ホーム » 証言 » 梶原 春雄さん

証言

証言をご覧になる前にお読みください。

証言一覧へ戻る

タイトル 「終戦後、開拓に生きた日々」 番組名 [戦後史証言プロジェクト]日本人は何をめざしてきたのか 第3回 釧路湿原・鶴居村 開拓の村から国立公園へ 放送日 2013年7月20日
氏名 梶原 春雄さん(関東軍 戦地 朝鮮半島(チェジュ島)  収録年月日 2013年6月13日

チャプター

[1] チャプター1 出征  02:34
[2] チャプター2 済州島(チェジュ島)へ  03:13
[3] チャプター3 済州島で迎えた終戦  05:09
[4] チャプター4 引き揚げ  05:18
[5] チャプター5 戦争と苦労続きの青春  02:10
[6] チャプター6 開拓の道へ  04:27

提供写真

再生テキスト

Q:えー、どれ春雄さんですか?

これ。

Q:ほーっ。

これは、軍隊行ってから、満州で撮った写真だし。

Q:満州も行かれてるんですか?

だって、軍隊行ったもの。

Q:そうか、てっきり僕は、済州島(韓国・チェジュ島)にずっといたのかと思ってたんです。

いや満州、満州から済州島へ次の年移ったの。

Q:あー、そうですか。

入隊したとこは、牡丹江省の東寧っちゅうとこだもの。

(昭和)19年の1月にね、1月にね、1月の7日にうち出て、そしてまっすぐ、満州まで行っちゃったから。

Q:満州に。

うん。大阪集合で満州までまず。満州の390部隊っていう、重砲部隊に、配属されたから。

兵隊というのはほんとに、家畜とおんなじだもんね。ただ、もう上官の命令聞いて、「汽車に乗れ」って言えば乗る、「降りれ」って言えば降りて、それだけだもん。何も分かんねえ、もう全然、あれだから。客車になんか乗せてくれねえから。ほとんど貨物車の中に、兵隊を突っ込んでる。そして全然、窓も何も開けねえようになってるからね、移動、移動してるのなんか絶対見せられないようにね、大きな街へ行ったらもう、全部もう、それこそ、真っ暗にしちゃって、そこ通過するから。やっぱりスパイやなんかの関係でね。ほんとに、家畜とおんなじだ。だから大体兵隊に、満州に行くときだってもう、あれだ、大きな街のところ通るときはもう、全部閉めちゃうからね。窓閉めて。そうすっとほんとにここから、満州まで行くのに10、10何日かかったのか。着の身着のままで10何日、汽車に乗ったまんま、いやもう参ったほんとに、こてこてになったよ。

20年のね、6月に済州島行ったの。

Q:何で済州島のほうに、移動するということに?

うん、何ちゅうかな、やっぱりもう、沖縄がほれ、うまくなくなって、それで関東軍の兵隊をね、今度、今度戦うとこは済州島だっていうことで、関東軍の兵隊がさっき言ったようにどっと入れたわけだ。すごかったんだ。あの、ちいちゃい島が、兵隊さんでいっぱいになるくらい。だからもうあそこでね、もうおらも玉砕覚悟してたんだけども。

Q:そういう話が出るというか。

うん、もう、いや、もう絶対ここでもう死ななきゃいけねと思って、覚悟はしてた。だけど、8月に終戦になったから、なんとかかんとか生き延びて帰ってこれたようなもんだね。

Q:その済州島の2か月というのは、どんなことをして過ごすんですか?

どんなことっちゅうか、ただそれこそ、アメリカが攻めてくるんでねえか、攻めてくるんでねえかっていう、あれしかなかったな、何のことねえ。我々には何にも分からないんだ、普通の兵隊はね。幹部の、あらかじめ分かってるんだろうけども、俺らにはなん・・・ただ上の命令でただ、幕舎生活ね、うん、幕舎生活。テント張って、うん。済州島の島いっぱい兵隊さんだった。あっちにもこっちにも。それあんた海岸から、20キロくらい、ちょうど、済州島のど真ん中だな、ど真ん中にいたから。だから、海岸へ出れば、ちょいちょいあの艦砲射撃やなんかで、やられた人いたけどもね、俺はたまにしか出なかったから、なんかその、ほれ、食べ物やなんか、海岸まで、運びにいくだけだ、うん。

Q:何かこう役目というのはどんなことだった、いわゆる補給とか、そういった仕事というか、兵隊さんとしては。

仕事って別に、何にもないんだな。ただそれこそ、あそこへ駐屯して、いつでも戦えるような、態勢とってるだけだ、うん。進駐軍が攻めてきたらばいつでも戦えるっていうような、覚悟してるっちゅうだけだね、何にもないんだわ。

Q:それこそ、戦争が終わりますとなったときのことは覚えていますか?

いやー、覚えてる、それこそ。ちょうど、ちょうどお昼どきだな、無条件降伏したというあれがね、天皇陛下の声で、放送されたから。がっかりした、もうそのときはもう。がっかりしたってどうしようもこうしようもないんだもんな。日本は絶対勝つと思ってたやつが、ねえ、そんな、そんな放送されたんでは、もういやいや、どんななったんだべな、夢みたいなもんだな、言ってみりゃあな。

Q:夢。

そしてその後、あれだもんね。8月に、終戦のあれが命令下って、そして11月までいたからそこに。それが長かった。どうされるのか分からないんだもん、だってね、うん。アメリカへ連れていかれるとかさなんとかって、そういうデマが毎日飛ぶんだわ、だから。もう全然、どうなるもんだか何にも分からねえ。そして、10月の27日になってから初めて、もう「これから、呼ぶ者は全部海岸まで下がれ」って、夜、ずっと一晩かかって歩いたんだ。そしてそこで、3日、置かれてさ。そして、アメリカのあの、何て言うんだ、上陸用舟艇だかなんだかで、底の浅い船に、それで、佐世保まで。佐世保で解散さ、九州のあの佐世保で。

Q:そういうときは何ていうんですか、国が戦争をしていたわけで、そこに行くわけですけど、何かそういう国に対してとか、どんなことを思うもんですか?

どんなことを思うっていうかなあ、その辺はうまく言えねえな。どうなるのかなと思ってね、まあそれが不安だったのほんとに。帰されるまではもう。帰されるもんやら、殺されるもんやらね、分かんねえんだからさ、全然ねえ。それが長かったわ、その6か月が、うん。それで食い物はあまりなくなっちゃったしね。だからねやっぱり、何ちゅうかな、あそこ、日本人が経営してたあの何ていうの、缶詰工場あったのね、竹中缶詰工場って。そしてね、島じゅうもう自由にね、あのほれ、牛がね、それこそ、山で子を産んで育って、そしてそれがやっぱり、朝鮮人が管理してた形なんだ。それで夜ね、忍んでってさ、そして、牛殺して食ったもんだよ。かっぱらいだな、言ってみればね。だってしょうがねえんだもん、食い物があまりないんだから。結構やっぱりね、いろいろな人がいて、やつがいるからね。牛でも何でもちゃんと殺し方覚えてるやつもいるわけだ。だからみんなで行ってもう日暮れになってからね、山の中行ってさ、そして牛、あの、かけなわっちゅうのかい、かけなわっちゅうのかいあれで、ひっかけてそして、殺して、やったらボンとこうやって、そして、暗いうちに、真っ暗になってから、兵舎まで持ってきて食ったもんだ。幕舎の中で、料理して。あらかじめもうその、足は足、いいとこはいいとこで、たくさんいるからね、兵隊さんね。だからみんなでしょって、しょってくるわけだ。そして幕舎まで持ってきてから、食べたんだ。そこで、その当時はごちそうだったやっぱりそれが、うん。ほんとに、食料たってほんとうに、あのコーリャンのご飯というか、そんなようなものしかなかったからね、何にもないんだもん。負け、負けてしまったんだから。

Q:佐世保に着いたときは、どう思いました?

うーん、これで帰されるんだなとは思ったね。佐世保に3日いたのかな、あそこで全部身体検査受けてさ、そしてもう、体にもう持ってるものをみんなあそこで全部取られちゃって、裸だもんほんとに。軍服1着。シラミたかった軍服。

Q:何か大事にしてて、取られたくなかった物とかありました?

うん、まあ、大した物は兵隊っていうのは何も持ってねえからね。何ぼかね、あのやっぱり、兵隊さんでも、月に何ぼってあの、給料みたいのもらうからね。それがね、やっぱり痛ましかったわ、取られたから。・・・でもなんぼか隠して持ってきたよ。それね、しょう、なんていうのか雑のうっていうのか、ああいうここのひもの縫い目に縫い付けちゃうわけ。ぴっちり、分かんないでしょ。そうしてなんぼか持ってきた。

Q:じゃあ佐世保からは、昼に汽車に乗って。

当たり前の汽車に乗せられてんだけどもね、まあまあ、客車もなんもいっぱい。普通の人やら何やらでもう、全然乗り切れないくらいいっぱいだった、そのころはもう、やっぱり。負けて負けて、そのあれする人が結構乗り降りするから、女の人なんかトイレにも行けなかったんだ、汽車の中いっぱいで。

Q:トイレにも行けない。

だから男なんかみんな窓から小便するの、窓からこうやってシャーッとやるんだ。トイレも、汽車もトイレもいっぱいなんだもん、人で人で。

えらい経験したもんだ。

Q:でも佐世保から鶴居だったら、だいぶありますよね。

うん。それでも佐世保から、乗って大阪で一晩泊まったな。そして青森で、一晩泊まって、それで釧路まで来たんだな。それが11月の、何だかんだで20日ごろになったんでかったかな、あれな。それで帰って、帰ってきても不安だったよ。無事で帰ったって全然、食うものもないんだからね、何せね。お米とれるわけでねえ、それに、やっぱり、何ていうの、そのころ、畑はこの辺もつくってあったけどもさ、畑のものもね、やっぱり肥料も何もねえからとれねえのさ。それにもう、俺と弟がそのときは2人兵隊に行ってたからね。だから帰ってきたったって何も食料ねえさな。

Q:久しぶりに、この鶴居に戻ってきて、どう思いました?

ほんとね、やっぱり複雑な気持ちだな。どうだって言っても何して食っていくんだべなって。やっぱり食うことしか考えねえんだわ。兵隊にいるときからもう、それこそ、食い物少ないし、うちさ帰ったってもう、食い物ねえことははっきりしてるからね。だからそれが心配だったわ。だからもう、11月に帰ってきて、まあ12月ひと月はうちにいたけども、もう、年明けたらすぐ出稼ぎ。出稼ぎ、飯場生活。飯場行くとま、何ぼかほんとに、あれだ、何ぼかあれああいう、そういう、造材やなんかの親方っていうの、多少やっぱり、食い物も確保できたんだべな。だから、何ぼかは、米の混ざったご飯食べれたけどもね、だけども、ほんとに命つなぎだあれは。そして一冬明けて、春になったら今度は、それこそ山菜採って食ったり。何せ食い物のないのには参った。

青春なんか、まったくないよ。ほんとにねえ、俺、小学6年生、12歳で小学6年、卒業だから、そしてもう、何せ、食料もないし、金もねえし、その頃、牛なんか飼って、誰も飼った人いないからね。ここはバタン地だからね、もう、農家やってる人は、馬は2、3頭飼ってたけど、そんな程度でさ。だからもう、何にも収入ねえからもう、やっぱり山へ入って、造材の仕事とか、そいから炭焼きとか、そういうことしかできなかった。だから、俺も、12歳でもう山行って、のこびきで木切り。そうしてるうちに、次の次の年、ほれ、この戦争始まったでしょ。ねえ。4月7日に。昭和12年だな。ねえ。12年に戦争(日中戦争)始まって、20年まで戦争でしょ。もう今度は、青年学校っちゅうのあってさ、もう、学校行ったら、何のこと、何もやることねえ。戦争のことばっかりだ。

ほんと。1週間に2回ずつも、その、軍事教練って言うんだべね。それに、引っ張られてったわけだ。そして、その頃やっぱり、戦地行って来て帰って来た人が指導員になって、俺ら、その人らのよく、そのまんま聞いて、やったもんだ。山ん中、木銃たないて(持って)走って歩って、学校のグランドにわら人形作って、ヤーッ、ヤーッ、そういうまねをやったりさ、ほふく前進だとかね。そんなことばっかりやらされた。そして、兵隊にとられたんも、何もそれこそ、いい思いなんか1つもないよ。そして、軍隊行って、ビンタとられて帰って来た。

妻・澄子さん:でも、今まで長生きできたからよかったっしょ。これで、早く亡くなった人はね、かわいそうだね。

梶原:何も分かんないんだな。学校は小学6年満足に行かねえんだし。よく生きてきたもんだ。

やっぱり、帰って来たって食糧難でしょう。だから、造材の飯場行って、冬は暮らしたりさあ。引き揚げ者とか、戦災者、俺らみたいな復員軍人とか、そういう者ばっかりを対象に、ほれ、国有林を解放して、戦後、開拓者っていうの入れたわけだ。それにまあ該当して、まあ、入れたんだな。

なんせ、何もそれこそ、履く靴がねえんだよ、大体ねえ。帰って来たって。

妻:靴だってみんな配給制で。

んー。

Q:どうしたんですか? 靴は?

だからもう、20年の11月に帰って来て、年明けて21年だな。21年に、やっぱり、このずっと奥にね、造材の飯場に入って、飯場の飯を食ったんだけども、米ねえんだからねえ。米1人1合。あの重労働やって、米1合もらったってどうするってねえ、ほんとに、パチャパチャって食ったら、もうねえべさ。だからねえ、すごい飯食わされたもんだ。あのほら、ルタバカって、牛の餌になるあのカブあるしょ。あれを刻んでね、ご飯さ入れたら、食われたもんでねえって、うまくなくて、エエッてなるんだわ。それでも、食わないわけにいかねえし、稼がないわけにいかねえしなあ。

妻:それは知らない。

お前、知らねえべ?

妻:んー。

よく一冬暮らしたもんだ。春になったら、今度は、フキ、フキの飯だわな。フキ刻んでご飯に入れて。悪いとき生まれたもんだよな。そして、今度、戦後開拓者だよな。

Q:戦後開拓っていうのは、どんな場所に入るって聞かされて入ったんですか?

いやそこはもう、俺らここで生まれて、ここで育ってたから、分かった場所だけどもね。だけど、国有林だったからね、もう、すんごい大木から何からぎっちりあったから、こう、ずーっとこう、その湿原から結局何ちゅうんだ、野火やなんか入んないためにね、国で、ちゃんと風防林、ずっと、杉の木をずーっと風防林になってたわけだ。そしてその、湿原の際を、きれいにね、やっぱり、地元の青年団がなんか、奉仕のようにして、刈ってたんだ。刈ってた。火い上がんないように、きれいに刈ったもんだども、10間だから、10間たら、何メーターになるんだ? 10間幅で刈ってたんだ。そういうとこだっちゅうことは、覚えてあったんだ。そこへだから、まあ運良くねえ、10戸入れたんだ。

Q:開墾ていうのは、みんながいなくなっちゃうくらい大変なことなんですか?

だから、開墾できなかったのさ。だってもう、ぎっちり木、生えてたんだから、その木を全部、手1つで、掘り、根っこを掘り起こして、馬でプラウ(土起こしをする道具)で起こすんだけども、もう3年4年はもう、笹の根でね、畑なんちゅうもんじゃない、ゴチャゴチャなんだ。それをなんとかかんとか、砕いて砕いて砕いて、牧草畑にしたけどもね。だから、それができなかったのさ。

Q:3年も4年も、そういうんであれば、どうやって食べるんですか?

だから、だからねえ、やっぱり冬はもう、飯場生活。夏はとにかく、開墾びっちりさ。もう、雪解けで、クワ入れるようになったら、開墾。だから、まずいものしか食えなかったけどな。

出来事の背景

【済州島で終戦、その後開拓へ】

出来事の背景 写真昭和18年(1943年)梶原さんは20歳で徴兵され、満州に出征。関東軍の重砲部隊に配属されました。昭和20年6月、沖縄の戦況が厳しくなると、米軍の進攻に備えて朝鮮半島の南端・済州島(チェジュ島)に移動、そこで終戦を迎えました。
11月末、復員した梶原さんは故郷北海道の鶴居村に戻ります。しかし、食べるものは少なく、厳しい冬を迎え、年が明けるとすぐに出稼ぎに行かないと生きていけない状況でした。

こうした中、国が打ち出したのが、緊急開拓事業です。引き揚げ者などを未開の国有地などに入植させ、生活の基盤を築かせようとしたのです。最も多くの入植者が送り込まれたのが、北海道でした。入植地全体の半分近くを占めていました。この政策のもと、鶴居村には、108戸が入植しました。与えられた土地は、一戸当たり17ヘクタール。「たくましい意志と力があれば、やがて繁栄は約束される」。それが行政が掲げた言葉でした。昭和22年、梶原さんも村外から来た人々と一緒に釧路湿原に隣接した開拓地に入りました。入植にあたっては“1年に一定面積以上を開墾しなければ土地は没収する”という厳しい条件が付けられていました。そんな中でも梶原さんは、木の根株と格闘し、少しずつ畑地を広げていき、優良開拓者に選ばれました。

証言者プロフィール

1923年
北海道阿寒郡鶴居村の農家に生まれる
1943年
徴兵
1944年
中国東北部・満州 関東軍の重砲部隊に配属される
1945年
6月、済州島(韓国・チェジュ島)へ
 
8月、済州島で終戦を迎える
 
11月、故郷の鶴居村へ
1947年
戦後開拓に入る
1948年
澄子さんと結婚する

関連する地図

朝鮮半島(チェジュ島)

地図から検索

関連する証言

関連するニュース

ページトップ