ホーム » 証言 » 光延 一徳さん

チャプター

[1] チャプター1 フィリピン上陸  04:52
[2] チャプター2 歩兵への編成替え  03:55
[3] チャプター3 陣地を死守せよ  04:17
[4] チャプター4 斬り込み命令  08:01
[5] チャプター5 崩落寸前の陣地  02:32
[6] チャプター6 飢えとの闘い  01:42
[7] チャプター7 戦わずして死んでゆく兵士たち  02:28
[8] チャプター8 今でも忘れられない斬り込みに行った戦友の顔  02:57
[9] チャプター9 今思う「斬り込み」の命令  01:00

再生テキスト

もう上陸するのに部隊もいつやられるかわからんから、とにかくもう人間をはよう下ろせと、人員下ろして、自動車とにかく下ろせと自動車先に下ろせいうて、うちの一個中隊がその船乗っとったから、一個中隊からあんた、30台からあるからなトラックが。それあんた、全部下ろして、もう荷物を置いたやつを師団の荷物をもう片っぱしから積んで、サンホセいうとこまでサンホセや方面へもう向けてやね、急ぐすぐやったんですよ。

そやからわたしは輜重兵(しちょう兵)やからね、もう軍の物資を決まったとこへ運ぶのがもう仕事じゃからね、もうそれでもう昼夜兼行でやりおったんですよ。

もう夜もう電気つけん、無灯火でもう行くんですよ。

わたしら2大隊で行って自動車部隊だったんです。1大隊いうのは、ばん馬いうて、馬で引っ張り、馬で引く移動する。わたしは自動車のほうよ、トラックでな。それでわたしは、それで修理班の、修理班係でやったから、もう車の修理ばっかりやっていたんですよ。もう故障きたらもう寝てたら、あのう、とにかくもう自動車はないんだから、もう途中で自動車捨てるようになった。「故障したらもう引っ張ってても帰って来い」言うて、「それで直してやるから」言うて、そういうようなことで、もう車大事にしとったんですよ。

Q:どれぐらいまで続いた?

日本軍隊なのに普通の志願にはね、わたしらの3年兵から輜重隊のね、自動車ができたんで、自動車部隊が。自動車ばっかりの輜重隊、また別に別個にあったんですよ。

そのくらい日本は何は遅れとったんや、機械化が。普通の師団にはね輜重隊というのは馬しかなかったんや。わたし、3年兵、そやから3年、わたしら入営する3年前ぐらいから、自動車で、自動車部隊ができんや。だからわたしらの師団は支那事変行った時にはもう自動車なかったんや。ばん馬ばっかりやったんだ。帰ってきてからそれから自動車、自動車部隊ができたんや。

Q:光延さんお聞きしますが、そのトラックで荷物運ぶと、車を修理するっていう輜重兵の仕事は、何月ぐらいまで続けられたんですか。

 それはね、2月の初旬やね、10日頃までやね。それまではね、どうにかね夜、運んでいたんですよ。もう2月のそうですね10日ぐらいからもう、もう昼は全然駄目、いやいや昼も夜ももうだめなって、兵もそうなった。

Q:駄目になったというのは何が駄目に?

駄目なったというのはねもう2月のもう初旬頃でも10日頃でやね、もうガソリンもなくなったんですよ。ガソリンもないなるしね、もうそれからまた、運ぶ荷物ももうなくなった。それでわれわれの仕事はなくなって、小さな輸送はやね、その輜重車にいうて、ばん馬の大八車みたいな、あんなやつへね積んで、5人ぐらいで押したり引いたりしてね、それで輸送しよったんです、近くはね。もうそんな大きな荷物運ぶ仕事もなくなったんや。それで小さいのを、「もみ」運んだりね、弾薬運んだりはね、その輜重車みたいな積んで、人間がね5人ぐらいでね引っ張ったり押したりして輸送したもんですよ。

もう補給がないもん、ないなったらもうないなったでてね、もうどうしようもないの。そやからもう自動車もう大きな壕掘って掘り込んでもう、どうなったか自動車どうになったかわからんですよ。

Q:じゃ車も使いものにならなくなったっていうことですか。

いや、もう使うこともないしね、もう、もうガソリンがなかったら動くないのよ。それからもう多少のやね、もっとか2度や3度それは動く、動くこともなかった困るからね、それは準備しとったけども、何十台いう車ももう動かんようにしもうてね、動けんようになったのよ。

それで急きょわたしらに、あれが3月の6日やった、あの、妙高山の陣地へ着けいうことで、3月の6日にそういう命令が出て、それでわたしら、輜重兵が今度は歩兵に編成替えして山へ上がって、妙高山いう山へ上がって、その山を陣地に占領して、そこで

わたしらがもういて、もう時にはもう、早いもうその陣地で着いてもう戦闘が始まっとったよ。3月18日に追及して、来るのは来たんだけどね、それはまた来て別、別のところへ現地着いたけども、その妙高山いうとこへは、わたしらがその歩兵の一個大隊が陣地を占領するとこへわたしらの輜重兵一個大隊が歩兵に編成替えして行ったわけ。それが3月の6日。

それがもう今、最初の戦闘が3月の11日、3月の8日に着いて11日にもう戦闘開始したわけ。

米軍の一個連隊いうたらな、もう日本軍の一個師団ぐらいの戦力があるのよ。米軍の一個連隊が日本のもう一個師団ぐらいの戦力がある。それが一個大隊の正面来たんで、だからそれでも、3月の8日からや、4月の25日まで頑張ったんやからね。凄いよ。その陣地守ったんやからね。

わたしはもう鉄砲もやったことないけどね、それでもあんたもう古い兵隊ばかりだったから、もうやったです、ドンパチやって、それは頑張ってやな、相当やったんですよ。それから4中隊、5中隊はもうそやから、あれは3月、4月じゃ、4月の6日、6日にはもうもう5日にもう5中隊の中隊長が大隊本部へ来て、もうあかんから戦力を増やしてくれ言うてきたんだけど、そんなもんあるわけないやのに、それで大隊長が因果含めて、もうとにかく頑張るほかにもうないんじゃからいうて。

Q:輜重兵(しちょう兵)というのはそんなにこう前線に出て、敵を銃で撃つというふうなそういう戦いには慣れて

慣れてないのよ。そんなこと全然練習はするけどね、もうそんなこと全然目的じゃないですから、輜重兵はそんなことするもんじゃないからね。われわれはもう、ものを安全に輸送するいうのがそれが任務やから。

Q:戦える自信っていうのはありました?

ないないそんなものは、全然ないもん。それはもう全然ない。もうその時分になったらもう負け戦も良いところじゃからもう敗色濃厚いうやつや、敗色濃厚も士気も、士気は全然もうない、ないなってしもうとよ、うん。そういうような状態やったんや、うん。

Q:それは光延さんのこのじゃ、もらった銃で、敵をやってつけて、勝つぞっていう気持は?

ないない、そんなものはそんなものはない、うん。とにかくもう、それからやねもう何とかしてこんなとこで死んでたまるかだわな、もう何とかしてわれわれのグループはな生きて帰ろう言うて、ただそれのその連帯感でやなやってきた、もう8人な。

そういうもんも何もそんなもう戦力もどこの部隊も全滅で全滅で、もうどうにもならんようになったけど、それでわれわれもやな、輜重兵がやな歩兵にお願いして、陣地着いた、そういうようなわけじゃったんですよ。

そりゃあもう、砲身にぶら下がったかどうか知らんけどね、戦車にとにかく突っ込んでいくもんじゃから、人間が。戦車に踏まれるんやから、それで爆発するんやから。それで引き抜いて爆弾さすんじゃから。戦車乗っとるもんは、突っ込まれたらもう見えんのじゃ、死角が多いから。

戦車の運転手や、近寄ったら見えんのじゃから、近くのものは。そやから行くでしょうが。そしたら、突っ込んだら、それを肉迫攻撃と言うんじゃ、日本は。肉迫攻撃。肉迫攻撃したものはやな、戦車に突っ込んでいく。戦車ドドって来るけん、その突っ込んだものを踏む、そしたら戦車に引きに行って、バカーンいうて。そしたら戦車ひっくり返るんじゃからね。これだけの大きさの爆薬やから、破裂したら。戦車がひっくり返るんや。

みんなもうそれで死んだんじゃ。わしらだけ残っとった、行かんから。行たってやな、突っ込むんやから。みんなそれで死んどんの。やらされて。

Q:行く前とかは挨拶とかはするんですか?

いや、それはせえへん。「おーい、火薬行くからな。」言うたら「おー、行ってこいや。」そのぐらいのことで。「もうこれから行くわ。」言うて行きよるわ、みんな。そりゃあもう、なんとも言えんよ、そん時の気持ちは。あいつらは行って、これで死に急ぐかと思うたら。

これの倍ぐらいの箱へ、この倍ぐらいの黄色薬を、背のうの中へ入れて、背のうの首絞めて、ここへひもがついとんのを出して、それを、これを負うて、背中へ背のうを負うて、それで行くわけ。それで、ほんというたら、これでやな、戦車へ突っ込むわけ、人間が。

Q:線を引っ張っていく?

それで戦車が来て、ひかれる寸前にやな、ひかれて、ある程度戦車の下敷きにならなんだらあかんからね、戦車の外で爆発されたんではあかんからね、戦車にひかれてそれで引くんや。もう半分死んどる時に引っ張るわけ。おそらく戦車にひかれたらやね、ほんとはもう夢中やろうね、そりゃあ。それはもうどんな気持ち、そんなことはわからんわ。

それで、戦車にひかれて、そのひかれた時の瞬間にパッと引いて、だったら戦車がバカーンといく。それを戦車の肉迫攻撃と言うのや。戦車の肉迫攻撃、それを日本兵はやるから、米軍の戦車は恐れてやな、なかなか来いへんのや。徹底的に叩いてやな、もうこれ以上叩きに、日本軍がおらんいうぐらい叩いて、そこへ戦車が戦闘にダダッとやってくるわけ。

そりゃもう絶対それはもう、絶対助からん。それを行くのや、それを肉迫猛撃という、戦車の肉迫攻撃と言うんや。それをやな、それやるのがな、それが最高の死に方やったの。

Q:これ持って何人も行かれたんですね。

そりゃそうよ。それで何人も死んどるよそれで。戦車はそやから、戦車もだいぶやられとるのよ、その肉迫攻撃に。それで米軍はやな、戦車でもなっかなか進んでけえへんのや。徹底的にやってやな、迫撃砲を撃ち込んでやな、戦車で撃って撃って撃ち込んで、飛行機でな、激しい時にわたしらの陣地やな、ドラム缶、ガソリン入ったドラム缶ダダーンと落として、それを機関銃で撃って火つけてやな、バーって燃える。そんなこともするんでよ、アメリカは。そんな余裕があるのよ、アメリカは、攻撃でも。

6中隊でね、4中隊と5中隊もう全滅しとるんだけども、6中隊いうて6中隊は「海没」いうて、ほかの船乗っとって、それがもう全部船でも何でも沈んでしもうて、人間だけが生きとってもう何もできへんから、それは予備隊としてそれはもうそれからもう、もうなんぼも人間もおらんし、もう仕方がないからお前ら予備隊でここへ寄れ言うて。

もう最後のこれを大隊の最後にしようや言うて、「はいそう、そんならそうしましょう」言うて、それでわたしが8人とそれでハシモト中尉が4、5人おったじゃろうと思うよ。それでそこへ夜の、黎明、黎明いうて夜の明け方やにね、それをずいぶんまで話しをしてもよう聴こえよったんですよ、米軍の。その黎明、夜明け前の時間頃にやな、そのほんな突っ込む合図はやな、誰かがな手りゅう弾放り込めと、その、その手りゅう弾を放り込むのは、ハチヤ上等兵いうのがうけおうて、そいつがもうほふく前進でそこまで行って、木が茂っているから、鉄帽で木が当たったりとかカチーンと音がするから鉄帽も脱ぎはだしになって、ほふく前進でそれがハチヤ、ハチヤ上等兵が手りゅう弾を投げて、その合図でドーッと突っ込んだんですよ。

そしたらおらんででいたら。なんおかしいことがあるもんだ。びっくりして、「あらおらへん誰もおらへん」、それで仕方がないから、まあええわ言うんで帰って、それで22日はそれで済んで、それで今度23日にもっと今度戦車来て、その時にハシモト中尉が戦車へ突っ込んだわけ。わたしらの前を通って。そうしたところが、もうわたしがもう無意識にね、もうハシモト中尉が軍刀引き抜いてやね、一人よ、それも「戦車で何するんよ人間が」言うて。随伴兵歩兵の狙撃やでな、バーンと撃たれてやね、もうわたしの20メートルほど前でよ、もうぐでんとなったわけよ。やられてしもうて。

それでその時に突っ込んでいる時にやな、うちの兵隊がやな、これは行かなぁしあないな言うとやな、腰上げてやれ、行こうとしていたよ。それでわたしが無意識にやね、止めたんですよ「行くな」言うて。「止め」言うて。それで行かんで良かったんだよ。それでそうしたらね、どうしたかね米軍はね、どういうわけかね、もうそのすぐね戦車引っ繰り返して帰ってしまったんですよ、うん。それで仕方ないからね、もうハシモト中尉も死体まで始末できへんから、軍刀だけでももう持って来てそこへ置いて、それでハシモト中尉の軍刀だけ、そこ落ちとるの拾ってきて、さやを納めて。だいぶ、1ヶ月ぐらい持っとったけどね、もう持ちきれずに捨てたよ、それもね。遺品じゃけどね。

そうそう、戦車に突っ込んでな、どないすんの、そんなもん戦車に行って、鉄の固まりに、1人人間が何も持たずにね、日本刀で出ていったって何も出てこなん。それもう、死ぬの覚悟で出て行ったんじゃろうと思うんじゃ、それは。

それはもうやけくそじゃ、もうどうせ、自分の中隊の兵隊も死んでしもうとるし、どうせ自分も死なにゃならんのだから、ここは死に時じゃと思って行ったんじゃろうと思うんじゃ。

わたしはそうでなかったからね、もうその時分になったらね、もうなんとかして生きて帰ろうがいうようなことでやね、そういうような気持ちになっとったから、その時分にはもうすでに。

それに斬り込みやいったってね、夜中に行っとんのにね、向こうはどんなことで、電波探知機かなんかを据えとんじゃろうにね、正確に飛んで来るんですよ弾が。そんなもん行けるかいなもう、「やめるわ。」言ってもう、「もうこんなとこ行けるか、行ったって死ぬだけや、帰ろう。」言うてな、わたしがもう指揮取ってな、斬り込みに行かずにね、やめて帰ってきたんですよ。

それでもな、ほんと言うたらね、軍隊はね、復命復唱いうことからこれは絶対にやらないかんのよ。復命いうのは、命令受けたら、たとえば、どこそこへこれから何々以下何名、これから斬り込み行くんなら「斬り込み行ってきます。」いうて復唱するわけ、命令の復唱を。

それから帰ってきたら復命いうてやね、「今行って帰りました。」いうことを報告するわけ。そいつももうせえへんのや、もうこっちはもう。帰ったって、もうほっとけ、無視した。もうほっとくんや。

それでもやね、ほんとはそんなことは許されんのじゃけどね、そういうことがまかり通ったわけ、その時分は。それでも何のおとがめもなし。

ほんというたらね、そりゃそんなこと言ったら大事件よ、そんなことは。復命もせんいうたら。行って、斬り込みも行かずに帰ってきてな、無視してするようなことはね、ほんとはそんなことはね、軍隊には絶対に許されんことやの。そういうことをね、わたしは平気でやりよったわけ。許されんことを。だからね、わたし8名はね、生きて帰ってきたよ。

その時はもう死ぬ覚悟でいた。それからもうあとは、その時分から多少もあったけどね、正面切っても生きて帰ろう、生きて帰るのが目標で、それがみんなの、生きて帰ろういうのが、それだけのなんでやな、みんなやって帰ってきたわけ。

2回も3回も行ったけどね、みんな行ってないんじゃ。行ったってもう途中で帰ってくるの。

それでね、ほんとはね、そんなことは許されんことやけどね、それがわたしらは、それを平然とやりよったわけ、無茶をな。それから無茶が通りよったわけ。

みんな斬り込みで死んどんの、ほとんどや、かわいそうに、行ってるのみんな死んどるの。死ぬよあんた、向こうは機関銃据えて待っとんじゃ来るのを。行ったって、そりゃもう、行ったら死ぬのが決まっとる。ほとんど全部、斬り込み行ったらほとんど全部全滅。

そりゃあもうかわいそうや。かわいそうやけどしゃあない。それが軍隊じゃったんじゃ。その当時はな、死ぬのが最高の道徳だったんじゃから。国のために死ぬのが。戦死がやな、最高の道徳だったんじゃもう。だけどやな、我々は最後には未来がない、そういう気持ちだったんよ、はじめは。

だけどもそんな気持ちは、(昭和20年)4月からなくなったね。こんなとこで死んでたまるかや。なにがなんでもやな、8人はな、生きて帰ろういうて、そういうことをみんな言い合ってやね、それだけが希望でやね、帰ってきたんですよ。8人も。

死ぬの、ばからしくなってきたんですよ。死んで、行ったら死ぬのわかっとんのに行かすんでしょ? そんなあんた、そんなのないよあんた、なんぼなんでも。それ行かす指揮官が無茶じゃが。だからね、そんなことは、あかん、そういうようなことがね、まかり通った時代や。

そりゃあ妙高のな、妙高山でやね、4中隊も5中隊も全部戦死、それで大隊も本部の陣地になって、大隊長も戦死する、それから本科の将校も全部戦死でしょ。小隊長、中隊長、とにかく本科からの将校全部戦死。

そしたらね、わたしらみたいな下士官、兵隊ばっかりになってしまうんじゃ、しまいには。そしたらね、しまいには命令来るとこないやん。それでやね、それでわたしは4月の24日の晩に、どうするか、陣地はもうやられてしまう。もう8人しかおらん。おったってどうしようもない。

どうしようもないってほんとに悩みに、迷いに迷とったんですよ、どうしようかいうて。そしたら、連絡が来たんですよ、大隊本部いうて、大きな声するから、「なんや。」いうて言うたら、「伝令じゃ。」言うて。「どんな伝令じゃ?」いうて言うたら、妙高山におる残余の兵隊は鉄道8連隊がおった陣地跡へな、マツザキ中尉がおるから、その指揮下へ入れ、いう命令が来て。

そこで逃げたら帰れんですからね、逃げたらあかんのじゃからね、それどうしようかいうて、困ってどうしようもないないうて、悩みに悩んで、迷いに迷とった時に、その後退命令が来て、それがわたしが運がええねん。そういう命令が来たから。

それで、8人、「ほんなら今帰るったってもう夜中じゃし、夜は米軍もなにもおらんのやから、朝早うそこへ行くから、お前らもう、伝令帰れ。」言うて帰らして、それで朝夜明けの前に起きて、陣地がどないになるか見て回ったんやの。

そしたら真っ黒焦げでやられとる。もう火炎放射でやられて、たこつぼ、兵から集団、そこはめちゃくちゃやられとる、周り1人もおらんのよ、おるわけないんじゃ、それだけやられたら。そいでそれを見て、確認をして、それからわしたちは、そのマツザキ中尉のおる先発の陣地のあとまで下がったわけ。

それでわたしら、そっから戦争なんか、すごい意識がなくなったね。それからまったくなくなったね。

もうそれはもうだからね、ようけ、もう食うもんがのうて餓死しとるんですよ。兵隊が。もう食べるもんがないぐらいもうな、もう悲しいことないですよ、それはえぇ、そりゃもう、あした起きて食べるもんがないぐらいもう悲しいことありゃしないですよ。もう人間が人間でなくなるもんね、もう食べるものないようになったら。もう人間をどんな、どんな無茶するやらわからへんでね、人間は。

もうだからもう、食べるものいうことになったらもう、もうそりゃもう盗んでできてでも食べるかいうような根性になってくるんですよ、うん。

Q:盗むというのはどこから誰から?

誰かが持っているものでも、だから飯ごうなんかでもご飯炊くでしょう、そうしたらもう、そこに置いとたら取られるから、それを枕にして寝とったんですよ、飯ごうで。飯ごうでどこへもおかれんへん。俺のちょっとおいといたらすぐないようになってしまうよ。そんな、そんなことになるんですよね人間が、うーん、人の飯ごうでも取ってやな、食べるようになる。

Q:それは同じ戦う仲間で、仲間同志であってもですか。

そうそう、仲間同志で。それでやな、あんた食べて知らん顔しとるもん。そういうような人間が出てくるのよしまいには。

あんなジャングルの中でね、しまいには。それでね、ジャングルぐらい食べるものないの、あれ不思議ですよ。何にもないの食べられるようなものが。葉っぱも食べられるような葉っぱないんですよ、ジャングルは。ほんま不思議やな、あのジャングルいうとこは。

何にもない、ジャングルだけで、木がぐちゃぐちゃ生えとるだけでね、役に立つ木やら一切ない。食べられるようなもん一切ない、ジャングルは。

ああもう生き地獄。だからね、戦争でね、鉄砲の弾に当って死んだのごく何割か、ごくわずか。みんな餓死するか、マラリアで病気で死ぬか、病死するか、そんなんばっかりよ。

もう戦争にもなにもなるもんかな、そりゃ。全然戦力というか、鉄量というか、全然違うんじゃから米軍と日本というたら。それはもう話にならんのやから。大人と子供のけんかよりもっとひどいんじゃから。戦争っていったって勝てるわけがないもん、全然違うんじゃからやり方が。日本のやり方とアメリカのやり方はもう全然違うんじゃから。

だからよ、はじめはね、戦争、戦争いうて、死ぬのが最高の道徳でみんな一所懸命やったんだけども、やってもやってもだめなんですよ。どんどんどんどん行き詰まってしもうて、しまいには、わたしたちもやな、フィリピンにおったって、米軍を追うのやな、1日でも長うフィリピンのルソンへ拘束して、東京へ、日本の本土へ米軍の上陸を1日でも遅らせてやろういうのが、それが目的じゃったんですよ。早い話が。

なにも戦争に勝てるのが、戦争やって勝てるのが目的じゃないのよ。

ようけ死んだもんの顔が、今でもあんた、若いのが夢に出てくるよ、若い顔がドーンと。そりゃわたしらにとってはあの戦争ぐらい強烈な印象はないんじゃから。

だからこうやってやね、おおまかなことは日にちまで覚えとんじゃ。頭こびりついとんじゃそれ。日常生活のことやあんた、この頃はね、今したこと今忘れるんじゃ、そのぐらいもう頭がボケてしもてやね、脳がおかしくなっとるよ。
それがやね、そんな脳みそがやね、この戦争のことについてはね、おおまかなことやったらね、おおまかな移動であったらいまだにやね、全部頭に、スッとドドっと出てくるよ。そのぐらい強烈な印象があるんじゃ。

若い人、24、5の時のその若い顔がダッと出てくるよ。そのぐらいね、印象がやね、我々にとっては戦争が、あの戦争ぐらいね、我々にとってもう、こびりついとるね、あれは。あれぐらい強烈な印象は他にないもの、そりゃ。

帰ってきてね、商売するぐらいはあんなもの、そんなもんへっちゃらよ、そんなもん。だからね、わたしは戦争のこと思うたら、どんな苦しいことがあったって、どんなことがあったってへっちゃらやったよ。

それはわたしら生きて帰ってやな、そりゃなんぼ苦労したいうたってね、生きとりゃあんたね、いいことはあったや。それが24や5で死んでしもうて、それもやな、みんなええやつばっかり死んどんや。わたしらより立派な、ほんまにわしらより相当上のやつばっかり死んどんやろ。それでわしらみたいなどっちかいうたらもうな、ええかげんのパーのやつばっかりが生きて帰ってきとんやろ。

そやから、どっちかいうたら、ほんと死んだ人に対して、すまんなあ、ほんまに申し訳ないような気持ちでいっぱいよ、わたしらは。いまだに生きとること自体が。ほんとにそう思うとるよ。

陣地なんかで死ぬでしょ。もうそれは死んだらそのままほったらかし。埋めてやることも出来んのよ。ほんまにほったらかし。

それで戦争が済んだらね、戦争が済んだら戦場掃除いうことをやるんですよ、戦争で勝ったほうが。戦場を掃除するんですよ。それで死体なんかを集めて穴掘って埋めるの。それを戦場掃除という。それは勝った方がするの。それが戦争した国の掟(おきて)やいうてな。勝ったほうが戦場掃除ということをやるわけ。

そやから我々は負けたほうだから、死んだもんはそのままほったらかし。埋めてやることも出来んのじゃから、もうな。そんな死に方しとんでしょう。そんなかわいそうでしょう、それは。

それがやな、そやって死ぬのが最高の道徳であったんです、その当時は。それがやな、そうなって、もう負け戦になってやな、そうなったらね、そんなことではばからしくなってくるでしょ、そんなことで死ぬのが、ほんまに。こんなとこで死んでたまるか、いうような気になってくるんですよ、しまいには。そうですよ。

それが、はじめはね、そうやってやね、肉弾で死ぬのがね、それが軍隊の最高の道徳やったんじゃ。それがやね、もうばからしくなってきた、しまいには。そういうふうになったんですよ、しまいには。

あれはもう、いらんことでようけ死んどるんですよ、そりゃあもう。まずい指揮官のなんでやな、発想でやな、ほんまにどれだけ人間が死んどるか、兵隊が。ほんまに腹立つよ、そんなこと思たら、ほんまに。

出来事の背景

【フィリピン最後の攻防 極限の持久戦 ~岡山県・歩兵第10連隊~】

出来事の背景 写真昭和20年(1945年)1月、米軍は空母12隻を含む大艦隊で現れ、フィリピン・ルソン島に上陸。首都マニラと、日本軍司令部の置かれた北部に向けて進行してきた。

日本軍はこの地で、敵の日本本土への進行を遅らせるための持久戦を強いられた。その兵士の数は八個師団を主力とする、およそ30万人。補給も援軍も望めない状況におかれ、「自活自戦永久抗戦」という方針で戦い抜くよう命じられた。

10連隊は、ルソン島中部にあったバレテ峠に陣地を築いた。
バレテ峠は、島の北部に抜ける、幹線道路が通っているため、敵の北上を食い止めるには、死守しなければならない要衝だったのだ。
制空権を握っていた米軍は上空から日本軍のざんごうを次々に爆撃。さらに地上からもブルドーザーで道を切り開きながら、進撃、絶え間ない砲撃を加えてきた。
武器弾薬が欠乏する中、命じられた攻撃法は、手りゅう弾や爆薬を抱えて敵の陣地に突っ込む斬り込み攻撃だった。斬り込み攻撃は米軍の激しい反撃にあい、攻撃に参加したほとんどの兵士たちは帰ってくることがなかった。さらに食料が底をついた兵士たちは「自活自戦」の名の下、現地の田畑や倉庫から食糧を調達、事実上の略奪も起こった。

5月初め、バレテ峠の日本陣地は陥落。日本軍兵士たちに転進命令が下され、密林地帯を敗走することとなった。日本兵士には想像を絶する飢えと渇きが待ち受け、多くの兵士たちが命を落としていった。

証言者プロフィール

1920年
岡山県備前市に生まれる
1941年
第10師団に入営、輜重兵第10連隊、満州ジャムスに駐留
1944年
台湾駐留を経て、フィリピンに上陸
1945年
大隊本部自動車修理班付き下士官、バレテ峠で斬り込みを命じられる
1945年
復員後は神戸市の商店街で果物商を営む

関連する地図

フィリピン(ルソン島)

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