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タイトル 「精鋭戦車部隊でソ連軍圧倒」
氏名 小田 英孝さん(占守島の戦い シベリア抑留 戦地 日本(占守島)  収録年月日 2011年5月19日

チャプター

[1] チャプター1 陸軍少年戦車兵学校  05:12
[2] チャプター2 15歳で始まった訓練の日々  04:19
[3] チャプター3 日本最北端  02:35
[4] チャプター4 美しかった占守島  04:43
[5] チャプター5 望遠鏡で見えるソ連兵  01:04
[6] チャプター6 聞こえなかった玉音放送  02:38
[7] チャプター7 国籍不明の部隊が上陸  01:18
[8] チャプター8 出動  01:49
[9] チャプター9 激突  09:06
[10] チャプター10 勇敢だったソ連兵  04:13
[11] チャプター11 停戦交渉  03:09
[12] チャプター12 「意義のある戦いだった」  01:05
[13] チャプター13 略奪と報復  03:16
[14] チャプター14 抑留  02:23
[15] チャプター15 凍りついた地面  06:54
[16] チャプター16 2年ぶりの日本  01:47
[17] チャプター17 自分にとって戦争体験とは  03:25

提供写真

再生テキスト

家業がちょっと雑貨商をやっていたもんだから。商業学校でないとダメだって言われて、根室商業学校へ入ったんだけれども、小学校6年生卒業して、すぐ入ったから。11才か2才ですか。で、すぐ商業学校、僕の生まれた陸別っていう所から根室まで、あのときの汽車で12時間かかるんですよ。それで12時間かかって行った所へ着いて、そこの学校の寄宿舎に入ったんですよね。そうしたら周りに誰も知っていない、寄宿舎で上級生から、言ったら昔の軍隊生活みたいな寮で。随分いじめられたりもしたんだけれど、軍隊よりもひどい生活だったんだけれど、根室は割合に魚が豊富で。魚釣りやなんか随分したし。まぁ町の人はずいぶん良かったけれど、生徒があんまり良くなかったんですね。まぁ生徒たって、根室の人でなく、国後、択捉、歯舞、色丹からも来ているし。それから、釧路から帯広から、あの辺商業学校って少なかったから、あの辺から随分寄せ集めみたいな寄宿舎だったんだけれども。根室の人は寄宿舎にいないけれども。よそから来たのが多いからか、割合にあんまり良い寄宿舎でなくて。早くこんな所にいないで、どうせ軍隊入るんだから、一日でも早く軍隊に入って、階級上になって楽したいのと、それから普通兵隊検査で入ると、お前は歩兵だ、お前は何だとか言って、思う兵科につかれないし。どうせなら自分の好きな事に向かおうと思って、少年飛行兵を考えたんですよ。そうしたら、あのころの機械って、よく自動車とか何とかちょくちょく故障を受けるもんだから。飛行機乗って途中でエンジン故障起こしたら落ちるの間違いないし。それで、落ちて死ぬんだったら、もう止まっても落ちない戦車の方がいいんでないかと思って。少しズルイみたいな考えだけれど、安全策をとって、少年戦車兵っていうのがあるからと思って、受けたら。同級生から上級生もいたか、12,3人根室商業から受けたんだけれども、まぁ運良かった悪かったかは、別として、僕が1人受かったんです。

Q:それじゃ太平洋戦争が始まったときは、小田さんは高校生ですよね。

根室商業(現在の中学生の世代になる)のね、2年生の終わりですか。12月8日だから。2年生の2学期の試験の始まるちょっと前だった。太平洋戦争が始まったのが。ラジオで聞いたのを聞いたんですね。

Q:そのときどう思いました?戦争が始まるっていう事は。小田さんにとっては。

僕にとっては。いざやったぞと。これは頑張らないとっていうね。何ていうのか、勇ましいっていうのか、喜びに足が震えるみたいな。それはもう、だいたい寄宿舎の生徒もそうだし、学校に行ってもそうだし。ニュースは全部勝った勝ったのニュースだし。

そんなにまで改まった気持ちはないんだけれども。まぁ親きょうだいとかふるさとを守るためには、敵に勝たないといかんと。負けたらそれこそ踏み荒らされてっていう気持ちがあるから。それがまぁほとんどの人の考えじゃないかと思うんだけれども。

学校でいちばん最初はとにかく「気を付け」って不動の姿勢から始まった。不動の姿勢は軍人基本の姿勢なり。故に常に精神内に充実し、外厳粛端整ならざるべからずっていう。それが不動の姿勢の精神っていうのか。それから始まって、前に進むイチニ、イチニから分列行進とか。回れ右から。そういう本当の訓練から、だんだん小銃を持って、歩兵さんと同じ訓練を。3か月間やったんです。まぁ歩兵さんでも3か月が歩兵のいちばん訓練だとかって言って。特別らしいんだけれど。それを2月までやって。その合間に機械の事とか。算数とまぁ数学ですね。数学と物理と国語と。4科目ぐらいその学科をやった覚えがあります。でも僕はだいたい高等2年卒業程度の学歴だもんだから。僕から見たら全部習った事ばかりで。だいたい三角関数のあれも、だいたい原理は分かっていたし。だから僕は半分遊びで眠りかけしながら、僕は習った覚えがあるから、あんまり記憶にはないんだけれども、とにかく学科が普通の昔の中学卒業程度ぐらいの学歴をつけるためにやったみたいなんです。

自動車が4月から初めて。5月ぐらいでだいたい終わったんです。そうして5月の末頃から戦車が始まったんです。

Q:そのときは先輩から戦車を譲り受けるんですか。

4期生から。先輩から何人か行って、1人ずつ「お前は何番の何号車」って。こう、戦車に車体番号があるんです。「小田は752っていう戦車をもらってこい」と。

それで「ちょっとやってみないか、危なかったらすぐぐっとブレーキ踏んで、クラッチ踏んで、ブレーキ踏んで両方ナイソクを引っ張れば、止まるんだから、とにかくその動作をどれでも欠けてでもいいから、そうやると止まるんだから。」って。「はい、分かりました」そうして乗って。セカンド発進なんですよ。戦車は。前進4段だけれど、セカンドで高低交換もう1つある。高低、高い低いの。高低交換を低い方にして、セカンドに入れて出ると、すーっと出るんです。それでダブルクラッチ踏んで、ぐんと突っ込むとすっと入るんです。入らなくてもガガーって無理矢理突っ込めっていうのが戦車の教えなんだけれど。
そうするとすっとこう変速出来たんですよね。そうして走ったら4期生が「おー、うまいもんだなぁ、うちの4期生にもお前より下手のがいる」なんて言われたら、途端になんとなく変になってしまったけれど。どうやらそれで3速の高にして走ったら、結構速度が出るんですよね。それでずっと走って来て。それで減速して。そうして止まって。まぁ所定の位置にあるからそこに止まって。

あのときは、小樽を出てすぐ大湊で船団を組んで行くからって言って、大湊に入って。入ったら、すぐ何だか台風かなんか低気圧が接近して。「この大湊では危ないから、函館の港へ行け」って言われて。すぐ海防艦1隻と、天領丸との2隻で函館の港に入ったんです。そうしたら函館で一晩休んだか。ちょっと分からないんだけれど、函館でちょっと入って休んでいるうちに、低気圧が通り過ぎて。今度海はまだうんとしけているんだけれど、しけているときに襟裳岬を通るとあそこが潜水艦のいちばん出るっていうところで。もうしけているときに行ったら見付からないからっていうので。しけているときに船団、船が集まらなくて2隻で出たんです。

Q:結局何日かかったんですか。小樽を出て。

小樽を出て2週間ぐらいかかった覚えがあるんだけれど。幌筵島へ着いたのが、2月の8日頃でないかと思うんだけれども。

着いたときに、僕らを迎えに来てくれたのが、素晴らしい大尉が、「お。ごくろうさん。」と、こう先に挨拶してくれて。それでもうすぐみんな並んで「ただいま到着しました。」って軍隊の申告をして。そうして連れて行ってくれて。「大尉殿はお名前は」って聞いたら、「言わなかったか?俺は長島大尉」って言って、戦車隊、戦車11連隊からこの師団司令部へ派遣されて来て、情報部の参謀を今やっているんだ」と。「だからお前らを、少年戦車兵が来たって言ったから、なつかしくてお前らの顔を見に来たんだから、ここにいる間は俺が面倒見るから何か困った事があったら、師団司令部に来て、長島大尉って言ったら俺だからこい」と。

そうして雪が溶けて。今度あっちこっち高いところから雪が消えていくわけですよね。消えたところからこう、段々花が咲いて来てね。シャクナゲの花が咲き。少しちょっとしたらまぁガンコウラン、ガンコウランが早く咲くのかなぁ。それでシャクナゲ。ハイマツが顔を出し。湿地帯がある、湿地帯のそばにはキンロウバエ、ギンロウバエとかっていう植木知りませんか。

俺もあそこに行って初めて聞いたんだけれども。「小田伍長、このキンロウバエは、内地へ持って帰ると、百何十円か2百円ぐらいするんだ」とかってね。こんないいの、いやもったいないなぁって。それが見渡す限りあるんですよ。高山植物の。それでガンコウランって言っても、これよりもっと茎が太くて。ガンコウランに穴を開けてパイプを作っているのがはやってね。ガンコウランって、ここら辺のガンコウランって細いマッチより、割り箸ぐらいの太さですから。あれだけのものあるし。まぁとにかく野草も多いしね。景色はいいし。本当に素晴らしい。

Q:じゃあ一瞬戦争を忘れたような気分にもなるんですか。

ええ。内地の後楽園とか兼六園とかっていう庭園ったら、こんなんだろうか、もっといいんだろうかと思ってね。あそこをよく寝転びながらみんなで。そのときに壕(ごう)掘り、戦車壕っていうのか、耐久陣地の壕掘りは何人か出て。あとは時々船が着く度に偽装の陣地を作ったんです。内地に爆弾やなんか輸送するために、船が入る。それがその占守島を防御する兵力増強に見せるために。あっちこっちにガンコウランをはがして道路に見せかけて、天幕を張って。兵隊さんが住んでいるように。

Q:見せかけて。

見せかけるのに、あっちこっちに幕舎を建てたりね。そういう作業をやったんです。

うちの中隊で、うちの中隊のそばに、ヤマト橋っていう橋があって。その川を太平洋の方に向かって流れているんだけれど。その川がサキベツ川っていう川なんです。そこにマスが上るもんだから。お前の中隊はこの川一本やるから。冬の食糧にマス捕りせいっていう命令が中隊長に来たんだろうね。

それで、3人か4人でトラックに乗って、長崎の日櫓漁業の作業場、缶詰工場があるんです。そこへとにかく網がなくて魚が取れないから。「余っている網をどんな古いのでもいいからもらってこい」と。「クズでもらっても、何したって修理して使えばいんだから。どうせただまいて取るぐらいのもんだから」って言われて行ったんですよ。そこへ着いたら、僕はそのときシンピン伍長になったんだけれども。伍長の出る幕でないし、軍曹か誰かが2人して行って。僕が1人だかもう1人兵隊さんいたか。缶詰工場の窓から機械が動いて缶詰が出来くるのを珍しいから見ていたんですよ。そうしたらそのうちにベルが鳴って、休憩時間になったら、女工さんがうわーっと窓のところに来て。「メンコイ兵隊さんがいるぞ、来い来い来い来い」って言って。そうしてだいぶ集まってね。「あんた兵隊さんいくつだ」って言うから、「17になった」って。「17!若いねぇ、今晩遊びにおいで、かわいがってあげるから」って。いやー本当に。内地の女の人の声をあのとき初めて聞いてね。顔真っ赤にしていたら、1人入り口から出て来て。「これみんなからだ」って、キャラメル、フルヤのキャラメルだと思う。それを2つぐらいもらった覚えがあるんですよ。

空爆はあるのと、僕は中隊長が1回、「小田、今日は視察に行くからお前トラック運転して俺を乗せて行け」って言われて。それでトラックに乗って、「どこに行くんですか」って言ったら、国端(崎、占守島北端)だ。あの、敵が上がったところの。はじっこですよね。あそこまで中隊長を乗せて国端に行ったら、国端の守備隊の中隊長が入って来て、「あと4時間ぐらいかかるから、お前そこら辺で自由に休んで」なんて言われて。そうしたら守備隊行ったら、「どっから来たんだ」って。「いや、戦車隊だ」。「あぁ、そうか。戦車隊ご苦労さんだ」とかって言ってくれて。「今あそこのロパトカ岬(カムチャツカ半島南端)に敵が歩いているから、これで見ろ」って、眼鏡で見たら、(ソ連兵が)鉄砲担いだりスコップ担いで何かしているのかがよく見えるんですよ。

15日にあるから、「正午にみんな集まれるやつは集まれ」って言うんで。集まって。ただ整列もしないでただこう固まって。ラジオの前にいたんだけれども、さっぱり入らなくて。

Q:玉音放送聞こえなかったんですか。

全然。雑音ばっかりで。

Q:雑音ばっかりで。

それで「じゃあ、解散」って言って。そうして夕方の6時頃かな。消灯になってからなんですよ。あそこは早いんですよ。朝3時に起きてね。晩の4時か5時頃「消灯だ」とか言ってね。もう寝るんです。時間なんだけれど、まだかっかと明るいもんだからね。誰も寝る人いないんだけれども。そうしているうちに、夜6時頃だったか、同盟通信から入って、日本が無条件降伏したんだというあれが、伝達みたくして。別に訓示ではなく入って。「明朝中隊長からの訓示があるから何時に整列せい」って言われて。それで次の日の朝、何時だったか。7時頃だったのかなぁ。9時頃だったかちょっと分からんけれども、中隊に並んだの。あのとき初めて「中隊長殿敬礼」って初めて聞いたみたいな覚えがあるんだけれども。中隊長が「昨日の玉音放送で日本は無条件降伏した」と。「ポツダム宣言を受託して。そうして残念ながら日本は負けたんだ」と。

僕はまぁこの戦争は勝てないと思ったのに、やっぱりとうとう負けたんだなと思ってね。負けたと思った途端に母親の顔が目に浮かんで。ああ、やっとこれで家に帰れるなって。ええ。負けた悔しさはさほどなかった。

Q:だってまだ16,17ですもんねぇ。

いや、他の兵隊さんもみんなね、負けて悔しいっていうのはね、ないみたいだったねぇ。

18日。18日に漁労班を引き揚げに行くっていうので、前の日に戦車のエンジンかけておかないと、夜2,3日かけていないもんだから。冷えてかからなかったら困るから。夜1時間近くかけるんですよ。それで「明日2輌で行け」って言うから、2輌の戦車を僕は1人で行ってエンジンかけて。10時頃起こされて行ったんでないかと思うんだけれども。薄暗くなって、少し暗くなっていたかなぁ。そうしてエンジンかけて。そして終わって。降りたときには霧がかかって全然方角が分からなくなって。それで中隊に帰るのに迷って、30分ぐらいウロウロしているときに、国端方面でダーーン。ダーン。

もう地響きがするような。もう大口径砲の弾着音がするんですよ。それはなまはんかな数ではなく。これは何か始まったんだ。

そうして戦車のところに行ったら、「中隊長車と夕べ準備出来た戦車2輌とで、3輌とで、すぐ偵察に行くから、俺の後ろに付いてこい」って言って、中隊長部隊が出て。だからもう次の日行くって言った戦車はいちばんかかりもいいし。すぐ中隊長車の後をついて。

Q:戦車が行ったんですね。

中隊長車は優秀なバッテリー積んでいるからね。セルモーターの回りはいいし、すぐにかかるんです。それでもうどんどんどんどん行ったら、四嶺山までまっすぐ。四嶺山の所を通ったけれど、薄明るいんですよ。敵が上がった竹田浜っていう方角は。

それで行って、天神山っていうところ。僕から3キロぐらい司令団に近い所なんです。そこへ行ったら、20輌ぐらいっていうから、僕の中隊が12輌ぐらいあるのかな、僕の中隊に。だからそれを入れたらだから7,8輌ぐらいあったぐらいか。もうちょっといたのか。僕は前方銃で戦車の中にいるから分からないんだけれども。それで、連隊長を先頭にしてわーっと司令団まで行ったんです。僕の中隊は割合先頭の方に行ったと思うんだけれど。そうして行ったらもうすぐに僕の中隊は右の方へこう、散回するようにして。連隊長は真ん中の方に行って。そのまま敵の中へ突っ込んだっていうか、敵がばらばらっとそこら辺に進出してきたときなんです。

ソ連兵に間違いないっていうのはだいたいみんな確信したんじゃないだろうか。口に出さないけれども。アメリカ兵が夜の夜中に撃ちながらね、敵襲するわけないんですよ。

それで僕の戦車は、いちばん右の道路のそばを行ったんだけれども、とにかく初めは良かったんだけれどもだんだん進んでいるうちに、ハンの木原の中に入ったら、ハンの木っていうのは寝ているところをこう行くから。枝は上に向いていて。その葉っぱがこう射撃する窓のところへかぶさって。操縦士も方向が分からないぐらい。林みたいなところに入って。そうしたら車長は一段と高いから。よく前が見えるんですよ。目の前敵ばかりだって車長はどんどん撃っているんです。「お前撃て撃て」って言っても、「敵が見えない」って。「見えなくてもいいから全部敵なんだから、前を撃て」と言って、どんどん撃ったら当たる当たる。「よし、撃て、そのまま撃て撃て」って。あそこで大分撃っているうちに、少し平らなところへ上がって、そうしてUターンして帰って来たのかな。みんな。だからそこのところどうやって帰って来たのか、撃っているところまでの記憶では、後はぷつんと切れているんだけれども。そうしてずっと帰って来て、司令団の初め、上がり口のところまで来て、ずーっとそろったんだね。みんな。そうしたら、そこのところで「各車長集合」って言って、「車長以上集合」って言って。中隊長小隊長とか、各戦車の車長がみんな降りて。降りているところは連隊長が帰って来たんですよ。そうしたら戦車の上に、死んだ兵隊さん1人くっつけて。そうして帰って来て。そうして、ちょっと僕のちょっと手前のところで、停めて降ろして。そうしたら、指揮班長の丹生少佐だったんだね。

しかしそのときに(池田)連隊長は日の丸の旗を立てて。日の丸のハチマキをして。軍服を脱いでシャツ姿だったと思うんだけれども。あぁ、これ連隊長階級章を見せないために死ぬ気だなってそのとき僕は思ったし、ほとんどのそれを見た兵隊さんは思ったんじゃないかと思うんだけれど。

そんなに戦車の数は、そんなにそろっていなくて。一応司令団を残して来たやつは、ある程度のところまで追っ払って帰ってきたわけです。

Q:じゃぁこちらは戦死者は1人だったという事ですか。

そうです。戦車隊ではね。

Q:2回目に行ったわけだ。


そうして2回目にこれから総攻撃ってわーっと行きかけたときに、わーっと霧がかかってきたんです。

そうして僕の中隊は霧がかかってもだいたいのそばまで行って。そうしたらそのうちにぽっと晴れたら、もう前の方に敵がどんどんどんどん来たから。それ撃てそれ撃てって。まあ撃っていて後の事はあまり知らないんだけれども。とにかく敵兵も勇敢だっていうのをね。2,30人並んでわーっと走って来るんですよ。それで機関銃でザーッと撃つと、バラバラバラッと全部倒れるのさ。いや、俺の機関銃は当たるなと思ったら、2,3分したら、ぽっと同じ場所に同じ数だけ立って。また来るんですよ。

弾が飛び込んで来ないから、また起き上がってまた来る。また撃つ、また伏せるでね。なんだ当たっているんだか当たっていないんだか。分からないけれども。とにかく撃て撃てと。

Q:でもそれは小田さんがそのとき初めて生身の相手、敵兵と対峙して鉄砲を撃ったんでしょう?

えぇ。

Q:それまでは訓練でしかないわけ。

訓練でしかない。そうして、まして1回目の突撃のときはハンの木の葉っぱを撃っているだけで、「当たっている当たっている」って言ったけれど、当たっているんだか何だか分からないんで。だけども今度は本当に敵を見て、600から800ぐらいなんですよ、距離が。そうすると少し遠いんですよ。300から400ぐらいならまだいいんだけれど。それでもそのぐらいから撃たないとバンバン来るからね。それでその敵が攻めて下ったところの中腹に高射砲の陣地があるんです。それが高射砲が、戦車が行く、戦車がこう突っ込んで行くそこに敵が群がっているのを、水平射撃で撃っていたんです。そうするとドーン!バーン!ってすぐ破裂するんだね。そうすると敵が5人か6人ぐらい、バーン!と吹っ飛ぶのが見えるの。いや、これは効果あるなと思っていたけれど、今度はその高射砲をやっつけるために、上からもうどんどん。それこそあれをやっつけるって、敵の命令なんだろうね。撃っても撃っても下ってくるっていうのがそれなんですよ。そうしてそのうちに今度車長も撃つし、機関銃を撃つし。そうすると、戦車の中が煙でワンワンとなって。息もできないみたいな。

Q: 1回外に出たんですか。

戦車から出て。その戦車、僕の15メートルぐらい前か、ぐらいなんだけれど。

Q:出たときには敵に撃たれなかったんですか。

撃たれたと思うんだけれども。全然怖ろしくないんだね。そうして俺が上がろうとしたら、(車長が)「いいよ俺が上がる」ってね。背が大きいもんだから、簡単に上がれるから。上がって戦車の中から弾を取って。僕は下に降ろしたんです。そうして20発ぐらい降ろしたときに、車長がどーんと落ちて来たんですよ。戦車から。見たら口からばーっと血を吐いているんです。あーやられたなと思って。そうして、「宮澤さん大丈夫か」って言ったら、「うん」ってうなずくんです。それでどこをやられたのかって見たら、ここから弾が入って、あーんって開けてみたら、ベロがちょっとちぎれて。ここから弾が抜けて。ここのところの引っ込みのところに入って。背中から抜けている。こうやっている所をちょうど。いったんだね。さぁ、これはどうやって止血したらいいかと思って。とりあえず首のところを出血してるからと思って、三角巾を必ず1人、三角巾とガーゼと。止血棒っていうやつを持っているから。それをほどいてガーゼをここにちょっと当てて。それで三角巾で締めて。それから車の中に行って、救急箱を取ってきて。肩のところにもガーゼを突っ込んで。そうして三角巾で縛って。それから気が付いたら、背中から抜けていたんです。それで背中をもう1つまた包帯でもってグルグル。ガーゼを突っ込んでグルグル巻にして。そうして操縦士と2人で今度戦車のところへ、戦車の上から乗せたんです。それでそのときに、やっている最中に、「小田!お前撃たれている!物陰隠れろ隠れろ!」ってね。やっとそのときに、終わるころ聞こえたんですよ。

それでも当たらなかったのはそのまま戦車に乗せてもね。だからやっぱり背が小さいっていうのは、身体が小さいっていうのはか、って今でも思うんだけれども。今度は僕が車長がわりで。今度持って来た砲弾、操縦士に操縦席の窓のところが開くから、そこから戦車の中に入れて。そうしてそれを持って、砲を撃ったら、これがおもしろいんですよねぇ。やっぱり。

まぁ砲弾持ってきたし。それでいやー当たるし、うまく人のかたまっている所に当たると、2,3人ばたーんと倒れたり飛んだりするのが見えるし。

だから僕が言うのは、カムチャッカの兵隊さんでなく、独ソ戦を戦った兵隊さんが先に大分来ていたんじゃないかって。

Q:かなり戦争のベテランが来て。

特に勇敢なんですよ。そうすると中戦車が3輌目に来た中戦車が。あれはまたやられるなと思ったら、それに気が付いたのか、道路から土手を乗り越して、敵の頭の上に来て。わーっと行ったら、今度10人ぐらいわーっと戦車の前で逃げて行くんですよ。そうしたら機関銃と砲を撃ちながらね、行くのが見えたんだけれど、あんまりその追っかけると、爆雷にやられるぞって言っているときに、戦車の前でぱかっと煙が上がったから、ガガッとキャタピラやられたんだね。また止まって。

それは独ソ戦で戦っている連中だったら。そうして、やられたなと思ったときに、今度戦車から機関銃外して。1人降りて来たのさ。1000何百メートル、1200メートルぐらいあるかと思うんだけれども、それが僕の同期の新潟の新発田の中村サブロウと同じなのさね。やっこさん砲手なんだけれども。砲手だからすぐ出れるからね。それで機関銃持って、降りて。撃ちながら行くと、また敵がわーっと逃げるの。それでやられたけれども、機関銃の弾倉ってあれは20発しかないんです。20発撃ったら、弾倉を外して、また代わりの弾倉を入れて。槓桿(こうかん)引っ張ってやらないといけない。その間にまたやられたんです。でもとにかくあれが中村やられたって、まぁ直感したんだけれども。

そこへ突っ込んで行ったんです。突っ込んで行ったら、敵がもういなかったんで、やられたんだね、きっと。それで見たらもう、戦車が通りすぎる、そこに入ったときには、その前の戦車がケツが通り過ぎているんだ。そうしたら、そこへ6,7人ぐらい死んで、横になって死んでいるんですよ。顔を道路の真ん中にいるのもあるし。それをベタベターっと進んだら、ここがべたっとなったり、顔がこんなになって。潰れて。行ったけれど。潰す方は分からないんだ。顔の上行ったんだから。だから後ろから見ると、ぐーっと膨らむんですよ。

そのときはもう、前の戦車はいないわけだ。ドンドンドンドン追っかけて行ったら、それから間もなく大観台の所へ来たら、立派ないい格好した新品みたいな少尉が手を広げて。「ストップ、止まれー止まれー」って言うんですよ。それで止まったら、「どこへ行くんだ」って言うから。「負傷兵を降ろして、中隊に弾薬を取りに行くんだ」って言ったら、「じゃあ負傷兵を、ここは野戦病院が来ているから旅団司令部がここまで来ているから、ここで手当するから」って言って。兵隊さんすぐ呼んで。3人か4人来て。連れて行ってくれたんですよ。そうして今度その少尉がこれから旅団長が軍使を送るために、ここに来るから、戦車をそこの凹地の所へ。凹地って分かりますね。引っ込む。引っ込んでいる。凹地って。「凹地のところで待機していろ」って言われて。だから「いや、中隊が弾が無くて困っているから、すぐに行かないと。それこそ中隊がやられたら困る」って言ったら、「もう戦争が終わって、軍使を送るところなんだから、帰らなくてもいい」って。

18日の16時を期して、一切の戦闘をやめるように。18日の16時までには、やむを得ないときは、戦ってもいいけれど、18日の16時以降は戦ってはダメだというあれが来ていたらしいんだね。我々には分からないんだけれど。それでその16時までに軍使を送るっていうんで、まぁ2時半か3時くらいでないかと思うんだけれど、準備したところへ僕の戦車が行ったから、これはいい幸いだから、軍使に使うっていうので。

そうして、待っている間に軍使が来たからって。道路上に出て。そうしたら軍使が、軍使の一行が出て来て。そうして僕の顔を見た途端に、「小田」。小田って言わないな。「マメタン、大丈夫だったか」って言うんですよ。そうして見たら、柏原で着いたときに、お世話になった長島大尉なんですよ。「無事で良かったな。俺はこれから軍使で行くから。とにかく乗せて行ってくれ」と。

だけども、やっぱり「何」っていう兵隊さんの声も聞こえるんですよ。何だまし討ちしたやつをどうのこうのってね。それで「戦友のかたきを取らないと」とか。

もう何ていうのか、やっぱり「この野郎終わったのに何で攻めて来るんだ」って、泥棒だと思ってね。何を欲しくて来たんだろうっていう。

白旗立てて行くんだけれども、戦車で行くからかもしれんけれど、それで砲も向こう向けているからダメだから、砲を反対に向けて砲をぐるっと回して。僕は砲身にケツをつけてそうして乗って行ったんだけれど。

Q:じゃぁそのときは敵から撃たれたりするわけですか。

撃たれるから。

Q:怖かったでしょう。

だから、そのときがいちばん怖かった。

ピューンピューンって音がそんなにもう、何ていうか、少し高いところを飛んでいるわけ。ピュッピュッってのがすぐ近くを飛んでくる。だからピューンピューンっていう間はまだいいんだけれど。ピュッっていうと、おっかねぇんだねぇ。そのうちに司令団がだいぶ近くなったときに、長島さんがあんまり撃たれるし、これから戦車行ったらかえってダメだから。降りて行くから。

Q:あぁ、もう戦車だと刺激するから。歩いて。

それで、降りて。「お前は中隊帰れ」って。そうして帰ったんですよ。

意義とすれば、もうあのとき戦ったロシアの兵隊さんは思うかと思うんだけれど、とにかく日本の兵隊は強いっていうのを見せつけたと思うのさね。ノモンハンでも日露戦争でも、やっぱり相当日本軍は損害が多かったんですよね。でも勇猛果敢に攻めたんだけれども。随分やられたけれども。とにかく占守島の戦いではやっぱりあれだけ敵をやっつけたんだから。

あれはもう、あそこで戦わなかったら、北海道は半分だけは間違いなく取られていると思うね。今の北朝鮮と韓国と、ああいうふうに。まぁロシアに対して、ロシアがうまくやったら、北海道は全部取っていたかもしれんし。

日本人の兵隊が1人2人って歩いていると、3,4人で来たり、1人で来るのもいるし。とにかく日本の兵隊さんから略奪するんですよ。おおっぴらな服装検査でなく、個人的に捕まえて略奪するの。それで「何このやろう」って言って、3回だと僕は思うんだけれど、初めは2人。その次は3人、ロスケの兵隊を殺したのさ。日本の兵隊が。それでいちばん最初の2人殺したっていうのは、僕は見ないんだけれど、師団長の命令っていうのか、あれで。何ていうのか、朝の訓示のときに中隊長が持ってきて言ったんだけれど、師団長の命令で、昨日ロ助の兵隊が2人日本兵に殺されたと。これは日本兵から略奪するかなんかで、反対に抵抗して殺したんだと思うけれども、ロシア兵1人を殺したら、日本兵を5人出せと。だから2人殺したんだから、日本兵を死刑にするから10人出せと。命令が来たんだ」と。それで、もうどうにもならないし、指名するわけにもいかないし。もう何とか師団長がこの際謝って何とかするから、二度とこういう事のないようにって。あったんですよ。それがあって、それから1日か2日たって、「今度は3人殺した」って言うんです。だから、「30人今度出せ」って。それは「各中隊に1人か2人ずつ出せって命令がいくかもしらん」っていう。どう思いますか?そのときに。それを中隊長から聞いたときに、いや俺はああやって生き延びたんだから、この中隊でいちばん若いんだし。あぁそうしたらうちの中隊から1人出せって言ったら、まぁ俺が行くよりしょうがないと思ってね。

Q:もう覚悟していたんだ。

えぇ。思ったけれども、いや、それでも死ぬのは嫌だしと思ったけれども。行かないといかんなぁと思ったの。だけど、それで終わったけれど、その晩に明日あたりまた来るかなと思って、その晩それから眠れなくて。考えたんだけれども。まあとうとうそれで終わったんだけれど。

Q:それでじゃぁそのシベリアに行かされるって気がついたのはいつですか。

いや、全然気が付かない。そうしてそのまま乗って2日ぐらいね、止まっては動き、止まっては動きで。大した距離もいかないうちに2日目かそこらに着いたんですよ。それで着いて歩かされて行ったら、まぁ目の前にっていうのか、道路の反対側の方に炭鉱みたいなのがあるんだよね。そうしたら鉄条網の扉があって。収容所だなっていっぺんに分かるところへ連れて行って。入ったら、こじきみたいな兵隊さんがだいぶいるんですよ。あれ、これ何だろうと思ったら、日本の兵隊さんがもう痩せ衰えて。夏服のぼろぼろの着て。そうして靴も穴が開いたような靴で。そうして、ウロウロウロウロ缶詰缶みたいなのをぶら下げて。

それで僕らはまだ戦闘に勝ったっていうあれがあるもんだから。まぁ軍人精神まだある気持ちなんですよ。何だあの日本の兵隊のくせにって思って、その晩食べて、次の朝今度行ったら、誰が連れて行ったのか知らんけれど、まぁ中佐か大佐ぐらいだね、僕らを連れていった将校がみんなを集めて、「お前らも見ただろうけれど、この収容所の千人の皆さん方は、満州から8月に、終戦になってから、満州から歩いたりして、途中君たちがあったように略奪されながらやっとここまでたどり着いて、そうして食うや食わずで働かされて今の状態なんだ」と。そうして「満州を出たときは、夏服で来たんだ」と。「だからいずれ君達もああいう状態になると思わなければならない」て言うんです。

僕は若かったせいか、さほどつらい思いがない、まぁ遺体の処理ですか。あれは、着いてから2月の末ぐらいだと思うんだけれども。21年の。そのときまだ炭鉱に行ってないから、兵舎にはペチカあるんだけれども、たくものがないんですよ。そうして寒くて寒くてしょうがないし。「薪(まき)何かないか」って言ったら、昼間遠くの方見たら、入浴所に昔使っていたっていう所の軒下に、シラカバの薪が沢山積んであるんですよ。あぁ、あの白いからシラカバに見えたから。あれを夜行って、かっぱらって来て、たき物にしようっていうんで、2人兵隊さん連れて取りに行ったんですよ。つかんだら人間の足なんですよ。もう、全部衣服を脱いで。兵隊さんのもっこふんどし一つで、こうやって。直立不動にして積んであるんです。そうして足を外側にしてあるから薪に見えたんだね。

それから1週おいて、その次に僕が一緒に仕事したときに、僕の同じ中隊の山崎トシオっていう静岡の榛原郡っていうところの人なんだけれど、軍曹で。その人と同じ仕事したら、その人が晩に急性肺炎で急に亡くなったの。で、その人を1週おいて行ったときに、その人が遺体の中に入っていたのさ。「この人の遺体は俺が埋めるからな」って、みんなに断って。念入りに掘ったつもりなんだけれど、やっぱりそのぐらいの穴しか掘れなくて。だけども、あの人の遺体は埋めたの。考えたけれど、場所分からないだろうと思うんだけれども。帰って来てすぐ手紙出しました。僕は陸別から。そうしたら姉さんだか妹さんだか、姉さんだかな。便りがあって。「教えてもらってありがとうございました」って。「向こうで亡くなって、遺体は埋葬、私はしました」って書いたんだけれど。状況は書かないんだけれども。

Q:普段のシベリアでの仕事っていうのは、結局炭鉱ですか。

うん、そこの収容所は炭鉱です。炭鉱だけど炭鉱にも石炭掘るのから、もういろんな仕事があるんです。製材工場から家を建てるのから。そうしてたまには農作業に、休みの日には農作業に引っ張り出されて。

Q:じゃあ小田さんは、いろいろやらされた。

僕はとにかくあのころ自分の家で仕事もしていないから。学生のまま行ったもんだから。仕事が楽しくてしょうがないんですよ。こういう仕事が楽しいんで。いろんな仕事がこういう仕事があるっていう、壁屋行ったり、大工行ったり、左官行ったり、桶(おけ)屋行ったり、そのランプの充電やるところ行ったり、選炭場行ったりね。いろんな仕事を。とにかくありとあらゆる仕事をしたから。まぁ人によっては、選炭。炭鉱の穴掘りばっかりやった人もいるんだけれども。

日本に帰れるっていうのは、22年の3月の半ば頃か。健康な人間、前に出るとか何とかって調べたらしいんだね。そうすると背が小さくて、あんまり力仕事は出来ないんだけれども、元気でっていう中間の人間、役に立たないんだけれども、日本に帰ってもバカにされないっていうぐらいの体格の人間じゃないかと思うんだけれども。そういう人間ばかりを僕の兵舎から集めて。「帰す」って言って。「3月の初め頃、日本に帰す」って。

Q:小田さんは19才ぐらいですか。

そのときは18才ですか。

Q:18才。

17、18。あ、19か。19だね。それで帰れると思って。もう金平糖も食べてとっくにないんだし。お土産も何もないんだけれど、まぁとにかく帰れると思って喜んで。まぁ貨車に乗って。そうしたら、1日半か2日ぐらいかかったのに、飲まず食わずなんですよ。貨車の中で。水がちょっと飲ませてくれたんだか何だかの記憶は。何だか。だけども、とにかく食糧は与えないで。ナホトカに着いて。収容所に着いたんですよ。そうしたら収容所に着いて、そうしてその晩何か食事が出たのかは定かではないんだけれども、共産党の宣伝の話があったんです。そうしたら青年共産同盟っていうのがいて。そうして日本に帰ったら、どうのこうのとかって演説語ったんですよ、僕らに。そうしたら今度誰かが「何を言っているんだ、日本に帰ったらお前らみたいなのはぶったたいてやるぞ」とか何とかって言ったんだね。メシも食わせないで、腹減ってかっかときているもんだから。そこへ共産党どうのこうのなんてね。さんざん今まで痛めつけられて、そんな事聞いたら怒ったんでしょう。そうして2段ベッドの上から毛布をバーッと投げてそれをかけて少しひっぱたいたらしいんだね。そうしたら今度「この部隊は反動分子だ」ってなって。だと思うんだけれども、3月の末になって日本の船が着いたって次の朝早く。帰すからって荷物背負わされて。歩いてったところがナホトカの奥地で。そこで8月まで働かされて。

舞鶴に着いたときに、景色が船の上からねぇ。スローでこう岸壁のところまで来るときに、いやーきれいだなぁ、松林のね、静かな海で、本当に日本に帰って来たと思って。まぁそれよりも先に、船のタラップ上がったときに、看護婦さんの「ご苦労さん」っていう言葉の、その日本語の優しい言葉を聞いたのと、看護婦さんの素晴らしく美人に見えたのがね、今でも忘れられないのと。それから船着いてすぐ、「シベリアで共産党員に相当いじめられた人とか色んなトラブルがあったと思うけれど、あれは抑留生活の苦しみの中から生まれた事なんだから、日本の方へ帰るんだから、とにかく今までの事はこの日本海に流して、いさかいのないように無事にみんなあそこへ着いてください。これは船長からのお願いです。前には船から落ちたとか落とされたとかって話も聞くんだけれども、本船においてそのような事は一切ないようにお願いします」って。

Q:言われたんですか。

言われて。まぁ、そうだなぁと思ってね。やっぱり相当ナホトカでは共産党教育ひどかったからね。

僕は非常にいい星の下に生まれたと思っています。人に出来ないような、戦争とか抑留とかっていう体験は、僕にとって、うんとプラスっていうのか。人間形成において、うんと良かったと思っているけれども、帰って来てからおふくろ亡くなってから、がむしゃらに。70過ぎぐらいまではがむしゃらにいて。あと戦友会のとき会ったときに何とか話するぐらいだったんだけれど、だんだん年をとるにつれて、これはみんなの戦死した人がそういう人のために生き証人となってでも伝えないといかん義務を負わされたと。だからもう、とにかく何でも思い起こして、そうしてしゃべるのが義務だなと思って。とにかくまたがむしゃらにあれだけ働いたっていうのも、出来たのも、とにかくシベリアと戦車学校の苦しみ。それから戦車学校ではうんとつらくて、泣いた生徒ずいぶんいるんですよ。だけど、僕は根室商業学校で、それこそこんな野郎殺してしまえっていうぐらい上級生にやられたんだけれど。あれがうんと助かっているんですよね。だからもう、そういう経験がやっと食うに食えないみたいな生活もあったみたいだけれども、乗り越えてこうやって今いられるっていうのは、そのおかげで。感謝しながらこれからの残りを亡くなった人のためとか、後世の人に今一生懸命苦労したのは必ず実を結ぶんだからね。苦労を喜んで苦労を背負えっていうふうに伝えたいと思っているんだけれど。思うだけかもしれんけれど。ひとつ。

いや、戦争は挑まれて戦うときは一生懸命やらないといかんけれども、とにかくこちらから戦争は絶対に仕掛けてはダメで、なるべく戦争は起きないような世の中にこれからの人はしてください。もう、とにかく戦争はもう本当の最後の手段で。とにかく言葉っていうものがあるんだから、言葉で伝えないと。戦う人はいいけれども、残された人はみんなつらい目にあうんだから。それだけとにかく守ってもらうと、世の中戦争なくなるんだけれども。いつまでたっても収まらないで。本当に。とにかく敵討ちっていうのはダメですよね。敵に対しては愛を持って答えないと。

出来事の背景

【終戦後のソ連軍侵攻で起こった「占守島の戦い」】

出来事の背景 写真昭和20年(1945年)8月18日、終戦から三日後、千島列島の北端の占守(シュムシュ)島に突然ソ連軍が砲撃とともに上陸してきた。占守島は、日本領土の北端であり、ソ連のカムチャツカ半島とは海峡を隔てて向かい合っていた。
当時、日本軍は米軍の来攻に備えて、精鋭と言われた91師団を占守島と隣の幌筵島に配置していた。また、戦車第11連隊も関東軍から転進してきており、防御態勢はかなり整っていたと言われている。
8月18日の時点で、日本軍は間もなく武装解除に入るところであったが、占守島北端の竹田浜へのソ連軍上陸に対して、すぐに戦車隊を出動させるなどして、激しい戦闘となった。
戦車隊の一員としてこの戦闘に参加した小田英孝さんは、当時17歳。この年の1月に「陸軍少年戦車兵学校」を繰り上げ卒業したばかりの若い伍長だった。戦車隊にとっては、64両あった戦車のうち27両を失い、連隊長も戦死する激しい戦闘であったが、いったんは、ソ連軍を上陸地点まで押し戻し、日本軍にとって優勢な戦いとなった。しかし、91師団の上級部隊である第5方面軍から命を受け、師団司令部は停戦することを決意。小田さんは、停戦交渉の軍使である長島大尉を乗せて戦車でソ連側に向かった。しかし、停戦交渉に時間がかかり、結果的に停戦が成立したのは21日になってのことだった。
終戦後の武装解除を目前にした時点でのソ連軍の侵攻に対し、日本軍側はいわば「自衛戦闘」を戦うことになり、その士気は極めて高かったと言われている。日本側の損害に対し、ソ連側の死傷者が多かったと伝えられている。しかし、武装解除後日本軍将兵は、シベリアへ送られ、抑留生活を送ることとなった。小田さんも、復員できたのは昭和22年の夏であった。

証言者プロフィール

1928年
北海道足寄郡陸別町生まれ
1943年
陸軍少年戦車兵学校に入学
1945年
陸軍少年戦車兵学校を繰り上げ卒業
 
北千島占守島で、戦車11連隊第4中隊に配属
 
8月18日、ソ連軍が占守島に上陸、戦闘になる
 
12月、シベリアへ連行される
1947年
復員
 
復員後は、タクシー会社などに勤務 2011年現在「北千島慰霊の会」副会長

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日本(占守島)

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