ホーム » 証言 » フィリップ・メイリンズさん

チャプター

[1] チャプター1 ラバ中隊  03:57
[2] チャプター2 ビルマ奪回へ  05:19
[3] チャプター3 空からの補給  04:50
[4] チャプター4 日本軍との衝突  03:20
[5] チャプター5 ラングーンへ  01:58
[6] チャプター6 死ぬまで戦う日本兵たち  03:59
[7] チャプター7 生き残るためには、日本兵を殺すしかなかった  01:31
[8] チャプター8 原爆投下と戦争終結  01:59
[9] チャプター9 仏印での終戦処理  03:18
[10] チャプター10 襲ってきた独立派のベトナム兵たち  06:12
[11] チャプター11 協力的だった日本軍  03:52
[12] チャプター12 元兵士が抱き続ける日本への憎しみ  03:30
[13] チャプター13 憎しみを越えて  02:37
[14] チャプター14 太平洋戦争と帝国主義  03:02

再生テキスト

ビルマ北部は険しい山岳地帯で、自動車輸送ではたどり着くのが難しい、山岳地帯や丘陵地帯が長期にわたって戦場になりました。ですから、日本軍も連合軍も、動物を使った輸送を多用していました。日本軍は、小型の馬を使っていました。わたしたちは、ラバの中隊を使っていました。インド陸軍は丘陵地帯での戦闘をよくしていたので、伝統的にラバを使っていました。
ラバは、雄のロバと小型の雌馬から生まれる子で、ロバやポニーよりもずっと屈強な動物です。ラバの方が馬やポニーよりずっと強い第1の理由は、その強い皮膚です。第2の理由は、コンパクトなひづめです。ポニーの方が、幅が広いんです。第3の理由は、ラバは、ほとんど何でも食べるという点でした。必要とあれば人間でも食べますからね。唯一、うるさいのが水でした。きれいな水を好むんです。また、極地の厳しい寒さから熱帯の暑さまであらゆる気候の変化にも対応できます。

つまり、動物輸送においては究極の動物だったんです。日本軍は、わが軍のラバを捕まえると大喜びでした。本当にうれしそうでしたよ。ラバは70キロもの荷物を運べました。動物輸送と言えばラバだったのです。わたしは、ビルマに到着すると、第20インド歩兵師団の43頭のラバの中隊を引き継ぎました。すぐに、ラバ全頭の状態を確認したのですが、きわめてひどい状態だということが分かり、がくぜんとしました。けがや擦り傷だらけでした。ほぼすべてのラバを負傷リストに載せることになり、けがが完治し、回復するまで使えない状態でした。

わたしは、まだ赴任したばかりだったのですが、旅団司令部に呼び出され、3日後に出発すると言われました。即座に、ラバの状態が悪いのでそれは無理だと初対面の准将に言わざるを得ませんでした。わたしは、ほかのラバ中隊2部隊との調整役にも任命されていて、3中隊で総勢約1350頭のラバがいました。自分の中隊を管理するだけでなく、3ラバ中隊の代弁者でもあったので、この時点では、まだそうすることになるとは知らなかったのですが、これは1944年6月6日に終ったコヒマの戦い後の包囲突破だったのです。

この後、第2の大きな戦いと同時進行になった時期もありました。結局、日本軍は敗北、日本軍史上、最大の敗北を喫したのです。そこで、わが軍は、ビルマ南部に進攻する態勢をとることになり、わたしたちのラバ中隊3部隊が配属されていた第32インド歩兵旅団がその作戦に選ばれたのです。わたしたちは、非常によくできた航空写真地図を手に出動しました。これらの地図は、英国で陸地測量地図と呼ばれている地図に酷似していました。日本軍が持っていたものと比べると、とてつもない強みになるものでした。

また、地図は新たに作成されたものだったので、完全に最新のものでした。こうして、わたしたちは通過しました。パレル(インド側)という、スペルはP A L E L です。そこから、Kabor Valleyまで進みました。モーライ、スペルはM A W L A I Kです。そこでチンドウィン川を渡りました。チンドウィン川は、流れがとても速い川で、その地点では幅が600ヤード(約550m)ほどありました。わたしたちの装備、そして約3500名の兵士と1350頭のラバが川を渡るために利用できるのは、装備を乗せて輸送するだけで精いっぱいの空気注入式の攻撃用舟艇だけでした。ですから、ラバは攻撃用舟艇の後ろを泳がせました。

鞍(くら)は攻撃用舟艇に乗せ、荷物も攻撃用舟艇に乗せといった感じでした。幸運にも、ラバはとても強じんな泳ぎ手でした。優れたラバは、乗り手がそれほど大きい人でなければ、背に乗せたまま泳ぐことすらできるんです。とにかく、全部川を渡らせて、遠岸まで連れていくのに数日かかりました。対岸は当時、日本軍が占領していたので、できる限り迅速に川を渡る必要がありました。

ですから、わたしたちは、この川を渡るという作業を不眠不休で続けました。わたしは疲れ果てていました。

モーライでは、川幅が約600ヤード(約550メートル)もあり、流れがとても速かったんです。動物は川に入ると流れに沿って泳ぐ傾向にあるので、頭を水面からかなり上に出させるようにしないとならないんです。遠くにある岸が目に入ると、あとは大丈夫です。でも、遠くにある岸が目に入るまでは、流れに沿って泳いでいってしまうので、ラバを失ってしまう可能性があるんです。

あのとき、わたしたちは、約1350頭いたラバのうち、確か3頭しか失わなかったと思います。第1次の「ウィンゲート旅団の北ビルマ侵入作戦」(昭和18年、空中補給を受けた部隊が日本軍占領地域を撹乱した作戦)では、ラバが全滅するという被害も受けていましたからね。あれは担当者が適切な訓練を受けていなかった、十分な訓練を受けていなかったからですよ。

幸いなことに、わたしの中隊は適切な訓練を受けていました。もちろん、岸についてからもラバを整理して、正しい鞍が正しいラバに取り付けられるように鞍の整理もするという大仕事が残っています。当然のことながら、全てに番号がふってあります。それから、荷物などもあります。

完ぺき、これ以上ないほど完ぺきでした。彼らは、正しい荷物を正しい鞍を正しい動物につけ、正しい荷物を載せるといった作業を夜通し必死になってやっていたんです。

そして、わたしの到着をそこで待ってくれていて、わたしは敬礼であいさつしました。わたしはこの上なく最高の気分でした。わたしの部隊は非常に優秀だということが判明したんです。本当に非常に優秀な部隊でした。とにかく、わたしたちは前進し続けました。当然のことながら、1350頭もの動物がいると、非常に大きな問題となってくるのが、1350頭分の飲み水の確保です。これが極めて困難なときもありました。先ほども申し上げましたが、ラバは飲み水にはうるさいんです。何でも食べるくせに、飲み水に関してはきれいな水を好みます。

幸運なことに、そのころになると空輸補給と呼ばれるものが確立されていたので、ラバに与える牧草や飼料を探しに行ったり、わたしたちの食料を捜しに行ったりする心配をする必要はなくなっていました。すべて、空中投下と呼ばれるかたちで、パラシュートにつけて投下されたり、単に空中から投下されたりしていました。60ポンド(約27キロ)、失礼、80ポンド(約36キロ)の袋が投下されるんです。1袋、2袋、袋の中に袋が入っている。投下の衝撃に普通であれば耐えられるようになっていました。

ただ、80ポンド(約36キロ)の米が自分の上に落ちてきたら、確実に死んでしまいます。木も折れます。その輸送機が高度を下げるときは、スピードの関係で、こんな感じではなくて、こんな感じでした。モーライのチンドウィン川では、不幸なことに投下を誤ってしまい、わたしたちの上に投下されてしまったので、相当な数の兵士が犠牲になりました。ただ、わたしが抱えていた一番の問題は、ラバの状態が目に見えて悪化していることでした。相手はラバですが、負傷している兵士に自分の荷物を運ぶように言っているようなものでしたからね。

それに、ほかの2人のラバ中隊の司令官も、これを続けるわけにはいかないと常にわたしに忠言していました。ラバは本当にひどい状態だなどと言ってね。わたしは、その旨を准将に報告しました。幸運なことに、准将はとても心の優しい人だったので、「そうか、ただ、残念だが、このまま前進を続けるしかないんだ。できる限りのことをするしかない。」と言われました。ですから、わたしたちは結局、そうするしかありませんでした。これは、コヒマでの日本軍の大敗を受け、第14軍が包囲突破をしていたときのことで、ビルマ南部を奪回するための包囲突破でしたから、極めて重要だったのです。

敵陣を突破し、ようやくブダリンから数マイル足らずの平地に入ったところで…思い出します…ラバのことを考えると、緊張がようやくほぐれました。これで平らな地面を歩けますからね。こんな感じで歩くのではなくて。分かるでしょう?わたしは、とてつもなく幸せな気分になっていました。制圧しにいく場所のすぐ近くまで来ていることに気づいていませんでした。わたしたちには、完全な1旅団に加えて山砲隊もいました。つまり、かなり遠方からでも銃撃できることを意味します。それぞれに歩兵が約650名いる大隊が3隊ありました。

当時は、日本軍がどれだけ激しくブダリンの防衛をしてくるのか、分かりませんでした。ところが、ふたを開けてみると、ブダリンで勝てるはずのない大軍に反撃してきたのは、勇敢な日本兵わずか100人だったんです。わが軍は圧倒的に数で上回っていました。日本軍はわが軍が来ることを全く知りませんでした。完全な奇襲だったんです。わが軍から見ると圧勝でした。あの段階でわたしは“やった”と感じていましたが、同時に、ラバの状態を考えると、軍法会議にかけられるのではないかと思っていました。あのときのラバの状態を考えると。ラバは本当にひどい状態でした。ダグラス・グレーシー師団長が動物輸送担当兵に会いたいと言っていると言われ、ラバの状態を考えると間違いなく“やられる”と確信していました。

すると、ダグラス・グレーシー(第20インド歩兵師団長)は、目に涙を浮かべながらわたしたちの短い隊列を点検し、泣き崩れそうになりながら「諸君らは、この目的を達成するためにラバを事実上、拷問してきたようなものだ。ただ、気づいていないだろうが、諸君らがブダリンをこの日までに奪還していなかったら、モンスーンを考えると今年中にラングーンを制圧することが不可能になっていた。」とおっしゃいました。このように、非常に、非常に困難だった遠征は結果として大成功を収めたのです。ただ、一つお話しておかなくてはならないことがあります。師団長が来られる前に、わたしたちは敷いたモンユワに続く幹線道路上のブダリンの南部で道路閉鎖を敷いていました。わたしは、その道路閉鎖に加わっていました。

わたしたちはしっかりと塹壕(ざんごう)のなかに入り、夜の10時にモンユワにつながる道を見ていると、驚いたことにヘッドライトをつけた一台の車が目に飛び込んできたんです。ずいぶん長い、長い間、目にしなかったものでした。猛スピードでこちらに向かってきます。わたしたちは、橋の上に障害物をおいたんです。小さな橋だったのですが、その橋の欄干に大きな障害物を置いておきました。トラックは猛スピードで向かってきました。全体が木で覆われてしまい、とても、とても暗かったのですが、障害物にぶつかりそうになる手前で急停止して、それが日本軍だということが分かり、わたしは攻撃を命じました。

わたしのラバ追いたちが道路の両側から銃撃しました。ライフルは持っていたのですが、機関銃はありませんでした。日本軍のトラックには機関銃が装備されていて、非常に短い間でしたが、機関銃から銃撃がありました。それでも、わたしたちは、トラックに向けて激しい銃撃を続けていたので、恐らくその機関銃手を仕留めたのでしょう。すると、トラックの後からなんとか出てくることのできた日本兵が数名、路上に下り、発砲してきました。

結局、これは最長でも5分以内の出来事だったのですが、銃撃はやみました。わたしは道路の反対側にいる部下のことが心配でなりませんでした。銃撃をやめるように命じて、死んだ日本兵の間を駆け抜けていきました。ところが、その中の1人がまだ生きていて、わたしに向かって4ヤードの距離から発砲したんです。4ヤードという至近距離から真っ暗闇の中で発砲されると、衝撃は、はかり知れません。その3日後まで気づかなかったのですが、そのうちの1発は、1発だったと思うのですが弾丸が、わたしの弾薬袋を貫通していて、銃弾の鉄の部分にぶつかっただけのようで弾薬が爆発せずにすみました。もしそれが火薬側だったら、確実に弾薬が爆発し、わたしは死んでいたでしょう。

その日本兵は、手りゅう弾で自決しました。小さな手りゅう弾で自殺したんです。もしかすると、すでに大けがを負っていたのかもしれません。それが日本兵のやり方でした。もしかすると彼が持っていた最後の弾だったのかもしれません。わたしのことを殺せなかったあの弾は。死ぬまで戦う日本兵との戦いは、いつもこんな感じでした。彼らは、1941年初期に当時の東条英機陸軍大臣が示達した、「戦陣訓」に基づいて、そうするように義務づけられていたんです。

このために、死ぬまで戦うという、その日本人の行動が生まれ、わたしたちも同様にするだろうと思われ、ビルマでの戦いは極めて残忍かつ残虐なものになってしまったんです。

わたしはその任務から解かれて、連隊3500人の兵士を擁する連隊の副官に任命されたんです。わたしの副官としての役割はというとそれは、わが軍をラングーンまで進軍させる大きな連隊で、その連隊全体を指揮する大佐がいました。わたしは、24時間ベースで、各部隊がどこに向かうべきかに関連する、ありとあらゆることに対処しなくてはなりませんでした。非常に、非常に過酷な仕事で、懲戒に関する責任、軍法会議に関する責任、所属する各部隊の全員に対する責任などを負っていました。もちろん、昇進なども含まれます。

わたしは、ラングーンの30マイル(約48キロ)北にあるM...という地に到着するまで、その任務に就いていました。この間、日本軍は、全面撤退していました。わが軍は文字どおり、ひどい状況下で日本軍に攻撃をしかけていました。日本兵は、食料も尽き、弾薬も尽き、医薬品も尽きた状態でした。そんな時に、驚がくの知らせが届いたんです。米国が2つの爆弾を日本に落とし、日本が降伏したと。誰も信じられませんでした。わたしたちは、とんでもない冗談が出回ったものだと思っていました。

わたしは、日本軍が大敗した時期にビルマに入ったので、とても幸運だったんです。もっと早い時期に行っていたら、どうなっていたかわかりません。その間、わたしが出会った日本人戦争捕虜は1人しかいません。とても小さな男性でした。彼を抱きしめてあげたいような気持ちに駆られました。彼がとにかく無力に見えたので。自分がどこにいるのかも分かっていないようでした。ただ、日本人は、基本的には捕虜として降伏しないので、わたしが見たのは彼一人でした。

わたしのビルマでの体験を手短にお話するとこんな感じですね。これは、思い起こしてみると、すごい、素晴らしい体験でした。幸運だったんです。日本側の犠牲者数は16万人、16万人の日本兵がビルマで戦病死しました。これは、ビルマにいた日本兵の約60%に相当します。ルイス・アレンの著書によると、連合軍側の犠牲者数はトータルで確か1万3千人ですから、連合軍側の兵士1人に対して日本兵約12人が亡くなったことになります。これは死ぬまで戦うという姿勢の結果です。まあ、ビルマはこんな感じでした。

Q. あなたは、「戦陣訓」に言及していましたが、あなた方は、「戦陣訓」など、日本兵の戦争に対する考え方を知っていたのでしょうか?

わたしは、あのとき点では何も知りませんでした。ビルマで従軍したほとんどの兵士、そして、多くの戦争捕虜は、「戦陣訓」のことなど聞いたこともありませんでした。わたしは、過去との折り合いをつけたいと思い、日本人の心を理解しようとするプロセスの中で、「戦陣訓」について知りました。誰もが耳にしていたこと、短期間で体験したことが裏付けていました。日本人は、文字どおり、死ぬまで戦うんです。

日本兵がそれを口にすることはありませんでした。ただ、死ぬまで戦っていました。ですから、そうするものだと頭に入れておかなくてはなりませんでした。日本兵を捕まえることがあれば、自決しないように特に注意しなくてはなりません。また、彼らは、自決する前に敵の命を奪う機会があれば、それを実行してきます。つまり、例えば、降伏してくるドイツ人などとは、全然違う種類の敵だったんです。ドイツ人は、弾薬が尽きてしまったり、尽きてしまったりしたときには、わたしたちと同じ行動をとりますが、日本人は違いました。彼らは、文字どおり、死ぬまで戦うんです。

英国の偉大なビル・スリム司令官(インパール作戦時の英軍総司令官)が著書の中で…彼はこの点についてこうコメントしています。文字どおり死ぬまで戦う敵を相手にしなくてはならないときは、かなり素晴らしい敵を相手にしていることになる。つまり、わたしが言いたいのは、司令官は、あの偉大な著書の中で、日本軍は恐らく世界で最も優秀な歩兵だったと認めようとしているのでしょう。そのような感じのことを書いています。もちろん、これは、日本兵が実際に死ぬまで戦い続けたからなのです。以前は敵だった日本人をよく知り、本当に素晴らしい国民だということ、この上ない友人だということが分かった今、なぜ、日本人があのような立場に自分たちを追い込んでしまったのかが不思議でなりません。彼らは文字どおり戦い、戦い続けるか死ぬかという未来しかなかっただけでなく、捕虜になって帰国すると、日本の捕虜だった彼らは、家族の名誉を傷つけることになるのです。

手短かに答えると、今こんなことを言うと、とても残酷に聞こえるとは思いますが、自分の命を守らざるを得ない状況下では、軍服を着た日本人であれば、反射的に殺してしまうんです。捕虜として連れ帰ることなど考えません。そもそも、当の本人が捕虜になることを望んでいませんしね。ですから、わたしたちが捕らえた、わたしは一人しか見たことがないと言いました。日本人戦争捕虜は一人でしたが、彼は分かっていなかった。とにかく、彼は、とてもひどい状態でした。ひどく体が弱っていたんです。

ですから、とにかくわたしは、本当に気の毒に思いました、同じ人間として…思いも寄りませんでした。でも、あのとき、自分に「4ヤードの距離から自分のことを撃った男を思い出すんだ。」と言い聞かせるべきだったのでしょう。この男だってやつと同じことをするかもしれない。死ぬまで戦い続けることになっているのだから、わたしを殺せる何かを手にした瞬間に、彼がどんなに小さくたって、わたしの方が倍は大きくても、殺しにかかってくる。それが彼の使命でしたからね。結局は、憲兵に引き渡す前にちゃんとした食事をさせてあげようと思い、彼を食堂に行かせましたよ。その後、彼は戦争捕虜として、処理されることになります。

ただ、彼は、とにかくひどい状態だったので、恐らく自分が何をしているのかを理解できるような状態ではなかったのだと思います。そうでなければ、手りゅう弾さえ手元にあれば、戦陣訓に従って自害していたはずです。

つまり、こういうことです。わたしたちの国の兵士は、日本人は気づいていなかったでしょうが、わたしたちの国では、兵士が帰還すると国の英雄になれたんです。日本兵が帰還すると、英雄になるどころか、敗戦したこと、そして、多くの場合には生きて戻ってきたこと自体が恥辱とされたんです。戦死できなかったのは、彼らのせいではないでしょう。2つの原爆が落とされて、終戦を迎えたんです。わたしたちはかけずり回ってでも確認すべきだった。手りゅう弾で自決する彼らを多少でも止めるべきだったんです。わたしの知る限り、それはしなかったようです。

つまり、わたし個人としては、2つの原爆が投下されたことで、恐らく、何百万人もの命、特に日本人を含む命が救われたのだろうと考えています。日本人がサイパンで戦っていたように戦っていたら、民間人ががけから飛び降り自殺などをしなくてはならなくなった。沖縄のような戦いをしていたら、さらに、日本本土に侵攻せざるを得なくなっていたら、犠牲者の数は膨大な数に膨らんでいたことでしょう。何しろ、日本人は、死ぬ覚悟ができていましたからね。

地球上で死ぬ準備のできている唯一の民族でした。わたしたちをそれから救ってくれたのが原爆だったのです。また、あの2つの原爆は、未来への巨大な警告でもありました。現在は、万が一、第三次世界大戦が勃発すれば、恐らく数分もしないうちに多くの国が消滅してしまう、完全に消滅してしまうことが分かっています。ですから、わたしは、広島と長崎でお亡くなりになった方々は、世界平和という大義のための殉教者だったと考えているんです。

日本の広島と長崎に2つの原爆が投下されたのを受けて、そのとき点ではまだ日本軍の統治下にあった東南アジアの広大な区域で、連合軍は、膨大な問題に直面することになります。つまり、3つの大きな問題点が浮上してきたんです。第1に、日本軍に捕らえられている連合軍の捕虜をどうやって助け出し、できる限り速やかに帰国させることができるかでした。

第2に、日本人自身、日本人をどうやって日本に帰還させるのか。第3に、治安維持でした。あの2つの原爆は突然、投下されたので、わたしたちにとっては大きな驚きでした。わたしたちは当然のことながら、そのようなことが起きることなど、事前に知る由もありませんでした。つまり、最高司令部ですら、突然、日本軍の統治下にあった東南アジアの広大な区域に直面させられることになり、ほとんど何の前触れもない状況で支配せざるを得ない立場に突如として立たされたのではないかと思っています。

そこで、わたしは呼び出されて、その直前に自分のラバ中隊に戻っていたのですが、そこで呼び出されて、フランス領インドシナへの先遣隊と共に航空機で向かうようにと言われました。実は、その場所、そして日本に2つの原爆が投下されたのは本当だということ、日本が降伏したことについても、ごく漠然としたことしか把握できていない状況でした。
ラングーンの飛行場には、わたしたちを出迎えるためにタイ軍の将校らが来ていましたし、バンコクでも燃料補給をしました。そこから、サイゴンのトゥダウモットへと向かったんです。終戦を迎える前にマニュアルがすでに用意されていました。今後、どうなるのかが書かれている手順マニュアルです。手順マニュアルには、例えば、空港に到着したときに車が使えるようにしておくため、敵に全車両を空港に集めるように指示することなどが書かれていました。

トゥダウモットの上空を旋回しているときに、まずは6人の落下傘兵を降下させました。空港を点検した落下傘部隊の少佐が合図を送り、安全に着陸できることを知らせてくれました。わたしたちが下を見てみると、それはまるで…大規模な自動車ショーが開かれているかのようでした。たくさんの日本製車両が周囲を囲んでいて、わたしたちは、そこにあった車両の中から、好きな車を選んだんです。そこから、サイゴンの中心街まで車で向かうと、道路には連合軍委員会を歓迎するなどと書かれた横断幕がかけられていました。

それなのに、1週間もたたないうちに、彼らは(ベトミン・ベトナム独立同盟会)わたしたちに攻撃をしかけてきたんです。事態は急速に激しさを増してきて、サイゴンは包囲されてしまいました。フランス領インドシナの主要都市などが包囲されてしまったんです。到着したときのわたしの任務は、空路で始めて入った旅団、第80旅団の旅団補給と輸送でした。また、わたしには、まずは、6万9千人の日本人捕虜に食事を与える責任がありました。6万9千人ですよ。わたしに与えられていた部隊は、わが軍の戦争捕虜だった約6千人と地上にいる兵士だけでした。

また、やらなくてはならない仕事が山積していたので、わたしは輸送も任されていました。わたしたちは、という事態にまで達していました。天候が非常に悪化し、わが軍の兵士を航空機で移送してきた航空機は全機、戦争捕虜を乗せて帰っていました。ところが、それも天候悪化のために、できなくなってしまったんです。ほとんどできなくなってしまったんです。そして、その間に敵は兵力を増員していて、そうですね、わが軍側には、地上にわずか300人いただけでした、当時人口70万人いた、リバプールと同じ広さの街に対応するのに。

そして、わたしは突然、白昼にサイゴンを包囲突破するように言われたんです。日本兵、日本人の歩兵、少数のグルカ兵、そして、捕虜生活から解放されたばかりなのに志願してくれたオランダ人兵士らと共に。12マイル離れたところにある日本軍の武器貯蔵庫に、1000丁のライフルと100丁の機関銃と弾薬を調達しに行かなくてはなりませんでした。そこに車で向かう途中でも、集結しているベトナム人が見られました。

彼らは、わたしたちが向かう道中では、銃撃してきませんでした。日本軍の武器貯蔵庫に入ると、日が暮れてきました。暗闇の中、サイゴンに戻るのは非常に危険だと考え、日本軍の武器貯蔵庫で夜が明けるのを待つことにしました。貯蔵庫は護衛されており、50人の日本兵が加わったので、わたしの部隊は、日本人中佐が指揮をとる総勢で約100名の日本人歩兵となりました。日本語通訳がいたのですが、不幸なことに、ちょっとおびえているようでした。

わたしたちは、翌日、夜明けとともに包囲突破しました。12マイルの道のりを6時間半かけて進みました。道中、5名のグルカ兵が殺され、6名のオランダ人元戦争捕虜が殺され、人数不明の日本兵が殺されました。日本兵も数名亡くなっていたはずです。残りのほとんどは負傷していました。当然のことながら、グルカ兵の中にいたわたしは、特に目立つ標的でした。当時、わたしの身長は6フィート2インチ(約188センチ)ありましたからね。グルカ兵は身長が低くて、日本兵も身長が低かったので、お分かりでしょう。とにかく、わたしたちは、サイゴンにたどり着き、13台のトラックもすべて無事で、1000丁のライフル、100丁の機関銃、弾薬を持ち替えることができ、サイゴンは陥落しませんでした。

あれは、本当に、本当に緊張に満ちた経験でしたし、わたしにとっては、3年半の捕虜生活を経た兵士を失ってしまった、とても悲しい思い出です。自ら志願したとは言え、殺されてしまったのですから、ご両親になんと申し上げたらいいのでしょう?なんとお話ししたらいいのでしょう?いずれにせよ、当時、フランス領インドシナで起きた衝突は、1945年から1975年までの30年間続くことになる、ベトナム戦争の幕開けだったんです。そして、当時、わたしたちはAmmonitesと呼んでいたのですが、ベトナム人は、フランス領インドシナの主要都市を急速に包囲し、食料の補給路を断ったんです。

結果として、わたしは、民間人への食糧供給の責任も担うことになりました。6万9千人の日本兵に加えてそれです。わたしは、単に、当面の間、自分の面倒は自分で見るようにと日本兵に告げただけでした。わたしたちは計画をまとめました。日本軍のトラックを使って、食料を集め、配給する。日本人ドライバーに日本軍のトラックを与えました。日本軍の航空機を日本人パイロットに操縦させて、北部に輸送させました。

わたしは、1945年12月26日までその職務を続けた後、フランス人に引き継ぎました。膨大な数の人々があの作戦行動に関与していたので、とても興味深い経験をすることができました。今となって、振り返ってみると、あれはひどく悲しい時期でもありました。その後、ベトナムでの戦争で、300万人もの人々が亡くなったのですから。

Q.終戦後の日本兵ですが、死ぬまで戦うようにと教えられていた。あなたの目にはどう映りましたか?

わたしにはその点についての説明はできません。あのとき、わたしは初めて自分の敵国である日本の大佐に会ったのですが、1つ重要なことを申し上げておかないと…わたしたちは、フランス領インドシナに飛び立つ前に指示を受けていたのですが、その指示の中で、何か命令するときにはすべて天皇陛下の名において命令するようにと言われていたんです。「天皇陛下の名において、何々を命ずる」、分かるでしょう?そのように伝えるよう指示されていました。“天皇陛下”という言葉は、日本人にとって非常に重みがあるという考えの下にね。

ところが、本当に、本当にあっという間に、大佐に命令を出したときに気づいたんです。わたしたちは、緑茶を飲みながら会談したのですが、まるで、今、わたしがあなたと話しているような雰囲気でした。わたしたちは、堅苦しさを感じながらも、かなり友好的でした。大佐は、わたしが言ったすべて、わたしが彼に出した命令をすべてを、完ぺきに忠実なかたちで実行してくれました。

大佐は、命令を実行しなかったときのことを明らかに恐れていましたが、わたしたちの関係は非常に満足のいくものでした。わたしはまるで副官として自分の部隊に命令を出しているような感じでした。わたしと同じ立場にいた英軍将校と日本兵との関係は、全部そのような感じだったのではないかと思います。当然のことながら、わたしたちは彼らの協力を必要としていました。ただ、わたしは、すぐに気づきました。例えば、彼らも、わたしたちと同じようなユーモアのセンスを持っているということを。わたしが、ある大きな車庫を到着する食料用の倉庫として使いたいと考えた時にです。

そこで、わたしは、ただこう言ったんです。日本人の将校に、そこにあった物を指さして、言ったんです。「こんな感じで、分かる?」すると、彼は、厳格に起立していた部下を自分の後について来させていました。(その後)わたしが様子を見に戻ると、日本人の大佐がわたしのところに来て、彼は英語が全く話せませんでしたが、敬礼すると、こんな感じで指さして、こんな感じで分かるでしょう、全部あったんです。そこには、とても大きな、重さが何トンもある発電機が置いてあったんです。そして、その日本人の将校は、発電機を指さして、とにかく、それを持ち上げたりするには、少なくとも300人は必要なぐらいの大きさだったんです。

その日本人の将校は、発電機を指さして、「こんな感じで、分かる?」と言ったんです。わたしは、思わず笑い出してしまいました。すると、ビシッと気をつけの姿勢で整列していた日本兵も、その多くが笑い出したんですよ。わたしは、そのときに、同じ人間を相手にしているんだと実感しました。このように、わたしが指揮していた組織で働いていた日本兵との関係は、とても満足のいくものでした。

Q. 彼らは、敗戦と降伏を受け入れていたのでしょうか?

それは、とても興味深いポイントですよ。理論上は、「戦陣訓」にのっとり、降伏するぐらいなら、自決するための、小さな手りゅう弾が彼らのほとんどに与えられていたはずです。ただ、わたしの知る限り、そのような事例を目にすることは一度もありませんでした。彼らは、恐らく、分別のある考えで、とにかく生きていられてよかったと思ったのでしょう。

ところが、第2次世界大戦後の日本の場合には連合軍捕虜の扱いという問題があったので、英国と日本の和解ははるかに難しくなりました。ドイツ軍の管理下では亡くなった戦争捕虜がわずか5%だったのに対し、日本軍の管理下では25%が亡くなっています…第2次世界大戦中に英軍全体で亡くなった兵士の5%と比較して。つまり、日本軍の捕虜になると、ドイツ軍の捕虜になったり、戦死したりするよりも、死ぬ確率が5倍も高かったことになります。

戦争捕虜は、ほとんどの場合、極悪非道な扱いを受けていました。10年ほど前に、わたしは自ら、“ボルネオ死の行進”の道のりをたどったことがあります。サンダカンからボルネオ北東部にあるラナウという地までの“ボルネオ死の行進”により、当初2000人いたオーストラリア人の中で生き残ったのは6人でした。750人いたイギリス人は一人も生き残れませんでした。ラナウの記念碑にそう書いてあります。

彼らは…彼らは、目の前でひどい残虐行為が行なわれているのを目の当たりにしてしまい、そのことが頭から離れないのは当然です。驚いたことに、友人の一人が、あれだけたくさんの人が首をはねられている姿を見ていると、あっという間のきれいな、いい死に方だと思えるようになってくるんだと言っていました。自己の体験からそのような事を言えるようになるなんて、想像してみてくださいよ。

ですからわたしには、わたしたちの戦争捕虜があのような気持ちになる理由がよく分かるんです。わたしは、ビルマで戦っていた一部の敵と会うことになって、わたしたちと同じ人間なんだということに気づき、万が一、自分が戦陣訓に従わなくてはならない立場に置かれていたら、わたしはほぼ処刑されるぐらいなら、従うしかなかっただろうと思うようになりました。また、英兵も全員戦陣訓に従わなくてはならない立場に置かれていたら、わたしたちの元戦争捕虜も全員、従っていたことでしょう。要するに、残虐行為を含むすべての責任は戦陣訓にあったんですよ。

「なあ、少なくとも、日本兵、普通の日本の一兵卒も、君と同じ立場に立たされていたということを、理解しようという気持ちにはなれないか?」「日本兵も命令に従うしかなかったんだ。死を持って罰するという脅しの下で。」こう言っても、彼らの心を動かすことはできません。彼らは「死ぬまでやつらを憎む。」と答えるしかないんです。ですから、この問題は、元戦争捕虜がこの世を去り、その息子や娘がこの世を去っていくうちに徐々に薄れていくという考えに基づいて取り組んでいくしかないと思っています。

少なくともわたしは、事実上、英国の和解の聖堂とも言える、コベントリー大聖堂での礼拝のお膳立てをしました。そこで、英国の元戦争捕虜と日本の退役軍人との和解が行動で示され、英国の退役軍人と日本の退役軍人がコベントリー大聖堂にある和解の像の前で握手をしました。

日本との問題も良い方向に向かっています。現在、1つだけ残っているのは、そう言えば、コベントリー大聖堂でわたしは、歴代の大使たちからの一般論的なおわびの言葉をもらいました。素晴らしい内容でした。ただ、一般論的だったのです。日本からひどい扱いを受けたすべての国々を全部、1つにまとめて網羅していました。戦争捕虜について、特に言及している部分はありませんでした。この国の元戦争捕虜たちは、今も「俺たちへの仕打ちについて、わびて欲しい。」と言っています。

元戦争捕虜は、自分たちに対するわびを求めています。それは、もちろん、わたしも理解できます。わたし個人としては、元戦争捕虜に対して、イギリス政府からそれぞれ1万ポンド支払われることになったということで満足しています。わたしは、他国の政府に対して訴えるように、自国の政府にもこう訴えます。かつて英国の元戦争捕虜が日本兵にされたようなひどい扱いを、国民が敵から受けたときに、元戦争捕虜に対して適切な支払いをすべきなのは、誰よりもまずその国の政府だと。
でも、わたしは、日本に出資してもらうために、できる限りの努力をしました。なぜ、日本は出資すべきではなかったのか?英政府からの補償金に万が一、日本が出資していたら、ほかのすべての案件に対して、同じことをしなくてはならなかったからです。そうなっていたら、大変な結果になっていたはずです。あのとき、日本は、ほぼすべてのアジアの国から支払い請求を受けていたでしょう。

ですから、その点については3年半にも及んだ、ひどい扱いに対して1万ポンドというのは、現在の水準から考えると大した額ではありませんでした。でも、この国の政府は、最後には正しい行いをしたのです。

日本人の若者にあの質問をしたら、自分の人生を振り返ってみて、20歳のとき、何を考えていたのだろう?と。彼には、こう考える権利がある、「世界の5分の1が英国によって支配されているというのに、この英国人達は自分たちのことをいったい何様だと思っているんだ?」「我々に大東亜共栄圏を樹立することはできないなどと言う権利がやつらにあるのか?」あるいは、「そんなことを我々に言う権利があるのか?」など。

わたしたちも、当然のことですが、わたしが学校を離れるころまでには、帝国主義に未来はないと感じ始めていました。わたしたちは、常に、最終的には自治などを認めてきましたが、第二次世界大戦が起きていなければ、もっとゆっくりとしたペースになっていたと思います。日本人が何をしたかというと、フランス領インドシナの独立を助けたのです。インドネシアの場合も日本が手助けをしました。日本人は人民を、自由のために戦うという軌道に乗せたのです。ある意味、これは日本人の功績です。

要するに、大日本帝国になる代わりに、次々に独立していったということです。誰だって、普通の人間なら、自分の国で二流市民になどなりたくないですからね。それは、16歳のわたしにも明白でした。

Q. ただ、残念なのは、日本人が、経験不足だったせいかもしれませんが、適切な方法で新たに征服した国々を統治しなかったことです。そこは、日本人の至らない点だったのでしょうか?

わたしが思うに、英国人が、わたしたちが北米で先住民族を殺害したことは疑いの余地もありません。インドでも、インド人を殺害しましたが、それほど多数ではありませんでした。オーストラリアでもアボリジニを殺害しています。ガーナのアシャンティ人の土地でアシャンティ人も殺害しています。わたしたちも、世界各地でさまざまな人たちを殺害してきましたし、もちろん、奴隷貿易においても主要な役割を果たしてきました。また、奴隷貿易廃止においても主要な役割を果たしました。いずれにせよ、英国の過去には血に染まった歴史があります。ただ、それはずいぶん昔のことです。

日本人がいくぶん時代遅れだったところは、わたしたちの基準から見てですが、20世紀にあのようなやり方であのような行為をしたことです。世界はあのころまでには、かなり良くなってきていて、あのような考えは通じなくなっていましたから。

出来事の背景

【英印軍インド歩兵第20師団】

出来事の背景 写真昭和16年(1941年)12月8日、日本軍はハワイの米太平洋艦隊を攻撃すると同時に、マレー半島に上陸、英国の植民地であったマレーとビルマに向けて侵攻を始めた。対日戦の準備が整っていなかったこともあって、連合軍は次々に敗退、1942年の5月までに、マレー半島とシンガポール、ビルマ、さらに蘭領東インド・ジャワ島も陥落した。このとき数多くの連合軍将兵が日本軍の捕虜となり、そのうち英軍将兵の捕虜はおよそ5万人に上った。

その後、日本軍と英軍との戦闘は、1944年3月に始まったインパール作戦で、再び激しくなった。英領インド軍の拠点だったインパール攻略を目指した日本軍だったが、インパールに迫ったところで、連合軍の反撃が激しくなり、補給のない日本軍は総崩れ、7月に撤退を始めた。メイリンズさんの部隊は日本軍を追撃し、激しい戦闘を体験、死ぬまで戦い続ける日本軍兵士に恐怖を覚えたという。

太平洋戦争で日本軍の捕虜となった英軍将兵の4人に1人が命を落とした。泰緬鉄道建設への強制労働やそれに伴う病気、栄養失調、警備兵による暴行などが原因である。元捕虜の人々の間では、その時の記憶から、日本に対して憎しみを持ち続けている人も少なくない。

戦後、メイリンズさんは、憎しみを超えて日英元兵士の和解活動に取り組んできた。元日本兵と交流するため何度も訪日。また、元英国人捕虜への「特別慰労金」支払いを英国政府に働きかけ実現させた。2001年には、日本と英国の友好を象徴する「和解の森」を造った。2010年11月、メイリンズさんの長年にわたる活動に対して、日本政府から「旭日双光章」が贈られている。

証言者プロフィール

1919年
英・バーミンガムに生まれる。
1939年
徴兵で「国防義勇軍」に入隊。
1940年
仏・ダンケルクの戦い(対独)に参加。
1942年
「英領インド軍」に入隊。
1944年
ビルマ戦線 対日戦に参加。
1945年
仏領インドシナで日本軍武装解除任務。翌年、復員。
2010年
日英元兵士間の和解活動に対して日本政府から「旭日双光章」を贈られる

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ビルマ(ラングーン、マンダレー、モーライ、ブダリン、チンドウィン川)

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