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タイトルタイトル: 「斬り込みの命令を下す」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン・ルソン島 補給なき永久抗戦 ~陸軍第23師団~
名前名前: 小杉 峯彬さん(第23師団 戦地戦地: フィリピン(ルソン島、リンガエン湾、バギオ、プログ山、ナギリアン)  収録年月日収録年月日: 2011年11月23日、12月2日

チャプター

[1]1 チャプター1 追悼録  02:59
[2]2 チャプター2 満州からフィリピンへ  04:26
[3]3 チャプター3 消耗する兵力  04:09
[4]4 チャプター4 持久戦で時間をかせぐ  06:48
[5]5 チャプター5 斬り込みの命令  07:20
[6]6 チャプター6 壊滅した部隊  04:39
[7]7 チャプター7 キャンプスリーの戦い  08:02
[8]8 チャプター8 戦車への突入命令  06:32
[9]9 チャプター9 撤退命令を受けても  04:51
[10]10 チャプター10 伝えなかった沖縄戦  04:08
[11]11 チャプター11 終戦、軍旗を焼く  05:58
[12]12 チャプター12 軍人として“負けて申し訳なかった”  03:36
[13]13 チャプター13 慰霊の旅  05:05

チャプター

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン・ルソン島 補給なき永久抗戦 ~陸軍第23師団~
収録年月日収録年月日: 2011年11月23日、12月2日

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戦後何年たってからですかね。これ、編集して作ったんですよ。

Q:小杉さんが作られたんですか?

ええ。私が編集委員長で。

Q:そうなんですね。

あの、連隊は鹿児島ですからね。鹿児島の連隊の人たちをあの、ひとつのメンバーに加えたこうして記録を作っていった訳ですよね。

Q:ええ。これがプログ山ですか?

ええ。これがプログ山です。あの、最後の陣地となった山ですね。ここで最後戦争が終わるまで頑張ったわけですよ。

Q:ここに書いてある方々、この方々は?

これね、全部戦死者です。戦死したあれですね。なんて言いましょう。各戦闘において死んでった戦友の人たちを、ずーっと、こうして名前を連ねたわけですね。これが・・

Q:戦死者の方ってどのくらいいらっしゃるんですか?

2千、2千何名です。約3千名近いですね。1個連隊全部、ほとんど全滅するまで戦いましたからね。これ全部、これに載せたわけですよ。

Q:何のためにひとりひとり名前を載せたんですか?

それは、あれですよ、やっぱりもう、慰霊して・・この人たちを殺して、殺してと言いますか、死なせたわけですからね。だからそのために我々は生き残った訳ですから、やっぱりその慰霊をしなくちゃ。慰霊っていうか、お参りね、してもいま済んでも、戦争した後はしょうがないんですけど、やっぱりその人たちのために戦闘の記録はできた訳ですからね。

Q:あ、その人たちのためにですか?

ええ。その人たちが戦死、死んでいったその記録は、みんなこうして戦死の、戦闘の記録になって残っていったわけですから。だからそれを追悼、追悼録っていうんですか、追悼録ってわけですよ。

Q:追悼録・・

追悼録ですよ。これ全部。

Q:まず、満州にいらっしゃったわけですけれども、南方行きをを告げられたとき、どんな気持ちでしたか?

それは、いよいよ戦闘の、戦争の真っ直中に入っていくんだなと思いましたよ。そのときはね。

Q:それまでは、ソ連を相手に・・

それまではソ連です。あれまでは、もう関東軍はソ連相手にはね、関東軍ですから。だからもう、やるのはソ連だと思ってましたからね。アメリカとやるなんて、あの夢にも思わなかったですよ。それはもう急にもう、全部もう関東(軍)が南方へ南方へと向けられて行ったでしょう。そのときは、大体、あーこれでまあ、日本はアメリカに向かって行ってるなっちゅうことは、はっきり分かっとったですけどね。でも、自分の部隊まで最後動くとは思わなかったんですよ。それは23師団っちゅうのはもう関東軍の最精鋭のいちばんの、その、すごい部隊ですね。最後まであそこに残しておくんだっちゅうのは、残しとくって国の方針だったでしょ。だから、我々が動くとは思ってなかったのよ。それがね、移動となったでしょ。これはいよいよソ連を断念して、アメリカ一本で行くんだっちゅうことは、はっきりあのとき分かりましたよね。

Q:でもアメリカと戦って、その当時、この戦、勝てると思ってましたか?

いや、それは思わなかったね。もうあんときは、アメリカと戦っとんじゃ、もう、最後これはもうやられるなということは、皆分かっとったけどね。

Q:なぜですか?

だからその、それの国の、そのときの情報、いろんな戦果入ってきたでしょ。それを全部集めてみてもね、これはもう日本の戦力とはもう全然違うものを、彼らはすごいもの持っているということを分かっとったですからね。これとやってったら、もう、負けるなということはね、自然にみんな分かりましたね。

Q:思ってても、そういうことは口に出さず・・

いや、口に出さないっていうか、皆そうお互いに言うとりますけど、これはもう負けるなと。しかし、戦争に行くためには行くんだという、あのころのね、日本人の気持ちはね、みんなそういうものやね。

Q:何のために派遣されたかっていうのは、その当時は知らされてましたか?

もう分かっとったね。アメリカとやる、アメリカの戦力をどこで、その日本が食い止めんだと。ところがあんときは、すでに戦局はずーっと動いてましたからね。最後のフィリピンだけは、まだいちばん最先端で残こっとってね。あとはもう、その、ありますよ。その硫黄島とかね、沖縄とかあったですけどね。もう結局、日本のその外の防衛の陣地としては、フィリピンがいちばんその最後残った、最重要な戦場だということは、みんな分かってましたよね。ビルマとかいろんなとこは既にやられてますからね。

Q:フィリピンに発つわけですけれども、実際そこには潜水艦がウヨウヨと、日本の近くまでいたわけですが、そのことはご存知でしたか?

それはもう百も承知で。これはもうだから、フィリピンに全部着けるかどうかちゅうことは、まずいちばんみんな悩みの種だったよね。

Q:とにかく、そんな中渡るなんて無謀ですよね。

そうだね。だからそういう戦争は本当はやるべきじゃないよね。ないと思うけど、そういうとこに追い込まれていったわけだから。こっちが行ってやらなければ、もう、フィリピンが全部ダメになっちゃうでしょ。フィリピンだけの、我々のことを捉えればね、ダメになっちゃうから、なんとかして行かなければならないと言うて。行けばなんとかなると思っとるわけですからね。行くべきだと思ってるわけですから。そういうふうに、必死になって輸送したわけだね。

だから、うちの部隊をとってみれば全部向こうへ着いたんですからね。ほらもう、着けば大丈夫ですという気持ちがあったでしょう。着けばやれる、やれると思っとったですよね。ところが、着けばやれると思っとった気持ちが、だんだんだんだんやれなくなっちゃうんですけどね。それはもう途中でほら、他の部隊がどんどんどんどん沈められて、100のものが2/3になっとったんじゃ、もうそんだけの戦力しか出せないでしょ。だから最初から、ダメになっちゃうわけですよね。

Q:ルソン島での作戦を言われたのは、どの時点ですか?

上がったときには戦局が大分動いていますからね。最初はね、南の方にね、マニラからもっと南の方へ行くように言われてたんだよね。あちらの方にこう行ったわけだよ。みんなね。上陸した部隊がみんな向こうへと向けとったけどね。それが途中でもう止めさせられた。日本軍の判断としては、敵は、アメリカはリンガエン湾に向かって来るというふうに判断をされて、急きょそのリンガエンがその主要陣地だというふうに言われて、それから南から戻ってね、リンガエンに向かうわけよ。

Q:戻れって言われたとき、どんな気持ちでしたか?

それはね、なんとかしてやらないかんと思ったがね。部隊は、今まで南へ行こうと思ったやつが今度は急に反転でしょ。そこには普通にパッと向けないよね、軍隊の状態としてはね。

それにね、困難なあれがありましたよね。だから、本当私は、あの動くにしても、あのころ日本軍のいちばんの前線部隊ですから。トラックにしても何にしても車はね、ある程度自由に使える身分だったですからね。だからすぐに北へ向かいましたけれど、兵隊さん部隊はね、そうはいかないですよね。あの、みんなまた戻っていかないかんでしょ。で、しかも歩きですからね。行軍ですから。

Q:さぞかし大変だったでしょう。

うん、大変だったと思うよ。もう大変だったと思います。だから結局あとからこうずーっとついてくるの、あの部隊のね、兵隊さんの状況を見たって、もうそこに着くまでがやっとなんだよね。着くまで自体がさ、あれだから。着いたらやっぱり休養しなきゃね、次のこと出来ないわけですけれども、その次もう待てないわけですよ。どんどんどんどん入ってくでしょ。しょせん追い込まれていくからですからね。だから結局そこに息がつけなくなっちゃうわけですよね。

なんちゅうかな、人間ね、これをやるぞっていってやっとったって、いや違うんだと、急にこっちだと言われたら、急に言われても2、3日かかるでしょ。そういうことがね、頻繁に起こってくるとね、なにがなんだかもう分からなくなっちゃうでしょ。だからダメになっちゃうわけですよ。

いちばん問題なのは精神力ですよね。これをやるぞっと思っとったことが、「そりゃ違うぞ、こっちだぞ」と言われたら考えを改めにゃいかんでしょ。それもまたダメだって言われたらまた考えを変えにゃいかんでしょ。で結局、そのやる方向をこうして変えられるちゅうことは、人間は不安になってきますからね。

Q:リンガエンにアメリカの船が押し寄せて来るのは、見ましたか?

あぁ、見ましたよ。私は情報としていろいろ上からね、師団から、いよいよ敵がリンガエンに入って来たぞというふうに言われましたときなんかね、すぐいちばん山のね頂上の方に行って、それでリンガエンの方をずっと、双眼鏡持っていますからね、見ましたよね。そうしたら米軍が、こうして米艦隊が入って来るのが見えましたよ。そういう事がはっきり自分でも今覚えていますよね。

Q:どんな情景ですか?

それはもう、こちらはそのときの光景っていうのは、もう、自分の考え方の範囲内の以外のものが。要するに、あぁ、これぐらいのものが(湾に)入って来るだろうと分かっておっても、それより数倍のものが入ってきておるわけですからね。それが一挙にバーッと出てきたんですからね。だから驚きでしたよね。これはすごいものが来たなというふうに思ったよね、あのときは。

Q:どんな気持ちですか?

うーん、そのときの気持ちを言うたらね、それは何とも言えんけれど、これはすごい戦争になるなというふうに思いましたね。

Q:勝てると思いましたか?

いやいや、思わなかった思わなかった。そのときはすでにこの戦争は負けだなと。やられるなと言う事は思いましたよ。そう思っちゃいけないんですけれどね、思うんですよ。それはだから、いろんなやり方によって勝てるように持って行こうというのが、戦争指導ですから、やるだけやってやっつけるんだ、というふうに思ったんですけれどね。しかし、向こうは、我々の想像以上のモノを持って来たところに、考え方が通用しなかったですよね。

当時は、やるとかやらないじゃなくて、やらなきゃならないんですから。結局ね、日本としてはフィリピンをこれでやるんだというふうに持っていったわけですから。何とかして、ここで来たものをやっつけなきゃならないというだけの、ただ目的はそれだけでしょう。 だから結局やらざるを得なかったわけだよね。いいか悪いか、じゃあやるかというような、そういう選択が出来る時代ならまだいいけれどね、そういう状況にないんだからさ。

Q:最初の陣地を、488高地(リンガエン湾岸から東方約10キロにある小山)に陣地を敷いたのはなぜですか?

それはやはり、リンガエン湾に対してね、もういちばん、まあ、俯瞰(ふかん)、俯瞰できる、眺め下ろせる、要するに要点ですからね、あそこは488高地の線はね。あそこで、だから、陣地を作れば、まずリンガエン湾に上がってくる米軍を捕まえられるというふうな要点だったわけですよ。

Q:なぜリンガエン湾のすぐ近くにしなったんですか?

それは海岸に持ってけばね、持っていけば、すぐたたかれちゃうでしょう。海岸の兵士はもうすぐたたかれて、もうメチャクチャ駄目になっちゃうでしょう。

Q:じゃ、まともに平野部で戦っては太刀打ちできないと・・

そう、そう、そう。もう平野で戦ってはもう駄目だと。それはもう初めから分かっておったわけよ。こっちはその平野でやっとるんだったら、自分を隠すところもないからね。そうすると、そこに展開のしようがないからさ。で、広げただけ、全部田んぼの中にこう散らばったら、もうみんなやられちゃうでしょう。そんなもんで、あんまりそういうところは防御陣地にはならないというふうにされたわけよね。だから、少しでも山のあるところの方へ、こうみんな下がったわけだね。

そのときはもう既に攻撃する方と守る方とのね、日本とアメリカのその戦力の差のね、向こうは自由に来れるし、車でも何でも持って来れるからね。こちらはもう守るだけでしょう。そうすると、守るほうはどうしても隠れる場所とかいうものが、隠す場所が必要でしょう。だから、どうしても地形が複雑じゃないと駄目なんですね。簡単なところですと、もうすぐ暴露されちゃってやられちゃうからね。だから、そういう田んぼじゃなくて、ちょっと山よりのところというふうに陣地はどうしてもなるんですよね。

もう比較するほうが無理だね。もうね、日本軍はほとんど満州から持って行ったものだけで、ああやって。幸いにして沈まなかったから、うちの連隊はね、もう全部もう持っとったですけどね。それにしても、もうトラックが何台、何がなんぼって言って決まっちゃったでしょう。それがもう向こうはもうどんどん新しく来て、やられたらまた補うという、また補うといって、結局、補う補うという方法でくるからね。こちらはやられたら、やられっぱなしで。やられっぱなしでこういくから、そこに差が・・初めは対等であっても、だんだん、だんだん開いていきますよね。ずんずん、ずんずん開いていった。

これは持久戦に入っていくんだなということは、もうフィリピンのあそこへ陣地を作ったときに既にわれわれは感じましたからね。これでずっと山の奥へ向かって、もう防御をしながら下がっていくんだと。そのためのこの陣地だなと思ったですよ。ここで戦争をやって、で、防御をやって、やっつければそれで終わりだとは夢にも思わなかったですよね。だから、もっとやって、やられながらも下がって、下がって、で、やっつけていくんだという、まあ持久防御というのはこういう考え方で持っていましたからね。

Q:そんな初めての防御戦を経験されて戸惑ったんじゃないですか?

ああ、戸惑ったよ。もう行き当たりばったりだよね。防御、防御だからね。全部もう守っていくだけだからね。これは防御、防御でやっていくんだって言ったって、そんな戦闘はやってきたわけじゃなかったからね。それはもう士官学校のときから、もう攻撃、攻撃で来ているものがだね、それが防御、防御ってなってきたんじゃ、それはもう戸惑いますよね。戸惑いですよね。

Q:(斬り込みの命令を)畠中さん(畠中次男第3大隊長)に持って行ったとき、畠中大隊は、兵士たちはどういう状態だったんですか?

やっとマニラから3日かけてリンガエンに来たでしょ。やっと本隊に帰って、そして、やるんだと思って、最後の目的に近づいたところへ来とるから、疲れ切ってるところにそういう気持ちですから、ホッとしておりますよね。もうこれはそのときの兵隊さん、みなさんの気持ちだった思いますよ。

Q:疲れきって・・

だけど本隊は近くに、すぐそこにあると。ここに本陣地もあるんだから、我々もそこに行くんだと思うわけですからね、安心感が生まれますよね。

Q:そこに斬り込み命令が来たとき・・

それは大変なもんだよね。だから予期しないことをやれって言うわけですからね。だから大変だったと思うよ、(命令を)もらった方としては。

Q:そのときの、畠中さんの顔や言ったことを覚えていますか?

言葉はいまはっきりね、いちいち記憶はありませんけどね、顔色を変えられたことは間違いなかったよね。

Q:顔色。

顔色が変わったよね。私が命令を持って行って伝達したときにはね。「こういう命令です」と。「畠中大隊は、これから敵のアメリカ軍に対して斬り込みですよ」というふうに命令を出したら、「そんなことはあるか」と、命令をね、驚愕された態度でしたね。

しばらく間をおいて、「分かったよ」と言われてましたよね。そのとき畠中さん自身もさ、大隊を全滅させてまでも行くようなことは考えなかっと思うのよ。ある程度やって戦果をあげれば帰れると思ったと思うんだよね。そういう戦況というのを、身近に、自分のところにできないところに悲惨な結果を招いたものがあったでしょうね。

本心はね愕然とされたでしょうね。これでやるんかと。やったらやったで、ただで帰れないと自分自身も分かられたでしょうからね。だからバシバシ、なんとか被害を少なくしながら敵に打撃を与えて、うまく下がろうと考えられたんでしょうね。その辺の心境はちょっと、私も畠中さんの心境になってみないと分かりませんけれども、当然そうだったと思いますよ。

それは危険よ。危険なことだし、だって新しい何も分からないところの敵に対して、しかもそれが田んぼでしょ。ですから平ですからね。明らかに敵があそこにおるというのが、分からない。未知だからね。そういうところに攻撃を出すというのは、不可解なわけよ。

うまくいくとは思わなかったよ、そのときは。もう、何て言うかね。そのときはやればこれで壊滅。やられるだけやって被害も受けるだろうと、思ったけどもさ。それだけ敵に与えればいいとも思ったもんね。こちらがやられればそれだけのもの敵に与えられれば、必ずここで結果的には、将来はどうなる事かで考えれば、そんなに捨てたことじゃないと。これはやるべきだと思ったね、そのときは。

Q:その難しさを百も承知の上で命令を持って行ったときの、小杉さんどんな気持ちでしたか?

今言われたら私も疑問になりますよ。そのとき命令を持って行ったという気持ちはね。しかしそれをその拒むだけの、あるいは、こうだと言うだけの、そういう力は当時の軍の組織としては、下の方から訴因して、下された命令に対して、駄目だと、行かないと、いうだけのあれはありませんからね。それを聞かなきゃならないという、そういう状況でね。これは本当にやられるなというふうに、覚悟されちゃうわけですよね、こちらは。で、それで出ていくでしょ。心境としては非常に複雑ですよね。

Q:ジレンマがあったんじゃないですか?

ジレンマがあったかなかったかと言われると、私も今疑問に思いますけども、そのとき、しかし命令というのはあくまで命令であって、これは命令、命令というのは絶対的のものであると、我々みんな根本的に教育されてますからね。だからそれに対して、疑念を挟んで、これはああだこうだと、あるいは、こうすべきだという考え方を誰も持たないわけよ。だからやむをえないと。命令したものは、命令は実行して達成してこなきゃと思う、思い込むわけよね。そこに日本の命令を順守するというか、守っていくという意思との、絶対的な力あったんでしょうね。大隊長がもらった命令、連隊長がもらった命令という、やっぱり上の人の言葉ですから、それは日本軍の伝統から行けば、直接には、上の上に行けば天皇に行ったわけですよね。天皇から来た命令だというふうに思うわけですよね。そういうふうにして絶対的なものだと受け取るところのね、状態が違っとったからね。

Q:持久戦なのに斬り込み命令が出たという矛盾は感じなかったですか?

あなたに言われたら今でも我々も疑問に思うよ。なぜあのとき畠中隊長は斬り込まなきゃならんのかと。疑問はありますけど、しかし、そのときの我々の考えとして、やるべきことをたたいてやっていけば必ず戦果はあるから、その戦果だけでも十分だと考えるんですよ。それにこちらも被害を受けてね、相当やられてしまうと考えたら持たないわけよ。

Q:ほとんど玉砕状態だっていう報告を最初に受けたときに、どんな気持ちでしたか?

そういうふうに今あなたから言われると当時を思ってもあれですが、畠中大隊が壊滅をしたというような状況に追い込まれたときは、まあなんとも言えんね。今質問されてもね。当時の気持ちとしてもね、そこまで行くとはこっちも思ってないから。だから、こちらも思ってもないことが起きたいうことについては、やはり疑問、ふくせん、不思議だった。自分としては、これはいかんかったなと思いますけど、これやむをえなかったという両方あるわけですね。やらなきゃならないと言うてやったことは失敗したわけですから。

あのときの気持ちを思い出してみろと言われてもね、不思議ね、思い出せないぐらい不思議。命令が成功するとは思ってないけども、ある程度戦果をあげて帰ってくるなとは思ったやつが、最悪な状態でほとんど帰ってこないという状態になった場合ね、これはやっぱり予想外なものになったと。そのときはだんだんだんだん、アメリカ軍に対するすごさというのがね、すごいなこいつは、敵としてものすごいものだと、あのとき分かってきたよね。

だからあれが連隊のすべての戦闘の始まりなのよね。その戦闘の始まりが、結局、悲惨な結果になってしまったことについては、後から考えれば、当然、そうなるべきことだったんだろうけどね、最初はそう思ってなかっただけにね、甚大な被害を受けたよね。これはやられるかもしれんなというふうに思ったわけだよね。

Q:そのときの畠中大隊にいた兵士たちに対してどういう思いでしたか?

畠中大隊の9中隊が先頭の中隊ですよね。9、10、11とあるんですが、9中隊に私は任官したとき、士官学校出ましたときに行ったと。最初の中隊ですよね。そのときに知っとる人がたくさんいたわけですよね。そのときにほとんどみんな死んで帰らなかったでしょう。そのときに、人間はそういうふうにならないと思って行ったものが、ダメになって全部帰ってこなかったというときには、もう、不思議な心境になるよね。これはこの戦闘自体がダメになるかなと、というふうに思ったよね。畠中大隊の被害というのは、結局、戦局を、連隊の戦局を左右したと言っても過言ではなかったと私は思うよ。

今でも疑問だよね。ああいう命令を出すべきではなかったなと思うんですけど、しかし当時の日本軍の考え方としては、これは、来たものに対しては、一回ここで打撃を与えておくべきだという考え方は根底にありましたからね。だからやるべきだったなという考え方もあるわけですよ。しかし、こういう状態でやるべきではなかった、これを温存するべきだったという考え方もあるんですよ。両方ありましたね。やった方がよかったなということと、やるべきじゃなかったということはね、両方とも交錯してね、両方とも同じあれを持って自分の頭の中にありますよね。誰も、戦死した人たちはいいやつばかりなのよ。不思議とね、自分の教えたあれじゃないけどもね、本当にね、いいやつがみんな死んでますよ。

キャンプスリーはひどい話だよね。ほんとひどい戦闘になりました、キャンプスリーはね。もうああいう戦闘は想像もつかなくて訓練もしてませんしね。キャンプスリーの山岳地帯で戦闘していくんだという自体が考えてませんからね。そういう訓練をしてないで戦闘はやっていくわけですから。しかもそれをなるべく負けないように、持久するだけ持久してやっていくことは非常に難しかったよね。

Q:何がそんなに難しかったんですか?

何も食うものも弾もなくなってきたんだから。そこはやはり補給がつかないことがいちばん難しくなるよね。

Q:その辺りからですか、補給がなくなったのは?

そうそう。もうキャンプスリーからだよね、補給がだめになってきたのは。結局連隊が食うだけのものは何とかしてつなぐものが、後ろからこう補給されなきゃならんのだけどさ、それがこう、もらいに行くだけの力もこちらにないし、また行っても何もないという状況だからね。あの辺の状況でキャンプスリーで補給が途絶えていったところに、これはもう戦争は完全に負けたなと、連隊の戦闘自体が負けたなという事は感じたよね。

Q:キャンプスリーでの、71連隊での戦い方って、どんな戦い方だったんですか?

48(488高地)がやられて後に、戦ってきた陣地ですからね。そこでいろんなものを調べ上げて、ここでこうやるああやると、各地形で想像しながらね、予測しながら配備していったわけでしょ。だから陣地配備をしながら戦闘しとるわけですから。

Q:陣地配備の上でポイントとなったのは何ですか?

やっぱり地形ですよね。どういうふうにしてこの地形を利用するか、生かすかと、徹底して調べ上げていったんですよ。

なんというか、複雑怪奇なね、山あったり谷あったり、いろんな丘があったりして、入り乱れた山岳地帯だったんだね。険しいだけの山じゃなくて、いろんなものが輻輳(ふくそう)した山岳地帯だよね。さらに部落もありますしね。だからそういう未知の戦闘というのは非常に、困難を伴いますよね、分からないだけに。こちらも分からないから敵も分からないんだよね。お互い様だからさ。お互い様だから、そういうところでやっていくんだから、少しでも先に立たなければ優位に立たなければ勝たないからね。だからそういう点ではなるべく勝とうと、勝って戦闘するんだという考えでいったんだけどね。

Q:キャンプスリーで敵を阻止できたポイントは何だったんですか?

それはやっぱり地形だよね。地形は我々に我が方を優位に導いてくれましたよね。

Q:どんな地形がどうよかったんですか?

複雑な山岳地帯っていうかね、山、谷、丘が入り乱れてね、複雑な地形ね、そういうものが、こちらに皆プラスしてくれたですよね。

Q:なぜ複雑な地形がよかったんですか?

それはそういう所であればここに陣地を置くかここに何をやるかということが大体想像つきますからね。だからそういう所に、こうして部隊を配置できたわけよ。しかしそれがかえってやられることにもなるんですよ。こちらが思えば敵もそう思うからね。あそこには何かあるな、ここには部隊おるなということが想像、こちらが思えばある程度分かるからね。そういう所がやられてきますからね。戦争というものはそういうものだよね、大体思ったことは敵も分かるというところでね、お互いの探り合いだからさ。それでたたいてくるわけだから。そういうふうにやらせないところが勝つんですけどね。そういう所にキャンプスリーというか山の中は非常に使いやすかったわけよね。

Q:司令部の中ではどういう雰囲気だったんですか?

司令部の状況というのはね、何と思っていたのか分からないけれども、しかし71連隊がキャンプスリーであれだけ頑張ってくれてるというのは、非常に感謝してるんだと、そういう事はね山下方面軍司令部の方でもちゃんと感謝してね、分かってくれとったよね。やってそれだけの成果が上げってるんだというふうに考えてくれたと思うよ。しかしそのときは2個大隊ないんだからね。こちらは第1大隊だけでやってる戦闘なんだから。しかしそれだけの戦闘ができるという事はこれは立派なことだというふうにとってたと思うよ。

Q:そこを守ってる間にナギリアン道、北からアメリカ軍が進軍してるのを知ったときどんな気持ちでした?

それは、日本としては想像もつかないことをやられたわけだからね。そういう事があったかと皆愕然としたよね。しかしそれだけの力が敵にあるというのが、あのときはっきり認識できたわけだよね。そのとき思えばいいんだけどさ、こちらの戦力の、良くったって我々の、ある程度何倍か以上の戦力だろうと思うからさ、やったって知れてるよ、後は続かないぐらいに思うでしょ。ところがさらに来るからさ、そこに何があるんだよね。どんどん来るというのが怖いわけだね、

Q:愕然としたと。

そうだね、本当にあなたのおっしゃる通りだ。愕然としたね。これはナギリアン道は我々の後ろですからね。後ろに入ってくるわけですから、そういう道があったか、要領があったかという事で、初めて分かって愕然としたよね。驚いたわけだよね。

Q:自分たちが必死になってキャンプスリーを守っていたことに対して、どう思いますか?

そこまではね、成功だったと思うよ。成功だったと思うけど、それだけでバギオを守りきってはいなかったということを思い知らされるわけよね。こういう迂(う)廻路があったんですよという事をね、敵がやってくれたわけだからさ、なるほどそうかと思って、慌てたわけよ。だから今までやっとったキャンプスリーの線は放棄をして、今度はバギオを守らないかんという事になったわけよ。で、すぐバギオを防衛になっちゃうわけよね。

Q:悔しくなかったですか?

悔しかったね。悔しかったよもう。こちらの戦術が通らなかったわけですから。戦術上の負けだよね。だからやられたなと思ったよ、そのときは。

そのときナギリアン道のね、戦車が出てきたんですよ。

Q:戦車対人間ですか?

そうそうそう、だから話のしようがないよね。だけどこれはね、戦車というのは、まともに周り中が見えるわけじゃない。弾の届かないところ、撃てないところといろんなあるからね、死角があるんだよ。死角。死角を発見すれば、この戦車はどこが死角か分かればね、死角に動けば撃たれないわけよ。死角を外れたら撃たれるからさ、死角をうまく通って行けば戦車にたどり着くでしょ。戦車にたどり着けさえすれば、爆薬でも破甲爆雷でも何でも戦車に引っつければ、戦車自体がやっつけられるというふうに思ってたからね。

Q:その戦車との戦い方、兵士たちは分かってたんですか?

分かってなかったよね。だから、こうしろああしろと、そのとき指導しなければならないよね。こうして来たらこうして。この草むらに踏み込んできたら、こうして出て行って爆雷を投げるんだという事は教えられますけど、それ以外のことは何もできませんけどね。だから私はナギリアン道で、兵隊さんを配置するときの、戦車がここやあそこに来たらもうちょっと近よって、2、30メーター来たらここではいずり回して、敵に投げ込むんだと、分かったかなと教えていってもね、自信がないのよね。それで近づいたらこっちが出て行ったらやられますからね。それでやられないよっていうと、教えないといけない。教えるだけの、こっちも自信もありませんからね。そういうところに当時の戦闘指導要領自体が混乱しちゃったよね。

あのときの状況はね、ナギリアン道というのは崖(がけ)から崖にずっとこう回ってる所なんですよね。バギオから出てきたところね。だから崖の下とか、崖の陰とか、いろんな所に死角があるわけですよ。それは十分に死角なんですけどね、それから出てからが問題なんですよね。そういうとこは要点があるもんですから、ここの辺がいちばん攻撃しやすいなというところ選んでね、そこに兵隊を爆薬を持って潜ませるわけですよ。お前ここ座れ、こっち座れ。そして道路を戦車が来たら、2、3人の兵士を起こして、要点要点にこう配置するわけですよ。そして来たらどうなるかと結果を見るわけですよね。あとはその人の、兵隊さんの判断によりますよ。自分がここで出て行ってやるわけよと。やってやればいいんだと。しかし、完全に向こうは制圧しながら来てるわけですから、こちらは隠れてるわけですからね、精神的にはもう、不利なわけですよね。やられとるわけですから。そこを跳ね返して出ていくというのは人間的には難しいんですよね、

要するに「戦車に対してはこちらは肉弾で行くしかしょうがない」と。で、破甲爆雷を持ってやっていくんだと。「行く」ということしか思いつかなかったよね。で、やることは精一杯やることは、まあ、勝つとは思わないけれど必ず成功すると。戦車を一台でもやつければいいという考え方でいたよね。

そういう命令を下さきゃいかんときはね、下す方としては断腸の思いだよね。こういう命令を下さにゃいかんかと、思いますよね。要するに、お前は死にに行けというような命令をしてるようなもんですよね。だけど「死にに行け」とは言えませんからね。要するに引っつけたら帰って来いと、あるいは崖へこう攻め落ちろなんていうことは精一杯ですよね。私は、そのとき我々としては「破甲爆雷を戦車に引っつけたらすぐ下の崖に飛び降りろ」と、「飛び降りたら戦車は撃てないんだから」と。というふうに言いましたよね。

Q:そのとき部下はどういう反応でしたか?

当時の日本の陸軍としてはもう不動の姿勢でちゃんと命令は聞いてくれますしね、上官の命令ていうのは絶対の、天皇陛下の命令ですからね。そういうようなものもらったら、絶対だと思うんですよ。絶対的な命令というのはね、それくらい怖いわけなんですよ。

Q:その部下は何歳ぐらいの方ですか?

私らと同じよ。私らもそんときは士官校出たばかりですから20歳前後でしたからね。向こうも兵隊さん、兵隊から徴兵されて上がってきた場合は、徴兵年齢は20歳だったと思ますかね、同じの年齢ですよ、当時の同じような立場なんです、年齢的にはね。しかし階級が、こちらは将校で向こうは兵隊さんですから違いますよ。しかしそれなりの、年齢的なものはまったく同じだったわけですよ。

Q:20歳の青年に死にに行けというような・・

そうそうそう、というようなことになりましたよね。

それはすまんかったなと思いますよ。すまなかったなと思いますけども。ただそのときにね、自分としてそういう命令を下さなければ済んだかと言ったら、決してそうじゃないんですよ。自分でもね、命令を下さなければ、その戦線は抑えようがないんですよ。

まあいつ下がっていいかってことは、判断が難しかけん。後ろの方はどういう状況かと、どう考えているかと、絶えずそのいろんな状況を、自分の後方の主力の部隊の考え方なり、意思なり、状態なりを聞かないかんでしょう。そういうのを聞きながら決断をしていくわけですから。そういうのを連隊長と相談しながらやっていくわけよ。「どうしましょう。こうしましょう」ってことを毎日相談したよね。そういう記憶が自分でもはっきりあるよね。

連隊長と相談。私はあくまで連隊ですから、連隊長と相談したわけよ。連隊本部ですから。入ってくる情報ってのは、第一線なり、あるいはいろんなとこの入ってくる情報をこう集めてくるわけですから、情報を集めないかんでしょ。集めて総合していくってのは、連隊本部でも何人かがやってまわってましたけどね。そういう命令を総合して集合していくのは、今度は私らの判断で集めたものを連隊長と相談しながら、「じゃあこの方法でやっていこう」と、「ここまで、何日までおろうか」と決めながらね、行ったわけですよ。

命令が来たらそのまますぐなるべくこの機会だと思って、ばっとすぐ兵隊さんを下げるよいう、すぐ行動しなかったのは事実だよね。そうしなかったと言われたら、私も今考えても語弊がありますけれどもね。だけどもね、そういうすぐやらないところに、どう言いますかね、そういう状況下においてもなるべくチャンスをみて、敵が来たらばやるんだというふうに、状態にしとけば、結果が必ず優位に導くというとこに期待感をある程度持ちながら、こうして命令を出し渋ったちゅうのはおかしいんだけども、少し過ごして時間を稼いだんだと思うんだよね。そのとき「来たか、じゃすぐ下げよう」というふうに出なかったのだけは事実だよね。

私も自分でも不可解に思うよ、自分でね。そのとき何を考えているんだろうと、不可解に思うんだけどもね、しかし、そうやってやっていくこと自体においての、命令や時間がずれていくことにおいても、そのずれていく範囲内においても、何かチャンスがあって、やっつけていけれる状況を作れるかもしれんしね。またそういうふうにして、結構下げるのがいいと、ある程度自分でも期待感もあるしさ。だから両方の気持ちで、こうして遅れて渋りながら下げていこうという、そういうふうの気持ちになっていくんだよね。

やっぱりその、もしかしたら自分がぐずぐずしていく間にも、チャンスが来て、敵の戦車が前から来て、それを爆破していけるかもしれないという期待感とね、それからこのままいったらダメになったかもしれんなというような不安感で、自分の気持ちが非常に不安な気持ちでね、こうおるときに下げていこうという、そういう気持ちでおる場合のスピードの、下達命令の、要するに出すときの前の時間の問題だよね。

Q:葛藤する時間があった。

そうだね。

Q:そんな状態になってもまだ、そこでやれる敵を倒せるかもしれないっていう期待感があったんですか?

まあそりゃあね。あなたがそう言われるとね、私も自分に思いますけれどもね、思うけどもやっぱりそう思うんだよね。日本人の気持ちとしてね。最後はいい機会に、期待を、場面に遭遇した場合に想像しちゃうわけだ。なんとかしてやってくれと。

沖縄が攻撃されたってことが分かったときに、これは完全に敗北だと思いましたよね。持久をしてもダメだと思ったんですよね。

「沖縄戦でこんだけ敵が上がってこうだと」と言わなかったと思う。言ったってかえって兵隊が心配するだけだから。だからこんなことは我々で止めておけばいいと思ったぐらいだからね。で、我々のところで止まったと思うよ。兵隊さんに「沖縄もやられてきたよ」というのはね、当時はね、言わなかったと思います。

Q:それは将校としての自分の務めですか?

そうそう。あんたはいいことをおっしゃったよ。そのとおりだよね。あたしらはここで止めなきゃいかんと。止めなければ兵隊さん自身がまいってしまう、というふうな気持ちで。我々はまいっちゃいかんと。だからそういうことが本音じゃないかね。

Q:最後、山に逃げてひもじい中で、将校としてご自身がいちばん何をすべきだと思っていましたか?

まあそういう質問になると、私ずいぶん苦しいんだけど、最後のルソンのブログ山の山の中で、どういう心境で陣地を構えて、こうしておったのかと言われたら私もなんとも説明しようがない。しょうがないけどね、しかしこれをやることによって、必ず戦局は打開するんだというふうに、むしろ周りの、背後の戦況の有利な展開を期待しとったというかね。だからそのためにはここで頑張れるだけ頑張るんだというような心境でおったんだよねえ。だからそんときの気持ち分析したら私困るんだけどねえ。まあその辺が本当、本音だと思うけどねえ。じゃあそんとき帰れると思ってたかって言うと、それは帰れるとは思ってなかったんだからねえ。

Q:そのときの陣地の空気はどんな感じですか?

そんときはもうゲリラは出てくるし、山ん中だからね、日本で言えば、深い長野のような山ん中入って行ったわけでしょう。だから何にもないわけだからさ。あるのは各農民の小さな畑ぐらいでさ、米が若干残ってるくらいでね。そういう米もとって食ってしまえばこっちはなくなりますし、もうあとは出来ませんからね。終わりだと。しかし、まだやれるんだと。じゃあその先どうなるかって考えられないんだよね。

Q:その状況でもう一度バギオを取り返したいという、そういう気持ちはあったんですか?

なかったね。あんときはバギオ奪回なんて、もってのほかで考えられなかったよね。そういう戦力がないって、そんときは身にしみて分かってきたからね。やられてるから、こっちはね。向こうは戦車にしても何にしてもすごいと。そういうものが出てきとるなってことは百も承知しとるからね。むしろこちらがやられないようにして頑張るだけ頑張って、で、やっていこうということが先なんであって。やり返してやっていくんだって気持ちが持たないわけだね。

Q:終戦を迎えたとき、どこでどのように聞きましたか?

そら-、その、プログ山の最終陣地だねえ。いちばんはっきり分かったのはねえ、今まで毎日、散発的にゲリラが出てきて、前線が撃ってきとったのがピタリと止まったんだよね。敵対する敵の射撃が止まって音がしなくなったっていうことが、まず第一段階なんだよね。それからねえ、毎日飛んできとった飛行機が飛ばなくなってきとった。飛行機が飛んでこないなと。そういうことも分かってきた。おかしいなと。飛行機が飛んでこない。第一線の射撃も行われていない。これはおかしいなってことはみんなそのとき分かった。しかし戦争が終わりだっちゅうことはねえ、はっきり分からないわけよ。そらあ何も上から命令が来ないしね。そしたら上から、師団司令部から呼び出しが来て、連隊長についてって初めて戦争が終わったというふうに分かったわけだよ。

Q:そのときどう感じましたか?

これからどうするかと思ったよ。戦争が終わったことはいいけど、我々は一体どうなるんだろうと思いましたよね。山ん中でしょ。やっと食ってるような状態ですから。追い詰められた状況でどうしようもないから何が出てくるかと、不安いっぱいだよね。

Q:どんな不安?

どうされるんだろうかと。どういうふうになるんだろうかという不安ですよね。

Q:終戦はすんなり受け入れられたんですか?

そう言われると私も疑問に思いますけどねえ。どうもその命が助かっただけ間違いないと。でこれだけで成り行きは成り行きだと。やっぱりこのまま流れていこうと。まあ流されようと思ったよね。

Q:流されようと思った?

だからあんときの、戦争終わったときの状況は非常に自分で説明するのも不可解。不可解ちゅうかね、あのころの士官学校の教育自体がそうだからね。戦争のために私らは訓練されるわけですから。その戦争が負けたということ自体、負けたらどうなるかって訓練はされていないわけでね。分からない。こちらも分からないでしょう。敵の状態も分からないからね。結局先の状態すら全く不透明だったわけだよね。

Q:終わったときそれを部下にどう伝えたんですか?

まあね、そんときの心境をどうだったかなって今言われてもね、ちょっと私も記憶がよみがえらないんだけどね。やっぱり負けたから、終わったんだから我々もどうにかなるっていうのも、お互いに将来の身の安全考えて今度は生きる方向へね、自分をこうして持ってってどういうふうにしたらいいんだと、お互いに話し合ったことだけは事実だったと思うよ。だから兵隊さんは「私のクニはこうで、ウチはこう」でって話を、お互いにし合ったと思うんだよね。それまではお互いしないけどね。お互いに話し合いながらも、本人自身は「田舎に帰ったらこうやります」とか、「こう土地があるから、山があるから」って、お互い考えた範囲内で話をするわけですけどね。そうやって、身の持って行き方を、お互い考えたっちゅうことだけは事実でしょうね。

Q:連隊旗を焼いたとき、見てましたか?

ええ。私の一期下のね、連隊旗手だったんですが、本人が焼く現場に私も立ち会ってね、おりました。そんときの光景、それははっきりと生涯忘れませんよ。全部最後まで焼けていっちょったわけですよね。

Q:どんな光景だったんですか?

あらあ、なかなか燃えにくいもんでね。軍旗ってものは房が重くてね、旗もしっかりしてるから、アッと燃えるわけじゃないからね。だんだんだんだん燃えていくんだから。だんだんだんだん燃やして、全部なくすようにせんといかんでしょう。焼くっちゅうこと自体が難しい。

Q:その炎を見ながら何を思いましたか?

ああもうこれで本当に終わったなと。私が持った軍旗でしたから、特にそう思いましたね。天皇からもらった軍旗はここで焼いていくと。すべて終わりだと。そんときはすべて終わりだと考えていくんですよ。これでどうなっていくんでしょうとは考えられないわけよね。

負けた事自体が申し訳なかっただけであって、あとはあんまり深く考えることはありませんよね。

Q:なんで戦争に負けたことに関して、小杉さんが「申し訳ない」と思うんですか?

そらやっぱり第一線の指揮官ですから。だからもうやるだけやって、戦争に勝つために自分は幼年学校(陸軍幼年学校。幹部将校候補を育てるための教育機関)出て、士官学校出て、そして任官して部隊を指揮したんですから。なんで戦争に負けたんだということを責められたら、一言ももう弁解のしようもありませんからね。ああ申し訳なかったと言わざるを得ませんよね。

負けてしまったってことだけは事実ですからね。じゃあ思えば思うだけ、なぜ結果はなぜ良くなかったかって言われると、結果ですからね、あくまで、戦争って言うものはね。勝つか負けるか言うと、負けたんですから、敗軍の将としては弁解のしようもありませんよね。やむをえなかったと。申し訳なかったと思うだけですよね。

Q:当時の自分に悔いはありますか?

いや、その点では、何も悔いはないですよ。与えられた自分の人間としてのやるだけのことはやり、青年将校として、ここまでやればいいっていうところまでは完全にやったと、自分では思ってますよ。でも、結果的に戦争負けたじゃないかと言われれば、一言の弁解のしようもありませんから。その点じゃ、しょうがなかったと、申し訳なかったと思いますよね。だから軍人である以上はしょうがないでしょ、結果は悪かったんですから。

Q:小杉さんにとって戦争って人生の中でどういうものでした?

そら私の全部でしたね。戦争をやるために幼年学校へ入って、そして士官学校を出て、で、任官して満州からフィリピン行ったわけでしょ。そういうような経緯をたどらされた人間ですよね。これまた本望な人生だったというふうに今でも思いますよね。その結果は負けましたけどね。負けた事自体はしょうがない、やむをえない。日本が負けたんだからね。その中においてはね、するだけのことはやれたなと思ってますよ。

私も卑怯な真似して見捨てたっていう部下は誰もいませんしね。みんな喜んで付いてきてくれましたよ。喜んで付いてきてくれたんですよ。兵隊さん、お互いの立場でしたからね。今でも言えますからね。だから鹿児島に行っても、みなさんの遺族に対しても会えますよね。そうやって、やっていくところが、私の軍人の生活としては最要だったと思ってますよね。

自分でもはっきり言えますよね。軍人精神とは何だっちゅうことについてはあれですけども、天皇の軍としてやったことだけは自分の誇りですしね。

これ、ナギリアン道だね。ずっとこうやって崖の下にこう、ずっと。これをみんな人間が歩いたり、戦車部隊が歩いたから。こっちも崖だから。で、もう崖だから。この道路しかないよね。

Q:そこを戦車が来たんですか?

そう、そう、そう。ここをずっと来たわけだね。

Q:それをどうやって攻撃したんですか?

これはもう隠れて、この崖から隠れて、来たら、その戦車の下に爆雷を 入れて、そして、破壊しようとして。これで道路を止めようとしたわけだ。止めてしまえば、もうあとはそう簡単に来られないからね。だから、何とかして1回、止めようとしたわけよね。

Q:止めることができたんですか?

いや、できなかったよ。それはね、できなかったです。

Q:これはどこですか?

これは488(高地)。入り口の、リンガエンに上がってきた所のね、田んぼの所の、これから、ここで防ごうという所の前線部隊のね、このね、山のね。これが日本軍の第一線の第1回の陣地だよね。こういう所で、こうアメリカ軍が田んぼの中を通って来るやつをやっつけようとしたわけだよね。

Q:どういう戦い方だったんですか?

それはもうどうにもないよ。もう向こうはもう圧倒的に上(空)からみんな守ってきているからさ。こっちはもう、来るやつはやられっぱなしで、どこから来るから分からないからね。

Q:ここ、多くの兵が亡くなったんですよね。

ええ。それは、結局、その平野の中の部隊で、こうして立って斬り込んでいくということを田んぼの中でやるでしょう。そうすると、平らな所で行くからこっちはもうやられっぱなしよね。ボンボンやられるからさ。だから、結局、そういうように隠れる場所も何もないからさ。だから、要するに遮蔽(へい)物がないということは、それだけやられる公算が多いというわけだよね。

Q:多くの兵士、部下が亡くなった場所にあらためて訪れるというのは、ものすごく心痛いことではなかったですか?

うん。だけど、第3大隊がそこで壊滅をしたということになれば、どうしてもその慰霊をしなきゃなりませんからね。だから、その慰霊の跡へと。要するに慰霊の跡を探しながらこう行ったわけですよね。したら、サンファビアンはこの辺だなと。この辺から斬り込みをやっていったかというふうにして、後から想像できるでしょう。そういうようなためにやったわけですよね。

私の教えた兵隊もたくさんあのときに死にましたからね。そういうことを思えば、その人たちの声というのは、それは聞こえそうですよね。聞こえそうですけども、しかし、実際的にはそういうことは言ったって始まらないよね。その兵隊は何をしたか分からないんですからね。だから、後からこうして慰霊するということ自体は、非常に残念であるけど、寂しいですね。

これで、ああ、慰霊祭をやったなと、やり終わったなと思うことはないと思うね。それは今でもこうして思うと、ああ、これで俺は慰霊祭をやってよかったなんていう気持ちはないからね。だって、向こうはそのときはみんな死んでいるんだもん。ねえ。こちらは生きたんだからさ。そこにその格段の差があるでしょう。そうすると、それだけの差をね、もう自分の気持ちは整理できないよね。

Q:自分の気持ちが整理できない。どういう気持ちなんですか?

その戦死した者に対してね。戦死した人たちに対して、相手もよくその任務を与えられたから、われわれは満足して死にましたよというふうに思っていないからな。

あれだけ回って慰霊したことで、これで慰霊はできたなという、まあ、自己満足だよね。

Q:自己満足。

うん。自己満足。それから、自分を納得させるというかね。

出来事の背景出来事の背景

【フィリピン・ルソン島 補給なき永久抗戦 ~陸軍第23師団~】

出来事の背景 写真太平洋戦争終盤の昭和19年秋、日本軍はアメリカ軍に対し、フィリピン・レイテ島で起死回生の戦いを挑み、大敗北を喫しました。その後、戦いの舞台はルソン島に移り、日本本土を目指して攻勢を強めるアメリカ軍とそれを押しとどめようとする日本軍との激しい攻防が続きました。
その戦いで、主力の一翼を担ったのが陸軍第23師団です。兵士たちは、本土決戦までの時間を稼ぐため、戦力が続く限り、アメリカ軍を島に足止めさせることを求められました。しかし、圧倒的な兵力を持つアメリカ軍を前に、23師団は苦戦を強いられます。兵士たちは死を覚悟して、戦車への突入攻撃を繰り返していきました。

この時、すでに日本軍は、制空権・制海権を奪われ、ルソン島への補給は途絶えていました。しかも、太平洋の島々で激戦を繰り返してきたため、島に蓄えられていた物資の多くを使い果たしていました。
こうした中で、兵士たちに下されていた命令があります。「自活自戦・永久抗戦」。食料も物資も自ら調達し、永久に戦い続けろというものでした。兵士たちは、農家の作物や家畜を無断で持ち去る事実上の略奪などで食料を得ましたが、圧倒的に量が足らず、飢えや病で次々と倒れていきました。

昭和20年4月、日本軍は司令部のあるバギオを放棄。その2か月後、アメリカ軍はルソン島作戦の終了を宣言します。飢えや病にさらされながら山岳地帯に逃げ込んだ兵士たちがアメリカ軍に投降したのは、終戦から1か月後のことでした。
補給のないまま戦い続けることを命じられた陸軍第23師団。補充された将兵を含む3万人のうち生きて日本に帰ることができたのは、5千人だけでした。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1923年
石川県金沢市に生まれる
1942年
陸軍士官学校卒業後、歩兵第71連隊に配属され満州へ
1944年
フィリピン・ルソン島へ
1945年
71連隊本部の作戦主任として戦闘の指揮をとる
 
プログ山で終戦
1946年
復員
 
戦後はねじ会社経営

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フィリピン(ルソン島、リンガエン湾、バギオ、プログ山、ナギリアン)

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