ホーム » 証言 » 井口 光雄さん

証言証言

証言をご覧になる前にお読みください。

証言一覧へ戻る証言一覧

タイトルタイトル: 「“自活自戦”の命令」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン・ルソン島 補給なき永久抗戦 ~陸軍第23師団~
名前名前: 井口 光雄さん(第23師団 戦地戦地: フィリピン(ルソン島、バギオ、プログ山)  収録年月日収録年月日: 2011年11月22日

チャプター

[1]1 チャプター1 ルソン島北部への行軍  05:05
[2]2 チャプター2 自活自戦  06:48
[3]3 チャプター3 見習い士官として  10:22
[4]4 チャプター4 バギオ防衛の戦い  06:00
[5]5 チャプター5 ブルドーザーの威力  04:24
[6]6 チャプター6 「布団爆雷」  14:59
[7]7 チャプター7 2つの手りゅう弾  03:35
[8]8 チャプター8 「しんがり」に使われた  03:03
[9]9 チャプター9 静かになった戦場  05:33
[10]10 チャプター10 終戦を告げるビラ  04:30
[11]11 チャプター11 亡くなっていく戦友  10:45
[12]12 チャプター12 フィリピンの赤砂利  07:36

チャプター

1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン・ルソン島 補給なき永久抗戦 ~陸軍第23師団~
収録年月日収録年月日: 2011年11月22日

証言をご覧になる前にお読みください。

再生テキスト再生テキスト

1月8日の日に敵が上陸して来るというので、急きょ、その教育隊のあったトンコンマンガ(ルソン島南部の村)というところから300キロも離れた北部の方へ転進する。その北部転進ですね、この間に、50人ぐらいが死んでいるんですよね。私もその1人だったはずなんですよ。というのは、そのトンコンマンガから約100キロ、行ったところ辺りで、すでに体力が尽きてきたわけです。で、水牛の背中に機関銃を乗っけて、それを引っ張っていたんですが、それがもう体力が減退して、だんだん引っ張っていたんじゃなくて、今度は水牛に引っ張ってもらって、で、辛うじて、トコン、トコンと歩いていた。そしたら、まあ、仲間の1人が飛んできて、「貴様、何をやっているんだ。こんなことじゃ米軍に追いつかれてしまうぞ」と言って、私をどけて、で、彼が水牛を引っ張ってぐんぐん行っちゃったわけ。ところが、彼もその水牛の扱い方を知らないわけです。それで、その水をかぶせたりとか、飲ませたりとか、そういうことを全然しないで引っ張って行ったわけで。だから、私が、ほかの戦友に肩を貸してもらって、辛うじて次のシシャへ行ったとき、まあ、明け方なんですけどね。そのときには、もう、牛のほうもばったり倒れちゃって、私もそのそばで倒れちゃった。

あのときは、もう駄目だと思ってね、で、手りゅう弾で自殺しようとしたわけです。ところが、手りゅう弾って割と重いんですよ。で、それをこう石か何かにぶつけて、で、撃針をこう刺激して、で、破裂させるわけなんですがね。それがこう重いもんだから手で持ってこう押そうと思っても、ここまでいって、こう肩がもういかれていたからね。で、こう、落とせなかったわけです。で、それで爆破(発)しないんですよね。で、2、3回やっている間に、ヤマモトっていう同期生に手をつかまれて、で、「ばかなことをするな」って言って。で、手りゅう弾を取り上げられたの。で、そうやって命を助かっているわけです。それほど体力が劣って。だから、それと同様なことでもって、その、飢えだけでもって30人ぐらいが、この北部転進の300キロの転進、これね、きついんですよ。夕方、出発します。で、真夜中に、大休止があって、1時間ぐらい休むんです。それから、今度はまた次が歩くんです。一晩に大体40キロ。だから、8日間で300キロの道のりを歩いたわけです。普通の日本の軍隊というのは、1日に8里と言っていたんですね。4里、4里歩いて、で、1日に8里歩く。8里ということは4×8、32キロですよね。で、そういう夜行軍の訓練はあった。ところが、飢えた体でもって、それだけの、それよりも多い距離を歩いたと。だから非常に体力がますます消耗してくる。それでもって、どうしても、まあ、自爆しなくても、そのままつんのめってしまってアウトになっちゃうという人たちが出て。我々の助教といって、教育隊長がいて、その下の人ですね。その助教の下士官も2人、そうやって死んでいるんですよ。だから、一般的にいかに食糧がなかったかということ。だから、そういう状態で、教育隊というのは移動した。

Q:その当時、フィリピンに食糧はあったんですか?

ですから非常に、人口の割合にして少ない食糧きり(しか)なかったのに、それに日本軍の65万が入ってきたんで、で、食糧はまるっきり不足していた。しかも優先的に日本軍はね、使えないような軍票を放り投げるようにして、で、その米を集めていったわけです。それだから、フィリピンは非常に食糧難になった。ところが、集めた米っていうのは、一般の兵隊のところまで回ってこないんですよ。で、マニラの中心地とか、そういうだけでもって、もう我々が船で到着したときには全くの食糧不足でもって。だから、もう軍票も効かなくなってきたんで、米を奪い取ってくるような状態。で、そこで、士官学校、向こうの予備仕官学校である第14方面軍教育隊に入隊したときには、もう既に、1日に1食。で、しかも、ヤシの実をこう割ってお椀にしたんですけれども、そこに半分ぐらいのお粥って言うか、おもゆって言うか、そんな程度のものっきり入っていなかった。で、お正月を迎えたときも、こんな何て言うか、親指の先ぐらいのお餅が辛うじて入っていたんだけど、それもアワやヒエみたいなもの何が混ざっているんだか分からない。そういったお餅(モチ)だったですね。だからものすごくお腹を減らしながら。しかも、命令が来るわけですね。それには、「土民の食糧に一切、手を付けてはいけない」と。だから、「食糧を強奪してはいけない」というように書いてあるわけです。ところが、我々その教育隊にいるものは、そういうふうな制約を受けるけど、一般の兵隊はどんどん、どんどんとって食べて行っちゃうわけです。だから、なおさら食べるものは何もなくなっちゃうわけです。だから、辛うじて残っていたそこのバナナとか、野生のですね、パパイヤとか、そういうものを取って食べて。

そのトンコンマンガ(14方面軍教育隊が拠点にした村)から、ソラノ(ルソン島中央北部の村)という北方の300キロの距離の間を歩いて行く途中のね、話ですよね。朝、もう敵が来るころは、その部落に潜んでいるわけですね。で、夕方になって、もう敵が来なくなる。大体ね、アメリカ軍の攻撃というのはね、朝8時からなんですよ。で、正午にピタッと終わって、で、2時ごろになってからまた出てきて、で、6時から7時の間ぐらいにはやめて、また引き揚げるんです。そういう、戦争のしかたなんですね。だから、その時間さえ用心していれば、ほかのときは大丈夫なんですね。で、飛行機も来る時間が決まっているもんですから夕方、出発して、で、真夜中の12時まで行軍して、で、1時間、大休止して、その間に飯を食ったり何かして、それから1時からまた明け方まで歩くということの繰り返しなんですね。で、その12時の真っ暗闇の中でもって、飯を食わなきゃいけないんですよ。そうすると、それまでにはもうイモは掘って持ってこなきゃならない。ほとんどイモが主体ですから。

Q:イモを調達するのは、それはフィリピン人の畑からですか?

もちろん。日本の兵隊がね、移動中にそのイモを植えることは不可能ですよね。だから、今なっているイモを掘り出して食べる以外にないですよね。

Q:罪悪感はなかったですか?

ああ、ないです。そのときは全くないです。ええ。当たり前のことをやっていると。

Q:今、あらためて考えて、いかがですか?

今どころか、もう、戦争が終わって捕虜収容所に入ったときに、既にこれはその途中でもね、山から下りてくる途中でもって、町を歩くわけです。そのときに、どのぐらいフィリピンの人たちに言われたか。「ばか野郎、泥棒」って、日本語ですよね。で、パタイどって、パタイっていうのは死ぬということ。で、こうやるわけですよ。パタイどって。だから、首を切って殺してやるという意思表示ですね。で、またこうやるとかね。そういう形でもって日本人に対する、日本兵に対する、犯罪の、何て言うかな、観念を植え付けるというか。そういうことをやられる。それはもうそんなことをされなくても申し訳ないことをしたというのは、戦争が終わった後、だんだんお腹がいっぱいになってくると、そう思うんです。痩せているときというのは、まだまだそんなのは思っていないですね。「ばか野郎、泥棒」って言われても。でも、しかたがなかったんだからと平気な顔をしていたんですよね。平気な考え方であったということですね。それはそのときの環境によって、人間の考えというのは変わると思う。

えーと、(14方面軍教育隊を)卒業したのがね、一応、2月1日ということになっているんですが、3日ごろだったと思うんですね。卒業式をやったのは。畑の中と思っていたんですが、実は、小学校の校庭だったんですよね。そこで、勤兵団(105師団の通称)の師団長が来て、で、あいさつをされて。で、前線へ出発するんですけども。鉄兵団(10師団の通称)みたいにすぐ近くのときはですね、40数人、隊伍を組んで堂々と転進して行ったんですよ。ところが、旭兵団(23師団の通称)はバギオに行くんで、かなり距離があると。で、実際、歩いて8日間かかったんですけども。そういうところまで行くのは三々五々と行くわけです。私たちは8人で行ったわけです。で、8人機関銃だけで行ったわけで。で、虎兵団(19師団の通称)みたいに、3人、5人と分かれて行った人たちもいる。それから、駿兵団(103師団の通称)は、マツウラなんていうのは1人で、トラックを利用しては、こう、とまりとまり行ったという。そういうふうにバラバラなんですけどね。で、我々は8人で一応、バギオまで到着するわけですけど。

で、その命令されて、第3大隊に行くわけです。で、第3大隊の本部じゃなくて、第3大隊付きの機関銃中隊ですね。それを第3機関銃中隊って言います。そこへ行って、中隊長から命令を受けて、で、3日後に第一線へ行ったわけです。

第3中隊、第3機関銃中隊の中の1個小隊が、サントトーマス山(ルソン島中央部)の第一線にいたわけです。それに、本部でもって3日間いて、教育を受けて。教育を受けていたって、この辺の状況を教えてもらって、それから鹿児島弁を2日間、教えてもらった。で、とにかく鹿児島弁が分からないと困るというので、10か20ぐらい覚えさせられた。で、それで、第一線に行って。で、そこで、2つの分隊がそれぞれの陣地を持っている。で、米軍が食糧弾薬を第一線に送ってくる。サントトーマス山というのは、こういうふうに峰がそれぞれ分かれて、ここが深い谷になっているんですね。だから、こっちの峰からこっちの峰まで容易に来ることができない。で、敵のいるのはここの峰なんですね。ここの峰にいて、我々はここの峰からここへその食糧を運ぶ、弾薬を運ぶ、そういう輸送兵を狙って、これは、峰だから、この頂上に道があるわけです。で、そこをどうしても頂上をこう上がってこなきゃならない。それを機関銃と、だから、連隊砲と2つでもって狙って撃つわけです。で、ここの陣地の向こう側にいるのは、既にここの下がキャンプスリー(日本軍の司令部があったバギオに近い拠点)という日本軍の陣地ですから、だから、これをこれが攻撃するわけですね。その攻撃を妨害するために、ここへ輸送される弾薬などを持って行かせないように、こちらから撃っていくと、そういう役割。

で、何の命令ももらわないものですからね、じゃ、自分勝手でもって戦争をしていいのかなと。そうしたら、やはり今度は新しく伝令でもって連絡が来て、で、「明日の何時から敵の兵隊が上がってくる可能性が強い」と。「そのときに準備しておけ」ということで、向こうはもう幾日も前から敵の状況をよく調べてあるから、で、それを連絡してくれたわけです。で、こっちはもう機関銃を1丁だけ出して、で、構えていて。で、時間がきて、「ああ、なるほど上ってきた」と思ったときに、連隊砲がボーンと発射する。で、すぐに負けるなといって、すぐにここへ敵の、上ってくるのを一斉に機関銃で掃射、掃らうという字ですね。掃射するわけです。ところが、ボーンと大砲の音がして、で、敵がもう峰から向こう側へ逃げれば大丈夫だと思うから、どんどん逃げちゃうわけですね。そうすると、機関銃を撃ち出したって、もう敵がいなくなっちゃっているわけですよ。向こう側に行っちゃっているから。だから、これはまずいと。だから、私もね、大隊長に一応、連絡しておけばよかったのに、しないで。だから、次の次の日かな、また伝令が来て、で、どうして、連隊長の隊長はそれが分かったんだか、よく分からないんだけど、長年、長年、長い日にち、そこで監視していたら分かってきたのかなと思うんですが。さっき言ったように、米軍というのは時間でもって何時から何時どうするということを決めてあるわけですね。だから、その時間になると、こう上がってくるんだと思うんですよ。で、それで、連絡が来て、何時だか忘れたけど、例えば10時なら10時ということで、で、敵が来るから射撃を用意しろという命令が来るわけです。で、向こうのは中尉で、こっちは見習い士官ですからね、当然、向こうが命令権を持っているわけです。で、言われたとおりやらなきゃいけないんですけども。どうもしゃくに障ってしょうがないのは、撃ち始めたときには砲が行っているものだから、もう向こうは逃げちゃっているわけですね。向こう側へ。それなのにこっちで撃っても何もならないじゃないかという頭があったものだから、だから、敵が上陸してこう上がってくる。で、もうそろそろ大隊砲が、連隊砲が撃つころだなと思ったときに、じゃ、ここで「撃て」と。で、号令したわけですよ。で、機関銃がダダダっと撃ちだしたら、連隊砲が撃ってこないんですよ。おかしいなと思ったら、その晩、呼び付けられてね、で、「全員こい」というので。で、負傷している者、病気している者まで連れてきて。で、連隊砲の陣地へ行ったわけです。そうすると、連隊砲の兵隊もこう並んでいて、我々も並ばされて、そこでもって、中尉が、ヤマザキ中尉っていうんですけどね、それが、「見習い士官、一歩、前へ出ろ」と。「貴様、なぜ俺の言うことを言うとおりにしなかったか」と言うから、「はい、自分が考えますのに、敵がもう砲でもって向こうへ逃げちゃった後に撃っても何もなりません」と。

「その空っぽのところに撃っては何もなりません。だから、こちらが撃って、向こうが逃げ込んだところへ砲を撃っていただければ、それがいちばんいいと思います」って言ったわけですよ。そしたら、「このばか野郎、何を心得とる」と。「大体、その作戦要務令を読んだことがあるか」って言うから、「はい、あります」って言ったら、「一体、何て書いてある」と。「はい。えー、まあ、大きなもの順に撃てと書いてあります」。「そうだろう」「それは、だけど一般的なものであって、こういう地形だったら」と言って、違いますと言おうと思った途端に、バーンと来たんです。で、もうそれこそもう、メガネは吹っ飛んじゃってね、欠けちゃってね。で、そのとき、彼も後で聞くと、「あ、しまった、ここまでやることはなかったなと思ったんだ」って言うんですけどね。ものすごい、すごい力でもって、ここのところ、顎(あご)のまさに砕けちゃったかなと思うほど、ちょっと普通の兵隊のたたくのと違いましてね、すごかったですよ。ズカーンと。それで、一発食らって、で、こっちがぶっ倒れちゃったもんだから、「起きろ」と。で、「今日はこのくらいにしとく」と。「大体、命令を聞かんということはけしからん」と。「それから、2番目に、勝手な理屈を付けて連絡もなくやったことは最も悪い。以後、気を付けろ」と訓示を受けましてね。で、みんなと帰ってきたら、「ああ、あんなにひどいことをしなくてもいいのに」って、部下たちはそう言って慰めてくれたんだけど。やっぱりそれだけのことをしちゃったということですよね。後から考えてみると。

サントトーマス(山)の頂上からこう少し右へ行くとバギオなんですね。で、「そこへ早く戻ってこい」と連絡が来たわけです。それで、そのサントトーマス山の陣地は捨てて、で、機関銃を担いで、で、こんなすごい山をね、よく、まあ、40℃以上の熱を持った、マラリアでおかされて、そういう兵隊がね、歩いてくれたと思うんだけど。とにかく頂上まで上がってきて。で、ここでみんなを休ませといて、自分は連隊本部へ行くわけです。で、命令を受けて、連隊長から直接。普通だとね、連隊長が直接、小隊長に命令するなんてことはあり得ないんですよね。大隊長、中隊長と経て小隊長のところへ来るわけなんだけど、それがもう非常事態だっていうんで、すぐに。で、第3大隊は、もうさっき言ったようにベンゲット道路の反対側にいたわけです。だから、こっちからこっちへ連絡するよりも、直接のほうが早かったことは確かですけど。だから、第3大隊では、私の機関銃だけが直接命令を受けてバギオ防衛戦に参加していた。

Q:では、井口さんはサントトーマス山、第3中隊は、キャンプスリーで。それ、総体的に見てですね、そこでの71連隊はうまく敵を阻止できたんでしょうか?

阻止していたですね、完ぺきに。だから、さっき言った落合中尉(落合工兵中隊)の機関銃が主力ですけどね。そのほかにも当然、両側、全部こう71連隊の兵隊がいて、で、がっちり押さえていたわけですから、ここから一歩も中へ入らなかったわけ、敵は。それで、どうしようもなくて、これ、これでは駄目だと。

だから、完ぺきに抑えたんですよ。で、とうとう敵もあきらめて、ここからは駄目だということでもってストップしちゃったわけです。それで、もう攻めるのもやめちゃって、で、そこで駐屯しているだけなんですよね。で、ほかの師団が、今度、回ってナギリアン(道)の方に行ったと。

Q:兵力の差がある中で、キャンプスリーでくい止められた原因は何ですか?

それは地形ですよ。地形が日本軍に非常に有利に働いたということ。山の上と下との撃ち合いだったら、当然、上の方が有利なんですよね。で、ということは、山を上がってこなきゃいけない。下るのは楽だけど、上がるのは大変なことですよね。これは歩いてでも車でも同じことだと思うんです。だから、そういう地形を利用した。それは坂だからというだけじゃなくて、すべての、何て言うか、万有引力の力か何か知らんけども、とにかく、優勢に戦えるのは、どこでも、どの戦場の例でも同じように言えますよね。だから、下から上へ攻め上がるというのは非常に大変なことだということですね。

Q:つまりどんな地形がよかったんですか?

要するに、傾斜があって、で、その上に立っているのと下でやるのは、例えば、1対1でもって剣で戦うとしても、やっぱり上の方が有利ですよね。

道はかなり急勾配の坂道で、しかも曲がりくねっているわけですね。だから、普通、歩いて上がるっていったって大変なことだったんですね。自動車でもブーブー、ブーブーいいながら上がって行くような状態ですからね。まあ、そういうような地形がまず第1にあったと。まあ、あとは、戦闘のしかたとしてね、兵員の配置がうまくいったということですね。例えば、工兵隊の手柄だけども、橋を落とした。そして、崖地にその爆破を加えて、爆破させて、道路を、

時間をとらせたというようなこと。それから、敵がその射撃しようとしても、上の方でもって射撃がしづらい。そういう陣地でもって上から下へは狙いやすい。場合によっては、手りゅう弾なんか投げっこするんだったら、上から投げるのと下から投げるのはえらい違いですよね。そういう差があって、地形的に非常に日本軍が有利であったこと。また、そういう場所を選んだということですよね。

軍曹の位の人が長で合計3人で飛び込んで火炎放射器に半分やられながら、目的を達して1車両だけ(米軍の戦車を)動けなくしたの。で、狭い道がこうなってるわけですから、1車両、(戦車の)キャタピラを壊したということで戦車が動けなくなる。そうするとその後ろから来る戦車もそこを通れなくなる。道が狭いですからね。これはしめたと思って、私は遠くから(双)眼鏡で見ていて・・・戦車が向こうで行き詰まっている。しめたと思ったんですね。1日や10日大丈夫と思っていたら、何のその、ブルドーザー、今考えればブルドーザーだったんですけどね、当時は戦車とばっかり思っていました。戦車がグーッグーッて来て、欠けた道とうとう来ちゃった、壊れた戦車をなんと崖(ガケ)の下に突き落として、日本軍だったらもったいなくって、そんなことできないのに、邪魔になるからって突き落として。今度は道路の崖(ガケ)を削って平らにしちゃったんです。それがね1時間くらいなんですよ。本当にびっくりしたんだけど。24日の日なんですけどね。

Q:ブルドーザーを見たのは初めてでしたか?

全く初めてで、見たことない。そんなものが世の中にあるなんて知らなかった。戦車とばかり思ってね。なんだあいつら、うろうろうろうろしてと思っていたら、それが道路をきれいにしちゃったんですよね。日本の工兵隊だったら10日ぐらいかかる仕事を。それでこれは大変だと、もう直ってすぐ戦車が来るってんで、防衛体制をということで、機関銃に射手をつけて迎え撃つ体制とったわけです。

Q:日本軍だったら?

当然10日くらいはかかると思いますよね。第一、戦車が動かせるなんて考えない。それほど強力な工作機械があるなんて。今は当たり前のことがね、そのときは全く予想されなかったですね。

Q:まさか突破してくるなんて思わなかったんですね?

だから、一安心だと、しばらく大丈夫だと思ってたら、目の前までどんどん来ちゃった。こりゃ大変だと。で、すぐに迎撃体制をとろうということで機関銃をその方向に据えて待ち構えていたんですね。当然私としてはすぐ特攻の方に行って、後から考えるとうちの中隊の一つだったんですがね。それが小隊長以下1個小隊、そこの壕のなかに入っていたんです。

Q:井口さんの小隊の役割はどういうものだったんですか?

役割は、ただ敵を迎え撃てというだけです。何にもないです。だから「迎え撃て」だからね、どんな敵が来てどうなるのかも、見当つかなかったんです。

陣地としてはこの入り口からちょっと奥に入ってって敵から見えにくくて味方は撃ちやすいというところを選んで、それを陣地として穴を掘って、機関銃を据えて敵が来るのを待つということなんですね。そこまで用意しといて、そこの壕の下に、布団爆雷を抱えてこうなっているわけですよ。

Q:誰がですか?

日本の兵隊たちがね。彼らこう、うっ伏していて声をかけても容易に返事しなかったんだけど、小隊長が、「おう、分かった」って。少尉なんですけどね。こっちは見習い士官だから階級は低いんですけど。「しっかり頼みますよ、こっちから応援しますから」って声をかけて。その状態を見たときに、あ、これは戦車特攻だな、戦車特攻、戦車特別攻撃隊だなっと思って、それではこれが出て行くときに敵の戦車、あるいは、こんずい(=つき従う)する歩兵を射撃するのが我々の任務なんだとやっと自分で悟ったわけですよ。命令も何もないのに私としては、自分の任務を追及するにはこういうかたちがいいんだなと思ったわけですね。

Q:どのような戦法だと悟ったのですか?

ただ、連隊長からただ防衛しろ、というだけの命令しかもらってなかったわけですよね。現地に行ったときもまったく機関銃だけおっぽりだされたと。他に何もないと思っていたんです。そしたら友軍がいたと。それも布団爆雷を抱えていたと。今のこれですね。これに爆雷が入っているわけです。これを戦車の下敷きにするわけですよね。だからこの中に爆薬が入っているものを布団爆雷と私たちは言っていたということです。そういうものを抱えているということは戦車が近づくということです。

Q:どれぐらいの大きさですか?

このぐらいの大きさですね。このぐらいの。

Q:その、布団よりもちょっと小さい。

子どもの座布団ぐらいの大きさです。

Q:それをどうやって使うんですか。

それを抱えていて、敵の戦車のキャタピラの前へ置いて、自分は転げて何とか遠くへ行こうという事なんですね。まぁ、竿(さお)に付けることもあるんですけれど。竿だとぶらんぶらんしていて、とても目標が定まりにくいので。やはり、抱えて飛び込んだ方が早いということ。そういう、上官はそう思うんだけれど、飛び込む人間についてはえらく感情的に違うんですよね。竿の先でこうやった方が離れているだけ自分の命に関係する距離が長いわけですよね。それが直に自分自身が抱えていくという事に、非常な恐怖感があると思うんです。これは自分がやったわけじゃないですけれども、戦死した連中、あるいは特攻で実際に生き残ったやつがいて、それがそういう話をしていました。

もう当然、戦死ですよ。キャタピラの前に置いて、自分が転げて、戦車が前進して踏む前に逃げられるとはちょっと考えられないですね。だから、戦車が爆雷を踏んで破裂したときは自分も死ぬわけです。前進しないで止まってくれれば自分は逃げられるけど、その間に自動小銃で射撃されることは充分考えられる。だから、どっちにしても飛び出すということは死ぬということです。だから怖くてなかなか飛び出せない。タイミングを失うと怖くなる。だからタイミングが合ったときは怖いってのを忘れるんです。自分の任務を追及(=遂行)しようと思って飛び出すんです。ところがそのタイミングをいっぺん失うと、さあ怖くなっちゃって、出られなくなっちゃう。人間の心情ですよね。

Q:布団爆弾ですが、日本から持って行ったものなんですか?

いいえ。これはもう、現地の軍が破れかぶれでもって最後の兵器として考えたものですよね。敵は戦車、味方はもう、ほとんど砲を使い尽くして。じゃあどう対抗するかってなると、やはり人間が爆雷を戦車に轢(ひ)かせて、キャタピラを破壊し、動けなくなって、下に飛び出す兵員を攻撃するという順番で戦闘を続けたいという考え方から始まったわけですね。だから、後方に避難した日本の駐在員の奥さんたちなんかに爆雷の袋を縫わせて。それに爆薬を入れてという事を、後方でやって前線に送ってきて。というのが最初だったんです。

Q:現地で作ったんですか?

現地でもちろんです。現地に行ってから、そういったものが。他のものが何も無くなって来たから、やむを得ずそういう兵器を作ったという事です。

Q:戦車が来たときの井口さんの気持ちを教えてください。

これは早く来ちゃったな。こりゃすぐに体制を整えなきゃいけないということです。とにかく戦車がきたら戦闘できる体制を整える。いちばん信頼している伍長に最初の戦闘を任せる。もう一つの銃の方は予備としてとっておくということで、2丁ある機関銃のうち信頼できる第1分隊の機関銃をまず撃たせた。

「目標、戦車に跟随(こんずい=つき従う)する歩兵300、3連、撃て」そうすると300メートルの距離でもって、一連が30発、それが3つ、3連、撃ち尽くせというんですけどね。普通、機関銃というのはね、ダダダダッ、ダダダダッ、ダダッて、点射というんですけどね。3発撃つ。バッバッバッと撃つ。それが普通の戦闘のやり方なんですでがね。それを連射、一連続で30発全部をダダダダダダと。それを3回繰り返せ、ということなんです。

Q:なぜ30連発の方を選んだんですか?

敵がいるうちは撃たなきゃいけないからです。だから引っ込んじゃったらそういう号令があっても1連で止めちゃう場合もある。当然、目標がなくなるのだから。でも最初の1連の(うち)20発を撃ったところで、敵の戦車砲がこっちに当たってしまったということですね。

Q:実際に号令をして仲間は撃てたのですか?

上等兵がマラリアと恐怖心で撃てなかったんですね。そうすると分隊長が非常に優秀すぎるんですね、「貴様、どけ、俺が撃つ」と言って壕の下へ(上等兵を)押し込んで、自分が機関銃のところに行って撃ちだしたわけですね。そして敵の弾が当たって自分がやられてしまった。

Q:どんなふうにやられたんですか?

機関銃の陰に隠れた左半分は残ったけど右半分は砲弾で全部剥はぎとられた。だから悲惨な最後ですね。その分隊長の血を浴びながら、ハラ上等兵は転げ落ちるように戻ってきて、「班長どんがやられた、俺が悪いんだ、おいが悪いんや」とさかんに泣き叫んでいた。だけどこれはもう使い物にならないと、第2機関銃を用意しようと思っていたときに、ガヤガヤと米軍が上がってくる音がした。

敵の戦車砲がこちら向いているときに撃たせたのは、うまくなかったですね。敵の戦車砲がね、大体こちらの方を狙っているというのに、戦車の前に敵の歩兵が出てきたからといって撃たせるのは、こちらが目標をここにいますって教えるようなもので。後から考えれば、これはまずいタイミングだったということですね。ところがそのときは「敵の歩兵が出てきた、これは今チャンスだ、これを逃してはいけない」という気持ちがあったものだから、号令を下してしまった。だから、もう少し様子をみるか、機関銃の位置を変えるかしなければいけなかった。これはあとの知恵だからしょうがないけどね。

Q:実際、戦車との戦い方は?

全く教えてなんかもらえないし。ただ戦車との戦いは、さっき言った布団爆雷をかかえて飛び込むとか、それ以外は、長い竿の先に爆雷をつけて戦車のキャタピラのあいだに突っ込む。この戦法だけ教わっただけですね。だけど、竿の先をぶらぶらさせながら上手く突っ込むのはできない、というのは他の戦いで経験済みなわけ。そうすると兵隊が爆雷を敵の戦車のキャタピラのところに置いて、敵の戦車がキャタビラで踏めば爆発するというのがいちばん理想的。竿の先に付けたって、抱えてたって、戦死するのは同じようなもんなんですね。理屈では置いたらすぐに自分は転げてどこかに隠れれば戦死しなくて済むていう理屈はあるんだけど、実際にそういうことは実行なんか出来っこなかったですね。

Q:布団爆雷を抱えた兵士が実際に戦車にぶつかって行く姿を見られましたか?

いいえ、誰も飛び出さなかった。残念ながら。みんなそのままじっとしていたんですよ。で、これはダメだ、と思ったんですね。もう敵が迫ってきているのに、味方は出ていかない。もっとも機関銃がやられちゃいましたからね。特攻隊としては今飛び出したら犬死になる。機関銃が働いている間であれば飛び出せたと、彼らにすればそういう理屈ですね。だから出なかった。こちらが出てこれなかったからもう撃てないと思った。隊長同士がもっと話しあっておけばよかったんだけど、こちらが声をかけても、向こうの小隊長は何も返事してくれなかったんですよ。こっちが「ただいま着任しました井口見習士官であります。機関銃を撃ちます」こういうふうに連絡したんですよ。壕の入り口で。そうしたら、いちばん向こうの奥に小隊長がいて、「おう、分かった」。それで、自分の名前も名乗ってくれなかった。だからどういう隊なのか全然分からなかった。

大体、連隊長がね、機関銃だけそこにいるみたいに、あそこに行って防衛しろって言うだけのことで他に何も言ってくれなかったですね。もっと戦闘状況を、普通は、(例えば)「敵はイリ山まで来ている、更に前進してくるだろうから特攻隊と連絡しながら防衛線を敷け」という命令をするのが連隊長、普通なんですよ。それが連隊長は焦っていたんですね。

それがナギリアン道路の戦闘の失敗だった。だから、早く米軍が進入してきたということですね。

(上等兵は)機関銃を撃てなくて、班長どんがやられてしまったという事の自責の念っていうものを非常に強く持っていて。あの時点から、ずっと泣き通しなんですよ。もう、2日たっているのにまだ泣いているんですよ。で、飯も食わない、ただオイオイオイオイ泣いているだけ。

もう動けないようだから置いていきましょうというので、21キロ地点というんですが、トリニダドを越した先の、バギオから21キロ来た所ですね。そこの時点で、途中でとってきた米一握りですけれどね。これを、包帯があるんですね。三角巾の。それに包んで、「これをお前にやるから、これを食べて早く元気になれ」と。そうして、「追及してこい」と。「頑張ってしっかりやれ」と。「敵が来たら、戦うために手りゅう弾を2つ置いておくから。だから、しっかりして来いよ」って。それでもオイオイオイオイ泣きながらうなずくんですよね。

その後まったく消息もないので、そのままどうなったか分からないですけれどね。まぁ、そのまま飢え死にしたのか、それとも手りゅう弾で自爆したのか。それとも敵と戦ったのか。まったくそういう状況はそのまま分からずじまいなんですけれど。

実際問題としては、よくあった事なんですよね。手りゅう弾2つ置くのは、1つたたいて抱えてみても、爆発しない事があるわけなんです。2つならどっちか一つは爆発するだろうと言う事で、2つ持たせるんですね。置いて行く場合に。それは要するに自決しろという事なんです。もう、後をついて来られないんだったら、もう戦闘能力ないんだから、ここで自決してしまえという。残念ながらそういう掟が軍隊にはあったんです。日本軍だけでしょうけれどね。

それが戦友愛だった。だって、敵に蹴っ飛ばされて陵辱(りょうじょく)されながらね、殴る蹴るでもって、撃ち殺されるよりも、いっぺんにバンと死んだ方が苦しまないで済むじゃないですか。そういう意味で、手りゅう弾爆破。その後で、死に方というものをいろいろ見ましたけれどね。やっぱり手りゅう弾がいちばん一発で、シャンと死ねますね。

「しんがり」という役割なんですよね。これは、軍隊が戦闘して、負け戦のときに撤退するでしょ、その撤退するときの、最後の敵と接触し、追われながら、戦いながら下がっていく。それがしんがりなんですね。そのしんがりに、使われたという事を、後になって分かるわけです。という事は、軍司令部が、7日前に、バギオを捨てて、もっと安心なところへ行ったと。その間を、7日間を保つために、ナギリアン道路を一日一日と軍隊を減らしながら防衛したというのが、この最後のしんがりとして、出来れば山下(奉文)将軍の司令部が安全なところまで行くまでの間、敵が絶対に追ってこないようにという事で頑張ったわけですね。

もう、米軍に負けてきて25日には完全に空っぽになるんですけれど、24日の日、最後のバギオの戦闘が終わりますね。そのときが7日目なんですね。山下大将が。7日目って事は完全に安全地帯に入ったという事です。

Q:井口さん自身が何故こんなになっても撤退命令が出ないんだろうって感じた事はありますか?

それはないです。もうあそこで戦死するもんだと思って。だからここで死ぬんだと思って、言われなくたって死ぬつもりでしたからね。だから貴様に死に場所を与えると言われなくても、結構、死にますよという気持ちだった。だから死ぬのが当たり前であって、生きるなんて事は考えていなかったんです。だから、しんがりもクソない、そんな事は当時としてはまったく考えなかったんです。だけど、部隊としてはしんがりとして置かれたと。

あくまでもここでもって敵を抑えるんだっていう気持ちがあるから。そこで押さえきれなかったときは死ぬんだという。死ぬまでここでもって戦えばいいんだという事です。だからその生死というのは、やっぱり人間は置かれた場所でもって覚悟しちゃうんですよね。

Q:バギオの落ちた後は、何を目指して何を目的に生きていたんですか?

プログ山ていうのがフィリピンでいちばん高い山なんですよ。でその山の頂上は誰も行っていないとういうことになってたんです。でこの中腹の七合目から八合目あたりんところへ、その最後の部落があったわけ。

でそのさらに先の方に、師団司令部があるわけです。で後ろから登ったらほとんど師団司令部が中心ですから、まあここから襲われることはない訳だから、こっからは襲われる恐れはある。で我々が後衛、後ろから守る、後衛になったわけですね。で、ここからイモ掘りにずっと行って、また5人がここに残っていて、3人がイモ掘りに行くっていうのを繰り返して、イモ掘ってきて食べてたです。で、いちばん欲しかったのはのは塩で、塩がなくなちゃってね。

で、塩がなくて何もないんで、で例えばカタツムリなんか拾って来ると、イモの飯ごうの中にカタツムリ上に乗けってやると、あのカタツムリがこう泡を吹いてスーっとこう全部に行きわたるんですね。塩気があるもんじゃないんだけど、それが塩気みたいに錯覚を自分で起こして、で、食べて。だから塩なしで75日生きられるってことは確証をもって言えるわけです。

Q:塩が不足すると、どうなってしまうんですか?

まあ要するに全身から力が無くなっていくわけよ。だんだんと力が出なくなって。持てる物も持てなくなってくる。で、頭の働きも鈍くなってくるような気がしますね。で増えるのはシラミばっかしでね。よくやりましたよ。女性の前で失礼だけど、あの軍隊のふんどしていうのは、こう紐で縛って、そに布をこう入れてこう垂らすんですね。でそれをはずしてシラミを潰しながら、そういうのが私たちの、暖かい日の仕事だったですよ。でもう、戦場はそのくらい静かになってた。ていうのは、アメリカ軍はここは見放して、沖縄行っちゃってるわけですからね。でここに残ったのはアメリカの将校と、フィリピンの兵隊だけだった。そのうち将校もいなくなっちゃって、で、フィリピン人の将校が昇格して、で日本軍と戦ってた。

相手はフィリピン人なんだけども、そいでももう出て行くことができないほど日本軍は消耗していた。だってあの何もかも捨てて行っちゃう。重いから、食うものがないからやせ細る、だから物を捨てて行くわけです。だから重い銃を捨てる。そういう兵隊、兵隊とは言えない、もう放浪者ですよね、もう。で自分の隊からも離れて、だからそういう遊兵、遊ぶ兵ていうなのは撃ち殺してもいいという、そういった通達はあるんですよ。だけどそんなことしたらきりがない、お互いにね。で、まあ、そういった遊兵がウロウロしてるっていう様な状況で。でもし攻められたらもうまるきりどうにもならないだろうと。

だからもう兵器もない、医薬品ももちろんない、食うものがない。ないないずくしだったら、ああもう戦争はできないっていうことですよね。で山にこもっていたままにおって、終戦を迎えたからいいけども、あれまだやっていたら、あと一月もたてば、おそらく我々も皆、どうしようもなくなってたでしょうね。

イモだってもう掘りつくしちゃったしね。ちょうどもうギリギリのところで。でこれはしかたがないって言うんで、軍司令部でもって全部師団に通達して一斉にその突撃すると。で米軍に突撃してって。米軍はもういなくなっちゃたんだけど、でバギオ奪還作戦ていうやつです。でバギオまで行って、その市を占拠して食うもの盗ろういうような作戦も練られたようですね。でこれは後から聞いたことですけども、だからそれを遂行しようとしてたときに、終戦が伝えられた。

Q:終戦はどのように伝えられましたか?

アメリカ軍の飛行機がね、時々宣伝ビラをまくんですよ。で、それまでは、捕虜になった日本の兵隊が、ここんとこだけ黒く塗られてね、でそのモチをついてるとこだとか、あはは笑ってるとこだとか、そういうもんを写真に撮って、でそれに「皆さんこういうふうに降伏してください、この紙を枝かなんかに刺してで持って出てくれば、信用します。で安全ですから出てきなさい」。そういったビラなんですよ、ほとんど。で、今、日本の沖縄で戦闘があって米軍はこんだけの戦果を挙げているんだとかね。それから病院のベッドにあの日本兵の兵隊が横たわっていて、で軍医がこう聴診器当ててるところとか。色々と工夫してね。で最初のうちは文字だけで、日本の兵隊さん、早く出てきなさい、戦争は終わりますから、ていうようなこと書いてあったんです。それは日系2世がアメリカ軍が作った宣伝ビラなんです。ところが写真が入ってくるようになるのは、もう日本人が捕虜になった日本人が作って出した。後で聞いたんですが、そういうモノなのだそうです。
でそのビラが、8月14日にまかれたんです。日本軍降伏、全軍停戦、後は何とかこうとかと書いてあった。であの、天皇陛下が命令されたというふうな記事だったんです。で、「戦争負けた、負けたんじゃないか」と、「いや、勝ったからこそだ」というのはですね、そのころ、なんつったけ、こう、銅貨を紐(ヒモ)で吊(つ)るしてこうやって下げるんですよ、で、こう手が動くんですよ、自然にね。で、動いた方向でもって、どういうものかっていうのを占うていう占い師があの軍司令部の曹長がそれが上手だていううわさがたってたんです。そん人が8月半ばには、「日本軍はマッチ箱ほどの爆雷を落とすことでもってニューヨークを吹っ飛ばす、そういう兵器を開発した」と。「だから戦争はもうすぐ終わる」というふうなことを言ったというんで、バーとうわさが広がった訳ですよね。で、まあその日を楽しみにしていたら14日にビラが落っこって来た。ほしたら逆に「日本軍が敗北した」ということなんで。まあ上の将校たちは「こんなものは嘘(ウソ)だ」と、「だから持ってはいかん」ということで、「回収して捨てろ」という命令が来たんだけど、皆、これは間違いないだろうというふうにやっぱしすぐに信じましたね。

涙流す者もいるけれども、実際にはどうなんだったか。とにかくやれ終わったこれで助かったというのが本当の人情。それまでは死ぬっていうのが当たり前だったのが、生きていられるんだということは、やはり私だってうれしかったですね。死ぬんだって思っていたというのが、生きていられる。そうすると家はどうなっているかなって、東京はやられてるそうだけど、敵のニュースでね。今までウソだウソだと思っていたけど、みんな本当だってことがはっきりしたわけだから。

それから1か月くらいの間は、はるか後方に行ってイモ掘って、で皆体力をつけて、まあできるだけあの降伏するために山を下るときのための体力をつけようということで行ったんですがね。私の小屋の中に、2人だけ他の64連隊の兵隊が2人だけいたんですよ。でそれはあの最初からのじゃなくて、補充された兵隊で、えーどこだったけな、とにかく下町、浅草ともう1人、どこだったかな、日本橋かなにか。とにかく2人の兵隊がいて、それがあのマラリアで動けなくなって転がりこんでいたんですよ。我々床上にいて、彼らは床下にいたんですけどね。でそれが2人が(に)、「終戦だ」って、「俺たちは明日出発するから、お前たちもその、なんとか原隊に辿りつくなり、病院へ行くなりしろ」って言って聞かせたんですよね。でその晩1人の兵隊、浅草だったんかな、それがずっと50メートルくらい離れた所にトイレ作っておいたです。トイレと言うとかっこいいけど、穴掘って、でいつでも埋めてまた掘りなおすっていう。そういうトイレですけどね。竹をこう2本おいて。そのすぐそば行って自爆しちゃったんです。もう1人の兵隊がしがみついて泣ていた。

もう戦争が終わっちゃって、自分の部隊行ければと思ったんだけど。行けなかったのは、まず逃亡兵だと思われること、逃亡兵は即銃殺です。だから帰れなかった。だから軍医のところ行く、ようするに赤十字マークが付いてるところに行くことも、これも同じ結果になる可能性が大きい。というふうに当時の兵隊としては思うんです。だからそこまでたどって行ってもだめだし、そこまで行くだけの体力が自分ではないと、絶対にないと。もしここに残っていたら現地民が来て自分たちを殺すだろうと、だから生命の危険を恐れないけども、現地民に殺されるくらいなら自爆した方がいいという観念だったと思いますね。

将校がこうあぐらをかいて、後ろに木を背中にして、であの剣をこう杖にして、このピストルで自殺してる、そういうのが骸骨になって、軍服は着てるけども、中はもう腐って骸骨になってる、そういうのを見たことがあります。

戦争が終わってから死ぬっていうのはほとんど餓死ですね。もうあの大勢の人間が、ルソン島だけでもって6万ですか、の人間がとにかく何もない山の中にこもっていたわけですからね。生えるイモなんていうのには限りがある。ですからそのほかに例えばザリガニだとか、あのカタツムリだとか、そういったものが取れればいい方で、ゴキブリでもなんでも生きているものは全部捕まえて口へ入れる。野ネズミなんかは、もっとも旨いもんで、であの赤ちゃんの野ネズミなんかそのまま丸飲みする人もいました。だからそういうふうな状況ですから、とにかく何でも口に入るものは食べる。だから雑草でもそこらに生えているわらび、餅(モチ)なんか作るああいったものなんか、随分我々も食べました。それからイモづる、イモがなってなくてもその蔓(ツル)を刻んできて、でそれを飯ごうで煮て、灰汁が強いやつを。それを灰汁が強ければ刺激が強いもんだから、それをそのまま食べると言う。葉っぱの蔓も食べちゃう。イモ自体は皆とりつくしてないから。そういうものを食べる。それからひどいのになると、負傷して、たちまちするとウジがわくんですよ。んでハエがブンブン飛ぶんです。で今度はそのウジ拾ってプツプツっと食べている人間。そういうふうな悲惨な状態なんです。ですからウジさえ食べるんですから、何かとにかく食べて今度は、餓死だけじゃなくて、色んな病気になってね、死んだ人もたくさんいるだろなと思うんですよ。

Q:戦争終わってもですか?

戦争が終わっても。だって、山から下りるまでですからね、だから山を下りる体力、下りるっていうのはね、実際上がったり下ったりなんですよ。だからとても登る力がない。下りるのは転げ落ちても大変だけども、登りはとてもだめ。で誰も手助けしてくれる人は1人もいないです。どんな戦友でも人をおぶって歩けるような人は誰もいない。だからしかたない、自力でもって動けなければもう死ぬしかない。で死ぬのが嫌だからウジでも食べる。だからそういう状態のときに誰かを助けてやりたいと思う人は誰もいないわけです。だから自分自身で生きる意欲がなくなったら、それでおしまい。そのためにはやっぱり自爆。手りゅう弾持っていれば幸いだし、持っていなければ銃剣でのどを突く以外ない。

Q:戦争が終わってもそういう人がいたんですか?

ええ。銃剣ていうのはね、非常に便利でイモを掘るときに非常に使い勝手が良かったんですよね。で、そいでもってのどを突いたやつがいました。

Q:戦争が終わってもですか?

ええ。戦争が終わって。だから動けなくなっちゃったからですよ。歩ければ、這(は)ってでも歩ければ、とにかく後つこうとする。でうちの後から船舶工兵から配属になった伍長もそうなんですね、ああ兵長だ。これは途中まで来てもう動けなくなったもんだから。脚絆(きゃはん)をね、皮脚絆(きゃはん)履いていたんだけど、ほっぽりだして、で上着も脱いで大の字になってね、「ああもうだめだ、行ってくれ」って、ね。「ばか野郎、何言っているんだ、ここまで何故だ」って、で、「だめだ」って動かないから、ほっぺたひっぱたいたんですよ、私は生まれてこのかた、人を引っぱたくなんて弟以外ないんだけど、で、その人引っぱたいたら、その人、伍長がですね、「見習い士官殿、弱い物には強いですね」って言いやがった。だけどそれどころじゃねえやと、何とか連れて行こうじゃねえか。「いやだめです、これはもうだめです」、伍長が言うからさ、まあしょうがないから、「よし後から元気になってついて来いよ」って、これも捨て言葉だけどね。

そして1人見捨ててきたことあります。だから戦争後に死んでいく人ってのは非常に不幸なんですけれども、まあそこで死ぬのも一つの運命、そしたらまたアメリカ軍の車に乗っけてもらってね、あの普通の元気がいいって言ったらおかしいけど、普通の体力の人間は歩いて山から下りて、さらに54キロあのバギオまで歩かせられたんです。

で病弱なものはトラックに乗っけて送ってもらったです。でその送られた人たちも我々と一緒に貨車で収容所まで行ったんですがね、収容所に入ってから一安心したのか、バタバタバタと何千人かが死んでるんですよ。でこれも山から下りてきて、やれ目の前で船が出るよってときに死んでる。というのは病院船がいちばん先に出たわけですから。それなのにそれが叶わなかった人たちいうのは、これまた不幸ですよね。だから戦争が終わってから、内地に足を下ろすことができるということは非常に幸せだったし、それから、もう何か月か病気になって寝っぱなしというのは仲間にも結構いましたよ。それは皆内地の病院入ってからは助かっています。その前の者は皆、もちろん病院船の中で死んだ者もいると思いますよね。

収容所に入れられたときに、それまでの日記を全部燃やすように言われて。その前にあわててこの、じゃあ住所録ならいいだろうと言うことでね。で向こうの軍曹にお願いして手帳もらって、で住所録という形にしといて誰がどこへどう行ったかいうことを書いているわけですよね。

で、死んだもんはもちろんそこあの。「どこどこで戦死しとる」って書いて。あるいは「カバヤンで入院した」と。それぞれの行く先を全部自分のなんちゅうか。指揮下にあった人たちの名前をここへずーと書き込んで。だから後でもって、鹿児島まで行って各自宅を訪ねたときに、「こらよく分かった」と。

Q:何のためにこんなに細かく記録しているんですか?

これあの、私が関係してその生死を預かったわけですよ。ね。そのあの上等兵、伍長なんかのね。この生死を預かった人のその生き死にをはっきりしとかないと、私死んでもこれは残るだろうと思ったし。だからこれがあればやがてはお宅を訪ねてね、あの昔の話をしてさしあげることが出来るんじゃないかなと、思ったんですよね。

で、訪ねて行ってまああの、歓迎してくれる人と、非常に渋い人がいるんですよね。

Q:渋い人?

渋い人はですね、あのマッチ箱にあの現地の赤い真っ赤な砂利があるんですよね。それをこう詰めて、で送って。でまあなんていうかつたない句、短歌をつけてね。ええ、「骨拾う暇のなければこの陸<くが>の赤砂利は箱に納めていかな」くがというのは陸という漢字ですね。そういうなものを付けて送っただけだからだからその、後になってみると、とんでもないことをしたと。やっぱ怒られたなと思っていたんですよ。で案の定行ってみたら、何ですかあなたは。って調子でね、扱われたとこもあるし、それからこのタケザキのときはまあ本当にまあよう来た。あの夢枕に立って、で、こんな人が隊長だったと言うことを普段言っていたと。だから今こうやってこられたってことは非常にうれしいと。言うようなおばあさんがね、いたりして。ね、色々ですよ。

Q:それに憤った遺族の方っていうのはなぜ、なぜこんな物をって言ったんですかね?

そう。マッチ箱に入った、「マッチ箱とはひどいじゃないか」って。そうだね。当時何も無いとこだったからね。帰ってきたときにはね。だからブリキの缶でもあればいいんだけど。マッチ箱で。でしかも、持ってきたのはそんなに多くないんですよね。このくらいき(り)なんだから。だからそれを分けるのはマッチ箱くらいになっちゃうんですよね。

Q:それは井口さんはどんな気持ちで持って帰ったんですか?

それはね。その本当に骨拾うどころじゃないよね。目の前でもって爆破して、爆破されて粉微塵(みじん)に散っちゃった人。あるいは自爆してその腸(はらわた)がちぎれた人。そういう人の髪の毛一本持ってくる暇がないんです。そこそこ敵が目の前に迫ってきている、次から次へと。というのは、私が配属になったのはあの、第一線のこう敵と向かい合った第一線のとこなんですよね。だからいつも敵を意識しなきゃいけない。だからそういうとこでもってバンとやられたからと言ってそれを丁寧に火葬してとかそういうことはまったくできないですよね。で、しかたがないからまそれはそのままにしていて。ま、出来たときは指を取ったことあるんですよ。で、軍曹がそれを持っていたんですけど、いつの間にか無くなっちゃったということで。で、結局何もなくなっちゃった。

Q:それでなぜ赤砂利を選んだんですか?

うん。他に何にも無いからですよ。その土地の、うーん、なんかね。記念になるものだろと、赤砂利以外には思いつくものが無いんですよ。例えばなんか、木の葉なんかね。集めてきたってそんなもの骨の代わりにならないでしょ。じゃあ赤砂利の場合には、せめて骨に近い感じがする。それでその真っ赤な血に染まった感じがする。だから赤砂利がいちばんいいんじゃないかなと思ったんです。少なくてもフィリピンの土地ですから。

Q:そして、遺族の人からこんなマッチ箱・・・なんて言われたんですか?

え?マッチ箱なんかに入れてね。で、「こんな砂利なんか。お骨の、髪の毛でもお骨でもなんでもね、持ってきてくれればと思っていたのに、それをこんなもので代用して」というようなことで言われたですよね。

Q:戦争のむごさってどういうところにあると思いますか。

むごさは見も知らない人間を殺すことです。私が(の)いちばん先の戦場だってそう。相手がどういう人か何か分からないで、あそこを撃てと言われて撃っているだけのことですけん。だから荷物を担いで、あれはアメリカの兵隊かもしれないし、それから現地の人かも分かんない。1日いくらでもって請負仕事かも分かんない。だけどその人を殺すっていうことによって、敵の戦力を少しでも減らそうとする。ということは戦争のむごさだね。それから、自決する、そういう覚悟を持たせるそういうことも、これも非常にむごさだと思いますね。

出来事の背景出来事の背景

【フィリピン・ルソン島 補給なき永久抗戦 ~陸軍第23師団~】

出来事の背景 写真太平洋戦争終盤の昭和19年秋、日本軍はアメリカ軍に対し、フィリピン・レイテ島で起死回生の戦いを挑み、大敗北を喫しました。その後、戦いの舞台はルソン島に移り、日本本土を目指して攻勢を強めるアメリカ軍とそれを押しとどめようとする日本軍との激しい攻防が続きました。
その戦いで、主力の一翼を担ったのが陸軍第23師団です。兵士たちは、本土決戦までの時間を稼ぐため、戦力が続く限り、アメリカ軍を島に足止めさせることを求められました。しかし、圧倒的な兵力を持つアメリカ軍を前に、23師団は苦戦を強いられます。兵士たちは死を覚悟して、戦車への突入攻撃を繰り返していきました。

この時、すでに日本軍は、制空権・制海権を奪われ、ルソン島への補給は途絶えていました。しかも、太平洋の島々で激戦を繰り返してきたため、島に蓄えられていた物資の多くを使い果たしていました。
こうした中で、兵士たちに下されていた命令があります。「自活自戦・永久抗戦」。食料も物資も自ら調達し、永久に戦い続けろというものでした。兵士たちは、農家の作物や家畜を無断で持ち去る事実上の略奪などで食料を得ましたが、圧倒的に量が足らず、飢えや病で次々と倒れていきました。

昭和20年4月、日本軍は司令部のあるバギオを放棄。その2か月後、アメリカ軍はルソン島作戦の終了を宣言します。飢えや病にさらされながら山岳地帯に逃げ込んだ兵士たちがアメリカ軍に投降したのは、終戦から1か月後のことでした。
補給のないまま戦い続けることを命じられた陸軍第23師団。補充された将兵を含む3万人のうち生きて日本に帰ることができたのは、5千人だけでした。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1923年
東京・中野区に生まれる
1943年
日本大学に在学中、学徒兵として東部第83部隊に入隊
1944年
前橋陸軍予備士官学校を経て、ルソン島の第14方面軍教育隊へ
1945年
第23師団歩兵第71連隊の機関銃中隊に
 
ルソン島プログ山で終戦
1946年
復員
 
戦後、スーパーマーケットを経営

関連する地図関連する地図

フィリピン(ルソン島、バギオ、プログ山)

地図から検索

NHKサイトを離れます