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タイトル “三途の川で会いましょう” 番組名 [証言記録 市民たちの戦争] 悲劇の島 語れなかった記憶 ~沖縄県・伊江島~
氏名 大城 シゲさん(沖縄戦 戦地 日本(沖縄・伊江島)  収録年月日 2010年5月22日

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チャプター

[1] チャプター1 飛行場建設が始まった  02:16
[2] チャプター2 ちょうちん行列  04:21
[3] チャプター3 十・十空襲  06:58
[4] チャプター4 最前線で戦った  05:13
[5] チャプター5 斬り込み攻撃  13:39
[6] チャプター6 壕に現れた米軍兵士  03:05
[7] チャプター7 死ぬことは怖くなかった  03:50
[8] チャプター8 戦場で命の限りに生きた  01:36
[9] チャプター9 泣きながら集めた遺骨  02:52
[10] チャプター10 なぜあのとき戦ったのか  07:30

再生テキスト

島はね、自給自足でキビもいっぱいあるし、落花生もいっぱいあるし、こんなだったけど、田村部隊といって、飛行場づくりになったから、みんな徴用されたの。女子、青年もみんな。そして、うちの人は畑をさせる方がいいから行かさないと言うけど、強制的に行った。わたしはツバサ飯場というところに、みんな徴用された人夫がいる飯場にご飯炊きに徴用された。そして、15日ぐらい働いたらまたほかの人と交代して家で働いて、こんなにして10月10日の空襲ありましたからね。19年の10月10日の十・十空襲にみんな向こうは焼けて、散り散りばらばらになったから、徴用の人でいっぱいでしたよ、伊江島は、本島から。この人たち帰って、これからはまた(昭和20年)1月22日また空襲。この1月22日の前からは救護班講習をさせられて、字から3名女子青年講習を受けさせられたの。

勝って、あのときは伊江島は旗行列をしたんですよ、喜んで。子どもも、生徒も、みんな。学生も日の丸の旗を作ってね。島中喜んだんですよ。真珠湾攻撃はね、あれまでは勝つと思ったけど。

Q:でも、今でもそんなに鮮明に覚えているんですね、あのときのことを。

はい。

Q:シゲさんもそれに参加したんですか、旗行列は。

はい。みんな呼ばれて、うちにいる人はいないから、みんなわたしたちは「女子青年」にはまだ入らないし、青年学校といってありましたから、それから呼び出されて、みんな回って、兵隊に、海軍志願ナント一隊とは、島で残った人はみんな。

卒業してね、おうちで畑、お父さんたちの手伝いして、それから女子青年は青年学校があって、週に2回ずつ竹やり訓練させられたのよ。

竹やり訓練は人形を作ってね、竹やりでこんなに突くんだけどね。もうこれは長いことはしないで分列式、すぐ敬礼、しょっちゅう足踏みさせられてね。これをさせられているうちにもうひどくなったの、島は。学校も出られなくなってね。空襲きてからは。

Q:青年学校でやった訓練って、竹やりと行進以外に何かほかにやりましたか。

いいえ、竹やりと行進と、これから後が救護班は2人ずつ配置されていったんであって、男も女も竹やり訓練。だから鉄砲がきたら、竹やりでかなうでしょうかねと思いよったけどね。もう渡されて、これでやっていたんですよ。何も習うことはない。しょっちゅうこの訓練させられてね。もう嫌になって、行きたくないねと思いよったけどね。それからまた、三角巾から救急箱を渡されて2人ずつは、もう青年学校へ行かないで向こうに来なさいと言われて。

Q:救護班に?

救護班。

田村部隊はね、墓をみんな遺骨をどけてこっちを壕にしなさいと言ってね、最後は。みんな自分の祖先の墓を畑のそばにみんな移したの。そして、いざというときはこの墓に住民は入りなさいと言われて。田村部隊はこれ記憶ある。そして交代になって、井川部隊が来たんです。その中の速射砲部隊の諸江隊。

いっぱい来てね。わたしたちはまた壕(ごう)、陣地を掘るときは、小豆を各青年の1人の家から2合ずつ集めてぜんざいしてよ、いっぱい炊いてからバケツで慰問しよったよ。兵隊に慰問して、壕を掘るときご苦労さんといって上げてね。多くは九州の兵隊でしたからね。

あのときは主にこっちには被害なくて、飛行場をやられたの。飛行場に働いていた人なんかはモッコをみんな捨ててきたと言ってね。飯場も焼けて、それからはわたしたちの所に来てね、恩納村の人だったけど、徴用を取られて5人ずつ、みんなこっちに配当されてね、6人ずつ1軒の家に。そして、昼は向こうに、空襲終わってから向こうを片づけに行って、夜はわたしたちは母屋がこっちにあったから、こっちにもう毛布もないで、10月10日だから、まだあまり寒くはないからこっちで泊ってね。朝、イモを上げて、向こうへ行ったらまたご飯を炊かれて、飯場で食べて、この期間までに逃げて行ったんじゃないかね。

うん。こっちは壕にも入らない。見ていたのよ、あのときは。こんなものかね、戦争といったら。壕を掘ってはあるけどね。

Q:十・十空襲はかなりひどかったですか。

ひどかったよ、飛行場は全滅だのに。向こうだけに飛行機は行くしね。こっちは外から歩いて壕にいないでも大丈夫でしたよ。

Q:じゃあ完全に飛行場が標的になっていたんですね。

うん。飛行場をつくったからこんなに伊江島はされたんじゃないかねと思いよったよ。飛行場があるから。

疎開させられないんだよ。この年ごろは兵隊が立って。絶対わたしたちは。もう15以上は。だから疎開させられない。みんな残ってね。兄さんがいるうちは馬に乗せられて、ビーチの所に行ってね、備瀬崎(伊江島の対岸の本部半島)に渡った人はいる。

Q:兵隊さんが立っていたんですか、波止場に。

うん。わたしは弟がトシヒロといっていたから、これとイモをいっぱい持って、今帰仁にお母さん疎開させるのに、おばさんの着物をつけてね。頭はタオルをかぶって、こんなにして連れて行ったんですよ。

Q:でも帰ってきたんですか。

帰ってきた。

Q:何でですか。

お父さんたちはこっちにいるんだのに。お父さんとサヨは。だからすぐまた帰ってくるときに今の浜崎のところで空襲にあって、そして松の木にこの子を抱いて、飛行機がブーとしたらこんなに、そうしてから船に乗って最後だったよ。いっぱいイモも持っていって、壕を掘ってきて、弟たちを入れてきた。

Q:当時はもう15歳以上の青年男女というのは疎開は…。

ううん、もう疎開はさせられない。男は義勇隊で、戦車突っ込め、東上なんかは戦車突っ込めで爆弾を渡されて、戦車に飛び込んで死ぬ訓練。わたしたちは速射砲隊だから弾運び。みんなこんな。行かされない、疎開は。すぐ非国民といって叱られる、疎開したら。子どもを産んで、結婚しての人なんかは疎開させられるわけ。

Q:非国民ってだれが言ったんですか、兵隊がですか。

兵隊が。同級生いないよ、わたしたちみんな死んで。あの年ごろは。ほんとに寂しいもんである。73になったらこっちはみんな同級生で旅行するの、伊江島はそろって。61歳も。トシビー(生まれ年の干支を祝う)のときは。みんないっぱいいるけど、わたしたちの同級生は少ない。少ないけど頑張ろうねといって、踊りをしたり、旅に行ったらみんなするけどね。

Q:ほんとに逃げ場はなかったんですね。

ないですよ。運があって生き残っただけ。

Q:さっき東上の人は爆雷の訓練と言っていましたよね。

あれたちは戦車隊といって、戦車に突っ込めと言って、10キロ爆弾といって、こうしてマスのようにね。こうしてからこっちに信管をつけられたね、真ん中に。そうしてこれからひもをつけて、こっちにくびってね。戦車が向こうから来るでしょう。すぐあれに突っ込めして戦車を倒す部隊。東江上のわたしたちの年ごろは。そしてあれはね、捕虜を取られてから、戦車1台学校の東側に傾いてアメリカの戦車だったけどね、ヨシエと言ってね、これまた名札も持たされているわけ、カネで。何ヨシエだったかね。わたしより2つ上だったが、ヨシエというのが書かれてこのセンターのそばにあった。あれたち戦車突っ込めの人だから、あれがやったはずよ。とってもモダンな東前のきれいな人だったけどね。あれたちは戦車突っ込めの部隊。わたしたちは速射砲の部隊。

速射砲は陣地からちょっと離れて、学校(伊江国民学校)に見通しのいい所に持っていくから。陣地から速射砲の所に担いで持っていくの。そして兵隊が倒れたらまた三角巾でくびって、壕にこれを連れてくる役目、わたしたちは。諸江隊は速射砲だから。そうしたから、わたしは5本持ってから、行って置いて、中学校に速射砲を撃たれて、こっちからも撃ったから、向こうからバンと敵の弾がきて、そしてスエオカ兵長の足にやって骨が折れて、もう立ちもできない。ブラブラブラブラ足がなって、わたしは救護班はこれを担いで壕に戻りなさいと言われて、三角巾でヨーチンつけて強くくびって、この人を背負ってまた壕に連れて行って寝かせて、また5本持って出発したんですよ、2回。2回行ったから、4月17日、上陸した翌日もう学校にいっぱいアメリカがいるんだから、中学に速射砲を持って中学攻撃に行ったんですが、ウメダ伍長は2分隊長、小隊長だからウメダ伍長が。1分隊の小隊長はヤマシタ少尉。向こうの分隊長はナカムラ伍長。わたしたち2分隊はウメダ伍長。そして、弾を置いたから、この人はまたすぐ、このスエオカは「前方200メートル右より撃てー」と言う人だった。こう言う人だったのにあれがやられたから、今度はウメダ伍長がされていたのに、すぐ左腕を貫通したわけ。あの人は腕に貫通して血を流して、わたしはこの人を連れて行ったから、もう夕方の5時ごろになっていましたよ、通うまでに。もうやめた。きょうの攻撃はこれで終わり。そして兵隊もみんな帰ってきて。そしてから、もう4月21日、玉砕日。

Q:その17日は、アメリカはもう見えているんですか。

アメリカはもう戦車もいるし、中学校にいっぱい。だからこれたちに撃ったんですよ、いっぱい。向こうもケガはしたはずよ。いっぱい撃っているから。それをすぐ1発目で切ったから。速射砲をこんなにして、鉄板のように。弾はじけるところがありますけど、1回はこうして弾けたけど、2回目はすぐスエオカ兵長の、あれは命令、ちょっと出ておって、何百メートル前方撃て。撃つ人は別にいるから。下からすぐあれの足にされて。

Q:シゲさんは弾を運んで。

運んで、その後は速射砲の後ろに、だれかケガする人がいるか待機しておくの。わたし一人救護班。炊事の人はいっぱいいるけどね。そして、わたしはこの鉄板の後ろにこうして座っていた。速射砲の弾を置いているから。兵隊が取ってこう入れているから。

ケガしないと帰りもできないわけ。兵隊がケガしたら連れて帰りなさいだから。いつわたしも死ぬかね。いつスエオカ兵長のように足にくるのかねと、しょっちゅうガタガタしよったよ。しょっちゅうこのスエオカさんを見てね、いつこうして血が出て死ぬかねと思ってね。そしてこの人を連れて行って、ウメダ伍長は、僕は足でないから大丈夫だよしてね。そして向こうでみんなにいって。

きょうはみんな班長は、2分隊だから1分隊に集合。指揮班から来てね。きょうは話があると言われて、夕方に、きょうは戦いはしないで、夕方指揮班に集まれと言われたからね。わたしたち民間は下に15ヒロぐらい、速射砲は上に置いて、この地面から15ヒロぐらい下に掘って、そしてつり橋のようなものから下りて行くんだけど、民間の人はみんなこっちにおらされるんだけど、学校でケガした人は自爆させる人を残すわけ。そして、わたしはきょう何の話をこのウメダ伍長は指揮班で聞かされたのかねと思ってね。これを聞いたら兵隊に叱られるよ。そっと上に上がって、こう下りてから下に下りる所があるし、兵隊たちはこっちのこれを囲んで話をしているわけ、速射砲。きょうは20日だけど、明日は伊江島玉砕の日で、21日はもう午前2時はみんな斬り込みに出ていなくなるから、中堀は歩けないから。この人はまた40度余り熱発して学校斬り込みにも行ききれないでよ。熱発して、すぐいま鉄砲を渡して、今すぐ上から飛んでいる飛行機にやろうとしても、しょっちゅうワサワサしているわけ、壕から。そして、これは残されたから、こっちにいたらこれに死なされるねと思ってね。わたしも斬り込みに行きますと言ったわけ、これを聞いているから。

だから、明日の午前2時はこの壕から出て伊江島玉砕だか、新波止場、城山の所から新波止場まで突撃と言われたから、この会合だったよと言われたから、これを聞いたから、こっちで死んだら大変だ。生きもできない。15ヒロ下に掘られているところに寝かされているんだから、住民は。土地はみんな壊れて埋められるから、こっちで死んだらいかんと思って、自分ひとりの考えで、そしてお父さんはまた16日の上陸、空襲で、屋敷はこっちだから、こっちからいちばん上がったから、こっちも貫通してうちの父は、足も何かにもぎ取られたような、こっちをこうしてもぎ取られたようにこれだけなくなって、「シゲ、シゲ」して来ているわけ。「昼。上陸したよ、戦くるかねと思ったけどほんとにきた。もうおばあちゃんは亡くなったから、向こうで置いてからウートートーしてきたけど、僕はあんた方を見たくて来たよ、来たよ」して、まだ向こうは学校斬り込みにも行かないよ。こっちから、南から上陸したと言ったから、そして兵隊が、「シゲさんはこっちにいますよ。お父さんもこっちにいらっしゃってね」と言われて夕御飯も上げて、そしているから、お父さんとサヨとは下に寝ているけど、わたしは兵隊が会合に行くと言ったから、何の会合だったか、これを聞くために自分ひとり上に上ってきてこっちで聞いたから、明日は21日、玉砕日だから、こっちは2分隊だから、1分隊と一緒になって斬り込みに行くんだから、1分隊にみんな集まれ、みんな連れて行くと言われたからよ、兵隊さん。わたしはウメダ伍長に、わたしも斬り込み行きたいから連れて行ってくださいと言ったから、そうか、行くかと言われたから、「はい」と、モンペを上下着けて、鉄かぶとをかぶって、靴は渡されていたから、鉄かぶとと靴もはいて、短剣を渡されていたから短剣を差して一緒に行ったからね。行くつもりですよ、わたしは。こっちにいるよりは斬り込みに。指揮班に行ったらわたしたちの友達が8人いるの。あれたちと一緒にいる覚悟で行ったわけ。そうしたから、わたしが妹に、あれを起こしてきて、こっちは自爆させるというから。

Q:自爆させるというは聞いていたんですか。

聞いていた。

Q:何と言っていたんですか。

速射砲を自爆しながら住民をみんな自爆させてねと。この会合だったと言われたから。

会合はそうだったよと言って、ウメダ伍長が。これはケガしてくびってから、指揮班へ会合を行って来ているから。そして、中堀がこれする人だよと言われるから、これはキチガイになっているんだから、40度熱出て。すぐするねと思って、わたしは連れて行ってくださいと。サヨを起こして、サヨも。そうしたから、一緒に3名行かされればお父さんもみんな命あるけど。また、あれはクマモト上等兵の後から。わたしはウメダ伍長の後から。また、お父さんはわたしたち二人で行ってから、弾は機銃。向こうは機関銃。日本は1発しか入れられないが、アメリカは7発入るから、ギュルギュルギュルと7発、1歩出たからきたわけ。そうしたから、畑のそばで座って、遠いからちょっと1分隊までは。そうして行ってようやくたどり着いた。そうしたから、サヨも、「シゲ、シゲ、来たよ、来たよ」して、サヨも来たから、よかったね、お父さんはと言ったら来ないわけ、うちの父は。兵隊さんどこにですかと言いよったって。そうしたから、斬り込みにだぞと言ったから、僕は斬り込みにはいかんと言って、わたしたちも一緒に歩かされば助かっているけど、別々歩かされるんだから、真っ暗闇でしょう。2時に出るといって夜中だから、壕から出るのは。そうして戻りよったというけど、こっちにサヨも来てわたしも来て。もう午前2時になったから、ウメダ伍長が、わたしはあのときは島袋だったから、「島袋さん、よく頑張った。斬り込みもありがとう。三途の川で会おうね。靖国神社で会いましょう。あんた方は自爆しなさいね。サトウさんを残しておくから。わたしたちは斬り込みに行くから」と、絶対連れられなかったわけ、わたしを、この人が。ウメダ伍長が。妹もいるし、仲良くこっちで自爆しなさいねと言われたから、「そうですか」と言って、この人たちは2時にはみんな兵隊さん、学校で、耳切れてきている人もいるし、24名からほんとうの無傷は松下上等兵ともう一人、二人だけ。20名は手切れる、耳なくなっている人はいるし。みんなケガして、学校斬り込みで。そしてヤマシタ少尉は、また学校斬り込み明日というときに、「僕は犬死にはせんよ、すぐ敵を殺してから死ぬよ」と言ったのに、体格の大きい伍長だったのに、すぐ海岸から来た。壕の口このぐらい。爆弾をこっちも撃つところ。速射砲を撃つところしか開けてないけど、この中からこの兵隊の口に入ったわけ。

弾が。そばにわたしも立っているよ、この伍長のそばに。立っているが、すぐ大きな軍服がバタンと倒れられてこっちで亡くなった。

即死。あっという間に。あっという暇もなくて「僕は犬死にはせんよ」と、しょっちゅうこれだけ言われよったよ、この人は。そして、即死されたから、この人はこっちで亡くなられて、いい人だったのにねと思って手を合わせて。そして学校斬り込みにみんな行ったから、わたしたちはサトウさんが。

Q:斬り込みに21日に、まさに玉砕の日ですね。行く前って、人はたくさん集まっていましたか。

はい。こっちは住民の人もいっぱいいるし、兵隊も25人。松下少尉、小隊長が引率する人が倒れたから、ウメダ伍長が引率して、腕をやられてから行ったわけ。そしてサトウさんに、あれは学校斬り込みでケガして歩けないから、あんたは住民を全部、速射砲も自爆して、住民も自爆させなさいと言って、3畳ぐらいのいっぱい爆弾を詰められている所にみんな寝かされたわけ。そして、兄弟2人ずつハンカチで手を縛って、わたしとサヨと縛って、お父さんは戻って向こうで死んでいる。翌日探しに行ったから、もうごちゃごちゃになって入られもしないから、お父さんはいないから、わたしたち2人は離れるなよと言って、ハンカチでくびって、右手二つくびって寝ていたら、自爆させないわけ、サトウさんが。

Q:それは弾薬の上で寝ているんですか。

弾薬の上で寝かしなさいよと言われて、信管一つ取ればグァンといって全部この3畳が燃えるわけ。わたしたちも燃えるわけ、みんな。サトウさんもみんな。

Q:そういう状態で妹さんと。

うん。また、親子いっぱい、おばあちゃんと子どもはいるし、あかちゃんがいるし、みんな2人ずつくびってよ。この日しか命はないと思うから、翌日目を開けないうちに安らかに、どこも痛くないで死ねたら幸福だねとだけ思って寝ようとしても寝られない。時計もないから、もう何時になるかもわからない。サトウさんもものも言わない。ちょっと離れたところにひとり寝ているんだから。朝になったから、「シゲ、死んでいないよ」するわけ、サヨが。わたしも「えーサヨ、みんな生きているかね」と言ったから、みんな起きて目キョロキョロしているわけ。そうしたからサトウさん、「わたしたちはみんなこの島は全滅して、玉砕日だからいないけど、わたしたちの始末はどうしてやりますか」と言ったわけ、わたしが。「あのね、僕は支那事変帰りだから、僕はいつでも死んでいいよ。死んでいいけど、あんた方子ども、女、死なす権利は国でもないからね。1分でも助かって、もし敵が来て暴れるならしかたなく弾薬に火をつけるよ」と言いよったわけ。「ああ、そうですか」と言って、これからはわたしは、じゃあ生きているから、救護班だから門番しましょうねと言って、住民いっぱいいるから、サトウさんは歩けないから、今度はわたしとフミさんといって、あれはまた城山の救護班だけど、新里フミといって、結婚して新垣フミ。あれはこっちにおばさんがいたから、自分の務めはしないで城の後ろ、こっちに引っ越してきたわけ。それで助かっているわけ。

もう日本は必ず勝つから、勝つと思いよったよ、こんなにしても。負けるとは少しも思わない。捕虜取られてから、こんなに船もいっぱいあって、かなわなかったねと思うんだけど、勝つんだから、勝っていい世の中になるというんだのに。兵隊がこればっかり。どうしていい世の中に、今も自給自足でいいがね。のんびりしていいがね。これよりいい世の中があるのかねとは思いよった。みんな生き生きとして笑って、踊りを見に行くようにしてあれたち握手して出て行ったんだよ。泣き顔ひとつしないで。この子の女の人なんか。救護班も、指揮班は全部連れられて。

でもね、上陸、まだ上陸しない前、まだ捕虜を取られない前に、兵隊が一人壕の、わたしたちの壕の前の道の上で死んでいたわけ。それをアメリカが薪を置いて焼いていたわけ。こんなにされるのかねと思って、こんなに捕虜取られたら焼かれるのかねと思ってね。これは衛生といって、道にハエもいっぱいやっていたから、みんな斬り込みに行っていないし、わたしたちだけが壕にいるから、ちょっとこうして見たら、道に火が燃えているわけ。何かねと思ったから、人が兵隊の帽子が見えたから、これを焼いているんだねと思ってすぐ壕に入ってね。これからは、これたちに捕虜を取られたら焼かれるんだねと思ってね。それで最後に「出なさいよ、出なさいよ」して、通訳がヒノさんという人が来ていたが、なかなか出ないけど、うちの妹が太陽を拝みたいといってすぐ出て行ったから、「ああ、かわいいね、もっといるかね」されたから、「シゲ、殺されないよ。殺されないよ、出て来なさい」してね。これからぞろぞろと、おばあちゃんたちも出てくるし。また、このサトウさんもみんな収容所に行ったから、いっぱい人がいるわけ、伊江島の人。あんた方どうして今まで元気だったの。どこにいたね。もうやがて慶良間に行こうとするときに出た、わたしたちは。

怖くない。みんな死んでいくというのに、あっという間でしょう。ケガしないで死ねばいい、こればっかり思いよった。でも、学校斬り込みでケガしてくるでしょう。こんなになったらどうするかねと思いよった。

僕たちもみんな靖国神社に行くんだよといって。だから靖国神社参拝するなというときは、すればいいのにね、みんな兵隊さんたち魂いるのにねと思うよ、わたしは。

今でも。これしょっちゅう総理が参拝した、小泉総理が参拝したってするさ。当たり前でないか。1000人は死んでいるんだぞといってわたしは言うんだけどね。みんな頼りは靖国神社だったのに。

当時。あの指揮班の人たちはみんなそう思って死んだんだはずよ。

Q:靖国神社にまつられると。

靖国神社で会おうねといって。どこで死ぬかわからんけど、後はみんな靖国神社と。伊江島とは言わなかったよ。靖国神社で会おうねと。

Q:シゲさんもそれを信じていた。

信じていた。だからわたしは元気だから参拝しに行きたいねと思うけど、旦那は28で死んだから、もう終戦なって結婚して3名子どもは生んだから、旦那はいなくなったから行く旅費もないし、もう伊江島でしょっちゅう、「芳魂之塔」(伊江島にある慰霊碑)に1日も欠席しないで頑張ったよ。

昔はいろんなものを節約して、とっても自給自足だから節約して暮らしたけど、今はいい世の中になって、この世の中も見ないでねと思ってね、みんな死んだ人は今になったらかわいそうだねと思いますけど。うちの父も、子どもを育てながらたくさん畑を買った人だからよ。節約して、難儀ばっかりして。そのために今は孫たちは人に畑を貸してあるから、タバコを植える人に。自分がやらんでもみんなお金は入ってきて、お父さん、お母さんがやったのであるけど、もう48で亡くなった、戦争で。それで遺骨もない。伊江島の人はみんな向こうからいた所から土を持ってきてみんなお墓に入れてあるんだからね。これだけがもう…。みんな指揮班の人なんかも笑って行ったんだけど、18、17でみんな亡くなったねと思ってかわいそうで、今になれば。ほんとにサトウさんがいらっしゃって自爆させなかったから生きているんであって、もう自爆させられていたら、50名ぐらいの人みんないなくなっていた。壕にこれだけいたんだから。子ども、おばあちゃんなんか。

Q:いっぱいそういう命の現場みたいなものを、シゲさん、まさに戦争のときに見られたわけですよね。シゲさんにとって今命ってどういうものですか。

だからね、わたし心臓の手術に行くときもね、わたしは逆らったこともない。伝令行けと言われたら行ってね、守って、まじめにしてきたんだ。この手術で死ぬもんかと思ってね、絶対生きる。これに負けるものかとしょっちゅう思いよった。

当時はもうまじめに、アメリカを殺そうと。すぐ占領旗を立ったからよ、城山に。はあ、もうヤマグシというところから城山に爆弾もキュルキュルキュルして落ちてくるけどよ。あの旗を倒して来るといってよ、生き残りだから。これだけしないと国に申し訳ないといって、フミさんと二人、すぐもう歩いてよ、城山の下まで行ったけど、もう弾がいっぱいキュルキュルキュル来るわけ。あと命は欲しいから帰ろうといって壕に帰ったけどね。あの占領旗もアメリカの旗立ったから、あれを倒してくるといっててっぺんに立っているんだから、登るまですぐ死なされよったけどねと、今になったら城山を見上げるたんびにそう思います。

城山よ、みんな木もないよ。すぐもうこっちにもてっぺんに占領旗立ってよ。木はない、はげてよ。この辺みんな弾いっぱいきて、みんな城山に。戦争前の学校ね。二宮金次郎の銅像を持っていかれたから、こんなものも取られるんだから負けるんだね、材料ないんだねと思いよったけど。銅があるといってね、あれで鉄砲を作るってと、子どもながら。

Q:これは遺骨収集のときですね。

遺骨収集いっぱいしたよ。このタコ壺にこうしてね、兵隊さん、ヘルメットから首の骨、手、骸骨になってね、すぐ壕の中にこんなにして眠っていた。これをみんな取って芳魂之塔に持っていったけどね、終戦はまたこの仕事。まだ結婚しないから、女子青年だから、また一生懸命。

Q:シゲさん、遺骨収集しているときってどんな気持ちで遺骨収集するんですか。

もう泣きながら、この人は伊江島の人かね、九州の人かねと思いながらなでてね。土みんな落としてね、こんなに入れて向こうに持っていったよ。人間はそんなになるんだねと思って。骨だけがこうして、靴は抜けてよ。骨だけにこうしてあって靴はいて。長いこと夢見よったよ。これを取ってのじきは。生き残りしたねと思う、ほんとに。

Q:やっぱり遺骨収集って辛かったですか。

辛かったですね。いちばん辛かった。頭痛かった、夜は。夕方になったら。それでも人に踏ませてはいかん。最後まで向こうに届けんと、と言われるからね。みんな女子青年たち一生懸命向こうに持って行って。入らないでよ、いっぱいになって、また大きなものをつくられた。

もうやるべき、日本国民だから、やらんとどうする。こればっかり、教えられるんだから。青年学校へ行っても、日本国民は日本国民らしく頑張れと言われるんだからね、これしかないと思っていたんです、あの当時はみんな。それでも苦にもならん、死ぬとも思わない。踊りを見に行くように、行って来るねして斬り込みにもみんな行って、笑って行ったんだよ。

Q:そのことを全く疑わなかったんですか。

何も疑わない。みんな戦争して、どこが勝ち負け出ての世の中の後はいい世の中来ると言われるんだから。これをだれがつくるかねとは思いよった、みんな死んだら。わたしも死ぬし、みんな死んで、だれが子どもを生んで育てていい世の中になるかねと聞いたけど、それは聞かされもしないから、これはわからずのまま、どうなるかねと思って、もう捕虜を取られて慶良間へ行って。そして、親と一緒にまた久志に行って会って、もうあれこれ。

もう思い出したくはないが、始まったらね、こうだったね、あのときはこう言ったねと、これが次々出るんですよ。でも嫌ではあるよ、始めるまでは。やりたくないねと思うけど、わたし村に協力しなさいと言われたときは、ちっとも行かなかったんですよ。行かないで、フミさんが、2人しかいないのに行こうよ。行っても何になるね。天皇陛下にだけはこれだけ言ってきたいねとはいつも思う。天皇陛下の前で言いたい。こうこうでしたよ、伊江島は、といってね。言いたいけど、旅費はないし、会うのも会わされないはずだしと思ってね。

二度とあってほしくない。怖くてね。終わった、あんなにして弾はすぐ1発で流れるんだからねと夢にまで見ますよ。二度とやりたくないといって。あのときはこうして来るとも思わんで。自然にこうなっているんだから。いやといって逃げれば叱(しか)られるしね。非国民といって。

日本の人でない、非国民、弱虫といって叱られるんだから。自分一人の行動は何もできない。みんな戦争があっちこっち来るんだから。一人どこに行ったらいいのかもわらかない。やめることはできないし。残念ではあるけどね、こんな若い人もいなくなって。今考えればかわいそう。わたしたちは幸せだね、生き残ってと思うけど。みんなとってもいい人たちだったのによ、無邪気で。指揮班にいた人なんか最後の斬り込みで、どこで死んだのかもわからんけど。かわいそう。

そしたらわたし一人信じなければどうなりよったかねとも思いますよ。一人信じないで、殺されもしないはずよ、この島に。みんなこう教えられるんだから。望んでやったことではないけど、しかたなくやるがままに、島を守るといってやったんだけど、もうこんなに大きくなって犠牲も出て。島を守るんだといってみんなやったものがいなくなるし。この島にも一人逃げもできないし、反対することはできなかったはずよ。みんなそれで死んだんだはずよと思うよ。

Q:シゲさんの中でやっぱりこれは残しておきたいという気持ちはありますか。

ありますよ。こんなのは残して、二度とやらんようにしてくださいと思いますよ。わたしたちの苦労は二度とないように。戦争は。人間のやるべきことじゃないよ。みんなそう思うはずよ。生きたいとも。何でやったかねと思うはずよ。あのときにぼっ発して、いつも勝ってきたから、今度も勝つといってやったんだはずねと思って、今度で負けているから二度とやらんでしょう。いちばん損の時期だよ。損した年ごろ、わたしたちは。学校を親が出されなければ定時でも行かれるさ、今は。自分のやるべき、わたしはとっても学校好きだったのよ。畑は嫌い。学校も女学校を出されたらね、朝早く起きてイモを掘ってきてから、船に乗っていって学校を出ていいよ、お父さん。学校を出してちょうだいと言ったけど、畑がいっぱいあって、絶対。わたしの上の姉さんが6年のときに結婚したから、絶対行かされないから。体は丈夫だったから。今は親が出さなければ自分で働きながらできるさ。

出来事の背景

【悲劇の島 語れなかった記憶 ~沖縄県・伊江島~】

出来事の背景 写真沖縄本島の北西に位置する周囲22キロの伊江島。
この島では、昭和18年から日本軍が飛行場の建設を進めて以来、島の人々と軍との一体感が強まっていた。昭和20年4月16日の米軍上陸後、島の男性は青年義勇隊や防衛隊に組織され、女性も女子救護班や婦人協力隊として軍に任務を割り当てられ、軍と行動を共にした。そのため、地元の少年が兵士の道案内役になったり、中には16歳の少年が爆雷を背負って米軍陣地に突撃したりした。また、女性も弾薬を運んだり、負傷者を運んだりするなど軍に協力した。なかには、竹やりを手に米軍に突撃した少女もいた。
さらに住民が避難していた壕のなかでは、身内が身内に手をかける集団自決も発生した。結局、住民のおよそ半数が、戦場になった「生まれ島(ふるさと)」で命を落とした。

4月21日、米軍が島全体を制圧。生き残った2100人の住民は、遠く離れた渡嘉敷島などに連れて行かれた。島に戻ることができたのは2年後。人々は、地下壕の中におびただしい数の遺骨を発見した。また、島の土地の多くは米軍基地として接収されていた。1950年代には、米軍は射爆場の建設などのために、人々が定住し耕した土地を強制的に取り上げた。住む場所を失った伊江島の人々は沖縄中を行進し、米軍の土地接収の非道さを訴え、1956年の「島ぐるみ闘争」として沖縄全体に反基地闘争が広がっていった。

証言者プロフィール

1927年
生まれる
 
女子救護班に所属
 
速射砲部隊に配属され、最前線で日本軍と共に戦闘に参加
 
最後の総攻撃で、友人を失う

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