで、台北の軍司令部でそんな木箱をひとつもらって行ったんです。それで輸送船にそれを持って行ったんですが。それでいよいよ輸送船に乗って、もうこれで発進の命令を待つばかりですからね、で、もうよかろうというのでその木箱のフタを開けてみたんですよね。軍事機密って言うから何が入っているかと思って開けてみたらね、そしたら大本営でこしらえたビラですよ。伝単ね。それに漫画で英語のとタガログ語でね、「日本軍は比島(フィリピン)を解放のために来た」と。で、「日本軍と協力してアメリカの桎梏(しっこく=手枷足枷)を脱して、フィリピン人のフィリピンを取り返そう」と。で、「そういう戦いだからフィリピンの人は日本軍に協力をしてください」とか。そういうようないろんなことを訴えたビラなんですね。漫画、全部漫画のビラでしたがね。そのビラを見ると、「あ、日本がフィリピンに対してこんな呼びかけをする、こんなことをする、それで日本はフィリピンに対して攻撃を始める」というようなことが、そのビラ1枚で分かるから、ああ、それで軍事機密という取り扱いになっていたのかと、まあ初めてそこで合点しましたけれども。私どもがもらったのはただそれひとつなんですよ。そんでまあフィリピンに向かったんですがね。

Q:最初に人見さんたちがフィリピンに来たとき、戦争の初期にフィリピンの人たちは人見さんたちのことをどういうふうに受け止めていた、受け入れていたんでしょうか?

私どもは大部分の兵隊がそうだったと思いますけども、フィリピンという国はどういう人が住んでいて、どういう言葉を使って、どんな生活をしているのかっていうようなことについても、もう知識が全然ないんですよね。もうどんな国だろうかって全然知識がないとこへボンと放り込まれた形で、敵前上陸で行ったもんですから、何もかもが初体験で驚きましたけれども。
しかし少なくとも私は別動隊の東海岸から上陸する第16師団の比島派遣軍司令部から派遣をされて、16師団の司令部と一緒に東海岸から上陸しました。で、上陸しまして、すぐマニラに向かって突進する部隊で行くことになったんですが。まあ宣伝の仕事もどういうことをやったらいいかということも我々手探りで分からんもんですから、もたもたしてましたら、すぐ師団司令部から命令が来て、もうそんなことなんにもいいから、とにかくおまえは言葉の分かる通訳を英語、スペイン語、通訳連れてますんでね。で、40代より年上の人はスペイン語でないと通じない、いわゆるスペインが統治していましたからね、それから若い人はアメリカが統治してたから英語が通じる、それで年寄りに聞くときはスペイン語、若い人に聞くときは英語というので、2人の通訳を連れて。

その軽装甲(機動車)と単車隊(オートバイ隊)を先頭にしてマニラに向かって突進して行く。その過程で「フィリピンの兵隊を捕まえたらすぐ取り調べて、それで敵がどうしてるか、敵の状況をあれする」と。まずその仕事から私に始まりまして、その単車隊に乗せてもらって敵の中に突進して行くということから始まったんですけど。敵は日本の進撃を阻止するために、ありとあらゆる橋を全部爆破して落としちゃったですよね。その橋というのがね、日本の農村のそこらの橋と違ってね、アテムネアン(アチモナンか=マニラ東南方ラモン湾に臨む町)からマニラに行くところは大きな山がひとつあったりして、橋をひとつ落とされると、ものすごい谷底なんですよね。それでそれをいちいち修理して行くというのは大変なことだったんですけども。まあそうして行く途中でフィリピンの人を捕まえていろんなことを聞き、いろいろな情報を得ながら進撃していったという形です。そんな形で行きました。

それでフィリピンが便利なことは、ああいう亜熱帯の国ですから、寒くないから、だからそういう山のところへ行って、木の下で雨を避けながら寝転んでいても、なんとか生活できますからね。だからそういう点では非常に便利なもんだから、みんな町がもぬけの殻になるんですよ。それでその人たちをまず「自分の家、早う帰んなさい」と。「日本の兵隊は決してあなたたちに危害を加えるようなことはないから、とにかく早く自分の家へ帰って、それで今まで通りの生活をしなさい」と。で、「この戦争が、日本とアメリカの戦争なんだから、フィリピンの人には危害を加えることはないから、戦場近くの人はちょっと危ないから避けてもらわないかんけど、その戦争はもうバターン半島(ルソン島中西部にある半島)に行っちゃっているわけだから、もうマニラ近郊、そこらの町や村の人は、早う家へ帰って普通の生活に帰ってください」と。それがまず我々が宣伝工作で始めたことなんですね。

Q:それで最初は日本軍が入ってきたときに、現地の人たちっていうのは日本軍に対しては反感を持たなかったんですか?

あのね、とにかく大した抵抗は全然受けませんでしたね、我々のこの東海岸から上陸したなには。

例えば進撃してきましたらね、大きなヤシ林の中に舗装道路がずっと続いているところあるんですよね、その道を進撃して行きましたらね、これなんかそうですね、ヤシ林の中歩いていますね、これマニラに向かって歩いているわけですが。道端にね、民家にね、全然住民の人が逃げないでね、それはおばあちゃんですよね、だいたいおばあちゃん連中は「もう逃げたってどうせあれだからまあいいよ、ここにおるか」っていうので、おばあちゃん連中は家に残っているんですよ。それで家に残っていましてね、それで旗出しているんですよ。ちょっと見たら真っ白い旗なんですよね。それでね、私が通訳の人とそのおばあちゃん捕まえてね、「おばあちゃん、こんな白い旗出しているけどね、我々はアメリカと戦争に来たんでね、フィリピンの人と戦争に来たんじゃないんだから、だからあなたたちに危害を加えるというようなこと一切しないんだから、そんな白い旗なんか出さなくていいんだよ」と。こう言っておばあちゃんにそう言ったんですよね。そしたらおばあちゃんがね、「違う、違う、違う、違う」って言うんですよね。「これを見なさい」って言うて指さすんですよ。指さしたらね、真っ白の布なんだけど、中に梅干みたいな小さな赤い丸がついてるんですよね。結局日本の旗を急にこしらえて、我々を歓迎する旗を出してくれてるんですね。それはその「白地の中に赤い丸が日本の旗だから、とにかく日本の旗を出して歓迎しましょう」というので、おばあちゃんが旗を出した。

そしたらそういうふうなことでね、おばあちゃんがそう言うから、「ああ、そうか、そうか」と、「それじゃあ、ぶら下げても大丈夫、ありがとう」言って握手して通ったりしてね。そんな状態でマニラへマニラへと行ったんです。ほとんど抵抗を受けませんでしたね。

どこ行ってもね、地方宣ぶに行って私どもまず、「自分の家へ帰んなさい、普通の生活に戻りなさい」っていうことを宣ぶして回るのがいちばんの最初の仕事だったんですけど、それに行ったときはね、全然そういうことはそのままわりかし、すんなりと受け入れられて、民衆はみなあれしていました。ところがね、バターンで捕虜が沢山でたでしょう。それでバターン死の行進(昭和17年4月9日にバターン半島が陥落。捕虜となった米比軍の兵士が、収容所への長距離の移動で多数死亡した)なんて問題があるけど、その沢山の捕虜が出た。

でアジア人のアジアを取り返そうというのが今度の戦争なんだから、だからもうフィリピンは我々の敵ではないから君たちはもう解放すると。で、アジア人はアジア、フィリピン人はフィリピン人という自覚をしっかり持って、これからいろんなことをやるように。で、できるだけ日本軍のことにも協力してくれよと。その程度の教育をして、全部フィリピンの捕虜は解放したわけです。

しかし後でそういうような人が全部ゲリラになってきたというのは、これはまた別のひとつのあれがあって、やむをえないことでしたけどね。

Q:なぜそういう現地の人たちはゲリラになったんですか?

それはね、戦争でひとつの戦争していたときね、大事なことは住民の生活を確保することが非常に大事なことですよね。ところがフィリピンの事業というのは全部アメリカの人がいろんな事業をやって、そこで働いている人が多かったわけですね。その仕事が全部止まっちゃったでしょ。例えばヤシだったらココナツのなにをして、そのココナツオイルを取るとか、そういういろんなことがあるんだけど、そんなことはもう全部止まっていますからね。それでアメリカ人の人がフィリピンで経営していたところの仕事は全部ストップしてしまったから、だからその人たちは働くところがなくなったわけですよ。解放されてもらってありがたい、自分の家へ帰ったのはいいけれども、働くところがないでしょう。だからいちばん大事なことはね、戦争でそういう仕事を失った人にね、一刻も早く仕事を見つけてあげて、そしてそこからその仕事をやりながら自分がやっぱり生活していくための生活費が稼げる、という状態を作らないと安定しませんよね。
ところが日本軍はそんなことまで、今とにかくアメリカと戦争してフィリピンで一時的に勝利したけれども、後まだ次の戦いがあるから、そちらのほうのことに一生懸命ですからね。だからフィリピンの人たちの働く場所をこしらえてちゃんとするというようなことは、もちろん軍政府というのがあってそういうことをすることになったけど、それは非常にうまくいきませんでした。
そのために解放された捕虜も、解放されたのはありがたいけど働くところがないし、収入得るところがないから、まあ非常に困っちゃったわけですね。で、後でそういう人たちが皆ゲリラになるという状態はね、だんだんやっていたら分かったんですけどね、みな奥さんにご主人が叱られるわけですよ。「あなた毎日毎日ぶらぶらぶらぶらしていてね、お金少しも稼がんとね、家族どないして生活していくのよ」と怒るわけですね。そしたら「働くとこがないからしかたないじゃないか」と言ったら、「そんならゲリラになったらえらい沢山なお給料がいただけて、しかも長いことある年月ゲリラで働いていたらね、年金まで付くそうよ」と。「あんたそんなしてぶらぶらぶらぶらしているんだったらもう早くゲリラになりなさいよ」と奥さんがそう言ってね、ご主人に言って、そういうことも分かったんですよ。
これはえらいことやなと思うけど、しかしそれを防ぐためには現実的にその人たちが働く場所を提供し、そして生活費を稼げる場所を提供しなければいけない。それが日本軍としてはまだ戦争中だからそんなことはできないでしょう。それがフィリピンの若者がどんどんどんどんゲリラになっていったいちばんの原因です。

それでね、私どもがそういう中でそういうことを防ぎ、そして民衆が安定するためにしなくちゃいけない。そのために宣ぶ班というのを編成して、いろんな町々へ行って、特にゲリラが活動しているようなところへ行ってね、そしてそういう人たちと連絡をとって、それで説得して、「こういう状況の中でゲリラ活動やったりすることは危ないことだ」と言ったり、それから「それは結果的にフィリピンのためにならないからそんなゲリラ活動はやめたほうがいいよ」とかね、いろんなことをそれぞれのところでその地域にあった宣伝をしながら、とにかくゲリラを止めるようなことで行くわけです。そんなんで我々ひとつの宣ぶ班というのを編成して行って、私どもが持っているのはね、医薬品。医薬品といってもね、売薬ですよ。私どもが沢山持っていたのはね、あれ日本から来るの、

やっぱりそういうことのためにフィリピンに送られてきてね、私どもそれトラックに1台ぐらい持っているんですよ、薬をね。ところが戦争で病院もお医者さんの医療機関も全部止まっているんですよ。だからいたるところ病人が非常に困っているんですよね。それを助けようということになってね、そしたらフィリピンの捕虜の中にね、お医者さんがいるわけ、軍医さんね。それでその軍医さんをね、2人ほど協力してくれて2人来てもらったんですよ。そしたら「ホセ」とかなんとかっていろいろ名前あるでしょう、だけど横文字の名前は呼びにくいからね、もう日本式にしようというんで太郎さん、二郎さんという名前付けてね、「太郎さん、ちょっと」って言ったら、「はい」って言ってそのフィリピンの軍医さんが来て。で、あるところの町へ行ったら、すぐそこで診療所を開設するんです。それで「病人の人皆いらっしゃい」と。お医者さんはフィリピンのお医者さんで、その人たちが診断して「お薬は沢山、適当に、お金いりません、全部あげますよ」と言ってね、いたるところで行く先行く先で全部そういう診療所を開設して、やりました。それからね、ゲリラ活動で辞めさせるのはね、村の有識者全部集めてね、それで「どこそこの村でゲリラが日本軍を襲撃して、その後そこで戦闘が始まって住民の人も何人か被害が出たらしい」と。「ああいう痛ましいことは起こしたくない」と。「だからそのためにはこういうことに注意をしてもらいたい」というようなことを私どもから提案してね、その地域の有力者全部に集まってお話するわけですよ。

普通の人は日本軍と平和な関係なのに、その中で日本軍の姿見てバーッと逃げるっていうような人がいると、それはゲリラでなくても、「あ、あの人はゲリラかもしれん」ということで、すぐその人を射撃すると、撃つというようなことが起こると。だからこの町のどっかでゲリラが日本軍に危害を加えるというようなことがあると、その地域の民衆とか人は日本軍に敵意を持っていると誤解されたり、またそこの若者はゲリラかもしれないというように誤解されたりして、村の人たちが何かと損害を受けると。だから大事なことは、「『この地域で日本軍に対するゲリラ活動ということは一切起きない』と、『いつここを日本軍が通ってもこの地域が非常に安全な地域だ』ということになれば、日本軍はもっと他にアメリカと戦争するためにしなければならない仕事が他に沢山あるんだから、そしたらもうここから引き揚げて行ってしまう」と。「そしたらあなたたちの生活というものは誰からも何の干渉もされずに平和に維持できる」と。

宣伝宣撫(ぶ)というのはそういうことを主体にお話をして、ご理解を得るようにするという中で、それでそういうことをやっている片一方でもうその軍医さんが施療をやって病気の人をどんどんどんどんあれしていると。そういうような活動を次から次とやっていったんですね。

ということで地域の人が、この地域にはもうゲリラは入れない、ゲリラの人がここへ来てもここでは一切日本軍に危害を加えたりしないでください、というように向こうの民衆の人が自主的にそういうふうにやってくれるような気運を育てて、それでどんどんと平和な地域を広げていったわけですよね。で、それは非常に成功して、まあある時期までずっといけたわけです。で、いよいよ米軍が来るようになると、これはまあ別な話ですけどね。

私があの、ある部隊のところへ連絡に行ってね、それで歩いていたらね、顔見知りの下士官がね、パッと私に敬礼してね、ほんであの、私に「人見大尉殿」ちゅうて呼びかけてね、「おー、元気にやっとるか」ちゅうたらね、ほたらその下士官がね、「今度我々の軍司令官、山下大将だそうですね、よかったですねぇ、これで頑張りましょうー」なんつって、その下士官が私にそう言ったんですよ。でそのときにね、山下閣下はね、その3日前、ぐらいにお出でになってね、まだ着任されたばかりでね、まだ、山下大将が比島派遣軍の軍司令官に任命されてマニラにおいでになって着任なさったというようなことはね、ほんの一部の人しか知らないはずなのにね、どうしたことかその下士官はね、あのまぁ、古くからいたせいもあるからでしょうが、ちゃんと知っていてね。

で、私びっくりしてね、で、そのとき思いました。はあ、どういう軍司令官がおいでになるかということによってね、兵隊の士気というかその、気分というものが非常にガッと高揚してね、戦うという気分が非常に高揚して戦意があれになるということ、すごいなぁと思って、その、感心したんですよね。

いわゆる、「比島派遣軍軍司令官として着任をされた山下大将が、初記者会見をして、その抱負の一端をこのように述べた」と、「決意の一端をこのように述べた」というようなことを新聞記事にしなくちゃならないんですね。そのためにね、そういう新しい軍司令官が着任されたらね、フィリピンにいる全新聞社の代表を集めて記者会見するわけですね。で、そういう記者会見をする。で、その記者会見は公式発表の前にするわけです。

それでそのときにね、私、報道部長から呼ばれて、「おい、明日10時からマッキンレー(当時、14方面軍の司令部が置かれていた場所)で山下大将が初記者会見なさるから、ほんで、お前それに行って司会進行を全部お前やれ」といって私に言われたんです。

ほいで明くる日の朝10時前にマッキンレーの兵舎へ行って、マッキンレーの兵舎っちゅうのはね、米軍のマニラ駐留基地なんですよ。そこにね、もう地下70メートルとも80メートルともいわれる・・・ものすごい地下の防空壕があるんです、米軍がこしらえた。

ほたら、山下閣下がこうおいでになって、で、会議室に入ってこられたから、まぁ私が司会進行だったもんだから号令かけてみんなで立って、そして、閣下が前にお立ちになったから「敬礼」と言って敬礼して、ほったら、「どうぞお掛けください」と言われたですね。
山下大将なんちゅう名前伺っていたら、ずいぶん怖い人かと思っていたけど、非常に優しい声で、「どうぞお掛けください」と。それでまぁ新聞記者の方が皆座って。ほいで、山下大将が抱負の一端をそこで述べられた。

山下大将が言われたのはね、「自分がこの度、比島派遣軍の司令官に任命された山下である」と。で、「諸君も忙しいのに集まってくれてありがとう」ってなことを言われて。で、「君たちが知っているように戦局は非常に緊迫をしてきている」と。「そこでこれからのフィリピンというのは非常に重要な意味を持つ戦いになるので、たいへん重い責任を感じておる」ということで。そこで、「最近の日本軍は、我々のは、その外敵と日本を守るために訓練に訓練を重ねた日本陸軍の真価を発揮できないような状態で、次々と玉砕している戦例が多い」と。「それは、日本の軍隊っちゅうのは大体、大陸での決戦というものを想定して、そこで敵とあいまみえるときに、こちらの機動作戦で敵をいかにやっつけるかということについて訓練に訓練を重ねてきたのが日本軍である」と。「ところが最近の戦いというのは、そうした我々の仲間が、太平洋の島々で非常に無念な残念無念な戦い方をして次々と玉砕をしている、続けているということは、もう非常に、我々同僚がそうして亡くなっていくということについては残念でならない」と。

それでフィリピンということになるんだけども、「フィリピンはルソン島はいささか広さがある」と。で、「ここでなら、米軍をここの戦場に呼び出して、ここで日本軍が得意とするところの機動戦で日本軍らしい戦いが出来る」と。「だからここで最後の一戦を展開するので乞うご期待だ」と。「諸君は、ここで我々の米軍との決戦というのをひとつしっかり見てくれ」と。「また、君たちにそういう戦いを見てもらえることを幸せやと思う」と。まぁそういう話をなさったんですね。

Q:山下大将の「乞うご期待だ」というその言葉を聞いたときに、人見さんはどういうふうに思いましたか?

いや、確かにね、日本のなにはもう玉砕が続いていましたからね。ほんで、いよいよフィリピンでそれだと。で、いよいよフィリピンで決戦だと、それはもうみんな張り切ったし緊張しましたね。でまぁ、やっぱりそのもう、山下大将というなにはね、ちょっともう、また違う非常に信頼感というのがあったんで、まぁ非常に皆喜んだし、新聞記者の方たちもね、「あ、よかったですね」ということでね。

堀参謀(大本営陸軍部第2部参謀 堀 栄三)という方が大本営で、「これからの戦い方はこういう戦い方がよい」という米軍との戦い方の基本のようなことをちゃんと研究してまとめられてね。ほいで、これだけ読めば必ず勝てるというような小冊子(昭和19年6月『敵軍戦法早わかり』)を作ってね、その戦法をできるだけこれから米軍と接触するフィリピンの第一線にその戦法を普及するためにね、「お前行ってちゃんといろいろ教えてこい」というようなことを言われて、大本営の情報参謀だった堀参謀が、フィリピンに向いて飛び立たれたわけです。ほんで九州まで来られたらね、そしたら、これは堀参謀から聞いた話ですよ、九州まで来られたらね、ほしたらそこの飛行場のね、「参謀殿、これからもうしばらく足止めです。フィリピンに飛行機は飛べません」と、「急いでいるのにどうしてだ」って言って聞いたら、「いや、今、台湾沖で海軍がえらい戦争をやってます」と。

ほんで、「そんならその航空部隊の中心はどこだ」って言ったら、「鹿屋(かのや)の海軍航空隊の基地」だと。「あ、そうか。ほんなら俺、ポケッと待っとるよりも、そこ行って様子見てみよう」ということで、すぐその海軍航空基地へ堀参謀が行かれた。ほいで行かれたら、その飛行場の片隅に天幕があって、そこにその航空隊の司令と幹部がおっていると。ほんで、そこへ訪ねようと思って堀参謀が行かれたら、そしたらちょうど折よくそこへ、もうボロボロになったような飛行機が、ヨタヨタっとして飛行場の端からダーッと着陸したというんですね。

そしたらその飛行士が司令に敬礼して、ほんで、「ナニナニで航空母艦1隻撃沈」という報告をするというんでね。ほしたら指令がね、「あー、よし、よくやった、ご苦労ー」言うてね、黒板にね、昔、小学校で級長の選挙なんかすると、一、二とこうやって「正しい」という字を書いて選挙の票をあれするでしょ。それと同じように、一撃沈、「一撃沈か」ツッとこうして書かれていると。ほんで堀さんもそれ見てて、「ああ」で、一隻撃沈したというのをね、どうして確認、撃沈したということを確認したかということを、その本人にきちっと聞きたださないで、その報告だけでね、「よーし、ご苦労。1隻撃沈かっ、よし」言って、すぐ「1隻撃沈」って書いている。ほんなことでいいのだろうかと非常に疑問を持ったとね。それだけど、海軍のことだから、陸軍のなにで口出しできないから。ほんでその士官が報告終わってヨロヨロッとしながら、やっぱり傷ついているの、もうちょっと飛行機の方へ行ってね、で、報告終わってヨロヨロっとして、「ゆっくり休めー」って言われて天幕から出てきたと。ほいで堀参謀がすぐ行って、それで、「陸軍の大本営の堀というものだが、ひと言聞かせてくれ」と言ってね、ほいで、「あなたの撃沈した敵の航空母艦は何という航空母艦ですか」と言うて、こう聞かれた。なんという航空母艦だということは艦影で、これは何型の航空母艦だったらナニナニだと。こういう格好だったらナニナニとそういうことを皆教育されているわけですからね。だから、撃沈したと言うなら、何型の航空母艦を撃沈したかということを訪ねると、「ああなんちゅう航空母艦を撃沈したんだな」ということが分かるから、そういう質問をパッとされたね。ほしたらあの、「そんなものどうするかー」と。ほしたら、「どうしてその撃沈ということを確認されましたか」と言ったら、そしたら、「とにかく急降下してバーっと行ってそれで爆弾を投下したら、そしたら波のところでチカッと赤い火が見えた、光って見えた、それを確認してした」と。だから、「そのチカッと光ったのが撃沈されたというのはどうして確認されましたか」って言うて堀参謀が聞かれたら、「そんなこといちいちもう見とれるか」とね。「対空砲火が猛烈に強いんだぞ」と。だからね、「そんなものチャッと見といてね、密雲の中に雲の中にバーッと逃げ込むのが精いっぱいだ」と。「そやけど、明らかにわしがその急降下して投弾した相手の何を確認したら、バッと赤い火が上がった、間違いない」と、こう言うわけなんですね。ほんで、またちょっとなんか二つ三つ聞かれたら、「もういちいちそんなことをもうその大決戦の大混戦の中でね、いちいちそんなこと確認しとれるか」と言って、もう泣き声でそう言って反論して、ビッコ引きながらその将校は病院の方へ手当てをするように運ばれていったと、そういう光景やと堀参謀が私に話してくださった。

「そんなにいい加減なことでね、撃沈の確認をするというのはそれはちょっと非常に乱暴な話で、敵の航空母艦を1隻撃沈したか、2隻撃沈したか、3隻かどうかというその一つ一つをしっかり確認して、ほんなら敵の残存兵力はこれだけだ、それならどういうことだということの敵の出方という、敵の情勢判断というものはそこで出来るんで。そやけど、その一隻一隻の撃沈がきわめて曖昧(あいまい)なもんだったとしたら、これおかしいじゃないか」と、これはね。「しかも東京ではもう大祝賀で、なんか東京では、その日の晩に提灯行列するそうだ」と。「ほいで、もう何隻撃沈して台湾沖でアメリカの航空母艦全滅させたと言って、ほんで提灯行列するそうだ」と。「どうしてそんな全滅させたということを確認したんだろう」と、「これは、こんなものを軽々しく信じては危ない」と。それで、すぐ堀参謀はそこから大本営の陸軍部に対して、「台湾沖の航空撃滅戦の戦果はきわめて疑わしいと、十分検討を要する」という電報を打たした。これが非常に有名な電報なんですがね、その電報。そして打っといて、ほんで次の飛行機の便でフィリピンにやってこられたと。それでフィリピンにやってこられたらね、フィリピンのマニラは米軍の空襲を受けとってね。

そしたら見たらね、空飛んでいる飛行機は全部艦載機、艦載機というのは航空母艦から発進した飛行機で小さい飛行機ですよね、全部。航空母艦の短い甲板からピーンと上がらないかんから、大きな飛行機は飛べないから皆小さい。艦載機は非常に小さいんですね。それがもう蜘蛛(くも)の子みたいに空にまき散らしたようにいっぱいおる。「これ全部艦載機がマニラを空襲中だ」と。「艦載機がこんなに飛んでるということは、全部これは航空母艦から発進してきているんだから、航空母艦が全部なくなっていたらこんな飛行機来るはずない」というわけです。やっぱりあの海軍の「台湾沖航空戦の戦果」というのはあやしい、絶対信用したらいかんという思いで山下司令部に到着されて、で、「これこれで到着しました」ということを言って。そしたら、すぐその台湾沖航空戦のことが話題になった。司令部は、とにかくもう大本営からも、「台湾沖で海軍が大戦果を上げた、祝着至極だ」という情報も入っていたりするもんだから、「じゃあまぁ祝賀会やろうか」ちゅって、みんなでいささかのご馳走して、軍司令部で祝賀会やろうと、祝賀の晩餐(ばんさん)やろうとね、言うてたんだけど。堀さんの話しを聞いたら、「そらあやしい」。あやしいし、「そらそうだ、君の言うとおり航空母艦がいないんだったら、今そんな艦載機がマニラの上空をこんな飛んでいるっちゅうのはおかしい。お前の言っていることが正しいようだ」と。「よし」というので山下大将は、「もう今日の祝賀会はやめだ、せっかくそやけどご馳走をこしらえたんだから、まぁ慰労会でみんな一杯やってくれ」と言って、「俺はもう今日は出ないからな」と言って引っ込まれたと。これが、有名な堀さんがこられた話、マニラに到着されたときの光景なわけ。

そしたらすぐね、また今度は連絡があってね、ラグナ湖(マニラ近郊)のほとりでね、撃墜したところのアメリカの飛行機から、傷ついた飛行機から落下傘で降りてきたアメリカの航空兵がいると。すぐ憲兵がそれを捕まえて、ほいで尋問したら、「アメリカの航空母艦は1隻も沈んでいませんよ」と、「何言ってんですか」と、「我々皆全部1隻も沈んでいなくてね、それで我々今、こっちにマニラに爆撃にやってきているんですよ」と。「航空母艦がたくさん沈んだなんてどこの話ですか」ちゅうて捕虜があきれているという話ね、そんな話を憲兵が聞いて、すぐ報告してきたんです。

ところが大本営は、敵の航空母艦が撃滅(全滅)したということを信じ切っているものだから、そんな、「すぐ第1師団をレイテにやれ」と、こういう命令が来たんですね。それまでにね、大本営からフィリピンに、レイテで決戦するようにという指導のためにね、大本営のかなり高級の参謀がフィリピンに飛んできていた。ところが山下大将はルソンで決戦するつもりだから、その意見はなかなか聞かれないわけね。ほしたら、そこのところに来て今度は南方軍総司令部というのがあって、そこに寺内元帥というお方がいらっしゃって。その寺内元帥もこのフィリピンの戦争を指導するためにというのでフィリピンにやってこられた。

ほんで、大本営のなにがね、寺内元帥に泣きついてね、「寺内元帥からその命令出してください」と言ったもんだから、それで寺内元帥も、まぁね、「もう山下、レイテでやれ」と言ってね、「これは命令だ」と。「命令」と言われたらね、どんなことでも聞かなくちゃいけないというのが原則ですから、ほんで山下大将は、「はい」とそう言ってひと言言われて、ほいでレイテで決戦することに変えたわけです、これがもう分かりきった大失敗で。

それで大本営は幻の「アメリカの航空艦隊が全滅した」という情報に、それも、「あやしい」とはそら思っていたと思いますよ、そのなにはね。そやけど、それで無理押しに、比島派遣軍にレイテで決戦しろということを命じて決戦させたために、逐次撃破されて比島派遣軍は壊滅したと。だから、それでその後ルソンに移ったけども、そのときはもう主要な兵団が全部レイテで消耗していますからね、ルソンのあとの戦いも、もう圧倒的な米軍の戦力の前にルソンに残っていた兵力はきわめて微小でもう歯が立たなかったと。で、だいいち食糧なんかもね、ルソン決戦に必要な食糧はちゃんともう準備していたんですよ。そしたらその大本営で「レイテ決戦だ」っていうでしょ。それで、「レイテ決戦でレイテで第16師団も第1師団も先へ上陸した部隊は食糧がなくて困っているから、はようその食糧をレイテに送れ」というのでね、ルソン島にあてがって準備していた食糧を全部船に乗せてね、で、「すぐ送れ」という大本営からの命令で、出そうって出したわけですよ。そんなん、敵が全部制空権を持っているところに、そんな船が食糧がレイテに届けられるはずがないけれども、大本営の命令だから出した。そしたらそのなには、マニラ港を出るまでにもうマニラ湾内でボワーンと沈んでしまったんですね。

Q:実際その山下さんとか幹部の方が悩んでいる様子とかって、目の当たりにされていたんですね?

ええ、そうなんです。ほんで、せめて陸軍の大本営がそのことを知って、堀参謀の電報で知って、しかもその後、落下傘で降りてきた米兵を捕まえても、そこでもうはっきり敵の航空母艦は全部健在だというのが分かっているんだからね、そんなこと分かったらね、レイテ決戦どころじゃないでんですよね。それだのに、それをやめさせなかった。そこらがもう非常に大きな間違いだし。それがもう日本の運命を決定づけたということになったわけですかね、そのことが非常に残念だと思いますよ。

んでね、あるときにね、山下閣下がねこう言って嘆かれたっちゅう話が伝わってきましたよね。「何事もな、命令と言って頭ごなしに言われたらね、もう大将も上等兵も一緒だよ」って嘆かれたと。命令つって、頭から命令だっつってこうやれっつって、もう一切の反論も意見も通じないですよ。

現地軍の方針ていうのは全く無視されて、大本営の作戦課があれしたと。だから、レイテ決戦なんか現地軍は絶対反対ですよ。

「ルソン決戦の為に苦労して苦労して集めたあの70トンの米を、絶対に送れません」って。「そんなもん、マニラ湾出るか出れるかわからないでしょそんなものー」と言って、言ったけども、「とにかく東京からの命令だから送れー」言うことで。乗ってって船を出したが、もう、マニラ湾口に出るまでに、マニラ湾で沈んだんですよ。こんなね、我々が一生懸命やったことをね、分かりきってるのにこんなとこで沈めてね。ほんで、ルソンの
兵隊さんを全部餓死に追い込むようなね、そんなこと。

こっちはなにした、半分沈んだちゅうなもんな満身創痍(い)の形になっていましたからね。戦力も非常に落ちていたわけですよもう。そういう形でルソン決戦を迎えたわけですから。もうすでにそういう終末的な格好になっていましたね。残念ながら。

もう最後の段階にはもう言葉を失いましたね。みんなが。

Q:言葉を失った?

はい。なんちゅうか、ある意味では「こんなばかな戦争続けるだけ無理じゃないか」という人もいるし、それから、「もう全然無理でしょ、こんな戦いは」という士気で、もう絶望していた人がたくさんいましたからね。だから、例えばマニラの防衛線ですね。最後の。マニラの防衛線はマニラには放送局もあるし、それから新聞社もあるし、いろんな報道機関が全部揃っていましたからね。これは最後まで守りきって、ときかく米軍がマニラに突入して入ってくるまで電波は出し続けようと。いうような形で、それぞれ戦う目標を示して、それなりにみんな頑張ったわけですけども。もうその入ってくる情報がとにかくもう負けるちゅうか、そういう気に入らん情報ばっかでしょ。だからもう、どうにもしかたが無いでしょうね。ですからもう、最後、報道部もやっぱり全然無力になりましたね。

それはね、もう記者の方たちもね、まぁやっぱり私らはこらもうみんな絶望してらっしゃるなと。日本のあれなことにね。マスコミの人たちは、新聞記者の人たちもね。もう手のつけようがないというふうにね、日本の現状を。そういうふうに思ってらっしゃったんじゃないかなーと思いましたね。もうそういう感じでしたよ。

Q:どこでそう感じたんですか?

もうとにかくその、例えば仕事考えてでもですよ。「軍がここをこういうふうにしてこうすれば何とかなるんじゃないですか」というようなことが一つでもあったら、そういうこと言う方がいると思うけど。もう何一つそういうことがないんですもの。もう戦争の前途というのは考えれば考えるほどもう絶望的で、しかもアメリカの戦力が圧倒的に強くて、それに対する日本軍の方針というのがもう支離滅裂だと。んなこんな戦争肯定させる材料なんて何一つないじゃないかと、いうことがどうしても絶望的な思いになりますよね。だから、あのもうね、最後になってきたらね、この戦争はとても武力では勝てない。でもこの戦争、続けていってもアメリカ軍は非常に損害が多くなって、利益は少なくなる。もうこんな戦争はやめようというような気分にアメリカを追い込んでいく。そういうことで話をつけるというような方法しか、もう解決の方法は、武力で圧倒的に相手をやっつけるとかなんとかちゅうことは、とても出来ない状況になっているんじゃないかということを、なんとなしに、日本の、フィリピンで戦っている我々も、まぁ無力なんていうたらおかしいけど、できるだけやることはやるけれども、とてもこれは大きなあれで無理じゃないかという思いがありましたからね。

そしてフィリピンの戦死は50万ですからね、50万もの人が戦死をしてなおかつ終戦に持ち込む目的を達することなく全滅してしまったと、これがフィリピンの戦いですよね。そういう点はもう非常に、だから我々残っている者としては本当に悔しくてならないんですけれども。その原因は、海軍のアメリカの航空母艦を全滅さしたという誤報を訂正せずにそのままほっかむりしたこと。また、それを信じてレイテ決戦を強行させてルソン決戦を不可能にした大本営の誤った指導、これが比島の戦闘を全く不可能にしたっちゅうか、もうそこで終戦に持ち込むということができなくて、日本をいっそう不幸な最後の状態に追い込んでいくというその過程になってしまうわけですよね。そういう点だけはもう本当に悔しくて、もう全比島派遣軍の五十余万の戦死者というのはほんとに死んでも死に切れないほど無念に思ったと思いますよ。それはね。そういうことだったわけです。

ほいで比島での終戦ができなくなって、さらに8月まで戦争が延びて、その間どれだけたくさんの人が死に、どれだけたくさんな日本の都市が焼かれ、どんだけ大きな損害が生じたということを考えると、そのことはもうこの大東亜戦争の中でのいちばんの大きな間違いだったというように思われますね、そういうことなんですよ。

出来事の背景出来事の背景

【フィリピン・ルソン島 補給なき永久抗戦 ~陸軍第23師団~】

出来事の背景 写真フィリピンにあるレイテ島とルソン島。太平洋戦争終盤、この2つの島で日本軍と連合軍の総力をあげた戦いが行われました。
日本軍がレイテ島の戦いを「決戦の場」と位置づけたのは、直前にあった台湾沖の航空戦で、日本海軍が大勝利をおさめたという情報が流れたためです。大本営は、台湾沖で大きく戦力を失ったアメリカ軍をレイテ島で迎え撃てば、一挙に形勢を挽回できると判断したのです。

しかし、「台湾沖の大勝利」は誤りでした。航空機の未熟な搭乗員の誤った報告が一人歩きしたものだったのです。大本営の認識とは裏腹にアメリカ軍の空母部隊は戦力を保っていました。レイテ島の日本兵は、アメリカ軍に補給を断たれ、激しい戦闘だけでなく、飢えや病でも次々と倒れていきます。そして、この戦いでの敗北が、日本の敗戦を決定づけることになりました。

レイテ島で勝利したアメリカ軍は、さらに日本本土を目指して攻勢を強めます。これを押しとどめようとする日本軍は、ルソン島で持久戦を挑みました。しかし、ルソン島には、充分な食糧や弾薬は残っていませんでした。大本営の指示によって、ルソン島に集めていた食糧や物資をレイテ島に回してしまっていたのです。こうした中、兵士たちには「自活自戦・永久抗戦」の命令が下されます。食糧も物資も自ら調達し、永久に戦い続けろというものでした。
食糧も弾薬も尽きた中で、戦いを強いられた兵士達。ルソン島では、太平洋の戦場で最も多い30万もの日本兵が命を落としました。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1916年
京都府南桑田郡今路村(現・亀岡市)に生まれる
1936年
現役兵として近衞歩兵第2連隊に入隊
1941年
第14方面軍司令部宣伝班でフィリピン・ルソン島へ
1942年
報道部次長宣伝科長として、日本軍の宣伝活動に当たる
1945年
ルソン島のプログ山で終戦
1946年
8月、復員
 
戦後は紳士服の製造販売業を営む

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フィリピン(ルソン島、マニラ、マッキンレー、プログ山)

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