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タイトル 「戦車への肉弾攻撃」 番組名 [証言記録 市民たちの戦争] 悲劇の島 語れなかった記憶 ~沖縄県・伊江島~
氏名 知念 宗真さん(沖縄戦 戦地 日本(沖縄・伊江島)  収録年月日 2009年12月19日

チャプター

[1] チャプター1 ちょうちん行列  02:11
[2] チャプター2 島ぐるみの飛行場建設  01:50
[3] チャプター3 日本兵と取った相撲  02:43
[4] チャプター4 十・十空襲  05:50
[5] チャプター5 米軍上陸  02:57
[6] チャプター6 戦車への攻撃  06:35
[7] チャプター7 捕虜  06:28
[8] チャプター8 なぜ、戦ったのか  02:59

再生テキスト

あのときは日本は全部勝ち戦だからね。この前話したように、ちょうちん行列したり、旗行列したりですね、勝ったときは。1年に2、3回ありましたよ。

Q:ちょうちん行列が。宗真さんはそれに参加しましたか。

やりました。

Q:どんなことをしましたか。

太鼓打ち。

Q:もっと詳しく、太鼓を打ちながら何をやったんですか。

太鼓を打ちながら行列を歩くんですよ。この前の道路をこうしてずっと西に行って。

Q:これは何のための行列なんですか。

旗行列で、城を落とした、戦したときはぜひこれをやらなければいけないといって。あんなのありましたよ。

うれしかったね。勝ち戦の話しだけですから。ほんとに戦争というのは日本が勝っても、あとあとどうしようかね、どうしようかねしながら、だんだん負けていってよ。

朝行くあれだから5時ぐらいにみんな起きて、学校の登校班と同じで一緒に集まってから行きよったんですよ。

Q:きつくはなかったですか、仕事は。

みんなと一緒だから、笑顔で話して、また、2人でモッコなんかをあれして、石をこぼしたりするとき競争してよ。今度大きく叫び、強くあれしたもんだから、あまり騒がないようにしてと隊長から言われてね。

Q:日本兵から。

戻ってきたよ。これはずっとわからんところまで聞こえるから、あまり騒がないようにしなさいよと。しかられはしなかったが。だから、兵隊というのはあまり人をしからないんだねと言っていた。

何軍曹でしたかな。伍長でしたかな。体は小さいし、今の大きさもないからね、もっと小さかったから。よく珍しいやつがいる。投げるでしょう。ああ負けだ、君強いねと言って、壕(ごう)のところに入ったら、すばらしい青年がいるよと。よく見ているね、あれのする技といって。また休憩になると全部相撲場に集まって、自分たちで作って、そこでよくやりましたが。

Q:そこに日本兵の人もたくさん。

はい。相撲は「沖縄相撲」といって、取っ組み合いですよ。あれするように審判員がいて、審判が沖縄相撲のときには抱かして上等に抱いて、審判が「よし」と言ったらやるんですよ。だからすぐ技でね、よく来よったです。つかまえてすぐ投げて。

学校が青年学校ですから、人形を作って、「突けー、突けー」、これはやりました。もうほかにないから、技は。戦争のことだけしか教えないから。だれが聞いても何しても、やっぱし全部一緒に働くだけであって、何も文句とか何とかは言えなかったです。

上から飛んでいるのをよく見ましたよ。弾は落ちるんだが、弾とはわかるわけ。敵のものとは思わない。日本人のものと思ったわけ。

Q:日本軍の飛行機と思ったんですか。

日本の飛行機と思った。後ろの方にまだ西村隊は南の方に行かなかったですから、「あれは空襲だよ」と沖縄の兵隊が叫んで、大変だよ、空襲が来ているということでやりましたが、あれはちょっと、もう少し前に聞かされておけばどんなことをするものがいたらこれは敵と思いなさいとか何とか、そんなことは教えられないで、ただ、非常に日本の軍隊もあんまり信用できなかった。

西の方に大きな飛行雲をまいて上に上がりよったんですよ。今度は十・十空襲のあとだから、今度は毒ガスをまかれるといって、みんなタオルを水に浸してこうして見ていたんですよね。あれはよっぽど機関銃も鉄砲もあんな高いところまでは届きませんからね。撃ちはしなかったが。

そうね、あれで一番最後、あれから1か月もしないうちで始まったんじゃないの。上陸、空襲、艦砲射撃も。僕らはそのときは軍隊に入っているからね。昼はどこにも行かれないで壕の中に隠れているだけ。夜はまたそのかわり壕掘り。

仕事もあまりおうちに帰ってもないもんだから、ここで飯が食われたらいいだろうと思って。あまりおもしろいとも思わない、きついとも思わない。ただ一日過ごせばいいぐらいでしたから、だんだん慣れてよくなったんですよ。

Q:日本軍の人の壕に入るというのは安心感もあったんですか。

そうだろうな。その気持ち。だから、軍隊と一緒におれば死にもしないということがあれされたからね。やっぱし一生懸命頑張ろうと思って、みんな配分されたように各分隊に行って、もうあれから全部呼んで集めるということもできないし、あのまま、あれっきり会えなかったわけです。

Q:家族とは。

家族とは、昼は休みだから、班長殿におうちに行って、お母さん方の顔を見てきますということで。

夜は壕掘りはひまはなかったわけです。ずっと壕掘りだけ。それで、僕らがあれしてからは夜はほとんど壕掘りで、昼は休んで。

Q:アメリカ軍が上陸してきた時のことを覚えていますか。

覚えていますよ。

Q:どうだったですか。

僕らの陣地の前に道があるでしょう。また、下がお墓でしょう。あのときすぐ桟橋から東の先の方までずらっと並んで戦車が20メートル、30メートルぐらいに1台、2台、3台、あれしてボンボン来るんですよ。だから、僕は小さいでもあるし、まだ敵とは遠いから、400、500までは行くかもしれないがということで、ここで弾はこういうふうに撃つんだよということを教えられて、本当の鉄砲は。本当の鉄砲はわたしたち青年義勇隊がいるところ、僕らのところだけだったんです。ほかのところは全然ないです。

Q:鉄砲がですか。

はい。

Q:上陸してから初めて鉄砲の撃ち方を習ったんですか。

そうですよ。青年学校に鉄砲の形の木で作られたもの、一番上の人はあったかもしれないが、鉄砲の本物は見たことはあるかもしれないが、触りはしなかったですよ。

上等兵がまず最初呼ばれて、島の2人が一緒に呼ばれて、君ら3名突っ込んできなさいということで行かされたわけ。帰ってくるな、帰ってこいとかは全然ない。もう兵隊がいるから、確かにただごとでは済まないだろうと思って行ったんじゃないですか。あのときパラパラパラとやったもんだから。

突っ込む気持ちだから、全然変わらないということであるが、だから70メートルの間にちょっと気持ちが変わって、全部分かれようということで分かれて。

これよりほか。死ぬよりほか。だから、あのとき鉄砲弾のあのひどさ、数で驚いて僕らは逃げて来たんです。

向こうにいた山城シゲキチという防衛隊にあれさせて、あんたは真ん中になりなさい。知念君前になりなさいということでさせて。だから、道案内だから僕が先になるよということであれしたら、あまりひどいから、機関銃が。

いや、捕虜に取られようとすると、これ以上はと考えた時にこれを使いなさいと言われている。手りゅう弾をすぐやろうとうは思っていないわけ。

銃の撃ち合い。あれに向かって、でも僕らが通った道のすぐから南側に壕穴がありますからね。ここから東側を見たら、シゲキチ君が、「今撃たれる、撃たれる、早く逃げろ」といって逃げて、すぐこっちに撃たれてよ。あれは命拾いしたよ。ここから大変する、大変すると言ってあれから見て、「ダーダー僕も見よう」ということで、もう撃つから早く逃げなさいということで逃げて、ちょっと銃眼、これぐらいの四角い穴をあけてありますからね、壕の中から。見たら向かっているから、そのまま壕の中に帰って、すぐ墓が落ちていたよ。ちょうど銃眼もつぶされた。

Q:それが上陸初日ですか。

上陸初日。

Q:初日は撃ち合いだったんですね。

撃ち合い。

Q:何時間ぐらい撃ち合ったんですか。

1時間ぐらいはやったんでしょうね。分隊長が命令して、だれか一緒に向くなよということで、1人は後ろから攻撃してやられてはいけないからということであれしたんだが、その日は上からは来なくて助かったんだが。

Q:その日は明け方まで戦って、その日はとりあえず寝るんですか、昼間は。壕の中で隠れて。

夜昼はない。もう起きどおし。

Q:戦車への突っ込め命令が出たのはその翌日ですか。2日目ですか。

2日目かな、3日目かな。後ろ側にも銃眼があるから、敵を見るもの。こっちから見たら向こうに戦車がいるということで、分隊長を呼んできて見せて、故障しているよあれは。故障しているから今晩行って来なさいと言われてよ。

そのときはもう、死ぬよりほかないだろうということで、何の心配もない、生きる喜びもない、死ぬ心配もない。無我夢中でだめな人間になっていたよ。

僕は一番壕の入り口のそばに小さいところがあったので、ムシロをかぶってこうしていたら、「出てこい、出てこい、心配するな」ということは聞こえるんですよ。で、僕の姉さんの子も男の子3名だったが、次男坊だけ生きて、残りの長男と三男はお母さんと一緒に亡くなったんだが、この壕の中で。もう捕虜に取られて僕はここに下がって、これもひっくり返って、だからアメリカが黒ん坊兵がこうして、僕を押すようにして海端にこうしたんですよ。僕は殺されると思って、僕を押してからこうやったから、これが痛くて包帯してくれということでこうまねしてからよ。自分の持ち物をみんな捨てて、すぐ僕を抱きにきたよ。あれで僕は助かったわけ。手りゅう弾がポケットに2つ入っているんだよ。手りゅう弾も銃も持っていたが、銃は海の中に捨てて、手りゅう弾は入っているが、僕はもうわからなかったわけ。自分の本ではあるんだが、もうこれなんかは忘れているわけ。ナガレゴマ行って、きょうは何日なるか。僕は寝ていたよねと言うと、あんた、きょうは3日だよと女の方が言って、「アギジャミヨー、こんな時間寝て大変するね」と言いながら、みんな真っ裸でアメリカの服を着けさせられてよ。包帯して、口もあれして、足はまた元気でしょう。足は元気だからということで、軍で。

Q:当時、投降するのは怖くなかったですか、アメリカ軍に。

捕虜に取られてから、アメリカとは、僕は非常にあれで、「アメリカーターディンカイイチャンショーミーティヌーンタンガ上等ヤンナ」というように、非常に聞かされてよ。ああそうねということで。

あんたたちにいたずらも何もしないですよ。いたずらも何もかもするねということを聞いたから、何もこんなことないよということ。ああ、じゃあやっぱし他国の人で殺してはいけないということをこれたちもわかっているかもしれないなと思って。

これがこうして通っているから、削って、皮がひっくり返ってよ。人でないような形になって大変でした。これがアメリカがあれして、こっちはまた珍しくどこよりも早く治ってよ。おもしろいなと思ったが、ここはあんまり汁がバタバタになってよ。土に伏せなさいと言ってよ、アメリカーがよ。僕はすぐ倒れてよ。あんたこれだけでも残っておかないと人を何とやろうとするのか考えてごらんということで、ああそうだなと思ってやったんだが、もう3か月、4か月ぐらい治りにくくて、これは今の胡屋の病院で。

人はみんな青年学校、それから戦の練習させられているのに、わたしはこれはいやだという人はおそらくそのころはいなかったはずなんですね。戦が目の前にきたから、みんな逃げたということであって、当時の日本のあれは少し変わってなかったかなと思うぐらい、人を奴隷みたいな扱い方をして。

命なくなった人もいるから、こんなけがなんか何も思わないが、ただ、これだけのけがと言いながらも、よっぽど思うように働いたのと思えば残念でありますよ。

その当時、とにかくみんなと一緒にするというのがひとつであって、どこかに逃げよう、どこか一人ぼっちになるということは考えてなかったです。

いつ死ぬかね。どのぐらいまで生きられるかなとかいう物事を考える余裕は全然なかったですよ。とにかく、自分のためにまずは生き延びてということもあったはずだが、これも考える必要はないと思って、ただ生き延びてこれまできました。恥ずかしい。

出来事の背景

【悲劇の島 語れなかった記憶 ~沖縄県・伊江島~】

出来事の背景 写真沖縄本島の北西に位置する周囲22キロの伊江島。
この島では、昭和18年から日本軍が飛行場の建設を進めて以来、島の人々と軍との一体感が強まっていた。昭和20年4月16日の米軍上陸後、島の男性は青年義勇隊や防衛隊に組織され、女性も女子救護班や婦人協力隊として軍に任務を割り当てられ、軍と行動を共にした。そのため、地元の少年が兵士の道案内役になったり、中には16歳の少年が爆雷を背負って米軍陣地に突撃したりした。また、女性も弾薬を運んだり、負傷者を運んだりするなど軍に協力した。なかには、竹やりを手に米軍に突撃した少女もいた。
さらに住民が避難していた壕のなかでは、身内が身内に手をかける集団自決も発生した。結局、住民のおよそ半数が、戦場になった「生まれ島(ふるさと)」で命を落とした。

4月21日、米軍が島全体を制圧。生き残った2100人の住民は、遠く離れた渡嘉敷島などに連れて行かれた。島に戻ることができたのは2年後。人々は、地下壕の中におびただしい数の遺骨を発見した。また、島の土地の多くは米軍基地として接収されていた。1950年代には、米軍は射爆場の建設などのために、人々が定住し耕した土地を強制的に取り上げた。住む場所を失った伊江島の人々は沖縄中を行進し、米軍の土地接収の非道さを訴え、1956年の「島ぐるみ闘争」として沖縄全体に反基地闘争が広がっていった。

証言者プロフィール

1928年
生まれる
 
青年義勇隊に所属
 
日本軍に急増爆雷を使った特攻訓練を受ける
 
地上戦でも手りゅう弾を手に戦車に特攻

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日本(沖縄・伊江島)

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