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チャプター

[1] チャプター1 ソ満国境からフィリピンへ  03:16
[2] チャプター2 魔のバシー海峡  02:06
[3] チャプター3 物資の揚陸ができない  03:15
[4] チャプター4 「自活自戦」  02:50
[5] チャプター5 「斬り込み」攻撃  07:46
[6] チャプター6 過酷な敗走路  04:03
[7] チャプター7 飢えとの闘い  01:57
[8] チャプター8 極限の退路  01:22
[9] チャプター9 頬(ほほ)をなくした死体  03:45
[10] チャプター10 終戦のビラ  01:54
[11] チャプター11 捕虜収容所  06:50

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再生テキスト

19年の8月に10連隊へ、その、「フィリピンの逆上陸部隊で行け」という動員が下ったわけです。

わたしあの、ウラジオストクのすぐ近くに、日本のこのものすごいもう、少々の爆撃じゃ砲撃でも、どないもならんようなトーチカを作りよる、平時ですが作りよったんで。そこへ馬が必要なんで、物資をかごやら運んでいって、船から下ろしたやつをその陣地まで運ぶのをわたしが担当しとったんです。

それでフーキンという所におって、そして夜伝令が来て、「畑野中尉はあすの朝一番の船で連隊へ帰れ」という命令が来ましてな。それで、いちばんに船に乗ってあのジャムスへ帰ったんです。そしたら連隊長が、「お前はきょう付けで連隊副官になれ」と。「ええっ」ちゅうことでわたしもびっくりしたんですが、連隊副官にその日からなって動員の準備をしたわけです、南へ行く準備をしたわけです。

そうですな、もうわしのころは、「フィリピンへ行ったら生きて帰れんな」と思うとりましたな。

どうしていうてからもう、戦況がいろいろ悪うなってから、あのフィリピンもマッカーサーが来てからなにをしとったのを、逆上陸で押して行きよる日本軍の力があるということで、足りないから満州で鍛えて、戦争の準備をしとった10連隊、10師団ですわな、10師団へいよいよその、「マニラを奪回する逆上陸部隊で行け」という命令ですからな、「あ、こりゃもうちょっと、そう簡単にはこれは帰ってこれんな」とわたしは思うとりました、ええ。
それで、向こうへ行くのにもう船がなくてからもう、船が来るのを3か月ほど待ったわけです。それでもどうにも大きい船がないから、台湾へいっぺん行って台湾へ上がって飛行場警備なんかしよって、それから今度、船が都合がつくからというて、高雄からフィリピンへ向いて出たんです。

いやぁそれはね、わしここまで来たんじゃからもう、徹底的に敵をやっつけてですな、それであの、なにを、アメリカの兵隊が上がっとるやつの反対側から上がって逆上陸でやってやろうと、これは思うておりましたな、うん。

その前の船がね、行きよる途中で沈められました。それがわたしらの乗っとる船がものすごいスピードがゆるいので、7ノットですけんな。そやけん、わたしも対潜監視所に出とったんですが、敵の潜水艦が撃ってくる魚雷がな、「チチチョー行きよるぞー」言うてから、天眼鏡で見ると、前をズーッと走る、何本も。

で、もう毎日がそのように潜水艦が来ちゃあわたしらの船をねらいよんですけど、向こうが撃つ魚雷のスピードとうちの船が遅えんですなぁ、ほんじゃからわたしら助かったわけだ。それで、いちばんにずっとやっていきよるやつは、1台はリンガエン湾でやられました。

わたしらの乗っとる船は、10連隊の乗っとる船は、「もうこっち来たらだめだから、お前の船は遅えんじゃからアパリへ、フィリピンのいちばん北の端の港へ上陸せい」という指令で、ここへ上がったわけなんだ。

ああ、不安な気持ちがありましたな、ええ。ほやけど、これはもう船で向いてから行きよるわけじゃから、結局向こうへ着いたらその、港じゃなしにちょっと入り組んだ湾の中へ入ったんで、船が近くまで入ったらもう出られんようになるから、大きいヨットかせいぜいちっさい船、人間も何もかにも詰め替えては、陸へ行ってからそれを揚げたわけです。

それでね、揚げておるのが2日ぐらいおりましたら、敵の飛行機が来よると。ほんで爆撃されたらまたこれはダメだから「もう出るぞ」といって、結局、「船があすの朝何時に出航する」と。まだ半分ぐらいまだ荷物が下りとらんのにな、「もう船が沈められたらそうのうてもないんじゃから、もう沈められないけんから逃げるけん、出るぞ」とこう言う。連隊長も「しかたがないからもう出え」ということでね。

持っていたやつの食糧・弾薬もだいぶ残っとる。ほやけどもどうするわけにいかんのです、それがもう、時間がかかってな。港ならトットットッと下りるけども、船へ積んじゃあ向こうへ行って、残ったらまたと、そういうことで、結局積んだまま持って帰えってきてしまう。それからもう毎日空襲ですわ、ええ。

Q:もう、着くなりねらわれるような。

ええ、それでも、連隊長は、「ここへおっちゃいかんから、もうすぐ出る」いうてから、もうずっと行軍でずっと南へ向いて戦場へ出ていったわけです。

ほんやから戦争をするのにまぁ、敵はもうものすごい物量で来るからな、ドットコドットコ撃ってくるんだけれど。日本のはもう弾の数がわかっとるから、「きょうは3発、あすはもう2発にせい」というてからもう、1日でも弾があるようにあとの残りを測りながら撃ちよるわけです。ほやからもう、効果のある弾でないともう撃たんようにして、向こうが来よる間はもうジッとしとるわけ。

それ以後1回も、日本の飛行機もそれから船ももう1回ももう、1年あまり港には来たことないんですね。ほやから補充は無しで。

それでね、荷物がのうなってしもうたら、今度はまぁ、わたしがいちばん心配しとった「こめを盗んで送れ」というやつ。現地の兵隊もこめがのうなってきた。

ほいであの、あすこのフィリピンのほうはね、木で足をこしらえて、上へ社をこしらえて屋根をこしらえて、そん中へ稲の穂を積んだやつを束にして、それをずっと詰めとんのや。穂ばっかりを束にして詰めて、ほいでこうやって売っとんのがもう、穂をおえ、百姓の家はもうみんなそれがあるわけだ。

で、それを開けると中にもうもみのついた稲の穂がいっぱいあるから、それをもう、みんな逃げとっておらんから、もろうて牛車へ積んで、そいで水牛ももろうて前線へ送るのが今度の仕事やねん。

Q:じゃあ食糧調達を。

うん、食糧調達。弾薬はもう送ってしもうて、薬品も送ってしもう。もう持ってきたものはもうみんな送ってしもう。ないから、それでもう前線へ行ってからわしももう「早う戦争がしたい」と思いよったんですけどな、「いやいやこっち来たらいかん。食糧がもう無うなってからもう、現地の者はもう食わずにゃおらないけんし、もう草を食いよるから早うに送れ」言うてまたそういう命令が来て。結局、わたしは現地のこめを頂いて前線へ送る仕事をしよった。
でも、あんまり長うなるから、もうわしもこりゃもう、こがな盗っ人けうよう仕事はもうこらへんはあらへんと思うて、行ってから連隊長に会うて、連隊長、「じゃけん、中尉がこの間、斬り込み(きりこみ)で死んだ」いうたけど、中隊長に、「行かしてくれ」言うてから、「行かしてもらえんか」いうて頼んだんです。

そしたら「貴様、お前何を言いよんな。現地のもんがおめえ死んだいうてから、お前の仕事を誰がすんな。みんなの命を預かっとんど、行け。早うすぐまた帰ってから送れー」言うて、逆に連隊長には怒られて。

斬り込み(きりこみ)隊で行くいうのはどういう方法で行きよるんかいうて言うたらですな、山の上へおるのがずーっと下へおりて谷間へ降りるわけです。そしたらですな、戦争をしよるのは上じゃから、谷間へは弾薬、爆撃したり何やかやそりゃ外れの弾は落ちるかもわからんけれども、ほとんどもう谷間は弾が来よらんの。

その谷間をずーっと川を伝うて敵の後ろへ回っていくんです。そやから、食糧を持っとるいうても食糧もねえからもう、草とか何やかんや食い食い、魚とって食うたり食い食いずっと行って、何日もかかって敵の後ろへ行くんです。

弾を、「あすこは弾を積んどるな」いうのがわかるわな。そういう所へこっちが爆弾をしかけてから、バーンとやってから弾を撃たせんようにしたりするんじゃけれど、それがもう応えんの、少々1か所や2か所爆破されたって何のことはない、もうトラックがなんぼでも来よんのやから。

それで方法を変えて、陣地の中へ行ってから人を殺すいうことを、もう兵隊を殺す以外に手がねえぞいうことで、斬り込み隊はもう宿舎の中をねろうていったわけやぁ。ほんでできるだけ、兵隊が寄るときいうのは昼食とか朝食とか夕食とか、みんな食事を食べに寄るとき、それをねろうてこっちから持っていっとる手りゅう弾や機関銃やなんやかんやで。

みんなこれは、あの、何にやってきてから「夕食を始めたぞ」いうときにねろうていって分散しとって、隊長が「よし、やれっ」ちゅうたら、ダーッと行ってから、いっぺんに手りゅう弾を投げたり、それから何をしてからもう、とにかく敵ができるだけ無防備でやっとるときに押し込んでいってやるわけだ。それは効果があったらしい。

それで敵がな、斬り込み隊が来るのでもう周りへ鉄条網を何重にも張って、それでもう電流の高圧かけてな、そうしてその、入ってきたらわかるようなことをしてそれでやっとる。今度はそれを切ってやらにゃあいかんのんで、まぁ日本の斬り込み隊もな、かかって死ぬのも大勢おったらしいんじゃけぇど。

今度は、その逆を向こうがするから、今度はまた逆にそれを切って入ることを考えたりな、それから、穴掘ってそこの鉄条網の所を下をはいはい行って向こう側へ出るいうことを考えたり、方法を日本も考えて向こうへ入ることを考えて、そういう斬り込み隊をしよった。ほんだから、斬り込み行ったら1週間から10日、もう10日たって帰ってこなんだら「おお、もうこれは戦死しとるぞ」とわかるのじゃから。

それはね、斬り込み隊へ行って敵の陣地を襲うんじゃからなぁ、ほじゃからもう到底もう生きて帰れん。ほやからもう「おい、あしたの朝やるぞ」というように段取りができたら、もう終わりなんじゃ。ほじゃから、斬り込み隊に出ていくときには、もう帰ってこれんなということで、恩賜のタバコをみんな1本ずつもろうて、そうして遺書を書く者は遺書を書いて、それで出ていっとるわけなんよ。

食糧はねえわ、弾はねぇんだろう、補給をもう全然考えられんし、もうできるだけ敵を困らすことをやる以外に手がねえんじゃ。それでもう「何日かかってもええからあの陣地に行ってから、敵をやっつけてこい」いうことで、斬り込み隊いうのをやりよった。

結局な、斬り込み隊要員を「誰と誰と誰は斬り込み隊へ行け」というのは割合少ないんで、「おい、次は何人斬り込み隊要員のなにを募集するぞ、希望者は言え」というてから、希望者をまず募るんだろうと思う。

もう希望者ばかりじゃ。もう、早よ死なにゃおえん、これいつまで続くんやいうことで。ほやからもう、「よし、そがん大勢要らんのじゃから、こっちから指名する」いうことになるわな、隊長が指名して。

うん、ノザキいうのがあった、ノザキ隊いうのがあった。あのノザキ隊は中隊長以下が斬り込み(きりこみ)した、もう、「到底これはもうダメだ」ということで、中隊全部、「わしの中隊はもう全滅になるけれど、斬り込み隊に行くぞ、残りたい者は残れ」言うたき1人も残らへんねん。皆「行く」っちゅうて。ほいで、中隊が何人おったんかな、ノザキ中尉は中隊長以下斬り込み隊に出ていって、その代わり戦果上げたよ。1つの陣地はな、ほとんど全滅した言いよる。

うん、敵が。そいで、そのあとがもう大変だったんじゃ。タッタカ、タッタカ、タッタカ、タッタカもう爆撃から砲撃からなんかがもう陣地に向こうてから倍ぐらえ来やしたんや。

お返しも激しい。そやからもう、斬り込み隊が来るいうことでな、夜間の警備が激しゅうなってな。ほじゃから、近づくのがもう大変じゃったらしいんじゃけぇど。

結局、「斬り込みに行かしてくれ」いうことを2、3べん言うたんじゃけど、結局わたしはもう行かしてもらえなかった。

もう苦しいから。もうわしは人のものを盗んでからが、盗むんが仕事じゃけんなあ。そいで盗んでもう、それは現地の人は逃げてからおらんのじゃけん構わんようなもんじゃけぇど、結局わしはもう、こんなことをしよってもいけんし、それから盗んだものを送るいうてももう送るものがないから、水牛や馬車また調達して盗んできてから、物を現地へ送っちょってもたいした量じゃねえしな、兵隊が多いのに。

あのバレテ峠をやられてな、それで連隊長以下転進命令が下ったんじゃ。「ああとうとうもうダメになったなぁ」いうて、それで転進命令が下って後ろへ下がるようになったんだけぇど、あのう五号道路いうて大きな道路は米軍が中心で、ダーッともう戦車先頭になぁ、もう次の都市へ直通で入ってきた。

「あらー、もうあっちはあんなほうへ行ったんじゃって」いうてから話しを聞いたんじゃけどな、もう米軍が戦車を先頭に、ドッドッともう大きな道路に沿うてなにしよる。それで、わしらのような日本の兵隊は、ジャングルの中へ全部逃げた。道がねぇ所へ。

そしてひとつの部落へ行ったら、まぁそこの付近で陣地になるような所へまた陣を引いて、それでそこで後退する兵隊を援護する、あのう「後退援護」じゃ、後ろへ下がる者の援護をするのを止めとくのをやって後ろへ後ろへ下がっていった。

そいでな、ジャングルの中へ入ったらな、そしたらあのうジャングルの中にその、通路がな、わからんようになる。下草がぼっこ多うて。そういう所はな、木の葉を折ってな、逆さにつり下げてそれで印をするようにして、それで木の目標にしていくような形にしてから印つけていきよった。それももう連絡してな、こういう印のついてあの、「この木の枝が逆さになっとる所が目標じゃ」言うてから「いうて言え」いうてから連絡してから、それをつけて進路を間違わんように。

そいでな、川へ行きよったら、ものすげぇようけ魚がもうウヨウヨするぐれいおる所がある。そしたらまたこれも早うに連絡してな、「今度魚食おうじゃないか」いうて、そいで下のほうにちょっと浅うなった所がある、そこへ兵隊をずーっと並べてといてな、こっちにな、離れた所へ手りゅう弾を投げ込む。それで一発投げ込んだらもう魚が嫌っちゅうほど浮くんじゃ。

そいで下へ兵隊をやっとってから、バンバンバンバンもう魚をすくい上げる。ほいで、それをみんな兵隊に配ってそれで食わしてやる。喜んでおいこんだ、「魚のごちそうじゃのう」言うて。まぁ逃げるときにはそうやって飢えをしのいどった。

ジャングルはありがたいんじゃ、草があるんじゃ。ほいで「この草は食える」「この草は食えない」いうてからもうよう知っとる。かんでから、「おうこれはいけるぞ」というたらもう草食うんや。

塩をもう食うとらんけん、みんなかっけのようなんじゃ、足が腫れたりなんやしてから、「塩が欲しいなぁ」言う。

そりゃなぁ、まぁ猿なんかな食べたことがねえでもう、猿でもよっけおるんじゃけん、弾がねえけんな、猿撃ついうたらもういよいよ、「おいあの大きいいちばん大きいヤツをねらえよ」いうてねろうてから、弾が惜しいけん、ようねろうてからバーンと撃って、落ちるわな木から。

そしたら行って取ってから、皮むいて肉にするんじゃけぇど。みんなな、手から顔から足からな、「どうも猿はおい人間の皮をむくようじゃからかわん」いうて、「おえんのう」いうてからみんなそのなに、猿を取って食おうとせんのんじゃ。

じゃけどあのう、詰まったときにはな、「これはお前、猿の肉じゃねえぞ」いうてからそれでやりゃあ喜んで食うんじゃ。猿の肉はおいしいんで割合。ほいじゃけど料理をする者がな、もうわしが「猿の料理をせい」いうたら「嫌じゃあ」いうてからな、人間を料理すると一緒にされるけん手も足も顔もあるけんな、「気持ちが悪い」いうてな、皆もう猿はぼっこ好まんの、ようけおるんじゃけどなあ。

ほらな、川の所へ行ったらもう日本兵の兵隊がズラーッと死んどんじゃ。最期の水を飲みにいって死んどる。その中でな、初年兵のええ靴履いとるのがおって、わしゃあ靴のここが口を空いてな、そいでかずらの古いやつでくくって歩きよったんじゃけぇど、なにが兵隊が見つけてくれてな、「隊長、靴、そがんごとしよるけど、良い靴はいとるのがおるで」ってから、「寸法見てみねぇ」いうてから行ってみたら、わしの寸法と6.5じゃ。

「こりゃええわ、もらうわよ」いうてから、「おうもらいねえ」いうてから、そいでいまいったら肉がひっついてひっついてきてな、そいで皮がむけたんじゃけども、ええ靴じゃけん2つとも脱がしてから、川で肉をずーっと落としてな、それで洗うて、それでわしの破れ靴はかしていって、皮がむけとるけんスッと入るわい。

もうあのう死んどんじゃけんな、この両方の肉が取れとんじゃ、ほうじゃけん、太って肉がかなりあったんじゃろうと思うんじゃ。それをほじくって取って食うとんじゃろうと思うんやけれど。そがいにうまいこと取れるじゃろうか。いつ取ったかそれはわからんもん。死んで間がねえときに兵隊がそこを通って、「ありゃ、こいつよう太っとる、肉食うちゃれ」いうてから取って食うたかもわからんのや。だけど、そういうことをしとるのは見ました。「きゃっ、えれえことをしとるのう」と思うた。

死体を見た、死体を見た。もうそのときにゃあなに、ほかのほうの肉もだいぶもう落ちとってな。手なんかもまだなにが骨ばぁじゃなかった。

結局ほっぺたが、服を着とるんじゃけんな、ほっぺたがいちばん見えるわな、うん。死んで間がなしによう太ってから、肉がありゃあ、「ほっぺたの肉を食うてみちゃれ」と思っとって食うたんじゃねえんかな。ほっぺたの皮が2つともねえんじゃもん、おかしいわそりゃ。

鳥や、それからサルなんかが肉とって食うとるいうて、そりゃあねえからなぁ。そりゃ人間がやったのに違えねえんじゃよう。そのときおるのは兵隊しかおらんもん。

どういう気持ちね、だから、「もう飢えたらなんでも食うて食いてぇんじゃろうな」と思うたんじゃけどな。悪いことをしたろうと思うてから食うとんじゃねえで、もう自分がもう腹が減ってもう食いとうて困っとってそういうことをしたんじゃろうと思うけどなぁ、わからんけど。それを見ただけでな、「えれぇことをしとるなあ」と思う死んどんじゃもん。ほんときその、なんじゃけんな、ほじゃけん、どんな気持ちかもわしらにはわからんけぇど、もう自分がもうなんぼにも腹が減ってもうたまらんけんやったんじゃねぇんかと思うな。

いや、そりゃあな、やっぱし戦争いうものはこういうもんじゃと思うな、人間の極限から極限まで戦うんじゃな、ほじゃから、どうも戦争いうものは、あー、あってはならんことじゃけれども、どうしても国と国のいきさつになりゃ、衝突ができるんじゃろうなあぁ。

みんなな、地獄を見る。もう地獄の再現じゃ殺し合いじゃけんなあ。

そのころはもうな、8月の15日を過ぎてな、敵の飛行機が全然来んようになった、うん。ほいでな、あのう敵の飛行機がな、話しをしとらんけど、逃げる途中にあのう広島爆撃、「原子爆弾を落として広島市全滅」、それから「長崎へ落として長崎市が全滅」というビラをこう投げてくれたんじゃ。

そのビラがまたありがとうてな。あのう背のうの後ろへな、岩についとる草、あのう背中へぶら下げてから、じきにな光が強えけん茶色になるんじゃ。その茶色をな、あのビラでクルクルッと巻くうてから葉巻にしてすうんじゃ、タバコのかわりに、ほいじゃけん、はあもう、ビラは喜んでみんな集めて持っとった。

Q:そのビラの中身も信じなかったんですか。

もう信じりゃへんが、「東京を爆撃した」やれなんじゃいうようなこともあるけぇどな、もうなんぼでも爆撃せい、ビラをしっかりもろうとけ、いうような調子じゃ。たきつけにもするしな、くすぶりよった。

もう農民が作ったものをこうやって黙って頂くいうことが心苦しいけれども、これが日本の兵隊を生きさすもとじゃと思うてわたしはもう考え方変えてな、「こりゃあもう与えられた貴重な仕事じゃ」と思うて辛抱してやったんで。

その代わりな、武装解除されて、そして米軍のジープでマニラのあの収容所へ出てきて、出てきてからら毎日フィリピンの首実検があるんじゃな。フィリピン人がな、3、4人来てから、ずーっと兵隊が並んどる中で「この人です」いうてから言うたら、「はい」MPがすぐ連れてなもうそこへおらさんのん、ずーっと連れていって、それで「おい、あれはどこへ行きよんな」いうたら、この山の向こう側へユンボで大きな穴を掘らしたんじゃ」言うて、穴のこっちへ立てっとりゃいいって、ボーンとやってからドーンとひっくり返えって、もうその穴ん中ぇなすぐやる。

処刑。ほんでそれを聞いてな、「こりゃあわしはもう生きて帰れんな」と思うた。フィリピン人がじゃな、「この人です」いうてから言うたらじゃな、そのくれぇ悪いことしとんじゃもん、わしは。ほんじゃけんもう、いつもわしゃもう、なにを書いてな「きょうでお別れします」いうてからなにしてな。
遺書。ほいで「けいじゃ簡単じゃけん」いうて、だんだん遺書もよけい書くようになってな、そいで、その遺書を隣のなにに頼んでな、「お、わしの遺書じゃけんのこれを頼むぞ」言うて、「おめえ毎日そう言うんじゃのう」言うけん、毎日ね、「わしゃあもう悪いことしとるけんのう」いうてから言うた、「何をしとんな」言うけん「もう言わん。そんなこと言うてもおえんけん言わん」言うて。そいで、わしはもう言わずに「遺書じゃ」いうてから、隣のなにして。

その隣がやられたことがあるんじゃ。「ありゃ、きょう隣のなにがやられたぞ」言うてから、「ありゃ、ほんまや」言うて。そいで、それがたまたまそこへ入れとってくれとんねん、わしのを。ほんで、わしのを持たずにほんなら、「これ入れてくれとらぁ」と思うて、そいでわしはまたほかの人にまた翌日持って行ってな、毎日わしはもうその遺書を誰かに頼んで行きよったんや。

「なんな?」いうてみたら「遺書じゃに」言うて、「わしゃ指名される可能性があるけんの」言うて、「ほんまんや?」言うて、「そんな悪いことしとんかい」言うけん、「おう、しとんねん」「どがんことをしただ?」いうて、「それはもう言わん」いうてから、わし言わなんだ。

それで毎日なにした。結局わたしの近くまで来ても、「ありゃ、今度はわし来るぞ」と思うんやけど言わんからな、それで生きとう。あれ、「これです」いうて言うたら、わしは死んどる。

うん、もう毎日素通りすんねん。ほやけん、「おお、これじゃ」いうて言うたらわしはもう覚悟しとるじゃから、「はい、よろしい、行きます」いうてから行くつもりじゃった。

Q:でも、見つからなかった?

見つからなかった、「きょうは首実検ねえのう」いうてから、しまいころにはな、首実検を毎日じゃのうて1週間に2回ぐらいしてから、来んようになった。初めのうちは毎日、1日に3べんぐらい行きよったんや。

うん、しかたがない、わしゃもうそれだけのことをしとんじゃと。で、農民の一生懸命作ったそのコメと、それから水牛、馬車、こんなのを何台ももろうとるな、なにしとるのをひとつも返すことはない、皆もう、もらい得でなぁ。そりゃもう誰かがわしの顔を見とって、「これじゃ」って言うどうと。

終戦後、帰ってもわしは話、しません。そういうふうなことをあのうどういうんですかな、いうて喜ぶもんでもないし、自分も好んでしたもんでないんじゃからな、ほじゃけん、わしはもうそういう話はせんので。
ほやけど、わしが持っていったこめでな、息をながらえてくれた兵隊もな、そりゃあ相当あると思う。それがもうわしのこう慰めの気持ちじゃな。

上官の命令に従って軍隊を過ごしてきとんで、結局どういうんですかな、戦争は負けて苦しいことになったんだけぇども、こりゃもうわたしはしかたがないなぁと思うし。
                    
それから、終戦後生きさしてもろうとるから、できるだけその社会のため国のために尽くさにゃいけんなと、死んだもんの代わりぐらい一生懸命やらにゃいけんないうふうな気持ちも確かに持っておりましたな。

ほじゃから、いろんなことをしとんのや、わしは。まぁ、ええか悪いかはわからんけれど。

出来事の背景

【フィリピン最後の攻防 極限の持久戦 ~岡山県・歩兵第10連隊~】

出来事の背景 写真昭和20年(1945年)1月、米軍は空母12隻を含む大艦隊で現れ、フィリピン・ルソン島に上陸。首都マニラと、日本軍司令部の置かれた北部に向けて進行してきた。

日本軍はこの地で、敵の日本本土への進行を遅らせるための持久戦を強いられた。その兵士の数は八個師団を主力とする、およそ30万人。補給も援軍も望めない状況におかれ、「自活自戦永久抗戦」という方針で戦い抜くよう命じられた。

10連隊は、ルソン島中部にあったバレテ峠に陣地を築いた。
バレテ峠は、島の北部に抜ける、幹線道路が通っているため、敵の北上を食い止めるには、死守しなければならない要衝だったのだ。
制空権を握っていた米軍は上空から日本軍のざんごうを次々に爆撃。さらに地上からもブルドーザーで道を切り開きながら、進撃、絶え間ない砲撃を加えてきた。
武器弾薬が欠乏する中、命じられた攻撃法は、手りゅう弾や爆薬を抱えて敵の陣地に突っ込む斬り込み攻撃だった。斬り込み攻撃は米軍の激しい反撃にあい、攻撃に参加したほとんどの兵士たちは帰ってくることがなかった。
さらに食料が底をついた兵士たちは「自活自戦」の名の下、現地の田畑や倉庫から食糧を調達、事実上の略奪も起こった。

5月初め、バレテ峠の日本陣地は陥落。日本軍兵士たちに転進命令が下され、密林地帯を敗走することとなった。日本兵士には想像を絶する飢えと渇きが待ち受け、多くの兵士たちが命を落としていった。

証言者プロフィール

1919年
岡山県倉敷市に生まれる
1940年
満州ジャムス駐留、国境守備に当たる
1944年
台湾駐留を経て、フィリピン上陸
1945年
連隊本部付きの中隊長として物資の搬送、調達を命じられる

関連する地図

フィリピン(ルソン島)

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