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タイトルタイトル: 「16年の密林生活」 番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] さまよい続けた兵士たち ~グアム島 終わりなき戦場~
名前名前: 皆川 文蔵さん(グアム島守備隊 戦地戦地: グアム  収録年月日収録年月日: 2012年2月10日

チャプター

[1]1 チャプター1 米軍 グアム島に上陸  04:12
[2]2 チャプター2 苛酷な密林の生活  03:40
[3]3 チャプター3 横井庄一さんと出会う  05:49
[4]4 チャプター4 巧妙な罠(わな)  02:57
[5]5 チャプター5 米軍の宣伝放送  03:39
[6]6 チャプター6 信じられなかった終戦  02:58
[7]7 チャプター7 16年目の投降  02:52
[8]8 チャプター8 「殺されると思った」  05:49
[9]9 チャプター9 運命として受け入れる  09:49

チャプター

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提供写真提供写真

番組名番組名: [証言記録 兵士たちの戦争] さまよい続けた兵士たち ~グアム島 終わりなき戦場~
収録年月日収録年月日: 2012年2月10日

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もう、敵が、日本の戦争のやり方と全然違うんですね。日本は鉄砲で一発必中、1発撃ってはカチャってやって、カチャってやる、それ5発しか入らないでしょ。それで、向こうは乱射って言うか、鉄砲でも8発、それから、今度、それも8発バババーンと引き金引くと出る。

まあ、機関銃ですか、それが今度、ベルト式になって、20発か、連続して出るんですね。それで、世界一強い、世界一お金持ちだから、人間の数より弾の数が多いんです。日本は一発必中ですけど、向こうは量でくるんですね、人がいてもいなくてもですよ、そんなことは関係なく、とにかく弾のありったけ山ほど積んだの、いてもいなくても、ババンババンバババババ、バババババババーンと撃つ。
それですから、あそこに山があったんだけどなーと思うけど、そうすると、海のほうから大小艦艇600隻着いてたんです、それが撃つんですね。上からは飛行機、そうすると、あれ、あそこに山があったけど、もう平になっちまったって。そのくらい戦争のやり方が違うんですね。

これじゃ、とても戦争にならんわ。生まれた赤子と大人が相撲取ってると同じだと思って。

それで、私は迫撃砲でやって、迫撃砲っていうのは、まっすぐ撃つよりも山の陰にいて弾道的に弾が行く、そういう、私、役目であったんです。

日本は一発必中なんて言って、隠れてパンパンパンなんて撃ったんだけど、向こうは、いてもいなくても構わなくて、とにかく、そこに山がある間、連発銃で、機関銃でバリバリバリバリバリ撃つし、上からは飛行機で爆弾を落とす。海からは、艦艇からは弾で、大小600隻で撃つから、あそこに山があったけど、山はなくなっちまったな、これじゃあ、戦争にならんわなっていう、そんなようなので、私が迫撃砲でやったから、そこに残ってる人は1人もいなくて、散り散りばらばらになって。私が体が丈夫だったもんだから、砲を担いで、ここじゃダメだから向こうへ行こうって言って、そこで別れてしまったんですね。

ジャングルに入ってもですね、食べる物は米1粒でも麦1粒もない、ただ、牛だっても、馬だっても、ヤギだっても、草と同じ、煮て食べたり焼いて食べたり、塩で付けて食べたりするわけじゃないから、生だって同じなんだと、自分でそれを食いながら、頑張るぞと言うて、自分のほっぺたをバンバン殴って、気合かけたんです。それで、何て言うか、自分がそうやって自分を気合かけて、それで、まあ、ジャングル生活を生きてきた。それが、私の本当の気持ちですし、本当のことをやったつもりです。

食べ物がない、誰も手伝ってくれる人はない。それで足を撃たれたり、また手を撃たれたりして、食べる物がなくて歩けない。歩けないで生きてる、生きてる人間をあのハンドバックになるトカゲ、こんなに大きなトカゲが来て、生きている人間をこう食いついて、食べてる。それ、引っ張りごっこして。

食べるものもなければ着るものもない。使うものもない、針1本だっても、糸1本だってもないんですから。それをないのを維持、自分で工面をして工面をして、我慢をして我慢をして、辛抱して、それで生きてきたんですから、

まぁ、私は16年間あそこに、まぁ、木の芽、木の実、そういうものを食べて、水さえも飲めなくてですね、あそこに川があるんだけど、そこまで行けないの、巡察(米軍や住民の見回り)が激しくて。そうするとお話を、友だちと一緒にいる人との話も口が粘ってですね、できない。それでも我慢してやってきた。
それですから、ああ、人間は「心頭滅却すれば、火自ずから涼し」って、一つの精神の持ち方なんだなあ。寒いと思えば寒い、暑いと思えば暑い。ねえ、それですから火が熱いと思えば熱くなくて涼しい。そういうその信仰ですか、信仰って言うか自分の力、多分体に自分でむち打ってやってきた。それが生きている一つの証拠だって思え、それが神様、仏様、観音様とかそういうものがございますけど、それを私は信じてきました。

あー、こんなとこに川があるなって行って、そしたら、そこで道が止まっていた、止まっていたら、そしたら、山梨県の伊藤さん(伊藤正軍曹/昭和35年、米軍の捜索隊によって発見)という人が最後まで一緒に暮らした人がいて、「お宅たち、友軍ですか」ったから、「友軍ですよ」と。「じゃあ、私を仲間にひとつ入れてください」と言うので、それで、3人で今度暮らして。

そしたら、伊藤さんと宮沢(宮沢徳治郎さん/新潟出身の兵士)っていうのが、やたら木を切って、「ここに寝るんだ」と。寝るのは、「それ、何で木を切るんだ」って、わたし皆川が言った、そしたら、伊藤さんと宮沢が言うには、「寝るには木を切らなきゃ寝れんじゃないか」って、「1人ずつ寝れば良いじゃないか」って、一木一草たりともですね、「草1本でも、例え塵1本でも、自分の身も、ジャングルに入っているからには、保護してくれて隠して、そいで我々はこうやって生きているんだと、木を切ったらダメじゃないか」って言ったら、「いや、そんなこと言ったって、小便しに起きたら、じゃあ目でも突っついたらどうするんだ」って言うから、「それは木を探りながら行けば良いじゃないか」って私が言ったら、宮沢と伊藤さんが言うには、「ちょうど幅1メートルぐらいに30メートルぐらい木をバサバサ切って、それで、そこへ便所を作って、それで暮らす」ったの。「おまえたち、ジャングルに行って、何のために入ってんだ」と、「隠れるために入ってるんじゃないか」と、「一木一草たりとも、我々を保護してくれるんだぞ」と、「こんなんじゃダメだから」って言って。
それで1週間ばかりいて、その付近を探したら、歩いたら、食べる物を探しに行ったら、横井庄一(昭和47年、グアム島で現地住民が発見)の、ちょうど、そこに住んでいる所にぶつかって、徳井川(グアム島中央部で東海岸に注ぐ)をこう行って向こうへ行ったら、ちょうど帰るとき、会ったんです。そしたら、「そこにいる」って言うから、「じゃあ、俺はあそこへ行って、仲間に入れてもらう、こんな木を切るんだったら、生活はできんからダメだから」って言って、

それで、宮沢と伊藤さんと2人そこに住んでいて、皆川だけが横井庄一と一緒に暮らしたんです。

まあ、横井と一緒になったのは、そのとき、7、8人いたんですよ。それを、大勢でも、そのー、何て言うか、ジャングルん中で食べる物がですね、あれば大勢のほうが、話し合ったり慰め合ったり、お互いに力付け合ったりしていいけれど、食べる物がない、ないから、結局、人間の数が多いよりも少ないほうが暮らしやすいっていう、その条件だったと思います。それですから、まあ、2人よりも3人、3人よりも4人ていう、多いほうがよくないっていうことですね、一口に言えば。

そこに、「じゃあ、こんなに大勢じゃ仕事ができ」、あの、「生活ができんから分かれよう」って横井が言った。そうしたら、「そうだな。じゃあ、中畠(中畠悟海軍軍需部工長/昭和39年グアム島で死亡)と志知(志知幹夫衛生伍長/昭和39年グアム島で死亡)、じゃあ、おめえら2人、俺と一緒に暮らすから来い」って言って、それで別れたんです。

じゃあ、残ったから、じゃあ、海野さん(海野哲男/昭和29年グアム島で死亡)が言うには「皆川さん、頼むから一緒に連れってってくれ」と。「いやあ、しかし私はあんたを連れて行って生活するだけの能力がないからダメです」と、「絶対に連れて行きません」と。「いやあ、俺は皆川さんよかのほかに信ずる者はいないから、木は切らん、木登りは上手だし、歩くにもジャングルでは誰よりも速いし、それだから俺は皆川さんよかのほかには行く人がないから」と言って、それでそこに、そのー、何ですか、えー、私が「ダメだ」って言うのを、で、「いくらダメだって言っても俺は付いて行くから、いいから」って。

例えばこういう道路が、ツマロ(端道)でもいい、T字路でもいいからあった、そうすると、その片方がススキで、ススキ野原で、片っぽうがジャングルだ、そうするとジャングルのすぐそばへ、その着物を、服とかズボンとかシャツとか、そこ、缶詰を1個ぐれえそこへ、その道の歩く脇へ置くんです。捨てておくの。そうすると(一緒に行動していた)海野さんなんかね、「ああーっ 着物、捨ててあるから、わし、もうけた」ってわけ。「取っちゃダメだっ」って言うの。「何で取っちゃダメなんだ?」って。「これは捨てたんじゃないぞ」と。「これは罠を掛けてんだ」と。「罠を掛けて、ここへ置いて、これを取ったならば、日本人がこの付近にいるっていうことを、原住民がそれを、その、やるようにやってるんだからね、罠を掛けたんだから取っちゃダメだ」と。

「ここは、フィリピンとかグアム島は台風の本場だ」と、「本場だから、必ず、この台風が、ああ、あそこは雲が黒くなって、赤黒い、ちょっと赤黒くなってきたなったら風が来、南から北の方へ吹く、そうしたら、そのとき、あそこに上衣とかズボンが捨ててあった、置いてあった、それ、あそこの山にも捨ててあった、それを、結局、風を吹く、吹いてきた、強くなって来たらそこへ行って、缶詰だけは取るな」と。
「そのとき、その上衣とかズボンを取ってこい」と、「そうすれば『ああ、これは風にすっ飛んだなあ』っていうこと分かるから、そういうことをやってやれば、着物でもズボンでも自分で着られるじゃないか」って。「皆川さんて、こん意地の悪い、根性が悪いなあって、悪気の回っている人だなあ」って言うけど、「いや、悪気を回ってるんじゃないって、生きるがためにはそれが必要なんだよ」って。「ここにそれを置いてあるのを取ったら、日本人ば、この付近にいるんだぞったら、そこの付近を巡察(米軍や住民の見回り)が激しくなるし、その自分の行動範囲が少なくなるからダメだ」って言って取らせなかったんです。

「あんた方も一時も早く来て、出てきて、武器を捨てて、出てきてください」と。「今くれば、すぐ温かいライスカレーとか、温かいコーヒーが待ってますから、早く出てきてください」、そういうそのマイクをね、放送を何回もやりました。そうすると、出ていく人がたくさんありました。

「あとに残っている人がまだおります」っていうことをその捕虜になった人が話をするんだと思います。思うから、その今まで隠れていた場所へ爆弾とか艦砲射撃がやたら来るんですね。「ああ、こりゃあ、もう出て行った人がみんな話をする、自分が命が欲しいから何もかも話をするんだなあ」と。自分たちはもうそういうことを何回もやっていますから、分かっていますから、もうボートとか、ヘリコプターとか、そういうので来て放送したらもう、とっととっとと反対のほうに逃げてしまうの。それで、まぁ、命が助かってきた。そういうのが多かったです。

もうそれははっきりとね、「もう戦争は終わったんだ」と言うて、「あんた方は絶対命は保障します」と。それでその外人の人じゃなくて、日本人の人がたくさん来て言ったならば、それは私は喜んで出て行きました。しかし、いくら「戦争は終わりました」と言ってもですね、外人の人がマイクで放送したんじゃあ、それは私はどんなことがあっても出ていかないつもりでおります。それですから、私はここでこの骨を埋めるんだと。

Q:いちばんこうジャングルから出づらかった、出られなかった理由というのは何ですか。

ジャングルから何ですか? 出られなかった?

手を挙げて白旗を掲げて降参して捕虜になって出てきたなんて言われたら、親とか兄弟とか親戚の人に顔向けができない。俺はたとえ死んでもそんなことはせんぞ」と心で決めてありますから、たとえどんな辛くても、食べるものがなくても、着るものがなくても、そういう気持でおりましたから、降参はいたしませんでした。

戦争が終わって私がジャングル生活しているとき、その何ですか、ほうぼう、知るとこにいると捕まってしまったり、道がついたり、それから薪(たきぎ)を取ったりするからだんだん木が一木一草とも身を包んでくださっている(身を隠してくれる)草でも木でもなくなってしまう。明るくなってしまう。ですから、ほうぼうに毎日こう歩くんです。そうしたらコブ山出て、ジャングルばっかりの所に行ったら洞穴が、まぁ、珊瑚礁ですからあった。
そしたらそこにですね、日本の新聞、新聞がこんなにもたくさんあって、そこに手帳と鉛筆と書くものが、便せんですか、置いてあった。それでそれを所々からこう引っこ抜いてきて見た。そしてそれをこう読んでみたら、こっちのほうに来てね、ずっともうそこの場所からもう1000メートルぐらいも離れた所へ来て見てみた。
そうしたら、こうやって読んでみたら、伊藤さんが言うには、「豆腐が10円って書いてあるよ」って。10円っていう豆腐は、「じゃあ、新聞はそれは囮(おとり)なんだ。おとりだからそんなのを読まんほうがいいよ」って言ったら、「いや、本当のようなことも書いてある」と。豆腐は昔は10銭だったの。それが10円とはちょっと、「これはいかさまじゃないか。囮(おとり)なんだ。取っちゃだめだ」って言って、そしたら伊藤さんが言うには、「いや、いいからその本当のようなことも書いてあるから、どうせここにいても死ぬんだし、鉄砲に撃たれても死ぬんだから、3人で出て行くか」って言って、そしたら海野さんが言うには、「俺は出て行かん。俺は皆川さんに死ぬまで付いているんだから、出て行かん」と。

それで、いちばん最後に捕まったのもですね、私がパンの木って言って、まぁ、パンがなる木があるんですけど、その木に上っていた。上っていたらその下にですね、伊藤さんという人がいるわけなんです、2人で暮らしていたとき。そうしたら、その木がこのくらいの木であって、それ、もうその木の下にいて原住民が巡察にきたら、木をカンカンカンカンとこうたたけば、すぐ上ってでも分かる。

その木の下にいてカンカンとたたけば、私がするっするっと下りて、すっと逃げられたのが、それが警戒心がないからどっかへ、まぁ、ヤシでも拾いに行ったのか、

それから私が「おーっ、おーっ」て何とか隠語で話したんでしょうけども、原住民が1人いて、私が上っている木の下に原住民がいてね、何とかかんとかってこう「下りてこい」って言って、それが私が高い所から遠くへ2メートルぐらいのところからびゅーっと飛び下りて、それから私がとっとっと走ろうとした。走った。
そしたら鉄砲を逆様にしてね、肩につけるほうがモクシ(銃床)って言うんですけど、あれを鉄砲を逆さまに、弾が出るほうを手で持って、頭をガーンと私のところにこう殴った。それで私がぶーっとして、そこで倒れて、それで捕まったんです。

それで、その原住民が自分のバンドを取って、私の手をこう後ろで縛って、道路のほうにですね、ずーっと押して出た。そのときは、「ああ、もうこれで人間は一生終わりなんだ。どうせ死ぬなら潔く1発で撃たれて死んだほうがいいや」と。それでもう心は決めてしまったんです。

留置場に入れられて、そうしたら食べるものはすごく、そのジャングルと違って、ちょうど日本で言えば、正月か盆みたいなごちそうを出してくださった。それをどうせ死ぬなら食べて死のうと思って、

どうせ私が死ぬならば、潔く、男は男らしく1発で撃って死んでくれという、その気持であったから、気持はそういう気持ですから、鉄砲に撃たれようと、刀で首を切られようと、怖いとか、恐ろしいということは思ってもいなかったです。それが本当の気持です。

Q:日本に帰れるって決まったときは、どう思いましたか?

いや、その日本にそのね、留置場から出されて、民間の人がそこに住んでいる人で、日本人の人がですね、来て、お話してくれた。

それでその前に新聞社の人が来て、インタビューをやったんです。ジャングルの生活はどうであった、こうであったって言って、それで「これから日本に帰って何をやるんですか」って。「いや、そういう前(先)のことまで考えてはおりません」と。とにかく死ぬ、殺される、それが私の頭の中にはっきりあるから、そんな日本に帰るとは思ってもいなかったけど、飛行機に乗せられるまではそう思っていました。
それで飛行機に乗って、ずっと来たならばですね、富士山が見えた。「ああ、こりゃ日本だ」、そのときはもう涙がとめどもなくですね、とめどなく流れたです。「ああ、日本に、同じ殺されるならば、日本に殺されたほうがいいや。骨もお墓に、お父さんやお母さんがいるところに行けるんだ」というような気持だったんです。それが本当の気持でした。富士山が見えたら、もういつ死んでももう構わんという、それが本当の気持だったです。それですから死ぬっていうことは、全然怖いとか、恐ろしいということは全然頭にはなかったです。

Q:日本に帰ってきてもやっぱり殺されると思っていたんですか?

ええ、まぁ、日本に来ても、アメリカの人がもう日本は完全占領されてしまっているから、もうアメリカの人が日本に来て、ほとんどやり繰りやっていると思っていましたから、日本に来ても「富士山を見だけでも幸せだなあ」と思って、あとは「自分が殺された骨でも、お父さんやお母さんのところに行けるんだ」っていう気持だったんです。他のことは考えておりません。
それで、飛行場に降りたら、姉さんがですね、タラップを降りたら下のほうに姉さんがいた。そしたら、「ああ、これで命は助かるんだ。姉さんが来たから助かるんだなあ」と、もう姉さんが「大丈夫よ」って。その「大丈夫」の一声、その一声でもう私の気持はがっくり来て、「ああ、日本に帰れることができて本当に頑張ってよかったな」と。姉さんが「もう大丈夫」、その一声でもう安心してしまって、心が何だかこう、綿のようにぐにゃぐにゃになってしまったんです。それが本当の気持です。姉さんが来て、姉さんが「大丈夫よ」って言ったその一言が私の心を和らげてしまったんです。それが本当の気持です。それまではもうここに来ても、もう1発で撃たれて死ぬと思っておりました。

Q:戦争から帰ってきて、グアムから帰ってきて、新潟に戻って暮らそうとは思わなかったんですか? 皆川さんは。

それで私はですね、まぁ、戦争から帰ってきて、ああ、それで、まぁ、お墓参りをしました。そうしたらちょうど涙がこぼれたですわね。親には孝行一つしなくて育ててもらったんだけど、これまで元気でいたのもみんな親、兄弟のお陰なんだということが頭にあった。それですから、私は自分で帰ってきても、ねぇ、そのあんまり人のことには頓着せず、自分は自分的で生きようと思って、ただ生きるだけだったんです。

それですからね、別に自分はジャングルにいて、まぁ、16年間もただ奉公したみたいですけど、まぁ、それも過ぎてしまったことだから、くよくよするよりも、これから先のことを考えたほうがいいんじゃないかなと思いまして、家を3べん建て替えた。

Q:40歳近くになって日本に帰ってこられて、働いていくのはご苦労もあったんじゃないですか?

ええ、それはまぁ苦労したにも。最初は、もうさっきもお話ししましたように、まぁ「私は今まで遊んでたんだぞー」って、頭の中にはそういうことを考えたっていうか、いたんです。「俺は全然今まで40近くまで遊んでいて働かなかったんだ、これからが働く時期なんだー」っていうことを頭の中にあったからね、働くことは何とも思ってなかった。ジャングルの苦しいことを思えば、そんなもの働くのが「よその道にはトゲがある」って聞いたが、トゲがあろうとヤリがあろうとそんなことは考えておりませんでした。 

Q:なんでそんなに仕事頑張ろうと頑張ってこれたんですか? なんで。

いやぁとにかく、生きんがためには、とにかく人を頼るってことはよくないことだと自分じゃ思ってます。たとえ「強いばかりが武士じゃないと。血もあり義もあり涙もある、情けあってが真の武士」という言葉がありますね。それですから、泣くときは一緒に泣く、つらいときは一緒につらい思いをする、弱いときを助け強気を挫(くじ)くものが男でありまた人間であると、自分はそう思ってますから。それですから、働いてつらいとは思わなかったです。

Q:16年たったときに敵に見つかったので出てくることになったわけですよね。

はい。

Q:もしそこで敵に見つかっていなければ、そのままどうしていたんですか?

それはもうどこまでもですね。私の気持は、命のある限り「斃れて後已む(たおれてのちやむ)」という言葉がありますけれど、斃れてから已むのがこれが男だ、ね。斃れん前から「あそこが痛いここが痛い」と言っているよりも、「斃れて後已む」、そういう気持でおりました。

Q:そうすると、もし見つからなかったらジャングルにずっといたということですか?

そうです。「私はもうここで一生終わるんだぞ」と自分で自分にそう言い聞かせておりました。それですから、どうせ俺の死に場はここなんだと。

Q:自決しようとは思わなかったですか。

ええ、それは思わなかったですね。とにかく生きられるものなら生きてみよう。たとえ16年もたった、そうしたならばただ心がちょっと、島でこう寝ころがっているときはですね、日本は、日露戦争だ、やれ支那事変だ、ノモンハン事変だもう戦争ばっかりですよ。それですからもう10年にいっぺんは戦争があるんだと。そいだから、いつかは支那とかロシアとかああいう大国があるから、「いつかは戦争があってこちらへ来ることもあるんじゃないかな」なんて友だちと話ししてました。
それですから、そういうこともなんていうかね、まぁ余分な考えだったけど、冗談交じりにそんなことも言ったこともあります。それですから、死のうとは思っていませんでした。それで、倒れたらそれが最後だと思っていました。

Q:皆川さんにとって戦争ってどんなものですか。

うーん戦争ってやっぱり、まぁ戦争はひと口に言えば、私たちみたいに貧乏人のせがれが戦争に行ってやるんだと、偉い人はみんな家にいるんだと。それですから、貧乏人が国のために捨て石となって世の中っていうものはなっていくんじゃないかなと、私は思いました。

それですから、これからあんなにたくさんですね、何十万人も手ぬぐいを振りながら、また手を挙げながら捕虜になって内地に帰ってきたのが幸せじゃったでしょ。それがこれがどういう影響するかですね。
「ああ、戦争しなくて手を挙げていった人が、早く家に帰って命も捨てなくて助かってんだから、いいんじゃないか」っていう一つの例があるでしょ。それも1人や2人じゃなくて何十万人もでしょ。それですからこれから戦争があったら、果たして最後の一兵になるまで戦争やってもやるのか。それでも手を挙げて出てもいいのか、そこが難しいところですね。

Q:いちばん皆川さんたちが苦労をしたんですね。

いや、苦労はしません。それが自分に与えられた一つの運命だと思っていましたから苦労とは思いません。生きていくには、遊んでいちゃあ誰も持ってきてくれんから、自分でやらなきゃならんのだと心に思っていますから、つらいとは思わなかった、それがほんとです。つらいと思ったらそんなジャングルからすぐに出ていきますよ。
それですからね、「心頭を滅却すれば火もおのずから涼し」という、火が熱いと思うけど涼しい。いや自分がそう思えば、つらいと思えばつらいけれど、好きなことをやっていればご飯を食べるのも忘れてしまうでしょう。それですから、生きんがためには心持ち一つだと思います。

出来事の背景出来事の背景

【さまよい続けた兵士たち ~グアム島 終わりなき戦場~】

出来事の背景 写真太平洋のリゾート地として、年間80万人以上の日本人が訪れるグアム島。賑わうビーチの一角に今も、太平洋戦争中に築かれた日本軍陣地の後が残っています。戦時中、この島は、アメリカ軍との戦いで1万9000人もの日本兵が命を落とした激戦の地でした。
昭和35年5月、このグアム島で元日本兵が保護され、大きな話題となりました。皆川文蔵さんです。皆川さんは、16年間、密林に潜み続けていました。グアム島では、この12年後の昭和47年にも、「恥ずかしながら帰ってまいりました」の言葉で、有名になった横井庄一さんが保護されています。グアム島は、終戦後も潜伏を続けた「残留日本兵」を数多く生んだ戦場でした。
日本軍の飛行場があったグアム島にアメリカ軍が上陸したのは、昭和19年7月。戦力に劣る日本軍は、わずか、3週間で壊滅状態に陥りました。
密林に逃げ込んだ兵士たちを、アメリカ軍の執拗な追撃がさらに追い詰めていきます。
命をつなぐことさえ困難な中、行動をともにしていた兵士たちは少人数に分断され、生き残りをかけたぎりぎりの選択を迫られます。戦争が終結しても、密林をさまよい続けた兵士たち。確認できるだけで、10人以上の残留日本兵が、終戦から5年以上、密林に潜み続けました。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1920年
新潟県・旧黒川村(現・胎内市)に生まれる
1941年
新発田東部第23部隊に入隊、その後、歩兵第18連隊に転属
1944年
グアム島で戦闘 密林の中で生活
1960年
16年間密林に潜んでいたが、島民に捕えられ、帰国
 
その後は、映画の撮影所などに勤務

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