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タイトルタイトル: 「特攻死した同期たち」 番組名番組名: [BSプレミアム]零戦 ~搭乗員たちが見つめた太平洋戦争~ 放送日 2013年8月3日、10日
名前名前: 笠井 智一さん(第201海軍航空隊 ゼロ戦搭乗員 戦地戦地: フィリピン(マバラカット) グアム  収録年月日収録年月日: 2013年4月29日

チャプター

[1]1 チャプター1 甲飛10期  06:04
[2]2 チャプター2 グアム島へ進出  14:45
[3]3 チャプター3 南の島  07:26
[4]4 チャプター4 勇む気持ち  09:34
[5]5 チャプター5 戦死を遂げた仲間たち  06:25
[6]6 チャプター6 谷さんの戦死  06:18
[7]7 チャプター7 戦闘行動調書  13:25

チャプター

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番組名番組名: [BSプレミアム]零戦 ~搭乗員たちが見つめた太平洋戦争~ 放送日 2013年8月3日、10日
収録年月日収録年月日: 2013年4月29日

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Q:これ、谷さんが自宅に送られた手紙なんですけど。ご覧になってください。昭和17年の入隊直後ですね、4月とかだと。

しかしこんなものよく置いていたものですなあ。

32分隊の10班。32分隊の10班って言ったらコバヤシ、分隊長がコバヤシ大尉やったかな。

Q:笠井さんとは・・・

私は38分隊でね。私ら10期は31分隊から38分隊までだったんですよ。そして僕は38分隊。いちばん数の多い分隊に入りましてね。

なかなかいい字を書いていますな。上手ですよ、これ。僕ね、僕らより年が二つ三つ上なんです、これね。確かね、大正13年。大正13年生まれぐらいやないかと思うんですけどね。しかしすごい。17年の9月か。17年の9月と言ったら、まだ予科練入ってたたかれている最中で、これだけ日々まあおそらく晩飯の後で書いたんやと思うんですよ。

七つボタンになったっていう報告やろうな。新服と書いてあるからな、ほれ。新しい服になったと書いてあるさかい。

七つボタンができて、そして土浦の予科練が満杯になったからっていうて、今度は三重に予科練が出来ましてね。そして(甲飛)10期生半分三重へ行けということで、それでまあどうして選抜したのか全然分からんですけどね。操縦・偵察が分かれてからでしたから、うん。わしも三重って言うたら、わしは兵庫県ですからね。ちょっとでも近いからあっちに行きたいなって思ったんですけどね。僕は向こうに連れていってもらわんと、土浦に残ったんですけどね。

32分隊の4班になっとるんやな。僕が8班やったんかな。32分隊の。

Q:そうですか。じゃあすぐ近くだったんですね。

そうですな。だけどその当時はね、谷君なんかあまり分隊が、同じ分隊でも班が離れているから、あまり気易く話をした記憶もないんですがね。しかしね、予科練を卒業して、北海道の千歳に飛練に行ったでしょ。そのときにあれと同じ分隊になって、それでだいぶしごかれて。そして18年の11月に飛練を卒業して、そして徳島に行ったわけですね。それで徳島へ延長教育で徳島へ行って、それで徳島であいつと同じ分隊になって。そしてそこのところで20日間ほどの訓練を終えて、松山へ転勤になって。それで松山であれと一緒になって、豹(ひょう)部隊(263海軍航空隊)で友達になったんですな。

これはグアム島で間違いない。あの時分はね、グアム島と書かずにみんなG島と書いたんですよ。G島と書いたらグアム島のことなんです、当時は。

Q:G島と書かなきゃいけなかったのはどうしてですか?

結局グアム島と書くのはじゃまくさいから、G島と書いたのかも分かりませんね、それは。秘密文書でも何でもないと思いますけどね。だから私も当時はもう、グアム島と書かずに、全部G島と書いたものですからね。

Q:皆さん結構、予科練のときとか飛練のときとか実施部隊にいるときとか、自宅に手紙を書いる方は多かったですか?

いやあ、私はねえ、あまり書かなんだように思いますよ。あまり書いた記憶はないんですけどね。しかし谷のこれ見てびっくりしましたわ。これだけ手紙を家族に送った人間っていうのは、ほんとまれじゃないですかな。

Q:みなさんそこまでは書いてなかったですか?

おそらく、ほとんどこれだけ書いたやつっていうのはおらんでしょうなあ。それはすごいあれですなあ。まあその、谷がどういう気持ちで書いたものか、それはもう定かではないですけれども、しかし。まあそれはお母さんはよく言ってました。「のんちゃん、のんちゃん」って言うんですな。

Q:お母さんが。

のんちゃんがなっていうて。死んでいてものんちゃんって言ってましたけどね。「のんちゃんはな、ええ子でなあ、優しい子やった」っていうてよく話を聞きました。

僕は谷君と一緒の編隊で松山から千葉県のね、香取という基地がありましてね。その基地は大きな基地だったんですよ。そこのところに一応行って、そこで燃料補給して整備して、そして硫黄島経由でね、サイパンへ行ったんですけどね。それでまあ、香取の基地を離陸して。あのときに14~15機、編隊組んで行ったんでしょうかな。その時の機数ははっきり覚えていないですけどね。それでそんなのを、太平洋の上を飛ぶというようなことは今までなかったでしょう。もうみんな瀬戸内海の上ばかりですわな。そうしたら向こう行ったら下、海でしょう。これはえらいことやって。島がずっとあれがあるからいいけれども、小笠原を過ぎたらもう島が全然ないわけですわな。小笠原過ぎるのに1時間半ぐらい飛んだんじゃないでしょうかね。それで硫黄島へ行って。それで硫黄島へ着陸して燃料補給するんですけど。そのときに着陸のときに谷君、ちょっと失敗しよって。それで飛行機がちょっと悪くなってね。それで今度グアムまで行くのに、とにかくサイパンまで行けということで出たんだけど、そのときは編隊、谷君来なかったんですよ。そして14~15機になったんでしょうかな。硫黄島と言っても千鳥飛行場だったかな。えらい硫黄のにおいの山が、煙が出とる。その上を飛び越えて、それで着陸するんですけどね。うん。それでまあサイパンへ向かって出て、そして途中で自分のエンジンが不良になって引き返した者やとか、海に落ちたやつだとか、そんなのがおりましてね。それでサイパンの手前にパガン(北マリアナ諸島)という島がありましてね。そのごっつい雨が、天候が悪くて、それでサイパンまで行かれんというので、パガンという島に不時着したんですよ。

そのときに4機パガンで不時着しましてね。そしてそのとき1番機はヨシノっていう先輩で、それで私とそれからタカギというのとアオキというのと、4人でその島に着陸したんだけど。1番機が着陸したら私も着陸した。あと2機着陸せないかんのにおらんのですね。それでおかしいな、何で来ないかなって。島民がダーッと走ってきて、あそこに同じところに飛行機が2機落ちたって言うんですね。それでえらいこっちゃと。それでまあ1人は遺体が上がって、それはアオキというやつの遺体が上がって。アオキっていうのは東京の男なので、それでタカギっていうのは島根県の男なんだよね。それでその、タカギの遺体を探せと言ったらね、島民がとにかくあの辺は敵の潜水艦がおるから、危なくて行かれんと言って、タカギというやつの遺体は上がらずに。それでまあアオキだけの遺体でサイパンへ行って、それでサイパンからグアムへ行って。グアムが263空の豹部隊の基地でしたからね。そこでやっと落ち着いた。そして谷君らは1週間ほど後でやってきて。そしてグアムで谷君といよいよ一緒になったわけです。それで谷君と写している写真がね、グアムの写真なんですね、あれ。そうなんですよ。それをね、僕は持っていなかったんだけれども、向こうに行ったときに戦後ですよ。お母さんに会いに行ったときに、お母さんが、「笠井さん、これ」のんちゃん、のんちゃんって名前がね。「のんちゃんと笠井さんの写真があるよ」ってそれを見せてくれて。あれがグアムの唯一の写真なんですよ。

Q:まだ激しい戦いが始まる前。

前。それが19年の3月、3月ですな。その他にいろいろ敵の機動部隊がサイパンに来て、そしてサイパンで虎(261海軍航空隊)とか豹(263海軍航空隊)とか戦闘機隊が十何機やられて。そしてもう1人残ったんですね。そしてそれの後に私たちが結局補充で行ったわけですけどね。それで、グアムに行って、それで毎日毎日訓練やって、それで19年の3月31日にパラオに敵の機動部隊が空襲に来よって。これは本に出ていますけどね。
3月の31日のペリリューの空戦で、また豹部隊の連中がたくさんやられて、十何機やられて、そしていよいよ残るのは甲の10期生だけになったんですね。とにかくあれなんですよ。10期生は、おまえらは技量が未熟やから、そんな空中戦なんかできる状態と違うと言って、空戦には参加させてもらえなかったんです。それで助かったんです。あんなところへね、我々が空戦に行っとったらね、皆片っ端から皆落とされてます。それでいよいよ10期生の連中が中心になって、豹部隊を、編隊を組んだわけなんです。だからもう古い連中は、サイパンのいちばん最初の攻撃と、ペリリューの、パラオのペリリューでやられたあれで、古い連中は八分(8割)ぐらい戦死しましたね。

その時分はまだね、そのときの機動部隊も来いひんしね。そんな毎日戦争、空戦するっていう状態でもないし、たまにB24コンソリーがね、偵察にね、たまに来よったんです。そのぐらいだった。その邀(よう)撃(待ち伏せ攻撃)に上がるのが私たちの初陣のあれでしたね。私の初陣が19年の3月の24日でしたかな。B24のコンソリデーデットという双発の爆撃機がおりましたわね。そいつの攻撃に行ったのが、私の敵に対する弾を撃った初めてなんです。だけどとにかく初めての空戦ですからね。そんな敵のあんた、B24がどれだけ大きいか。我々は空中戦と言ったらグラマン、大体グラマン、単発のグラマンあたりが目標ですからね。それの訓練しかないから、そんな大きな双発のやつを攻撃するなんて、全然どうやって攻撃していいか分からんわけですな。まあそんなのしながら、ぼちぼち戦争に慣れてきたということですね。

とにかく当時はね、南方と言ったらね、まあ日本でパラオかトラックかサイパンか、この三つしかないわけですよ。南方って言ったら。ほんなら、ヤシの木があってな、バナナが生えていてな、パイナップルが生えて、それでくろんぼがようけおるらしいって、そんな感じしかなかったわけですよ。そうしたら飛んでいったら、上から下を見たら、ヤシの木がぎょうさんある。ほんなら、土人なんてそんなの分かりはしませんがな。それで着陸したらやな、ヤシの木の間に飛行場があって、そこのところに着陸して。そうしたらあんた、土人が腰みのをして、みんな裸足や。へえ、あれが土人か。今土人って言ったら怒られるからね。あれが土人か。へえ。南方というとそうか。サイパン。これはおまえ、バナナなあ。どこに生えているのかなって。そんなことしか知らなんだですね。えらいところまで来たもんやなと思ってね。ほんまにね、もう珍しさと不安とうん。ほんまにうれしかったですな。初めての南方。南方と言わんね、南洋。僕らの時はね。南洋ってこんなところやと思ってね。本当にうれしかったですよ。もう戦争のことを忘れてあんた、へえ、へえ、南洋ってこんなようけ土人が、黒いやつが腰みのしておるわ。そうしたらね。おいおい、向こうからおまえ来よるぞ。みんな腰みのやからね。あれ、おまえ、男か女か? って。どないやろうな。よく見てみ、あいつおっぱいが大きいで。やっぱり女の子やねって、そんな本当にもう、ことでしたね。

Q:少年のような。

そうなんですよ、少年よりも子どもやな。うれしかったなあ。そしてあんた、パラオ行ったら、パラオで低空飛行でピューッと飛んだ。下からフカが飛行機の影を追いかけてビューッと来るんだから。あれ何やと。あれフカらしいでっていうわけや。あれにはびっくりしましたな。

Q:上から見えるんですか?

見える見える。影を追い掛けてビューッとフカが大きなやつが泳ぎよるんやから。初めは何か分からへんがな。それで着陸して聞いたら、あれがフカやって。へえ、フカってあんなにごっついんかって。

Q:そんなに大きかったんですか?

ごっつかったですな。

Q:谷さんもそういうヤシの葉のことを書いたりしているっていうことは、やっぱりそういうのを家族に伝えたかったんですね。

そうでしょうな。それは谷だって僕らと同じで、はあ、南洋に来たか。あれがくろんぼか。あれがヤシか。それはわしは感激して見たと思いますよ。それはしばし戦争を忘れてあんた、そういうあんた、南洋のね、景色だけれども、珍しいなと思ったですもの。

Q:つかの間の。

つかの間もつかの間も。ほんならね、行って2日目か3日目ぐらいからまずやっぱり上空哨戒から始まるわけですわな。4機、または8機。大体4機で編隊組んで上空哨戒ずっとグアムの島のぐるっと回って、上空哨戒。大体2時間半ぐらい上空哨戒するわけですよ。そして上空哨戒が済んだら、そんなら次の組が来る。それと交代するわけです。それで上空哨戒が済んだやつは、そこで編隊の訓練をするわけです。大体4時間ぐらい飛ぶわけです。1日に。いっぺん上空哨戒に上がったら4時間ぐらい飛ぶわけです。2時間半ぐらい上空哨戒しておいて、それであとは編隊訓練をしたり、空中戦訓練したり、いろんな訓練をするわけですよね。それはもう、そうしたらね、みんな搭乗員の集まる部屋っていうか、天幕があるわけですな。そんならそこに行って、それでみんな一服する。そのときにそんなお茶ぐらいはあったでしょうけどね。そこで昼飯を食うし、うん。

Q:初めて行く外地というか戦地、グアムだったと思うんですけど、そのとき笠井さんも含めて、笠井さんですけど、初めて外地に行くときどんな気持ちでみなさん出て行ったんですか?

それはね、よし、これからゼロ戦に乗って、今はゼロ戦って言うけど、その時分はゼロ戦とは言いませんわな。

Q:そうなんですか?

れいせん(零戦)。この零戦でグラ公をやったるぞっていう、みんなそんな気持ちだと思いますよ。だけど、サイパンに行くにしても、グアムに行くにしても、あの太平洋の何もないところを上を飛んでいく、それが不安やったですな。それがいちばん不安ですわな。その時分はまだ敵の機動部隊が来るとか、敵の空襲があるとか、そういう状態ではなかったから。みんなただ編隊を組んで行くだけで、もう不安がもう先だって、うん。それはもうその不安で必死でしたわな、それは。もうそれしかなかったですわね。それで向こうに行ったら、よし、ここまで来たらいっぺんこれでグラ公をやったるぞと。もうそれ一心。とにかくその時分はまだね、Bの29はなかったから、24やとかPB2Yとかあんな飛行艇とか、そんなのの空襲はありましたけどですな。せやけどそんなのに出会うと思わへんからね。わしらの訓練っていうのは、あくまでも戦闘機対戦闘機の空戦しか訓練をせなんだですからね。だから最初にそんなB24のごついやつにね、4発のそんなごついのに出会ったり、それからPB2Yみたいな飛行艇のごっついやつに会うということは思いもせなんだですもんね。だからそんな戦闘訓練なんか全然教えてくれもしなければ、やりもしませんわな。

Q:そういう訓練は受けてなかった。

全然受けてない。ただ、まあとにかく戦闘機同士の空戦。1対1の空戦とか、1対2の空戦とか、2対2の空戦とか、2対3とか1対4とか、そういう訓練しか訓練のあれがないわけですよ。そんな大型機と空戦するっていうあれがないからね。

Q:最初に見たときは?

びっくりしたですな。ほんならね、この前あれ、去年のゼロ戦会のときやったかな。ゼロ戦のOPLの照準器を持ってきた人が確かおったと思いますよ。これは座席のここにあるだけだからね。それは何かって言ったら、十文字が入っていて、それで飛行機の絵がちょっと描いてあるだけやからね。それをあんた、照準にして攻撃せいって言うんやから、なかなかそう簡単にはあんた、新米ではできませんよ。

Q:なかなか難しいもんですか?

難しい。それは難しいです。そしてね、空中戦するとね、敵を追い掛ける、敵の軸線と自分の軸線が合わんことには射撃しても当たらんわけでしょ。軸線が外れていたらね。軸線が外れていたら弾が当たらんわけです。ところがグラマンの13ミリなんかは、少々軸線が外れていても数がダダダダっと来るからね、当たるんです。それは20ミリなんかだったら、それはもう当たればですね、威力は大きいですからね。3発か4発ぐらいでグラマンだったら落とせますよ。だけど、まあ20ミリ2門と、僕らの最初のは7.7ミリ、7.7ミリみたいなものは、そんなもの支那事変(日中戦争)のときの中国の飛行機と空戦やって、それは7.7ミリだったら当たったら落とすことができたけど、グラマンなんか全然そんなもの、痛くもかゆくもないです。7.7ミリではね。

Q:やっぱりF6Fは強かったですか?

強かったですな。それは強かったですよ。それは僕らもF4Fにもたまに会ったことがありますけどね、フィリピンで。F4Fはまだね、空戦しやすい。ところがF6Fになったらね、なかなか強いですからね。もうP51ムスタングなんていったら、全然追いつきもしません、スピードが速いから。

Q:F6Fは実際に戦ってみて何がいちばん脅威だったですか?

そうですね、まあやっぱり13ミリがいちばん脅威でしたね、13ミリが。それでスピードにしてもね、零戦ですとね、全然零戦では太刀打ちできませんわな。スピードも違うでしょ。それからもう空戦性能がね。そういう1機対1機のこういう空中戦なら零戦は強いんですよ。ところが10機も15機も集まってワーッとやってきたときには、零戦なんかは弱いんですね。それはもう、まず敵は数が多いでしょう。数が多いから。こっち側から1機おるときは、向こうは4機ぐらいおるんやから。そんなのに太刀打ちはできませんわね。しかし、紫電改ですとゼロ戦と違って、そこで空戦ができるわけですよ。スピードにしても20ミリ4丁持っているし。空戦性能にしたって、グラマンとは負けませんからね。だからわしは紫電改に乗ったときは、ああ、これでグラマンに勝てると思ったんです。もうフィリピンで零戦に乗ってやっているときは、それはもうグラ公にはとてもじゃないが太刀打ちできんぞと思ったですもんな。

あれは三重県(岐阜県・谷暢夫さんが生まれた地)かどこかにね、谷君の立派な碑があるんですよね。立派な碑ですよ。三重県やったと思うんですがね。

その時はね、わしは谷なんか知らんかった。それで後から見たら、聞いたら、あんた、関大尉やとか谷やとかな、みんなが。ありゃ、こいつらみんな行ったんやなって。それで初めて知ったんですな。あいつらは25日に行っとるから。僕らは27日にマバラカットに帰ったから。それで27日に帰って、その晩に、「おまえたちは明日マニラに行って、マニラの特攻の直掩(えん)隊で行け」っていう命令が来て。「ええ、また? ようよう帰ってきたのにまた特攻か」と言ってね。まあまあがっかりしたかどうか、えらいこっちゃなと思ったかよく記憶がないですけどね。

忠勇隊っていう特攻隊がありましてね。この忠勇隊っていうのが彗星、艦爆隊のね、部隊なんですよね。その時の1番機は山田大尉って言って、菅野大尉(201空にいた4人の飛行隊長のうちのひとり)よりも1期先輩の69期の山田っていう人が1番機で行って。その山田さんの弟さんとも戦後会って話をしたことがありますけどね。それでそのときに特攻の直掩(えん)に行って。そのときはね、敵に1人もやられなかったんですな。それで特攻で突っ込んで絶えたりしたのははっきり見てますけどね。それでセブに帰って、それでセブに帰ったら、中島中佐。中島正という人がおりましてね。それであの人もまだ少佐やったと思うがな。「おまえらの飛行機はここで皆預かるから、おまえたちは何でもかまへんから、何でもかまへん、飛行機に乗って帰れ」っていうことで、飛行機皆取られてしまった、特攻用に。

Q:谷さんが特攻で突っ込んだと聞いたときはどんなお気持ちでした?

やったなあと。その時分はね、もう死ぬということについてそんなに感覚が鈍っていたんですかな。おお、そうか、谷も行ったかって。もう一人10期だれや。谷と一緒にいったやつ。

Q:中野さんですか?

中野。中野盤雄。おお、だから中野盤雄はね、あれは265空って言ってね、265の・・・あれは・・・

Q:虎ですか?

虎ちゃう。狼(おおかみ)部隊。狼の戦闘機。狼戦闘機やったんですよ。あの時は虎と豹と狼と、正規の戦闘機隊は3飛行隊で。それで後から341やとか、それから343とか、できましたけどね。そのときはもう265。狼の中野が行って。それで谷も豹から行って。

Q:谷さんや中野さんが突っ込んだっていうことを知ったわけですね。そんなに悲壮感はなかったんですか?

なかったですなあ。それでまあ、レイテ湾で直掩して行って、特攻隊が敵の船にバーッと燃えた。やった。そのときでもそんなにね、悲壮感っていうんですかな。そういうものはそんなになかったように思いますよ。どうせ自分たちもあれと同じように行くんだと。いずれ行くんだという気がありましたからね。だからまあそんなに、死に対する悲壮感という、恐怖心というのか、そういうものはわしは全然なかったような気がしますね。

Q:谷さんていうのはどんな搭乗員だったんですか?

あれは大人しい搭乗員やったからね。だからまあ教員でも一緒にしとったら、ああ、あいつはよく殴るやっちゃなとか、怖い教員やったとか、いうことは分かりますけど、そういう経験がないし。ただ263空で一緒に訓練しとったということで、まあ一緒に編隊を組んで訓練したという記憶もあまりないしですね。そんなに大人しい男だったからね。

Q:谷さんは長男で。

谷はどない思うとったんやろうな。せやけどね、わしね、谷の偉いのはね、あれあんた、敷島隊に指名されて、そして特攻に2~3回出撃しているんですよね、あれ。そのね、精神力っていうのが偉いなって思ってね。うん。敵を見たら死なないかんのやと。それは行ったけど、敵が見つからないで帰ってきた。で、今度行った。また死にに行った。それでも敵は見つからんで帰ってきた。ね。そのね、何て言ったらいいのか。その精神力はわしはすごい精神力やと思いますよ。まあそれはもう今のようにですね、そんなんだったらやめやと言うわけにいかんから。うん。そんなことできへんけれども。しかし、それで2へん、3べん特攻に出て、それで最後に体当たりで戦死したと。僕はその精神力がすごい精神力だと思いますわな。まあ当時と現代とのそれはもう、教育も違えば、すべてが違う時代やから、一概には言われんですけれども、しかしわしはもう、あの2回、3回出撃して、そして帰ってきて、最後に行ったというわしはその精神力、すごい精神力だと思いますな。それはあんた、嫌や言われへんのやから。せやけどね、今の子やったらね、わしは嫌やからね、そんなところで死ぬより自殺したるわって自殺して死ぬやつがおるかもしれません、今の子やったら。あんな小学校の子や中学の子が、人にいじめられたから自殺するって、そんな時代でしょ。昔はね、そういうあれはなかったと思いますな。

Q:確かにその精神力はすごい。

それはなかなか大変やと思いますよ。

Q:やっぱりその谷さんが突っ込んだって聞いたときに、それをいちばん感じましたか、ああ3回も行ったんだなって。

いやいや、そのときは知りませんがな。全然知らなかったです、それは。後で知ったんですけどね。しかしね、わしね、はああ、谷と中野が、特攻で行きよったんやなと思って、偉いやっちゃなと。そのときに関さん、指揮官のね。関さんね。あの人に対する感覚っていうのはあまりなかった。谷と中野は同期やから余計ですけども、偉いやっちゃな。よう行きよったなって本当に感激っていうのかね。思ったですね。だけどいずれ俺も行かないかんのやと。いつかは分からんけど、いずれ行かないかんと。そんなもの行ったらいいじゃないかと。こういう感じでしたね。

Q:F6Fと対戦されて笠井さんは撃墜されたことはあるんですか?

私はね、確実撃墜はないんですよ。不確実はある。それはね、20年の4月の12日。鹿屋から紫電改で沖縄に攻撃に行ったんです。そうしたらね、当時ね、鹿屋を離陸した。そしたら向こうはもう沖縄で、すぐに日本の飛行機が飛んできよることをつかみよるから、電探で。それで邀撃に上がりよる。いつもぶつかるのがね、ある喜界島の上空でいつもぶつかるんです。あそこでいつも空戦になる。そしてそこで空戦した。それで4番機にタムラが付いとった。そしてグラマンを追い掛けて、それでダダッと撃った。そうしたら煙がビューッと吐いた。よっしゃ、やった。もうそのときに確認するとかそんなもう余裕がないわけ。それで次のグラマンをまたとっ捕まえて、そいつをやった。そんならこいつも煙を吐いた。よっしゃ。2機やったと思って。そして鹿屋に向かって帰った。
そしてあんた、高度を300かね。500メートルぐらいしか高度がないわけですよ。燃料は少ないわ、機銃は、弾はもうないし、これはえらいこっちゃと思って。後ろを見たらグラマンが3機か4機追い掛けてきよるわけ。これはえらいこっちゃ。これ来たらあかんなと。あかなんだら体当たりでもせなしゃあないなと思って。そうしたらちょうど前に紫電が上空哨戒でおったわけ。それを見てグラマンは帰りよったわけ。それでわし、ようようの体で鹿屋に着陸した。それで指揮所に行って、それでタムラと一緒に。

「笠井上飛曹帰りました。2機撃墜」って報告したわけ。そしたら横に、「こら笠井、おまえ本当に落としたんやな」って。「はい、もう煙を吐きました。」「おまえは海に落としたのを確認したんやな。」「いや、してません。」「もう一機は島に落ちたのを確認したんやろうな。」「してません。」「それは撃墜と違う。それは不確実撃墜だ」って言って、それで言ったのがわしの1番機の杉田。それでその後で、「貴様、あのときに俺に編隊離れて」、それでこっぴどく怒られて。それでそのときの2機が結局不確実撃墜のグラマンF6F。こういう記録になっとる。

Q:紫電改だとまだ戦えたんですか。

そうなんですよ。それで阿蘇山の上でP51(戦闘機)を捕まえて、それで追い掛けたけどビューッと高速で逃げるから、とうとう弾を撃ったけど全然当たらへんし。これは逃がしましたけどね。P51に会ったのはそのときに2回だけですわ。

Q:笠井さんがゼロ戦で単独撃墜をしたのはどういう?

あのときはね、フィリピンのレガスピーという。モンダという人が戦死したときに上がって、そしてそこで空戦をやって、それで1機落としたのがこれが撃墜の確実の初めてなんです。

Q:それはどんな状況、どんな空戦だったのかを詳しく教えていただけますか。

その時の空戦の状態はあまり詳しく覚えていないですね。もうね、1番機が離陸した。そして2番機が離陸した。わしは3番機。ほんなら2番機が離陸して50メートルぐらいでグラマンにやられて、ダーッと落とされた。そしてわしは1番機。ヤシの木スレスレでダーッと逃げるところまで逃げた。ほんなら1番機がバーッと。それで引き返して、そしてレガスピーの飛行場まで帰ってきた。そのときにまだグラマンがおったわけですよ。そしてそのときに空戦になって、それで2番機は死んだ。それで3番機が僕。4番機がどこに行ったか分からん。そんなら1番機と3番機、私と2人で空戦やったわけです。そしてさっき言った、空戦をやっておって、どうやって離れたかはわしもよう覚えがないんですけど。その島のレガスピーの近所にマヨン山って噴火山がありましてね。その噴火山の陰で逃げてやろうと思っていたんだけど、1番機は空戦やっているから、そこのところに行って空戦やって。それで1機落として。それで1番機と離れてしまって、それで1番機は空戦やっておって、だんだん高度が下がって。それでヤシの木に引っ掛けて、それで墜落して、それで戦死したんです。それで僕は、マヨン山という噴火山の山の陰に逃げて、それでまあ助かったんですけどね。そのときが初めての撃墜のときなんですね。

Q:危ない状況だったんですか?

危ない危ない。まあそのときに、セブ島から、セブ島に日本の戦闘機隊が何十機と集まっていて、それで理由は分からないけど、菅野大尉以下14~15機かな。レガスピーに行けって言って、レガスピーに行って。それで明くる日にセブの飛行場が敵の空襲に遭って、それで40機も50機もおる零戦がほとんどやられてしまって。それで壊滅して、それで私たちが菅野大尉以下、15~16機あったですかな。あのときにレガスピーで助かった。そのときの戦闘調書。そのレガスピーの戦闘調書はないけれども、わしはヤップ島のね、B24の攻撃の戦闘詳報1週間分、ちゃんとありますよ。1番機菅野。2番機誰それ、3番機誰それ、全部。それで何機落とした、撃墜何機。そのときは個人撃墜はなかったんです。もう個人撃墜なしで、このときに何機B24を落としたとか。そういう記録はみんな書いてある。あの戦闘詳報は貴重やね。

Q:笠井さんのその戦闘機搭乗員としての数年間はご自分の人生でどういう時間だったですか?

私の人生において最高の人生であったと思います。これはもう誰に言われても、こんな人生は二度と経験できません。それは生きているから言えるんであって、死んだやつもそう言っている人間がおるかも分かりませんよ。しかし私はそんなのは置いておいて、私はもうあの17年の予科練から、20年8月15日の終戦まで、殴られ殴られて訓練された。これはわしの生涯における最高の生涯であったと、私はこう思います。

Q:それはどうしてそう思うんですか?

良かったから。何も食うものがいいとか、そんなものと違いますよ。しかし、十分に訓練はできなくても、グラマンが訓練させてくれて。そして敵に落とされたこともありますけれども、しかし今生きて、そしてこういう話ができるのも、これは大変戦死した人には申し訳ないけれども、しかし私の人生としては最高の人生であったと思います。

出来事の背景出来事の背景

【ゼロ戦と太平洋戦争】

出来事の背景 写真海軍の零式艦上戦闘機、通称「ゼロ戦」。アニメ「風立ちぬ」にも描かれた三菱重工の堀越二郎技師が設計にあたり、海軍からの要求である「格闘性能」、「長大な航続距離」、「速さ」における卓越した性能を実現、開発当初は世界でも最優秀と言われた戦闘機でした。昭和15年9月、日中戦争で初めて実戦に投入され、「無敵」と評されたほどの戦いぶりでした。太平洋戦争初期、各地で米英軍を圧倒、日本軍の緒戦の勝利を支えたのです。しかし、ラバウルからソロモン諸島への長大な距離を往復する「消耗戦」で、機体とベテラン搭乗員を数多く失った上に、特に米軍の戦法が確立されるとゼロ戦の性能の優位は失われていきました。昭和19年になると、爆弾を積んだ特攻がはじまり、数多くの若者の命がゼロ戦とともに失われたのでした。
 ゼロ戦の設計に当たった人、日中戦争からゼロ戦に搭乗し、のちに「エース(撃墜王)」と称された人やソロモン上空の消耗戦で戦った人、整備に当たった人たちが、ゼロ戦とともに戦った日々やゼロ戦とともに命を失った人々について証言します。

証言者プロフィール証言者プロフィール

1926年
兵庫県多紀郡篠山町(現・篠山市)に生まれる
1942年
旧制鳳鳴中学校在学中、志願して甲種飛行予科練習生(第10期)に
1943年
第二六三海軍航空隊に配属
1944年
グアム島へ進出 7月、第二〇一海軍航空隊に配属されフィリピンへ 11月、第三四三海軍航空隊に転属
1945年
沖縄攻防戦、本土防空戦に参加
 
戦後はセメント会社に勤務

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