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タイトル 「揺らいだ日本軍への信頼」 番組名 [証言記録 市民たちの戦争] 悲劇の島 語れなかった記憶 ~沖縄県・伊江島~
氏名 知念 金一さん(沖縄戦 戦地 日本(沖縄・伊江島)  収録年月日 2010年5月12日

チャプター

[1] チャプター1 やってきた日本軍  05:09
[2] チャプター2 日本軍への協力  01:29
[3] チャプター3 揺らいできた軍への信頼  04:55
[4] チャプター4 米軍上陸  04:01
[5] チャプター5 姿を変えた生まれ島  04:20
[6] チャプター6 トートーメー(位牌)  01:59

再生テキスト

それは覚えていますよ。ともかくもうその当時はわたしどもももう青年になっていますからね。もう日本軍が上陸してきて、タッチュー(城山)のふもとに陣地をみなそれぞれ作っておりましたんで、そのころから、ああもうこれは戦争は間近に迫っているんだなという、その気持ちは痛切でしたね。もう本当に、日本軍と言いますと、この沖縄のみじゃなくて本土からもかなりの兵隊が押し寄せてきますからね、びっくりしました。特にこの伊江島は小さな離島でありまして、こんな孤島に日本軍が来るなんて何かなというような、非常に、つまり戦争がもう間近に近づいてというふうな感じもしましたですがね。それでいつ米軍が上陸してくるのかなっていうような、そんな心配もあったです。

もう飛行場建設にはだいぶ難儀しましたよ。それも、そのころ機械というのがこの農村では少なくてですね、馬車、馬に車を引っぱらせていくわけですよ。馬車って言っていましたけど。その馬車に土砂を積み込んで飛行場の埋め立てとか地ならしとかいうふうにして、いろいろ作業場はありましたけれども、わたしどもももう青年時代ではありますけれども、協力しましたよ。でももう米軍が上陸して、あの飛行場が惨めな状態になっちゃったことを思い出すと、もう残念でたまらなかったです。

Q:飛行場はどういう気持ちで作っていらっしゃいましたか。

あれはもう、結局日本軍に全面的に協力する、日本は戦争では日本軍が絶対に勝つんだと、そういう気持ちはもう確かだったですね。それで軍への協力というのが一番大事でした。

そのころはもう、日本軍への協力を惜しむということは全然あり得なかったですよ。全村民がもう村を挙げて、戦争には勝たねばいけない、そのためには日本軍への協力だというふうな気持ちは満杯でしたね。

別に直接日本軍との関わりはなかったですよ、わたしは。ただ、今おっしゃいましたように、日本軍への食糧供給というふうな意味では、こちらで生産できるようなサツマイモ、あるいは野菜ですね、野菜と言っても大根が主でしたけれども、そういうものを各部落で収集する時期があったわけです。日本軍へ提供するために各部落、今でいう公民館ですけれども、当時は各部落の部落事務所ですね、そういうところに集まって、生産した食糧を集めていきよったです。

もちろん当時の感じそのものは、もう戦争に勝つためには全面的に日本軍に協力は惜しまない、そういう気持ちは一番絶大だったですね。その後ろに、なんで住民をそんなにばかにしなければいけないかという気持ちも、もちろんちぐはぐはあったんですけれども、本当の、本来の気持ちそのものは、日本軍に協力して、日本が戦争に勝たなければいけないという気持ちそのものが大きかったですね。

それはもう、自分の家庭でもそんな気持ちは、住民をもっと大事にすべきだはずだがという気持ちはあったですよ。それはどっちかと言うと、日本軍が住民に対する強制的な言葉と言うんですか、話し合いそのものがそういうふうに感じられたんですね。

やっぱりそれ以前のことは、ほとんど日本軍が外国に戦争で負けたということは聞いたことなかったですよ。どこでも戦争では日本軍が勝っているんだという、その気持ちを一点張りに感じていたんでしょうね。米軍が上陸する前に米軍の空襲が始まったわけですね。そのときに、これはなんで日本軍が米軍に押されているのかっていう、違和感と言うんですかね、従来の信頼がなくなっちゃったような感じはいっぱいでしたね。もう壕(ごう)の中で各家庭、ほとんど避難壕を、空襲に備えての壕をつくってその壕住まいをしていたんですが、やっぱり米軍の空襲、射撃が始まって、これはもう日本は負けたなという感じはいっぱいでしたね。
この裏側の城山、つまり伊江島タッチューというんですけど、そのふもとには日本軍の陣地がいっぱいだったですよ。それで米軍はこの城山のふもとに日本軍が陣地をつくっているということをなんでわかったのか、そのへんをわたしども素人ではまったく何も感じませんでしたが、この城山のふもとを直撃なんですよ、空襲で。米軍の空襲はほとんど城山のふもとだけにやっていましたね。つまり日本軍の陣地を爆撃するという感じでした。

Q:空襲が始まって、いよいよ島が戦場になるかもしれないっていう危機感ってありましたか。

ありましたね。もう次々米空軍の空襲が激しくなっちゃって、もう自分たちの住まいの壕内では安全ではないというふうな気持ちで、みんな北海岸の自然洞くつに入って住んだんですよ。あのころからはもう、戦争が、空襲が激しくなっちゃって、もう日本軍は敗戦だという気持ちがいっぱいでしたね。

どっちかと言うと、日本軍への信頼感が大きかったということですよ。日本軍は絶対に戦争に負けることはないと、必ず戦争には勝つという信頼が大きかったんですね。ところがもうあの空襲の状況から、これではもう日本軍は戦争ではこれは勝てないなという感じから、その惜しい気持ちがたたずんで避難したわけですからね。

あのときの気持ちは、ちょっとなんと言えばいいのか、言い尽くしがたいですけれども、あの悲惨な状況はちょっと話しにくいんですけれども。日本軍をずっと信頼してきたのに、米軍に抑えられるということそのものが、悲惨でたまらなかったですね。

その気持ちは本当に言い尽くしきれないところがあるんですけれども、ただわたしどもは北海岸の壕住まいをしていたわけですが、そのとき、友人たちが呼び出しにきているんですよ。日本軍は米軍に負けちゃった、戦争は終わった、壕から出なさいというような呼び出しに来ているわけですよ。それで、じゃあ壕から出るとどこへ行けばいいのというふうなことで話し合ったですけれども、当時の日本軍の設備した飛行場の南側にみんな集まりなさいというふうなことなんです。それが米軍の指示だというわけですよ。それでもう、戦争が負けて、もう米軍の指示にも従わないといかんだろうというその気持ちで、北海岸の自然壕から出て、今度はまたずっと離れた飛行場の南端のほうに住民がみんな集まったんです。そうしたら今度は、米軍の上陸用舟艇が海岸に近づいて、みんなおりてこの船に乗りなさいというふうな指示なんですよ。それでもう住民も軍の指示に従わなければいけないわけですから、この米軍の上陸用舟艇にみんな移ったら、今度はこの上陸用舟艇が慶良間列島、渡嘉敷という島に住民がみんな移されたんですよ。座間味というところと渡嘉敷と両村に、両島に伊江住民が移されたんです。

やっぱり今話しましたように、つまり自分の家庭の壕住まいから北海岸の自然壕に移った時分ですね、そのころが一番悲惨な思いをしたですね。戦争に日本軍が負けるのかっていうあの気持ちだけは、もう本当に痛散ですね。

島に帰った当初も、実はずっと東海岸の近くに米軍のつくったトタンふきの、当時は米軍が利用した軍の施設だったと思うんですけれども、そこにみんな村民が移されたんですよ。あの当時の気持ちは、これでもう戦闘は終わったのかな、またこんな惨めな状態は、戦争のおかげで村民がこんなに惨めな状態になるのかと思った、あの悲惨な気持ちは今も忘れることができないですね。

覚えていますよ。ともかくわたしどもが島に帰ってくる以前は、もう島はほとんどサトウキビ畑、イモ畑、農地の全体がうまく利用されている状態だったんですけれども、2年後に帰ってきたら、みんな雑草が生い茂って、あの状況は、こんなに伊江島は大変な状況になったというような、あの痛散な気持ちは忘れることができないです。

なんと申し上げればいいかよくわからないんですけれども、ともかく戦争って本当に悲惨なことだなって、戦争の惨めさ、つまり戦争に負けた惨めさそのものが痛感してやまなかったですね。と言うことは、東海岸沿いにあった米軍のつくったトタン屋根の、なんと言うんですかね、もう名前も忘れてしまった、コンセットですね、に住民がみんなそこに村外から帰ってきて、そこに一時住まいをしていたんです。

やっぱり壕住まいをあちこち続けて、戦争を過ごしたことが一番悲惨な思いしますけれども。それと、自分の島でずっと生活が続けばいいんですけど、それもできなくて、慶良間列島、渡嘉敷島に移されて、2か年間ああいう惨めな生活をして、島に戻ってきたら、今度は島の現状そのものがもう元の伊江島ではないというふうな感じをしたんですよ。もうあちこちみんな雑草がボウボウで。あの当時の気持ちはちょっとなんと言えばいいのか、言葉の言いようもないぐらいですね。

あれは、一番上のほうはうちの父ですね。親父と、キンスケというのは兄弟です、弟です。あれがこの日本兵で沖縄本島で戦死したんです。下のは、ばあちゃん、うちの母親です。マツと書いてあるのは。

Q:皆さん戦時中に亡くなられているんですか。

いえ、親たちは戦後です。弟が戦争で亡くなったんです。

Q:どこで亡くなられたかわかりますか。

わかりますよ。沖縄本島南部のほうです。

Q:防衛召集されたんですね。

はい。わたしより2歳年下です。わたしなどは身長が2センチ足りなくて、第一乙種にしかなれなかったんですけれども、弟たちの時分からは、もう徴兵検査そのものがあまり、戦争状況が激しくなって、身長が足りなくてもみんな兵隊に徴用されたんです。

出来事の背景

【悲劇の島 語れなかった記憶 ~沖縄県・伊江島~】

出来事の背景 写真沖縄本島の北西に位置する周囲22キロの伊江島。
この島では、昭和18年から日本軍が飛行場の建設を進めて以来、島の人々と軍との一体感が強まっていた。昭和20年4月16日の米軍上陸後、島の男性は青年義勇隊や防衛隊に組織され、女性も女子救護班や婦人協力隊として軍に任務を割り当てられ、軍と行動を共にした。そのため、地元の少年が兵士の道案内役になったり、中には16歳の少年が爆雷を背負って米軍陣地に突撃したりした。また、女性も弾薬を運んだり、負傷者を運んだりするなど軍に協力した。なかには、竹やりを手に米軍に突撃した少女もいた。
さらに住民が避難していた壕のなかでは、身内が身内に手をかける集団自決も発生した。結局、住民のおよそ半数が、戦場になった「生まれ島(ふるさと)」で命を落とした。

4月21日、米軍が島全体を制圧。生き残った2100人の住民は、遠く離れた渡嘉敷島などに連れて行かれた。島に戻ることができたのは2年後。人々は、地下壕の中におびただしい数の遺骨を発見した。また、島の土地の多くは米軍基地として接収されていた。1950年代には、米軍は射爆場の建設などのために、人々が定住し耕した土地を強制的に取り上げた。住む場所を失った伊江島の人々は沖縄中を行進し、米軍の土地接収の非道さを訴え、1956年の「島ぐるみ闘争」として沖縄全体に反基地闘争が広がっていった。

証言者プロフィール

1923年
生まれる
 
役場関係者
 
戦闘開始以前に役場に雇わる
 
住民から食糧を調達し日本軍に収める役割を担う

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日本(沖縄・伊江島)

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