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タイトルタイトル: 「襲いかかる日本軍降下兵」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン・レイテ島 誤報が生んだ決戦 ~陸軍第1師団~
名前名前: ローウェル・マクダニエルさん(アメリカ軍 戦地戦地: フィリピン(レイテ島)  収録年月日収録年月日: 2008月6年27日

チャプター

[1]1 チャプター1 レイテ島上陸作戦  03:32
[2]2 チャプター2 パロへの進攻  05:29
[3]3 チャプター3 通信任務  05:06
[4]4 チャプター4 孤立した部隊への補給  04:15
[5]5 チャプター5 空からの斬り込み攻撃  02:27
[6]6 チャプター6 ルソン攻略  04:32

チャプター

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番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン・レイテ島 誤報が生んだ決戦 ~陸軍第1師団~
収録年月日収録年月日: 2008月6年27日

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我々はニューギニアのグッドイナフ島から、レイテに向かう船に乗りました。レイテ島では上陸部隊の第4陣でした。面白かったのは・・通常我々は英軍の艦船に乗りますが、イギリス人は戦闘の場合でもいつも正式な軍服を着ていたことです。手にはティーカップを持ち、浜辺に向かって大砲を撃ちこんでいたものです。いつもきちんと軍装を整えて歩き回っていたので、それがとても面白かったものです。

私は幸いにも英兵たちと一緒に、あの艦橋に残っていました。上陸する歩兵隊と連絡するのに必要な無線を、私が持っていたからです。彼らから砲撃の求めがあると、私がそれを復唱してその要請を伝えるわけです。

私は第4陣に参加しましたが、我々が海岸に向かっていると、敵の背後の山から75ミリ砲が飛んできました。幸いにも、我々が乗ったヒギンズボート(上陸用舟艇)には当たりませんでしたが、機関銃の弾が当たったことは確かです。船首のランプ(可動式上陸扉)がガタガタ揺れていました。船が浜に乗り上げました。上陸する兵士たちのため、ランプを下して開けねばなりません。船の後方の持ち場 にいた若い水兵が前にやって来ましたが、扉を開けようとしませんでした。怖かったからでしょう。それで操舵手が持ち場から飛びんで来て、扉を開けてから持ち場に戻り、船を後退させました。

開いた扉に機関銃の弾は尚も飛んできましたが、我々は弾に当たらないよう水の中を這(は)いつくばって、砂浜にたどり着きました。体を十分低くしていたので、弾には当たりませんでした。

そうやって上陸したとき、私は45口径の拳銃と小銃を肩にかついでいました。砂浜を腹ばいで進もうにも、その小銃と拳銃が錨みたいに砂にめりこむので、投げ捨ててしまいました。ところが、その拳銃の柄は透明なアクリル張りで、その下にきれいなオーストラリア人の女性の写真が、ヌード写真ですが、2枚貼ってあったんです。それが周知のことだったもので、ラッキーなことに、上陸して2、3日たったころ、ある軍曹がその拳銃を手に、「これお前のだろう」って持ってきてくれました。浜では邪魔で捨てるほかなかったのですが。

(到着したとき、)フィリピン人はみな川の中にいました。女性はそこで男性の服を洗っていて、男性は全員裸でした。川の真ん中にいて、洗濯をしていました。我々が人影を見たのは、川を渡りながら見たその人たちだけでした。我々は隊の後についていたのですが、兵士たちも早速川の水を使っていました。とにかく、フィリピン人を見たのはそのときだけで、町では1人も見かけませんでした。皆どこかに隠れていたようです。翌日まで誰1人見かけませんでした。

Q:2日目にパロに到着したのですね?

2日目でした。

Q:誰も見かけなかったということですが、街の状態はどうでしたか? 砲撃の跡だらけでしたか?

はい、砲撃の跡だらけでした。何一つ生き残っていないだろうと思っていました。何しろ、戦艦から40センチ主砲の砲弾がそこら中に打ち込まれていましたから。上陸したとき、浜辺をヤギが走り回っていました。どうやって生き延びたのか不思議でしたが、確かに生き延びていました。住民は散り散りに逃げて、どこかに隠れていたので、上陸時には1人も見かけませんでした。

たぶんあれは明け方の3時ごろだと思いますが、大きなわめき声が聞こえてきました。郡庁舎前から舗装道路が延びていたのですが、その辺りで騒ぎが起きているようでした。私は指揮官だったチャップマン大佐と郡庁舎の2階に上り、窓から見渡したところ、機関銃を持った日本兵が前進してくるのが見えました。彼らは通りの角で、そこにいた米兵の喉をかき切って機関銃を手に入れたのです。そして、その機関銃を掃射しながらこちらに向かってきたのです。私と大佐も銃を取り、窓からその日本兵を撃ち始めました。日本兵は機関銃を上げて、銃口を我々の方に向けました。撃った弾が後ろの壁に当たると、曳(えい)光弾で部屋が昼のように明るくなりました。もちろん私は床に伏せましたが、大佐が倒れる音が聞こえました。撃たれたかと思いましたが、ただ倒れただけで無事でした。

我々がいた場所からそう遠くない橋に、2人の見張り番が立っていたのですが、2人とも喉をかき切られて死んでいました。彼らの50口径の機関銃が奪われたのです。

翌朝、明るくなったすぐ、私と大佐は日本兵が機関銃を手に入れた場所に行ってみました。そこら中に敵が死んでいて、2輌か4輌だったか日本軍の戦車が残されていました。ハッチが開いていて、中はからっぽで誰もいませんでした。戦車は火がつけられていました。日本兵はそこまで前進して来て、戦車に火を放ったのです。幸いにも、米兵が日本兵を一掃したのでした。通りには、あちこちにサムライの刀(軍刀)が落ちていました。当時、米兵の間では、日本軍の軍刀が最高の戦利品になっていました。帰り道にそこに戻ってみると、軍刀はもう1本もありませんでした。兵士たちが殺され機関銃を奪われた場所まで行き、それから戻ってきたわけです。パロでの話です。

こちら側の兵士は皆、周囲の建物の中に入っていました。周り中に建物がありました。そして、道路脇に戦車が停まっていて、その陰に隠れている兵士もいました。彼らは前進して来る日本兵に向かって撃ち、全滅させることができたのです。私の知るかぎり、生き残った日本兵はいませんでした。大佐と私が最初に見に行ったのですが、日本兵はみな倒れていました。一人も生き残っていません。全員死亡していました。

Q:周囲に日本兵の死体がたくさんあったのですか?

はい。90人くらいだったと思います。はっきりはしませんが、そのくらいだったと思います。

Q:何人ですか?

90人くらいです。かなりの数の日本兵が通りを進みながら、「フィリピン人ゲリラだ」「我々はフィリピン人ゲリラだ」と叫んでいました。そう言っていました。町に入るためにゲリラを装っていたのです。

我々は占拠した地域の中心に交換台を設置しました。レンガ造りの郡庁舎の中でした。周囲の建物で防御されていました。交換台は小さな台の上に置かれ、常に交換手が1人ついていました。大隊本部まで回線が引かれ、大隊長たちと連隊との間で通信が交わされていました。大隊と各中隊や小隊との連絡は電話が使われていました。

常に交信が行われ、途切れることはめったにありませんでした。それが使えないときは、代わりに無線で交信しました。それに、背負って使うSCR300もありました。

Q:では、通信は順調だったのですね?

良好でした。もちろん、私が担当していたので、通信は最高でしたよ。とにかく、どんなときも通信できたので、それが戦争に勝った理由だと思います。なぜかと言うと、戦闘を始めるとなると、まず必要なのが兵士の訓練です。任務の内容を教え、取るべき行動を理解させれば、情報が分かるようになります。何が重要な情報で、何が重要でないかを判断して、(重要な)情報を直ちに本部に送ってくるようになります。「ここではこういう事が起きています」というような。必要な情報が、近くからも遠くからもすぐに集まってきます。指揮系統のあらゆるレベルと常に接触しているので、上陸用舟艇に命じて行動を起こさせることもできます。信じられないことですが、当時アメリカは、1日で3隻もの輸送船を造っていました。独軍に沈められる輸送船の数より速いスピードで建造できたんです。それも、あの戦争に勝てた理由でしょう。後方で艦船を建造する人たちがいたからです。

上陸した後ですが、SCR300という無線機を背負った通信兵が駆けてきて・・この位の大きさで、3、4マイル先まで交信可能な無線機ですが、私のところに駆けてきて、その無線機が1台、敵側に奪われたと言うのです。彼が「そうです。これを聞いてください」と言うので聴いてみると、確かに聞いたことのない言葉を話していました。日本語とは違うようでした。

それを聞いていると、突然、受信機のコードが伸びたのです。通信兵のほうを見ると、彼の眉間(みけん)に穴が開いていました。両目のど真ん中を撃たれていたのです。コードが思いっきり伸びていました。彼は殺されました。

Q:あなたは彼の隣に?

彼も私も立っていて、私は無線機を手にしていました。彼が撃たれたとき私は話し中でした。敵は、私ではなく彼を選んだのです。

いつも危険な場所にいました。司令部はいつも動いていました。大佐がいる場所が本部でした。大佐のために通信を切らさないことが大事でした。大佐がどこからでも命令を出せるようにするためです。そのため、大佐とともに常に移動していました。大佐が「第3大隊まで出かける」と言えば、私もジープの後部に乗ってお供をします。

最も気を使ったのは、大佐と大隊間の通信を確保することでした。通信の流れさえ順調ならば、その局面の支配権をたとえ握っていなくても、敵を負かすことができます。この点で、戦争の全期間を通じて我々は幸運にめぐまれ、勝利できたのだと思います。

Q:その丘の上では、どのような戦闘が繰り広げられていたのでしょうか?

銃剣を使った白兵戦です。前線には常に通信兵がいました。島にいるときも同じで、何人も通信兵がいました。どこにいようとも通信兵は必ずいました。そして通信兵が、夜間、交信のために外に出ると、6~8名の日本兵が襲撃してくるのです。そんなときは、我々も銃剣で応戦しました。機関銃を使えるような場所のこともたまにありましたが、ほとんどの場合、日本兵は抜け目がありませんでした。忍び寄って襲ってくるので、銃剣の闘いになったのです。

スプラギンズ大佐だったかもしれない。彼が率いていた大隊がオルモック渓谷で孤立してしまい、日本軍に完全に包囲されてしまったのです。丘を越えて反対側に出ようとして、彼はちょうど真ん中あたりにいました。我々はその丘の裏側に連隊本部を設置していました。そこには食堂があり食器もあって、調理を行っていました。そのとき突然、砲撃を受けてキッチンがめちゃくちゃになりました。大雨が降っていました。我々は掘っておいたタコツボに走り、外側で横たわっていました。砲撃が始まると穴の中に入り、そこでじっとしていました。

Q:補給はできたのでしょうか?

空からです。

空から投下しました。食料や必需品を空から投下しました。彼らはヤシの木の芯を食べていました。それしか食べるものがなかったからです。ヤシの木を倒し、その芯を剥いて食べるほどでした。彼らが、どれだけの間そこにいたかは覚えていません。10日か15日くらいだったように思います。包囲下にあった部隊は、メスキット(携帯用の食器・調理器具)を鏡のように反射させ、投下位置を知らせていました。すると、それに気付いた日本軍もありったけの鏡を空に向けて反射させ、補給品を横取りしました。本当に抜け目のない連中でした。そして、包囲していた米兵500人の命を奪ったのです。

Q:孤立したスプラギンズ部隊の兵士とは、無線連絡は取れていたのですか?

ある程度。ある程度は連絡が取れていました。

Q:向こうから、どのような知らせがあったのですか?

特に必要な補給品などです。傷病者のための薬や何やらです。もちろん、食料が必要なのは分かっていました。そうは言っても、できることは限られていました。完全に包囲されていましたし、当時はそれを破るだけの兵力がこちら側にはありませんでした。彼らは孤立して、何とか命をつないでいたのです。

Q:最終的に、どうやって救い出したのですか?

彼らは自力で出てきたのです。自力で脱出しました。丘を越えて中隊本部、いや、連隊本部にたどり着いたのです。みなで無事を祝いました。

Q:では、あなたはオルモックには行かなかったのですね?

そうです。我々は後退して幹線道路を戻りました。よく覚えていませんが、パロに戻ったと思います。そしてパロから海岸に出て、そこでミンドロ島上陸の準備をしました。その海岸にいるとき、日本軍の空挺部隊が降りてきました。海岸のあちこちに兵士がいました。彼らはテントの中で・・いえ、戦闘は一切ありませんでした。そういう兵士たちが、我々の間に降下してきました。しばらく騒ぎになりましたが、ミンドロ島に出発する直前だったので戦闘にはなりませんでした。

でも日本兵は250メートルほどしか離れていませんでした。日本機は降下兵をさっと下ろしていったので、見てはいませんが、すごい音がしていました。日本軍は、夜になると単発機でやって来ました。ほとんど毎晩でした。たいてい夜でした。飛行機が飛んできて爆弾を一発落とすと(シュシュシュシュッというような)音が聞こえてきて、その音が止むと、どこかに着弾していたものです。我々は各部隊との交信がないときには、小さなハンモックで寝ていましたが、そのハンモックには防水布の覆いと蚊帳がついていました。

ある夜、日本軍機が一機飛んで来て爆弾を落としました。その爆弾が落ちてくる音が聞こえました。私はナイフを手に持つか、体のすぐそばに置く習慣にしていたのですが、そのナイフでハンモックを切り裂き、自分のタコツボに転がり込みました。その爆弾はかなり近くに着弾しました。幸い無事でしたが、恐ろしい出来事でした。そういう事はしょっちゅうありました。

ミンドロでも、いろいろなことを学びました。ミンドロに上陸したとき、カミカゼ特攻機が数機飛んできました。米軍の艦船を沈没させていました。艦船にぶつかってきたのです。そのため、見上げると、いたるところに対空砲火が飛び交っていました。

そこに一機の米機が飛んできました。DC-3輸送機でしたが、ドアがありませんでした。頭上に来たとき、なんとマッカーサーが身を乗り出して、我々のほうに手を振ったのです。その飛行機を、日本軍の高射砲が追っていました。本当に驚きました。

しかし、問題は日本軍の攻撃よりも、自分たちの対空砲撃でした。真上に打ち上げるからです。真上に上げた物は、真下に落ちてきます。落ちてきて味方の艦船に当たることもありました。それも監視していなければなりませんでした。それに、カミカゼ機もよくやってきました。こっちに向かってきて、上空を旋回し始めると、対空攻撃をするのですが、当たりません。何度も旋回をした後、引き返してきて艦船の横っ腹に突っ込むのです。

彼らによって揚陸船も沈められました。歩兵が上陸するための階段が付いている揚陸艇です。ミンドロ上陸のとき私も乗っていました。よく覚えていませんが、ガソリンか航空燃料を積んだ艦船が攻撃を受けたことがありました。船は大爆発して、ミンドロ島の周辺に設置された砲座がすべて大波で流されてしまいました。船の爆発で高波が起きたからです。またその爆発でケガをしたり、被害を受けたりした人が大勢いました。

また、日本海軍による砲撃で、夜でも辺りは昼間のようでした。砲撃がずっと続いていたので、そのあたりの人は皆見えました。

Q:レイテ島を離れるとき、この恐ろしい島を離れられるという安堵感はありましたか?

ありません。私は8回か9回上陸作戦に参加しましたが、攻撃を受けたことはありませんでした。何が起こるかは誰にも分かりません。幸運なことに私は若かったし、視力も良かったのです。今とは違ってね。確かに厳しい経験でしたが、まだ若くて体力もかなりあったので、それほど大変なことだとは思っていませんでした。

私は英雄でも何でもありません。ただ皆と同じことをしていました。戦争になると、命令されたことを実行するだけで、恐れている暇はありません。できるだけ迅速に命令を実行するだけです。終わればすぐに、次にするべき事を考えます。それが戦争でのやり方です。自分が死んでも、他の誰かが後を引き受けます。うまく行かなければ、誰かがその役を代わります。そうして次々と穴埋めしていきます。それが戦争というものです。
現在の戦争は当時とは異なる戦争ですが、ひどい戦争をしているように思います。本当にひどい。しかし、我々と同じことを、彼らもせざるを得ないのです。

出来事の背景出来事の背景

【フィリピン・レイテ島 誤報が生んだ決戦 ~陸軍第1師団~】

出来事の背景 写真昭和19年10月中旬、マッカーサー率いる20万の大軍がフィリピンに接近、上陸地点はレイテ島が選ばれた。レイテ島は、日本軍にとっても5つの飛行場がある重要な軍事拠点であった。
10月、太平洋戦争中最大の誤報がレイテ決戦の決行につながった。米軍機動部隊はフィリピン侵攻の前哨戦として台湾を空襲。迎え撃つ日本軍との間で激しい航空戦を展開した。ほとんど戦果はなかったにもかかわらず、海軍が報告した米機動部隊撃滅の大戦果を大本営は鵜呑みにし、昭和19年10月20日、レイテ島で一勝をあげることで和平につなごうとしたのだ。

昭和19年11月、1週間で勝てると言われた第1師団がレイテ島に上陸した時点で、既に制空権は米軍の手に握られ、米軍機が次々と襲いかかってきた。また、米軍の上陸直後から猛烈な砲撃を受けた。短期間の戦いを予想して十分な物資を持たなかった兵士たちは、すぐに食料・弾薬が尽きてしまった。
さらに兵士たちに過酷な命令が下された。限られた武器を手に敵陣に突っ込む「斬り込み攻撃」である。次々に兵士たちの命は失われていった。

食料や弾薬を運ぶはずの日本の輸送船は攻撃され次々と撃沈され、レイテ島の日本軍は孤立。生き残った兵士たちは食糧を求めて、密林をさまよった。

第1師団上陸から50日あまりたった12月21日、大本営はついに、レイテ島の放棄を決断、兵士たちに転進命令が下る。米軍が上陸していないセブ島で再起を図れというものだった。しかし、セブ島に行くために用意されたのは、わずか4隻の小型艇。第1師団1万3000人のうち集結地点にたどり着いた兵士は2600人。船に乗れなかった2000人はレイテ島に置き去りにされ、米軍とフィリピン人ゲリラの掃討にあい、全滅していった。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1944年
26歳のとき第24師団19連隊に所属し、レイテ島へ

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