ホーム » 証言 » 堺 豊三郎さん

チャプター

[1] チャプター1 志願兵で陸軍へ  02:54
[2] チャプター2 「初年兵教育」  02:52
[3] チャプター3 徐州会戦  02:36
[4] チャプター4 食糧は現地調達の名のもとで、略奪した  02:10
[5] チャプター5 対ソ連軍陣地構築  01:41
[6] チャプター6 ガス弾  01:38
[7] チャプター7 ノモンハンへ  04:46
[8] チャプター8 太平洋戦争  03:51
[9] チャプター9 ガダルカナルへ  01:27
[10] チャプター10 奪われた糧まつ  05:35
[11] チャプター11 総攻撃  04:23
[12] チャプター12 乱れていく軍紀  04:23
[13] チャプター13 苦しみの末に  02:02
[14] チャプター14 餓島・極限の状況の中で  01:17
[15] チャプター15 「転進」という名の撤退  02:54
[16] チャプター16 断作戦  02:55
[17] チャプター17 終戦  01:59
[18] チャプター18 ベトミン軍の蜂起・ダラットでの事件  07:01
[19] チャプター19 復員  00:51
[20] チャプター20 8年の従軍生活を経て  01:07

再生テキスト

自分史にも書いておきましたが、昭和13年の1月10日に第2師団、その当時の第2師団、勇兵団といいましたけれども第29連隊留守隊歩兵砲、速射砲中隊に入隊を致しました。これはなぜわたしが入隊をしたかというと、その当時軍国主義といいますか、世の中がだんだんその戦争へ戦争へというよりも、まあ日本は勝った勝ったというようなことで、軍国調が激しくひどくなっておりましたので、わたしもそういう時の流れに従ってわたしを兵隊に勧めてくれる配属将校の方がおられまして、その方の推奨によってわたしが入隊をしたという経緯がございます。

Q その時にですね、堺さんは、その時は日中戦争が始まってましたよね、日本が戦争をするということをどんなふうにとらえていましたか、考えていましたか?

その当時としては、学校の中に、学校の教育の中に軍事教練、教育が入ってまいりまして、配属将校という将校がまず歩兵第29連隊から大尉の人が入っておりました。そしていわゆる軍隊教育というようなものが自然と普通の一般教育の中に取り込まれておりましたので、一つも戦争というようなものに対する矛盾だとかそういうことは一切教育を受けないで、むしろ戦争に進んで参加はする、そのことによって国のためになり天皇陛下のためだ、いうような教育を頭から受けておったものですから、一つもそれに対して矛盾を感じたわけではございません。

その初年兵教育っていうのはその当時としてはそう考えたわけではありませんが、後で考えてみますとね、まず上官の命令は絶対服従する。一つね絶対服従する。これがね一つの教育の基本なんですね。これが軍人、大和魂だということは何もないですね。上官の命令を絶対服従するということはどんなに矛盾したことであろうとも何であろうとも、絶対服従する。そのためにそのために人間性を無視するために、人間性を無視する人間を作るために、びんた教育が横行したわけです。とにかく入って、朝起きて点呼という形で自演点呼という形で1、2、3、4、5、6、7、8、9ということですね。ほいで終わるとねそれまではいいです。それが朝飯食べていろんなことしてこんどは今日は演習だっていって出る。その前にずっと並べておいて向かい合ってお互いに殴り合う。何で殴り合うんだか分からんわけだ。そういうね、いわゆる人権無視のいわゆる教育をすることによって、いわゆる兵隊っていうのは絶対命令に従って突撃せいと言われればはい、相手を殺せって言えばはい、といって殺せるようにし、また死んでくときは自分がやられたときは喜んで死んでいく。そういうような人間を作るための教育の基本が初年兵教育といって、4ヶ月間ずっと教育をカリキュラムを作ってですね、そして入って1週間はこのくらい、2週間目にはこのくらい、3週間目はこのくらいの教育、と。そして約4ヶ月で約3ヶ月から4ヶ月で初年兵教育が終わるような、いわゆる今のいうカリキュラムを作ってですねそして教育をした。わたしはそれは満州から帰ってきて今度はその教育を自分が担当したものですから、入った時はそういう教育だなんてことは知りませんでしたけど、自分が下士官になって帰って来た時には、その教育をその通り実施したという経緯がございます。

Q 一番最初に中国の中国軍と戦闘を交えたのは記憶にございますか?

それは行って間もなく前線に着くとすぐね、あの頃はチャンコロっていったですけど、チャンコロが前にいるぞっていうことで陣地を構えて、そしたら向こうは銃眼ね、要するにトーチカって言ったんですね。こういうトーチカからバッバッバッバッ撃ってきてるんですよ。でそれを撃つことが今度速射砲中隊の任務だったわけ。ほいでわたしは4番砲手ですからそれを狙ってね撃つことが任務。4番砲手ですからね。ほいでわたしがまあなんて言うんですかね、分隊長に信頼をされておったわけですよ、その当時としては。ほいでわたしがうまく800メーターか900メーターくらいじゃないかと思いますけど、一発命中したらピタッと止んだですよ。そしたら徹甲弾を撃って止んだから今度は榴弾(りゅうだん)砲を撃てっていうんで榴弾砲でこうやって3、4発撃ったら、5、6発撃ったらねピタッと止んだわけですよ。止んだら今度歩兵はね前進してワーッと突撃をして行った。そういうのを実際ここで除州会戦で戦闘をやったわけですよね。

全然恐ろしくもない。だからそういう教育を受けてるから、恐ろしくもなければ何でもないですよ。敵を見れば攻撃だ。やれっていうだけでしょ。そのとおりですから。その教育を徹底して受けてるもんですから、弾が来るから恐ろしいなんて、むしろ弾に当たって死んだ方がいいくらいのね、苦しさですから。もうなんていいますかねえ全然そういう時には実際としてね、後になってからはあんなばかなことをよくやったもんだなあと思いますけども、その当時としてはもう全然そういうことを感じなかったですよねえ。不思議ですよ。ですから人間の教育っていうのは恐ろしいですよね。そう言う教育を受ければ、こういう教育を受けてしまえばもうね、オウム教じゃありませんがそういう教育を受けてしまえばやっぱりそういうふうになるということですね。それはつくづく後になって感じましたね。

いや、なんもないから結局現地調達。ここにも書いてありますように部落に入るでしょ、そこで今晩大休止今晩ここで泊まるって。そうすればまず水ですよね。それから米は部隊がね、連隊本部が輜重(しちょう)兵といって本隊のほかに後方の部隊、いわゆる輜重兵っていうのがいて米だけは運搬してくれた、米だけは配給してくれる。それ以外の副食物ね、野菜とか卵とかねそういうような物は現地調達といって現地にあるものかっぱらえというわけですよ。ですから仕方ないから探してね、そしてだけどみんな現地の支那人は逃げちゃうでしょ。誰もいないわけですよ。いないからしょうがないから見たら大きなアンペラで囲んだ物があってそれをこうやってみたら中から野菜から卵からねいっぱいでてきたわけですよ。さあここにあるぞっていうんでね、みんなしてそれを分けてそいでそれをみんな分けてね食料にするというような、要するに全くの侵略ですよね。侵略もいいところ、もう。その当時は侵略だなんて言いませんがね。勝った勝ったですから。とにかく行って徐州を落とすまでね3日間あったと思いますが、そいで印象に残ってるのはむちゃくちゃなことをよくやったもんだなあというふうに思いますね。それこそあんな戦争なんていうのはね、全くのそれこそ戦争のいい言葉でいえば悲劇といいますけども、悲劇なんてもんじゃないですよね。それこそ全くのむちゃくちゃですよね。

徐州会戦が終わったらね、要するに徐州が陥落したでしょ。そしたらうちは応急派兵ですから一旦行ってね、戦争に参加して勝ったわけですから、すぐに今度引き揚げる命令が出たわけ。引き揚げる命令は今度また列車のあるとこまで駅のあるところまで下がってきて、そこから今度貨車で満州にまた戻ったわけですね。で今度牡丹江というところに入ったわけですね。

Q 牡丹江ということはいわゆるソ連軍に向き合う

今度逆に今度はソ連軍ですがそのころはソ連なんてあんまり意識しなかったですもんね。満州にいるというだけでね、わたしたちはソ連を敵国となんてあんまり考えていなかったですもんね。ただここにはいろんなわたしは陣地構築の分隊長をしましたので、敵前にね陣地を作ったのでそんなこと感じましたけどね。それほどソビエトが来たからといって、要するに必勝の信念ですから絶対に負けないという考え方があるもんですから、なに彼らにしたら撃ち返せばいいじゃないかという程度くらいでね、なんもね恐ろしいとかそういうこともないし、満州に帰ってきたら大変平穏な、豊かな生活をしたですよ、結構ね。

Q 一般の兵士たちからすればソ連が怖いとかあるいは切迫感があるとか、ソ連の脅威が迫っているという感覚はなかったんですか?

ただねわたしは下士官でここにも書いてあるように、ガス掛下士官だとかそういう特殊なね教育を若かったしそれから何と言いますかね、とにかくおだてられてね、ガス係下士官を命ずるなんていうことになれば、喜んで自分が行ってそれを研究して、ほいで人体実験ですよ。ガス弾をある程度のラインを引いておいてね、何平方メートルの中に何発のガス弾を落とせば、どれだけガスが広がると。そうすればどのくらいの殺傷があるということで、兵隊をそこに日本の兵隊を逆にそこ渡らして、ガス症になることなること。人体実験をやったですよ。そういう無茶苦茶なことをやって、それでいても何て言いますかね、その当時にしてみれば、それこそ軍の命令だ天皇陛下の命令ですから、何の矛盾も感じないでね。いわばわたし自身が戦犯ですよね。戦争犯罪人ですよ。

ですから着いてね。いよいよ敵を前にして前線に着いた時に、わたしが戦車爆破要員決死隊分隊長という命令を受けた。ほいで白いたすきをもらってそしてわたしはここへ10キロ爆薬と後ろへ10キロ爆薬を背負って、そして戦車に飛び込んでいく。そういう分隊長を仰せつかった。だから必ず死ぬということを分かった命令を受けた。ところがその命令を受けてもね大変だとかねいやあ死んでどうこうというのは無いです。喜んで突撃するという訓練を3日間くらいやりましたかね。そしたら停戦になった。だからそういうのがわたしの命拾いをした原因じゃないでしょうかね。

Q つまり初年兵以来ですね速射砲を扱う砲手として訓練を受け、それにその技術を身につけた人間が、その速射砲を使うんじゃなくて言ってみれば人間爆雷になると、いうことについてそのおかしいんじゃないかということをそのときは思わなかった?

思わない。要するに止むを得ないとね。ということは実際に速射砲というのは37ミリ砲でこんな大砲ですから、あんな大きな戦車にね九四式戦車にね、あのソビエトの戦車の教育も受けておったしね、こういう戦車だってことを受けておったもんだから、とてもうちの速射砲ではものの用に立たないということも考えておったわけですから中隊長も、小隊長もね。みんな考えておった。しかし命令ですから前線に行ってキャタピラーを狙えというわけで行ったわけですから。そういう命令を受けてもねなんていいますかね当たり前だ、それがお国のためだというそういう一つも矛盾を感じないというのが実際本当ですよね。感じなかったですよね。後になってからはね、はあばかなことを命令されてもよう助かったなと思ってる程度で。その当時としては全然そういうふうに矛盾を感じないというか、そういうことを理解できないような教育になっておった、教育を受けておったですね。

それはね一番困ったのは水ですよ。あのノモンハンでね一番困ったのは水。だから結局あの水を輸送してもらったですよ、やっぱりね。日中戦争の場合には井戸があったからそれでよかったですけど、ノモンハンの場合にはそれが無かったわけですから、水の補給をしてもらったですね。それはもう別に給水車ですね、今の給水車と同じように、いやあんなもんじゃなくてズックっていうかな、同じ水を入れるのにもタンクなんてのはなくて、そういうズックに入れたようなものをねトラックに積んできてね、そして配給したですよね。わたしたちは馬がいたもんですから馬の水もね何としても人間倒れるより馬に倒れられたら困りますから、それが一番大変だったですよ。帰る時はずっと歩いて帰ったですけども。

Q ハイラルまでですか?

ああ、ハイラルまで、歩いてね、行軍させられたわけですよ。だからあん時の連隊長じゃない師団長なんてのもばかだよね。だからトラックで帰ればいいのをね、それをわざわざ歩かしたんですからね。まったくね、行軍第一といって、まったくばかな連隊長で。そのときに本当にここにも書いてあるように、この連隊長の馬鹿野郎なんていう兵隊が出てきて。そうしてとにかく泣く泣く一週間くらい歩いてね、ほいでハイラルまで帰ったことを覚えてますね。

向こうはやっぱりほら戦車でもってみなこう来たですよね。戦車隊が主体だったから。ほいで日本軍は戦車に潰されたですからね。手を挙げて、お手上げですよ、こっちは。M4戦車とかなんかって名前付けとったですけども、ほれでもってウワーって来られたらもう全然ソビエトとやったらかなわなかったですよ。それで停戦したわけですね。

それはもう召集があったでしょ。臨時召集があってそしてその時の編成官になった時にわたしも動員係で、いろんな中国に送ったりいろんな戦争が始まるということはわたしも薄々感じておったし。そしてその時にその当時のミネギシって言う中隊長が動員されてきて、「おお堺君まだいたか、俺と一緒に南方へ行ってくれ」、ということで編成をしたんですよ。その編成をするのはわたしがやっぱり中心になって編成したもんですから。その当時はまだ軍曹だったですけども満州からの現役軍曹ですから、なんていますか連隊では威張ってたですよ。

Q 古参になるわけですか。

古参軍曹っていうことで。ほいでじゃあうちで編成するから「隊長じゃあこういうんでどうだ」っていったら、「ああいい頼む」っていうことで編成を作って、そして兵隊を集めて、そして始まる前に豊橋に一往して。そいでそこで始まった。それから今度出発した。だからもう戦争が始まる前にすでに分かっておった。そういう状態だった。その当時になってくるとね、少しは階級が上になって少しはなんていうか少し情勢を少し分かるようになってきた。ですけどもどこに行くかは輸送船に乗ってもなかなか分からんかった。で台湾沖へ出て初めてジャワに行くということが分かったわけです。ジャワ攻略するってどこへ行くんだろうって、ジャワのどこだなんて、ジャワのこういう所に上陸するんだ。上陸作戦をやるんだと。で上陸作戦の演習もやってましたからね、内地でね。ですからその当時としてはなにもわたしもそんなに恐ろしいなんて思ってないしね、1個中隊ね砲4門もおって相手が相手だからね、オランダ兵だからたいしたことないというふうに頭からそう思ってたもんですから。だからジャワ攻略戦はまったくの無血上陸であり、それこそ行ったら敵はすぐ万歳したというようなことですから。ジャワ攻略戦だけはあれですね勝ち戦ですからね。

Q その前に12月の8日にですね太平洋戦争開戦、アメリカとイギリスと戦争をするということが決まったことをと聞いた時に、覚えてますかその時のことは。

いや大変なことになったなあと思ったですよ。その当時もねアメリカは大変な大きな国だということは分かっておったからね、これはもうどうなるんだろうなあというふうには思った。だけどもそれこそさっきの教育じゃないけども、絶対に負けない、我が国は神軍である神様の国だから負けないというそういう教育を受けてるでしょ。ですからそれに対して負けるなんて敗戦になるなんて、そういうようなことは全然ね、考えられないし考えられない教育を受けておったですね。だから残念ながら我々も戦犯の一つですよね。

その当時はね、ガダルカナルに行くという命令は、編成されてこの17年の9月17日の日に、速射砲中隊の指揮班付き下士官として参加したと。その時に、上陸する時にですね、9月17日にバタビア港を出港して、輸送船の甲板で受けた連隊命令が今でも忘れられないが、「ガ島戦を奪還せずんば、一名たりといえども生還をきすべからず」というね、こういう命令を受けたことだけは一生忘れられないですね。それはそこで受けたんですよ。これは大変なことになるな、と思ってね。

Q ガ島については、その時点で何か耳にしてましたか。

いやいや、もうそれだけでね。そういう命令だけであとは何もね、内情については分からんかったですね。

Q ガダルカナルという言葉も聞いたことなかったんですか。

なかったですよ。

Q だから、一木支隊とか、川口支隊ですね、かなりもう壊滅に近い状態でやられてるっていうのは、聞いてましたか。

それは上陸してね、その川口支隊がどうのというのは、全然聞いてないもんですから。わたしが、ここに書いてあるように、上陸して、背嚢(のう)なんかをみんな上陸したら、わけのわからない兵隊が来て、「お手伝いします」って言うから「おお、いいよ」っつって、手伝ったら、その背嚢をかっぱらってね、行ったわけですよ。それが川口支隊の兵隊だったわけ。その川口支隊の兵隊が、結局前線で糧まつが無くて、お腹がすいとったものから、日本軍の兵隊があがって来たから、それをかっぱらったっていうことは、後で分かったんで。その当時は分からないですもんね。「とんでもないことになったな」と思ってね。そうしたら後になってから、初めてそういうことが分かったので。「ああ、そうだったのかな」と。それで同じ運命に今度はこっちがなったわけですよね。

Q その時に、当然アメリカ軍が占拠してるわけですから、初めてアメリカ軍との戦闘になるわけですね。で、アメリカ軍については、何か聞いたり見たり、何か本で読んだりとかですね。つまりアメリカ軍っていうのはどういう兵士なのだ、どういう軍隊なんだっていう情報はありましたか。

あのね、これが傑作なんですよ。アメリカっていうのは弱い兵隊で、日本軍が突撃して行けば、着剣…、三八式歩兵銃で着剣してね、突っ込んで、「突っ込め」って言って突っ込んで行けば、必ず逃げる弱い兵隊だと、こういう教育を受けていた。だからまあ、たいしたことはないと、こういうふうに考えておったんですよ。本当はそうじゃないんだけども、教育として我々はあまり教育を受けてなかった。アメリカ兵は強いなんて全然考えてなかった。また、また、あまり強いなんて考えてれば、兵隊ね、オドオドするから、そんなことしなかったんだろうけども。その当時としては、アメリカ兵に対する、この要するに、戦力って言うか、そういうものを甘く見てね。日本軍そのものが甘く見ておったし、我々もそういうふうに思っておった。それが実態ですね。

Q 8月9月と、一木支隊と川口支隊が大変な目にあってるわけですから、それが戦訓としてですね、次に投入される部隊には「いや、アメリカはこうだ」と。ちゃんと「こういう戦闘があって、こういうひどい目にあったんだから、こういう戦闘をしないといけない」という戦訓がですね、伝えられるべきだったと思うんですよ。それは無かったんですか。

全然無かったです。要するにそこにね、いわゆる日本軍の、要するにガダルカナル作戦の、根本的な間違い、誤りがあったと思うんですよ。全然ね、アメリカ軍をばかにして、そして「日本軍が突撃すれば、アメリカ軍は逃げて行くんだ」と。そのくらいに考えてね、飛行場奪還なんかすぐできると。こういうような考えを、持っておったんじゃないかなと。しかし本当のところをね、じゃあここに飛行場があって、どこに山があって、どこへ行って、どこを攻撃すればいいっていう作戦命令が、実は辻参謀(辻政信大本営参謀)が勝手にやってたんじゃないかと思われるように。我々は海岸を行けばね、すぐ攻撃できるんだから、海岸を行けばいいんじゃないかって言うのに、わざわざ山の中を回って、う回作戦をしたわけで。そのう回作戦っていうのは、辻参謀がマレー半島でそういうう回作戦をしたもので、成功したものだから、そのまあ何て言いますかね、一点張りでねそんな命令を下した。ところがそのう回作戦をする、そのジャングルの中を通る山、これがね、大変な山あり川ありするっていうことを全然ね、そういう地形やなんかを全然探索しないで、命令を出したと思う。それでわたしが連隊本部の将校斥候になって、わたしが一番最初にジャングルを行って、行ったらとてもこれは大変だと。こんな所はだめだって言って、本部に帰って、そしていわゆる復命をしたんですけども。その当時の連隊長としては「それは困った」と言うだけで。師団に話をしたけども、全然そんなことは無視されたんですよ。だから今にしてみれば、あの時わたしは木の上に上がって、全部それを全部略図を書いてね。飛行場がここにあって、ここにあって、っていうのを全部略図を書いて。それを命令書を作ってね、復命書を作って、そして本部へ持って行ったんだけれども、全然取り上げてもらえなかったんです。今でもこれは、あれですよね。あの時ね、わたしがもう少し力があれば良かったけども、力が無かったしだめだし。それからその当時の連隊長もそうですしね。もう言われる以外に、方法は無かったんですよね。

すぐ攻撃に移ったわけですよ。それでしかもね、例えばガダルカナルのいわゆる写真をね、我々に略図でも何かくれるかっていうと、何も無くて。もらった航空写真っていうのが、何しろまっ黒けで、ここに海岸があって飛行場が薄く見える、このくらいで。だから全然、その、行く道なんていうのは全然無いわけですよ。だから要するに、工兵隊が先頭になって切り開いて行くわけなんですが、工兵隊と一緒に行くのは、歩兵は行きますけども、我々のような大砲を持ってる者は、とてもじゃないが分解して搬送しなくてはならんから。とてもじゃないが、できないわけですよ。それで途中まで行って、わたしは中隊長と相談してとても4門なんて持てないから2門捨てて。2門だけで行こうっていうことで。その2門もね、速射砲が総攻撃の23日に間に合うためには、頑張れって言ったって。食料が無ければどうしようもないんだから。どうしようもなくて、この前線の総攻撃に参加できなかったんですよ、わたしら中隊が。それでわたしは助かったの、極端に言うとね。簡単に言うとそうなの。

ですから結局ね、飛行場の、ずっと飛行場の前にアメリカは陣地を構築しておって、日本軍いらっしゃいって待ってたわけです。ですから日本軍がはって行くでしょ。それで突撃しようっていう前に、ばーっと重機関銃で、機関銃でもって、「ばっばっばっばっば」と曳光(えいこう)弾を撃つものですから。昼間でも曳光弾を撃ってくるんですよ、分かるようにね。だから日本軍がはって行く所がみんな見えるようになるわけですよ。そういう所をね、ばーっといくものですから、一人残らずみんな、要するに殺されたって言うか。突撃する前にみんなやられちゃったんですよね。

それでわたしは一番右、右第一線で一番右側にいて、すぐこうね。ところが、指揮班はいるけども大砲は後ろですからね、どうしようもならないですよ。2キロも後ろの方にいて、まだ担いでいるなんていうザマでしょ。だから攻撃は始まったけど、俺はしょうがないから。だからミネギシ隊長がこう書いてあるように、「突撃する」って言うんですよ。それで突撃するって言ったって、ごぼう剣持ってね。突撃して行ってって、弾が「ばっばっばっば」と来るのが見えるわけですから。そんな所へいってね、ちょろちょろ行ってみたって、死ぬに決まってるじゃないかと。で「止めましょう」って言ったらね、と言ってるうちに、だーんと迫撃砲弾が来て、わたしがここをやったり、背中にね破片がこんなのが、どしーんと落っこちて来たんですよ。だからわたしも今度は負傷してしまった。そうしたら堺って言う指揮班の伍長は左足をぶっ飛ばされて、亡くなって。それで「班長は脚あるか、脚あるか」って言うけど、「脚あるよ」なんて言ってみたって、もう無いっていうよね。それで彼はそんなことを言ってるうちに、出血多量で死んでしまう。だから、わたしが負傷する、わたしの兵隊が負傷する、中隊長はけがもしないし、中隊付きの、衛生兵、衛生下士官が負傷。3人、5人生き残ってるんですけど、そのうちの3人だけが丈夫で、後はみんな負傷したわけですよ。

負傷したけどもね、この辺のところでたいしたことないから、後で要するに昔でいう包帯包でね、出してみたけど、たいしたことないから、そんなのかまってられないから。そんなにたいした負傷じゃないということで。だけども、負傷したもんですから、わたしも何と言いますか、何も死に行くことはないと思ったから、「中隊長、止めよう」と。「止めよう」ということを言ったら、中隊長も「そうか」ということで、突撃だけはやらなかったんですよ。

今度はもう、戦闘どころじゃないですよ。「下れ」っていうことですから。タサファロングっていう所に、上陸した地点の近くまで、下ったわけですよみんな。それでこの辺に壕を掘ってね、でまあ、待機をしてろと、こういう命令だったの。それでその壕を掘って待機してる間に、これがあがらないから、食べ物が無いから、今言ったように草の根を切ったり、とかげを撃ったり、蛇を取って食ったり。もうあらゆる物、食べられる物をね、もう何でもとにかく口に入れたわけですよ。だからみんな、今度は体が弱ってるところへ、そんな草なんか食べるもんですから、下痢をした。それで下痢をすると、あの当時、何と言いますかねえ、ガ島熱と言ってたんですが、かーっと40度から50度でもないけども、熱が出てね。それでばたっと倒れる。倒れればそのまま死んでいく、という状態になったわけですよね。だから恐ろしいね、あのガ島の惨劇なんていうのはね。もうとてもじゃないが、今色々な本で色々なことを書いてますが、確かにその通りでね。まあわたしなんかから言わせると、なぜあんなばかな作戦をしたんだろうかな、と思いますがね。

Q その時に、総攻撃の後、海岸の近くで生活というのは、もう軍隊というか部隊としての組織的な行動っていうのは無かったんですか。

組織的な行動がね、要するに命令が無くなったわけですよ。ということは中隊長、うちの場合だったら中隊長とか指揮班長とか、最初のうちは生きてましたよね。そのうちに、ここにも書いてあるように、「~殿死にました、曹長殿が死にました、誰々軍曹殿が、分隊長が死にました」っていう報告があるでしょ。段々段々、死んでいきますから。もう今度は、例えば速射砲中隊としての、この隊としての、軍隊としての「隊」が無くなったわけですよ。みんな、通信隊長とかね。通信隊とかも隊長は死にました。そうすれば後、じゃあその下の小隊長がね、指揮するかって言ったら、それも死にました。みんな死んでいって、兵隊だけになったら、もう指揮命令も何もないわけですよね。だから軍隊が無くなってしまった。「隊」っていうのがね。要するに指揮命令が全然無くなってしまったっていうのが、実態ですよね。

元気な兵隊がね、糧まつ、わたしの兵隊を出したら糧まつをもらえるって、行ったでしょ。それで3人行ったら、1人どうしたって言ったら、「殺されました、射殺されました」って言うわけ。結局兵隊が撃って、それでその糧まつをかっぱらうっていう状態になっちゃったから。これはもう、全然軍隊の「隊」もへちまも無くなってちゃったんですよね。

Q それは他の連隊だったり、

もうどこの兵隊だか分からないわけですね。そんなような状態になってしまった、っていうんですよね。だから師団があり、連隊があり、中隊があるんですが、中隊はそのようにもうね、師団長以下3人かそういうようになってしまえば、5人か10人になったり、分隊も段々減っていけば、もういわば、まあ、何も命令する者も無いですからね。問題は、飯を食べなきゃどうしようもないですからね。その食料が絶たれたから、どうしようもなくなったっていうのが、実態ですね。で、それを早く見越しして、軍が、要するに大本営が、ガ島を早く引き揚げればね、こんなことにはならなかったと思うんですよね。だからそれをね、もたもたして12月になって、ようやく引き揚げたのは2月でしょ。だからその間にね、みんなもうばたばた、ばたばた倒れて行ったんですよね。

それはね、たまたまね、あの壕に兵長と2人、もう1人、3人だな。2人か、わたしと2人だったかね。要するに海岸に行ってね、何かその、海岸から何かうまい物でもあがってきてないかと。そういうその、何て言いますかね、食料を見つけようと思って、ふらふら出かけたわけですよ。そうしたらたまたまね、参謀肩章をつって、リヤカーに乗って、そして兵隊にリヤカーを引かせて下って来たわけですよ。下ったっていうか、海岸をね下ってた。それでそのうちのわたしと一緒に行ったんですが、大将は小銃を持っていた。そうしたらね、それを見たらガチャガチャと。何をするんだと思ったらね、その将校を目がけてどーんと、殺してしまった。「どうしたの」って言ったらさ、「こんな野郎がね、我々がこんなに苦しんだね作戦をやってるからね、我々はこんなに苦しんでるんだ」と。「こんな野郎は生かしておけない」。「天皇陛下の命令だ」って、鉄砲で撃ち殺しちゃったんですよ。これはまったくそうなんです。そうしたら今度は、付き添っていた兵隊はね、一応まあ、どこか元の部隊に帰ったんだと思うんですけど。それでその参謀はもう、即死でしょ。それがまた、どこへ行ったか知らないけど、とにかく即死したんですよ。それでわたしはしょうがないから、草むらの中にそれを入れて、まあひとつ「ごめんよ」ということで、まあ部隊に帰ってもね、そういうことは人に話をするなと言って、ずっと話してなかったんですよ。

あの当時はまあやっぱりね、また軍隊で無くなりましたからね。ここにね、だからまあいわゆる部下をおかしくね、扱っていたような隊長はね、いち早く殺されたんですよ。

それはね、まあわたしにね、「隊長、肉が、豚肉が手に入りました」と言って持って来たことがあるんですよ。だからわたしはね、「豚なんかいないだろう」って言ったら、「いやいや、それじゃ部落があってそこの豚です」と。そう言ってもらったことが一度あるんですよ。だけどもその後にね、そういう噂があったわけですよね。人の肉をね食べ始めた、といううわさはあったけどもね、わたしは直接にはそれには、あまり関心が無かったですね。そんなひどいことは無いだろう、というふうに思っていたから。ただしかしね、そういうことでわたしに、まだ元気だったから、まだ兵隊もまだ元気な時期だったですから、その時にはまあ、食べたのが豚肉だかね、人間の肉だかっていうのは、分かりませんけどね。しかし後になってね、そういう人間の肉を食べるようになった、っていう話は、後になってからね、耳にしたんであって。その時はちょっと分からんかったですね。

みんな死んでしまって、中隊長と今さっき言った3、4人ばかり生き残ってたんですが、その中にコンノという、ついこの間まで生きておったんですけども、コンノっていう第1分隊長が、健康で元気だったんですよ。それでいよいよ撤退命令が来たんですよ。その撤退命令もね、何か命令受領っていうものじゃなくて、「おーい、生きてる者、話を聞け」と。これから転進作戦を、撤退とは言わなかったの、転進作戦をすると。だからどこどこの海岸までね、海岸までみんな集合しろ、という話をしたの。そうしたら、そのコンノっていう軍曹が、わたしがその時曹長になっておったんですが、満州にいた時の先輩なんですが、それが「堺君、行こう」って言う。「いや、とても俺はだめだ」と言ったら、「ばか野郎、そんなこと言わないでとにかく行こう」ということで、その人がわたしのケツをはたいたりね、手を持ったりしてくれて、わたしもつえを2本持って、そしてこうして歩きだしたわけ。そして2晩ぐらい歩いたんじゃないかな。そうしたら、2月何日にね、第1回、第2回って撤退作戦をしたんですが、その内の2月何日かの時に海岸に行ったら、駆逐艦が来ておって、そしてそこに船から登ってね。縄ばしごを登る時も、上から引っ張りあげて、後ろからわたしを押してくれて。そしてその駆逐艦に乗ったわけですよ。だから、助けられたのはコンノっていう軍曹に、何と言いますか、助けられたんですよね。

その直前はもう、かなり体力が落ちていたんですか。

ああ、もう。わたしはもう全然だめだった。つえをついてね、それこそフラフラで今と同じですよ。フラフラして、もうだめだと思ったの、自分じゃあ。みんなほらね、そういうので歩けないのもみんな、だめだって言ってあきらめたんですからね。だけどもわたしはそのコンノ軍曹に、激励をされて海岸まで行って、船に乗せられたからもう助かったっていうことですね。

それから今度、断作戦に転進させられて、雲南龍陵作戦って言って、そこのところの前線に出たわけですよ。そこには今度は29連隊の速射砲中隊としてまた出たわけです。それで今度出たら、第1小隊長と第2小隊長が軍刀持って出たとたんに、迫撃砲でやられて吹っ飛ばされちゃって。小隊長二人いなくなっちゃって。

それで今度はどうしようもなくて、わたしが小隊長兼任、指揮班長兼、まるっきりいなくなっちゃったもんですから。それでそこで色々なことやって。ここにも書いてあるようなことをやって、まあ負け戦になってね。向こうの方が米式中国軍で。

Q中国軍ですよね。
その時に中国軍だったんですけど、その前に徐州会戦で中国軍と戦闘してますよね。その時の中国軍と、この時の中国軍って違ってましたか。

いや、何かね、全然違ってたんですよね。ということは、米式重慶軍っていって、アメリカの戦車と、それから迫撃砲と、この2つを持っていた。向こうの武器はね。それでしかもね、なかなか命中力が良くて。しかも迫撃砲が大きくてね。重八九って言って、大きな迫撃砲を持っておって、それがなかなか命中がいいんですよ。ですからわたしも研究しておったから、「弾をこっちに置いて、2つがここで、3弾はここだ」なんていうふうに、だいたい分かるわけですよ。そういうことを考えながら、向こうへいるなら、こっちに逃げようっていうようおなことで、前線にいる時はそうして頑張ってたんですよ。だけども、戦車も山の中を来る、戦車をまず向こうは持って来たしね。これはかなわんな、と思ってるうちにね、迫撃砲も上手に撃ってくるからね。そこでわたしは今こういったけがをしてる。そこでもけがをした。だけどその時は、もう誰もいないですから。けがなんかして、やってられませんから。そして今度中隊長と相談して「下がろう」って言ったら、連隊本部の方から「下がれ」ということで。いったん龍陵まで下がって。それからそこでしばらく待って。抵抗したけど、とてもだめだと、持ち切れないということで、だーっと下がったんです。それで今度こっちの方まで、うちの連隊はどういうわけか、29連隊は最後まで下がれ、というふうに言ってくるから、最後まで下がったんですね。だからまあ、今にして思えば運がいいですよね。

その雲南龍陵を下がって、今度は最後に下がって来てからね、今度はフランス軍とやったわけですよ。

いや、それはもう、連隊本部に連隊長が集まって。幹部が集まれっていうことで、各中隊からみんな集まって。そこで連隊長が玉音放送といって、ラジオ放送をそこで聞いたんです。ところがわたしは、いっぱいいたしね。わからんかったですよ、何だかね。だけどとにかく連隊長が、「戦に負けた」ということだけは、連隊長が言って。それで「天皇陛下の命令によって負けた」と。そのころはね、言い方はそう。「天皇陛下の命令によって負けて、天皇陛下の命令が出た」と。「だから、まあ我々の言うことを聞いてくれ」。その時の連隊長は、なかなかしっかりしてましてね。それを「聞いてくれ」ということで、部隊に帰って、で、中隊長と相談して、こういうわけだからどうしよう、ということで。終戦のね、やり方、色々な、まあ名簿をどうするかや、給与や現俸をどうするかや、色んなね、軍隊の中身をどうするか。というようなことを、みんな相談したけど、わたしはその中でまあ、まず軍人名簿はもし没収されると困るから、その代わりの名簿を作っておこうと。それから主たる軍歴などを、とにかくやっぱり持っていようと。焼かないようにしよう、ということで、まず焼却は止めようということで、これはもうわたしの中隊だけは止めようということで。中隊長と相談して、「そうか、じゃあ堺君、それでいいか」って言うから、「それでいいんじゃないですか」って。それからどんなことがあるか分からないけども、最後の最後でいいじゃないか、っていうことで、名簿は焼かないことにしたのは、良かったですね、後になって考えてみると。

今度わたしはもうダラットへ行って、それで当たり前にいたら、今度はダラット事件っていう事件が起きて。それはいわゆる、原住民がフランス軍をやるために、総決起したわけですね。それでフランスはそれに負けて、フランスに引き揚げたんですけども。その時にまだダラットでは、うちの部隊は300人ぐらい、フランスの生命財産を守るっていう名目で、ダラットという所に警備が300人ぐらい、武装解除しないでいたんです。そこにわたしが逃がしてもらったんです。
わたしは現地に入ったら、なるべく早く現地の言葉を勉強しようと思って。現地に行って、色々な話を聞こうと思って。そして市場に行ったんですよ。バザールに言ったらね、何か「わーわーわーわー」言ってるんですよ。それで何か知らんけどもね、行ったらね、ベトナムの連中が「マスター、日本軍の兵隊さん、一つ大砲を、あの、鉄砲をください。それから刀ください」って言って、帯剣ですね、ごぼう剣を持ってたものですから、それを「ください」って言ってくるんですよ。それで何だろうと思ったらですね、結局その当時ホーチミン軍が立ちあがって、フランス軍をやっつけるために、自分たちが武装しようとしたわけで。武装するには、日本の小銃と、それから弾薬と、そういうものをくれてくれと言って、来たわけなんです。そういうふうな作戦を、彼らはやったわけなんです。それでわたしもそこの中に行って、「いやいやなんだかんだ」って言ってみたけれども、とにかくね、わたしの兵隊が佐藤っていうわたしの付き人が、当番兵が、頭をやられたんですよ、それで血だら真っ赤になって。わたしは拳銃で撃たれて、ここに盲管銃創した、撃たれてね。だから血も出たわけです。だからわたしは血だらけ真っ赤になって。

それで今度は、わたしも怒ってみたって、これは始まらんと思ったから、彼らの言うなりに行って、彼らが日本の兵隊を集めている捕虜収容所を作っておったんです。それで行ったらね、知ってる兵隊もいるわけですよ。「あれ、これは何だろう」と思ったら、これはベトナム軍が蜂(ほう)起したんだということが、初めて分かった。それで今度はわたしは、ここが痛いから治療をしろって言ったら、日本の軍医が来たわけです。「ひとつ連絡しておいてくれ、本部に連絡してくれ」って。じゃあどういう連絡をすればいいか。とにかくこういう状態になってると、連絡をしてくれと言って、軍医を使って本部に連絡して。わたしはここにいるっていうことを連絡してくれと。それで行って、連絡して帰って来たら、「堺さん、どうしますか」って言うから、じゃあ俺は色々な話をして、俺はまあ本部に帰るからって言って、今度ベトナムの、向こうで言えば将校なんでしょうけども、色々な話をして、その時手振り足ぶりで色々なことをしてですね、それでまあ「マスターだけ帰しますよ」って言って、わたしだけ帰してくれたんです。それでわたしは本部へ入って今度その時の副官がアカイダって言うんですが、これはわたしの同級生の兄貴なんですが、「いや、えらいことになったね」っていうわけです。それで「どうするか」っていうことで、そこで色々と作戦を練って、それじゃあこっちも武装してるんだから、ホーチミン軍の将校連中を、指揮の連中を全部ね拘束して、そして交渉しようということで、12月の25日だと思いますが、この時に色々な作戦をしてね、その気になると作戦参謀ですから、練って、「よし」ということで、その12月の朝3時ごろ、彼らのいる場所を全部調べておいて。全部拘束して。それで小学校に入れて。それで食事やなんかは待遇を良くして。それで今度は交渉したんですよ。

そしたら向こうも「これはばかにならん」ということで、「じゃあ言うことをききます」ということで、わたしの方の言うことをききますということを約束させて。そしてその代わり、あなたたちも困るだろうからっていうことで、鉄砲はやれないけども、塩と米、これをひとつやるから。ひとつお前たちに、倉庫にあるから、取りに来いと。そしてそれをやるから、それと同じようにお前も釈放してやるわい、ということで色々な交渉をしてね。それでまあ、停戦というかね、止めさせて。それから今度フランス軍が入って来たわけで。それでフランス軍が入って来ると、今度また彼らはまだ武装してるから、抵抗するわけですよ。だからそれを今度、そのあれを使って「もう止めておけ」と、ね。「日本軍がいる間は止めて逃げておけ」と。「山の方へ隠れておいてやってくれ」ということで、裏交渉をフランス軍とやり、向こうのあれとやって、そうしてけんかしないようにしてね。そしてわたしたちは武装したまま、サイゴンに下がるようにね、考えたんですけども、サイゴンだったらフランスのばかどもがどんどん、どんどん攻撃するものだから。それで向こうも攻撃してくるもんだから、ばちばちになったわけですよ。

Qそれは日本軍とですか。

日本軍じゃなくて、ベトナムとフランス軍がやるようになったんです。それで今度わたしがその中に入ってごまかして、そしてその内今度はイギリスの連合軍だから、イギリスの将校も入って来たんですよ。イギリスは軍隊じゃなくて、将校が2人ぐらい入って来たかな。だから毎晩イギリスの将校と、フランスの将校と、要するにべックなんて言って、日本語のできる隊員がいたんですが、それで毎晩飲んでね。飲ませて、「そんなこと止めろよ」と。「そんなベトナム軍とあんたのほうがやったら、負けますよ」というようなばかばかな話をしているうちに、運がよく、運がよくね、向こうもね、言うことを聞いて、それでわたしたちはトラックを30台ばかり師団司令部にあげてもらって。それでばーっと乗って、それで「さよなら」で(サイゴンに)帰っちゃったんですよ。

生きて帰るかどうかは全然分かってなかったみたいですよ。帰って来てびっくりして、お袋がね。「あら、よう帰って来たな」って言ったのを今でも思い出すんですよ。その代わりお袋が毎日、昔陰膳って言って、毎日ご飯を神様にね、わたしが腹が減らんようにって言って、ごはんを小さく、仏器って言うんですか、それにごはんをずっとあげてね。そして毎日お祈りをしておったことは、間違いないらしいですよ、毎日ずっと。だけども帰って来るとは思ってなかったらしいですよ、うちのお袋なんかは。だけどもそこにひょっこり帰ったわけですからね。

戦争なんていうのはこれはもう、戦争は悪なりでね。絶対戦争には反対だと。だから戦争になる、元になるのはね、そういうものは一切排除しなきゃならない。まあ極端に言えば、今の憲法9条に基づくいわゆる戦争放棄のね、これを絶対に守っていかなきゃならない。どんなことがあってもね、社会党だ共産党だ、そんなことじゃなくて。これは日本国民としてはね、わたしは国民の一人としては、絶対戦争反対だ、戦争悪なり。もう、あらゆる戦争には反対をしていかなければ、これは世界の平和になっていかない。これだけはね、わたしは一生、どんな所へ行ってもですね、お話をしてね、これから行かなきゃならんなと思っていますけれども。

出来事の背景

【福島県・会津若松29連隊】

出来事の背景 写真日中戦争以前、召集された陸軍の兵士は、通常2年で除隊していたが、戦線の拡大とともに、除隊後すぐに再召集されることが多くなった。 さらに太平洋戦争が始まったことで、満期除隊はほとんどなくなり、兵役期間が長くなって行った。会津若松の陸軍歩兵29連隊に入った堺豊三郎さんもその一人で、兵士としての生活は昭和13年から21年までの8年間に及んだ。堺さんの連隊は、日中戦争、ノモンハン事件、蘭印ジャワ攻略戦、ガダルカナルの戦い、断作戦、明号事件(対仏軍武装解除)、ダラット事件と、数多くの戦場、作戦、事件を経験した。堺さん自身、上記の作戦すべてに参加、中国軍、ソ連軍、オランダ軍、アメリカ軍、オーストラリア軍、イギリス軍、フランス軍、さらにはベトナム独立を目指すベトミン軍との戦闘や作戦に加わった。堺さんは、そのなかで負傷し、飢えに苦しみ、軍紀の緩みから発生した日本軍兵士同士の殺害事件や食糧の奪い合い、人肉食などに直面した。

日本陸軍の兵士が直面した様々な苛酷な現実が、堺さんの体験にいわば集約されている。

証言者プロフィール

1919年
福島県耶麻郡熊倉村で生まれる
1938年
陸軍歩兵第29連隊歩兵砲中隊入隊
1938年
徐州会戦参加
1942年
ガダルカナル上陸。総攻撃で負傷
1944年
ビルマに移駐。断作戦参加
1946年
サイゴンへ移駐・武装解除を受ける。復員
 
戦後は国鉄職員・市議会議員・代議士秘書などを務める。
 
福岡県在住

関連する地図

仏領インドシナ(サイゴン、ダラット)

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