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タイトル 「秩父山中で待ち続けた決起」 番組名 [証言記録 兵士たちの戦争] 昭和二十年八月十五日 玉音放送を阻止せよ ~陸軍・近衞師団~
氏名 小久保 福治さん(近衛師団 戦地 日本(東京)  収録年月日 2010年1月24日

チャプター

[1] チャプター1 近衞兵にとっての昭和天皇  02:37
[2] チャプター2 命令  06:17
[3] チャプター3 終戦  05:47
[4] チャプター4 決起を待つ  10:51
[5] チャプター5 待ち続けても何も起こらなかった  14:32
[6] チャプター6 秩父への再訪  04:06

提供写真

再生テキスト

当時の天皇は神様ですからね、そばへ来られたらやっぱりこっちも頭の中が白くなりますよ。なんかそういう教育を受けてるせいか何かしらないけども、あの人が持っていた特別のその何ていうか、帝王学を勉強された人の持ってる特殊な雰囲気なのかどうか知りませんけどね、とにかくすぐそばにこられると体が硬直しますよ。だれもそうだったつってますよ。

Q:具体的には近衞師団の中で、その具体的な教育であるんですか。そういう天皇陛下への忠誠を尽くすとか、思いっていうもの。

それはね、さっきもお話ししたように、1カ月に3回ぐらいね、隊長が精神訓話ですよ。

Q:具体的にはどういう内容なんですか。

要するに何と言いますかね、結論的には、あの人の前、死になさいということだね。

Q:死になさい、あの人の前に死になさいというのは、ま、天皇の前に?

前で。

Q:前で?

御馬前で、われわれは御馬前で死ぬことを最も名誉とすると。

小学チビのうちからたたき込まれた忠君愛国の心と、さらに近衞に入隊してからたたき込まれた天皇教とも言うべき教育の力だと思いますけどね。

とにかく午後だと思います。昼明るいうちですよ。軍旗持って行ったんですから。軍旗というのはとにかく連隊のシンボルですからね、象徴ですからね。軍旗を持ち出すってことはもう。

Q:将兵の数はどのぐらいの人が?

それは僕らがその賢所へ兵仗でいた兵隊全部ですから、何人ぐらいいたんだろう、派遣隊が行ったんだから。親衛隊司令部っていうのは、二重橋のほうの正門ですからね。それが賢所なんかにも多く兵隊が行ってたわけですから。でも、まあ何とかでもあれかな、800人や1、000人はいたんかな。

Q:そのときの理由っていうのは、詳しくは教えられたんですか。

教えられませんよ。全然わけがわかんないですよ。とにかく行ってみたらね、大変なことになっちゃってるわけだ。

Q:ていうのは?

要するに、「陛下には申し訳ないけど宮城を一時占拠させてもらう」と。

僕個人に言われたわけじゃない。みんな兵隊が並んでますからね。そこで「誰から」つった、あったんだろう。中隊長だったかな。とにかく一般の兵隊にも、恐れ多いけど、宮城を一時われわれが占拠するという命令というか、話があったですよ。それで、それから皇宮警察の武装解除になったわけですから。

Q:それを聞いてどう思いましたか。

どう思うって、別にその無条件降伏だなんていうことはありえないと、そういうふうに固まっていましたからね。特攻機に乗って突っ込んだ連中、あるいはその人間魚雷に乗って体当たりした特殊潜航艇の特攻隊、そういう連中に無条件降伏なんかして、どの面下げて顔向けができるんだというわけでね。

Q:じゃその宮城を占拠させてもらうって聞いたときに、むしろ賛成だったっていうことですか。

もちろん否定はしませんでしたね。

Q:そういう雰囲気だったんですか、近衞兵の中でも。

そうですよ。だってあれですよ、だってあなた、戦争に負けたからって、何も軍と関係のない人たちが宮城前へあれだけ集まって、みんな泣いたり、土下座して天皇に謝ったりしてる社会ですよ。そんなね、「無条件降伏、あ、そうですか」なんて、そんなことを考えてる人間は一人だっていませんよ。とにかく国家がね、無条件降伏つったら、なくなっちまうかもしれないんですよ。まして兵隊がね、近衞兵がね、そんなそれに対して批判するとかね、わたしは反対だとか、そんな考え持ってるの、わたしはいなかったって言っても間違いじゃないと思いますね。それがそもそも何ちゅうか、偽命令だったわけですよね。

命令の出所について批判するだなんていうゆとりは全然ありゃしませんよ。そら命令は命令としてね、正規の部隊の命令として受けるよりほかにないですから。

Q:そのときは、その命令は森師団長が出したものだと思っていた?

うん、結局その大本は師団命令でこうなったんだと思いましたね。

Q:そしたら何の疑いもなく、迷いもなく?

うん、何の迷いもありませんよ。

結局、賢所の衛兵所の前の大きな松の木が幾本もある砂利の上でしたよ。そこへみんな座ってね、それでラジオを聞いたわけです。それで、これで完全に負けちゃったんだということで、みんなじゅうが泣き出しちゃって、結局そのときは考えというか、呆然自失の状態ですな。何もその特別のあれはない。ただ無性に悔しい思いがするだけでね。いくらこらえても泣けてくるというような状態でしたよ。それがどのぐらい続いたか、それからどうしたかはあんまり記憶にありませんけどね。それからじきにとにかくあの旧兵舎へ引き揚げてきたんです、宮城を出て。

放送は、よくわかんなかったです。ただ、あれかな、よく言われる「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」ですか、あのくだりあたりはどうにかわかりましたけどね。結局、わかんないところが大部分だったみたいですよ。ただ、これで完全に戦争に負けたんだっていうのははっきりわかりましたね。

Q:戦争に負けたんだってわかったときは、どんな気持ちだったですか。

うん、まあどんな気持ちって言われても困るんだけど、みんな泣きましたよ。泣かないやつは一人もいない。将校も下士官も兵隊もね。

結局、敗戦が確実になった、なってしまったと。これからどうなるんだっていう不安ですよね。それと、おれたちが最後まで頑張ったその天皇制の存続はどうなるんだと。そういうことでしたね。

Q:単純に、玉音放送の内容には、納得できたんでしょうか。

いや、よくわかんなかったんだから、できたというかできなかったというか、納得できたって言うたら嘘になりますよね。昨夜終止させるんだって言うた陛下の放送がされちゃったんだから、これで万事休すなんだっていう考えと、さてじゃあこれから皇室と、その次はおれたちがどうなるんだっていう、その未知の不安ですよね。

単に近衞なるが故に戦争継続を希望するんでなくて、何つったらいいんだろうな、とにかく天皇制の護持ですよね。皇室の存続。それを願って戦争を継続するんだという、何ていうかな、希望を持ってたわけですから。戦争の継続っていうことと皇室の護持っていうのと、矛盾してるって言えばしてるんでしょうけど、でもどうなんだろ、そのへんは難しい。

ただ、われわれは近衞兵なんだと。もし進駐してきた米軍が、天皇あるいは天皇家に対して不敬なことがあったら、直ちに報復するんだと。それは後で考えたら、できねえかったことかもしんないけど、当時としてはそんなふうに考えてたんですよ。

要するに部隊と一緒に行動していたら、GHQの命令で、この部隊はどうされるかわかんないんですよ、そのときはまだね。だからどこへか労働者として、部隊として連れて行かれてしまうか、あるいはどういうふうになるかわからんから、例え天皇家に対して不敬があっても、その報復をする人間がいないじゃないかと。だからおれたちが捨て石になって、今のところ、とにかく潜行しておれば、もしそういう事態が生じた場合には、すぐそのクマガヤさんなりワタナベさんなりの系統から連絡がくると、こういう話だったんですよ。

まず、そんな小銃を持ってその辺部隊以外を歩くわけにいきませんからね。何かだけど兵器持たなきゃ始まんねえから、小石川のその部隊が疎開していた場所の兵器苑っていうのが管理していたんですけどね、そこへ行ったんですよ、いちばん最初に。そしたら中隊に籍のあるノムラ少尉っていう人が一人で留守居をしていて、「こういうわけでこれから出かけるんだけど、何か武器をください」って言ったら、「よし、わかった」っていうわけで、先に立って弾薬庫のほうへ連れて行ってね。当時やっぱりがたがたしてたなあ、弾薬庫なんていうとこに歩哨も何も、立ち番もいないですからね。誰もいなかったですね。それで拳銃の箱を出して、「好きなものを取っていいから」。そんなね、普段通常の軍だったら、兵器の扱いなんてのは、そんないい加減なもんじゃないですよ。弾が1発なくなったって大騒ぎですからね。弾を50発ぐらいもらったな。あと手りゅう弾を3個ずつもらって。

それでおかしいんだ、どこの駅から電車に乗ったか、その記憶が思い出せないんですよ。多分飯田橋の駅まで行ったんだろうなと思うけど。飯田橋の駅っていうのは今の東西線のあれですけど、連絡がちょっと悪いんですよね、こっち方面へ出るにはね。それで何か途中でもう、伍長の階級章も何もみんなひんむしって、電車の窓から投げちゃって。
だって、いずれひょっとしたら死ぬかもしれないっちゅうんだから、それは未練ないですよ。第一兵隊くさいものは全部捨てなきゃ。娑婆へ出たらね、どうやってあれするんだ。

Q:それでも電車に乗って、まずどこに行ったんですか。

いや、変装のためにうちへ帰って来たんですよ。軍隊くさいものをつけていちゃ、うまくないですからな。

Q:そしたらでも、実家ではどういう反応でした?

その戦争後家の義理の姉は泣いてましたね。おやじは「どうしても行くんか」って言うから、「どうしても行くんだ」って。それ以上何とも言わなかったですがね。

まだ当時西武線は秩父まで行ってませんでしたからね、西武電車は。だから八高線で寄居まで行って、寄居から秩父鉄道でずうっと奥へ入っていったわけですけどね。だけど何ちゅうわけなんか知らんけど、寄居の駅で電車を待っていたら、当時あの電車も汽車も走ってることは走ってるけど、時間表なんて全然当てになりゃしないですからね。来たり来なかったりなんですから。そうしたらね、なんと線路複線だから2本か、3本ぐらいあったのかな。とにかく相当幅あったけど、向こう側のホームにね、わたしの昔の班長がいたんですよ。で、後で「班長、あのときどこへ行ったの」つったら、秩父へあれですって、土蔵だか何だかを借りて、連隊司令部の書類が預けてあったんだってね。
ほんでわたしが入ったときの古参軍曹だったけど、班長なんだけど、それが1年ぐらいだったかな、途中で隊を離れて浦和連隊区司令部に移籍したんですよ。どうしてかっていったら、かみさんがあっちの白岡だか何だか、埼玉県内の人なんですよ。そこへ婿養子に入って姓が変わったんですけどね。で、浦和連隊区へ勤めていたんですけど。その班長が偶然、寄居行って八高線から秩父鉄道に乗り換え、分岐点の駅なんですけど、その反対側のホームにいたんでびっくりしちゃってね。見つかったかなと思ったんでしたけど、後で班長、「あんときは秩父へ疎開していた書類を取りに行ったんだけど、似てるなあ、小久保にそっくりだな、あの男はと思っておれも見ていたんだ」ということを言いましたけどね。でもまあ乗る電車が反対方向だったですから、わたしは秩父のほうへ向かうし、班長は疎開先から持ってきた書類を持って、これから浦和の司令部へ帰るとこだったですけどね、別に声をかけられるでもなく、とがめられることなく、そこは通過したんでしたけどね。あのときから、おまえのその潜行は失敗するぞっていうことの予告だったような気がして、なんかだいぶ後味が悪かったですけどね。それでその秩父鉄道の終点まで行ったら、もう日が暮れてどうしようもないから、駅の前のあれを見たら、その旅館っていう看板が目に入ったんだね。そこへ一晩偽名を使って泊まったわけですよ。それが16日の夜で、翌日の17日にはずうっとてくてく歩いて、先ほどあのあなたが言われた雁坂トンネルの入口近くまで行って、そこへやっかいになって泊まったわけですけどね。

両神からあれ越えるときか、その稜線を、山を突っ切って稜線を越えたというときに、秩父のね、山のその山並みを見て、これだけの山があって谷があって、どうしておれ一人潜るとこがないんだろうと思って、ちょっとセンチメンタルな気持ちになってね。ちょうど拳銃の試射をやった所だったから、これで、これをこめかみに当てて引き手と引きゃ、もう万事休すで、何もかも終わりになるんだなと思って。そんなセンチなことを考えたこともあったですよ。だって、いっかどこを訪ねても、置いてくれるっていうとこがないでしょう。

だから16日の朝出かけて11日目だったかな、12目。で、さっきの話の、何ともなくとがめられず出た営門をまた何も言われない、言われず入れたけれど、部隊から行って中隊廊下で脚半を、巻脚半を脱いでいたら、今彼は横浜にいるのか、何つったっけ、彼が飛び出してきてね、いきなりあの僕の腕つかんで、「そんなものいいから、早く早く来い」っちゅうわけで、強引に引っ張り込むのが、僕が前いた下士官室なんですよ。「何だ、もう罪人扱いにするのか」ったら、「そうじゃないんだ」って。「貴様は拳銃を持ってるから、中隊長と会ったらきっとけんかになるから、もし拳銃でも放たれたら大ごとになるから、あなたに引っ張り込んだんだ」。だから「そうか」って、それは感謝を言ったけど。「その後どうだい?」っつったら、衛士隊っていう新しい組織ができて、古い兵隊はみんな復員してしまうけれど、彼は教導団での下士官志願の伍長だったですけどね、「おれたちとそのいちばん年の低い1年生だけは、衛士隊という名称になってここへ残るんだ」っちゅうわけでね、今その今までの軍服の色を黒に改めて、自分たちで今一生懸命染色をしてるんだ、話なんですよ。で、「おれもこれからどうしたらいいかな」って。「どうしたらいいって、あんたが言ったとこでしょうがねえだろ」「じゃあそういうことだ」と。

「こい」って言うから、中隊の人事課の事務んとこまで言ったら、中隊の事務室として、なぜその自分が離隊したか、あの男がどうして逮捕になるんだか、連隊本部のほうへその上申書を出さなきゃならんっていう。で、大体出来上がったんだけど、読むからちょっと聞けっていうわけで、聞いてたらそんな何のことはない、やっぱり最後の終戦のときの、あの敗戦という出来事に大きなショックを受けて、前後のわきまえもなく飛び出したんだというよなことが作ってあるわけなんですよ。何くだらねえこと言ってるんだと思ったけども、ここであんなことを言ったってわかりっこないと思ったから、「ああ、それでけっこうですから」ったら、その上申書が連隊本部へ取られたらしくて、いついっかに軍法会議へ行けっていうわけでね。

そしたらあれだ。いきなり若い法務官が、「貴様ら、もってのほかのやつだ。戦争に負けたんだけど、貴様らのような不心得者はこれから、これからシンガポールへ送って、米軍のカレーライスを好きなほど食わしてやるから、そう覚悟しろ」とか何とかって、発破をかけられてね。それからお説教が終わってから、一人ずつ別な法務官へね、行かせられて。わたしはちょうど何か白髪まじった初老の法務官で、そこでその血書のね、あれ、小指の頭包帯してたもんだから、「それはどうした?」とか何とか言われて、「いや、これはちょっと不器用して」。「いや、何もかもわかってる。あんたらが考えてることはわかってるけど、この際そんなことをやったって、米兵の一人や二人倒したところで、日本の不利になればって、決してプラスにはなんないから、そんなことは心得違いなんだから、直すほうがいいから」って、30分ぐらいやられたかな。
それで帰ってきて、それでまあ一連のその離隊騒ぎは決着したわけなんだけどね。終戦のときの反軍的な行為は一切積罪に問わないということなんだそうだというのは、復員後聞いた話ですよ。

どういうあのあれが受けるかっていうことはね、全然わかんなかったですから。「法務官殿はそうおっしゃられるけど、おれはここで死ぬけども、とにかく神州の不滅を信じて喜んで死んでいくんだなんていう、その特攻隊のあれが、気持ちがわかりますか」って言ったら、「それは君ばかりじゃなく、わたしにだってわかるよ」。「それだったらなぜ、国のため、皇室のためを考えて離隊したわたしたちの非を問うんですか」って言ったら、「ま、いい」とかって、適当なことを言ってましたがね。結局、そのときにはもうすでに、こいつらの罪は問わないんだってことは、法務官は承知してるようでしたよ。結局あれは全国的に、あの終戦のときの軍令違反は罪にはならなかったんです。

Q:そういう行動に出たことをですね、今思うとどうだと思いますか。

まあ端的に言うて、若気の至りだったと思いますね。何かその大勢にもう少し順応しながらでも、皇室温存の方法があったかもしれないですよ。

杞憂(きゆう)に終わっちゃったわけだ。思い過ごしでね。何にも起こらなかったんですから。

Q:今振り返るとどう思いますか。

どう言ったらいいんですかなあ。昭和天皇があの全国行脚をしたときには、各地の近衞兵はみんな、元近衞兵っちゅうその横断幕を掲げてね、みんなどこでも天皇を迎えたですよ。あれは何か連隊か何か、連隊会か何かの指示があったのかな。まあ何ていうか、僕らのような考え方っていうか、頭の人間は前世紀の遺物ですよ。まあでも近くおいとまするんだから、それはそれでかまいませんけどね。

じゃ何でそんな夢中になって守るために、あんな山ん中を分けて歩ったりなんか。ろくに人も会わない、今日行ったあれだって、何というか、深山幽谷の形容がぴったりするような所だけど、今のように道路が舗装にされていたり、ガードレールがつけられたり、山崩れ防止の処置がしてあったり、ああいうことは全然しない山の中を、とにかく一人で歩ったんですからね。何がそこに駆り立てたかって言われたら、それはわたし自身にもよくわかんないですよ。ただ当時とすれば、絶対に皇室は守るんだと。それだけ。

とにかくこれを越えて向こうに行ったんですから。

Q:山を越えたんですか。

これをね。向こうへ。

Q:この山を越えたんですか。これ。

そうなんです。

Q:すごい山ですよ。

すごい山ですよ。だからあのときに考えてね。秩父の山を甘く見るもんじゃないなと思ったけれど。

とにかくこの辺の稜線で拳銃の試射をやって。これで良しという事で。向こうへ降りたわけです。

Q:ここで拳銃の試し撃ちをしたんですか。

そういうわけですね。どっか分かりませんよ。とにかくこの辺です。これはだけど、ずっと両神山の最後の家が二軒だかしかない、・・・ところまで行って。それでここまで引き返して来て、とにかくこの辺で道が分かれているからこっちへ行ってみようと思って入ったら途中で炭山のところで道がなくなっていたわけですよ。まぁ構わず山越えしようと思って、この山の中へ入っていって稜線を越えたわけです。ここの上から向こうの奥秩父の方を見ると、すごく午後の山並みがきれいに見えた記憶がありますよ。でも、今考えてみれば一人でよく来たもんですよねぇ。

ただこの稜線上でその向こうを眺めたときにね、これだけの山並みが続いていて、どうして俺一人が隠れる場所がないんだって。面倒だったらこうやってこめかみにあててこれを引き鉄を引けば万事解決するだっていう気持ちになりましたね。若干ね。この稜線の上から向こうがよく見えるんですよ。

Q:自分の死も覚悟しての…。

もちろんそういう事ですね。どうですかな、今の24歳の若い人は。そういう時に、どういうふうに考えますかな。

出来事の背景

【昭和二十年八月十五日 玉音放送を阻止せよ ~陸軍・近衞師団~】

出来事の背景 写真 明治24年に創設された近衛師団は、天皇と皇居の警護に当たる部隊で、全国から優秀な兵が集められたいわばエリート兵団であった。しかし、この近衛師団は二度にわたってクーデター事件にかかわった。
昭和11年の「二・二六事件」と終戦間際の「宮城事件」である。

「二・二六事件」では、近衛師団の一将校が率いる部隊が元首相の高橋是清大蔵大臣を襲撃・暗殺した。

 「宮城事件」は、ポツダム宣言受諾決定に対し、徹底抗戦を叫ぶ陸軍の若手将校が引き起こした皇居占拠事件である。彼らは、東部軍と近衛第1師団を決起させようとし、森赳近衛第一師団長を殺害。ニセの師団命令を出し、近衛師団の部隊に皇居を占拠させる動きに出た。天皇の終戦の詔勅の放送「玉音放送」を阻止しようとしたのだ。

この部隊は、8月14日深夜から15日未明にかけて、「玉音放送」の収録に立ち会っていた下村情報局総裁などを監禁したうえで、玉音放送を収録したレコード盤を奪おうと、宮内省など皇居内の建物を捜索した。さらに、当時内幸町にあった日本放送協会も襲撃した。

この動きに対して東部軍管区の田中司令官が鎮圧に乗り出し、クーデターは失敗に終わり、15日朝には鎮圧された。8月15日正午、昭和天皇による「終戦の詔勅」の朗読の放送「玉音放送」は何事もなく行われた。

証言者プロフィール

1921年
埼玉県入間郡高麗川村にて生まれる。
1936年
高麗川村尋常高等小学校卒業。
1942年
現役兵として近衞歩兵第二連隊に入隊。
1945年
宮城事件。当時23歳、伍長。東京にて終戦を迎える。復員。復員後は農業を営む。

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