ホーム » 証言 » 比嘉 正明さん

証言

証言をご覧になる前にお読みください。

証言一覧へ戻る

タイトル 「斬り込み」 番組名 [証言記録 市民たちの戦争] 悲劇の島 語れなかった記憶 ~沖縄県・伊江島~
氏名 比嘉 正明さん(沖縄戦 戦地 日本(沖縄・伊江島)  収録年月日 2010年5月15日

「戦争証言アーカイブス」の動画ページ、一部コンテンツには、Adobe Flash Playerを使用しております。快適にお使いいただくためには、最新版のAdobe Flash Playerをインストールしてご利用ください。

Get ADOBE FLASH PLAYER※NHKサイトを離れます

また、推奨環境につきましては、FAQをご覧ください。

チャプター

[1] チャプター1 静かだった戦前の島の暮らし  02:12
[2] チャプター2 帰郷  04:49
[3] チャプター3 飛行場造り  02:48
[4] チャプター4 十・十空襲  02:41
[5] チャプター5 昭和20年  03:49
[6] チャプター6 壕堀りの日々  02:39
[7] チャプター7 米軍上陸  01:42
[8] チャプター8 夜襲  03:36
[9] チャプター9 最後の突撃  03:31
[10] チャプター10 本部半島への脱出  03:16
[11] チャプター11 家族との別れ  08:01

再生テキスト

振り返って考えてみますと、当時は伊江島の場合は米っていうのはないんですよ、稲は。イモだけですよね、主食は。そのイモを食べてお汁と食べて、野菜を作って、野菜を作った、お父さん、お母さん作ったものを、米というのはなにか風邪をひいたりするとようやくおかゆを食べたような状態の島の生活でしたね。これは金持ちの家はいざ知らず、うちなんかは貧乏だったもんで、あまりぜいたくな食事っていうのはなかったですね。

Q:何か当時の楽しい思い出っていうのはありますか。

そうですね。あのころは子どもですから、家にいるわけですからあまりそういったことは思い出せないですね。

Q:でも平和な暮らしではあったわけですね。

そうです。本当にのんきな島でした。あのころは今のような電気はないでしょう。ランプ生活ですからね、今のような電気のある世の中だったら勉強もできよったけど、夜なんか勉強もあまりできなかったですわね。家庭によっては変わると思うんですが、うちの場合はそういう生活でしたね。

Q:町の人たちは仲良かったですか。

もうあのころの人はみんな仲が良くて、ここのお家がなにかあったらみんな集まって。

志願したのも、当時はもううちは貧乏だったものですから、兄さん2人はみんな兵隊に行って、家族は、お父さんも亡くなって、あ、お父さんはまだ亡くなっていない、あのときは。うちを助けるためになんとかやろうという気持ちがあったもんで、産業報国隊というのに志願したんですよ。そして行って、1か年ならないうちにおやじが亡くなって、そのときに島に帰ってきて、向こうからしょっちゅう催促来たんですが。

当時は僕も将来はぜひ兵隊さんになるんだという気持ちですから、内地の神戸では既に青年学校。向こうでは1週間は学校、1週間は工業の働きだったんですよ。そうして、ちょうどそうしてやっているあいだにおやじが亡くなったと言ってきたもんですから、帰ってきて、焼香して、1か月休暇をもらって帰るつもりだったんです。ところがお母さんは、おやじもいない、兄さんたちはみんな兵隊ですから、いないもんですから「君さえいなければ大変だ」と、もう大変だということで言われたもんですから、それをお母さんの言うことを聞いていたら、たまたまその学校から、「青年学校から独立して、ぜひ青年学校から入らんか」と、あるいはまた兵隊に志願しないかという特例があったんですよ。そうしている間に戦に、伊江島が戦にあったということですね。

Q:沖縄の伊江島の青年学校でどういう教育を受けましたか。

あれは今は恥ずかしいぐらいです、本当に。竹やり訓練ですよ、竹やり。訓練はしょっちゅう竹やり訓練。

Q:どんな竹やり訓練ですか。

あのときは竹やりでもういちばんでしたね。今考えるとバカな訓練だったなとしか思えないですね。

Q:竹やりは、どんなあれにどういうふうに向かっていくんですか。

伊江島にはあのときは竹はなかったんですよ。本島から来ている竹を、先を全部削って、立派に、それで火を焚(た)いて油で焼くんですよ。その油というのも豚の脂ですね、豚油、あれを塗ってそれで炙(あぶ)って、その先を強くするわけですよ、硬くして。それが持っている竹やりなんですよ。

Q:それで突くんですか。

そうですね。この竹やり訓練は、今の中学校の校庭にルーズベルト・チャーチルのワラ人形があるんですよ。これに向かって「突っ込めー」と言って、向こうへ行ったら「やー」「やー」でやるんです。あの訓練ですね。それで当時の訓練はこれだけじゃなくて、急造爆雷を投げる練習を、戦車のほうに、ちょっと模型の箱をこさえて急造爆雷を戦車の8メーターのところまで行って、下のほうに投げると。そして引っ込んでいくと。そのさく裂は約40度ですかな、このさく裂で死ぬ心配ないと、だからこれで伏せってやったらいいというふうな教育だったですね。これがだいたい1週間、1、2回はしょっちゅう訓練があったですね。

僕はちょうど19年の3月に、4月ごろに伊江島に、おやじが亡くなって来たもんですから、ちょうどあのころ、内地にいるときはよく手紙がきよったんですよ。手紙の中には「○○工事」ってあったものですから、何かな、○○工事って、あのころ内地ではそう思ったわけ。ところが島に帰ってきたら、やっぱり飛行場造りなんですよ。この当時の工事との関係は秘密で、漏らしたら大変だって。そうして帰ってきて飛行場造りも、島の若い者はほとんどやっていますから、僕もたまたま行ったことがあります。そして行っている間に十・十空襲やなんかあって、もう青年学校に入って、先ほど申し上げた訓練なんかもいたしたんです。

Q:びっくりしませんでしたか。島へ帰ってきて大きな飛行場が。

そうですね。もううちらが飛行場つくるって、今で考えると本当にオモチャみたいな仕事なんですよ。2人でモッコを担いで伏せて、あのときトルっていうのもあったんですね。

石。ガンが出ます。それを発破、爆破して、こうしてやっていたんですね。

Q:きつかったですか、当時の飛行場建設は。

そうですね、今考えるとあのときはトラックもないですからね、ユンボもないし、人手、ツルハシで耕して、鍬(くわ)で、そして運搬してやっているからもう大変。今考えても本当に子どもの。子どもがあんな考えないですね。こんなことを申し上げて失礼かも知れませんが、あの当時の日本の偉い方々は何を考えていたのかと思うくらいですね。

日本軍が入ってきたらもう歓迎ですよ、もうやっぱり伊江島を日本軍が守ってくれるんだという気持ちで。それは僕の考えですよ。ああ、やっぱり兵隊さんが来ていいなとしか考えてなかったですね。歓迎ですよ。

十・十空襲はですね、ちょうど朝なんですね。もう時間的にははっきり覚えていないんですが、7時過ぎだと思うんですが、8時かな、ずうっと上空で飛行機が旋回しているんですよ。いやあもう、うちには少尉もうちの家に宿していますから、うちの少尉も「いや、日本軍が演習しているな」と、全然兵隊さんだって演習って言っているんですよ、日本軍のね。それで、ああそうかって空を見て喜んでいる間に、バラバラって機銃掃射、音がするんですよ。飛行場辺りで。「これは敵だ」って言って、みんな慌てざまですよ。それでうちの宿していた人たちは、小隊長はドウゾノ、熊本出身ですよ、この方も、「おばあちゃん、おばあちゃん、おかあちゃん、早く一緒に」って引っぱって自分の壕(ごう)に連れていく。このタッチュー(城山)のところの。いやあ、あのときの小隊長の行動っていうのは感謝しましたね。「おばあちゃん、おばあちゃん」と連れてね。うちの家族はみんな後をついて、壕に、兵隊の壕は頑丈ですから、入ったんですがね。そうしたら走っていく間にもう今の中学校、ここは写真でご覧になったあの校舎、大きな爆弾が落ちて、その隣りに大きな500キロ爆弾が落ちて、もう大騒動ですよ。もう本当に怖かったですね、あのときは。本当に敵機来襲はこんなもんかと思ったですね。兵隊も、「ああ、これは敵だ」って大騒動ですよ。この記憶があります。

Q:飛行場もやっぱりやられたんですか。

飛行場はもうバンバンやられたんですよ。もうあのときは本島から徴用でいらっしゃる、飛行場をつくる方々、もうみんな散り散りバラバラですよ、もう。伊江島から働いている荷馬車、あのときは荷馬車がいっぱいいますから、それももうバラバラ。もうハチの巣を破ったような格好だったと思うんですよ。

義勇隊が組織されて、先ほども申し上げた竹やり訓練なんかやって、いよいよ十・十空襲があったですね。そのあとに2月の空襲。2月の2回目の空襲になって、あのときにもう義勇隊が組織されて、みんな各家族と一緒に各避難壕に隠れているわけですから、ちょうどそのときに教官から、義勇隊の教官ですよ、伊江島出身なんですよ、その方から、今の改善センター、公民館、そこは前は広っぱだったんですよ、池があって、みんなここに集合させるんですよ。それで集合させたら、ここで20~30名ぐらいだったかな、集まったんですよ。それでそこで教官から、「どこの字はどこどこ」という命令があって、ちょうどうちはヨシオカ中隊に配属されたんです。そこに配属されてそこでまた各小隊に配属されて、先ほどおっしゃった知念宗真さんは別のところに配属されているんです。僕は同級生4名で指揮班に配属されて。

Q:城山に。

はい。先ほど碑の写真を見たところのちょうどタッチュー(城山)の東側のいちばん上ですよ。それで向こうに配属されて、向こうで兵隊と一緒に、義勇隊という名前で生活するようになったんですね。夜は夜。

Q:その前に結団式っていうのがあったんですか。

そうです。結団式はその前にあったわけですよ。中学校で。

そうですね、中学校で結団式、男は17歳、16歳、15歳以上だったんですかね。義勇隊。女は救護班という組織があったんですね。そしてちょうどそのとき井川部隊長でしたよ。井川大隊長の訓示のもとに、伊江中学校(当時 国民学校)の校庭で結団式があったんですよ。

Q:どんな結団式だったんですか。

もう華々しいですよ。それで僕は、義勇隊を代表してのちょっと読まされたんですがね。

それで伊江島を一周して、そのラッパ卒を先頭に、「敵は幾万ありとても」って歌を歌いながら一周したんですよ。あのときはおもしろかったですよ。ああ、やっぱり日本はこんなもんだったってね。我々も軍隊に、兵隊さんに憧れていますからね。もう本当におもしろいんですよ、あのときは。

うちが配属になったその壕は、ちょうど伊江島タッチュー(城山)のいちばん上のほうですね。東の上のほう。この壕は、まだ未完成なんですよ。それでもう夜も昼も交代で壕掘りでしたね。

いやあもうきついですよ。ツルハシとかスコップで、中で壕の中から担いで2人でまた外に出して。いちばんガンが出るところですね、また壕の中でもガンが出るところはダイナマイトですよ。あのときはみんな逃げて、バーンって。もう本当に、今考えると怖いぐらいですよ、あれは。

負けるという気持ちは全然ないですよ。勝つとしか思わない。しかし我々はまだ子どもですからそうしか思わないですよね。やっぱり年いった兵隊さんはちゃんと知っていたんでしょう、この戦は負けるなと。しかし我々は子どもですから、言われるとおり、はい、はいですよ。

アメリカは飛行機から宣伝ビラを落とすんですよ。この宣伝ビラで何を書いてあるかというと、「あなた方の壕は偽装されても枯れてはっきり見えますよ。早く偽装しなさい」っていうような宣伝ビラもあったんですよ。それで日本軍、我々のいた壕には、じゃあまた今から部落へ行って木を切ってそれで偽装しようと。それが何度もあったんですよ。

Q:この宣伝ビラ、つまり投降しなさいということですね、住民に。

投降しろというあれはなかった。「我々は住民との戦じゃない。兵隊との戦だ。住民は早く海岸の壕に避難しなさい」と、隠れなさいということを宣伝ビラがありました。

Q:それを見た日本軍はなんと言っていたんですか。

これは嘘のビラだ、何も気にするなって、そう言う兵隊もいました。これはある兵隊の話ですよ。命令じゃなくて。

あのときは艦砲がヒュルヒュルとくるんですよ。これはわかっているんですよ。それでうちの引率した兵隊さんが、「やー、伏せろ、伏せろ」って言っている。ダーンとさく裂した。びっくりしたよ。もう耳をやられて全然聞こえないんですよ。そうして隣の兵隊の「大丈夫か」って言ったら、血まみれになっている。「比嘉!大丈夫か」「はい、大丈夫です」って言っているわけよ。「お前、指揮班に行って担架を取ってこい」って言っているわけだが聞こえない。「なんですか、なんですか」って。聞こえないんですよ。そうしたら何回言っても聞こえないから「聞こえません」って言ったら、「指揮班行って担架取ってこい。衛生兵呼んでこい」って。「わかりました」って、山に登って行って、登って行って報告して、そして指揮班に報告して衛生兵と担架持ってね。負傷兵乗せて救務室へ連れて行ったらその兵隊さんは4~5日で亡くなりましたね。

それはやっぱり小隊長命令ですよ。中隊ですからね。やっぱり中隊から小隊にもいろいろあったんでしょうね。うちらの指揮班から伊江島の地形をよく知っているから、道を案内してくれと。「はい、わかりました」っていったんですよ。

Q:どこを歩いたんですか。

城の陣地からアシャキの向こうに集結して、向こうから目標はアラダ浜経由して具志部落に上陸したという情報があったもんですから、向こうを襲撃するためだったんですよ。

Q:そこには何がいたんですか。具志原には何がいたんですか。

米軍の上陸、向こうにいるっていう情報があったということですね。

そこを目がけて。そして城山からアシャギに集結して、今の東の部落、今の阿良公民館、建設中の公民館、向こうへ行ってあれから海岸とおし、具志原から行ったわけですよ。その途中、行くために、照明弾はひっきりなしに上がるんですよ。照明弾がひっきりなしに上がるということは昼になりますからね、照明弾というのは。そういうときは伏せるわけですよ、隠れて。そしてこれが消えるとまた行くわけですよ。その時間、今目標しているところの具志原の向こうへ行くまで、今の具志の漁港、向こうへ行くまで夜が明けるんですよ。

Q:そのとき、深夜にずっと歩いているわけですよね。正明さんはどこを歩いていたんですか。

あのとき、もう爆撃させてしまってですね、米軍には。集中射撃ですよ、もう、うちらに。そのときちょうど。

Q:正明さんはどこを歩いていたんですか。

この浜辺。浜辺から部落がありますね、こう、弾は上からビュービュー来るんですよ。

Q:その隊列の中で、いちばん先頭ですか、正明さんは。

もうあのときからは前、わかりますからね、前もであるし、一緒に兵隊こっちから行ったんです。もう上から弾がビュンビュンですよ。

Q:弾が飛んでくるんですか。

はい。弾は上から来るんですから、銃撃されても。それでちょうど具志部落の東の漁港のいちばん北、西側のところへ行ったら、コンコンガマっていうガマ(壕)があるんですよ、向こうに。その辺へ行ったらもう夜が明けてくるんだ、東を見たら。もう引率されている兵隊は、もう夜が明けて行くのができんと、引き揚げる命令を受けて引き揚げたんですよ。めずらしいことに引き揚げて来るまで米兵ひとつも会わなかったですね。もう運良く壕まで届いたんですよ。

今になると怖いですね。あのときはなんとも思わなかった。今になると怖いですわ、大変な、死んでいたら誰もわからなかったな。

最後のね。うちのところで命令があったのかどうか、ないですね。うちの中隊長は、戦争が終わってからあとで聞いた話なんですが、うちの中隊長はなんの命令も、なんとも言わないで、自分一人こっそり、あのときには中隊長、小隊長になると日本刀ですからね、日本刀を持って拳銃ですから、拳銃を持ってこっそり出ていったという話は聞きましたね。だからこの中隊長のヨシオカ中隊長という方は、もうこの戦はダメだということを認識、わかって、部下にはなんとも言わないで、こっそり行かれたんじゃないかなという、あとでの話はありましたね。

Q:それは逃げたっていうことではなくて、攻撃しに行ったということですか、一人で。

指揮をとらないで、あの人はこっそり行ったって話ですよ。やっぱりこういう方はちゃんとこの状況を知っていたんでしょうね。やっぱり感心したところがありましたね。これは戦争が終わってからですよ。生き残りの話で。

Q:じゃあそのバーッと行くときっていうのは命令はなく行ったんですか。どうやって…。

うちらですか。うちらは先ほどから言うように、4分隊ぐらいあって、分隊長の命令しか従わなかったですよ。うちの分隊は井上軍曹といってとっても年とった方で、

この人も熊本の人でしたよ。

その井上分隊長が、ちょうどうちらが壕から出て総攻撃っていう命令が、命令、誰からやらんけれども、分隊長の命令ですから、出ていってやったら、もうその人もかなわんと思ったんでしょうね。「もうダメだ、引き揚げ、引き揚げ」って。それで引き揚げたんですよ。

そうですね。うちのところでは命令とは思わなかったです。と思うんです。それでうちの分隊長が一応出ていったら、「いや、もうダメだ、引き揚げ」って引き揚げて行ったら、ここにはもう14、15名の兵隊もいたんですよ。やっぱり引き揚げてきたんですよ。

引き揚げて行ったらここに10名ぐらいの兵隊がいましたね、壕の中に。それでそこで残っている連中の中で、もうこの戦は負けだということで、もう自爆する用意はありましたね。もういつ何時上官の命あるかと思って待っているけれども、命令はなかったですね。その間に兵隊さんが、これに書いてある、「まだ死ぬのは早い。生きてさえいればなんか道は開けるんじゃないか」という声が交わされた。それで自爆は終わったわけです。中止になったわけです。そのおかげで生き残ったんでしょうね。もう自爆でもしておったら、もう死んでおったでしょう。

いかだで渡るときなんか、いかだで向こうへ渡って行ったら向こうからくり舟をもって島にもって帰るんだとしか思ってなかったですよ。ところが向こうへ行ったらもうすでに上陸して、やがて平和になろうとしているんですよ。アメリカはもう自由に歩いているし。

うちは、こっちからいかだで渡って、今の、名前変わってますね、ホテルオーシャン、向こうの白浜に上がったんですよ。それで上に上がったら、民間人に助けられて、そして本部で、10日、20日ぐらいいましたかな、本部も今帰仁に移動になったんですよ。

Q:帰って来たのは2年後ぐらいですか。

ええ、今帰仁に移動になって、今帰仁からまた、今帰仁、本部、伊江島は全部また大崎、今のキャンプハンセン、大崎、あのときは「オオサキ」と言っていましたよ、向こうに移動になって、それで向こうから伊江島、また久志に移動になって、久志から伊江島に来たんですよ。文献にあると思うんですがね。

Q:もう戦争が終わって2年もたってという

そうです。はい。

Q:帰ってきて島を見たときはどうでしたか。

もう島に来たら、みんな荒れ地ですよ。それで米軍はあのときまで米軍もいたし、フィリピン人も駐屯して、みんないたんですよ。それで移動して、畑もみんな移動して。あれから島の復興のために相当みんな苦労しましたね。もうあれは今役場にある文献でされたら結構だと思うんですがね。

Q:その荒れ果てた自分のふるさとを見たときって。

いやあもう大変でしたね。もうあっちこっちいたるところでコンセットがあるでしょう、米兵の宿舎がね。ああ、そんなもんだったかなと。大変でしたよ。今の伊江島の風景を見ると、伊江島の村民は相当苦労しています、先輩たちは。

Q:その荒れ果てた島、米兵のコンセット見たときに悔しいって思いましたか。

悔しかったですね。今の若い方々、先輩の方々に敬意を持たないといかんでしょうね。

ちょっと元に戻るが、いちばん僕が悲しく後悔するのはですね、うちの家族が、お母さん、姉さん方、また姪(めい)なんかがですね、うちの壕に夜中、訪ねてきているんですよ。こんな山の中をどうして探したのかわからんぐらい、あちこち訪ねたんでしょうね。来ている。それで兵隊が、「比嘉くん、面会だ」「はい」と言って行ったら、家族なんですよ。お母さんたち。なんとかお母さんはうちの壕に入れたかった。それで僕は家族にそう言ったんですよ。「僕の権限では、上官に権利はない。壕に入れてくれという権利はないから、いつか戦争終わるから、どっかで会おうや」と言って別れたのが最後なんですよ。これがいちばん悲しいんですよ。本に書いているとおりです。家族、姪、5名、6、7名の全滅ですよ。これがこの戦でいちばん後悔している。

Q:お母さんはなんて言ってお願いしてきたんですか。

おそらくは、壕に入れてくれっていうことでしょう。一緒に、家族は男は1人でいないから、あちこち転々としたんでしょうね、隠れて。そして僕と一緒に壕にいれないかということと、できれば一緒に帰って。しかし僕にはそういったことはできないでしょう。もういつか会えるからということで、言葉が最後になってしまった。それが最後ですね、家族とは。それでどこで死んだかさっぱりわからん。だから遺骨はもうとれなくて、石っころですよ。この戦争でいちばん悲しいのはこれだけですね。本当は戦のこと思い出したくない、そのことを出すと心が変になる。

本当に考えると惨めな戦争していたね。もうあんなに惨めな戦争というのはまたとないように、これからの子どもたちには戦争っていうのは嫌だということを教えていかないと大変ですよね。もう今の平和な世の中にいる子どもたちが、こういった惨めな戦争になったら大変だということは教訓として言いたいですね。だから僕は、海の中を泳いで渡った一人として、後輩たちに戦のことは言わなくちゃいけないと思って本を作ったんですよ。

これは先ほどから申し上げているように、あのころは軍隊というのに憧れていましたよ。兵隊というのはすばらしいなとしか思ってなかったですね。いつかは兵隊になるんだと、それで地位でも、いい位になって、上官になってやりたいものだと、うらやましいぐらいでした。今考えるとそうじゃない。あの当時は憧れていたんですよ。

これは祖国日本のためです。やっぱりあのころは大和魂というのが打ち込まれていますからね、我々には。だからもう国のために働くということしか思ってなかった。

いちばん僕の印象に残るのは、ちょうど義勇隊に配属されて、義勇隊に行ったでしょう。その兵隊の余談の話ですよ。「比嘉君、今あんたは二等兵の地位にあるんだよ」と。「今あんた17歳でしょう」「はい、そうです」って言ったら、あのころは二十歳で徴兵検査なんですよ。「徴兵検査するまでにはこの戦から生き残っていくと上等兵になるよ」と、「二階級進級されて、上等兵になるよ」と。それで二十歳の徴兵検査のときにすぐ兵長になる可能性が十分あるよ」と。喜んで、「ああ、そうですか」って喜んだときもありましたよ。だから軍隊というのはあんなことも言われたら喜びよったですからね。やっぱり軍隊に憧れていたわけですよ、青年比嘉は。みんなウソですよ、これは本当のことじゃないですよ、そんなことは。余談の中に兵隊が僕に言った言葉ですからね。このぐらい兵隊というものには憧れていたわけですね。

本当にバカだと思いますよ、振り返るとですね。あんなに軍国主義に憧れたというのも今で後悔するぐらいです。だから本当に同級生からたくさんの友人なんかを失って。

ああ、惨めな戦。もう亡くなった皆さんに本当にすまんと思っているくらいですよ。しかし、生き残った者の一人として、考えているわけですがね、もう本当にすまんと思っていますよ。同級生もたくさんいますからね。二度と思い出したくないと、なったわけですから。

出来事の背景

【悲劇の島 語れなかった記憶 ~沖縄県・伊江島~】

出来事の背景 写真沖縄本島の北西に位置する周囲22キロの伊江島。
この島では、昭和18年から日本軍が飛行場の建設を進めて以来、島の人々と軍との一体感が強まっていた。昭和20年4月16日の米軍上陸後、島の男性は青年義勇隊や防衛隊に組織され、女性も女子救護班や婦人協力隊として軍に任務を割り当てられ、軍と行動を共にした。そのため、地元の少年が兵士の道案内役になったり、中には16歳の少年が爆雷を背負って米軍陣地に突撃したりした。また、女性も弾薬を運んだり、負傷者を運んだりするなど軍に協力した。なかには、竹やりを手に米軍に突撃した少女もいた。
さらに住民が避難していた壕のなかでは、身内が身内に手をかける集団自決も発生した。結局、住民のおよそ半数が、戦場になった「生まれ島(ふるさと)」で命を落とした。

4月21日、米軍が島全体を制圧。生き残った2100人の住民は、遠く離れた渡嘉敷島などに連れて行かれた。島に戻ることができたのは2年後。人々は、地下壕の中におびただしい数の遺骨を発見した。また、島の土地の多くは米軍基地として接収されていた。1950年代には、米軍は射爆場の建設などのために、人々が定住し耕した土地を強制的に取り上げた。住む場所を失った伊江島の人々は沖縄中を行進し、米軍の土地接収の非道さを訴え、1956年の「島ぐるみ闘争」として沖縄全体に反基地闘争が広がっていった。

証言者プロフィール

1928年
生まれる
 
青年義勇隊に所属
 
指揮班と呼ばれる中枢部隊に配属される
 
米軍への切り込み・最後の総攻撃に参加

関連する地図

日本(沖縄・伊江島)

地図から検索

ページトップ