ホーム » 証言 » 山田 忠良さん

証言証言

証言をご覧になる前にお読みください。

証言一覧へ戻る証言一覧

タイトルタイトル: 「飢えとの闘い」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン・ルソン島 補給なき永久抗戦 ~陸軍第23師団~
名前名前: 山田 忠良さん(第23師団 戦地戦地: フィリピン(ルソン島、リンガエン湾、バギオ、シソン)  収録年月日収録年月日: 2011年11月19日

チャプター

[1]1 チャプター1 砲の向きを決める  03:52
[2]2 チャプター2 負傷  04:58
[3]3 チャプター3 名ばかりの野戦病院  04:47
[4]4 チャプター4 街のように見えた米艦船  03:26
[5]5 チャプター5 入院患者が食料を探す  05:07
[6]6 チャプター6 亡くなった患者を埋める  07:32
[7]7 チャプター7 飢えとの闘い  06:35
[8]8 チャプター8 投降  07:41

チャプター

1
2
3
4
5
6
7
8
番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン・ルソン島 補給なき永久抗戦 ~陸軍第23師団~
収録年月日収録年月日: 2011年11月19日

証言をご覧になる前にお読みください。

再生テキスト再生テキスト

観測はね、結局、砲のね、距離とかあれを測って、何ぼで撃つかということを決めるわけです。そして、いろいろ、計算とかあれをやって、それで、こうこうやって、それで分隊長がおってね、それで、小隊長に報告して、よし、ほんなこれで方角でいこうと。それで、砲に、砲手のほうに、通信のやつ、そこにおればいいですけど、電話で、方角何ぼ、何ぼにせえ、今日は、この風向が何ぼやからと言うと、弾道って弾の高さがね、あれと、90と違って、あれは、旧砲塔ですからね、重たいから、90は真っすぐ飛びますけどね、ある程度は。そういうところで、中隊観測というのは、その落ちついてこそ観測やけども、測る暇がないでしょ。そんなあんた三角法とか使って計算しろったって、敵来るのに計算できますか。側盤ちゅうの、こんな広げて、10センチ角のものを広げて、敵がこう、標的を決めてですね、こう測っていて、間に合わないですよ。そら陣地があってこそ、間に合うわけ。

それで私は何にもしないときは、タコツボ(壕)を掘るわけですよ。それでこう観測するわけね。だけど、その中隊観測っていうのは、実際あれは一線では間に合わんです。

Q:間に合わないってどういうことですか?

結局、観測というのは機械を据えて、おたくみたいに据えてやるわけ、いろんな機械をね。方向調べたり、大砲。落ちついてこそ、砲兵はいいんだけども、移動するときは、ほいで輓馬(ばんば)はあかんわけですよ。中隊観測なんていうのはあんた、こうやって見るだけですよ。固定はできないわけ、移動せないかんから。

動いてね、観測できるわけない。動き回ってね。落ちついてこそ、観測できるんであって、5分や3分でやる観測なんか。ただ、眼鏡据えて見るだけやったらできますよ、また折りたためばいいんですからね。しかし、仰角を測ったとか、方向を測ったということは、なかなかほれ、1分2分じゃできませんよ。

それで「観測は用ないから、弾運びせえ」って。で今、アメリカの野砲、向こうの砲弾がね、2連装で銃(砲)弾も一遍に20発ぐらいババッと来るわけですよ、弾が。それこそじっとしゃがんでおいてね、それで、弾がそこ落ちたぞとパーッと走って行くわけですよ、頭抱えて。

戦闘になったら、これは役立たんなと思ったです。戦闘始まったときに。自分で分かったですよ、それはもう。でどうにかこうにかね、形なりになって、班長になったでしょ。もう余計ですわな。だけどそれを、十分に使う機会がなかったから良かったと思うんだけどね。あらが出なかったけど。十分にやりよったら、観測班長としたらちょっと足らんかったでしょうな。

ここ、私が負傷したのはね。このシソンの三叉路です。この手前。このこのこ、この細い道路のね。ボールペンありますか?これ国道ですわな、これ。ここ三叉路ですわ。ちょうど私がこうしていたらこの付近で負傷したんです。

その、三差路から50~60メートル離れたところに、溝の中にこう、こっちとこっちに分かれてね、5人10人、ここ将校が1人おったですわ。どこの将校か知りませんけど、聞かなかったですけどね。座っていたんです。そのときにうちの、知っているやつが、初年兵がケガしましてね、持ってきたんですよ、あの、下から。「あ、お前もけがしたな」って。「よっしゃ、俺が包帯でくくってやるわ」って、僕はここから、雑のうから包帯を出して、手を出したとき来たわけ、僕に。ボッと。そしてポッとやられたからね、棒でたたかれたような気がしたから、「あ、これあかんわ、俺やられたわ、おまえ誰かにくくってもらえ」ちゅうてね、言うて。それで見たらもうここ、ぼろぼろになっているしね、白い、こう肉が見えているわけですよ。「これあかんな、俺やられたな」ちゅうて、自分は包帯出して、前の、将校がおったんで、将校の人に、「すいませんけど、これくくってくれませんか」言うて、くくってこう、自分は上からね、もう。そして夏服ですから、これ、上着着ていませんからね。それでくくってもらって、もうぼろぼろになっていましたからね。骨には当たってなかったみたいですけど、ここザクロみたいに開いていましたわ。

破片、アメリカ軍の砲弾の破片。ギザギザでね、ちょうどこのくらいですわな、こう。

Q:それがどう当たったんですか?

あーここに当たったの、破片が。

Q:どうやって当たったんですか?

いや、どうやって当たったのか知りませんよ。ただ、えぐれとるだけですよ、これね。

Q:どんなふうになっているんですか?

いや、ほいで、これさっき話した、ザクロみたいにここだけガーッと。私こう見たら、ああ、白いとこ出ているなと、見たら、服の上からですからね。

刺さらないんだって。擦過といいまして、えぐり取ったというやつです。そして次の前の人に、前に座っていた人のひざにパンと、横に当たったから切れない。こう当たったら切れますわな。とがっていますから、刃物みたいにとがっていますからね。

Q:山田さんの場合は?

それで擦過ちゅうてね、えぐり(れ)ただ。ここ穴あります、へこんでいますわ。

Q:どうなっていたんですか?

ほいで、こんな開いちゃって。白なって。血はちょっと出なかったです、2~3分は。最初白くなっていました、プチュプチュッと。おお、やられたなと。それで3分か4分したら、血がタラタラタラタラ出だした。

で、「これはここにおったらやられる」と。それで、皆、陣地、第2陣地ってその、山の裾にあるわけです。そこまで行こうちゅうて、ずーっと、この、道路を渡れませんわね。盛り上げ土ですからね、国道。あなた撃たれますから。それから、「ああこれ戦車が来るぞ」と言って。して見たら、ボボナン(シソン南方)の方から戦車が来よるわけです。ガラガラいうてますからね、「おー、アメリカ軍の戦車来るぞー」言うて。

ようやくくぐってこう頭上げた途端に、ジープに2人乗ってね、ペラペラペラペラ話して、私ら、頭の上を通って行ったわけ、国道ですから。頭をひょっと上げたらね、でここへ、6人か7人固まっていましたわ。それであれ、あの、手りゅう弾持っていますからね。「あれでやるか」と言ったけど、「やったら次から撃たれる」と。「次に来るからやめとこう」と言ってやめた。

「くそったれ、やっつけようか」という話ししたんですけどね。だけど、「来るからもうやめとけ、向こうの機関銃で狙われるわ」ちゅうて、やめたんですわ。

Q:でもその、聞いてたアメリカ兵は、楽しそうに話しながら・・

ああ、楽しそうに話しながら行きよったですわ。あれを手りゅう弾で爆破すればね、うまく当たれば、ジープなんか吹っ飛んでしまいますからな。それしなかったですわな。あれ、兵隊5~6人、下士官が3人かおったりますけど。「やめとこうや、後ろに戦車が来るから」ちゅうことで、戦車からやられるからと思ってね、やらんかった。

Q:やっぱり戦車は怖いですか?

そらあ怖いでんがな、あんた戦車は。そら怖いですよ。相手は鉄やもん。相手は鉄やもん。戦車は怖いですよ、機銃も持っているし、砲も持っているし。

野戦病院と言ってもね、かやの屋根、竹の家ですわ。そいで下に竹をね、敷いてあるわけです。竹いっぱいありますから。柱も竹、屋根はかやぶき、あの屋根は、横はなし。

Q:横はなし。

ないない、あっけらかん。それで下はこう、あれを、竹を、バロップをずーっと並べた、それが野戦病院。軍医さんおったですよ。で軍医もええかげんなもんです。アメリカ軍の飛行機が来るとね、治療してくれない。そこはジャングルみたいな、こうあるとこですからね、上から見えるわけがないんですよ、包帯がね。「おまえらの包帯が見えるから、飛行機が来たら隠れろ」と言うわけ。僕らは治療に来たわけでしょ。この軍医、何言ってくさるんだと腹立ったですけどな、せんことには治療してくれませんからな。だからあんたしゃあない、辛抱して、アメリカ軍が来たら隠れろっちゅうから、飛行機通るから。それでおうして、辛抱して、飛行機のおらないとき治療してもらって、そこで休息です。

それで晩になったらね、10人、20人とその、シソンの負傷者も来たわけです。顔知っている者もおりますわな。目やられて、「ああ、おまえ目やられたんか」、「あ、班長、目やられた」って言うやつもおりましたけどな、うちの同じ分隊で。それで、何十人、30人か40人集まったでしょ。それでもう夜中、何もくれんし、確か弁当、握り飯くれたんかな、食べたかもしれないです。そのとき、そこでウンウン言いながら皆、こっちでウンウン、こっちもウンウン言いながらね、そこで一夜明かして、そして朝握り飯を、あれ、乾パンもらうたんかな。乾パンかな、乾パンか、もろうて。それでそこ朝になったらね、「爆撃機来るから、皆、分散してくれ」と言われて、そして僕らは4人グループ作って、各グループでね、1人じゃあかんと、わかれろちゅうことで。

そしたら1人、死にまして、破傷風にかかっていたんですね。大したけがなかったんですよ。それで10時ごろからおかしなってな、物言わんようになったから、起きて、「おい、どないあるんや」って言って返事しませんし、それで触ってみたら体が硬直しよるんですよ。それで目だけぐるぐるしていますけどね、物言えない。それで体がね、硬直して、あ、これ破傷風やなと思ってね。「しっかりせえよ」と。それで(私が)水はぱっと吹き出すわけ。水飲まそうかっつってね。そして行ったら、ピューッと吹き出した。あ、これはあかんなと。そして、まだ元気なやつがおりましたから、私はま、ここだけやけどね、足は丈夫ですけど、これをな、本部へ、夕べおったところへ、軍医たちおるわけですから、看護兵もおるし。そいで、「こうやって死にそうになっているから来て診てくれ」と言ったわけですよ。ついに来ません。後は来ました。後から来たですよ。それで連れて行きましたけどな。結局、もう葬っただけですわ。処置なしですわ、こんな硬直してしまったら。破傷風はあれ、カチカチになるからな。

Q:病院に行かなければいけなくなったときの気持ちはどうでしたか?

それはもう、当たり前やと思っています。病院に行かな治らんのやから、やっぱりはよ行って治していきたい、復帰したいと思いますわな。

Q:その部隊を去って行くのは?

何もそんなの思いませんよ、早く行って治したいという気持ち。

Q:治して、どうしたいんですか?

また復帰すればいいわけですから。使えるようになったら、中隊に帰ればいいわけですから。それはどんな患者も一緒じゃないですか。

Q:やっぱり帰りたいものですか?

あ、帰りたいですよ。あの、用ができればね。確かに用がないもの行ったってしょうがないでしょ。中隊の重荷になるだけじゃないですか、飯食わせるだけじゃないですか。それよりは病気でも、治療でもして、そしてある程度使えるものになったら中隊に帰す。軍医だってそうですよ、そんな使えん者帰さないですよね。

それで次の日はもう、また乾パンもろうて、陸軍病院に行きますもんで、野戦病院は長く置かないわけ。治療するとこですから。それで、陸軍病院に行くことになっていますから。それから3日、2日か3日歩きました、この山の中をずーっと、バギオまで。そしてバギオのそばにベンゲット道路ってありますな。あの手前まで歩いたです。ずーっと坂を、山の頂上やらね。そのとき、アメリカ軍の艦隊を、山の上から全部見たですよ。「ああこれじゃ戦争で勝たん、これはだめや」と言うて、もう街です、リンガエン(湾)が。

Q:街?

街と一緒。全部、電気つくして、何百隻とある軍艦、戦艦、アメリカの。それが全部電気つけてね、ちょうど街ですわ、リンガエンの、その港が、湾がね。その山の300(メートル)何ぼかな、あの山の上から見たですわ。その上で一晩泊まった。

そのときそのリンガエンを見たわけです、真下ですから。いちばん高いとこですからね、こう、真下に見える。それは街です、何百隻をあげてね、電気つけて。

Q:こうこうと輝いて。

ああ。ほいで、ほいでたまに照明弾ポコポコポコポコ上げますやろ。照明弾、ご存じのように、上で、バーッて明るくなって。

Q:それ見たとき、どう感じましたか?

今言うたでしょ、これじゃ戦争に勝たんなちゅうて、これは戦争負けやなと思ったって。これじゃ勝てんわちゅうこと。街ですよ。1つの上から都会を見るようなもんや。それから行って、そこ山、そこに泊まって、次の日また、2日か1日半歩いて、途中で自殺するもん2人いました。

Q:えっ。

自殺。自殺。

Q:どうやってですか?

兵隊で、軍曹でしたけどな。ずっと歩いて行く道々にね、立っとったんですよ。でしょんぼりしとった。私より階級上ですわな。私は伍長ですから、その人は軍曹で。「どうしました?一緒に歩きませんか、病院に」と言ったら、「うーん」と言うただけでね、タバコすぱすぱして、ああ、この人はこれ、だめやなと、どこも、どこをけがしているか、けがしたとこは見えんけどって。そしたら50メートル行ったらバーンと音がしまして。ああ、これはあの人死んだなと、私はそういう感覚がした。そして後ろから来た者に、「あそこ軍曹おったかい?」と言ったら、「いや、おりませんよ」と言うたから、もうそれで、あの手りゅう弾で自分で死んでいるわけ。もうこの、嫌になったんでしょうね。そういう人がおりましたよ、やっぱり。その自分の身をはかなんだか、戦争が嫌になったか知りませんけど。

いや、行く前はね、握り飯ぐらい食わしてくれるだろうと思って行ったわけ、陸軍病院ですから。野戦病院とか、地方の、兵站病院とは違いますやろ。小さい野戦病院と違いますから、握り飯ぐらい食わしてくれるだろうと行ったところが、あにはからんや、あんたにも言うたと思うんですけど、1日の昼と、朝の飯がピーナツのこのくらい、コップのこのくらいですかな。このくらいのコップに1杯、あの、渋皮つきの(ピーナッツが)コップ(1杯分)。また朝の4時半ごろ起こされて、「はい、皆さん起きてください」、「まだ早いやんか」、「まだ早いことないです。あ、起きて、朝飯あげます」と言うから、皆ごそごそ起きますがな。それでくれると思ったら、こういう、コップこのくらいのやつで、ピーナツを、皮つきのピーナツですね。「これは、朝飯と昼飯です。であんたらは、朝食べようと昼食べようと勝手です」って。それで僕は文句言うた、腹立ったから、僕、大食いやから。「くそったれが、私らこうやって飯も食わんとな、乾パンとか何かと来たのにね、陸軍病院行ったら握り飯ぐらい食わしてくれると思って来たんや」と、「第一線から来たんやから、握り飯ぐらい食わしてくれんのか」と言ったら、「ありません。これは軍の命令です」。それでそれもろうて。夜明けと同時に追い出される、爆撃されるから。アメリカ軍に爆撃される、家を。そしたら死なないかんでしょ。それで「歩ける者は、早く歩いて行ってください、夜が明ける前に」つって。それで私らグループ作って、3人4人グループつくって。

それで、各人がグループつくって、その、適当に避難場所作って、そいでもう入り切らん、うろうろして、やっぱりひもじいですから、うろうろして、ちょうどたまたま空襲が来て、防空壕があるじゃないですか、日本軍が作った防空壕が。それに行ったら「おまえ来るな」って。「来るな」って、「入るな」と言われて、みんなぶつぶつ言うとった。俺入れられへんのやて。全くこじきですわ、私らは。入れてくれへん、防空壕には。

陸軍病院ではね、仕事がないから食糧探し、何か、食べ物は落ちてないかとこう探すこと。それからそのシラミの、掃除やら穴掘り、それが仕事ですわ。それで飛行機が来たら逃げる、それだけ。

全く病人というのは乞食ですよ、食べ物がないかってうろうろするわけですよ、落ち穂を拾うたりね、イモの葉っぱとりに行ったり、イモ掘り行ったり。掘りって盗みですよ、今言うたように泥棒。イルビットの、イゴロット族という土民があるんですね、ご存じのように。あそこ作っているやつを、盗り行くわけです。そして日本人というのはね、アホなもんで、芋は、こう引っこ抜かないんですけど、日本人はね、引っこ抜くんですよ、つるを全部。フィリピンは引っこ抜かない。フィリピンはご存じのとおりね、大きくなったやつから掘っていくんです。イゴロット族は。ほいで、あと小さいやつ置いとくわけよ、太るまで。で全部がなくなったらつるを切って、また植えたらすぐできるわけですからね。年に2回でも3回でも採れるんですから。それで日本人の兵隊の悪いくせはその、つるを全部こう引っこ抜くわけですな。そしたらもう2か月なら2か月かかりますやろ。フィリピンのようにすれば、残っていればそれが太くなって、採れるわけですね。そういうことで、1反ぼ(歩)か2反ぼ(歩)あるとこ、1か月かからんですよ。真っ裸で、まる裸ですよ。

Q:フィリピン人の芋。

そうそうそう。もう兵隊が掘り尽くしてしもうてる、患者が。1反何ぼある大きな畑。私ら遅かったから、もうはげ山ですわ。それをこう探して、まだ残ってへんかとか、石の陰とかね、岩の陰は残っているんですよ。それでそういう小さいときの百姓、子どもですから、芋で育ったんだから、あー、(カンが)働いたんでしょうな。あ、芋の葉っぱ出ているなら芋やなと。それでそれを掘ってみたら芋があるから、おい、それで誰も言わんと自分で行って掘ってくる。それから、芋のあの、うろうろ歩いてね、モミの葉、モミが落ちていたら拾ってきて、ついて食べたり。

そして、今度は1週間も10日もしたら、もう毎日、穴掘りです。穴掘り、患者を埋めるのに。病院の敷地があるんですよ、こういう、別荘の。そこ庭を掘って埋めるんです。

Q:患者が掘るんですか?

僕らが掘るわけ。元気なもんが。元気な者が掘って、ほいで毛布にくるんで、そしておさめるわけ。ほいで花のそこら、別荘跡ですから、なんか変な花ありますわ。それを供えてな。だれも坊さんおらんからお経も上げんと、ただ参るだけ。毎日掘りました。ずーっと並べていくわけですよ、そして埋めていって。

いやー、こうなるのかなと思いましたね。あ、人間、こうやってこうなるのかなと思ったって、埋めるときね。それで、そこで死んでいくのもありますからね。ほいで、シャベルで、ああ、ここあれ、「おいちょっと、シャベル置いてちょっと触ってみいや」って。「いや、もう冷とうなっていますわ」って。「そうか、さっきまでのう、どんぶり食べたいとか、ぜんざい食べたい言いよったけど、かわいそうやな」ちゅうて。で、その死ぬ前にね、こう寝ているでしょ、病院の。シラミが通ります、シラミが。もう死ぬ人のシラミが出てくるんです。じーっと寝て見て、何も枕もないですからな。そうすると、この板の継ぎ目があるでしょ、板の継ぎ合わせですからね、床は。これをね、シラミが通りよるんです、ずーっと並んで。ああ、あれもう長いことないなと。やっぱり死ぬ前のシラミは逃げる、冷たいから。ああ、シラミは冷たいから先逃げるのかなと思って、自分がそれ見とるからな。さっきまで、10時ごろまでしゃべったのになあって。「もう冷とうなってますよ」言うと、そうか、かわいそうやったな。寝てる、朝まで寝てる。昼ならんと、看護婦さんに言うて、許可受けんと埋められるんでしょ。そして処置してくれて、僕は知らんけど、それを巻いてそして埋めるわけです。穴掘って運ぶのは僕らですからね、元気なもんだから。

Q:山田さん自身もケガしてるのに。

ケガしたときは、だんだん治ってきましたけどな。これもやっぱり3か月ぐらいかかったんじゃないか、小さい傷やのに。食べ物がないでしょ、肉が上がってくるわけがないですね。乾パンやろ、それが2日(に)いっぺんにく(れ)るかくれない(か)でしょ。あと、病院に行ってもそれだけの食糧ですからね。体力つくわけがないわけですよ。

Q:さっき遺体を埋めるという話があったんですけれども、全く何も残さずですか?

ああ、あの、大体ね、看護婦さんがね、小指切るんですよ。髪の毛と、小指。これをね、そうするとあのー、大体、戦地でもそうです。まずあの、戦死した人の小指切ってくる。

Q:切ってどうするんですか?

切って、包んで、それで持ってくるわけですよ。それでこれ誰の物やと書いとくわけですね。骨持ってこれんでしょ。どうして持ってこれますか。何しろこの小指が小さあて、それと頭の毛とかね。私はね、看護婦さんからもろうた、ほかの私ら、天草郡の、志岐におる男がね、病院で知り合うて、ほかの病院におりましたけど、ほで話をして、その人からもらったのは、えーと、ツメと、髪の毛でした。ほいでその死ぬ1週間前に話をしたんです、その男と。それで「俺も天草だ」と、「私は志岐です」と、「俺は御所浦だ」ということを話しをしましてな、それでいろんな、山の爆撃するところを話し、山の中隠れて2人で話をして、天草の話をして、それで病院に1週間ぐらいしたらね、看護婦さんから「ちょっと来てください」ってかかってきた。ほいで行ったら、「亡くなりました」と、で、「これ形見です」って、ツメだったと思うんですよ、それと髪の毛と。そして私お守り持っていましたからね、負傷して、血が付いたやつを、田舎から持って行ったやつ。その中に(ツメと髪を)おさめとった。これで僕、助かったんやないかと思うんですよ、命拾いしたんじゃないかと思うんですよ。終戦まで持っていた。

で、それで私は助かったと私は思うているんですね。そのときはもう、極限状態に2~3回なりましたからね、もうだめだと。そのとき助かったということは、その人の、加護があったかもしれんと私は思っている。そういうことは、これで俺生きてこれたんやなという、気持ちになりましたね。自分が生きてきたから。その極限状態、2回も3回も通り越してきたでしょ。ああ1人で、ああ、これも死ぬか生きるかなと思って、迷うてね、そういうこと2~3回ありましたからね。それから、彼の助けがあったかなと思って。あれ大事にして持って帰って、私が負傷したときの血がついているわけです。

Q:病院での、治療はどういうものでしたか?

治療ですか。簡単なものですわ。ここちょこちょこっとやってね、ガーゼでやって、ヨーチンぷっとこうやって終わり、はい終わりって、それで終わり、僕の場合はね。それでこんなとは、したらね、ウジ虫がわくんですね。よろしいですか、こんな話をしても。病院にいちばん自分ので入ったとき、私の隣に寝たやつが、ウンウンうなってしゃあないんですよ。「おまえうるさいのう」と言うたけど、「いや、足が痛いんですわ」って。見てこう大腿部がね、穴がこう通っているんですね。して見たらあんた、ウジ虫がいっぱいおるんですよ。それが痛いわけです、動くから、あの白いウジ虫が。ああこれはかわいそうやなと、おおこりゃ痛いやろうな、俺看護婦呼んできてやるから、ちょっと辛抱しとけえ。それで看護婦、私、「看護婦さん、うちの隣に寝ている人かわいそうよ、ウジ虫あんたいっぱいわいている」、「いや、わくほうが(傷には)いいんだよ」と、「わいているほうがいいんだよ」って言われてね。そんなこと言われて、痛がってな、晩寝れんから、「取ってやってくれませんか」と言ったら、「今忙しいから、待っといて」って言ってな。ほいで、そうですね30分かしたら、やってくれました。ウジ虫をピンセットでとってね。そんなのおりましたよ。そらかわいそうなもんですよ。

生かさず殺さずみたいなもんですわな。

Q:生かさず殺さず。

ああ、そんなもんです。食糧くれないでしょ、握り飯もくれないんだから。

人間はね、やっぱり自分で、とにかく努力せなだめです、生きること、まず生きるということは思わないかん。いたずらに死んでたまるかって、私は気持ちがありました。
そいで1人になって、ああ俺だめやなと思ったこと何回かありますけどね、こんな終戦になって死んでたまるかと、戦争でな、やられて死ぬのはいいけども、誰もおらんところで1人野ざらしで死んでたまるかと私は思いました。

ネズミだろうと、トカゲだろうと、見つけたヘビだろうと。皆、競争ですがな。ヘビなんか、生で食うやつおりましたよ。引き裂いて、そのまま。そっで、「おい、やめぇや、お前。」「いや、私はもう、辛抱できんのです」て。皮むいて、むしゃむしゃ。「おい、やめとけ」て。「焚(た)くか焼くかして食べよ」って。腹壊すから。「いや、私は焚くまで辛抱できんのです」て。言うてましたよ。

私ら4月のバギオ撤退、逃げる、山の中逃げるということになって、4月の15日からもらったことないです、病院から。米、塩、しょうゆ、1つももらったことないです。米粒1つもらったことないです。あー、20年のあれ何月かな、4月かな、4月15日から、中頃から。米、しょうゆ、みそ、塩、もらったことない、全部自給自足です。それで途中で私は、一晩かかって塩作りました。それ終戦まで持っとった。8月、7月の、中ごろでしたかな。塩作りました。

Q:どうやって作ったんですか?

塩ですか?余分な話やからあかんやな、話しても・・・。温泉があったんですよ、避難する、こう行くときにね。でちょうど行ったらね、温泉があってね、フィリピンは温泉があるらしいですよ。たまたまそこ通って病院から移動するときに、行ったら、僕のグループの4~5人でしたかな、それで行ったらね、湯気が出ているんです、水から。こう穴の洞窟みたいなとこへね。上からまともですけど、何も木はないから。それで行ったら、ほいで、「ここは温泉と違うか」って、私が手突っ込んでみたらぬるいんです。「ほら温泉やわ」っちゅって。そして、アメリカ軍の飛行機が来ないときに、裸になって、おい、温泉やから入ろうやっちってまた入って、あれは初めてですね、長い時間ふろ入ったのは。

それで上がってきて、でその晩、もう明日移動ということになって、それで私はあの、あ、これ、なめてみたらしょっぱいんですよ。これ塩できひんかなと、私は思うたわけですな、田舎育ちですから。塩がないわけですよ。で芋もね、お米でも塩なかったら食えないです、なかなか。ウサギみたいにパクパク食えるもんじゃないですわ、塩はいちばん貴重品です。足が動かんようになるんです。塩切れてくるとね、足をこうガクガクガクガクするんです、塩分が切れると。で、なめてみたらしょっぱいで、あ、これは塩ができるなと。それで、あの、4~5人おったやつに、「おい、塩作りにカサンする(手伝う)者おらんか」と言ったら、だれも返事せえへん。作れんと思っているからね。ほいでもう1人、あの私、おとなしい人がおってな、「おいおまえ、俺手伝わんか、塩つくろうろや、2人で」って。「塩ってどないして作る」、「あの温泉は塩湯やからな、あれをくんできてな、2人で塩作ろう」と。そしたらちょうどそこ、別荘がね、板張りなんです。それひっぱがしてな。ほいたらこんなね、鍋があったんですよ、その家に。高さこのぐらいのね、ちょうどこの平たい鍋。やっぱり塩作ったんと違いまっかな。このぐらいのね、大きさでね、このくらいのやつにね、平鍋があったんですよ。あ、これでできると。それで、俺とな、あの、約30メーター(メートル)かね、40メーターぐらいあるんです、そこまで、温泉まで家から。「おい、板はこれ、この、別荘の板をはがせばいい」と。壁をバリバリはがしてね、よし、この板をひっぱがせばいいから、それで俺とおまえと塩をな。ちょうど月が出とってね、ちょっと。まだ満月じゃなかったですけどね、薄明かりがあった。で今のとこ通っていくんです、そこ行ってね、そいでくんできて、一晩じゅう寝ずに。それで夜明けになったら米軍が来ますから、それでたいたらかん。寝る前に、ほいで起きたらね、やっぱり白いやつが出てくるんですよ。おい、塩できるぞって。頑張る頑張るって、夜明けまでたいてね、それでもう、夜明け来たら怒られるから。そしたらね、飯ごうの、ご存じですね、あれにね、いっぱいあったですよ。好調だったですね。それを2人で分けて、みんな塩ないのに、そればっかり僕らは食べて、イモを掘ったらそれを食べてね、終戦まで私ら持っとったですよ。チビリチビリと辛抱してこれ。7月の中ごろでしたかな。

Q:やっぱり塩は大事ですか?

塩、塩はいちばん大事。塩あったら食えます、バナナでも食えます。バナナって生ですよ。バナナの熟したんじゃないですよ。生をかっぱらってきて、それを切って、ゆがいて食べるんですよ。塩があったら食べられるけど、塩がなかったら2本か3本ですな。私そんなことしました。

Q:その塩をどう持ってたんですか?

ちゃんと隠して、濡れんようにして。2人で分けてね。ビニールの袋みたいに湿り気のないのに包んで。そっで、こうつけて食べたり。それからこう、ちょっと入れたりね。野菜のほう、野草を炊いたときに入れたりしました。終戦近くまでありましたよ、私。

私、終戦になって、アメリカの捕虜になったのが、9月の29日かな。収容所行ったのは。そっで、その収容所行く前に、2日前も、死に目におおたです。死ぬところに行ったけどな、助かった。もう、自分でだめかと諦めたけどね。運良く。これはたぶん、フィリピンのゲリラかなーって思ったけども、日本人だってね。私1人、1日。1日半、山の中歩いたから。で、最後のアメリカ軍に投降する2日前です。ちょうどそこに、道、間違えんと行ったわけですよ。そで、あー、こら今晩は、どこ泊まろうかなーて思ってみたら、寝るとこあらへん。草ばっかりでな。そっだけんもう、テントも持ってないし。「あー、こら、草むらで寝るかー」言うたら、500メートルぐらいに、光りがポッと見えたんですよ。あれ?こらあそこに、人がおるなあと。多分、ゲリラかなー。なんかなぁーって。もうそんときは、ゲリラだろうと、フィリピンだろうと、生きないかんですからね。もうええわ、殺されるなら、殺されようと。そればっかり見てね、歩いたんです。そしたら、暗くなって。そっで、行ったらね。米軍に投降する2日前ですわ。9月の二十何日かな。そしたら、病院におったやつがそこにおったんですよ。火焚いてね、米軍のご馳走食べているわけや。先に行って、レーションとかいうやつのね。火を焚いて。そして、ジーっと、フィリピン人かな、ゲリラかなーと思うて、そーっと這(は)って行ってね、見たら、話し声聞いたら日本語や。「あー、これ、日本人。大丈夫やー」って、そろそろと出て行ったら、「おー班長、お前生きとったんかー」て、「おお生きとったわ」って言うて。「ええとこ来たわ、早よ食べろー」て言うて。そのレーション、それからソーセージとかね。ビスケット。食べさしてもらいました。日本人の兵隊だった。

Q:それ最初見たとき、どう思いましたか? レーション最初見たとき、どう、思いましたか? 

あーこれ、アメリカ軍はこんなの食べてんやな、こりゃ戦争負けるはずやと。アメリカ軍は、昼飯はあんた、レーションですからね。ポケット入れていくんやから、あの大きなポケット。日本人は、飯ごう持ってって、炊かないかんでしょ。

Q:終戦を迎えてから、捕虜になるまで、その、なんか、フィリピン人から罵声を浴びせられたり・・

あぁ、そら帰る道。

Q:どうでしたか? 

アメリカ軍の車に乗ったとき。投降されたとき。岩の道路の上から、石持ってきて、「バカやろ、こん畜生、死ね」っちゅうてな。「泥棒」っちゅうて、石をやられて、ケガしたやつがおります。

Q:誰が投げてくるんですか?

フィリピンの子ども、大人、皆。ほっで、米軍が、鉄砲バッビャーっと撃つわけです。警戒の乗っていますからね。そしても止められへん。そしてその駅からね、捕虜収容所、いちばん大きなカランバン(カバンガン)ていうとこ、ご存知でしょ。そして、そこへ行くときも、駅へおりたら、こんな小さい子どもが石こんなの持ってきてね、「このバカやろう、泥棒」っちゅうてね。こんな小さい子どもが石投げてくる。ずらーっと並んでね。「死ねー、このっ、パタイ(「死ね」)」っちゅうてね。

Q:パタイ?

パタイっちゅううんですよ。首切って死ねって。死ねっちゅうこと。お前は首切りーってことや。こんな小さいこどもが、こんな石持って、えぃって、「泥棒」。やられましたよ。

Q:それを言われて、どう感じましたか?

どうって、そら、言われてもしゃあないなって思いましたね。そもそも泥棒してる訳ですからね。

Q:この23師団に課された使命は、持久戦であって、その日本本土への侵攻を一日でも遅らせるための時間稼ぎだったんですよね。それって…

そうそうそう。そういうことです。最初はね。最初、私はレイテに行くつもりだった。レイテ島に。私たちは、フィリピン、ルソン島ですけどね。本当は、レイテ島の応援でしたから。師団がね。ところが、1大隊と4大隊の銃砲はね、そうすっと行けんってことになって、変更になったわけですよ。

Q:ルソンに着いてからですか?

着いてからですね。最初は、そういう連隊状書いてもらった。そこの要員で、応援に行く部隊だったんでね。だけど途中で、戦況が悪くなったから。向こういって分かれん(る)と、もう内心やられとるということで、急きょして。そして、陣地構築が遅くなったわけや。ほっで、十分な陣地が出来なかったわけよ。うちの師団は。

Q:この、持久戦だった。時間稼ぎのために送り込まれたってことは、当時は知っていましたか?

いや、それは知らんだったです、したらほんまに、撤退なんかはしていませんよ。下のほうはね。そんな一兵率はそんな分からん、そら、幹部だけの話ですよ。

Q:じゃあ何のために戦っているって思っていましたか?

そりゃあ、今みたいに国のため。国民のために働く。

結局、国のためね。故国の、残っとる人のため。戦わなしゃあないでしょ。で、もう、あれ、日本が攻められたらあれしますわ。私は、そういう気持ちでした。他の人は知りませんけど。

戦争は国のため。何も、軍隊のためじゃない。自分の名誉のためじゃない。戦争行け行けて、皆言うからね、その時代は。戦争に行かん奴はクズやて言われた時代ですからね。

Q:当時は、この戦さに勝てると思っていましたか?

いや、最初は勝てるとは思っとらんかったけど、もうあの、今言うた、リンガエンのあれ(米軍艦船の集結)見た瞬間に、あぁ駄目だと思いましたな。リンガエンの船見たとき、あのとき感じました。「あぁ、戦争は駄目だ」と、「負ける」と、思いました。

私らはもう戦争に来た以上しゃあないなと。やるだけやらなしゃあない。そうでしょ?運にまかさにゃしゃあない。そう思いましたね。そら、自分が生き延びるか、死ぬかは、そのときの運やから、しゃあないなぁと。

Q:死ぬことは怖くなかったですか?

怖いけど、そら、怖いですよ。怖いけど、しゃあないし、来た以上は。知らないとは、言われませんがね。現実に爆撃で死んだ人もおるし、そういうタコツボで死んだ人もおる。見てるわけですから。ほっで、上陸したときにやられたのも、見ていますからね。そら、どういう災難がくるか分からんと覚悟せんとしゃあないです。きて、あんた、こら、失敗したと後悔してもしゃあないですわな。いっぺん、お国のために出てきた以上は、私はそう思いよりましたね。

出来事の背景出来事の背景

【フィリピン・ルソン島 補給なき永久抗戦 ~陸軍第23師団~】

出来事の背景 写真太平洋戦争終盤の昭和19年秋、日本軍はアメリカ軍に対し、フィリピン・レイテ島で起死回生の戦いを挑み、大敗北を喫しました。その後、戦いの舞台はルソン島に移り、日本本土を目指して攻勢を強めるアメリカ軍とそれを押しとどめようとする日本軍との激しい攻防が続きました。
その戦いで、主力の一翼を担ったのが陸軍第23師団です。兵士たちは、本土決戦までの時間を稼ぐため、戦力が続く限り、アメリカ軍を島に足止めさせることを求められました。しかし、圧倒的な兵力を持つアメリカ軍を前に、23師団は苦戦を強いられます。兵士たちは死を覚悟して、戦車への突入攻撃を繰り返していきました。

この時、すでに日本軍は、制空権・制海権を奪われ、ルソン島への補給は途絶えていました。しかも、太平洋の島々で激戦を繰り返してきたため、島に蓄えられていた物資の多くを使い果たしていました。
こうした中で、兵士たちに下されていた命令があります。「自活自戦・永久抗戦」。食料も物資も自ら調達し、永久に戦い続けろというものでした。兵士たちは、農家の作物や家畜を無断で持ち去る事実上の略奪などで食料を得ましたが、圧倒的に量が足らず、飢えや病で次々と倒れていきました。

昭和20年4月、日本軍は司令部のあるバギオを放棄。その2か月後、アメリカ軍はルソン島作戦の終了を宣言します。飢えや病にさらされながら山岳地帯に逃げ込んだ兵士たちがアメリカ軍に投降したのは、終戦から1か月後のことでした。
補給のないまま戦い続けることを命じられた陸軍第23師団。補充された将兵を含む3万人のうち生きて日本に帰ることができたのは、5千人だけでした。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1921年
熊本県天草郡旧御所浦村(現・天草市)に生まれる
1943年
熊本で現役兵として西部21部隊に入隊、満州で訓練
1944年
23師団野砲兵17連隊に所属し、フィリピン・ルソン島へ
1945年
米軍との戦闘で負傷、バギオの第12陸軍病院入院
 
終戦
1946年
復員
 
戦後は天草で漁師をした後、大阪のビル管理会社に勤務

関連する地図関連する地図

フィリピン(ルソン島、リンガエン湾、バギオ、シソン)

地図から検索

NHKサイトを離れます