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タイトル 「壕で追い詰められた母」 番組名 [証言記録 市民たちの戦争] 悲劇の島 語れなかった記憶 ~沖縄県・伊江島~
氏名 並里 千枝子さん(沖縄戦 戦地 日本(沖縄・伊江島)  収録年月日 2010年5月14日、6月10日

チャプター

[1] チャプター1 のどかだった戦前の暮らし  02:29
[2] チャプター2 やってきた日本軍  06:02
[3] チャプター3 十・十空襲  06:31
[4] チャプター4 米軍上陸  01:37
[5] チャプター5 軍民混在の避難壕  05:59
[6] チャプター6 渡された手りゅう弾  15:58
[7] チャプター7 ひょう変した日本兵  02:34
[8] チャプター8 追いつめられた「母」  06:09
[9] チャプター9 人の心を変えてしまう「戦争」  07:52

再生テキスト

わりと戦前のうちも、なんかうちの父は戦前の家に凝っていまして、あのままを作るんだというような感じで、だからこの家も釘(くぎ)1本も使わずに作られた家なんですよ。だからわりと、下男も2人ずっと雇っておられて、だからわりといい暮らしだったかもわかりませんね。

Q:なんか楽しい思い出ってありますか、戦前。

ええ、楽しい思い出は、トミコと私はいつも遊んでいた。

Q:友だちですね。

はい。亡くなっちゃったんですけどね。あれも心が痛くて大変なんですよ。

いや、とっても楽しかったですよ。遊びに行くのも、親たちと一緒にお弁当を持って畑仕事に行く時はたくさんあったんですよ。馬車で行きますので、お弁当を作って行きますので、そこで、畑で花を摘んだり、チョウチョを追っかけてみたりとか、また野イチゴなんか摘んだり、とても楽しい思い出がいっぱいあります。

Q:じゃあ、本当に平和な暮らしだったんですね。

平和な暮らしだったです。生活レベル文化が進んで、それはわかりませんでしょう。だからなんと言うか、とても、あれには戻れないけど、もう一度ああいうのをなってみたいなとは思うんですけどね。

日本軍が来たっていうことで、日本軍が行進したりということは見たことないですけど、島に入り込んできて、ずっと道を歩くと兵隊さんとよく会って。でもあちらのほうがとっても、やっぱりあれは、田村部隊は中国あたりのどこからか来たんですよね。そうしましたら、やっぱりあちらのほうから話しかけてくるんですね、兵隊さんが。

Q:なんと言って話しかけてくるんですか。

「こんにちは」とか言って、「年はいくつか」とか、「学校へ行っているの」とかね。そして、あのころは方言ですから通じない場合もあったりして。

Q:じゃあ、いわゆる怖いっていうイメージは…。

いや、なかったですよ、最初は。

Q:あ、怖くなかった。

うん。日本の兵隊さんって、とっても。とにかくですね、上陸して戦争になってからが人間が変わるんですよ。

Q:じゃあ、まさに来てすぐの日本軍の人たちの印象ってどういう印象でしたか。

印象って、来たときには、ゴウシ軍医がすぐここに来るから片付けてっていう役場からの指示があって、大急ぎで向こうは、ここでは母が機織りしていたんですよ、それを全部片付けて掃除して、お迎えすることをしました。そしてすぐ来られて、「よろしくお願いします」ということでしたのでね。そういうあれで、とても良かったですよ。

優しいんですもの。やっぱり家族と言うか、住民と話せる、あちらも恋しかったんじゃないでしょうかね。

気持ちが楽になるんじゃないですか。あれではあるけど家族がいるわけで、その中に入ってこられたような感じですからね。当番兵がひとりついてて、女房みたいにお世話する方がおられましてね。そういうことでしたから。

Q:並里さんたちにとって日本軍の人たちっていうのは、まだそのころは、やっぱり自分たちを守ってくれる人たちだって。

そうです。

Q:どう思っていたんですか。

守ってくれる。そして住民も協力しないといけないっていうことなんですよね。

だって、日本国が負けたらあれでしょう。まあ、負けるということは全然。神風が吹いたりとかね、天皇陛下、神の国で天皇陛下のために負けてはいけないというあれだったと思いますので、皇民化教育、私たちもいろいろと、やっぱりそういうふうになっていくわけなんですよね。

そうなんですよね。だから伊江島の場合は、地上戦の中でも、飛行場がありますので、沖縄地上戦を予想したんでしょう、日本軍は、それで住民、できるだけ本島のほうに疎開するようにということでしたけど、うちはもうちょっと病気したおじいちゃんがいて、おばあちゃんがいて、みんな子どもで、お母さんは赤ちゃんができたばっかりでしたから。

Q:とても疎開できるような状態じゃなかった。

はい。できる状態じゃない。船もたくさんあるわけじゃなくて、これも交渉しないと…。だからそういうのもあって、行けなかったんですよ。もうやっぱりどうしようもなかったですね。

Q:島に取り残されちゃったっていう感覚はありましたか、そのとき。

ありました。

私は子どもでしたから、友だち、学校のクラスの友だちなんかもみんな疎開して、誰も疎開した、誰も疎開したっていうことになっちゃって、取り残されたっていう寂しさって言うかな、そういうのがありました。

ちょうど、あれは10月だから、その日は学校に、普通と同じように学校に行ったんですよね。どこらへんでしたかね、向こうにちょっとお店がありますよね、あちらへんに来たときに、飛行機が飛んできたんですね。3機ぐらい飛んできたら、とても朝日にキラキラしていてきれいだったんですよね。もう真っ青な青空でしたから。飛行機がちょっと高く飛んでいたんですよ。「あ、飛行機だ。きれいだね」とか言って見て、1、2、3って数えたりして。そして日本の飛行機だと思っていましてね、みんな手を振って「万歳」とか言って手を振って、ちょっと通り過ぎたような感じがあったんです。突然低空してきて、機銃、パラパラっとやったんですよ。そしたら誰か「空襲だー」って言ったんです。5、6名でしたかね、一緒に、できるだけ登校する時には揃って登校するようにということがありましたので、たぶんお兄さんだったと思うんですけど、「空襲だー」と言ったから、もうすぐうちに、みんな駆けだしてうちに帰ったんですよ。そうすると母がここの門に、心配して立っていたんですね。
   そしたらこの豚小屋、馬小屋のここ、ここはもう壁なんですけど、うちのあれを掘ったらみんな石が出てきたんですね、簡易壕(ごう)を作るって。みんな簡易壕を作れっていうあれがありまして、屋敷に。うちはちょっと石ころがありまして、こちらへんに作ろうとしたんだけどダメでしたので、ここに、お隣さんに許可をもらって簡易壕を作ったんです。

Q:そこに隠れて。

すぐそのときはそこにすぐ入って。でも、ちょっと掘って、おじさんがいたので、母のお兄さんが作ってくれて、私たちもみんな加勢はしましたけど、土を出したりはしましたけど、作って。上のほうは、フクギとか周囲の木がいっぱいありましたのでこれを倒して横に置いて、そして雨戸をまたどこかから引き抜いて、それをこの木の上に置いて、土を盛ってですね。

Q:そんなに結構精密に作られていたんですね。

家族の簡易壕でもですよ。でも、もう機銃が来るとすぐダメですよね。でもそれで。

だって入口のほうはちょっとこういうゴザみたいなものであれして、木の枝でカモフラージュしてありますよね。で、聞こえますでしょう。そうしたら機銃がうちの壕の近くあたりにも来る気配があるんですよ。プシュッ、プシュッという音がしました。

Q:怖かったですか。

いや、あの時は怖いと思わない。不思議な音だなとか思ったんですけど、でもあれがもう私たちの入っている壕にやられるとしたらもうきますよね。

あの時はほとんど本島のほうに渡った人たちがいっぱいいたわけなんですね。行けない人も相当残っていました。みんな捕虜になっていったとき、こんなに大勢生きていたんだなと思いましたけどね。

Q:十・十空襲、10月の空襲よりも年が明けてからの空襲のほうが激しかったんですか。

はい、激しかった。だから怖かったです。

いや、もう夜も昼も空襲が始まったら壕の中にいるだけで、夜になったら艦砲射撃が始まらない、空襲だけのあいだは夜になったらもう空襲はないから、外へ出てご飯作るとかそういうのをやりますから、浴びたりですね。「あの家焼けたな」と言って見に行ったりしました。うちはまだなにか、この家で言えばこちらへんの部屋が弾が落ちていました。

いやもう空襲が激しくなりまして、上陸前あたりになるともう訳がわかりません。はっきりわかりませんですね。爆弾が落ちている穴なんか見たりとか、そういうことがあって、逃げまどうだけで。そしてうちのおじいさんが兵隊の陣地壕には行きたくないって言うので、頑固でもう絶対行かないって言っているもんだから、おじいさんひとりを置いて私たちは入れなかったんですね。あのときまでは多少心にゆとりがあったからだと思うんですけどね。でもずいぶん激しくなって、もうこれ以上はおれないということになって、「おじいちゃん、陣地の壕に行こう」って言ったら、「私はここで死んでいい」と、「どうせ壕の中で死ぬよりは、同じ弾に当たって死ぬんだったらここで死んでいい」と言ったんですよ。

入っていきましたら、私たちは遅かったんです、入るのも、でもういっぱいしているんですよ。壕の中は15メートル掘り下げてあったと。これはおとなたちが言って、お母さんたちが言っていることを聞いているわけなんですけど、ちょっと壕の口から入っていくと、4段ぐらいゆるい階段が作ってあって、そこからは絶壁なんですよ。ずっと掘り下げられて。そして縄ばしごですか、これで降りていくんですね、下まで。

そしてみんな中に入るんだけど、あのときまではまだお互いに気持ちも、お互いに譲り合いしながら、心はまだあったわけなんですね。だけど入っていったらもういっぱいしていまして、本当にこう座ったらいっぱいでもう動けないんですよ。私は、一番苦しかったのは、おとなの重みで死にそうになるぐらい、重みにつぶされて、そうしたらもう我慢する、あのときは我慢するのは非常に上手にできていたんでしょうね、できるだけ我慢したんだけど、我慢できなくなって、おばあちゃんが、ちょっと手の届くところにおばあちゃんがいたので、「おばあちゃん、助けて」と言ったら、見てからすぐ隣のおじいちゃんに「あんたちょっと、うちの子つぶれるよ」とか言ってね。そういう感じでした。

ギュウギュウ詰めでした。そして入って2日目ぐらいですか、もう上陸してきたわけですね。日本軍はだいたい集結する場所に、わかりませんけど、とにかく集結する場所にみんな集結するようにという命令があったらしいんですね。それで全部出て行くときになったので、上官だとおとなたちも言っていましたけど、この人が「日本軍はこれから出ていくから」。その前に、みんな「あんたたちも出ていくから、あんたたちを全部殺していく」と言ったんですよ。

Q:上官が。

はい。上官だと思うんですよ。とにかく日本兵が。そう言ったら、宮城さんてこっちの近くのおじいちゃん、まだがっちりしたお父さんでしたけどね、このお父さんが「なんで日本兵が国民を殺すのか」って立ち上がったんですよ。真っ赤な顔をしていただろうと思うんだけど、「日本兵が国民を殺すのか」と言ったら、弾が飛んできたんですね。飛んできたんですけど、こうしているから横から来ているんですよ。そしたら何かおっぱいをかすめていったんですね。それより他にはなくて、それで終わったんです。そしたら「もうここにいたら敵に殺されるんじゃなくて、日本兵に殺される」と言って、怖いと言って、もちろんその宮城さんの家族、それから他の家族、5、6家族ぐらい出ていきました。出ていった家族の中で、宮城さんのところ出ていきました。そうしたらお母さんも亡くなって、それからあそこもそのおじいさんが、もっと年をとられたおじいさんも亡くなって、長女のミヨコといって私より年二つなんだけど、彼女はこっちに弾が貫通して、生きて元気ですけど、そういうので、出たらもうやっぱり、はい。

はい、日本兵がそういうことを言ったもんだから出ていって、そのあとも、じゃあ、手りゅう弾をみんな渡したんですね。

Q:そのときの状況ってどういう感じでしたか。

私なんかあまり、これは何か、手りゅう弾って、まあ弾っていうことはわかりますよ、人を殺すものだとはわかりますけど、これをもらわないと損する、いけないんじゃないかねっていうような感じで、配られたらもうみんな、あっちもこっちもみんな手を出してもらったような感じですね。

Q:これを配っていたのは誰なんですか。

日本軍が。配って出ていったわけなんですよ。で、もう日本軍はもういなくなりました、あの時に。ヨナパチク壕はですね。それである程度出ていったから、もう座るのもちょっと楽になりましてね。そのあと3日ぐらいしたんでしょうかね、自決が始まったのは。誰かの話ですけどね、これは、誰かがこの壕の中に入っていくのを米軍に見られちゃったらしいんです。それで弾を撃ち込まれたんですね。でも手りゅう弾とかそういうのじゃなくて、弾を撃ち込まれても、掘り下げられていますでしょう、だから人には当たらないわけですよね、壁に弾はいっているわけなんですね。そうすると結局、もう中で誰かが、おとなの大声が出て、もう始まったんですよ。各家庭、家族ごとにこうしてやったと思うんですけどね。

Q:家族ごとにどうやったんですか。

家族は家族でこうまとまっていてやるわけですよね。だいたい手りゅう弾の自決の場合は、だいたいそういうふうに教えられていましたよ。

Q:誰にですか。

これは直接軍のほうからじゃないですか。その方法は。みんな知っていましたね。

家族はこう輪になってかたまって、そこでやれっていうふうな方法は。たぶん教えられたと思いますよ。

Q:なぜ捕虜になろうというふうに思わなかったんですか。

だって、捕虜になったら…。捕虜になるなって、出ていく時に、これを渡すから、捕虜になったら、私が聞いたのは、これは耳ではっきり聞きました、「捕虜になったらスパイになるから、捕虜に絶対なるな」と。これで最後は「捕虜にはなるな、これで自決しなさい」ということで出ていったんですね。

敵に捕まったら、女は暴行されてまた裂きにされるとかなんとか、耳を切って鼻も切るとか、男は耳も鼻も切ってどうするとか、そういううわさがいっぱい出ていたわけですよ。もうこれは飛行場を作るころからですね。

ああもうすごいですよ。なんと言うんだろうね。ちょっと覚えてませんよ。凄いですよ。私たちがなぜ生きられたかというと、壕は幅が天井の高さが大人がスムースに通れるぐらいの高さなんです。この幅が丁度、畳の縦の長さ。縦の長さが、結局、これがこうなったら畳としましたら、このくらいの幅なんですよ。だから狭いんです。それ以上、幅を広くすると、壕のあれがもたないとか。ただ、土をどんどん掘っていっただけですから。そういった設計があったみたいで、狭かったです。その武器を入れるところをつくるために壕の壁に穴というか倉庫みたいに堀って、そこに手りゅう弾なんかを入れてあったんですね。いくらか食べ物、米もあったと思うんですけどね。そこが全部、空っぽになっちゃんたんです。私たちはずっとそこに追い込まれて、そこの中に入っちゃったんです。

Q:何故、追い込まれたのですか。

何かわからないけど、「お前ら、もっと向こう寄れ、向こう寄れ」ということで、狭いから。うちは赤ちゃん抱っこして、うちひしがれている状態ですから。母は魂があるのかないのかわからないような状態でした。

それでそこの中に追い込まれて、私たち家族は入ってしまったんです。そうしたら酸欠。すごかったですね。皮膚はチクチクしますしね、蒸し暑いというのか何というのか。蒸し暑い以上に言葉ないですね。そのときに自決が始まったんです。私たちは、お父さんが海軍に行っているから、戦艦大和に乗って助けに来るから、死なないでおこうって、子どもたちは誓い合っていたんですよ。それで、お母さん、そういうことで持ってはいたんだけど、だからやらなかったんです。お陰で助かったんです、私たちは。

Q:でも他の家族は…

はい、死んで。だけど、随分ケガして野獣がほえるという状態が壕の中にまん延していました。その中で私の友達、トミコはひとつ年上だったんですけどね、とても仲良しで。彼女の声が私を細い声で呼ぶんですね。「チエコ、チエコ助けて」とかね。「水飲ませて」とかですね。大体は「チエコ、チエコ」ってずっと呼び続けていたんですよ。私も「トミコ、トミコどこにいるの、どこにいるの」って言って。結局私は、そのトミコのところに行きたくて、死んでいる中をはって。暗いですよ、ローソクもつけられない状態ですから。はって行ったんですけど、声はどこから聞こえてくるか、どれくらいの距離離れているかもわかりませんでしたけど、とにかくはっていったら、大きな冷たい手で足首捕まったんですよ。それで、私は気を失っちゃって、そのあとわからなかったんですけど。気づいたときには家族のところに。おばあさんに「大丈夫か」と言われて。

トミコは段々声が細くなって、3日まで声聴きました。それで終わりです。ほかの声もいっぱいあったけど、段々声がなくなっちゃって。1週間くらい…

Q:どんな声が聞こえてくるんですか。

何ていうんでしょう。野獣の声ですよ。

殺してくれと言う人もいるし、水とも聞こえるんだけど、それだけじゃなくて、何だろう、説明できません。地獄っていう言葉もありますけど、あれなんか問題じゃないですよ。何て言うんだろうね、ああいうのは。表現できませんね。言葉でも何でも、とにかく私の胸の中にあるのはこれって、全部出してお見せすることできません。あんなのはおそらく伊江島だけじゃないですかね。サンザタ壕もそうだったかと思うんですけどね。でも最後まで出て行けないですよ。外に出たらすぐ殺されるってあれがあるものですからね。だから、この死んだ人たちの上を行って、壕の口のところは光も少し入ってきましたからね。そこに移動していたんです、家族でですね。そしたら、1週間、2、3日のうちからムシが始まったんですね。

Q:最後はどうして捕虜になったんですか。それだけ、絶対捕虜になってはいけないと言っていたのに。

たぶん、出てきてからアメリカが、みんなのいるところ、白い旗持って、あちこち救出したらしいんですよ。アメリカ兵も鉄砲を持ってついて、声掛けして。私のところは何回も通ったらしいんですけど、中から白いガスがモウモウと、立ち上がっているらしいんですね。それで、そんなところに生きた人間がいるとは誰も思わなかったらしい。素通りされているんですよ。それで、余計遅れたんですね。そしたら、今度はうちのおじいさんの妹のおばあちゃんが、やむにやまれず、壕の中に来て、一人ずつ名前を呼んで、「生きているなら出てきなさい」、「助けられるから出てきなさい」と言ったんですね。もう泣いているんですよ。何回も何回も「生きていたら出てきなさい」というふうにして。そしたら私たちは声を聞いてわかりますのでね。スパイになって、これになっちゃってやっているんじゃないかと。

Q:その時も?

はい。そこまで心は、おばあちゃんもきっときちがいになって、うそだよというふうに思ったり、もう疑心暗鬼ですよね。

出て行ったらスパイだという。でも、身内が来ても、すぐには出なかったんですけど、行かなかったですけど、最後におばあさんが「どうせ死ぬんだったら、出て行ってお日様、太陽を見て、太陽を拝んで死んだほうがいい。はい、みんな立て」というふうになってですね、それで出て行ったんですよ。そしたらおばあさんがいて、良かったんですけどね。アメリカ兵がずっと付いているんですね、鉄砲持って。そしたら黒人がいるんですよ。あれでまたすごいショックでした。

いや、殺気立っていますよ、みんな。日本軍も怖かったです。

Q:前に会った日本軍とはもう…

もう全然違います。

Q:どう違うんですか。

日本軍も、捕虜になるな、殺すっていうことを言ったりしてる。実際、鉄砲を向けて宮城のおじいちゃんがやられたわけでしょ。あれでみんな堅くなって。これはもう、日本軍も、敵がだけ殺すのではなくて、兵隊はみんな殺すんだっていう。

Q:住民も。

はい。だから、本当に瞬時的に変わったんじゃないかと思うんですよ。戦争ってそんなものだと思いますよ。私の体験ではそう思います。だから、日本兵が憎いとかそういうのも思わない。憎いのは戦争です。

Q:戦争が変えていくものなんですか。

戦争が変えます。まだ逃げて、木のあいだ逃げたとかいうのはまだ心に余裕があるわけなんですよ。私たちの状況はもうせっぱ詰まっていますよね。だから、敵というのはまだ出て行って初めて見たんですけど、日本兵にも殺されるという、それが、本当に短いあいだにパッと変わったような感じですね。瞬時に変わると言ってもいいくらいですね。戦争ってこんな状況なんですよ。私が体験したのはですね。

はい。そのあとでも、みんないらついていますよね、子どもが泣いて。だから、住民の人たちも、「あの子をどうにかせい」と。

Q:それで緊張状態になっているから。

はい。それもあったんです。そういう声もいっぱいあったんです。

だから、「黙らせ」とか、「どうにかせい」とかあったんですよ。そして、日本兵がそれを聞いてじゃないんですよ、多分、だと思うんです。日本兵は余計、いらついているはずですからね。自分では撃たないで、隣の義勇軍になった、幾つぐらいになられたのかね、あの人は、二十歳くらいじゃなかったかと思うんだけど、「貴様、撃て」と言ったので、撃てなかった、という状態なんです。だから、あの緊張感、あの空気の中というのは、言葉で話せないです。文字にもなりません。その状況の中で、母は殺してしまったんです。

Q:息子さんを。

はい。そのときに、あとでおばあちゃんと二人で、ここで母がその状態を告白したんでしょうね、祖母に。そしたら、「あんたが悪いんじゃない。戦が悪いんだ」というふうに言っていましたけど。赤ちゃんでもすごい抵抗があったって。だからそれがたまらなくて、どんなに母は、それから抜けられませんよね。だったかと思うんです。

目で見るわけにいきませんからね、薄暗いところですから。静まったとき。うちの母がやったのは、上官は見ていたんじゃないのかな。静かになったんですよ。なにか、このお兄さんも随分殴られていましたけどね。

騒然とすると言うのか、なんだろう、今まで他の住民もあれだった、この言葉も全部止まりましたからね。あの状況は、とにかく説明も、私は表現は、自分のあのときを語れないです。嫌で語れないじゃなくて、表現方法がないです。

もう怖かったから、こんなもんじゃないですよ。耳を押さえたり、頭を押さえたり、こんなにしていたわけですから、住民もみんなね。母は母で、あれは正常な気持ちではなかったと思いますよ。だから、なんて言うんだろう。表現の方法がないんですね、私には、これ以上に。言葉でもない、これ以上の言葉もない、見つからない。ペンでも書けない。だから人にも話せない。話したくないどころじゃなかった。話せないんですよ。だから今までずっと70年あまりもそのまましてあったんですね。大きくなってから兄弟たちが、母が死んだあとですね、法要の時なんかになって、他の人たちが帰った時にそういう話をしたりはしたんですけどね。

Q:そのとき初めて…。

はい。話はしたんですけど。これ以上私は、できないです。

人の心が変わってしまって、もう人間じゃない。野獣だという感覚になるんですよ。だから、自分たちで死ぬのも簡単に死ねるし、言われた通りに爆破させて死にますよね。殺すのもなんでもなくなるし。あのお兄ちゃんはまだ顔見知りでもあったし、お付き合いもあったから、やっぱりできなかった。えらかったと思うんですよ。だけどこの人ね、サンザタ壕なんかでは話を聞いてみたら、傷ついた人はドンドン殺したって、鉄砲で撃って。殺すように。あの人はなにか非常に…。生きておられましたからね。まだ4、5年前に亡くなられたようですよ。結局、あの人の心の変わったのもそれだと思うんですよ。うちの事件で。清純だった少年の心がね、なにか傷ついたのは、苦しめないで殺せというような軍の、あったんじゃないでしょうかね、そういうのが。あのお兄さんも非常に、聞くところによると、鬼だというような…。あの人も戦後生きていくのに大変だったと思いますけどね。そういうふうに戦争って心が変わってしまうんですよ。殺すというのが戦争ですからね、やっぱり。あの人に殺されたという人なんかもおりますからね。壕の中ではなくて、外のほうで傷ついている人もみんな殺したっていう。鬼だという悪口をたたかれたみたいですからね。なんだかこれを聞いても、私は非常に胸が痛かったです。

Q:その時は、勇気を持って、「僕にはできない」と言ったわけですからね。

そう。だから、これも経験しているのは、私の家族だけなんですよ。あとはみんな、あのときは生きていたけど、自決でみんな死んだわけですからね。あの兄さんがこういうあれだったのも、私たちだけなんですよね。だからあの兄さんもきっとこういうあれで、心が変わっていって、戦争は人を殺すものだというふうに。安易という言葉も使えないですね。

だけど私は話せないと。ずっと七十何歳になるまで、心の中で、葛藤(かっとう)しているわけです。心の中でずっと葛藤していました。でも、一旦しゃべったわけなんですよね。カワシマさんにしゃべったわけなんです。それからしゃべってしまったから、しゃべってしまって、西小学校の子どもたちに体育館で話しましたら、50分になっちゃったんですよ、あの体育館の暑い中で。しゃべったら、こう話していったら、子どもたちがもう涙を浮かべている子が何名もいるんですよ。私も熱もありましてね、なんとか話しました。子どもたちも、居眠りする子、一人もいませんでした。あの瞳が私には非常に感動っていう言葉でしか言えないかもしれないけど、非常に感動しました。それで、「あ、これは話すべきだ」と思ったんですね。それから話すようになりました。子どもたちの涙。涙を浮かべているんですよ、みんな。

伝えたいのは「戦争はするな」ですね。戦争は、人間の心が人間でなくなってしまう、獣になると。私は獣を壕の中で、あの声がずうっとこびりついていてですね、人間の心はあんなになると思うんです。だから、どんな敵でも味方の兵隊でも、憎むとか恨むとか、あの人はこうだったとかは思いません。
一点だけ、戦争は人間の心を人間でなくしてしまうということ。だから戦争は絶対やってはいけないと思うんです。これだけです、私の心の中にハッキリ言えるのはですね。だけど、この中で、私の心の中で、本当にそれを言葉でも50%も話せないですね。話せないというのは、話す言葉もなければ、体験している人と体験の無い人たちとの、どうしてもどんなに通わそうとしても、これは戦争ですね、また。私にはそう見えます。これが戦争です。だから今お話して、できるだけ私のあれを伝えたいと、そしてそれを聞き取ろうとなさってますね。だけどやっぱり全部は私話せない。もう手段がないんですね。

出来事の背景

【悲劇の島 語れなかった記憶 ~沖縄県・伊江島~】

出来事の背景 写真沖縄本島の北西に位置する周囲22キロの伊江島。
この島では、昭和18年から日本軍が飛行場の建設を進めて以来、島の人々と軍との一体感が強まっていた。昭和20年4月16日の米軍上陸後、島の男性は青年義勇隊や防衛隊に組織され、女性も女子救護班や婦人協力隊として軍に任務を割り当てられ、軍と行動を共にした。そのため、地元の少年が兵士の道案内役になったり、中には16歳の少年が爆雷を背負って米軍陣地に突撃したりした。また、女性も弾薬を運んだり、負傷者を運んだりするなど軍に協力した。なかには、竹やりを手に米軍に突撃した少女もいた。
さらに住民が避難していた壕のなかでは、身内が身内に手をかける集団自決も発生した。結局、住民のおよそ半数が、戦場になった「生まれ島(ふるさと)」で命を落とした。

4月21日、米軍が島全体を制圧。生き残った2100人の住民は、遠く離れた渡嘉敷島などに連れて行かれた。島に戻ることができたのは2年後。人々は、地下壕の中におびただしい数の遺骨を発見した。また、島の土地の多くは米軍基地として接収されていた。1950年代には、米軍は射爆場の建設などのために、人々が定住し耕した土地を強制的に取り上げた。住む場所を失った伊江島の人々は沖縄中を行進し、米軍の土地接収の非道さを訴え、1956年の「島ぐるみ闘争」として沖縄全体に反基地闘争が広がっていった。

証言者プロフィール

1936年
生まれる
 
壕内で日本兵が青年義勇隊の青年に弟を殺すよう命じたが拒否したため、母が弟を殺した。日本軍が手りゅう弾を配る場面や集団自決の現場も目撃。

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