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タイトル 「ノモンハン・ソ連戦車猛攻」
氏名 小林 静雄さん(関東軍 戦地 満州(ハイラル、ノモンハン)  収録年月日 2010年4月10日

チャプター

[1] チャプター1 入営と同時に満州へ  02:46
[2] チャプター2 ソ蒙軍の攻撃  04:16
[3] チャプター3 ソ連軍の大攻勢  06:55
[4] チャプター4 武器の格差  03:18
[5] チャプター5 敗走  06:34
[6] チャプター6 停戦  04:54
[7] チャプター7 終戦  02:17

再生テキスト

大阪港から出港しましてな、貨物船に乗って大連に着いて。それから今度は南満州鉄道でハイラルまで行ったわけですわ。

Q:第8国境守備隊。

第8国境守備隊第2地区隊、第6中隊に入ったんですけどな。

Q:そういったときに入隊されることになって、これから中国に送られると、満州ですか、というお気持ちというのはどんなもんなんですか。

まあしかたない。わたしは当時、東京におりましたからな。東京で遊んでおりましたから、なるだけ行きたくなかったけど、これはしかたがないね、やっぱりな。職業軍人になるつもりはないし、ぶらぶらぶらぶらと世の中を渡っておりましたからな。

徴兵検査があったら務めないけんいうことで、みんなと一緒に行ったわけですがね。進んでなら、戦争に参加しようとは思わなかったけどね。

まだ、わたしが3月に着いたときはな、やっぱり零下20~30度だったですな。「今日はぬくいほうじゃ」言われてびっくりしたですな。雪に覆われて、まだな。

ノモンハンに行ってね、満州国軍がよう警備しておった。籐堂隊が、満州国軍が場所を交代したからな。それで、満州国軍がおるんじゃないうことを初めて知った。わたしも初めて入って、3月に入って7月に行ったんですからな。満州国軍なんかがあるとは思ってなかったですけどな。それがあって、ああ、そうかなということでわかったんですけどね。

Q:戦場に着かれた最初の日というのはどんな1日だったんですか。

もう何ちゅうか、わくわくとな、何かしらんけど心臓が躍るるような気持ちがしましたな、やっぱり。えらいところに来たなと思ってな。わたしは物見遊山に行っとるような気だったで。戦争といって、日本は強いんじゃけ戦争いったら物見遊山ぐらいのものじゃろうと思っておったんだ。ところがやっぱり来てみたら、途端に爆弾の洗礼を、その日に、着いた日に受けたんだ、あれな。

Q:そういうのって、敵の姿は見えるんですか。

見えるときもありますしな。それから夜なんかはすれ違うときがあったな、考えてみれば。あれは敵軍じゃないかと、そのときはどっちも知らへんだけどな。1日に一遍だけ移動したときに、敵軍じゃないかなと思ったようなことがあったけど、それはわたしもわからない。日本軍かもしれんけどな、すれ違ったときにな。

Q:向こうもわからなかった。

そうそう、そうそう。向こうも。そういうときには戦争はせんのや、やっぱり。そない言ったって。どっちも。わたしらも、向こうの兵隊も、それほど好きなわけじゃないからな、戦争なんてね。ほんまに。考えてみたら。

ちょっと、どのくらい行ったかしらんけどな、ノロ高地から。覚えてないけどね、機関銃一丁持って、鷹司部隊(砲兵連隊)の護衛に行っておったんですわ。そうしたら、その前をソ連の戦車がずっと通るんじゃがな。それで、撃っても当たっても、どげんになるもんじゃないし、機関銃の弾は。おい、撃ったらやられるからやめておこうでと言って。前をずっと、100メートルぐらいかな。前をずっと何台か、10台ぐらいかな、戦車が通っていくんやで。

その戦車、100メートル先の戦車に向かって小林さんは機関銃で。

そう。撃たなんだけどな、わたしは。それは撃っても、当たってもはじけるばっかりやからな。そうのこうのしているうちに、ばっと来られるからやめておこうと。

Q:では、ただ潜んでいるという形ですか。隠れている。

そうじゃ。隠れとる。ずらっと行きよったけどな。

日本の戦車部隊は見なんだ気がするな。初めは速射砲で、わたしとこ一個小隊かしらん、部隊が速射砲の部隊に派遣されて行っておったんですけどな、それはもう、ものすごいほど戦車、9台か10台ぐらい戦車を倒したといったからね。速射砲で。だんだん向こうがな、(装甲の)厚いなにが来るしな、隔離されたりして、速射砲で撃っても効かなんだという話やったのな。

わたしらは、そういう場所とか何とか、そんなことは一つも、戦争することしかほんまになかったんです、わたしらは。ここがどこだとか、ここが何とかいうようなことは今言えることで、砂と砂漠と、ボサ、草との間を駆けずり回るだけで、何にもわたしらは、戦友が死ぬることと、それ以外のことは思い出せませんな、やっぱりね。どこにおったかいうことも、その菊形高地に入るまで、戦闘の、どこで戦争してどういうふうにして入ったかいうことは記憶に残っておりませんな。戦争しただけ。戦っただけで、わかりませんな、やっぱり。どこだったかいうことは。

Q:その菊形高地というのは、結構目印として目指せるような感じなんですか。

はい。それから何回か行くうちに、バルシャガル西高地の一角だということがわかったらしいですよ。

Q:では、どっちの方面へということは、戦っている最中でも。

わたしは方面もわからん、そんなの。全然。夜昼なしやから、ああなったら、戦争は。覚えてとらん。ただ、戦争。機関銃を撃ちまくるだけしかわたしらはなかったね、その考えはね。

Q:そのころは、周りはもうソ連軍が囲んでいる感じ。

ぐるっと囲んでおったな。水も飲めないんですわ。手りゅう弾投げ合いするようなとこだったからね。でも、不思議に中に入ってこなんだね、ロシアも。怖かったんだろう。

バルシシャガル西高地、ここだ。ここへわたしはおったんよ。バルシャガル 西へな。最後に師団指令部にも。

Q:そうですね。

ここまで行ったんだ。助けに行ったんだ。どこだったかな。この辺に助けて、何々部隊がおったかな。それで、助けに。

Q:64連隊の山県隊と、あと……。

それ、行ったんです。それで、何は行くなと言ったらしい。わたしもよう、そんなことは後で聞いた話やけどな、荻洲立兵(第6軍司令官)がな、「犬死にするばっかりだから行くな」と言われたらしいがな。そんな、100人か200人しかおらへんのだから、司令部なんていうのは兵隊を持ってへんのやからな。司令部そのものは。機関銃と歩兵砲というように、ちょびっとだけしか持っとらんのやからな。それが助けに行くといったって無謀やがな、やっぱり。考えてみたらな。

Q:結果的にはその通りだったんですね。

その通りだったんですよ。

Q:助けに行ったんだけれども。

助けんと包囲されてしまったんですわ。それで、これはもう、わしの中隊長が「ここにおったって、犬死にするばかりだから打って出よう」いって言うたんですがな。ところが、あの時の副官かな、副官か参謀長か誰か忘れたけど、「むだ死にするな」言ってな。「待て」言ってな。手りゅう弾を投げ合いするようなところだで。わしらは盆地に入っておった。ちょっと盆地になっているところに入っておったけんな。だけどもう、外へ水もくみに行けんしな。水がないから、その中は。ちょっと湿地があるところまで水をくみに行けばいいけど、ソ連に占領されてしまってぐるっと取り巻かれとるからな。ソ連領に入るまでの戦闘がひどかったやね。

Q:といいますのは、いわゆる救出に向かうときですか。

向かうとき。救出に向かう途中で、ものすごくやられたんですがな。

Q:それは、向こうには爆撃、戦闘機も出てきますよね。

もう、ものすごいやられたですわ。それで、それっきり狙撃兵なんかにやられてな。渡ったらもうな、何かしらんけど、おった者がおらへんのやね。その班長とか小隊長とか、それから衛生兵とかな、いろいろおったけれどもおらへんのよ。わしら古兵ばっかり、古兵って新兵ばっかりが5、6人残っとるんじゃな。それで戦争しよるんやな。わしは不思議でな、ほんまにな。戦争いうたらこんなものかなと思ったけどな。

わたしらは古兵でも下士官でも何でもない、一つ星の。「行け」というからしょうがない。「行け」といって前進していって、それから何日か、2日か3日先か、よく忘れたけど菊形高地いうところへ。だいぶみんな菊形高地へ行ったら、師団司令部も入っておった。どこでどうしたか、わたしら初年兵やしわからへん、一つもな。ただ、敵の弾が来る方に撃つだけで。けれどもおらんのよ。指揮する人がおらんのよ、全然。

Q:ソ連軍の攻撃なんですけれども、結構、狙撃というのが。

うまい。ものすごくうまい。狙撃兵が。あれ出会ったらいちころだよ。

そうそう。それはもういたもんだ。狙撃にやられたんだ、わたしらみんなな、ほんまに。狙撃兵というやつがものすごいうまいんだ。

Q:それは、いわゆる機関銃でダダダッではなくて。

狙撃兵がな。機関銃はどっちもそんなにうまく当たるもんじゃないんだ、あんなものは。狙撃兵はものすごく何がいいからな。それともうひとつ、火炎放射器いって、戦車の砲口の口からガソリンが出て、それを火噴かすとビャーッと敵兵の壕になんか入っておるのを。アンパン(携行爆薬)持ってくるといったって、そんなものじゃない。あれがおわったらものすごい。歩兵を逆なでにするんでびっくりしてしまったけどな。

戦車から、その当時は。それで、兵隊が持っておるのは自動小銃。ザーッとな。日本はまだ三八式歩兵銃だったです、その当時な。いかに武器がソ連との違いがあるかいうことがつくづくわかった。戦争に負けるのは・・しかし、わたしらが入った当時のなには、皆ね精鋭ですから、本当に。これで負けるいうたら武器やった、やっぱりな。

戦車見ただけでびっくりしましたから、もう。あの戦車。日本の戦車はおもちゃみたいな戦車だしな。それで、飛行機でもアブ、アブ言うておったんです、わたしらは。これはもう速いのって、話にならんぐらい速かったもんな。キンキーンいうような音がしてな。日本のみたいにブルブル、ブルブルというような飛行機じゃなかったもん。それは優秀な飛行機やなと思ったもん、わたしらも。

もう戦車はどうにもならん、わたしらは。要するに、こんなアンパン持っていって、自分も死にながら爆破するしかしょうがないことだったからな。機関銃は割合、そういう歩兵でも、そういうことはあまりさせなんだね。機関銃がある以上は。やはり、歩兵の花形やから、機関銃はね。いちばん活躍せなならんもんだから。

長谷部さん(長谷部支隊:第八国境守備隊から編成)はやな、聞いたらしいわ、兵隊集めて。「おまえどうするか、ここで討ち死にするかどうするか」いう話をして、おまえはもうここを引き揚げて帰る言うたら、わしが責任持って帰るから帰ろうという話が成立して下がったらしいんやな。みんなを呼んで、部隊が残り少なくなったその長谷部支隊の者を集めてやな、どうするかと。夜中にでも話したんか、わたしはおらなんだけん知らないけれどな。それで下がろうか、どうしようかという話だったらしいですわ。そしたらみんな下がろういうことで撤退したんです。その当時は転進いうんや。

Q:小林さんたちは、結局最後の撤退、転進ですね、それはどのように決まって。

それは、何日の何時から転進しようという話が師団長から伝わってきたわけや。思い思いに。ともかく真っ暗やき、真っ暗な中を出たんですわ。わたしは5、6人だったから、班長がな、分隊長が負傷しておったんじゃ。それで担架に乗せて帰っちゃろうやいうて帰りかけたけどな、途中でやられたんじゃ。真っ暗やったけど、こうしよったときにやられたんですよ、その班長がな。もう連れて帰れんで、これはものないようになったき言うて、わしらは下へ降りてだーっと逃げたんじゃ。それで逃げて、わし、マエダキヨジいう男とばったり一緒に会うたんよ。おまえも生きておったかと、おまえもかと言って。それでまた、その時分にソ連の兵隊のとこへ突入してしまって、間違えて。それで、ぐわぐわ、ぐわぐわいってやっとった者もおる。わたしらはうまいことソ連の兵隊の合間を縫って出たと思うんじゃ。しばらく、ちょっと行ったらな将校が呻きよってな、どうしたんだと言ったら、腰があれで歩けんいうから、わしらは放っておいて帰ろうかなと思ったんだけど、マエダとふたり、連れて帰ってやろうかな言うて。その時分にこういう大きな携行した天幕を持っておったから、それに包んで、三八式の歩兵銃で2人で担いで、夜の夜中にそのホルステン河に向かって逃げたんです。戦車に追われながらな。

Q:結構ソ連軍、正確にはソ蒙軍ですけれども、夜でも動いて。

夜は、そのときは逃げるとわかっておったから、それでやったんよ。夜、普通だったらせいへんので。それは、今日を期して逃げることが向こうにわかっておったんよ。それでなかったらせやへんのやけどな、夜なんかは戦争はせんのじゃけど、そのときは、逃げるやつはやってしまえということだったんじゃないかと思うんだ、わたしは。曳光弾を撃ったりしてな。

真っ暗だからわからへんねん。草原じゃから、道いう道はないんじゃから。道を歩くということじゃないんだからな。どこを走ったか全くわからんわけ、わたしは。ただ、ホルステン河が雨季でいっぱいあって、ずるずる、ずるずる沈んだということだけ思い出すわ。

ホルステン河から向こう側はノモンハンや、友軍がおったからね。

Q:そこに皆さん、退却された方々が。

退却したり負傷したりした人をトラック、連れていったりな。それでも、負傷でも軽い負傷は1週間ぐらい放っておかれたいう話や。

Q:お医者さんもそんなに余裕がなかったでしょうから。その後はどこに行かれた。

わたしはな、2人しか残らんだから、マエダと2人な。それで、師団司令部へ行って報告したんじゃ。「無事帰ってまいりました」と言ったら、「おまえら2人か」と、「2人しかおりません」と報告したらな。そしたら、「原隊へ帰れ」と。「長谷部支隊の園田隊(第6中隊)へ帰れ」と言うたから、「その隊、どこにおるんですか」と言うたら、ようわからんけど途中で聞きながら行け言うたらな、聞きながら行きよってたどり着いたけどね。

ノモンハンで、もう解散したのかわたしはようわからんけどな、とにかく副官が「帰れ」言うから、「本隊へ帰ります」言うて長谷部支隊へ帰ったんですわ。

Q:長谷部支隊の様子はどうでした。

それはもう、ぽかーんとしとったわ。

それで、まだ忙しいんですわ、これから。死体の収容が9月16日から、ちょっとあれが、16日かな。それまで31日からうろうろして10日間ぐらいはぶらぶら、ぶらぶらしとったんだろうと思うわ、ようわからんけどな。それから今度、死体収容に行けといって、今度は交代で死体収容に行って、焼き場へ持って行って焼いて。それで臭いが移るけん、古兵から、「おまえ、臭い。入るな」と言われるくらい臭いがつくんじゃ、死体の臭いがな。もう腐っておるからね。

Q:その死体収容作業というのは、やっぱり部隊は園田隊。

まあ、どこも出ておるのや。園田隊だけじゃないんやで。何人かが交代で出て、長谷部部隊の。それがようけまた残っておらんのだ、もう。だいたい40~50人。30人かな。20~30人だったかな、園田隊も。そんなに残っておらんのや、もう。死んだり負傷したりしておらんが。

Q:かわりばんこに出ていって、自分の部隊だけじゃなくて、とりあえず……。

行って、それでみんな交代で何人か、ここは3人とか5人とかいって中隊から出て行って、トラックへ行って集めて、帰ってきて焼きよったわけや。焼き場へな、こうして割り木をこう積んでな。

何のためにあんな茫漠たる草原で、何も食べるものやら何もないようなところで戦争せないけなかったのかと思うな、後からわたしらは。そのときには考えてなかったからな。それで、帰るときはやっぱりつらくて。もう一度やってやりたいという思いが少しはあったな、そういう気が。うれしいと両方じゃったな、それは。

Q:ある種、敵討ちしたいという。

したいという気持ちと、それから、やれやれ無事に帰れたというあれと両方じゃあ、そりゃ。

死体収容作業の後は、ハイラルに戻られる。これはまた元の第8国境守備隊に。

うんうん。

Q:その前に、9月20日に長谷部大佐が自決されていますよね。

そうそう。

Q:こういったことはやっぱり、知らされるというか伝わるんですか。

すぐわかるわ、それは。同じ幕舎におるんだから。すぐわかったな。

Q:どんなお気持ち。

それはみんな腹が立ったで、みんなな。わたしらは、わたしはよそにおったからいいんだけど、一緒におった兵隊がわたしらの命を助けてくれたお蔭で死ななならん。

中隊長から上は(敗戦の責任を)取らされたな。要するに、連隊長、大隊長ぐらいやな。

Q:それで、師団長は。

師団長は予備役になっただけで、荻洲もな。

Q:そういったときに、兵・下士官から不満の声というのは上がらなかったのですか。兵・下士官から、この人事に関して。

そりゃあ、自決したことに関してかな。それではなしに。

Q:あと、師団長とか上の方の。

それは、不満があったといったところで、文句を言ったらすぐに営倉に入れられるわ。もう、それは厳しい。上司を攻撃するいうことはものすごい、絶対許されることではないからな。それくらいひどいところ、あんな軍隊ぐらいひどいところはないわな、やっぱりな。一口でも言うたらな。

わたしは運がよかって、19年まで召集がなかったんじゃ。みんな18年に召集になったんですがな。わたしが18年に召集になっておったら、ビルマへ行って命がなかったんですけどな。そやけど19年に行ったときに、中隊長が、「何をわたしらするんか、外地へ行くんかな」と。「いや、あんたは初年兵教育をしてくれ」言うんや。「初年兵教育やって、わたしらあんまり勉強が不勉強だからわからん」で言うて。「まあええがな、見習い士官が帰ってくるから、それとよう相談してやってくれ」と言うから、「ああ、そうか」と。下士官やないけど、下士官がおらんで兵長やったけど、見習い士官と2人で兵隊の、初年兵の教育を、48部隊、岡山の連隊でやっておったんですがな。

Q:終戦を迎えられたのは済州島。

済州島でね。

Q:ほっとしました。それとも悲しかった。

まあな。しかし、帰るときみんなで話した。これでついでにな、アメリカに連れていかれるんじゃないか言うて。コーヒーを出して食ったりいろいろしてくれたからな、帰るとき。何とこれは、わしらはもうシベリアへ持っていかれるとか、帰るいうて乗せて、帰さななんだいうあれと一緒に、わたしらもまたアメリカへ連れていかれるんかいうて言いよったけど、佐世保に着いてやれやれということになったけどな。

出来事の背景

【関東軍第8国境守備隊】

出来事の背景 写真1939年の5月から9月にかけて、満洲国とモンゴルの国境をめぐって、日ソ両軍が激突した紛争が「ノモンハン事件」である。

この年の5月、満蒙国境のノモンハン付近で満洲国軍とモンゴル軍のそれぞれの国境警備隊の間で交戦があった。これに対して、関東軍が部隊を派遣、一方モンゴルの後ろ盾であるソ連軍も進出し、両軍の間で激しい戦闘になった。
いったんこう着状態になったところで、6月から8月にかけて両軍は数万規模の兵力を投入、大本営の事態不拡大の方針を無視した関東軍は国境を超え、ソ連軍基地を空襲したうえで、戦車も投入したが、日本軍を上回る機甲部隊を投入してきたソ連軍に撃退される。

一方、8月から9月にかけて、モスクワでは、のちの外務大臣である東郷大使がソ連側と、停戦交渉を進めていた。そして、9月16日停戦が成立。こうしてノモンハン事件は終息したが、日ソ両軍とも互いに2万人前後の死傷者を出した。
このノモンハン事件では、参謀本部や陸軍省など中央の意向を無視して、関東軍が暴走して事件を拡大した。しかし、事件の拡大を主導した関東軍作戦参謀が一時的な更迭処分にとどまった一方で、軍司令官や戦闘にあたった師団長が予備役に編入され現役を引退させられた上に、敗退の責任を負わされて自決に追い込まれた部隊長も少なくなかった。

国境警備の部隊にいた小林さんは、8月上旬に戦闘に参加し、ソ連軍の機甲部隊の攻撃を受けて苦戦を強いられた。停戦成立後は、戦死者の収容に当たったという。

証言者プロフィール

1918年
岡山県英田郡豊田村にて生まれる。
1933年
豊田尋常高等小学校卒業。
1939年
ノモンハン事件(第3次)。当時20歳。
1942年
満期除隊。
1944年
召集、岡山第48部隊入隊。
1945年
再召集。青野ヶ原戦車隊入隊。済州島上陸。現地で終戦を迎える。復員後は、防水工事工務店等経営。

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満州(ハイラル、ノモンハン)

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