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タイトル 「日本軍を憎悪した英軍兵士」
氏名 ゴードン・グレアムさん(キャメロン・ハイランダーズ第一大隊 戦地 インド(コヒマ)  収録年月日 2010年3月25日

チャプター

[1] チャプター1 第二次世界大戦勃発  03:53
[2] チャプター2 インドへ  01:59
[3] チャプター3 対日戦  04:31
[4] チャプター4 捕虜にならない日本兵  01:29
[5] チャプター5 補給を無視した日本軍の作戦  01:05
[6] チャプター6 コヒマの戦い  03:24
[7] チャプター7 英国人兵士は、ビルマ・インドで何のために戦ったのか  05:21
[8] チャプター8 日本軍と英国軍の違いは何だったのか  01:12
[9] チャプター9 戦場で向き合った「死」  02:00
[10] チャプター10 戦争への向き合い方の違い  03:11
[11] チャプター11 原爆投下  02:12
[12] チャプター12 今も残る「和解の問題」  04:34

提供写真

再生テキスト

同じ世代のほかの人たちと同様、わたしもドイツの脅威という理由から軍に入りました。祖国を守るという思いです。みんな愛国心に燃えていて、何かしなければならないと考えていました。軍に入ることには、自分で判断する必要から解放されるという利点があります。命令されたことを遂行すれだけで良いわけですからね。そんな理由からわたし達は志願しました。わたしが志願したのは1939年の9月5日でした。健康診断を受けて入隊準備を完了しました。

そうした背景でわたしは1940年の7月16日召集されたのです。20歳の誕生日の前日のことでしたが、当然ドイツとの戦いに対する心の準備は出来ていました。それ以外のことは何も考えませんでした。あの時点ではそれがすべてでした。

わたしは入隊後の8ヶ月間は一兵卒でしたが、その後将校候補生訓練部隊に配属となり、そこで将校としての訓練を受けました。部隊があったのはスコットランドで、そこに4ヶ月いました。訓練終了後クイーンズ・オウン・キャメロン・ハイランダーズ第1大隊の配属となり、終戦までそこにいました。

みんな北アフリカに派遣されてドイツ軍と戦うものとばかり思っていたのですが、まったく予想外の展開になりました。そのころシンガポールが陥落し、日本軍の脅威が大きくなったので、わたしたちの部隊はインドに振り向けられたのです。そんなわけで、インドに駐留することになり、思ってもいなかった日本軍との戦いに備えたのです。

ドイツ軍のことは理解していました。と言うのも、ドイツとの戦争は20世紀に入って2回目であり、前回と同じような展開になるだろうという見当がついたからです。しかし日本のこと、そしてアジアにおいて日本と戦うということになると、それは全くの未知数でした。その先どうなるかという見通しが立たなかったのです。

良く理解できたと納得できるほどの説明はありませんでした。日本軍の戦術や武器に関する説明はありましたが、日本人がどんな民族であるのかという説明はありませんでした。実際には、英国軍の上層部ですら、日本人を理解していなかったと思います。ただシンガポールで日本軍に惨敗したことで、英国軍の戦術に問題があることを悟ったはずです。

ビルマ戦線に到着したのは1944年の5月でした。それは突然の展開でした。と言うのも、わたしが所属した師団はビルマの沿岸か、ベンガル湾に上陸する予定だったからです。1944年に日本軍がインドに侵攻したことを受けて、わたし達はわずか48時間の準備時間で、急遽ディマプールに振り向けられ、そこからコヒマに派遣されたのです。

「無理がある」というより「ごう慢」と言った方が適切です。英国が日本軍の心理状態が理解したのは、戦後になってからのことです。インド侵攻のころ日本軍は自信過剰になっていました。日本軍はインド侵攻で初めて敗北を味わったのです。また牟田口将軍の思い上がりが大きな原因でした。牟田口将軍は「インド国民軍」の力を借りてインドを侵攻することで、戦争の流れを変えることが出来ると考えたのです。この「インド国民軍」というのはインド人兵士から成る部隊で、日本軍によって英国軍と戦うように仕向けられたインド人兵士の部隊でした。

インドは大英帝国からの独立を望んでいたので、「インド国民軍」は勇んで英国軍と戦いました

そもそも英国軍の兵士には、日本人は人間以下の存在というくらいの認識しかありませんでした。わたしたちが日本人を「人間」として意識したことはありませんでした。日本は敵であり、我々がなすべきは彼らを殺すことであり、さもなければ殺されるという意識しかありませんでした。日本人が英国人と同じ感情を持ち、同じように平和な家庭生活を求める人間であることを理解し始めたのは、戦争が終わってからかなりたってからのことです。もちろん戦争中にそこを理解した人も当然いましたが、基本的に戦時中は分かっていませんでした。シンガポールで捕虜を処刑したり非道に扱ったりすることによって、日本軍の評価は致命的に損なわれました。

そのことを英国人は良く知っていたので、深い憎悪が生まれたのです。ある意味で当時我々が持つ日本人像というのは憎悪の対象になりやすいものでした。わたし達は日本人の良いところを何1つ知りませんでした。「尊敬すべき敵」という言葉とは無縁の存在でした。また日本人が捕虜になるのを嫌っていたことも忘れるべきではありません。その後わずかな数の兵士が投降するようになりましたが、それも徐々にそうなったというだけのことです。あるときビルマ国境でわたしの中隊が1日で28人の日本兵を捕虜にしたのですが、その時に日本軍の一端を垣間見た気がしました。

英国軍のことを極悪非道だと、日本兵が考えていることが、わたしには分かりました。ところが射殺もされない、暴行も受けないことが分かって、日本兵は当惑していました。英国軍には、日本兵の捕虜を虐待してはならないという断固とした政策がありました。日本兵の捕虜は人道的な扱いを受けました。日本兵を尋問した英国人尋問者を驚かせたのは、彼らがちゅうちょすることなく話したことです。戦場に関する情報を漏らしてはならないという意識がまるでなかったのです。

つまりお互いの文化に対して無理解な2つの集団の間に、大きなギャップがあったわけです。それに加えて、戦争中ということでわたしたちにしても、日本を知りたくもなかったという気持ちもありました。「日本は敵」、それがすべてでした。英国人が平和の文脈で日本人を知り始めたのはずっと後になってからのことでした。幸運にもわたしもその1人になることができました。わたしが初めて日本に行ったのは1958年のことで、その後数回にわたって訪れる機会がありました。

日本を訪れて目からうろこが落ちる思いでした。戦場で遭遇した日本兵と、日本で会った日本人がどうしても結びつきませんでした。とても同じ日本人だと思えなかったのです。

日本兵は「捕虜になれば殺される」と上官に言われていました。

Q:日本兵は、捕虜になることを恥辱と考えていたのですか。

捕らえられることイコール死と考えていました。すべてがそこで終わると考えたのです。捕らえられれば死ぬこと以外考えなかったのです。

それは日本軍の司令部が兵士を洗脳した結果だと思います。日本軍のメンタリティーには人間性のかけらもありませんでした。わたしは今でもそのことが理解できません。日本の兵士は理解できますが、司令部は理解できません。武士道やハラキリの概念は、わたしたちには完全に異質なものです。それは今でも理解できません。

我々の糧食は英国の典型的な食べ物でした。国内でも良く知られている食べ物で、それを簡素化したものでした。紅茶、牛乳、砂糖、ビスケット、コーンビーフといったものでした。栄養的にはそれで十分でした。ところが日本軍はひどいもので、牟田口将軍は、糧食や武器弾薬を十分持たせずに3個師団をインドに派遣したのです。英国軍から奪えばよいと考えていたからです。もちろんその思惑通りにはなりませんでしたがね。

結局、日本軍はコヒマで侵攻を阻まれました。コヒマから40マイル西のディマプールを制圧することが出来れば、必要な物資を調達することが出来ていたはずでした。コヒマにはナガ族の住む村があるだけで、米を中心とする質素な食糧しかありませんでした。コヒマで進軍を止められた日本軍は、次第に食糧と武器弾薬の不足に悩まされることになりました。これが日本軍の誤りでした。日本軍内部にさえこの誤りを理解していた将軍がいました。それが佐藤(幸徳31師団長)という将軍で、牟田口将軍に反対していました。

佐藤師団長は、将軍の立場にありましたが、この戦闘に勝てないと感じていました。コヒマは山岳地にあり樹林に覆われていて、地理的に見てきわめて特異な戦場です。道路といっても丘陵のすそに1本の道路があっただけです。従って日本軍と英国軍がコヒマで遭遇した時には、他に行く場所がありませんでした。ぐるりと回って引き返すことも出来ず、包囲することも出来ず、退却することも出来ませんでした。

英国の兵士、日本の兵士ともに、「勝利か死のどちらかしかない」と命じられていました。つまり英国にしてみれば、コヒマを失えばディマプールも失うということでした。それは日本軍がインドに到達することを意味しました。一方日本の兵士は、日本がより偉大な国になるか否かはこの一戦にかかっていると言われていました。日本軍と英国軍はコヒマで正面から衝突したわけですが、1つにはそれは地形のせいだったのです。日本軍の背後には小道があっただけで道路はありませんでした。

歴史を振り返れば、日本兵は同情に値する存在でした。彼らは被害者だったのです。日本軍の兵士は犠牲者でした。わたしたち英国の兵士もまた犠牲者でしたが、少なくとも司令部に支えられていました。コヒマの戦いは悲劇であり、日本の兵士はほぼ全員戦死しました。

Q:コヒマは山岳地にあるだけでなく、樹林に覆われていたということですね。

その両方です。

山岳地の密林でした。山岳地帯にあるジャングルです。村落がある場所を除いてすべて密林に覆われていました。村落と言っても原始的な集落でした。ですからそこを制圧して食糧を調達するなど、どだい不可能だったのです。

わたしが所属する師団には英国人兵士が1万5000人いました。アジアに駐留する唯一の英国軍の師団でした。

Q:個人的に周囲の兵士や士官を良く知っていましたか。一体感のようなものはあったのですか。

英国を出てからずっと寝食を共にした仲間です。英国を出港したのは1942年なので、長期に渡って同じ釜の飯を食った仲です。そのことが士気を高める上で非常に重要なのです。未知の環境で未知の敵と戦うだけでなく、そもそも何故そんなところに派遣されるのかも分からない状態にあって、英国軍が士気を保つことは容易ではありませんでした。自分の力量以外に頼るものがない状態でした。

Q:英国軍兵士と旧日本軍の兵士がともに未知の環境に送り込まれて、両者が対じしたわけですから、奇妙な状況ですよね。

その通りです。互いを理解していない2つの国同士ですよね。全くその通りです。

Q:その2つの国が別の国の領土を巡って戦ったわけです。

そうです。他の国の領土を巡って戦うという全く理不尽な状況でした。歴史の流れの中で見ても、全く不合理としか言いようがありません。戦う根拠が全くなかったのです。2つの軍が母国から何千マイルも離れて、未知の領土で戦ったのです。英国よりも日本の方が多少ビルマに近かったでしょうか。いずれにしても、1つだけ明確なことがありました。それはビルマ人が、英国も日本も要らないと考えていたことです。

まずは英国の兵士が職業軍人ではなかったことを指摘しておきます。彼らは民間人であり、志願したり徴集されたりして入隊した人たちです。そういう彼らの動機付けとなったのは母国を守るという愛国心でした。しかし母国から、欧州から6、000マイルもの遠くに離れた場所に駐留している時には、そのような形で自分を納得させることは困難です。でも愛国心が士気を駆り立てる1つの要素ではありました。

英国の兵士をつき動かしたのは、戦友意識であり、友情、そして義務感でした。英国軍には強力な規律がありました。兵士は戦う義務があるから戦ったのです。英国軍の兵士にはそれしかありませんでした。それだからこそ、ビルマ駐留の英国軍には士気の問題が発生したのです。概して英国軍の士気は低く、それはインド人にも劣っていました。

インド人は母国が身近な存在でした。アジアでは英国軍の兵士よりはるかにリラックスしていました。戦闘能力を低下させるほど深刻な士気の低下はなかったにしても、英国軍兵士が劣悪な状況は置かれていたことは間違いありません。

インド人部隊は大規模でした。総数200万人で、全員が戦争中に入隊して訓練を受けた人たちです。その一部は欧州戦線で戦いました。英国人兵士と違って、インド人兵士は全員が志願兵でした。そしてその多くが生まれついての兵士でした。彼らは戦闘に向いた民族だったのです。またインド人の連隊は同質の兵士で構成されていました。「ラジP連隊」とか「パンジャブ連隊」とか「マドラス連隊」といった具合です。このことはインド人部隊の士気を向上させる上で効果がありました。これに対して英国人の部隊の場合は、雑多な民間人から成っており、しかもその大半が徴集兵だったので、高い士気というものが欠けていました。

体制が違うだけでなくメンタリティー、哲学が違っていました。暴力はその1つの要素です。英国人兵士は、日本軍による戦争捕虜の扱い方に嫌悪感を覚えたものですが、日本兵は仲間同士でも同じようにひどい扱いをするのだということが徐々に分かってきました。捕虜を虐待する日本人兵士自身が、上官である将校にひどい扱いを受けていることが少しずつ分かってきました。互いに大きく異なっており、理解しあうことのない2つの文化を語る上で、このことはほんの一部の要素を成すにすぎません。ある意味では、それだけでも戦争の根拠となるのではないでしょうか。

その話はとても奥が深いですね。兵士というものは、直感的に自分が不死の存在であると信じ込んでいるものです。恐ろしいことは起こるが自分には起こらないと思うものです。すべての兵士がそう信じています。自分の周囲で戦友が死んでいく姿を見てもなお、その気持ちは変わらないものです。そこで「生き残った者の罪悪感」が生まれるわけです。自分だけは死なないと思っているのですが、もちろんそんなものは幻想です。しかし実際にその時が訪れるまで、そうなるとは思わないものです。

兵士というものは、自分は生き残るのだと心の奥底で思っているものです。このことはビルマ戦線だけでなく、どの戦場にも当てはまることだと、わたしは確信しています。ところが死は訪れます。このことは驚くに当たりません。なぜならそのために兵士は戦場に赴くわけですからね。それにしても当人にしてみれば驚きです。兵士というものは、ある意味で傍観者のような気持ち、自分が巻き込まれることはないという気持ちを持っているものです。あたかも不死という要素が自分を形成する一要素のような気持ちを持っているのです。生きているという実感をあっさりと中断するもの、わたしは死というものをそのように理解しています。

先ほど言いましたが、英国軍兵士は日本軍を憎悪しました。あの戦争を体験した英国の退役軍人でまだ生きている人はその大半が、今でも日本に敵意を持っています。しかしわたしが日本で、そしてこの場所で会った旧日本の兵士は、英国を憎んではいませんでした。それは奇妙だとも言えるし奇妙でないとも言えます。と言うのも戦争中の日本軍の行為は、アメリカ軍兵士に加えて英国人兵士に嫌悪感を与えたわけですからね。そもそもあの戦争はアメリカの戦争でした。本当の戦争は太平洋で行なわれていましたから。

その意味で日本軍にとって英国軍は付け足しのような存在だったのでしょう。我々は今英国において英国人について語っていますが、ここで話していることの多くは、アメリカ人にも当てはまることです。あの戦争は欧米的メンタリティーと東洋的メンタリティーの戦いでした。両者の間の溝は深く、何世紀もさかのぼります。それが突然このような不幸な状況で遭遇したのです。

Q:旧日本軍の軍人が元々アメリカと英国を憎んでいたのに、戦争が終わったら一切敵意を示さなかったということが、あなたの目には奇異に映ったのですね。

その通りです。わたしはそのように理解しています。

わたしが初めて日本を訪れた時、以前の敵に対する敵意は全く感じられませんでした。この日英和解運動を立ち上げる上で、日本側の代表として英国在住のある日本人が重要な役割を果たしてくれました。和解運動のメンバーは日本で会い、コヒマに集まり、ラングーンでも集まりました。運動は10年か12年くらいはとても活発に活動を展開したのですが、その後終息しました。

若い人も含めて日本人は、日本が侵略者であった考え方を受け入れず、また戦争を起こしたことに対する罪の意識を認めようとしません。それと対照的にもう1つの敵であったドイツは、罪を認めています。ドイツ人は前の世代の戦争について詳細に論じています。結局のところヒトラーは国民によって選ばれ、天皇は誰に選ばれたわけでもない、その違いでしょうか。

わたし自身は原爆投下やむなしと思ったことはないのですが、わたしの命は原爆によって救われたと思っています。しかし原爆によって戦争を終わらせるべきではありませんでした。その結果日本の人が大きな苦しみを味わったばかりでなく、戦争に敗れたという意識を希薄なものにしてしまいました。原爆が戦争を終わらせたということであって、本来ならば戦場での敗北をもって戦争の終わりとすべきであるのに、そうはならなかった。そこで尾を引く結果を招いたわけですね。

このことが、日本人の内向きな性格と相まって、罪悪感の欠如につながったのかも知れません。そういう感覚が現在でも続いているのだと思います。

Q:旧日本軍が世界最強の国に無謀な戦争を仕掛けたという考えは、おそらく多くの日本人が受け入れていると思います。

確かにその通りだと思いますが、それは道徳的な感覚とは違います。それは「負けると分かっている戦争をしたのは愚かだった」という感覚です。それはそれで事実なのでしょうが、それでは行為に対する責任を取ったとは言えません。再びドイツの例を持ち出しますが、それに対して、ドイツ人は自分たちが始めた戦争に対して、国民が集団として責任があったことを徐々に認めるようになりました。対照的に日本は責任を転嫁しているように思えます。

その問題を解決してくれるのは時の経過だけだと思います。次の世代にしても、日本軍が戦争捕虜をどのように扱ったか、また同じアジアの同胞の民間人にどのような仕打ちをしたかといったことを、繰り返し聞かされているからです。だから次の世代も、旧日本軍は残虐であったという印象を持っています。このように、苦しみを実際に体験した人々の心に記憶が残るだけでなく、その子どもの世代にも語り継がれて行くのです。

何世代もかかると思います。最も今の世界は変化が早いので、そんなに長くはかからないかもしれませんが、英国においては、拷問の記憶が消えるまで、少なくとも更にもう1つの世代の経過を要するでしょう。

わたしには彼らが罪悪感を持っていると映ります。間違ったことをしたと彼らが感じていると映ります。きっと心の中では分かっていても、それを口に出して認めたくないのでしょう。わたしにもその気持ちは理解できました。彼らも被害者ではあったものの、彼らが拷問を受けたわけではありません。彼らは絶対的な信念を持って戦っていました。そんな彼らに「君たちの行為は間違いだった。あんなことをすべきではなかった」と言ってもそれを認めようとしないでしょう。これは誇りの問題であって、また気楽に自分を表現できないということの表れだと思います。

英国の退役軍人は全く罪悪感を持っていません。自分が正しかったと思っています。残虐な行為の対象となったのは自分たちであって、自分たちに罪はないと考えています。彼らは嫌悪感を持っており、そのことについては話したくないと思っています。元戦争捕虜が書いたもので、日本軍に対して多少なりとも理解を示している本は1冊もないと思います。1冊くらいはああるかも知れませんがね。元戦争捕虜が言いたいのは、「ひどい苦痛を受けた」というこの1点に尽きます。

ユーラシア大陸の沖合いに位置する2つの国が、歴史によって同じ戦場に放り出されたわけですからね。両国とも自分の意思でそうしたわけではなく、外的な力によって衝突させられたのです。このことによって、根深い感情が生まれました。両国ともにこの感情に付きまとわれているのです。それでもこうした感情を取り除くために、それなりの試みがなされてきました。わたしたちが試みた「和解運動」は単純に過ぎたように思います。「昔は敵同士だったが、今は友達だ」と言ってハグしたというだけのことでした。それはそれで結構なことなのでしょうがね。

「和解運動」には深く根ざしたキリスト教精神という要素もありました。最も重要なことは、互いをより良く理解するということだと、わたしは考えています。わたし自身は日本兵を憎んだことがないので、憎しみという問題はありませんでした。問題はわたしが真に理解していなかったことです。そして残念ながら今でも真に理解しているとは言えません。

出来事の背景

【キャメロン・ハイランダーズ第一大隊】

出来事の背景 写真昭和16年(1941年)12月8日、日本軍はハワイの米太平洋艦隊を攻撃すると同時に、マレー半島に上陸、英国の植民地であったマレーとビルマに向けて侵攻を始めた。対日本軍の準備が整っていなかったこともあって、連合軍は次々に敗退、翌年1942年の5月までに、マレー半島とシンガポール、ビルマ、さらにジャワ島も陥落した。このとき数多くの連合軍将兵が日本軍の捕虜となった。そのうち英軍将兵の捕虜はおよそ5万人だった。
英軍をはじめ連合軍の捕虜は、東南アジア各地の収容所での強制労働や貧しい食糧による栄養失調とマラリアなどで、次々に倒れていった。特に、タイとビルマ間を結ぶ泰緬鉄道の建設工事には英軍将兵3万人が動員され、6300人あまりが命を落とした。

一方、日本軍と英軍の戦闘は、1944年3月に始まったインパール作戦で、再び激しくなった。英軍とインド軍を中心とする連合軍の拠点だったインパール攻略を目指した日本軍だったが、インパールへの補給拠点、コヒマを占領したところで、連合軍の反撃が激しくなり、補給のない日本軍は総崩れ、7月に撤退を始めた。連合軍は、撤退する日本軍を追撃し、ビルマの首都ラングーンを奪還し、
終戦となる。グレアムさんは、最大の激戦地「コヒマ」の戦いに参加。そこでは、決して降伏や投降をしようとしない日本兵の戦い方に衝撃を受けたという。なお、太平洋戦争で日本軍の捕虜となった英国人将兵の25%、4人に1人は、病気や栄養失調、警備兵による暴行などが原因で、命を落としたと言われている。帰国した元捕虜の人々の間では、その時の記憶から、日本に対して憎しみを持ち続けている人も少なくない。
グレアムさんは、インド・ビルマ戦線で相対した元日本兵との間での「戦後和解」の活動に長年にわたって取り組んできた。

証言者プロフィール

1920年
スコットランド・グラスゴーに生まれる
 
第二次世界大戦開戦時は大学生
1940年
陸軍入隊
1944年
日本軍のインパール作戦開始に伴い、インド・コヒマの防衛戦に参加する
1945年
終戦をインドで迎える
1946年
帰国

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インド(コヒマ)

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