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タイトルタイトル: 「迫りくる日本軍との激闘」
名前名前: ジム・エバンスさん(英印軍インド歩兵第17師団 戦地戦地: インド(インパール) ビルマ(チンドウィン河、ティディム)  収録年月日収録年月日: 2010年3月25日

チャプター

[1]1 チャプター1 英領インド軍へ  06:32
[2]2 チャプター2 国境の最前線へ  02:17
[3]3 チャプター3 日本軍との戦闘  11:56
[4]4 チャプター4 密林のスーパーマン、日本兵  01:42
[5]5 チャプター5 インパール作戦勃発  04:05
[6]6 チャプター6 押し寄せる日本軍  09:24
[7]7 チャプター7 銃撃  06:46
[8]8 チャプター8 日英和解活動  01:47

チャプター

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提供写真提供写真

収録年月日収録年月日: 2010年3月25日

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わたしは学生でした。高校の最終学年で、サセックスの田舎に住んでいました。そして対ドイツ戦は1年続いていました。でもダンケルクへのドイツの前進までは、遠いことに思えていました。そして実際、そこからは、海峡を越えて軍がダンケルクから撤退しているときの銃声を聞くことができました。

しかしまだずっと遠いことのように思えて、学校を終えてから軍に徴兵されるまで1年がありました。そして実のところ、わたしと同時に学校を出た友達がわたしに手紙をよこして「学校で軍事教練をしたという校長先生からの証明書を受け取ったなら、インドに行き、英領インド軍に入り、半年間の訓練を受け、軍の任務に就くことができるぞ」と言ってきました。それでわたしと数人の同級生は志願したのです。そして、わたしたちは41年の12月に入隊し、冷たい1月に、我々160人の学生は、スコットランドで船に乗り、50隻もの巨大な護衛艦隊で出発しました。

そのときインドまでは6週間もかかりました。Uボート(独の潜水艦)を避けるためだったと思います。そしてインドに着くと、列車で、南インドのバンガロールまで南下しました。そこは穏やかな、かなり温和な気候で、暑すぎることもありませんでした。そしてそこで6か月の訓練を受けましたが、その中でも主なことはウルドゥー語を習うことでした。わたしたち少年の中には、というかその当時は誰もがもちろん若かったのですが、父親やおじがインドの軍隊に属したことがあるものがいて、彼らは伝統を知っていました。

何もかもが我々には初めての体験でした。大冒険でした。そしてそこでの最後の月には、我々はどの連隊に行きたいかを選ぶことになりました。そしてわたしはあるグルカ兵がバンガロールで列車を降りるところを見ていました。彼は将校と歩いていました。彼は看護兵でした。彼は肩に背のうをかついでいました。そして彼のベルトにはクックリ刀(グルカの人々が使う短刀)が揺れていました。彼は屈強な様子でした。それを見て、わたしはグルカ連隊に行こうと思いました。

Q:それで当時あなたは何歳だったのですか?

まだ18歳だったと思います。そしてウェリントンの学校からの最年少の少年の1人はまだ17歳でした。彼はクリケットがすごくうまかった。でもほんの17歳でした。どうやって彼が紛れ込んだのかわかりません。でも偶然に我々が補給基地に行き、新兵に会ったとき、そこで訓練をしていたグルカの新兵の中には17歳と言われていた人もいましたが、多くは15歳、14歳そこらだったと思います。ごまかそうとしていました。

Q:それでそのとき冒険の感覚のようなものはありましたか?何が起きるかわかっていましたか?

どんなことになるかわかりかけたところでした。実際、我々が軍に入ったちょうどそのころ、日本との戦争が始まりました。それで、ヨーロッパの戦争へと出向く代わりに、対日戦争に向かって行くことになりました。当時インドでは、北アフリカなどの砂漠での戦闘のために訓練をしていました。それが、我々がインドに着く前に変わっていました。もちろんそのとき我々は、ビルマの英軍が日本軍の侵攻によって撤退しつつあると知りました。

戦争初期にはグルカの連隊は10ありました。1個連隊に2つの大隊がありました。すぐに1個連隊につき4個大隊に拡大されました。1個のグルカ大隊にざっと1000人歩兵がいました。そして戦争の進むにつれて拡大しました。何と言ったらよいか、英印軍の大半を十万以上のグルカ兵が占めており、グルカ将校はグルカ語と同様ウルドゥー語も話せていたし、わたしたちも話せるようになりました。

いったん陸軍に入れば、これは戦争中ますますはっきりしたことですが、自分の所属部隊が自分の家族になるのです。そしてしばしば英印軍では、1850年に軍が形作られて以来、インドの1857年の第1次インド独立戦争を経て、父や息子たちが伝統を作ってきたのです。

その強い連隊の伝統は受け継がれました。よく戦争中に自分の家族の一部であるかのように部隊に戻っていく兵士を見ました。特にグルカ人の中にいた我々にとっては。なぜなら我々にはインドに家族はいなかったので。「あなたは何故インパールへ飛んで戻ろうとしているのですか?完全に包囲されているのに」たずねる人がいました。わたしは「そう、それは自分の家族も同然なんですよ。だって他には誰も知っている人がいないんだから」と言ったものです。

それが「伝統」でした。そして、彼らは総督を通じて大英帝国に忠誠の誓いをたてたのです。彼らは宣誓をしました。そしてインドのことわざには、「誰かの塩を食べたのなら、その人に忠義を尽くす」というのがあります。もし誰かに雇われたなら、わたしは彼らと塩を食べます。そして彼らはラージャ(インドの王)、マハラジャなどに報います。もし彼らに雇われたなら、彼らは彼らの塩を食べたんです。もしラージャの恩恵を受けたなら、それを裏切ることはなかったんです。

わたしは鉄道でコルカタに行き、激流のブラマプトラ川をさかのぼっていくのにゆうに10日以上かかりました。わたしは何人かの兵士を連れて行きました。ディマプールの鉄道の終点はちょうど建設中でした。そこは当時開発が進んでいたところです。そしてインパールに向かって100マイル以上行ったところで、線路が途切れていました。そこには大きな3トントラックしかなく、2か月前まで運転ができなかったインド人が運転手で、待っていました。ドキドキしました。

ようやくインパールにつくと、ジープに乗せてもらって、目的地に向かいました。それはシルチャールのすぐ近くでした。平原の端にわたしが後で見ることになっていた鉄道がありました。しばらくは完全な休息期でした。大隊は、日本軍に押し出されてビルマからの撤退を終えたばかりでした。そして惨敗した話が数々あったにもかかわらず、その第1連隊第四グルカ大隊にはそのような感じはまったくありませんでした。彼らはたいていの人よりも幸運でした。撤退のとき、ほとんど死傷者はでなかったのです。

わたしがインパールに行ったのは42年の12月のことです。小康状態の時期です。手短に言うと、翌年、長い休みの後、我々の第17師団、クロネコ師団はティディム、チン高地に移動しました。そこには160マイルのジープ用道路が作られていました。そして我々はビルマのチンドウィンで、眼下の日本軍基地からわずか10か12マイルしか離れていませんでした。

我々はチン高地に登りました。当時はジープ道路だけでした。その後次第に改良されて、我々がそこを去るころには、半年後ですが、整備されてトラックや大砲も運べるようになっていました。我々は高地にいて、日本軍は次第に慎重に動いて、我々の下の丘を1つ、2つと手に入れていきました。我々はそのあたりを見張らせる、ケネディー・ピークに近いバイタル・コーナーと呼ばれる尾根にいました。

そこからビルマ側が見下ろせました。そして防御のため、パトロールを出し、戦闘のためのパトロールと言うよりも本当に偵察のためのパトロールを出して日本軍の位置を正確に探り、どこにいるかを知り警戒することでした。そしてわたしの司令官は禁欲的で、かなり教養のある、非凡な人でした。オックスフォード大学の学位を持っており、それは当時陸軍では珍しいことでした。たいていの将校はそんなわずらわしいことをしようとは思わなかったのです。

そして彼は冷静でした。恐怖心はないように見え、とても冷静で勇敢で前進する決意があり攻撃的でした。彼は敵に対して攻撃的でしたが実際のところ我々にも少し攻撃的なところがありました。冗談も言ったりしましたが、彼の命令は絶対で、いつも攻撃命令でした。ですから、彼は旅団長に、進言しました「部隊として何かもっと大きな戦闘行動を取り、日本軍を追いこまなければなりません。」と。

そして彼は明らかに我が大隊が何かをすることを買って出たのです。そして我々がいた場所から5マイル離れた小高いジャングルの中のピンピと呼ばれる小さな基地を攻撃する命令が出ました。そこまで尾根伝いに進まなければなりませんでした。夜、大隊の全員が出発しました。小さな敵の拠点を2個中隊で攻撃するというものでした。

かなり手ごわいことは知っていました。敵は堅固な塹壕(ざんごう)を掘っていました。連隊長は小隊長に、ダルワングだったと思うけれど、その場所にけん制をかけるために、左側へも回るようにと命令しました。それで我々は出発し、夜を徹して歩きました。それはもちろん湿ったジャングルの中ではエキサイティングなことでした。寒くはありませんでした。そして夜明け近くなると、木々の間から尾根の両側を進んでいたこと、目の前には我々の仲間が2つにわかれているのが見えました。

木々の中に何か影が見えるだけでした。わたしは隊長と副官と一緒でした。そしてわたしは信号と通信の担当だったので、2人の通信兵の近くにいました。古い機械でしたが、それを完ぺきに使いこなしました。うまくいきました。なぜならわたしは信号通信の研修を終えたばかりでしたから。

そして我々には前線監視将校もいました。砲兵将校も一緒でした。彼は、わたしには、とても慈愛に満ちた、おじのような存在でした。彼は30代初めだったに違いなく、若い将校よりはずっと年上で少し白髪も交じり、物静かでした。彼はわたしたちと一緒に歩いていましたが、はるかかなたのケネディー・ピークにいる砲兵にいつでも攻撃の開始を命じる用意がありました。

そして夜が明け、彼はまだ進み続けました。わたしにはぼんやりと前を行く人のいちばん後ろの人が見えました。そして突然機関銃が発砲しました。わたしたちの味方の一つ、軽機関銃でした。それからそれよりもゆっくりとした銃声が、日本の機関銃の発射音が、聞こえました。それが、わたしが初めて聞いた友軍ではない銃声でした。そして進み続けました。我々は何百ヤードも先に向けて前進し続けました。

そして発砲は時々ものすごい量に増えて行きました。そのときわたしは人を認め、前にいた兵士に近づきました。すぐに彼らのすぐ前に鉄条網があることが分かりました。張り巡らされ、小さな丘のひくいスロープの鉄線でした。それでただぼんやりと、遠くからどこから発砲されているのか、丘の頂上のようだというのが見えました。

そのとき、血を流しながら這(は)って後退して行く人がいました。死傷者もいました。でも次に見たのは地面の上の死体でした。前進陣地の将校、砲兵の将校が空をにらんで死んでいました。彼は、たった1発の銃弾で死んでいました。わたしが誰かが殺されるのを見るのはこれが初めてでした。1人でした。それからもっと多くの負傷者が戻ってきました。負傷者は多くはなかったけれども、もがいて何とか進もうとしていて、ちゃんと歩くことはできませんでした。そこでよろめいていました。

それからわたしはハルパーンという右翼攻撃隊の中隊長が腕をだらりと下げて足を引きながら後ろへ下がっていくのを見ました。彼はわたしに向かって叫びました。「ジミー、撃たれた。もう1つの中隊、左翼の中隊も見ろ。中隊長が撃たれた。君が代わった方がいい」と彼は言いました。2つの中隊があったのです。それで、わたしはさらに前に進み、地面に倒れている男たちを見ました。そのときにはしゃがんでいましたよ。鉄線に絡まっている男たちが見えました。何人かは通り抜け、出てきていました。

彼らが動くたびに機関銃が火を噴きました。でも幸運なことに地面には直接届きませんでした。だから彼らが地面に低く伏せると、そのとき、突然左側の者たちがほとんど、言いにくいのですが、ほとんど走って戻り始めたんです。それでわたしは「止まれ、止まれ」と言いました。彼らは回りを見ました。わたしは「止まれ」と言い、「C中隊が登ってくる」と言いました。わたしは自分の短機関銃で空中を、でも日本兵らしい方向に向けて狙い、弾倉が空になるまで発砲しました。それで彼らは見回しました。

わたしは「止まれ。中隊が来ている。他のものが君たちを超えるために上って来ている。来い」と言いました。わたしは他の中隊と連絡が取れたのか忘れました。いや、取れなかった。それで彼らの集団とともに、文字通り鉄線まで這って行き、それを通り過ぎました。鉄線に引っ掛かる度に缶がガラガラと音をたてました。日本人はずる賢くも、鉄線に空き缶をつけていたのです。だからこういう風に動くと『…』という具合になったのです。

空き缶は動くたびに厄介でした。しかし、そこに何人いたかは思い出すのが難しい。今思い出せば、わたしと一緒にいたのは、10人ないし20人のはずです。そして何人かは通り抜け、わたしたちは鉄線を超えました。何も見えませんでした。振り返ってみれば、どこから銃が発砲されているか見えたはずです。1台の中心的な機関銃が下に向かって発砲しており、それが前線を完全に支配していました。立ち上がることは望むべくもなく、立ち上がればすぐに撃たれていたでしょう。

それでも我々は前進しました。何人がわたしとともに鉄線を通り抜けられたかわかりません。少なくともわたしの両側に2人がいることは分かっていました。そしてわたしは通り抜けました。すると自分が1人なのに気がつきました。敵は見えません。それは巧妙な位置づけでした。このような場所で良くやる手だったのです。全ての戦力は背後にありました。

それで、本当になすすべがありませんでした。今それを説明することはできません。でもとにかく、わたしは1人で、実はもう1人一緒にいました。それでわたしは、「よし、ここから脱出しなくては」と言いました。それで徐々に後退を始めました。ひじを立てて後ろに下がりました。もちろん鉄線を半分超えたところで、わたしの水筒が引っ掛かり、ガラガラ鳴りました。鳴るのを止めることができませんでした。射撃手はそこで猛烈に撃ってきました。集中砲火が止まりません。わたしはおそらく少しヤケになっていたのでしょう。

そのうちに何とか抜け出すことができました。こうして今もわたしは英国の田舎町を歩き回っています。しかしいまもわたしは有刺鉄線のところをくぐりぬけるときは細心の注意を払います。というのは、テクニックが・・今この家の外にも1つありますが、抜ける直前に十分持ち上げるのです。どこでも同じです。有刺鉄線には簡単に絡まってしまいます。ですからそれは戦場での命の危険に直面していました。日英どちらにとっても見えない敵でした。彼らはパトロールで、わたしたちに探りを入れていた。見つからないように苦労していたでしょう。それは致命的ですからね。敵がどこにいるかを見つけることがカギでした。

しかし、これは攻撃でした。意図としては、本当はできれば奪取することでしたが、主目的は、敵を緊張させることでした。そして実際、左翼の小隊の指揮官は我々よりも多くの成功を収めていました。数人の日本人を開けた野原でとらえることができました。あと2つの小隊が上って来て、それまでにグルカ将校がわたしの所に来て、2人がわたしと一緒に小隊を引き継ぐことになっていました。若いわたしは突然2つの小隊を指揮することになったのでした。

それでわたしは結果としてこれらの2人のグルカ将校に他の2つの小隊が上って来たときに引き継ぎました。そしてわたしは中隊長に話をして、どうやって行って後ろに回り込むかを教えました。それから少しずつ後退して、部隊長に会い、何が起きたか報告しました。

Q: ではこの段階では…のような攻撃というよりは偵察任務に就いておられたのですか?

ええ。それ以上ではありませんでした。任務は敵を冷や冷やさせることでした。通常、訓練では奪取して維持するというフレーズを使いますが、これは奪取維持ではありませんでした。これは攻撃に近く、できれば手に入れよということでした。1日の作戦とみなされていました。戦闘をしに行くなら、何故それを続けないのかということは、今説明しようとしても難しいのですが。いわばこう着状態の戦争でした。

写真や絵のようなものを見つけたことを覚えています。日本のスーパーマンがジャングルにいて撤退のあと戻って来たという伝説です。そしてもちろんスリム将軍(英第14軍総司令官)は言っていました。「日本兵はスーパーマンなどではない。わが兵士よ、君たちは訓練が終わるまで待つのだ」というように。そしてその伝説は陸軍では伝説ではありませんでした。でも手ごわい敵でした。それは疑いの余地もありません。そしてまた、スリム将軍はそのことを最初に認めた人でした。

彼は日本の兵士は、おそらく世界でも最高の歩兵だと言いました。それに異論の余地はありません。彼らは危険でした。そして人によく聞かれました「怖かった?日本人は恐ろしかった?」と。話では、彼らは非情でした。いわゆる捕虜になった者はいなかったんです。

でも恐れはしなかった。あるとき誰かが「彼らを憎んだか?」と聞きました。そして実際、わたしは兵士やグルカの立場にたっても考えます。でも実のところは何も恐ろしいことはありませんでした。多分我々は非常に早く移動していたのでラッキーだったのでしょう。そしてわたしは彼らを憎んではいませんでした。ただ不安でした。わたしはあるとき、彼らを、狩りをしているトラにたとえました。つまり、あなたはあえてそういう相手に賭けにでたりはしないでしょう。

1944年の3月にチン・ヒルのずっと上の方のマイルストン52でひどい戦い(日本軍のインパール侵攻)が始まろうとしていました。しかし、そのときわたしに休暇が回ってきました。1週間です。そこでもみんな順番に休暇をとっていたのです。そして唯一の休暇の過ごし方はインドに行くことでした。それでわたしは、インパールを抜けて行く長い道に出発しました。そしてそこからトラックでディマプールまで行き、そこからコルカタまで列車で行ったのです。

わたしはインドの中心部へ行くことに決めていました。初めてでした。デリー、ニューデリーに行きました。ポケットには有り金全部がはいっていました。当時町でいちばんのホテルだった、セシル・ホテルにチェックインして、1週間のんびりすることができました。プールもありました。わたしは、知らない街で休暇を過ごす人が誰でもするようなことをやって楽しみました。誰も知り合いはいませんでした。1人か2人、総司令部の上官に2人ぐらい会ったくらいです。

休暇最後の夜、ラジオのニュースで『日本軍の攻撃』、『アラカンでの攻撃』と言っていました。そして日本軍がインパールに向かっていると。次の日、わたしは出発して、来た道をずっと戻ったのです。コルカタにいき、輸送担当将校に「どうやって戻ればいいですか?自分は戻るのです。」と言いました。彼は言いました「もうインパールは孤立しているんだ。ニュースを聞かなかったのか?」と。わたしは「何かそのようなことは聞きました」と言いました。彼は「そうだな。いちばんいいのは飛行場に行くことだ。それは丘で、そこには飛行場があるから、おそらくだれか輸送担当の者が乗せてくれるだろう」と言いました。

それでわたしは飛行場に向かいました。そのときわたしは看護兵と一緒でした。2人とも寝具を持っていました。彼もデリーのホテルで休暇をすごしていました。そしてそのうち、名前は、忘れましたが、飛行場が約20マイルのところにあると聞きました。そこで車に乗せてもらい、そこに行きました。原っぱの端に小さな小屋があり、それが管制塔でした。そこに英国空軍のカーキの制服を着た人がくつろいでいたので、わたしはあいさつして言いました「インパールまで飛んでくれますか?」

彼は「今補給品を受け取っているところだ」と言いました。わたしは「わたしとわたしの看護兵のための場所はありますか」と言い、彼は「ああ、しかしインパールは孤立しているんだよ」と言いました。わたしは「ええ」と言いました。彼は「お前は気でも狂ったのか?何でそこに行きたいんだ?」と言いました。「行ったら、帰って来られないぞ」と彼は言いました。彼がわかっていませんでした。わたしにとって第1連隊第四グルカ大隊は自分の家族だったのです。わたしの本当の家族は6000マイル離れたイギリスにいましたが、もう4年近く会っていませんでした。

でも自分の連隊は家族なんです。実の家族のことは頭にありませんでした。とにかくわたしたちはダコタ(輸送機)だったと思うが、ダコタに乗り込み、低空飛行をして、眼下に見えたのは、後でシルチャール道路だと分かりました。さらに乗り継いで第1連隊第4大隊グルカに合流したのでした。波乱に満ちた10日間を見逃していました。第17師団、クロネコ師団は日本軍の第33師団によってティディムで孤立したのです。その日から日本軍はまた我々の敵になりました。

そして戦いました。ティディム道路をずっと撤退しながら。しかしそれまでに屈強な戦士は、第1連隊第4大隊は、(日本軍による)道の封鎖の全てを知っていて、それまでに18か月の訓練を受けていたので、うまくこれらをかわして、それらの道路封鎖を一つまた一つう回して、師団全体で軽装備でインパール平原に現れ、数を増していた守備隊に加わったのです。そこで我々は優勢になりつつありました。なぜなら通信ラインはありませんでしたが、2つの飛行場を手にしたからです。

主要な飛行場が一つと、パレルの平原の端っこに一つありました。そしてこの6か月、スリム将軍は4つの兵団を管轄していて、補給品をそこで備蓄していました。それで我々には配給が豊富にあり、これらの飛行機は兵士の輸送やその地域を通過するために使われていました。そこに我々はいたのです。

戦闘は激しさを増していました。別の旅団、第32旅団に加わりました。この旅団には国境ライフル部隊もいました。そして我々は丘のふもとから出発し、尾根を約5マイル上った所に、ノーザンプトンシャー連隊と第八グルカ連隊がいましたが、退却路は、日本軍によって遮断されようとしていました。

それで我々はそこに到着しました。爆撃は毎夜ありました。そしてラバ(物資輸送用)の列は、ラバはあらゆるところを逃げ回っていました。わたしの初仕事は、小規模な斥候が行われていて、連隊長はわたしがそこについてしばらくしてわたしを呼びました。彼はわたしのことをピンピのことや、すべての通信がうまく行ったことなどで良い印象を持っていたからです。でも2番目の攻撃ではあまりうまくいかなかったので、それについてはわたしのことをあまりよくは思っていませんでしたが。

彼は「ジミー、日本軍の大砲が見えるだろう。彼らはそれをティディムの上まで何とか持ってあがった。そしてここにいる司令部に耐えがたい状況を作り出している。それに昨夜、ラバの列に砲撃があったのは聞いただろう。C小隊から威力偵察に出て欲しい。工兵隊の伍長が爆薬を持って同行するから。

大砲はこのあたりに位置すると思われる」と言いました。彼は地図を指さしました「そして君はそこに行き、大砲を爆破するのだ」もしくはそこに大砲の一部がありました。「それを爆破すること」それでわたしは「イエス・サー」と言いました。そしてそれがどこか見ました。わたしには何マイルあるのかわかりませんでした。およそ4マイル離れていて、開けた水田越しでした。わたしは「見られてしまいます」と言いました。彼は「だから、今夜移動するのだ」と言いました。

わたしは「わかりました」と言いました。そして出発しました。夜中に行きました。本当に何も見えませんでした。しかし、グルカ人は英語も読みもできなかったけれど、地図を読むことにかけては素晴らしかったです。伍長はわたしを先導し、わたしたちは4時ごろまで夜を徹して進みましたが、彼は「まだ遠いです。もうすぐ1時間ぐらいで明るくなり、我々は見つけられてしまいます」と言いました。それでわたしは「そうだ。少し休もう」と言いました。

わたしと一緒にいたのは15人と、この工兵隊員だったと思います。そのときまでには完全に疲れ果てていました。この水田にはかなりやられていました。それでわたしは言いました。「よし。短い、15分だけの休みをとろう。前と後ろの端に見張りを置け」と。そしてわたしたちは、水田のあぜ道にいました。わたしは言いました「そして両端に見張り兵をつけて、ただ休息する。すぐに行く」わたしはほんの少し眠るつもりでした。「それからまた行って、できるだけ速やかにやってしまうぞ。朝、どこまで行けるかだ」

そう、そうしました。そしてわたしはこんなふうに沈み込みました。わたしはうとうとし、全員がうとうとしました。そのとき、わたしの横の射撃手がわたしを引っ張り、彼がささやいたのが聞こえました。金属のチリンという音が聞こえ、それからパタ、パタ、パタ、という音がし、まっすぐ向こうから蹄、馬の蹄が来るのがわかりました。近づいてきました。彼ら(日本軍)はわたしたちの真上にいました。わたしたちの間を歩いて行きました。それは、日本軍の補給部隊で、6頭ほどの馬が明らかに引かれていました。

我々には見えませんでした。覚えているのは見上げると馬の蹄が通り過ぎて行くのがわかったぐらいでした。どうしようもない事態でした。そして一瞬で彼らは通り過ぎました。本当にできることは何もないと思いました。しかし15分丸々は休みませんでした。わたしは言った「よし、行こう」。我々は進み、次第に辺りは明るくなったが、まだ近づいてはいませんでした。つまり、明るくなりきった中で、隠れるところもない開けた場所で、大砲に近づくことなど問題外だったんです。

それでわたしはそこで、無線を呼んで、「Sun Rayを呼べ」と言いました。それは将校の1人でした。そして彼が出ました。わたしは言いました「Sun Ray。まだ着いていない。あとどのぐらい距離があるのかわからない。まだ開けた場所に出ている。1日待つ、そして実行する。以上」すると返事が来ました。「Sun Ray、こちらSun Ray。わたしが命令を出したら、今すぐ行くのだ。出ろ」

どうすることもできませんでした。無線は切れました。わたしは「よし、立て」と言い、できるだけ広がりました。本当にいっぱいの幅に散らばりました。そしてこの大砲のある方向に前進しました。何の兆候もありませんでした。多分目標が間違っていたんでしょう。そのとき左手に何かヤシの木、村のようなものに差しかかりました。

突然、遠くに叫び声のようなものが聞こえ、銃声がしました。そしてわたしたちは見ました。その村に日本兵の部隊がいました。そして突然彼らが小銃を構えるが見えました。歩兵銃で、どこにでも持ち運びしていた小さなものでした。そしてその音は2回しか聞くことはできませんでした。2回目の音は、自分が撃たれた音か、弾が貫通した音でした。そしてそれらは「…」というような感じでした。なぜならそれはいつも自分にまともに向けて発砲されたから。

その銃でわたしたちに向けて数発撃ってきました。何故機関銃を使わなかったのか?多分持ってなかったんでしょう。単なるパトロールでした。それで我々は進み続けました。わたしは「向きを変えろ」と言い、突き進みました。多分的外れの弾だったのでしょう。我々はとても幸運でした。砲弾が落ちてくるのが見えました。どこに落ちてくるかはわからないが、我々のところには届いていませんでした。わたしたちを撃ちそこなっていました。興奮していたのでしょう。

連隊長は翌朝、またわたしを呼びました。わたしは明らかにまた気に入られていました。彼は「ジミー、見てみよ。君は彼らが道の右側、西側にいると言ったが、今はここの小山を手に入れているよ」そしてそれを地図で見せ、「そしてそこから道が見通せる」と言いました。そして彼らは、供給品、水のトラックが丘の頂上のグルカ兵やノーザンプトン(連隊)へ届けられないように止めているのでした。「君に残っているものをまかせたい。今からC小隊を受け継ぐんだ」そしてわたしは実はそれにはある理由があると思いました。全部で80人の中で30人しか残っていませんでした。

「君に彼らを任せる。そして、君は」と彼は恐らくこの言葉を使ったのです。「君はその小山を奪取し、保持するのだ」と。それでわたしたちは行きました。兵は銃やそのほかの全てのものを用意して。

わたしは、ピンピで起きたことを、マイルストン52でしなければならなかったことを心に止めていました。正面攻撃はよくない。だから日本軍が見える範囲の距離に入ったとしても谷から見上げることしかできない。見るだけでした。わたしは「よし、牽制攻撃をしなければならない」と言いました。そしてわたしは伍長を呼び、彼はグルカ兵でしたが、英語を少し話せました。頭の良い青年でした。「いいか、丘を散開隊形で登る。そして敵陣地を手に入れるんだ。射撃しながら駆け上がり、丘を手に入れる」と言いました。

何も見えませんでした。いつものことだったでしょうが、ちょうど丘のへりの向こう側でしった。「さて、左側をずっと下がって欲しい。下に見えるだろう、2つの谷がそこにあって、約800ヤードのところに低い丘が見えるだろう。半時間ほどでそこまでいけるだろう。こっそりとそこまで5人の兵と一緒に降りて行って我々を見つけたらすぐに我々が丘に上っていくときに援護射撃を始めてほしい。ほんの少し待ってくれ。それから弾のある限り、気をつけて射撃をしてほしい。それまでには彼らの側面か後方が見えるといいのだが。大丈夫か?」

「はい」と彼は英語で答えて出て行きました。それで我々はじっと待ちました。30分後、無線で「位置につきました」と連絡しました。わたしは無線で「こちらSun Ray」と言いました。彼は「Sun Ray minor 。なにをぐずぐずしている?なぜ攻撃しないのだ?」。わたしは「まだ準備が整っていません。攻撃位置にいないのです」と言いました。彼は「とにかく動くのだ」と言いました。わたしは「了解」と言って無線を切りました。そして10分後、また無線でせかしてきたのでした。

彼は「ジミー 何をもたもたしている?あの場所は手に入れなくてはならん。早く行け」と言いました。彼がまたかけてきたかは忘れました。わたしは言いました「できません。位置についていないのです。まだ動けません。側面に人をやっています」。彼は言いました。「今行くのだ」。何と言ったかは忘れたが、わたしは「今行きます」と言いました。でも行かなかったんです。合図が見えなかったんです。だからわたしは待てるだけ待ちました。幸いやがて合図が見えた、何か布のようなものが振られるのが見えたのです。

「よし、行くぞ」。丘に駆け上がりました。最初は何も起きませんでした。わたしたちはこの何もない丘を歩いて登りました。写真でわかるでしょう。航空写真がここにあります。一方がかなり大きい。そして円形の塹壕は遠くのサイドにあります。そして頂上にやっと届いたとき、彼のライフルが上がるのを見ました。彼は射撃を始めました。彼はライフルを持っていて何よりもライフルが好きでした。そして彼は撃ち始めました。男たちは見えるものを手当たり次第に撃ち始めました。

ちゃんとした塹壕はありませんでした。というのもその前の夜に一部掘っただけだからです。だから当然我々には(日本兵の姿が)見えました。わたしは左側にいました。そして塹壕、きつねの穴に日本兵がわたしの前方そんなに遠くないところにいるのが見えました。もちろんあまり役に立たないがリボルバーを持っていました。短機関銃は持っていませんでした。それで彼を撃ちました。それから身を伏せました。それからまた起き上がりました。彼は撃とうとしました。彼が、わたしが起き上がるのを待っているのが見えました。

そして、わたしは飛び起きて、引き金を引きました。6発の銃弾を撃ち尽くしました。そう、わたしは手りゅう弾を2つ持っていたんです。ピストルを右手に持ち、手りゅう弾を引っ張りだしながら、進みました。するとそのとき日本兵が姿を見せたので、わたしは手りゅう弾を左手でクリケットのボールを投げるように投げつけたのです。その直後、何が起こったかわからないまま、私は地面に転がっていました。

わたしは見上げると、腕がまっすぐと伸びていました。が、そこにはもうありませんでした。そして腕は下にわたしの上にこんなふうにありました。そして息ができないことに気付いたんです。わたしはこんなふうでした。撃たれたということがわかりました。わたしは、「まだ。まだだ」と言っていたのを覚えています。ただ、でもわたしはまだ息をしていました。するとそのとき、若い看護兵がやって来ました。彼は平時には配管工でした。彼は、わたしの背後から近付いてきました。

彼は言いました。「大丈夫。横になっていてください。これを見てください」と。彼は私を見て体を引っ張って動かし、言いました。「大丈夫です。かなり小さい」。「でも見てくれ」私は背中を指さしました。わたしの背中がべっとりぬれていたからです。それで少し前にかがみました。こんなふうに。そして彼の顔を見たのを今でも覚えています。彼は背中を見て、彼の目はこんなふうに見開かれました。と言うのも、わたしの背中が血だらけだったからです。

日本軍は、精度の高い小銃弾を持っていました。硬く、とても精巧に作られていました。我々の303弾(英軍のライフル用銃弾)よりも小さく、とても硬い鉄でした。だから、まともに撃てば、骨でも何だって突き破ったんです。このときは、銃弾はわたしの体に斜めに入り、突き抜けました。こんなふうに。ここを通って、肩と胸に当たり、致命的な場所をそれて、背中に抜けました。何本かの肋骨を折って外に出ました。

わたしたちは一緒に食事(戦後の日英元兵士の交流の食事会)をした後、飲み物を飲みながら話していました。わたしの家族はわたしに聞きました「どうして、そんな人たちに会いたいの?」とね。「戦争捕虜」を知っているでしょう。わたしのおじは「戦争捕虜(日本軍に捕らわれた英国人将兵)」でした、そして「どうして彼ら(元日本兵)に会いたいのか?」と言いました。わたしは20年、30年、40年後に彼らに会うことに興味があるだけだと言いました。彼らはわたしたちがそこ(ビルマの戦場)にいたときに同じ蚊に襲われていました。ただ会いたかった。そしてもちろんいろいろなことが話題になり、この協会のメンバーの中には実際、後にかなり良い友人になった人もいます。

そして、グレアム(元英軍兵士・コヒマの戦いに参加)が立ちあがって、乾杯の音頭をとり、彼は言いました「敵だった人々とここにこうしているというのは、かつては想像もできないことでした」と。そして彼はイギリスに住んでいた元日本軍将校の平久保さんのことにふれました。彼はグレアムの隣りに座っていました。そして彼は言いました「30年前に、もしわたしが今のように平久保さん(平久保正夫さん、インパール作戦に陸軍将校として参加し、戦後は日英元兵士の和解活動に取り組んだ)を見たら、このナイフで彼を殺していたでしょう」そして「平久保さんもわたしを殺そうとしたでしょう」彼は言いました「でも、それはもう終わったことなのです。」あなたもこの仕事(インタビュー)をしていておそらくお気づきのように、(日英元兵士の間に)まだ多くの修復されねばならないことが残っています。とんでもなく多くのことが修復されなければならないのです。

出来事の背景出来事の背景

【インパール作戦 日本軍33師団との戦闘】

出来事の背景 写真 1939年9月、ドイツ軍のポーランド侵攻で第二次世界大戦が勃発。イギリスは、対独戦に突入した。一方、アジアでは1941年12月8日、日本軍がイギリス領のマレー半島に上陸し、日本との戦争も始まった。イギリスでは、エバンスさんをはじめ大勢の若者が入隊して、戦場に向かった。
 エバンスさんは、イギリスの植民地軍である英領インド軍に入隊。英領インド軍は、主にイギリス人(主に将校)とインドやネパールなど当時のイギリス植民地出身の兵で構成される大規模な軍隊であった。その中でも、エバンスさんは、ネパールの山岳地帯出身のグルカ兵の部隊に入隊した。

エバンスさんが所属したのは英領インド軍第17師団で、1944年3月に始まったインパール作戦では、南から攻め込んでくる日本軍第33師団と激突。緒戦の激戦で一時は包囲され、退路を断たれる危機に陥った。その後、援軍や物資の補給によって持ち直し、いったんインパールまで後退したのち、最終的には日本軍を押し返した。
エバンスさんは、この激戦のさなか、日本軍の銃撃を受けて負傷し、前線を離れた。

一方、太平洋戦争では、日本軍の捕虜となった英軍将兵の4人に1人が厳しい強制労働や警備兵の暴行などで命を落としたため、元捕虜の人々の間では、その時の記憶から、日本に対して憎しみを持ち続けている人も少なくない。
戦後、エバンスさんは、憎しみを超えて、インパールで戦った元日本兵と交流する和解活動に取り組んできた。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1922年
イギリス・ウェールズ州ペンブロークシャーに生まれる。
1941年
陸軍に入隊。
1942年
英領インド軍のグルカ連隊に入隊。
1943年
日本軍との初めての戦闘を体験。
1944年
日本軍のインパール作戦始まる。銃撃を受けて重傷を負う
1945年
戦後も軍に残り、1971年大佐で引退 

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