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タイトル 「襲われた皇道産業の人々」 番組名 [証言記録 市民たちの戦争]漁師は戦場に消えた ~静岡県・焼津港~ 放送日 2010年8月10日
氏名 熊井 敏美さん(フィリピン・パナイ島での戦い 戦地 日本(静岡・焼津) フィリピン(パナイ島、イロイロ市)  収録年月日 2010年6月30日

チャプター

[1] チャプター1 パナイ島の部隊へ  02:31
[2] チャプター2 皇道産業  05:30
[3] チャプター3 軍務にかかわらない軍属  03:54
[4] チャプター4 抗日ゲリラ  03:47
[5] チャプター5 襲われた焼津践団員  02:57
[6] チャプター6 米軍の上陸  05:14
[7] チャプター7 在留邦人の集団自決  04:04
[8] チャプター8 女性や子どもと一緒の戦争  01:51

再生テキスト

わたし部隊はね、俗に言う戸塚部隊っていうんですけどね。戸塚っていう人は静岡県の人なんです。それで正式に言うとね、第102師団77旅団の独立歩兵第170大隊っていうのがわたしの正式な名前なんですね。俗には戸塚部隊と言っていたですね。

Q.そちらでは役職は何だったんですか。

それでわたしはね、大隊、戸塚部隊のですね、副官っていうのになっていたんですね。副官だから部隊長とは同宿しておったんです。

Q.大体その部隊、何名ぐらいいたんですか。

そうですね。うちの部隊で、大方1,000名ぐらいの1個大隊でね、多い時にはね。しかし、あとはほとんど戦死したので、帰る時には600~700名になるんですけどね。

Q.1,000名近くがイロイロにいたということなんですね。

いや、それはね、アメリカ軍が上陸した時には、イロイロにおるいろんな部隊がおるわけですね。その部隊の最高指揮官が戸塚中佐ですから。それは全部アメリカ軍が上陸した時には全部部下になるわけです。それはイロイロの方にね、1,500~1,600名おるんです。その他に陸軍病院の患者を入れるとね、これ1,700~1,800名になるわけですね。その他にですね、わたしの部隊はパナイ島全域を管轄しているからね、そうすると全部ではパナイ島というところには日本の兵隊が約2,500名ぐらいおるんです。そのうちの1,700名、患者を入れると1,800名ですね。それがイロイロにおったわけですね。

あれは昭和もう18年の暮れぐらいですかね、焼津践団の名前を聞いたんですよ。それでまたね、焼津践団が非常に大事になってくるのはね、19年。そうですね、19年の8月ぐらいから焼津践団が非常に大事になってくるんです。それでわたしも焼津践団に目を付けていたっていいますかね。

Q.それはなんでですか。

いや、それはね、焼津践団っていうところはね、静岡県の焼津の漁業組合か何かがあったんですね。漁業組合の方々なんですね。それでみんなね、どちらかというと我々あの当時としては、働き手が多いんですね。それでこちらの方ではね、どうしても魚ですね、食料が大事なんですよ、部隊にはね。それでそれが特にね、昭和19年10月ですか、アメリカ軍がレイテ島に上陸してからはね。そしてあれでしょ、ずっとイロイロ市というところはゲリラに包囲されるんですね。食料がないんです。それで米の方は何とか我々が兵隊を出して米は来るけれどもね、今度は副食物がないんです。それでそれはやっぱりね、焼津践団の方にあれですよ、魚を取ってきてもらってね。それで米と魚がそれでそろうわけです。あと野菜が今度はないと。だから、向こうに包囲されているものですからね、それで市内は兵隊やらね、そういった者がみんなカッケ患者になるわけですね。
だから魚と米はあるからね。それでもって焼津践団には非常にお世話になっているんです。

Q.じゃあ焼津践団は、1,700人の兵士の方々にとってどういう存在、大切な存在だったということですか。

ただね普通の兵隊は知らないです、あまり。しかしわたしらはやっぱり部隊長と部隊を負ってね、戦争っていうのはやっぱりね、これは食わせることが大事なんです、これはね。そのためにはね、こちらの方の兵隊に全部食わせるためには、どうして食わせるかということを心配するわけですね。そのためにはですね、わたしどもは特にね、焼津践団ともう一人沖縄関係の漁業組合があったですけどね、やっぱりそれを大事にするんですよ。やっぱりね、戦争っていうのは腹が減っては戦が出来ないんですよ。腹が減っては戦が出来ないし、軍規も保たれないんですね。非常に食べるということは、戦争で一番大事なんです。それを焼津践団が魚を取ってきてくれるでしょ。それで頼りにしているわけです。
魚はなかなか普通の人では取れないからね。それで我々はね、焼津践団の方にね、手りゅう弾を渡すわけです。それで焼津船団の人が魚のあるところに行って、手りゅう弾を投げ込むわけですね。するといっぺんに魚類をパッと捕ってくるんです。それで焼津船団に手りゅう弾を渡す。焼津践団の方もまたね、手りゅう弾を海に流すのをね、爆破させた地域があるわけですね。そういったこともまあ教えたりしながらね、手りゅう弾を使って魚を取ってもらったりしてね。それで我々は生きてこられたわけです。

Q.そういう焼津践団に対して、何か軍から手りゅう弾以外で特別なことって何かあったんですか。

わたしがちょっと狙ったのはね、焼津践団が機帆船か何かでもってフィリピンに来たっていうんですね。それでわたしはね、焼津践団の船があればね、それもわたしらの部隊関係でね、船を利用出来るんじゃないかと思ったけれどもね、あの船はしかし利用出来なかったですな。あれはどうも、あそこであった船舶歩兵の兵団があったんですね。そこが握ったんですかね。ですから、わたしはとうとう焼津船団の船そのものはどうにもならなかった。しかしやっぱり、焼津船団があの付近でもって、近くのあれでもってね、小さな船で魚を取りよったですからね。だからもっぱら、結局魚だけを頼りにしたっていうことになってきたですね。しかしあれですよ、あれはゲリラに包囲をされてね、イロイロの邦人は、2,200~2,300人おったんでしょうかね。アメリカ軍が上陸するまで何とか元気に戦闘できたっていうことはね、やっぱり魚のおかげですよ。その点は、特にこれはね、そういうのを知っている人間が少ないんです。これは本当にわたしら部隊長だけですよ、それを知っているのは。

それでね、あれは45歳以下の人はみんな軍隊に入ったんですよ。それからもう一つあれは、17~18歳以上ですかね。そういう人は全部軍隊に入ったんですよ。ところがね、みんな焼津践団の人は働き手が多いからね、それでわたしは、各そういう商社や何かの関係の人もなるべく軍隊に入れたんです、これをね。ところが焼津船団の方はね、魚を取ってもらいたいものだからね。それで割合に召集する兵隊はね、籍は軍隊にあってもね、仕事は焼津践団の仕事をそのまましてもらっておったんです。魚がこっちは欲しいから。

Q.じゃあ籍だけ軍にあったということですか。

そうそう。籍だけは軍隊にあるわけです。実際の仕事は践団そのもので。おそらく焼津践団の人でもね、自分が軍隊に所属したっていうのは知らない人が多いんじゃないかと思うんですよ。それはなぜかというと、知っているのは組合長とか幹部の人だけなんですよ。それであとはね、ただこの仕事をやれっていうだけでね。ただ山に、アメリカ軍が上陸して山に入った時にね、初めて軍と行動を共にしたんでね。

Q.その軍に所属しながら漁を取るっていうのは、それは何かお願いがあったんですか。そうさせてほしいみたいな。

いや、それはまたね、やっぱり漁業組合の人がね、やっぱり勘っていうんですかね、魚が集まるところ。そしてやっぱり一つの特技を持っているんですね。どの付近に魚が多いとかいうことはね。それはまたね、そういう践団の大事なところはそこなんですよ。あの付近でもって、どこどこでもって魚が取れるとかね。それからどういうところに集まるとかいうことはね、やっぱりあれは一つの特技ですね。あれ、普通の人は分からんですよ。普通の人はもう魚のないところをうろうろして帰るぐらいのものでね。

Q.ちなみにカツオ節は、もらいました?

いや、カツオ節はあまりなかったね、我々はね。あの付近ではとにかく我々はね、あまり魚の種類ということをわたしは考えなかったですね。しかしまあ目的は何かそういうあれがあったんじゃないかと思うんですけどね。我々はとにかく何でもいいから魚をうんと取ってもらえば、何でも構わないっていうあれだったですな。

Q.ちょっと話が最初になるんですが、焼津践団が最初にやってきた時というのは、どういう様子だったかというのは聞いたことがありますか?

わたしの記憶によるんですが、あれは確かわたしが名前を聞き出したのは、18年の暮れになってからだと思うんです。この当時はね、ちょうど昭和18年っていう月はね、7月から12月に掛けてね、日本軍がパナイ島という全域の大討伐をやった時でね。非常にね、一番日本の島に対してね、日本のいわゆる勢力地帯だったんですね、ほとんどのところは。だから日本側からいうと、一番治安がいい時期だったと思うんですね。

それはもうね、ゲリラ自体っていうのは、もう日本軍が上陸してからね、4,5か月たったころからね、ゲリラの方が勢力地帯になってくるんです。それで、またもちろんね、わたしらが昭和18年の7月から12月まで大討伐をやってね、討伐期間はね、ゲリラの方が一時ずっと静かになってくる。しかしまたね、昭和19年に入ってくるとね、これはアメリカ軍の方の今度はフィリピン作戦でもってね、ゲリラに対して潜水艦でもってどんどん兵器を補給してくるわけです。そうなってくると今度はもうね、昭和19年の5月以降になってくると、ゲリラの方が優勢になってくるんです、これがね。というのはゲリラが持っている兵器がね、みんな日本軍は日露戦争時代の単発式でしょ。ゲリラが持ってくるのはみんなカービン銃といって20連発なんです。パーッとやると20発バーッと出てくるんです。そういう兵器が違ってくるんですね。だからもうそのころになってくるとね、あれですよ、もうゲリラの方が優勢になっちゃってね。それで日本軍の方は警備隊が次々全滅をしていくという時代になってくるんですね。

それはもうね20年になってくるとね、もうあれですね、レイテ島は全部アメリカ軍に取られるし、ルソン島の方の決戦に入っているわけですね。そうすると、我々のパナイ島というところはね、そのゲリラ軍っていうのをね、アメリカから補給を受けてね、そして2,200ぐらいの正規軍になってしまうんです、これがね。ところが我々はね、軍の命令でもってね、イロイロ市を確保しろと。あるいは飛行場が3つあったからね、飛行場を確保しろと。それを確保するので精一杯なので。あとは全部ゲリラの方の勢力地帯なんですね。やっとそれ、ゲリラの砲撃からね、こちらは飛行場を守るとか、イロイロ市を守るとかね、それが精一杯なんですよ。

このゲリラ戦っていうのはね、本当に戦争を体験したものでないと、ちょっとね。我々が普通テレビなんかで見るようなああいう戦争じゃないんですよ、これは。もうゲリラ戦っていうのはね。またね、みんな向こうの住民でも何でも全部蛮刀(ばんとう)を持っているでしょ。で、殺された死体を、蛮刀でもって見るに耐えないような殺し方をするわけですよ、これがね。それでそれがですね、ゲリラ戦っていうのはね、ただ我々がテレビなんかで見るようなパッと撃ち合う戦争、そういうあれじゃないんですよ。もうね、悲惨なもう殺し方をされるわけですね。その点はね、今でもどういう殺され方ということはね、本当に我々が戦後初めてベトナム戦争なんかでもちょっとそういうことを聞くけどね、あれを大げさにしたような戦争なんですね、その当時の戦争は。
それはあんた、あれですよ。ああいう戦争があるっていうことはね、やっぱり体験した人が言わないといけないし、またそういうことはなかなか言えないような戦争形態ですね、あれは。恐ろしいですよ、それはもう。

焼津践団の漁船がね、パナイ島からずっと前の方にギマラスという島があるんです。その島の南の方に行ってね。そして焼津践団の人がそれを知らなくてね、その島に上陸したらしいんですね。それをゲリラに捕まったか何かしてね、それで焼津践団の人が十何名か働き手ばかりがね、ゲリラに殺されたっていうんですね。で、それを今の焼津の人が誰か知った人はないですかね。わたしもそれを聞いているんです。それでそこでもって、「しまった」と思ったのはね、魚を取る一番のやり手の人がゲリラに殺されてしまうんです。その殺され方もね、何か見るに耐えないような殺され方をされということを聞いているんですね。それでもってわたしもね、「これはしまった」と思ったのはね、やっぱり魚の漁にも響いてくるしね。そういうことはわたし聞いたですね。

Q.そのときは聞いた時は、「しまった」というのは、もう少しお気持ちとしては、どういうお気持ちですか。

そのとき、わたしは部隊の副官じゃなくて、討伐から帰った早々の討伐副官だったからね、知らなかったんですけど。しかしね、その当時はね、もう日本の勢力地帯だったけれども、あまり治安が良すぎてね、それで践団の人が島の南側の方にちょっと上陸したっていうんですね。大丈夫だろうということで安心をして。それでゲリラの方でもね、何かこのときは日本人が来てからね、これは兵隊でもなさそうだし、何だろうって思ったけれども、とにかく日本人だから殺してしまえということでもって殺されたっていうことを聞いているんですがね。12~13名とか聞いているんですが。その点もね、ちょっと今の焼津践団で帰った人に確かめたいと思っているんですけどね。

Q.じゃあそういう不穏な動きというのが、アメリカ軍が上陸する前からあったんですね。

あったですよ、それはもうあれですよ。島のあれですね、勢力地帯というのはね、日本軍が治めているのはね、市とか近くの町の要所だけですから。いわゆる点と線だけは押えている。あとは全部ゲリラの地帯ですから。そういうところに入ればもう、日本人っていうのはみんなゲリラに殺されていたんですから。

我々日本軍の方はね、せいぜい2,500~2,600名でしょ。それに対してゲリラの方はね、2万2,000~3,000人でしょ。そういうところへ持ってきてね、今度はアメリカ軍の1個師団が上陸するでしょ。少なくとも1万近くですね。だから我々のところはね、パナイ島の島全域にしても2,500~2,600名のところに持ってきて、アメリカ軍を入れるとね3万ぐらいの大軍が攻めてくるんです、これが。それだけならいいんですけどね、そしてまた、そのアメリカ軍の方もね、そのころ第8軍司令官のアイケルバーガーっていう中将がおったんですね。このアイケルバーガー中将まで出てくるんですよ、そこにね。だからその点がね、どうしてアメリカ軍はパナイというようなところにね、それまでの大軍を持ってきたかという点もいろいろあるんですよね。

Q.山に逃げましたよね。その狙いはどういうところにあったんですか。

それはね、わたしが一番戦争で思っていたことはね、食糧ですね。それでもうとにかく腹が減っては戦が出来ないというのがね、わたしにこびりついている戦争のやり方なんです。それでそこはね、陣地の形から見るというとねあまり良くないところもある。しかしそこはね、敵の政府のあったところでね。敵の政府はね、そこを開墾をして食糧地帯を作っておったんです。だからそこに入ればね、1年間ぐらいの食糧はあるんじゃないかということでもって、そこを選んだわけですね。ただ、行くのが大変なんです、そこはまた。ね。

それでもううちのイマイっていう領事もね、老人の中でも働き手を全部連れて山の陣地を作りに行っているんです。それで陣地を作りに行った間にアメリカ軍が上陸したわけですね。だからイロイロに残っているのは、老人の中でも割合に動けない人が残っているんです。それと婦女子が残っているわけですね。だからその焼津践団のムカイさんなんかは、50を超していたんじゃなかったですかね。だから体力がないわけですね、もう。だからイロイロに残っていたわけです。イロイロに残っているっていうのは、そういう老人の中でもね、体力のない人、女と子ども。それが残っているんですよ。だからとてもね、山の中で軍人と一緒に行動するのはだめなんだけどね、しかしこれはそんなことは言っちゃおれないですね。
だからそれは邦人の子どもだけをイロイロに残していった方がいいんじゃないかと、わたしはいろいろ迷ったんですね、そのとき。本当はね、邦人でも老人でも体の弱い人でしょ。それからあとは子どもやらばっかりですからね。いいんだけれども、ただそのときにね、日本軍の各警備隊が全滅する時に、みんな悲惨な死に方をしているわけですよ。それでゲリラの方でもね、日本の老人・婦女子だからこれはただ普通に殺すぐらいならいいけどね、どんな殺し方をされるか分からん。もうわたしら入ってくるのは、どこどこが全滅して、みんな悲惨な死に方ばかりしているのを聞いているわけですね。だからそんなことでもって、日本人の女子どもはね、そういう見るに耐えないような悲惨な殺され方をされちゃ、日本軍が放っていったということになると日本軍の名誉にもかかわるしね。それでいろいろ考えて、部隊長としてね、我々出来る限りは連れていこうということになってね。それで邦人に行くわけです。
しかし邦人に対してはね、ただ日本人会の会長を通してね、日本軍と一緒に行動を共にして、山に入ると、それだけしか邦人は知らないわけです。日本の兵隊全部がそれしか知らないわけですから。今から山に入るっていう。どうして入るかは知らないわけです。そういうのはまた案内役はね、わたし1人しかいないんです。山には入る道を知っているのは。だから邦人の人はあまり知らないものだから、家財道具なんかを抱えちゃってね、そして山に入るような気楽な人もおるけどね。しかし邦人の人も、向こうのフィリピンのゲリラやら住民がね、日本から悲惨な殺され方をしているということをやっぱり知っているわけだ。話でね。だから自分たちもああいう殺され方をするというと、これはもう本当にどうなるかと心配しながらね、もう恐ろしいから日本軍と一緒に行動を共にしたということになってくるんだね。

敵の第一線の陣地を突破出来ないからね、それで部隊の主力が2つに分かれるわけです。それで邦人の人はね、分かれた方の、我々本部とは別の隊の方で行動を共にするんです。

わたしどももね、中に入っている時に隊が2つに分かれたでしょ。それで分かれた隊の方に邦人はついていったわけですね。それを我々は山におる時にね、邦人が亡くなった、自決をしたって聞いたわけですね。だからわたしそれはやっぱり、邦人を守らなければいけないということでね、それがあったからね、みな困っているっていうから、それでじゃあ我々でもって最後まで見てやろうということでもってね、それで向こうの山の中におる邦人を中隊を付けて我々の方に呼んだわけです。

サイトウ部隊、サイトウ隊長というのがね、そこの連絡、本部の人と連絡が取れたんです。だけどわたしはね、これはまず何にしても食わせなければいけないということで、それでそこの邦人、いっぺん別れ別れになってから3か月ぐらいたってから連絡が取れたからね。それで邦人の隊も1個中隊を付けて、それで我々のボカレっていうところに全部やってきたんです。
それでそのときに、みんなもう食べ物がなくてフラフラで来ているわけですね。それで我々のところは僕ら、討伐の時に食料があるところに来たわけですね。それでもって邦人の隊もね、全部こっちに寄って。それで邦人の身の安全上、一番いい場所を与えたんです。ところがそこもね、今度は瞬く間に食料がなくなって、取っちゃって。

そこでも食料を取り尽くしちゃってね。ないから今度はわたしがね、今度は在留邦人が何名おったか、やっぱり120~130名おったんじゃないですかね。いや140~150名か。それを各隊に割り当ててね、そしてそこでもって山の中でもってね、5~6個中隊あったから、各中隊に邦人は14~15名ずつぐらい割り当てて、それでそこでもって邦人を食わせるようにしたんで。
で、一つはね、邦人をしとるというとね、また邦人とその隊の間にもね、なかなか一つのお互いに情が出来てくるわけですね。そうすると邦人が亡くなるにしても、例えば一つの隊がなくなれば、その隊と運命を共にするけれどもね、あとの隊の方はそれでも助かったりするわけですね。だから兵隊の方と邦人とをね、一緒に共にするようにしちゃったわけです。それでまあ山にいる間は、あまり邦人の人も、それは足らんという手があったからだけど飢え死にする必要はないんで、これは。
わたしどもパナイというところはね、これは兵隊にしても邦人にしても、飢え死にが1人もいないんです。餓死は。それで山のボカレは今度はね、そういう風土病も治るんです、食料でもって。だから山の中に、我々がおったボカレという山に来た時にはね、みんな病気も治るし、食べ物は不足して足りなかったけれどもね、そこでおってとにかく餓死者も1人も出ない。それで後で聞くとね、フィリピンでもパナイ島だけなんですね、そういうところはね。
だからまあ、日本軍が投降する時にはね、邦人はね、全部とにかくわたしらボカレに付いた邦人を全部そのまま投降したわけです。

それは大変でもね、どちらかというと山の中に入るとね、もう守備のあれですからね。攻撃行動はあまりしないです。もうじっと陣地を構えていてね、アメリカ軍が攻撃してくるでしょ。それをその都度撃退をするという戦法ですからね。それで邦人あたりの人は各隊の中でも一番安全地帯の後方におるわけなんですよ。それで食料がない時にはね、今度は食料を取りに行くわけですね。それであるというと、邦人の人に分けてやるわけですね。だからその点は邦人の人もね、やっぱり兵隊とも一緒になっとるわけ。それでそこにおると、女や子どもがおるというとね、これがまた戦争の中にね、子どもの声を聞いたりしているとね、やっぱり一つの和みが出てきてね。その間でもって一つの人間同士のあれですからね、やっぱり仲良くなったりするわけなんですよ。これでね。やっぱり戦争という時にね、やっぱりそういうね、女や子どもということはね、やっぱりすさんだ気持ちの時に、やっぱり和やかな気持ちになったりするんですね。あれはわたし、やっぱり良かったと思うんです。
それでまた兵隊にしてもね、自分たちのところに、そういう女や子どもがおるというとね、これを守ってやらなければいけないという気持ちになってくるでしょうでね。そうするとアメリカ軍が攻めてきてもね、陣地の中で頑張って戦争するとかね。あれですよ。それで自分たちがやられたりすると、女子どもも悲惨な目に遭うかも分からんって、何とかして守ってやらなければいけないっていうことになってくるとね、やっぱり覚悟が違ってくるっていいますかね、良かったですよ。

出来事の背景

【フィリピン・パナイ島での戦い】

出来事の背景 写真明治以来、新天地を求めて大勢の日本人が移り住んだフィリピン。
パナイ島のイロイロ市にも日本人学校が設けられるなど日本人移住者のコミュニティーが形成された。太平洋戦争が始まり日本がフィリピンを占領してからも、静岡県焼津のカツオ節業者らが設立した「皇道産業」の人々らが移り住んできた。フィリピンやボルネオ島でカツオを獲りカツオ節などを生産することで、軍による漁船の徴用で衰退した国内漁業を南方で再興しようという試みだった。

しかし連合軍の反攻が始まり、戦況が悪化すると日本人移民たちの運命も大きく変わっていった。米軍の支援によって勢いを増したフィリピン人抗日ゲリラの襲撃も相次ぎ、民間人が兵士として現地で招集されることも増えた。そして昭和20年(1945年)3月、マニラを攻略した米軍がパナイ島に上陸すると、イロイロ市に駐屯していた日本軍部隊とともに在留邦人たちは山中へと脱出。米軍とゲリラの厳しい追撃に絶望した日本人学校の学童や親たちが集団自決する悲劇が起こった。

証言者プロフィール

1917年
福岡にて生まれる。
1939年
鳥取高等農業学校卒業後、山口宇部曹達株式会社へ入社。
1940年
福岡第24連隊留守隊へ入隊、幹部候補生の試験に合格し、陸軍予備士官学校へ。
1941年
松江第142連隊へ転属
1942年
フィリピンの本隊へ派遣。独立歩兵第37大隊へ転属しイロイロ市へ
1945年
投降。巣鴨拘置所へ入所
1953年
出所。

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