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タイトル 「日本人将校 謎の死」 番組名 [証言記録 兵士たちの戦争] 満州国軍 ~“五族協和”の旗の下に~
氏名 日高 清さん(満州国軍 戦地 満州(興安、ノモンハン)  収録年月日 2012年2月23日

チャプター

[1] チャプター1 満州国軍 軍政部  06:30
[2] チャプター2 モンゴル族の教育  07:17
[3] チャプター3 亡命してきた青年  03:54
[4] チャプター4 ノモンハン事件  09:00
[5] チャプター5 重い記憶  06:33
[6] チャプター6 解明できなかった真相  06:59

提供写真

再生テキスト

Q:満州国軍の姿を初めてご覧になったのはいつですか。

軍政部に入ってです。それ以前は満州国軍の内容というものは分からなかったですね。時々、東部国境で満州国の騎兵部隊と一緒になることはありましたけれども、そのころは内部事情というものは全然分からなかった。軍政部に入って、日系(日本人の将校)が殺されたり、反乱が起こったり、満州国軍の創設というものはなかなかこれは大したものだと、本当に困難なものだということは軍政部時代に分かりましたね。

軍政部に入って、満州国軍の内容というものがよく分かった。誰が戦死したとか、誰々が虐殺されたと、そういうことが、いわゆる書類上で、私は軍の中枢におったから分かって、指導を受けたわけです。そのころ、側面的な指導をしてくれたのが五・一五の(事件に参画した)八木春雄という士官候補生が、ちょうど軍事部の法務部におりまして、指導を受けた。

Q:満州国軍の克服するべき課題というか、それはどういうことだったんですか。

いわゆる背反、いわゆる反軍思想、これをどう押さえるか、そして、満州国にどう順応させるか、これだったですね。以前は馬賊出身の部隊でしたから、それが多かったから、新しい軍をつくったわけですから、内容それから軍紀その他について整備をしなければならない。兵器から編制から作戦から、そういう時期に私は軍官学校で勉強したわけですね。

Q:もともとは馬賊ですね。

ええ。もともとは出身は馬賊。有名なのが馬占山とかおりますね。あのあたりは全部馬賊上がりですから。馬賊上がりを基準に満州国軍はつくり上げていったわけですから。

Q:やっぱり反日思想というか、そういうものは強いんですか。

それは強かったですね。反民族思想、反日ではなく、これは民族、この思想が強かったですね。

Q:反民族というのはどういう意味ですか。

結局、民族というのは宗教とか経済とか、すべて違いますから、そこにやっぱり亀裂がありましたね。見解の相違もありましたね。それから、軍というものの考え方、満州国における旧軍、いわゆる馬賊時代の満州国軍は、いわゆる物質主義だった。日本の皇軍というものは精神主義だった。特に物心の違いがあったから、それをいかに橋渡ししていくかと、これが大きな仕事でしたね。

Q:日高さんが軍政部にいらっしゃったときの最高顧問というのは佐々木到一さん。

佐々木到一さん(満州国軍軍政部最高顧問)。佐々木到一さんがおりました。非常にいろいろある人間的な問題とかいろいろな問題、指導を受けましたね、佐々木到一さんに。

Q:佐々木少将の教えというものはどういうものだったんですか。

やっぱり日満一体ですね。いかに異民族の勢力を関東軍に付和するか、これをやったですわね。関東軍の戦力に異民族の戦力をいかにしてつけるか、これが狙いだったです。それが佐々木到一さんの狙いだったですね。

精神革命をやらなければ日満一体の戦力はできぬ、これが狙いでした。そこで、猛烈に軍神、いわゆる日本のかんながらの道(神代から伝わる神の御心のままで人為を加えない道)を説きまして、日本の天照大神、伊勢の皇大神宮、それを通じて宮城、このいわゆる親日思想を植えていく、これが実態ですね。

Q:精神を統一することで国軍の力を強化させる。

まあ、そういうことでしょうね。精神を統一、いかに親日的にするか。五族協和、親日的にするか。五族協和も、同和の五族協和と日本中心の五族協和、これは異論がいろいろあります。狙いは、佐々木到一あたりはいわゆる五族融和でしたね。そういう思想が強かったですね。それと一方、蒙古部隊におる者は、いわゆる民族の特性を生かす思想、そういうふうな部隊をつくる、これが狙いでしたから、そこに融和と独自論がやっぱり生まれておりまして、対立しておった、こういうことはありましたね。

その当時、私に言われとったことは、先輩が教えとったことは、今の満州国軍は反乱、それから銃殺、こんなものが非常に多いが、興安軍だけはこれがないから、軍官学校に行くならば興安軍官学校に入れ、こういうふうな指導を受けまして入ったわけです。それがきっかけですね。

Q:興安軍だけはなかったんですか。

なかったですね。

私は、蒙古民族となら、蒙古民族は当時は五族のうちでいちばん親日的だと、そして、民族性も日本人に似ておるということで、非常に教育しやすかった。特に、私は軍官学校で学んで、中隊長をやり、そして学校本部におったものだから、蒙古人もいかに日本の戦力にいわゆる加えるか、こういうことで、私たちは一生終わったですね、生涯を。

Q:その当時、外蒙古、内蒙古で分裂状態のわけですね。

3つに分かれておりました。外蒙はいわゆるソビエト連邦の勢力、内蒙は、北央・中国、この思想があり、そして、いわゆる興安の満州国内の蒙古、3つに分かれております。その3つは、今は、いわゆる外蒙にしても、蒙古相撲通じて、非常に親日的になっておりますね。それから内蒙においても、日本は宗教を通じて親日的にほとんどなっておりますね。いわゆる蒙古民族というものは親日民族であるということは今でも実証されておる。それがわかりますね。

やっぱり、私の蒙古民族に対するそういうふうな思想が生まれたのは、やっぱり軍政部において、いろいろな戦争の状態、戦死者の状態、これを見ておって、蒙古民族は役に立つなと、そして、俺の一命は蒙古民族にまあひとつささげたいと、こういう思想になりましたね。

Q:蒙古民族の、日高さんが関心を持った蒙古族の特性というか。

尚武精神でしょうね。尚武(武道・武勇を重んじること)、それが一つです。それともう一つは、遊牧民族で贅沢(ぜいたく)をしない思想、これがありますね。いわゆる困窮に耐える、これがありますね。尚武精神と困窮に耐える、そして、信じた人にはどこまでも一命をささげる。こういう思想が脈々と、やっぱり私にはわかりましたね。

そうですね。武を尊ぶ、それがありますね。それから、蒙古民族に3つの誇りがありますね。泥棒がおらないと。2つ目は、うそを言わないということ。それから、イエチといって、いわゆる、今で、日本でいう、何ていいますかね、あれがいないことですね。

Q:イエチですか。

イエチ「野の雉」と書くんです。野原の野と雉、鳥の雉、それをイエチというの、中国語で。それは野原で女と関係すること。それは、いわゆる日本でいう売春ですね。それがいないこと。蒙古人は、この3つの誇りは、うそを言わないことですね。そういうことはあります。それから泥棒がいないこと、それからイエチがいないこと、3つは誇りです。

これですよ。これはもう、ずっと私は持って働いとった。これです。

Q:ちょっと抜いていただいても。日高さん、抜いていただけますか。

これが羊の肉を食うやつね。それから、これがはしですね。はし。そして、これを蒙古人はいつも帯しておりますから、帯に突っ込んで下げている。いつでも羊の肉が食えるように。これはもう有名ですね。これで羊の肉、食いよる。そいつ、枕元に置いて眠ります。

Q:当時からこのナイフとはしでセットなんですね。

ええ。これはやっぱり、これを持っとる人は少ないでしょう。

Q:そうですね。初めて見ました。このナイフも実際、使っていらっしゃった?

はい、使っておったです。

Q:これは戦時中から使って。

ああ、そうです。

Q:さっきのその、軍官学校にいらっしゃるときに同じ兵舎で寝起きをともにして、生活していると日本人と違うところもあるんですか。

洗面でしょうね。洗面をするときには、日本人は手をやりますね。しかし、蒙古人というものは、手はじっとして顔のほうを動かす、これが違いますね。2番目、卵。生卵は絶対食べませんね。だから、生卵を田舎に行って食べるでしょう。もう日本人とすぐわかる。その2つが特徴ですね。洗面と生卵。

私が(興安)軍官学校のいわゆる区隊長をやった時代に外蒙古(モンゴル人民共和国)から3名逃げてきました。3名。それは、外蒙古のソ連の弾圧が気に食わんということで逃げてきました。
そのときにゴビの砂漠を何も持たずに2月かかって徒歩で歩いて、馬を乗り継いで、満州国内に逃げてきた、その3名を預かっておった。それが私は非常に今でも印象深いんだが、

そのときに私に言ったことは、自分の尿を水のかわりに飲んだと、こう言いよりました。そこまでして満州国を信頼して来よった蒙古人もおったということですね。

来たかったんですね。外蒙古が嫌になったんですね。やっぱり、あのころはスターリン時代ですから、ソビエトの外蒙対策が非常にひどかったんですね。それで逃げてきた。3名来たですよ。自分の尿を飲んで来たというんだから、私は本当に感心した。かわいがってやりましたけどね。

あこがれとること? それはやっぱり物資でしょうね。物資が豊富ということと、精神的に余裕があるということ、そういう2つでしょうね。2つしかないでしょうね。それと3つ目は蒙古の独立ですよ、3つ目は。それがあったんですね。非常に熱血漢でした、3人とも。3人とも熱血漢でした。

Q:やっぱり外蒙古ではスターリンの。

スターリンの弾圧時代でしょう。ひどかったですからね。

Q:宗教を認めないからね。

ああ、認めない。

Q:ラマ僧をたくさん殺しましたし。

そういうこと。宗教を認めないし、民族を認めない。これじゃやっぱり生きていけんですね、人間は。

Q:生徒たちにとっては、外蒙古の独立というのは自分たちが生まれてからのことですかね。

そうです。そうなりますね。そこで当時、非常にその3名を注意しておったのは、興安の特務機関ですよ。彼ら3名がどういう動きをしよるか、学校内がどういうふうな空気になろうか、これを非常に心配したのは興安の特務機関長以下が心配しておったですね。

Q:やっぱりソビエトの圏内ですものね。

そうそう、そうそう。スターリン思想が入ってくるか入ってこんかということでしょう。その点はもう、対ソ戦というものは日本が本当に執念をかけておった敵ですからね、やっぱり心配していましたね。

Q:スパイかもしれないという。

そうそう。それがもう大きな問題がありましたね。スパイというもの、諜報ですね。防諜、諜報、諜報のほうですね。

ノモンハンのとき、私は国軍学校のいわゆる区隊長でおりました。もう、いろいろ激戦がありまして、来た者が、全部部隊が出動しまして、そして、その当時、離隊兵というものが出まして、第一線から蒙古人の兵隊が許可なく後退してくるわけですね。それの収容をやらなければいけないので、私は特別な命令をもらって、その離隊兵の収拾の工作に何日か従事したことがありますね。

Q:収拾というのは具体的にどういうふうにするんですか。

それは、離隊して泥棒をやったり、いろいろな悪いことをやりますね。そういう困った兵隊を、食糧を与え、当分の小遣い銭をやって、そうして落ち着かせること。そこには、蒙古の(将校)候補生、これが非常に役立ちましたね、役立ちましたね。

Q:日高さんと蒙古の候補生と一緒に。

一緒に。連れていかなければできませんから、1人ではできませんから。蒙古の候補生だったら、日本語も分かるし、蒙古語はもちろん分かるし、韓国語も分かるし、どうしても蒙古の候補生を連れていかなければ拘束はできなかったですね。

Q:蒙古も広いですね。

広い。砂漠ですから。

Q:そこを、交通手段は何で行くんですか。

馬ですね。主として馬ですね。馬で部落から部落、包(パオ・居住用天幕)から包に渡り歩くと、そういう生活ですね。

Q:村々を、その離隊兵を捜して。

そうです。そして、たむろするところは町、田舎町に多くたむろしておりましたから、それを1人、2人ずつが、全部いろいろなそうこうさせて部隊に帰す、こういう思い出はありますね。

Q:蒙古兵にとっての軍紀というか、どういう判断があれば戦線離脱するという。

やっぱりそこは国家観でしょうね。まだ国家というものは固まっておらんから、しかも満州国というものは蒙古民族の国家ではないでしょう。そこに複雑な五族というものがおるものだから、五族のための犠牲になるのは嫌だと、こういう考え方ですね。

五族のための蒙古人の犠牲は嫌だと、こういう考え方が蒙古人の考えですね。

Q:それは、実際に蒙古兵の口からそういう理由が出たんですか。

まあ、時々出よりましたね。時々、親しい日本人に対しては漏らしよりましたね。だから、それが表面化すると反日思想だといって、憲兵隊あたりに引っ張られるものだから、それはもう極秘に親日分子でなければ話さなかったですね。私は蒙古人が非常に信用しておったものだから、そういう裏話を時々してくれたことはありました。

Q:でも、日高さんの立場としてはそういう彼らの心情を分かりながらも、やっぱり満州国の目標というのは別のところにあるわけですね。

そういうことですね。そこに満州国軍内における「民族の独立」というものと、いわゆる「民族の協和」というものの非常に大きな対立が流れておりました。だから、私たちのような親蒙、蒙古民族を信じておるのは、民族の独立、これを叫んでおった。ところが、民族の独立を叫ぶということは五族協和に反しましょう?それで、私はやっぱりそういう面においては要注意だったと思っております。

それは、どっちか、どちらを主張したほうが日本のためになるか、関東軍のためになるか、これだけだったですね。私たちは、私は、蒙古民族の民族性を生かすことによって関東軍の戦力になるのだと、これを主張していました。ずっと主張しました。一生、主張しましたね、それは。そこで蒙古人の信頼が厚かった、それで今日に至った、こういうことでしょうね。

Q:五族協和という考え方にもちょっと無理があるという。

無理がありますね。五族協和は融和でしょう。民族性を殺すこと。そうすると、モンロー主義というような、いわゆる民族の持つ特異性を生かすことですから、生かすことと殺すことというのはそこに違いがありますね。私たちは民族主義を生かすこと、そこにいわゆる思想が流れていって、その団結を叫んだわけですね。

Q:私が、『戦史叢書』とか、ああいう戦史の記録で見ると、蒙古の興安騎兵をノモンハンで使用したんだけれども、騎兵の特性というものを生かさないで、陣地の防備とか、そういう特性を殺した使い方をしたという。

そのとおり、そのとおり。向こうは空軍と戦車、これは強かったです。それから、小銃にしてもマンドリン(自動小銃)、いわゆる蒙古軍のほうは一発一発撃つ。戦車もない、飛行機も弱い。そうしたらならば、現代戦(近代戦)においては全然蒙古兵は役に立たななかったと。蒙古兵を遊撃戦に使えばいいのだけれども、第一線で固定した陣地の対立なんていうのに蒙古人を使っては、使い方が全然違っておったですね。そういう私たちは考えを持っております。蒙古民族の特性を生かすことができなかったということでしょうね。

Q:遊撃戦で使うべきなんですね。

そうです、そうです。蒙古民族はあくまで遊撃戦。遊撃の部隊です。固定した陣地、いわゆる守備的に守勢陣地に投入すべきではない。守勢陣地に投入した蒙古部隊は全部やられております。反面、遊撃作戦をやったところの蒙古人部隊というものは戦果を挙げております。それで証明ができると思いますね。

Q:そこは、関東軍の用兵思想というか、日高さんが見ると問題がありますね。

その点は関東軍の作戦方針、それから用兵方針、こういうものがやっぱり根本的に違っておりますから、蒙古色の強い参謀がおれば蒙古民族の使い方がわかるけれども、わからない人がおって蒙古民族を使っても、漢民族と同じように使うから、大きな失敗をした。そこに大きなノモンハン事件の敗戦の根本的な理由があったでしょうね。

Q:そうするとやっぱり、さっきの離隊兵が出るのも無理はないですね。

無理はないですね。当然ですね。そう思っております。

満州国軍のときは、軍官学校の私は教育隊、教育畑で、ほとんど教育やりました。約10年はそれに専念しましたね、教育に。したがって、蒙古人というものも私の存在を認めてくれておった。そして、私を大事にしてくれた。そういうことはありましたね。
そして、終戦、8月1日付けでもって、私はいわゆる進級をして、学校の本部の情報主任になって、行って、それから生徒隊を離れたわけですから、10年間というものはほとんど蒙古人教育、私は一生尽くしたと、こういうことは言えますね。

Q:さっき、佐々木少将がかんながらの道をということをおっしゃいましたけれども、日高さんが蒙古人の教育をするときは、いちばん重きを置いたのはどういうところですか。

それはジンギスカン思想ですよ。かんながらの道なんて分からんですよ。本当にそれはもう全然分からんですよ。ジンギスカンと言えば分かる。そこで今でもジンギスカン(廟・びょう)は立派なものを建てておりましょう。あれ、特務機関長が建てたんですよ、終戦の前の年に。それはもう立派なものですよ、行きますとね。だから、蒙古人にかんながらと言っても全然分からんけども、ジンギスカンと言えば立ち上がりますよ。ジンギスカンは天皇と同じだから。そのジンギスカン思想で私は蒙古人教育をやった。おまえたちの民族はジンギスカンのように優秀な民族であるから、その民族性を大いに鍛えて、発揮して、天下を取れ。こういう思想が我々の一貫した思想だったですね。

Q:日本の関東軍が満州国の五族の融和で、日満一徳一心で天皇制を、かんながらの道を説くという方針と対立しませんか。

対立がありましたね。そこが最後までデリケートな対立が終戦のときまで続きましたね。

Q:8月の9日にソ連が国境を越えますよね。

ええ、ソ連が侵攻してきます。それで、10日に作命(作戦命令)がありました。そして、11日に準備をやって、その部隊は、生徒隊、本科、予科、それから、少年科と分かれて前進したわけですね。その本科隊の隊長以下がまずやられたと。それから、予科の隊長のオオタニという(人が)、やられた。少年科の隊長のミヤモトがやられた。8名がやられておる。それが私はもう悔しくて仕方ないですね。どうして、自決しとればいいけど、自決じゃない場合、殺されとった場合、どういう死に方をしたと、それが今でも気残りですね。気に残っている。

Q:すると、生徒隊の8人が亡くなったというのは、本当に青天のへきれきという感じになりますよね。

そういうことですね。立派な将校ですから、全部が。それが8名やられておりますからね。青天のへきれき、そう言えますね。生かさなきゃならない日系将校でしょう。それを全部抹殺したんですから、それは非常に打撃は大きかったですね。ああ、大きかったですね。

Q:打撃。日高さんにとっては打撃ですか。

ああ、大きかったね。途中で聞いたですから。遊撃をやっとる途中で聞きましたからね。

Q:どんなことを考えるんですか。

そのときに蒙古民族の誰が中心やったかということですね。中心人物。それをまず頭に描きますね。誰が中心か。そして、その中心人物の下に誰が動いたかと、そういうことまで頭に考えさせられますね。頭の中にまた浮かんできますね。あれやなかろうか、あれがやったんじゃろうか、そういうことはありました。それはもう何日間か何か月間か、そういうことがありましたね。

Q:何か月もずっと。

ええ。つい考え続けたですな。

Q:今の生徒隊のそういう事件ということを考えたときに、本当に結果がどっち、自決だったのか、そうじゃなかったのかという結果によって、それまでの10年間、日高さんがやっていらっしゃったことが問われますよね。

そのとおりです。そうです。自分がやった教育の成果がどっちに行っておったか、これは大きな問題ですよ、10年間ですから。生命を賭して教育しておったでしょう。それが蒙古魂というものがどういう理由で、どっちに転んだか、これはもう私としては一生の哲学で、一生の本当の解決の目玉ですね。成果ですね、私の。そう今でも思っております。

この間、行きました。46年ぶりに行きました、46年ぶりに。大歓迎をしてくれました。生き残っておるのは、生徒隊の生き残っておるのは、ホート(パオトウ・包頭)いうところで、内蒙古の、そこで大歓迎をやってくれた。それだけに私も歌いたくなって、「見よ東海」の歌を歌ったわけ。そうしたら喜んでですな、生徒が、本当に喜んで。それで、蒙古人はご承知のようにジンギスカンの歌を歌って、そしてまた私はジンギスカンの歌を蒙古語で歌う。もう非常に喜びましてね、大歓迎をやってくれた。

そのときにちょうど中隊長をやっておった蒙系が、日本の士官学校を出ているのが生き残って、師団長をやっておりましてね、来ましたから、それも一緒に日本の軍歌を歌ったり、蒙古の出征の歌を歌ったりしまして。ところが、最初のあいさつ、蒙系の代表が、「終戦の当時のことはお互いに聞かないことにしましょう」と、こういうあいさつをした、最初に。だから、終戦当時のことは一切話で触れぬ、こういう約束でその歓迎会が始まりました。そういう思い出があります。

Q:そのあいさつがなければ、こちらとしてはやっぱり確かめて。

聞きたかった、聞きたかった。それは聞きたいけれど、そういうあいさつがあったから、日本人としてもそれは守りました。そこに何か私は納得しないものがありましたね。最初からそうあいさつしました。だから、そういう言動を聞けば、普通の死に方でなくて、やっぱり銃殺か、毒殺か、これをやったんだなと、こう思いました。しかも銃殺は、蒙古人の手でなくて、当時、満系の下士官が潜入しておりましたから、そういう連中がどう拘束をやって暗殺をした、そこへも疑問が私は一つあります。恐らく蒙系の手で銃殺したんじゃなかろうと、今でも信じたくておりますけれども、半信半疑です。

Q:そのときの死に方がどういう死に方であったかによって。

それも分かりません。どういう死に方、銃殺か、毒殺か、あるいは自決か。自決やったらもう上々ですけれども、そうでないと私は思っております。その当時のことには触れないでおこうというあいさつが、それを証明しておりますからね。

Q:もし蒙系の生徒によって生徒隊の8人が殺されたのだとしたら、それまでの教育は何だったのかということになりますよね。

もう、それは水泡に帰しますね。最後のいちばん大事なときに、救うか殺すかのときに、いわゆる生殺の環境において、生に走らずに殺に走ったということは、大きな日系対蒙系の対立がやっぱりあったと、割り切れない問題が、民族的な対立があったというふうに今でも感じておりますがね。

Q:生徒隊が8人亡くなったこととか、そういういろいろなことを考えると、それまでの蒙古政策というんですかね、その全体の、そのことの評価ということをどう考え……。

いや、結局はアジア主義ですな。大アジア。これは板垣征四郎とか石原莞爾、これの大亜細亜共栄圏でいくか、やめるかという生き方、そこに大きな日系軍の対立はありましたね。我々は大アジア主義ですから。大アジア主義。ある人はモンロー主義やったから、その大きな流れの中に行き着いたのが、我々の時代ですよ、それで、とうとう日本軍はあの大河の北まで行ってしまったでしょう。大失敗したでしょう。いわゆる満州か内蒙、あの付近で止めておけば、まず日本はこういう負け方はしてないよ。ソ連も進攻してこなかったんですよ。あまり手を広げ過ぎたです。と同時に、南方の海軍の力、航空戦力というものが劣ってしまったでしょう。それでアメリカが乗ってきた。もう大東亜共栄圏というものは、そういう力によって日本が自然と負けていった。これが我々の考え方ですね。自然と負けた。自然と負けたですね。

Q:その大東亜共栄圏の考え方に無理があったという。

そうです。手を広げ過ぎた。拡大し過ぎた。そういうことは言えますね。黄河以北で止めておけば良かったけど、黄河以南に進めていって、いわゆるマレーシアから、ビルマから行ったでしょう。これはもう本当に大失敗だったですね。大失敗。それがやっぱり石原莞爾が言っておった大東亜共栄圏というものの膨張、行き過ぎ、これがあったわけですね。

出来事の背景

【満州国軍 ~“五族協和”の旗の下に~】

出来事の背景 写真1932年3月1日、現在の中国東北部に「満州国」が建国されます。事実上、日本の関東軍の支配下に置かれた満州国。首都は新京(現・長春)に置かれ、新国家の建設が推し進められました。
このとき、満州国執政(のち帝政となってからは皇帝)溥儀を元帥とする新しい軍隊「満州国軍」も創設されます。満州国軍は、「五族協和」の理念のもと、さまざまな民族で構成されていました。漢族、満州族、モンゴル族、朝鮮族、そして日本人。諸民族が心をひとつにして、日本と共同で満州国を守ることが求められました。
この満州国軍の将校となった日本人は、多くが日本の陸軍士官学校を受験し、推薦されて「満州国軍 軍官学校」に入校した若者でした。彼らは、満州国で学び、さらに、日本の陸軍士官学校で教育を受け、満州国軍の将校となったのです。
しかし、満州国軍を構成する諸民族は、同じ軍隊という組織に身を置きながらも、背負う歴史や立場が異なり、それぞれが違う方向を目指していました。終戦間際にソ連軍が満州国に侵攻すると、その矛盾が一気に噴出します。
満州国軍の実像とは、一体どのようなものだったのでしょうか。

証言者プロフィール

1915年
福岡県・可也村(現・糸島市)に生まれる
1936年
福岡・歩兵第24連隊入隊
1937年
満州国軍 軍政部に派遣
1938年
満州国軍 興安軍官学校入校、11月卒業
 
興安学校でモンゴル族の教育に従事
1945年
終戦後、シベリアに抑留
1950年
帰国 その後は日本郷友連盟福岡県本部理事長などを歴任

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満州(興安、ノモンハン)

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