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タイトル 「集団自決で亡くした父と妹」 番組名 [証言記録 市民たちの戦争] 悲劇の島 語れなかった記憶 ~沖縄県・伊江島~
氏名 山城 竹さん(沖縄戦 戦地 日本(沖縄・伊江島)  収録年月日 2010年6月8日

チャプター

[1] チャプター1 戦争が近付いてきた  02:56
[2] チャプター2 近付いてきた米軍の上陸  03:35
[3] チャプター3 救護班  03:36
[4] チャプター4 壕を去った兵士たち  04:02
[5] チャプター5 さく裂した手りゅう弾  08:26
[6] チャプター6 戦争を振り返って  01:48
[7] チャプター7 ウートートー  03:12

再生テキスト

島の暮らしはみんな畑したりであった。17歳かね、青年学校ってあったよ。1週間に1回ずつ訓練しよった。軍曹がよ。訓練受けさせよった。

Q:どんな訓練でした。

回ってよ、「右へならえ」と言われたらまたこんなにして、こんなしよった。またそうして工事始まったから。

Q:タケさん、他にはどんな訓練しました、学校では。

今度はまた朝5時ぐらい、朝起きショウライといって回りよった、伊江島1周しよった。

Q:これは何のために伊江島1周していたんですか。

これは朝のしっかりするあれだったはず。乱れないようにみんな、しっかりさせる訓練だった。

Q:毎朝ですか。

いえ、1週間に1回、毎朝ではなかった。

ただ天長節、向こうには「君が代」を歌ってよ、敬礼してしよった。このときは校長先生が開けられるときに、みなさん、敬礼して厳しかったよ。

Q:何に向かって敬礼しなさいと。

写真、天皇陛下の。学校の2階にあったから、学校の。みんな開けられるときに最敬礼して、「君が代」を歌って卒業式なんかしよった。天長節とだったはず。うちは6年まで歩いたから。

これたちは行っていた。またビラよ、アメリカたちが飛行機から落としたわけ。「わたしたちは住民との戦ではないから、住民は隠れておきなさい、兵隊との戦争、戦だから」といってビラ書いてあったよ。書いて落としてあったわけ、アメリカ達が。これまたわたしはまた持ってきたから叱(しか)られてよ。「これ捨てなさい」って。

日本兵に。「これはウソです、捨てなさい」って言われた。本当に叱られて。外にみんな落としてあったからよ、これもってきたわけ。見せたから、「これ捨てなさい」と言われた。住民に見せに持ってきたわけ、落ちているのを拾って。捨てた。あとからおかしい、思い出したらおかしい。

あのときは何もできない人が家にいた。みんな飛行場つくりに出よったから、作業。1週間、1週間交代して。

Q:ほとんどの人が。

はい、ほとんどの方が。うちはまたうちのお父さんの兄弟のおじさんが飛行場の2工区の班長であったわけ。だから朝5時にうちの馬に草やって、早く起きなさい、もう時間だよと言われて、一緒に連れて行かれよった。朝5時。歩いていきよったんだから。

Q:飛行場まで。

遠いさ。1里くらい。何里くらいあるかね。遠い。朝5時にすぐいっぱい、道のいっぱい。そこについて、弁当持ってよ。

5時までやった。だからまたこの後から、うちはニセーの公民館で兵隊さんたちが井川隊炊事よ、炊事するから米つきやらないねといったから、飛行場に行くよりはといってこっちに入ったわけよ。こっちから家通って歩かれるさ。遠くないさ、あんまり、公民館、こっちの。今アパートあるところ。向こうだから米つきに行きよった。5名女、5名頼まれてよ。このうちからうち1人生きている。みんな亡くなられている。

戦争でみんな亡くなって。うち1人が生きている。そしてあの城山の、今うちあるさ、お店。向こうで衛兵5名立ちよったよ。敵機見るもの、空襲くるといってこの望遠鏡で見るわけ。また来たら「敵来たぞ」してよ、ラッパで。そしたらみんな壕に入ったわけ。わたしたちは5名の弁当作ったら、向こうの兵隊さんたち持っていきよった。あげてまた帰ってくる。

これあんたたちが来たら、また思い出す。忘れようとしても忘れられないさ。忘れられないよ。あのことは。大変。そうやってまた壕(ごう)に入ったから救護班よ、17歳からだった。うち18歳だったわけよ。救護班とられたわけよ。1分隊2分隊といって分かれてよ。うちとマサコさんとサヨさんいたかな。ハツエさんも一緒だったわけよ。それで准尉と言いよったかね、兵隊さんの救護班。あの人が全部教えよった、壕の中で。「ケガしてきたらこんなにしなさい」と言って、教えられたわけ。

Q:壕の中で。

救護班。カバンみんな渡されていたわけ。消毒も薬も。

上陸しないうちはご飯なんか隣りの家でやりおったよ。やって持ってきよったが。

Q:壕の中に。

はい。人の家でやって。壕の中ではできない。火燃やされないさね。これぐらいあったのに。あったからよ、できない。隣りの家で借りてよ、やりよったわけ。あの壕のときも発破で掘りよったはず。みんな石さ、掘っていくさ、100メートルぐらいないかね。

Q:長さが。

うん、そんだったからずっと西まで掘っていきよったからよ。このぐらい、幅はこのぐらいだったはず。だいたい横にランプつけるの、座らすの、穴掘って、座らせて。小さいランプよ。大変だった。

うん、わたしは炊事。炊事してよ。城山に持っていったり、弁当持っていったり、またご飯炊き、米つきしたり。玄米だったから。玄米すぐもう大きなあの2人でよ、つついて交代交代して、5名いたから。また配給よ。野菜なんかつくってまた持っていきよった、兵隊さんたちに。徴用されよった。そうやってうちなんかは粉醤油(しょうゆ)もみんな内地からきよった。食料よ。シイタケなんかよ。あれみんな初めて見た。

家族の写真持っていらっしゃる人は写真もっていて、うちたちに見せられよった。「うちの家族だよ」と言って。ここまで生きてくると思ったら、いい兵隊さんの名刺なんかとればよかったねと思って。したらお礼しに探しよったかねと思う。ジョウ軍曹のことは忘れられない。

Q:その写真見せたときは自分の家族のことを話していたんですか、その人は。

はい、家族を話されていた。

Q:なんて言っていたか覚えていますか。

もうみんなもう戦争だから、もうみんな別々に頑張ってねと言って、写真の頭なでられていた。もう頑張りなさいとね、わたしたちも頑張るからと言われていた。言われる人もいた。あのときはもういっぱいで涙も出なかった。

Q:どういうことですか。

上陸したときはもう、するときは空襲なんかきて、壕に入るときはもう頭いっぱいで、なんのことも考えられない。もうどうなっていくかねと思って心配だった。負けるかね、勝つかねと思った。負けるんだはず。手りゅう弾投げられてパッと明るくなったら、またすぐ空襲きて弾撃たれて、飛行機から手りゅう弾が落ちたら、すぐパッとして明るくなって、すぐ翌日は空襲きよった、弾落とされよった。あれでわかりよった。

すぐもうみんな何か忙しそうにワサワサして、みんな出て行ったり来たりしよった。もうあんたたちも頑張りなさいよと言って。もうすぐ忙しそうに慌ててすぐ行ったり来たりしよった。あんたたちも頑張りなさいよといってそうされよった。どこかに兵隊さんたち倒れているから助けてきなさいと言われて、またうちたちも出てあれしたが、もう亡くなられていたから連れてこなかったわけよ。

本当に、支那事変といってこれが聞いた、学校歩くときは聞いたさ。本当に沖縄にこんな戦争がくるんだねと思った。もう怖かったよ。こっちに水納島といって小さい島あるさ、向こうから城山によ、大砲チャー撃ちやりよったって。やってもう伊江島一周船よ、アメリカの船で囲まれていた。捕虜、わたしたちがあの向こうに行ったときはいっぱい、船で巻かれていた。怖かった、本当に。本当に来たんだねと思った、戦争というものが。話は聞いたがまさか来るかねと思ったのに、本当にきて。こんなもうみんな亡くなるんだねと思いよった。

みんな上に斬り込みに行きよった。あんまり帰ってこなかったもう。

終わってから、壕の中みんなケガして亡くなってから、ジョウ軍曹という軍曹さんがいらっしゃってよ。「なぜこんな」、いい兵隊さんもいたんだよ、「なぜこんなこと一般民をこんなしたか、大変だね」と言って驚かれよった。みんなうちもケガして、わたしもケガしてもう今日か明日かもう命は分からないと言ったから、「どうしても看病して生きるようにしなさい、水飲んでも生きなさいよ」と言われて、肩もまれて、また上に行かれた。あの人もハワイに捕虜とられて行かれたって。あの人の言葉で生き抜いてきたんだよ。「水飲んでも一人でも生きなさいよ」と言われて、わたしはもう家族もみんないないからもう水飲んでも明日にでも亡くなるはずと言ったから、こんなこと言うなと肩もまれて、「生きなさいよ、頑張ったんだから」と言われて、出ていかれよった。このときは本当にもう身にしみよった、胸に。忘れられない、今までも。あの人に助けられたと思った。こんな兵隊さんもいるんだねと思ってよ。本当に忘れられなかった。

そばにいたがよ。そばで包帯のやりかた自分一人習っていたわけ。練習していたわけ。このときバンとかしたから、どこからはずれたかわからん。どこから始まったか。

Q:1発バンと鳴ったんですか。

うん。誰かが投げたはず。一般民が。

Q:手りゅう弾を。

うん。投げてみんなをこんなにしたはず。うちの家族も誰のものでされたかわからない。わたしはもう怖くてよ。人の倒れているところにすぐ着物かぶって突っ込んでいった。隠れていた。もう怖くて。死んだふりしていた、もう。あとから体に触ったからこっちみんなケガで穴開いてよ。わたしももう長くはないんだねと思ったわけ、こっちみんなすぐ血でいっぱいして着物もみんな破れていた。

Q:そのときご家族はどこにいらっしゃったんですか。

一緒だったんだよ、離れていた、少しだけ。

Q:何メートルぐらいですか。

50メートルぐらいかね、離れていた。

Q:家族がどうなったかって心配じゃなかったですか。

見にいったから倒れられていたからよ、もううちも一緒にいくからねと言ったわけよ。

Q:誰にですか。

お父さんに。もう亡くなられていた。思い出したくない、もう。涙も出なかった、このときはもう。もう体みんなあれだった。一人生きてどうするかねと思って、そのときいとこのおばさんたちに、わたしは慶良間で一緒だったわけ。つれられたわけ。

Q:じゃそのときに家族みなさんもう亡くなったんですか。

はい、みんな亡くなって。

Q:誰が亡くなったんですか。

うちの妹とお父さんと亡くなったわけ。

Q:これは手りゅう弾の。

はい、だったはず。

Q:その亡きがらというか、遺体は見られたんですか。

見たよ。もう頭なでて外に出たさ。

戦争だからしかたがないからもう、わたしは生きているから、お父さんたちの代わりに頑張らないと出ていったわけ、「頑張りますからね」って。なでて出て行ったわけ。家族みんな、一人ハツエさんはお母さんとお父さん、弟と行ったはず。

Q:みなさん家族といらした。

家族よ。

Q:その家族が死んだあともやっぱり戦争のために頑張ろうと思ったんですか、タケさんは。

はい。

Q:どうしてですか。

あの軍曹さんに教えられたから、そのことばかり考えて生き抜いていたわけ。生き抜いて頑張って、子孫守らないといかないねと思ったわけ。でも慶良間でもマラリアでよ、このときも亡くなると思った。すぐ熱だして、伊江島帰ってくるまで病院だったんだよ。

Q:家族が目の前で亡くなったの見たとき、もうそれでも戦争のために頑張ろうというふうに思うもんなんですか。

思うもんでなかったんですが、もうみんなこんなに亡くなるんだねと。どうなっていくかねと思って、もう頭いっぱいだった。何も考えられなかった、もう。そばはみんな人は亡くなっているから。40名ぐらいでなかったかな。もう怖くて大変だった。またいちばん捕虜でとられたおばさんが助けに来られたわけよ、壕に。そしたらわたしはもういつも暗いところにいたから、太陽見て死んでもいいと思ってわたしは出ていったわけ。出ていったから兵隊さんたちは・・に殺されるよと言われよったが、「いや、殺されても太陽見て死んだほうがいい」と言って出ていったわけ。みんなわたし見て、元気な人はわたしついてこられて、ナーラ(捕虜収容所)というところにいったわけ。向こうでまた炊事も。みんなこんな生きていたんだねと思った。いっぱいだったから、生きている人。珍しかった。こんなみんな命あったんだねと思ってよ。向こういって調べられてあれやったわけ、お風呂入れられて、着物替えて、全部。わたしは病人だからといっておかゆをあげられたわけ、初めて。初めてご飯食べた。

もうあんな山もこんな山も越えてきてもう、本当にたくさん勉強なってよ。あれである。こっちまで生き残っても本当にあれである。たくさん亡くなった、同級生みんな亡くなったんだが、同級生の代わりまでも生き抜いて、神様が助けられてこっちまで助けられてきたんだねと思う。

だから「芳魂之塔」はもう焼香は欠かさないよ、毎年行くよ、花持って。こっち焼香してからよ、線香ささげてから向こうに行く。みなさんの代わりにわたしが頑張るからと言ってよ。支えて今ままでも支えてきたわけ。親せきもみんな「あんた一人は神様が助けられてこられたんだね。子孫守れといってだよ」と言われてよ。みんな親せきみんなあれされて。

はい。一人。わたし一人。だからわたし一人でも子孫守れといって生き残ったはず。神様がもうこっちまで生き残されたはず。ありがたいと思うよ。

1人3枚。みんな子どもたち、孫なんかもみんな3枚ずつ持ってきてウートートーする(拝む)わけ。これが健康である。山城は子孫が高くてよ。城山もこさったといってよ。9月もクンガチグーガンといってウートートーするわけ。7月もウプイミ(祈願)。ウプイミといったら神の、ノロ(神女)といってあの人たちが城山に登られるから、向こうも拝んでから向こうに行かれる。わたしたちはああいう、向こうでそんなウートートーしに行くわけ、向こうは。

Q:タケさん、今自分だけ生き残った命ってどういうふうに感じているんですか。

生き残って、もう一人でも生き残ってよかったねと思う。

Q:どうしてですか。

子孫みんなあれして、本当に神様に守られてきて、マラリアにもかかっても、このときは死ぬと思ったが、本当に神様いるんだねと思うわけよ。神様が守られてこっちまで生き残ったねと思うわけ。ケガしても、これで破傷風して亡くなる人もいるさ。こうもしない、治って、こっちまでだんだんきて、本当に神様、お父さんたちが守ってきたんだねと思うわけ。守られてきたんだねと思っている。

Q:あのとき1回は死のうと思ったけど、今生きてよかったなと思いますか。

はい。アメリカ世(米軍政府統治時代)も、こんな時代も見てよ、前のほうより、今の時代見て喜んでいます。よかったねと思う、今。

Q:竹さんにとって改めて戦争って今振り返るとどんなもんだったなと思いますか。

もう怖くて二度とこんなことは起こしたくない。わたしたちでもう終わりにされたほうがいい。もう戦争というのはもう聞きたくない。もう孫たちもう平和にいつまでも平和に暮らすように願っている。もう二度とあんな恐ろしい戦争ないほうがいい。人の命こんなにたくさん亡くなって。

出来事の背景

【悲劇の島 語れなかった記憶 ~沖縄県・伊江島~】

出来事の背景 写真沖縄本島の北西に位置する周囲22キロの伊江島。
この島では、昭和18年から日本軍が飛行場の建設を進めて以来、島の人々と軍との一体感が強まっていた。昭和20年4月16日の米軍上陸後、島の男性は青年義勇隊や防衛隊に組織され、女性も女子救護班や婦人協力隊として軍に任務を割り当てられ、軍と行動を共にした。そのため、地元の少年が兵士の道案内役になったり、中には16歳の少年が爆雷を背負って米軍陣地に突撃したりした。また、女性も弾薬を運んだり、負傷者を運んだりするなど軍に協力した。なかには、竹やりを手に米軍に突撃した少女もいた。
さらに住民が避難していた壕のなかでは、身内が身内に手をかける集団自決も発生した。結局、住民のおよそ半数が、戦場になった「生まれ島(ふるさと)」で命を落とした。

4月21日、米軍が島全体を制圧。生き残った2100人の住民は、遠く離れた渡嘉敷島などに連れて行かれた。島に戻ることができたのは2年後。人々は、地下壕の中におびただしい数の遺骨を発見した。また、島の土地の多くは米軍基地として接収されていた。1950年代には、米軍は射爆場の建設などのために、人々が定住し耕した土地を強制的に取り上げた。住む場所を失った伊江島の人々は沖縄中を行進し、米軍の土地接収の非道さを訴え、1956年の「島ぐるみ闘争」として沖縄全体に反基地闘争が広がっていった。

証言者プロフィール

1927年
生まれる
 
女子救護班に所属
 
壕内の集団自決によって、妹と父が死亡
 
自身も救護班として日本軍と共に行動

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日本(沖縄・伊江島)

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