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タイトル 「集団自決した親と子ども」 番組名 [証言記録 市民たちの戦争]漁師は戦場に消えた ~静岡県・焼津港~ 放送日 2010年8月10日
氏名 月形 澄子さん(フィリピン・パナイ島での戦い 戦地 日本(静岡・焼津) フィリピン(パナイ島、イロイロ市)  収録年月日 2010年6月30日

チャプター

[1] チャプター1 フィリピン・ イロイロ市  05:30
[2] チャプター2 イロイロ市から脱出  04:04
[3] チャプター3 父親を見失う  03:10
[4] チャプター4 銃撃  04:45
[5] チャプター5 集団自決  03:46
[6] チャプター6 母に救われた命  00:00
[7] チャプター7 生き延びる  06:46
[8] チャプター8 父の消息  05:30

再生テキスト

イロイロってすぐ海があって、岸壁があって、そこにお魚の船も着くんですね。それで母は新しいお魚が好きで、それでもう岸壁に行って、そのお魚を買っては帰ってきて。それでお刺身にして。ちっちゃな魚はおかずにしたりしてそれで食べていたわけですよ。で、だんだん慣れてきて、慣れてくるとだんだん日本が危ないぞということの話が出てきて。「ええ!? そうしたらどうするの」って言ったら、父は、「まあいいんだよ」。ここで部隊長のお話。部隊長とは懇意にしていましたから、部隊長と懇意にしてよくお話を伺っていたから、ここの方がいいんじゃないかなって。隣のセブだとやっぱり兵隊さんも多いし邦人も多いし、「これからは逃げる作戦になるから、人数の少ない方が勝ちだ」って言われたと。で、だからそういうふうな目で見ていけば、イロイロの方がいいと思うと。だからイロイロにとどまって、どうにかなるまでやろうじゃないかという話を母とはしていたらしいんですね。

そうしたらだんだん空襲が激しくなってきて、「ええ!? 空襲ってこんなに怖いものかしら」と思って。それでアメリカの飛行機が来たっていうから、ワーッと思って逃げて。数えたら120機来ているんです、編隊を組んで。まあよく120機も数えたものだと思ってびっくりでしたけど。もう空一面アメリカの飛行機ですよね。まあそんなのして、だんだん怖くなってきて、それが朝昼晩。晩は来なかったかな、朝昼かな。何か2回ぐらい来ていましたね。そして時々ドカンドカンって音がするっていうのが、飛行場に日本の飛行機があった、そこを爆撃されちゃうんですよね。そうしたら翌日、その現場を見に行こうって言って、自転車で見に行ったりもしたんですよ。そうしたら日本の飛行機こんなになっちゃって、大きな穴が開いていて。もうこれじゃあ飛行機ここに来れないな、なんていう父の話を聞きながら、でまた自転車で帰ってきて。
あんなしたらどうなるんだろうって言ったら、「まあまあまあまあ大丈夫だよ。見てりゃ大丈夫だよ」って父は言っていたんですけれど。で、だんだんもう、爆撃が今度は始まって。いやあ、これじゃあ大変だねなんて言ってあれしたら、3月22日ですか、今夜集まるようにって。ホスピタルがあるのでそこに集まれと。で、みんな夕方5時か6時ですね、もう荷物を詰めて、それで全部背負って。そして病院にみんな集まったらみんな集まっていたんですよ。そうしたらものすごく爆撃。もうこの病院もやられるんじゃないかしらって思うぐらいものすごい周りがやられているんですよね。それでもうこんなふうにしてなんかいられない。こうしてみんな入り口、病院の入り口に入った広場のところに、みんなもう伏せてあれしていたら、中のシスターが表に出て、飛行機に向かって拝んでね。そんなあれをしないでくださいっていうようなことを拝んでいるっていうのを聞いたんですけど。そうやって拝んでくれて。ああ、そうしたら静かになって。静かになるとともに、やっぱり夕方になってきているから飛行機も帰ってくれて。そしてもうみんなホッとして。そうしたらもうすぐ、夕方暗くなって、だから6時ぐらいですかね「出発」って言うんです。

 「これから出発だって、暗くなって」なんて言って。それから出発して、シスターたちがね、「バイバイ、元気でね」ってお別れして。こちらも「ありがとうございました」って言ってお別れして、そして出発したんです。それでとにかく人のいないところ、いないところを歩かされて。それで次に出てきたところは、田んぼ。稲刈りの終わった田んぼ。そこの稲刈りの後の何ていうんですか、切り残しっていうんですか。わたしもよく分からないんです。切り残しがずっと残っているんですね。で、運動靴を履いてこうして歩いていたら、足が痛くなるんですよ。もう運動靴にその切り株が。「いやあ、痛いわね、痛いわね」ってまた文句を言い始めて、それで遅れないように一所懸命歩いたんですね。
そして、もう水が、そうしたらお水が飲みたくなって。水筒を持ってきていないわけですよ。水なんてどこにでもあると思っているから、水筒なんかみんな持ってこないで。そうしたらね、「ここにお水があるよ」って前の方で言っているから、ああ、じゃあ飲もうって言って。それで行ったけどコップもないし、手ですくって飲むだけだって。妹を母がおんぶしているものですから、こう投げ出してこうして飲まして。自分でも飲んで、母も飲ませて。それで一応ホッとして、それで出発して。朝方見たら水牛の行水するお水、それ。それ見て、もうウェーって思って。真っ暗だから全然分からないんですよね。ただお水があるよ、ここにお水がたまっているよっていうから、みんなでワーッと行って飲んだら、水牛を洗うっていうんですかね、浸かるようなところがあるんですよね。だから、「ええ? こんなの飲んで大丈夫なのかしら」って言ったけど、誰も病気しない。それでもずっと歩いて、3日ぐらい。昼間はどこかに隠れて、そして夜だけ歩くことにして。
で、もう3日ぐらい歩きましたね。で、やっと広い地に、ホッとするようなところに着いて。じゃあ今日はここで野宿するっていうことで、それでみんなで野宿するんだと。そうしたら、何か食べるものは・・そうしたら兵隊さんの方からおにぎりを1個ずつ配給があって。何も持っていないから、もういろいろ出る時に既にバリバリ撃たれちゃったので、荷物を持って歩けないんですよ、重くて。それで荷物を捨ててきちゃったわけ。それで川を渡って、川の前でうろうろしていたら父と離れちゃって。わたしそれ知らないで、とにかく前の将校さんが「この川を渡らないと向こうに行かれない。向こうに行かないと、こっちにいたんじゃ危ないから、向こうに渡らなくちゃだめだよ」って言って。で、「お父さんもこっち渡るんだってよ」って。こう振り向いて言わないで口で言って、もう付いてきていると思っていたから。「だってよ」って言って。それで「早く行くからね。この将校さんの後ろについて行くからね」って、ダダダってついていったんですよ。

そうしたら、向こう岸に渡る時にわたしの靴がどろっと沼に入っちゃって、片方抜けちゃって。片方だけで。もうとにかく重たくて重たくてしょうがないからやっと上がったら、それ捨てちゃって。荷物を全部。もう何もなしになっちゃって。そして父を振り向いたらいないんですよ。「あれ、おかしいな。どうしたんだろう」と思ってしばらく待っていたら、どんどん来る人に聞いたんですけど、「いやもう、誰もいないよ」って言うんですよ。来る人ももう1人、2人になっちゃったので、「誰かおじさんいなかった?」って言ったら、「いないよ」って言われて。あれ、おかしい、じゃあどこか行っちゃったのかしらと思って。それでもうあきらめて、母が待っているところの、マンゴーの木の下に母がいたものですからそこに走って行って、「お父さんが来ないんだけど」って言ったら、「ああ、そう。でもいいよ。後で来るかも分からないから」と母も言うし。じゃあもう早く行かないと、みんなに遅れたらまた大変だよって言って。それで母と3人で、片一方靴履いて片方なくて、それでやっと追い付いて。
そうしたら、もうみんな、みんなもうへとへとなんですよね。初めてそういう目に遭っているし。でもそこまで行かないと今日は宿営、寝られないから、もう少し歩いてくれって前の方から伝達が来て。わたしなんか一番後ろですから、前の方が休んでいる時にわたしたちが着いて、「はい出発」で、前の方は行っちゃう。結局わたしたちはお座りすることが出来ない。そのまま追い掛けていかないと危ないから、また追い掛けていくというような状態で。やっと今日はここに宿営するっていうお達しが回ってきて。「ああ、良かったね」って言って。やっと野原に、何もないからそこにあれして。ただ寝るしかないよって言って寝て。
それが初めて。あとはずっと歩いて。その3日目のそれが初めて睡眠をとったっていう状態で来たんですよね。

Q:そのじゃあ最初に逃げてから、草むらで眠るまでずっと歩き続けて?

歩き続け。昼間は隠れて、歩いたらもう撃たれちゃうんで。昼間はジーッと。穴が掘ってあるところもあったんですよね。だから、そこの穴に入って、3人でジーッとして、昼間は。夜になったらゴソゴソ出てきて。そして歩くんですよね。そういう毎日でした。

自決の時がちょうど3日目ぐらいだったと思いますね。やっと川の流れにぶつかって、そこでお水を飲んで、それでこの上だって言われて。じゃあまた上まで上がろうねって言って、3人でまた上まで上がっていったんです。そうしたら、上から声が聞こえるから、「ああ、もうすぐよ、もうすぐよ」って言いながら3人で上がって行って。それも何ていうんですか、カヤが生えるでしょ。そのカヤをつかまえてギューッと上がっていくんですよ、歩いて。それでその次のカヤをつかまえて、また上がって行くって、そういう状態で上まで上がったわけですよね。

山の上を見ながら、一所懸命この上をいければ道があるんだってよって、励ましながら上に行くような状態だったんですよね。で、上に行って、途中まで来たらもう見つかっちゃって、こっちの山からバンバン撃たれちゃったわけですよ。そうしたらもう、目の前でこっちの兵隊さんがもものここの肉がバリッと割れて。弾が当たって。で、「いやあ、やられた、痛いよ、痛いよ」って叫んでいらっしゃる。こっちの兵隊さんは腕が飛んじゃってる。それでもう「畜生、やったなあ」って、足をバタバタするんですよ。で、わたしたちはバリバリ撃ってくるから、怖いからもうこうしてしゃがんでいるんですけど、ヤシの木がみんな倒れちゃうんですよ、弾に当たってバキッと。そのヤシの木が当たったら大変なので、それがまた気を使わなくちゃならないし。「気を付けなさいよ、気を付けなさいよ」って母が言って、「大丈夫、大丈夫」って言って。
そしてやっと上に上がって。そうしたら上に行ったらもう、亡くなっている方もいる。兵隊さんですけどね。亡くなっている方もいる。わめいている人もいる。「お母さん、お母さん」って言っている方もいらっしゃる。もういろんなあれを見て。ああ、やっぱりみんなお母さんって言うんだなと思って。そしてのこのこ出ていったら、バリバリって撃たれちゃってびっくりして、こんな大きいカヤの根っこにバーッと3人で逃げ込んだんですよ。そうしたらその根っこにみんな弾が当たって、もうそのときは生きた心地がしなかった。ああ、もうだめだと思って、頭付けていたんですよ。そうしたら、パタッと終わりになった。あれ、終わりになったよ。これ大丈夫かなって言って。じゃああれしようって、のそのそって、最初にわたしが最初に出るからねって。それでのそのそと出たら何でもない。「あ、何でもないからすぐ出るのよ」って言って、わたしがワーッと飛び出していって、その次に母と妹が出てきて、何でもなくて。
そして出ていったら、邦人がそこにいたわけ。みんなが待ってた。それで、邦人の監視する人が、「ああ、月形さん、良かった。どうしたかと思ったよ」って言って喜んでくれて。「ああ、すいません。でも良かった」って言ったら、もう腰が抜けちゃってへなへなとそこに座っちゃって。それでふと見たら、みんな、横になっている人がずるっと並んでいるし、こっちの方ではリッチャンのお父さんね。学校の先生。それがもう「リツコ、おまえは1人で行け」と。お父さんたちはここであれするから、とにかくおまえは行って、お母さんにこの状況を知らせてくれって。お母さんは戦争になる前じゃなく、あ、6年生の卒業式とともに日本に帰っていたんですよね。だからお母さんは日本にいて。それで「おまえがもし帰れたら、お母さんにこの状況を話してやってくれ」っていう話の最中だったんですよ。

で、もうわたしたちはもう、バリバリ撃たれる怖さに、「もういいよ。もうここでいい、自決しよう、ここで」って。「みんなと一緒に死のう」と言って、それで座り込んじゃったの。もう歩けないの。立てないの、腰が抜けちゃって。それでしばらくそういうのを見ていて、それで今度はこっちを向くと、今度はお母さんと息子が、小さい息子で「ねんねするのよ」ってお母さんが言って、「嫌だよ、僕ねんねしないよ」って言っているけど、「いいのよ、ここでねんねしているといいのよ」って言っていたら、傷痍(しょうい)軍人の方が銃剣を・・こっちは何だったんだかよく分からないんですが、(銃剣を)着けて、こうして刺してくるの。もうそれ、最初何をしているんだろうかと思って、じっと見ていたんですよ。おかしいなあって思って。そうしたら、みんなが寝ていること自体静かに寝ているから、何だろうなと思いながら見ていたのが、向こうから傷痍軍人の方が銃剣を先に着けて、一人ひとりをこうやって。もうそれ見た時、本当に、いやあこれが戦争なんだと思って、本当に泣けてきました。
そうしたらもうね、傷痍軍人でしょ。健康体じゃないんですよね。その人がそれを刺してくるっていったら、もうよたよたですよ。だからどこに刺しているかも分からないんじゃないかと思うぐらいよたよたで、もうはあはあ言いながら、そういう状態で刺してきたの。だから収容所に帰ったら、やっぱり病院で拾われて、入っていました。収容所に帰ってきていました。それでみんなで、良かったって抱き合ってあれしましたけど。本当にあのときはもうびっくりした。ああいう世界っていうのがあるのかと思って。もう、呆然としましたね。
で、こっちでは先生は先生で、もうお姉さんはもう亡くなって、大きいおなかだから歩けないから嫌だって言って亡くなっていたんです。そして先生はそのリッチャンに、おまえは1人で行きなさいって。この状況をお母さんに知らせなさいって言って、1人で行かせたんですよ。で、それもわたしたち座ったきりで眺めていたんですよ。もうとてもじゃないけど行かれないと思って。そして、他の邦人の人を見たら、お経を読んでいる人はいるし、子どもを、お母さんが真ん中にいて子どもをずっと周りに置いて、ありったけのものを食べさせているんですよね。結局それはもう別れになるわけですよね。刺してきた人が来るんじゃないですか。そういうふうになっていると思ったんですけれど。そしてお母さんが、「さあ、みんなで食べて。ゆっくりここでいいんだよ。ここでいいんだからね、ゆっくりあれしなさいね」って言って。もう子どもたちも喜んで食べていたけれど、死ということは考えていないから、まだね。もうみんな喜んで食べていましたよ。

それで、もうわたしたちももういいよ、いいよって座ってあれしていたら、母が、「あんただけ行ってちょうだい」って言うんですよ。もうわたしたちはいいから、あんたは1人で行ってちょうだいって。リッチャンも1人で行っているんだから、あんたも一緒に行けばまたお話が出来るんだから、1人で行ってちょうだいって。わたしたちはここにいるからって。
「もうわたし歩けない。だめ。」って言ってもう、わたしもここにいるって言って、わたし動かなかったんですよ。そうしたら母が、「あ、じゃあ行こう、行こう」って妹をおんぶしちゃって。そしてよたよたしながら歩いて、そうしたら兵隊さんがいらして、「兵隊さん、お願いです。この子をお願いします」ってわたしのことを渡すわけです。だから、「いいんですよ、母と一緒の行動をしますから、いいんです。どうぞいらしてください」って言って。そうしたら「そんなこと言わないで、あんたは行きなさい。兵隊さん、取って」。そのときはもう行く人がいないんですよ。もうまだらで。だからかえって危ないんですよね。いつ下から上がってくるか分からないし。だからもう早くとにかく行かなくちゃだめだっていうので、母がもう息を切らしてくっついてきて。「行きなさい、早く行きなさい」って言いながらね。だからもうとにかく一緒に行くんだからいいのって言って、離れずずっと一緒に来たんですけどね。もう本当にあのとき、リッチャンとお父さんのお別れを見たし、うちの母もしつこくついてきたし。だから良かった、帰ってこられたんですけど。もうあのときはほんと、みんな子どもがじっと寝ていて、刺されるのを待つのをね、子どもには言っていないから分からないから、ただねんねしていなさいって言われてねんねしているだけでしょ。
それをね、傷痍軍人が刺していくんだから、もうああいう状況って本当に初めて本当に見てね。ああ、戦争って嫌だなあって思いましたね。

Q:その場で自決をみんなでしようっていうふうな流れになったのは、どうしてなんですかね。

もうね、なっちゃいます。動きの取れない人は。子どもが、小さい子がね、5人も6人もいたり。もうあれだけ歩いて、とにかく歩くんですから。子どもは歩けないもの。そうしたら嫌だってワーッと泣くでしょ。泣いちゃだめよ、敵に分かるからって言ったって分からないし、本当にお母さんは大変だったと思う。だからもうお母さんにしたら、ああ、もうとても一緒に行かれないっていうあきらめが先に行くと思いますよ。でも誰も手伝えないもの。「じゃあ、その子3人こっちに寄こせ」と言ってくれる人もいないし。みんな自分の身が一番大事ですからね。もう本当にああして静かにちゃんとねんねしているっていうのが、わたし珍しかった。ああ、こうしてちゃんとねんねして待っているから。でも本当にそんなことがあるのかなと思いながら、こっちに出てきましたけどね。

Q:亡くなった方というのは、ご自身でピストルだったり手りゅう弾だったり、そういった形で亡くなった方もいたんですか。

手りゅう弾は知らないんです。ピストルは校長先生と家族ね。それはもう校長先生がピストル持っていたから。それで最後、校長先生が自分で自分を撃っていましたから。それを見たから、校長先生のところはピストルを持っていたんだなと思ったの。他の人のはもう、串刺しじゃないですか。ピストルの音しなかったもの。

Q:傷痍軍人の方が寝ている子どもを刺すというか、もしくは死にきれないでいる子たちを刺そうとしているところは見ましたか?

刺そうとしているところか、刺そうとしてその手前じゃないかな。刺すところは見ないんですよ。刺そうとしているところっていうのは、結局こう上げたところが刺そうとしているところでしょ。それもね、「何か見たかな、見ないかな」っていうような感じですよね。自分で想像して、「あ、いま刺すのかな」っていう、自分で判断したような感じもするんですよね、今考えると。だから、そこのところははっきり自分では分からない。でも、自分では、「ああ、あの子は刺されたな」とは思っているんですよね。でも収容所に帰ってきたら結構子どもたちが来ていたから、「あ、案外帰ってきているんだ」っていう安堵感と、「ああ、良かったね」っていう感情はありましたね。だから全部が全部そういうふうに刺されたのかどうかは分からない。もうそのときもまた見たくなかったし、すぐ母の方に引き返していって、またふと後ろを振り向いたりした時に、こうしているのを見ちゃったから。「ああ、あれでみんなが行っちゃうのかな」とも思いながら、母と駆け出しちゃったんですけれど。何かね、そのときのあれって、いろんなのがごちゃごちゃ入っちゃって分からないね。

もう後から追い掛けて。そうしたら兵隊さんが1人いらして、「どうしたの、こんな遅く?邦人みんな先に行ったよ」って言うから、もう行くつもりじゃなかったんだけれどもって言ったら、「いやあ、行かなくちゃだめ、行かなくちゃだめ。早合点してはいけないよ、絶対にいいことがあるんだから」って言って励まされて。そしてその人も一緒にくっついて。そして本隊と一緒になったんですね、向こうで。待っていてくれて。そこで本隊と一緒になって。そしてもうそこでホッとして。じゃあここで泊まることにするっていって。そうしたらもう、ちょうど山の上の方だったんですよ。何も芝生もない土のところで。ここで明日の朝まで待つということになって。
でもそこで3人で、じゃあここでしばらく寝ようねって言って、それで一応丸くなって寝たんですけども。もうそうしたら、朝、「出発」って言って、すぐ出発になって。今度は下りる方になって。もうその山に行くまででも真っ暗ですから、前が見えないんですよ。それでもうわたしたち、夜目立つといけないからっていうので、みんな黒っぽい洋服を着せられて、目立たないように。タオルを巻いていてもだめ。タオルは白いからだめって言われて。で、タオルを隠して、そして後をくっついて歩くという状態で。今度はじゃあ、そこから今度は下りになるんだって言って。下りになったらまた母なんか足が弱いからやっぱりね、もう一所懸命あれして。手を持ったり、妹はわたしがおんぶして、それで母の手を引いて坂道を下りるようにして、どうやらこうやら下りて、また川っぷちに来て。そこでお水を飲んで。で、「小休止」って言われて。もうそのときはお日様が出てきて。ああ、さっきの人たちどうしたかなと思って考えたりして。「はい、出発」ってもう考えてもいられない。「はい、行くよ、行くよ」って言って。もう迷子にならないようにするのが一番のあれで。で、出発。

もうそれからずっと、山。何日してかな、10日ぐらいしてかな。ここで一応フィリピン人のハウスが、みんなもぬけの殻になってあるんですよ。で、何軒かあったものですから、じゃあここで邦人は一夜をみんな割り当てになって。そこで朝昼晩、いろりですか。あれに火をあれして、バナナの葉っぱを取ってきてそれを入れて火をつけて、それで材木を生のまま置いて、それで炭を作って、それで火種を取っておくんですよね。そういうのもわたしなんか全然出来ないけれども、やっぱり一緒の部屋になった人がちゃんと知っているから、そういうふうにして教えてくれて。何かみんな・・瀬戸で出来たお鍋があるんですよ、向こうは。それに犬がね、あ、ニワトリがね、チョコチョコって来たわけ。あら、ニワトリが来たよって言って。そうしたらその三井物産の人が1人だけピストルを持っていて、「じゃあここから撃ったら撃てるかな?」「撃てるわよ、撃てるわよ、やっちゃいな」って言うんだよ。みんなで言われて、その人が上から。フィリピンの家って高いんですよ、地べたからね。だから、上から狙って撃ったら本当に当たっちゃって。みんな歓声上げちゃって。「いやあ、今日は鳥が食べられる」って言って。そしてもう男の人が全部皮とって切ってくれて。で、お鍋に入れてコトコト煮て。スープを初めて、何日ぶりかね。10日ぶりぐらい、初めてスープを飲んで、みんな良かったねって言ってあれしてたんですけどね。
もうおいしかった。こんなおいしいの初めてだねって言って。そして何が大事って、お塩が大事なんですよ。何も持っていないでしょ。だからその中で1人だけ持っていたから、その人がお塩を入れて、それでやってくれたので味がちゃんと整ったんですよ。でも、そこを出発すると、今度はわたしなんかお塩がないから、何でもお芋が常食なんですよね。畑に行ってお芋を取ってきて、それが配給されるんですね。それをいろりで焼いて、それでもう食べるけれども、お塩はないし、わたしなんか食べたくないって言って食べなかったんです。母が心配して、何か食べておかなくちゃだめだからって言うけれども、嫌だ嫌だって言って食べなかったりして。そんなことばかりしてあれしていたんですけれど。
もう小さい妹も、「お芋、嫌」って言って食べなくなるしね。でも食べなくちゃだめなのよなんて妹には言うけれども、自分も食べたくなくて。もう何かないかなと思ったって何もないし。じゃあちょっとだけ食べようかなと思って、ちょっとだけ口に入れるって、そんな毎日だったんですよね。でも若かったのね。芋掘り行くんですよ、ちゃんと朝。兵隊さんが付いて。それで芋を取ってきたら、邦人の分って言ってちゃんと入れて、置いていってくれるんですね。で、それを、お芋を煮て食べて。

もう終戦になったら、みんな邦人は邦人、兵隊さんたちは兵隊さんたちの行動になって。わたしたちもアメリカさんの指導で車に乗せられて、そして収容所に入っていったんですよ。収容所に入ったら、前の男の子たち、自決の場でちゃんとこうしてねんねしていた子どもたちも何人か帰ってきていました。やっぱりここをスッと行ったっていうのもあるし、足を何かやっぱりスッと行ったっていうのもあるって言ったから、兵隊さんがよたよただったから、どこを刺したか分からないぐらいだったんじゃないかしらって、そのお母さんたちも言ってましたけどね。もう本当に初めて見る阿修羅の場っていうんですか。もう本当に。いい経験っていったらおかしいけれど、本当に怖い思いをしましたね。

わたしの父も、後から分かったんですが、収容所に入ってから、わたしたちより先に入っている人が、もう日本人と一緒に逃げないですぐ捕まった人というのが・・わたしたちが川向こうに渡って逃げている。そうしたら、うちの父と新聞社の方2人、ご夫婦に会ったんですって。で、その奥さんが収容所に入って、わたしたちが半年歩いている間も収容所で待っていてくれたわけ。それでわたしたちが収容所に戻ってきたら、その奥さんが、「月形さんですか?」って飛んできて。母が「そうです」って言ったら、月形さんとはこうして会いましたって。「あの日逃げたら、もうみんなが川を渡って向こうに行っちゃう。わたしたちは行かれなくて、そこでまごまごしていたらフィリピン人が来た」んですって。
それで、ここに男の人2人いなかったかって聞いたら、川のところにいたって。だから殺したよって言われたんですって。奥さんがびっくりして、「うちの主人のお友達なんだけれども、本当に殺したの?」「殺した」って言うんですって。それで奥さんもびっくりして。「じゃあもう月形さんとうちの主人は、もう川っぷちで殺されちゃったのよ」って、そのとき話してくださった。だから山にいる間中は知らなかったんですね。どこかはぐれてどこかに入っているんじゃないかというような気持ちだったんですけど、収容所に入ってきて、その奥さんが一番に飛んできて、そういってお話をしてくださって。それでもう、「ああ、そうだったのか。やっぱり捕まっちゃったんだ」って言ってがっかりしたんですけどね。
だから、父はもうフィリピンで亡くなったことになっているんです。だからその奥さんも、その場でみんな脱がされて、そして下着1枚って言ったかな。下着1枚にさせられたって。そして行けって言って歩かされて、それで車が置いてあるところまで歩かされて。それでその車に乗って、そして収容所に行ったっていうね。それでこの収容所で2回目。移転したっていうんですよ。ああ、そうだったんですかって言って。その間いわば半年ですからね、わたしたち山に行って。だからそうでしたのって。ここでずっと暮らしておりますって奥さんは言ってらした。でも、「ご主人は?」って言ったら、ご主人もやっぱりやられて、父と一緒に下にやられちゃったらしいです。それで見たいからって言ったら、見させてくれなかった。「行くんだ、行くんだ」って洋服を脱がされて、行けって言って。それで連れていかれたって。車に乗って。そのときの収容所じゃなく、何かもっと小さい収容所に入れられたって言ってました。そうしたらやっぱりもう何人か入っていたって言ってましたね。ああ、そうなのって。そこでもうやっぱり、父の死がそこではっきり分かって。でもやっぱり亡くなっちゃったんだねって言って、あれしたんけれど。

出来事の背景

【フィリピン・パナイ島での戦い】

出来事の背景 写真明治以来、新天地を求めて大勢の日本人が移り住んだフィリピン。
パナイ島のイロイロ市にも日本人学校が設けられるなど日本人移住者のコミュニティーが形成された。太平洋戦争が始まり日本がフィリピンを占領してからも、静岡県焼津のカツオ節業者らが設立した「皇道産業」の人々らが移り住んできた。フィリピンやボルネオ島でカツオを獲りカツオ節などを生産することで、軍による漁船の徴用で衰退した国内漁業を南方で再興しようという試みだった。

しかし連合軍の反攻が始まり、戦況が悪化すると日本人移民たちの運命も大きく変わっていった。米軍の支援によって勢いを増したフィリピン人抗日ゲリラの襲撃も相次ぎ、民間人が兵士として現地で招集されることも増えた。そして昭和20年(1945年)3月、マニラを攻略した米軍がパナイ島に上陸すると、イロイロ市に駐屯していた日本軍部隊とともに在留邦人たちは山中へと脱出。米軍とゲリラの厳しい追撃に絶望した日本人学校の学童や親たちが集団自決する悲劇が起こった。

証言者プロフィール

1926年
台北にて生まれる。
1936年
寿尋常高等小学校を経て、静修高等女学校へ入学。
1942年
卒業後、父の仕事の都合で家族を連れてフィリピン・パナイ島イロイロ市へ移住。
1945年
アメリカ軍の上陸により、山中へ逃亡。そこで終戦まで過ごす。
1946年
引き揚げ。まもなく結婚して東京で暮らす。

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