ホーム » 証言 » 加来 和江さん

証言

証言をご覧になる前にお読みください。

証言一覧へ戻る

タイトル 「ソ連軍兵士の略奪・暴行」 番組名 [北九州スペシャル]証言 私の12・8 放送日 2008年12月8日
氏名 加来 和江さん(引き揚げ体験 戦地 満州(ハルビン)  収録年月日 2008年12月3日

チャプター

[1] チャプター1 満州で開戦を知った  03:26
[2] チャプター2 大砲の弾づくり  03:56
[3] チャプター3 女学校の教師たち  02:25
[4] チャプター4 看護兵の訓練  04:28
[5] チャプター5 終戦の日の日記  03:31
[6] チャプター6 混乱  07:42
[7] チャプター7 終戦後に知った現実  06:20

提供写真

再生テキスト

昭和16年に満州に行きましてね、ハルビン市(現・中国黒竜江省)に住んでいたんです。ハルビン市に着いてから間もなく病気になりまして。結核患いまして。ハルビン市のドウガイっていう所にね、病室の一室をもらって、生活をしておりました。アリガ病院という病院の中ですね。で、母たちみんな出勤した後でね、ラジオから聴いたんです。「本日未明、西太平洋において米英両国と戦闘状態に入れり」ってね。すごい軍艦マーチでね。そうして、ハワイで何隻敵の戦艦をやっつけたなんていうラジオの放送があったわけなんです。それでうれしくてうれしくて「やったやった」って言ってね。病室の中を飛んで回った記憶があります。

Q:ご両親は外に出ていて、病室に1人だったんですか。

1人だったんです。

Q:やったやったーって。

ええ。もうとにかくそのころまで日本は世界に冠たる大和民族の国で神国で、決して負けることのない国だって学校で習っていたわけです。すでに日支事変って言ってましたけれど、中国との戦争はありましたからね。で、そこでも勝っているという放送しかありませんでしたのでね。日本は必ず勝つと思っていた期待通りにアメリカの軍艦までやっつけたんだって、すごい喜んだんです。
すでにそのころは配給制になっていましたし、あれだったんだけれど、ともかくうれしかったですね。そのときには。何もかもなくうれしくて、あの軍艦マーチを聴くと、何か血湧き肉躍るっていう感じでした。

Q:ラジオは入院されていたときに枕元にあったんですかね。

高いところに。棚の上に置いてあったんですよね。だから、もう飛んで回ってね。ラジオの下からずっといっぱい。

それから後結核が治って、ハルビンの小学校の高等科に編入されまして。そのときには同じクラスにハシモトさんって、朝鮮の方が日本名で入っておいでたりしていました。けれど、私は朝鮮の事も詳しく知らなくて、ただその当時ラジオでしょっちゅう歌っていた歌でですね、「太郎や花子は日本の子。丈夫で大きく健やかに。お前が大きくなるころは、日本も大きくなっている」っていうふうなね、歌がしょっちゅうラジオから流れて来ているんです。それで、日本はどんどん国が大きくなっていく、朝鮮も日本のものになった、台湾も日本のものになった。満州も日本のようなものだと。支那大陸もそれからインドも南方諸国もみんな赤一色に塗りつぶされるぐらいに日本は大きくなる国なんだって、子ども心にそう思っていました。そうして、小学校のころから「天にかわりて不義を討つ」なんて言ってね、軍歌で育ってきましたしね。実際に戦争っていうものが生活に影響して来たのは、女学校に入ってからなんです。まず1年生のときには軍のシーツを縫いにですね、何日か通ったり、2年生になったら、大砲の弾作りをしてました。女学校・・・。

Q:2年生のときですね。

2年生のときですね。で、そのころの標語にですね。「欲しがりません勝つまでは」とかね、いろいろあったんですけれど、贅沢は敵だとか。「倒れて後やむ(斃れて後已む)」という標語もあったんです。で、私は結核が治ったばっかりの身体だったんで、そんな元気じゃなかったんですけれど、大砲の弾丸をですね、火薬をですね、計って。絹の袋に詰めて。包装してっていう最初はそれをやっていまして、その次には流れ作業で薬きょうがずっと流れてくるんですね。それに対して、まず小さい方の火薬を入れて、それから大きい方の火薬を入れて、次に回して。それを朝から晩までやっていたんです。そうすると、勉強はそっちのけですよね。全然ないんですよね。

Q:加来さんは勉強したいなと思いませんでしたか。そのときは。

そのときはまったくの軍国少女でしたから、自分がこうして大砲の弾を作ることでお国の役に立っているんだと、天皇陛下の役に立っているんだと。そういう誇りで一杯でした。

担任のシキムラ先生、あるいは教頭のアベ先生、やっぱり国語の先生でしたけれど、最後には召集されましてね。アベ先生を送るときにはね、みんなで歌を作ったんです。「千人針です、ちくちくと、縫って結んでくださいな、針は針でもこの針は、遠い国境の先生を守る針です、心です」なんて言う歌を作って。生徒達がね、歌って。送りには行けませんでしたけれど。そうしたらアベ先生はね、「乙女子よ ながてほそくもその手もて 国まもるべきときはきにけり」って、和歌を残して出征されました。
それからシキムラ先生はね、非常にユニークな先生で絵をお描きになって。個展なんかも開いていらっしゃる方だったんですけれど、登校途中に駅のところで朝日が出るのがあまりにも美しいので、スケッチを始めちゃって、遅刻して校長先生に怒られたなんていうね、エピソードもあるぐらいにね、ユニークな先生でした。そうして、いつでも背広をきちっと着て、ネクタイを締めて学校にいらしていたんです。そのころ、日本人の男子は兵隊に行っていないものでも国民服を着て、ゲートルを巻くようにちゃんと通達があったんですけれど、その先生は最後まで背広で通したんです。校長先生があまりにも軍がやかましいもんだから、泣いて頼んでシキムラ先生がね、初めて国民服、ジンケンのボロボロのぺろぺろの服なんですけれど、着て、そうしてゲートル巻いたんです。その足の細さですね。それにゲートルを巻いたその足の細さに気の毒な。って私は思いました。

3年生(扶桑高等女学校)の4月からですね。陸軍病院に派遣されまして。看護兵になりました。そうして軍人勅諭なんかも習いまして。「一つ、軍人は忠節を(尽くすを)本分とすべし」とかって言うんですよね。あれを習いまして。それと看護、初歩的な看護ですね。鉄砲の弾が当たったりしたときに、この副木をあてて、包帯をするとかね、ここを。
看護のね、しかたを習ったときに一級上の上級生は前線に出たんです。だから、この次は私たちの番だと思って、お国のために死ねるんだって。死ぬ番が来たんだって。それはね、あなたたちは想像が出来ないでしょうけれど。

「海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)、山行かば 草生(くさむ)す屍、大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ、かへりみはせじ」っていう歌をね、いつもいつも歌っていたんです。「海行かば 水漬く屍」海行けば水に沈んでしまうかばね、屍ね、そうして山に行けば、草むすかばね、草に埋もれてしまう屍、天皇陛下のためにだったらかえりみやしないと、そういう歌をね、毎朝朝礼のたびに歌っていたわけです。そうして、だから上級生が草むす屍になりに行ったわけでしょう。前線に出て。大陸だから水漬く屍じゃないんですよね。大陸だから野っ原、荒野ですからね。草の中にね、戦って死ぬと。で、自分もようやく草生す屍になるときが来るんだと。
「今度は私たちの番なんだ」って。はりきっていましたね。実際には死がどんなに怖ろしいものか、身の回りで見た事がないもんですから。私自身はね。だから、死ぬっていう事が、最高に人間として美徳だ。人間として最も美しい生き方なんだって。そう信じきっていましたもの。

本当に今の人じゃね、信じられないでしょうけれど。教育ってそんなんですよね。

まったく疑いませんでした。だから中国人やロシア人や色んな五国協和(五族協和)って、そのころ満州では言っていましたけれども、蒙古人だの中国人だの朝鮮人だのね。色んな人ハルビンにもいました。ロシア人から日本人からね。だけど、みんなで協力して満州という国を作るんだって。それも夢物語のように信じていました。実際には大和民族なんだから、優秀な民族なんだから、中国を支配する事も、朝鮮を支配する事もそれは当然であって、どんどん日本は大きくなるんで、っていうふうに矛盾した考え方を持っていました。だから、五国協和と言っても、あ、五族協和ですね。五つの民族の協和。五族協和と言っても、その上に君臨するのが大和民族。日本の私たちなんだって。日本人なんだって。実際恥ずかしい話で、何も知らないくせに自分は日本人だから偉いと思っていました。

そういった看護方を習っている最中に8月15日になったんです。で、そのときはなぜか校長先生から「ハルビン神社の横に集合するように」と言われまして。何で学校じゃないのかなと思いながらハルビン神社の横に1年生から3年生全員ですね。集まったんです。そうしたら、校長先生が「日本は必ず勝ちます、正午の放送を聴くように」って言われたんです。それでそれを聴いて、それでもその段階でもまだ勝つと信じていました、日本は。で、家に帰ったら母が「配給を受けに行って」って言うから、電電公社に配給を受けに行って、家に帰ってみたらですね、母が目を真っ赤にして「和ちゃん、日本は負けたよ」って言うんです。それでそんなはずはないと思って、家に入って、ラジオを聴いたんです。そうしたら、「堪え難きを堪え」って言って、奇妙な抑揚でね、天皇陛下の声が聞こえました。「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」って。それで、あぁ負けたんだって分かりましたけれども、「何で?何で神風吹かなかったの」ってまず思ったんです。神風が吹くはずだったんでしょう?何で吹かなかったのって。その次に思ったのが「特攻兵たちが帰りの燃料を積まないで敵艦に体当たりした特攻兵たちが、その死が犬死にになっちゃうじゃない」ってそう思いました。その次に思ったのが、「一度も傷の付いた事のない、皇紀2600年の日本の歴史に、自分の代で傷をつけた、申し訳ない」と思いました。それで、その日の日記にね、そのころ物資が不足で、日記帳がはじから小さく小さく詰めて書いていたんですけれど、その日だけはね、8月15日のその日だけは、1ページ全部横に使ってね、「臥薪嘗胆」と書きました。臥薪嘗胆ってお分かり?「胆をなめて、薪の上に寝る」、そうしてでも敵の仇を討とうと思ったんです。で、その下にね、「七度生まれ変わって、鬼畜米英を撃つ」と書き添えました。7回生まれ変わってね。あのころアメリカやイギリスの事を鬼畜って言っていたんです。で、鬼畜米英をね、7回生まれ変わって撃つんだって。15歳の日記ですよ。

うちの近所でもその中国人がどうして捕まったのかは知らないけれど、憲兵に連れていかれたりしていましたからね。やっぱりそういう反乱を起こしていた中国人がうちの近所でもいた事はいたんだと思います。そこの家の人、中国人、憲兵に引っ張られたんよ、あっちの中国人も引っ張られたんよっていう話は聞いていました。そうして、8月15日の日に、同級生のイマムラさんっていう同級生が、ドウガイっていう所があるんです。中国人ばっかりの部落、部落じゃないけれど、町なんですけれど。そこに住んでいたイマムラさん、イマムラサチコっていうんですけれどね、同じ小学校出身だったから、仲が良かったんです。15日の日に、だからハルビン神社で校長先生の話を聞いて帰った後、家ごと爆破して、お父さんもお母さんもみんなで亡くなったんです。憲兵だったんです。お父さんが。だから、憲兵として自分が行って来た事をね、自覚していらっしゃったんでしょう。お父さん。外に出たら家族の命も危ないってね。推察したんでしょう。家ごと爆破して、一家全員亡くなったんです。

その明けの日になったら、16日になったら、まず私の家はアパートでね。日本人と白系ロシア人とが住んでいたんです。1階のいちばん端の家に、中国人が押し掛けて来たんです。もう何十人とも言えない中国人がドンドンドンドン戸をたたいてわめくんです。

ガンガンガンガンと戸をたたく、窓をたたくするけれど、もちろんガラス窓は割れました。だけどこんな厚い中国の戸ですから、壊れないんですよね。壁はレンガですしね。だから、どうしようもなくて、しばらくして窓という窓は壊して中国人は引き揚げましたけれど、そのころになったら、あっちに日本人が殺された、こっちで日本人が殺されたっていう話も聞きましたので、一歩も外に出る事が出来なかったんです。

そのうちに終戦後まもなくでしたよ。ソ連兵が来たんです。2人連れのソ連兵が。で、うわさにはちらっと耳に入っていたんです。日本の女性が犯されているっていう話はね、それとなく入っていたんですけれども、私たちの所はちょっと繁華街から離れていましたのでね、ここは大丈夫だろうぐらい思っていたんです。そうしたら、2人のソ連兵が入って来ました。父と母はすぐ、それと察してね、押し入れの上の段に私を隠したんですよ。で、上からずっと布団をかぶせてね。そうしたら、父と母が押し入れの前にこうして立ったわけです。だもんだから、ここに隠れているって分かるじゃない。だから父を母をこちら側に寄せて、1人が銃を突きつけて、そうして1人がこれを開けてね、1枚ずつ1枚ずつ布団を降ろしていくんです。最後の1枚になってからね、母がね、もうだめだと思ったのね。「和ちゃん逃げなさい」って言ったの。それで上の段に隠れていて、ぽんと飛び降りたんです。で、見たら父と母が銃を突きつけられているでしょ。気が付いたけれど我が命がもう怖ろしいばっかりで、すぐトイレの方に外に飛び出して逃げたんです。で、入れ代わりに白系ロシア人が入って来て、白系ロシア人のところにソ連の憲兵が遊びに来ていたんですよ。で、「憲兵が来るぞ」って、脅してくれたんです。ロシア兵も憲兵は怖いらしくてね。それで、慌てて兵隊も帰ったんですよ。
で、2、3日して今度は姉の家にいて、姉がアパートの隣の部屋だったもんだから。姉の家に行ってたんです。そこで姉と母と私と3人で本を読んでいたんですよね。そうしたら、また入って来たんです。で、とっさに母が私が母をかばおうとしたんですけれど、もう1人が母を捕まえちゃって、1人が私を捕まえたんです。で、とにかく背がすごく高いんですよ。で、もうこうしてこうして私は必死になってもがいてね。そうしたら母が、母も、もがきながらね、「和ちゃん寝たらだめよ、和ちゃん寝たらだめよ」って、(私は)「だってお母さんが殺される」って言うんですけれどね、(母は)「お母さんはどうなってもいいからあんたは寝たらだめよ」って言うの。けれど、どうしたってこうしたって力がもうね、女学生の15の力でしょ?どうしようもならないんですよ。で、もう、ころびそうになる所を、姉がまた白系ロシア人を呼びに行ってくれて。それでロシア人がまた「憲兵が来るぞ」って。本当に一寸ひとはずみでした。

Q:怖かったですねぇ。

ええ。怖かったです。それからしばらくね。夜中にふっと目が覚めるんですよ。襲われる夢です。うーーって言って目が覚めてね。まぁ本当に怖ろしかったですね。あれは。でも。再開された女学校で、聞いたんですけれど、私の同級生の親は、ドウリ公園の中でね、やっぱりソ連兵に捕まって、両親でソ連兵に引っかかっていって、その間に子どもはトイレに逃げたんです。で、帰って来てみたら、両親とも殺されていたんです。そんな話も再開された女学校で聞きました。だからね、両親ともいなくなっちゃったんですよね。同級生の方は。でも、恥ずかしい事ですけれど、両親が銃を突きつけられているのに、私は必死で逃げたんです。今から思ったらね、やっぱり我が身がいちばんかわいかったんかなと。両親に対して何か申し訳ないような気がしています。

Q:加来さんは終戦があって、そのまま帰国は出来なかったんですよね。

ええ。みんなはね、翌年の女学校だから4年になってから女学校が再開されて、学校はソ連軍に接収されたんだけれど、天理教の校舎を借りてね、講堂を借りて、女学校を再開したんです。
で、8月までは一緒にみんなと習ったんです。そのころね、トキハって百貨店があったんです。大きな日本人の百貨店がね。その軒下にずらっと奥地から避難してきた開拓民が、開拓農民がね、地べたに座って避難していたんです。肝臓が悪い人みたいに真っ黒い顔だったんです。お風呂に入っていないせいだけじゃなくて。真っ黒い顔でね。痩せこけてね。そうして着の身着のままでしょ。お風呂も入られないじゃない、だから、野宿でしょ、だから日の日中にね、身体をこうしてね、服をこうしてね、何をしていると思います?シラミをつぶしているんです。天下の大通りで。そのときに初めてね、避難民を見たときにね、これがあの誇り高い日本人の末路かって思いました。で、すでにそのときに子どもの姿が1人もいないんです。大人ばっかりだったんです。子どもは弱いから亡くなったのか、あるいは中国人にもらってもらったのか、大人ばっかりがね、痩せこけて野宿していました。それを見ながらね、私たちは女学校に通ったんですよ。

で、私の母が脱走してきた兵隊が2人、小学校のスガリの横に隠れていたの連れて帰って、その人たちを助けてあげたのが私たちのできる精一杯だったんです。で、その兵隊たちはね、元はあれだったんですって。洋服屋に勤めていたんですって。仕立て工だったんですって。だから母がそれで食べさせてあげる代わりに、家に女の子が2人いるから、洋裁を教えてやってくれっていうんで、その2人の脱走兵を家にかくまったんですけれどね。その人たちに私たちが母の銘仙(絹織物)とかをほどいて、縫い方を習っている最中にね、2人で話をしているんですよ。「俺たちは地獄に落ちるよな」って。

それで、びっくりしてね、「この人たち、地獄に落ちるの?」って思って、聞きながら私は縫い物していたんですけれど、そうしたら中国の部落に火をつけて焼いたんだそうです。そうしたら、熱いから女も子どもも家から飛び出して来るでしょ、それを全部、子どもさえも殺したんです。女も子どもも。だからね、その2人、脱走した2人の男の人たちがね、「俺たちは地獄に落ちるよな」って話をしていたんですよ。だけど、その人たちが今どうしていらっしゃるか知らないけれど、一生そのつらい思いはね、していらっしゃるんだろうなって思いますよ。

Q:加来さんはその話を聞いたときにどう思いましたか。

そのときは、「え?日本軍が関東軍がそんな事したの?」って思いました。そんな無慈悲な事を。だって、映画なんかじゃ南方でね、日本語教えたり、シンガポールとかね、マニラとかそんな所で、日本語を教えたり、子どもたちを学校にね、授業を教えたりしている映画を見ていましたから。で、私は恥ずかしいんだけれど、一切疑った事がないんです。映画にしてもラジオにしても、父母にしても、新聞にしても。それを疑問に思った事がなかったんです。だから、ラジオが転進だの玉砕だのって言いますでしょ、そうしたら、「転進」っていうのは、終戦後、あれは「退却」だったって分かったんですけれども。「玉砕」っていうのは「全滅」だったっていう事も分かったんですけれど、転進って言ったら、そこをね、また前に進む事じゃない?玉砕って言ったら、玉と砕けるとは分かっていたけれども、それが全滅だとは考えつきませんでした。まったく疑う事を知らない少女でした。

出来事の背景

【ハルビンで迎えた12月8日そして終戦】

出来事の背景 写真1910年に日本に併合された朝鮮半島には、太平洋戦争末期、80万人近い日本人が在留していたと言われている。さらに日本の支配下、中国東北部に建国された「満州国」に、日本は30万人近くにのぼる「開拓民」を送り込んで食糧増産を図るとともに、豊富な埋蔵が推定された石炭を中心に鉱工業の開発も進められた。

しかし昭和20年(1945年)8月9日、ソ満国境を越えてソ連軍が侵攻を開始、朝鮮半島の北部にも侵攻した。その混乱の中、満州やソ連との国境に近い地域に居住していた日本人は、一斉に南に向け避難を始めた。しかし日本軍や行政の保護はほとんど得られず、多くの人々が混乱に巻き込まれ日本本土に引き揚げるのに大きな苦難に直面した。

北海道から家族とともにハルビン(現在の中国黒竜江省)に渡った加来さんは、現地の扶桑高等女学校在学中に終戦を迎えた。8年間の抑留をへて夫の故郷であった福岡県に引き揚げた。抑留生活の中、生まれた長女は結核を患い十分な医療を受けられないまま亡くなった。

証言者プロフィール

1930年
北海道で生まれる
1941年
旧満州(中国東北部)ハルビンに移住、櫻国民学校へ
1945年
扶桑高等女学校(ハルビン)在学中終戦、東安市(現中国黒竜江省)で抑留される
1953年
引き揚げ 福岡県行橋市に暮らす

関連する地図

満州(ハルビン)

地図から検索

関連する証言

関連するニュース

ページトップ