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タイトル 「政治犯容疑で4年の抑留」
氏名 坂部 正晴さん(旧満州国と大連の居留民 シベリア抑留 戦地 満州(新京、ハルビン)  収録年月日 2012年1月25日

チャプター

[1] チャプター1 希望に燃えて満州へ  05:41
[2] チャプター2 満州国政府  06:47
[3] チャプター3 ソ連からの侵入者  07:24
[4] チャプター4 陸軍へ  06:05
[5] チャプター5 ソ連軍による逮捕  06:38
[6] チャプター6 長期間の拘束  13:03
[7] チャプター7 変容した収容所での労働  08:10
[8] チャプター8 実現できなかった「五族協和」  15:37

再生テキスト

Q:どんな街でしたか? 当時のハルビンというのは。

一口に言いますとね、外国ですね。あの時分ね、一口に言うと、日本が閉塞感っていうのがやっぱりありましたね。なんとなしに何かこう閉塞感があって、それから抜け出したいという気持ちがあったりね。たまたま(ハルビン学院の)試験があって、パスしたもんで、ハルビンに行ったわけです。楽しかったですよ。

Q:授業は厳しかったんですか?

あれは語学(学)校ですからね、ロシア語の専門学校ですから、いい学校でしたよ。割合のんびりした学校でしたね。終わりごろはだんだん厳しくなりましたけれどもね。初めごろはまだ大正リベラリズムの痕跡があるようなね。

Q:当時の日本よりもはるかに雰囲気が自由だったんですか?

それはもうね、物資も豊富だったし、気分的にも自由だったし、まあのびのびと3年間は送れましたね。

Q:ハルビン学院には日本人だけではなくて他の民族の方も?

例外的にね、朝鮮の人もいたし、中国人も2人ぐらいいましたけれども。あのころはね、日本の学校でしたから、外務省の管轄の在外学校で。上海には同文書院っていうのが、東亜同文書院、ハルビン学院はハルビンというふうに、外務省の管轄の日本の専門学校でしたから。

Q:そうすると街に出ることはよくあったんですか?

それはもう。

Q:先ほど外国のようだとおっしゃったんですけれど、どんな感じの建物とか人々とか?

まあロシア人が作った街ですからね、もう大変エキゾチックで、おおらかで、豊かないい街でしたよ。

Q:そのころは、勉強されていたときは、卒業したら満州国の行政とかそういうのをやりたいという思いがおありだったんですか?

ハルビン学院を卒業したら、満鉄の試験を受けたらパスしましたけれども、もう間もなく軍隊には行くから、若干のモラトリアム(猶予期間)っていうふうな気持ちでね、建国大学(満州国の最高学府と言われた大学)学部、後期に入りました。だからさらに今度は新京(現・中国吉林省長春)で3年間、学生生活を送りました。

Q:そのときは何を勉強なさったんですか?

あれは学科は政治学科です。まあ、あそこ出れば満州国の官吏か国策会社の社員というふうに、だいたいもう決まっていましたから。

Q:やはりそのころは満州国というものを、自分たちが新しく国づくりをしていくというふうな思いで?

それはもうそう思うでしょうね。あの時分は、日本本土はだいぶひっ迫感があったりね。で、特にちょっと日本は狭いというふうな感じね。息苦しかったり、なんとなしにどっか新しいことがないかなと思っていたときに、ああいうふうに新しい国がつくられるというふうなことで、これは当時としてはね、大変希望に燃えて、それはやっぱりやる気十分でしたよね。

Q:具体的にはこういうことをやりたいっていうのはあったんですか?

まあ国づくりに参加するというふうな抽象的なね・・民族協和っていうようなことはやっぱり本気で考えて、実践をしたつもりだったんですけれどもね、結果的にはいろいろあれこれ。

Q:それでその建国大学の大学が終わってからはどちらに?

満州国政府に勤めましたよ。

Q:政府の何部っていう?

これね、一口に言いますと、あの当時高等文官試験っていうのがありまして、それを建国大学在学中に一応試験を受けて、パスして、大同学院っていう研修所ですよ。今で言ったら司法修習所っていうのがあるでしょう、ああいうふうにして試験通った者を一定期間、給料を払いながら訓練をして、候補生として訓練をして、それを各地に派遣して、そこで仕事をさせて、将来幹部にしようと、そういうふうなことでしたから。在学中に試験通って、大同学院に半年ぐらい行って、それが終わってから今度は第一線にそれぞれ配属をされると、そういうふうなことですね。

Q:初めに配属をされたのはどこの町ですか?

それはね、一口で言うと、ちょっとその、満州の地図あるんで、興安北省の三河(大興安嶺の西側で旧ソ連との国境付近)っていうとこなんですけれどもね、お分かりにならないと思いますけれどもね。ハイラル(中国・内モンゴル自治区)って分かります?

Q:ハイラル、分かります。

ハイラルから北160キロの国境地帯のへき地ですね。そういうところに勤務させられて、見習いとしてね。

Q:どれぐらいの大きさの町なんですか?

人口はやっぱり千人ぐらいですかね。

Q:千人って結構。

うん、結構。どのぐらいかちょっと、人口は覚えてないですけれどね。

Q:ここに地図が。

ここがね、ハイラルでしょう。こっから160キロ北の、この地図には地名も出ていないところのね、エルグン左翼旗コウショウ(現・内モンゴル自治区根河市)っていうところですけれど、そこにしばらく勤務をし、見習い勤務ですね。それで現役兵で入隊したと、こういうことですよ。

Q:ここに派遣されたときは、まずどんなお仕事をなさったんですか?

これはね、この三河という三つの河っていうとこですがね、そこはね、ロシア人の農民の部落なんですよ。

Q:ロシア人の。

人口ははっきり覚えないけど、全部で5~600もいたんでしょうかね。ザバイカルコサック(バイカル湖の周辺ザバイカル州に存在した帝政ロシアのコサック)の集落。そこで大農法をやってね。そういうところの行政的指導をするという、そういう役所ですよ。

Q:具体的にはどういうことをやるんですか?

具体的にはやっぱり農地の状態をね、調べたり。それからトラクターやコンバインあたりの斡旋もしてやったりね。それからまあ税金をとったり、種を…優良な種を分かち与えるとかね、そういう。

Q:ロシア人だけの村なんですか?

そうですね。あそこはそうです。ザバイカルコサックの集落ですから。蒙古地帯だけれど、蒙古人はあそこにはいないね、私のいた勤務している三河っていうところはね。

Q:向こうは日本人の行政官がやって来ることに対しては、どんな態度だったんですか?

それはやっぱり敬意を払って、裏で何言っているか分かんなくても、それはやっぱり治める立場と治めてもらって利益を受ける立場という、そういう立場がありますからね。こちらは慈しむというような気持ちは十分ありましたよ。今頃もう死語になっていますけどね、「牧民官」っていう言葉あったんですよ。牧はね、牧師の牧ね、民は民(たみ)を牧する。何も引っぱたくんじゃないですよ。民が集まっているときに十分食えるように保護しながら、ときにはそくれいもするし、取り締まりもするけれども、基本的にはやっぱり民あっての地域だから、たまたま革命で逃げてきたね、ロシア人が何千人か組んで大農法で農業をやっているんだから。そこはね、いさかいが起きないように、それから平和に、しかもお国のためになるように一生懸命働いてくれるようにということでね。

そのかわり取り締まりもしますよ。争いがあったり、不正があったり。特にあのころはね、ソ連からいろいろ潜入者があったりもしますから、それやっぱり取り締まり、ドンパチもやりますしね。

Q:要するに赤軍、兵隊ではないわけですよね、ソ連から入ってくるのは?

兵隊じゃない。

Q:誰が入ってくるんですか?

武装諜者(ぶそうちょうじゃ)っていうんです。分かります?
今もう時代が違うから。それはいわゆる武装諜者っていうのはスパイです。諜報の諜。

Q:諜報の諜。

こんなことは字引にもないけれどもね、これね、武装諜者っていうんで、これスパイですよね。1人の場合もあるし、4、5名の隊を組んで来る場合もありますけれども、国境からそばなんですからね、平気で来ますよ。モーゼル1号(拳銃)で武装して、通信機持って、それで帰ってくるね、それで治安を乱したりするのがいますから、そういうのは討伐しなきゃならない。そういうこともやります。

Q:それはその国境地帯から入ってくるということは、その村でかく乱するとか、そういうのが目的なんですか?

状況偵察のほうが主でしたね。家畜取ったり、直接建物に火つけたり、そういうことは私どもは経験したことはありません。村に入って来て状況をつかんで、見つかったら抵抗してやるけれども、向こうから攻めてくるほどの武力はないわけ。でも彼らは自分を守るために武装して、情報を仕入れて打電してね、それで目的を達すれば帰って行くと、そういうのが、当時の私どもの体験したソ連のスパイはそういう対応でしたね。

Q:やっぱりそれはソ連の侵攻に備えての諜報活動だったんですかね?

まあそれはそうでしょう。だって国境を挟んでソ連と日本が対じしていたわけですからね、お互いにそういう敵のことは知らなきゃなんないしね。日本だってそういうことをやっぱりやったしね。

Q:日本側も行っていたんですか?

それはそうでしょう。

Q:坂部さんは向こうにいらしたことはない?

私はその疑いで戦後捕まったもんね。けれど私自身はそんな、行政官はそれやらないでしょう。入ってくれば、それに対して応戦はするけれどもね、こちらから直接行くようなそういう要請ではありませんから。特別警察なんかはそういうことやったでしょうね。

Q:そうすると逮捕された人の尋問みたいなのはなさるんですか?

それはね、私は行政官ですから、それは警察や憲兵・特高(警察)、そういうものがやるでしょうね。そういうことは私の当面の任務じゃありませんでしたから、やったことはありません。

Q:でもそこで初めてロシア語で、住んでいたロシア人の住民と直接触れ合われたわけですよね?

触れ合うっていうか、それを統治するのが私の仕事ですからね。私はロシア語使いなんです、元々。ハルビン学院っていうのはロシア語の専門学校ですからね。そりゃまあネイティブのようにはいかないまでもね、不自由なしにロシア語を使って文章を作り、それで口頭で指示をし、訴えを聴き、それを処理すると。それが当時の私の高等官としての、下っ端の幹部のね、仕事でしたよね。

Q:そのロシア人の農民からはどんな訴えがいちばん多かったんですか?

トラクターのね、ねじが無くなったからね、至急やってくださいとか、それから種いもの質が悪くて腐ったから、なんとかしてくださいとか、そういうもう雑多な。それからお互いに境界争いがあるからね、それを調停してくれとかさ、そういうふうなことですわ。いろんな家庭内のどさくさの問題だって訴えてくれば聴くという、非常に素朴なね、それが「牧民官」っていうね、こういう、民を牧すると。かわいがるとかそういう意味じゃなくて、管理はするわけで、いい状態で管理をして、彼らもよいし、こちらもよいと。いうなればそういうことを狙うのが本来の目的ですわね。

Q:そうするとそのロシア人の人たちは革命で逃げてきた人たちだから、やっぱり帝政ロシアの領主様みたいなイメージだったんでしょうかね? 行政官が。

いやー、その辺はちょっと、個人的にもいろいろあるでしょうし、その状態によってもあれですけれども。まあお互い協力関係、向こうが逃げてきて保護を受けているんだし、こちらはそこを管理をして、生産を上げて、農作物をいっぱい生産させて、それに見返りをこちらはちゃんとするし、それができるように手当をすると、そういうのが行政官の仕事ですから。

Q:生で触れ合ったロシア人の人たちってどんな印象を持たれましたか? 当時は。

私は好きですね。非常に純朴でね、人なつっこい、いい人たちが大部分でしたね。でも本当に期間は短かったから。だって私はもう軍隊に行くまでの半年ぐらいの間ですからね。

学徒出陣のちょっと前ぐらいですよね、(昭和)19年の1月に。

Q:兵科幹部候補生に採用ということ…

これはもう公の書類ですから、日にちも1つも間違ってない。

Q:それでどちらのほうにいらしたんですか?

私は高射砲だから、鞍山(中国遼寧省)の高射砲を守っていたら、B24か、29ではなくて、飛んで来て爆弾を落とされて。撃ったけれど、届かなかった。だから鞍山の空襲のときには、高射砲で鞍山の製鋼所の方に来る飛行機撃ちましたよ。元々、ここに書いてある、高射砲の兵ですよね。ところがそのうちに、ロシア語しゃべるしね、いろんなことがあって、関東軍司令部に転属になっちゃったんです。それで今度は全然仕事が変わっちゃってね、高射砲やめちゃった。

Q:それが7月の28日って書いてありますね。関東軍第1特別警備隊第3隊。

それが問題のね。結局もう関東軍たって当時50万(人)ぐらいいたんでしょう、人数だけは。ところが全部南方にね、大砲も兵器も全部持っちゃっているから、もう兵隊だけいても戦争なんかできる状態じゃないんで。それでソ連もいつかは来るだろうってことは、もう我々は予想していました。いつ来るか分かんないけれども。それで本土決戦になればね、まあ本土はドンパチだし、こちらはこちらでやらなきゃなんないけれども、ソ連が攻めてきたらね、直接ぶつかったらそれはもうかなわないですよ。だって武器がないんだから。それでいわゆるゲリラね、これはこうやろうというのでこういうのを作ったわけです、関東軍がね。特別警備隊っていうの、一種のゲリラですよ。ゲリラっていうのは…パルチザンって分かりますか? ゲリラ。テロと違うんですよ。遊撃戦って言ってね、分かる?

Q:分かります。

遊撃。だから攻めていってもこうぶつかったら、だって兵力、装備から全然違うから、戦争になんないから、こちらは特別警備で地下に潜行しちゃうわけですよね。それでちょこちょこと出かけて行っちゃ攻撃して、サッと逃げてくると。それでやっぱり最後までやるだけやらなきゃしょうがないからね。こういうのを作ったけれども、結局機能もしないうちに本土のほうでやめにね。だから関東軍だってまだ人数は残っているし、兵器だの少しはありましたからね、我々はちゃんと武装はもう十分していましたから、遊撃戦するぐらいの拳銃とか、そういうのはいっぱいありましたからね。やっぱり、やれって言われればやらなきゃなんないでしょう、最後まで。だからそういう特別警備隊というのを作って、及ばずながらやらざるを得ないだろうと思っていたら、本土のほうでもう終戦になってね、8月15日でポツダム宣言を受領して。ところが満州じゃそんなひどいまだ、戦が始まる前ですからね、遊撃戦でもなんでもやるよりしょうがないだろうと思っていたときに、もうやめなさいということで、武装解除したわけですよね。

Q:この特別警備隊は何人ぐらいの構成だったんですか?

分かりません。これは上のほうで決めたんで。あんまりそんなに大きな人数じゃないでしょうね。順番にそういう隊をね、言葉が分かり土地勘がある、そういうのを集めて、あっちこっちでね、遊撃戦を展開させようというふうなことを考えたけれども、結局は不発に終わっちまったわけですよね。

Q:具体的にはどんな訓練をなさったんですか? その遊撃戦の。

いや、特に訓練はしないけれども、軍隊はだって基本的にはあらゆることを訓練していますからね。それを結局そういうのだけを集めて、ちょこちょこ出て行っちゃね、かく乱したり司令部を襲撃したりして、またすっと逃げてくるという、そういうことを考えようとするけども、そのゆとりがないままに終戦になっちゃったんだ。

Q:ソ連軍が侵攻してきたときは、そこにいらしたんですか?

ソ連が侵攻してきたときにはね、関東軍はもうね、通化(現・中国吉林省南西部)に行ったわけですよ、司令部が。通化って分かりますか?

Q:ええ、分かります。

今の字引、地図があるでしょう。これ。ここでは持ちこたえられないんで、ここへ来て、これをやっているのが最後の抵抗でもしようかということでこういうことを考えたりして、司令部は通化まで来たわけ。そのときに結局終戦になったので、しょうがない、まあ残念だと思う反面、24(歳)でここで死ななくても済むかなと思ったのも事実だしね。

もう力が無くなったんですよ、なんにもないもん、虚脱状態でね。そしたら通化にソ連軍が入城してきましたよ。でも入城式とかそういうのもなくて、初めはね、まあまあ普通にやっていましたよ。私は兵器引き渡し委員っていうね、それで言葉は分かりますしね、位は低いけれどもまあ責任者として、兵器の引き渡しなんかが終わって。そしたらそれが終わった途端に逮捕されちゃったの。

Q:それは何日ですか? ソ連軍に逮捕されたのは。

昭和20年だよね、8月22日にソ連軍が通化に入城して。いろいろ私、兵器引き渡しやなんかしているうちに、8月25日にソ連軍によって、逮捕状によって逮捕されたわけだ。

Q:その罪状はなんですか? どういう罪状が。

逮捕の理由はね、「ソ連刑法58条4項・6項違反の容疑」っていうんですよ。

Q:58条、政治犯ですね。 

そうです。よく知っていますね。それでね、58条のね、条文があるんですよ、ちゃんと。私は一応専門家なんです、そちらのほうの。ああ、あった。58条っていうのは私、恨みの58条なんで。いいですか、この覚えはもちろんないけど、刑法第58条の4っていうのはね、「資本主義制度に交換すべき共産主義制度の平等存在権を認めず、その転覆を図る国際ブルジョアジーに対し、またはその影響下にあるか、あるいはソビエト社会主義共和国連邦に敵対行為を行うために、この種ブルジョアジーによって組織された社会的グループおよび団体に対して、なんらかの方法により援助を与えた者」っていうんだよ。要するに社会主義をぶっ潰すファシストの手先って、こういうね。それと4項・6項というのはスパイ。ワシレフスキー元帥(当時の極東ソ連軍総司令官)の署名入りの逮捕状で、スパッと逮捕されちゃったの。それから4年7か月、帰してもらえなかったの。

Q:そのときは逮捕されるだろうっていうのは分かってらっしゃいましたか?

いや、ちょっと分かんなかったです。だって国内法でね、逮捕するんでしょう。しかも冤(えん)罪っていうか証拠も何もなくてね。ただロシア語をしゃべって、それで首見たら、おまえは大尉か。軍曹かって分かったりね。ソ連の言葉をよく知っていれば、怪しいと思うんでしょうね。要するにソ連の敵だと。スパイ。だから捕まえて。「国内法でね、そんなもん捕まえられないだろう」って言ったらね、「いや、それはかねてね、捕まえてやろうと思ったけれども、捕まえられなかったんです。外国にいたから、お前たちは。ところが今はソ連の法律が及ぶ範囲内に入っていたから、満州でね、だから捕まえるんだ」と。「当分臭い飯食わせてやる」と、こう言われたんです。しょうがない。そのいきさつは、ちゃんと日にちから全部覚えてます。私の歴史ですからね。

Q:その間はどこに入れられるんですか?

それはあっちこっちもう10か所ぐらい。終わりのころは軍人捕虜と一緒だったけれどね、初めは容疑者。

Q:それはやっぱり待遇が違うんですか? 軍人の捕虜と。

終わりのころは一緒でした。初めのころは違いましたね。

Q:どっちがいい待遇なんですか?

いや、それは初めのころのね、3か月ぐらいはもう下にも置かないもてなしでした。ここに書いてあるんだよ、ウォロシロフっていうところのね、スメルシ防諜機関の本部にいるときには、もう非常にいい扱いでしたね。だからね、スメルシ防諜機関極東本部において調べられてる間はね、ともかく基本食は過不足なく、1日15グラムの砂糖、15グラムのタバコもね、3日に1度の医師による健康診断、5日に1度の散髪。大事にして、ちゃんとおだててね、情報でも聴き出そうと思ったんでしょう。ところがこっちはそんなのなんにもないもんね。

Q:向こうが聴き出そうと思った情報ってどういう関係の情報、その時点では向こうは欲しがるんですか?

分かんないです。

Q:なに聴かれたんですか?

だからさ、どのように社会主義国家に対して攻撃を加えたか、誰を使ってどういうスパイをしたかと、そういう事実を引っ張り出して。まあ一応ね、初め15年の刑を言い渡そうと思って、しっかり準備しているわけなのね。もうちょっと重いと25年なんだけれどね。死刑は一時廃止しましたからね。まあ私の場合は15年の求刑をしようと思って、58条の4項・6項で逮捕をして、それで丁寧にしつこく徹底的に調べました。けれど出てこない。なんかあるんだろうと思っているけれども、まあないよね。

Q:そうすると拷問みたいなものはなかったんですか?

なかった。私の場合にはね、拷問とかね、それから体に手をかけるとかね、拳銃出してこんな脅かす、それは何にもなかったですね。非常に丁重なね、ちょっと不思議なぐらいね、ちゃんと立派に、そぐうして、1対1でね、物静かに丁寧に。ときには向こうが議論をふっかけて、天皇の戦争責任どう思うかとかね、日本天皇を無統制、法律上無答責だって言うと、そんなことはないとかね。天皇は戦犯だろうと思うかとか、そういう話をするけれども、別に拷問とか、私の場合にはそういうことは一切ありませんでしたね。ただね、ひと月ぐらい独房に入ったまんま調べもなければ何にもない。放っておいて、そのうちにしゃべるだろうと思ったのかね、これはあったけども。そういう暴力を加えるとか、そういうことは私の場合にはなかったですね。

Q:でも1か月の独房はものすごくつらくないですか?

いや、普通の部屋、何にもないところです。だけど別にあのときは寒くもなかったしね。

Q:夏ですからね。

その代わり何にも、調べもなければ、食いもんだけはちゃんとくれる。なんか分かんないですね。だから法治国のような格好をしているけれども、内容的にはね、全く無法な取り調べというね。こちらもね、「我々下っ端をそんなに一生懸命調べても何にも出ないよ」と言っていたら、困ってね、うそみたいな話だけど泣き言、言うんですよ。私を「上級中尉だろう」と。「本当はもうね、大尉か少佐になってもいいんだ」と。「ところがね、スターリングラードでね、捕虜になっちゃった」と。「それで左遷されてまたこれだ」と。「もう今必死なんだよ」と。「少しはいい返事しませんか」って言うから、「いや、こっちはそんなことなんにもないんだよ」って言って。そしたらね、次から次へと…写真出して、「これはおまえのエージェントだっただろう」って言うから、「そんな者は知らん」って言って、「連れて来い」って言ったら、「もう死んで今いない」とかね。本当にお笑い話になるぐらいなね、お人よしというかね、ちょっと緩いところもあったですね。なにしろ人間が多いし、押しなべてね、お人よしも結構いますからね。

Q:向こうの将校も必死だったんでしょうね、ここでスパイをあげれば自分も出世しますしね。

笑い話みたいだけどさ、本当あのときはお互いこれは必死ですよね、攻防。

Q:でもそのころにやっぱり命の危険とか感じられましたか? もうここで殺されるんじゃないかっていうのは。

最初はありましたね。だって通化で捕まって、あと吉林まで特別護送でしょう。それから吉林からは手錠・足錠のまんまウォロシロフまで飛行機で行ったでしょう。そのあと、あれ、ひょっとしたらどさくさでやるかもしれないなという瞬間は、2つや3つはありましたけれどもね。別にあとで考えれば考えしとこ。私の場合にはそういうことはなかったですね。

Q:でも取り調べをされた方々って結構いらしたんですか?

それはいましたよ。だって普通の軍人じゃなくて、軍人でも、情報関係者ね、それから例の石井部隊って知っていますか?

Q:知っています。731。

あれは関東軍防疫給水部731部隊かな?

Q:ええ、731。

ハルビンにあったの。この関係を徹底的に調べましたね。私はこれ全然関係ない。私はこれは調べはなかったけれども、それに対してどれぐらいソ連当局が神経とがらせていたかっていうのはよく分かりましたよ。こんなね、厚い調書があるんですよ、石井部隊関係のね。あれはまあその後いろいろアメリカとの石井部隊との取引とか、そういう問題もあってね。『悪魔の飽食』っていうの、あれね、僕も読んでみましたけれどね、思い当たることはいっぱいあるけど、私ども全然ハルビンにいても知らなかったですね。石井部隊の上は飛行機も通れなかった。

Q:そうですか。

だから本当に限られた人しか知らなかったですね。

Q:そうするとソ連軍はもう徹底的にひとりひとり、その場で調べつくしたわけですね。

まあ関心持ったのは中野学校とそれから石井部隊ね、あれいちばん神経とがらせましたね。

Q:でもハルビン学院を出たということも、ロシア語しゃべるということも、やっぱり向こうにとってはね。

ハルビン学院卒業って言わなかったですよ。どこでロシア語を覚えたって、ラジオでやっているよって言って。ハルビンに住んでいたからねって。ハルビンのロシア人の家に下宿していましたからね。

Q:それはやっぱりハルビン学院というと、また目をつけられるということですか?

ハルビン学院はね、そういう目的じゃないんだけれども、ソ連はもうはっきり「ハルビン学院っていうのはスパイ養成機関だ」と、こういうふうにもう定義づけていましたからね。中野学校(軍事諜報員を養成した陸軍の学校)・ハルビン学院なんていうのはちょっとやっぱり。全然そうじゃないんですよ。なんけれども、だってロシア語しゃべるし、ロシアの事情を知っていれば、向こうは変だと思うでしょう。

Q:そうですね。

そういう時代でした。

Q:それでその取り調べが終わったあとはどのような?

まあ終わらないです、だから4年7か月。

Q:どちらに今度は連れて行かれたんですか?

初めは吉林から飛行機でウォロシロフでしょう。ウォロシロフのスメルシ防諜機関の本部からウラルに行って、あっちこっちたらいまわしでしょう。

Q:でもあれですか? いわゆる軍事捕虜ではなくて、58条で逮捕されたということは、他のラーゲリ(収容所)の人たちとはちょっと違うんですか? 立場が。

そうですね、違いましたね。終わりのころは一緒になっちゃったけれど。もう雑魚だと分かったんでしょう。たたいてもなんにも、ほこりも出ない下っ端だから。けれどもなんとなしに臭いなというんで、4年7か月日本には帰さなかったですよね。その代わりいわゆるデモクラシーのほら、例の。

Q:『日本新聞』とか。

民主運動のつるし上げとか、ああいうのはないし、向こうが政治教育をするとか、そういうことは一切なかったですね。「共産主義者にならないか」とかね、「日本に帰ってもしょうがないぞ」とか、それはない。向こうは決めているんだよ。あれは敵側のあれだから、今はおとなしくしてるけれども、自由がないからおとなしくしているんだけれど、帰せばすぐね。こういうのはっきり言いました。「お前なんか相手にしてないんだ」と、「帰ったらすぐヒロヒト、ヒロヒトって言って向こうへなびくんでね、あてにしてないよ」と。

Q:それはどこで言われたんですか? 収容所ですか?

いわゆる職員ですよ、向こうの職員。取り調べ官なんかと話をするでしょう。

Q:それはシベリアのラーゲリに入れられたあとも、取り調べってまだあるんですか?

うん。だから働きながら時々取り調べる、夜寝ていると、「この男は知っているだろう」とかってね。

Q:それはずっと4年間続いたんですか? そういう取り調べ。

いやー、4年7か月いたけれども、その間調べっていうのは、そうね、10回もありましたかね。終わりのころはもう何もなかったです。普通の軍事捕虜と同じような扱いだったですね。

Q:そうすると伐採作業とかそういう労働も同じようにやりましたか?

はい、初めごろね。終わりのころはもう他の仕事をめっけてさ、ノルマの査定やったりね、いろいろあるんですよ、そういう事務が。労働者の連中はあんまり書けないもんでね。例えばよく停電したり、それから断水したりするでしょう。そうすると仕事ができなくなるんだ。その間は国から払ってもらわなければ困るから、書面で書いてやらないかんのですよ。何時から何時まで電気が来なかったためにね、何人が仕事ができなかったら、これを補償しなさい。どうぞサインして、持って行くと。そういう書類を作るのが悪いけどできないんだよね。私にはそれは簡単なことですからね、書式でね。

Q:ロシア人ができないんですか?

できない。できる人はもちろんいるけれど、普通の労働者はできない。それを頼みに来るわけです、事務所にね。アクトっていうんですよね。何月何日何時何分から何時何分までの間、水が断水したので、30人が4時間、そういう計算ができないんだね。120時間分の補償を求めるものである。それ請求すると払ってくれるんで、向こう、ちゃんと。だからそういう仕事、いくらでもあるんですよ、頼みにくれば。そういうことをやっていれば、冬だって暖かいところで、こんな働かなくてもすむでしょう。そういう仕事を。

Q:通訳なんかもさせられたんですか?

通訳っていうのはあんまりちょっとね。通訳一生懸命やるとね、ノンポリになんないんですよね。やっぱり向こう側の代弁しなきゃなんないでしょう。だから私、「通訳できない」って。「ノルマのこういう係りだ、事務屋だから」って言って。

Q:それは認めてくれたんですか? 向こうから通訳しろって。

だってこれは他のやる人いないので。

Q:なるほど。

作業指令書、書いたりね。ノルマチブっていう本があるんですよ。これが、土が、1級土から4級土まであってね、硬い4級土は1時間に何立方メーター掘れば100パーセント、それで計算すればできるでしょう。そういうことをわりあい不器用なんだよね。できないんだよ。

Q:そうするとやっぱりそのノンポリでいるっていうのは難しいんですか? ラーゲリの中で。

でしょうね。私はなるべくみんなね、あんまり影響を受けずに、栄養だけ失わないようにしてからね、帰ろうということだけ。だからなるべくそういう目立つようなことはしないで、じっとね。

Q:でもロシア語が話されて、ロシアのこともすごく詳しくいらして。

すごく詳しくないけれど。それは連中なんか暗算なんかは特別下手なんだよね。だから日本人だったら4列に並ぶでしょう、4列に並んで12の4ですぐね、48人っていうのが計算できる。彼らそれできないもんで、5人になるまで。5ならできるんだ。5、10…そういうふうなもんだからね、簡単な体積出してやったりね、面積出してやったり。そういうことすりゃもうびっくりするぐらいだもん。

Q:でもソ連側から「アクチブ」にならないかって誘いはあったんじゃないですか?

いや、ないです。っていうのは向こうはもう、あれは、向こうに言わせれば反体制にしみついている、そういうやつだから、望みがないから、だから全然相手にしなかったよ。向こうも手が汚れているって、「お前の手はね、ファシストの手先で汚れているから、どうせいくらやってもダメだ」って言ってましたよ。だからソ連式のデモクラシーに、社会主義教育しよう、そういうことは全然なかったですね。

Q:でもその4年7か月というのは初めの刑で、もうそれが終わったら帰れるとは信じてましたか?

ない。15年くわせようと思って一生懸命向こうは調べたけれども、なんにもないよね。だから諦めたっていうか、そのうちに、だんだんだんだん世界情勢が動いてきたんだろうね、動いてきて、最後の最後でしたよ。だって昭和25年の4月に帰って来たんですからね、我々。

Q:4月17日ですね。

それから6月には朝鮮事変が始まったんだ。あれが始まったらもう帰って来られない、当分ね。10年ぐらいは帰って来られなかったでしょうね、あれ。

ラッキーかアンラッキーかって、うーん…まあ普通だと24の、戦争終わらなきゃ死んでいたわけだからね。あとは余生で、生きているだけでもうけもので、ラッキーだというかね。それとも何もね、罪もないのに4年7か月もね、未決みたいなね、状態におかれたアンラッキーだというかね、この辺はもうなんとも。でもまあラッキーだったでしょうね。

ただ満州国っていうのはやっぱり夢があったしね、ロマンがあったんですよ、やっぱり。なんかいいもの作ろうと、五族協和で王道楽土で、みんながね、民族も差別なしにやりましょうという一種の夢があって、理想があって、ロマンがあったと思うんで。そういう面の見方と、あくまでもね、日本が帝国主義的なあくなき野望で他国を侵略して、傀儡(かいらい)国家を作ってね、あれは独立国なんかじゃなくて日本の我欲を満たすためにね、作った虚像だったというふうにね、傀儡…。その辺はね、なんともその人のね、考え方しだいだけれど。私のほうもやっぱり夢もあったし、一つの倫理的なあれもあったしね。特に建国大学というのはね、日本人・朝鮮人・蒙古人・ロシア人、みんな同じものを食べて、同じところでね、みんなで同じ生活してきたんですよ。いまだにそういう友情は続いているわけでね。だから民族協和が成功したとかなんとかっていうんじゃなくてね。ただ民族協和ってものに対する一つの憧れとかね、試みとか、そういうようなものはね、やっぱり、我々やっぱり忘れられませんよね。一概にね、他国を侵略してね、日本の我欲のために他を犠牲にしたっていうふうには、私どもは必ずしも思わないですよね。

Q:五族協和っていうことに関してですけれども、もしソビエトが侵攻してこなければね、満州国、その五族協和というのはもっとちゃんと行政として成り立つ思想なんでしょうか? そういうことはありえるんでしょうか? 五族が協和するっていうのは。

それはね、難しいと思いますね。民族っていうのは一体何かっていう問題でね。五族協和って言ってもね、民族というのはそんな簡単にね、仲良くしましょう、一緒に暮らして同じものを食べてね、哀歓を共にしたら、民族の別がなくなって、みんなが仲良くやれているはずだ、なんていうほど甘いもんじゃなくてね。もっと民族というのはやっぱり仕上がってね、意識なんですよ。民族というのはね、例えば言語とか宗教とか共同感情とか、そんないろんなものによって裏付けられてね、我々意識がはっきり定まったときにね、一つの民族っていうのがなるんで。一緒に住んでね、日本人と朝鮮人と蒙古人とロシア人と同じところに住んでね、同じ生活したからって、友情はできるかもしれないけれどもね、民族が協和してこん然として一体になるなんてことはね、夢の夢、また夢。もっともっとね、気の遠くなるぐらい時間が経たなかったら、民族協和っていうのは成り立たないので、少し安易に考えすぎていると思いますよ。けれどもね、民族が争っちゃいかんのですよ、やっぱりね。民族はいるんだから。だから民族はやっぱり協和をしてね、一つの目的で統一されて、みんなでね、仲良くしましょうじゃなくて、何かこう共通のものを持たなきゃね、生きていけないと思うんですけれどね。

Q:そういう意味では、試みてはあったけれども、ものすごく難しい道を歩もうとしてた国だったんですね。

でもね、民族協和っていう理念はね、絶対やっぱりね、追求しなければね、人類は生きていけないというぐらい次元の高いね。それを少しでも試みようとしてね、我々は少なくともそれやろうとして、やりかかったんですよ。結局、結果的にはああいうことになったけれどもね。民族協和なんていうのはね、夢の夢、また夢でね、ナンセンスだっていうふうに言ったら、私どもものすごくやっぱり抵抗を感じますよね。だって民族っていうのはあるんだから。異民族間のね、反感とか敵がい心とかね、そういういろんなもので世界の平和が乱れているんでしょう、どこでもね。だから民族協和しなきゃいけないんだけれども、果たしてどうしたら民族協和ができるかという問題は、これ永遠の問題だしね、もうちょっとこう一生懸命考えなきゃいかん。

ただ満州は傀儡でね、民族協和はうそっぱちで、日本人のエゴのね、塊だったっていうふうな見方をされるとね、それは違うんじゃないかというふうにやっぱり思いますよね。

Q:あのころのじゃあ民族協和、満州国のですね、もし何か、今やるんだったらここを直したほうがいいと思うような、あの当時の民族協和の欠点があるとしたら、それは何がいちばん大きかったでしょうか?

日本人の未熟さでしょうね。それからやはり宗教に対する無知・誤解・偏見、そういうようなものが、あの当時から私は思っていましたよ。具体的にはね、日本の神道「神ながらの道」を満州国に導入しようとしたりね。それで神社作ってみたり、建国神廟(けんこくしんびょう)っていうので天照大神を祭ってみたりね、そういうことをする。宗教というものに対して日本人はまったく鈍感で無知で。宗教っていうのはもっとね、シビアなもんだと思うんですよね。そうでしょう、満州国にね、天照大神祭っておかしいでしょう。これを国教にしようなんていう。今でこそね、笑うけどもね、あの時分大まじめで考えていたわけですよね。だから私どもの感じでは初めは民族協和をずっと多く言っていたけれどもね、終わりのころは民族協和はあんまり言わなくなって、「日満一徳一心」っていうの、一徳一心って分かります?

Q:一心って一つの心ですか?

一つの徳も一心。・・・こういうふうなことを言っておる。日本と満州はね、徳を一にして同じ。だからね、そういうふうな考え方のほうにむしろ傾いてきてね、なんとなしにこう日本が飲み込んでしまう。宗教だってね、建国神廟っていうの聞いたことありますか?

Q:あります。

天照大神が伊勢の皇大神宮から鏡かなんかもらったかな、ああいうバカなことね。「神ながらの道」がダメだっていうんじゃなくて、それをね、満州国のね、精神的な中核に据えようとするような無感覚ね。ハルビンにはロシア正教っていうれっきとしたもんあってね。だから宗教というものに対する日本人の無知、それから無策ね、鈍感さ、そうしたものがやっぱり、あの当時からそれは私も感じましたね。それから満州にいた日本人は、満州国、一応独立国家だと言いながらね、国籍法がなかったんですよ。国籍法。満州国民で、あそこに住む日本人・中国人・韓国人・蒙古人・ロシア人は、この国に住むかぎりにおいてはね、この国の法律を守り、この国を成り立たせるっていう気持ちがあるだけにおいてはね、みんな平等だっていうふうに言うわけよ。ところが国籍、満州国籍というのがあるかっていったらないんです。っていうのは国籍法がないわけよ。だから日本人はあくまでも出稼ぎみたいに思われているわけよね。日本の利益のために行って働いていて、あそこに骨をうずめる気持ちの人はいても、やっぱり日本人は日本国籍を捨てて満州国籍を取得するかっていったら、そりゃしないですよ。だからそういう国籍法はない。それ国じゃないですよね。民族協和って言ってもさ、国籍法、だからやっぱり日本人は日本人で。それでそのことは我々もずいぶん議論はしたんだけれども、やっぱりふんぎれないわけよね。なもんで妥協的な方法としてね、二重国籍っていうのを考えたんだよね。それでね、満州国の国境にいるときには満州国の籍でおるわけ。国境越えて朝鮮に入った、あの当時は朝鮮は日本だからね、日本国籍が戻せるわけ。二重国籍。それはちょっとね、ダメなんだよね。そうかといってね、日本国籍を捨てて満州国籍を取得するというふうにふんぎった日本人は一人もいないから。その辺がね、やっぱり人工国家の難しさですよ。

だからね、民族協和とか、一つの国ができあがるまでには気が遠くなるぐらいのね、やっぱり時間が必要なのでね、今すぐね、あれは失敗だったとか、あんなものはっていうふうには言えないし、さりとてあれはよかったんだとね、もしソ連さえ攻めてこなければとかね、あのときもっと早く戦争の処理をしておったらっていうふうな、そういう仮定のね、それは子どもだましの話で問題になんないと思いますよね。

Q:でも青春の若いころにそういうものを一時期目指せたってことは、そのあとの人生でずいぶん大きな影響を…

それはそうですね。他の民族の連中と同じようなものを食べて、同じように寝起きして。だからある意味においてはいい経験ができてね。だからうちにもね、ロシア人が来て泊まったりね。去年死んじゃったけどチョルゾフっていうのね、・・・なんかもよく知っているよね。だから民族のね、私は民族的偏見っていうのは全然ないんですよ。だから民族協和がね、成功したと思ってないの。ただね、一定な間、運命を共にした若者が深い友情に結ばれて。これはやっぱり民族のあれじゃなくてね、運命共同体みたいなね、そういう体験をしたことは、もう何事にも代えがたいというふうに思いますもんね。

Q:復員されて日本に帰ってからもロシア語関係のお仕事に?

頼まれれば翻訳したり通訳したりしたことはありますけれども。もうちょっと別な方向に行っちゃったもんでね。

Q:それはロシア語を使わないでっていうのは、何か思いがあってそうなさったんですか? それとも偶然?

いや、必要が無くなっちゃったから。ロシア語はあんまり必要性がなくなった、あんまり使い道がなくなったんだ。ロシア語でやるということになると、外務省に行ってもロシア語だけじゃダメですからね。それで私が入ったのは法務省ですから、ロシア語は関係ない部門だったから。

出来事の背景

【旧満州国と大連の居留民】

出来事の背景 写真1905年、日露戦争が終結し、遼東半島先端部が関東州として、日本の租借地となりました。その後、日本政府が南満州鉄道株式会社を設立し、多くの日本人が新天地を求め、大連・旅順地域に渡るようになります。
さらに、1932年、中国東北部に「満州国」が建国されると、「五族協和の国をつくる」というスローガンの下、多くの若者が「満州国」を目指しました。若者たちは、ロシア語教育で名高いハルビン学院や官吏の養成機関だった大同学院などで学び、国の中枢を担う仕事に就いていきます。
しかし、戦況の悪化が彼らの生活に影を落とします。満州国国務院などで勤務していた人も、関東軍に召集されるようになっていきました。
そして、1945年8月9日、ソ連軍の満州国への侵攻が始まると、人々の生活は一変しました。混乱の中で多くの命が失われるとともに、ソ連軍に拘束されてシベリアに抑留される人も少なくありませんでした。また、引き揚げまでの道のりも容易なものではありませんでした。旧満州国や大連に渡った人々は、多くの苦難を体験したのです。

証言者プロフィール

1920年
新潟県三島郡片貝村 (現・小千谷市片貝町)に生まれる
1939年
旧満州・ハルビン学院卒業後、建国大学へ
1942年
旧満州国政府に勤める
1944年
新京(現・長春)の高射砲第26連隊に入隊
1945年
通化省(現・吉林省)で終戦を迎えた後、政治犯の容疑でソ連軍に身柄を拘束される
1950年
帰国。中央更生保護委員会事務局法務事務官。退職後は保護司などを務める

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満州(新京、ハルビン)

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