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タイトル 「シベリア抑留された日系人」 番組名 [BS1スペシャル]長い旅路 ~日本兵になったアメリカ人~ 放送日 2013年8月15日、16日
氏名 ピーター・イワオ・サノさん(アメリカの日系人 戦地 アメリカ合衆国(カリフォルニア) シベリア(クラスノヤルスク) 満州(ハイラル) 日本(東京)  収録年月日 2013年6月21日、22日

チャプター

[1] チャプター1 日本へ  06:39
[2] チャプター2 なじめない日本の慣習  04:12
[3] チャプター3 疎外感  03:08
[4] チャプター4 日米開戦の記憶  02:53
[5] チャプター5 出征  04:19
[6] チャプター6 “敗戦”と“終戦”  03:15
[7] チャプター7 チチハルで知った終戦  05:35
[8] チャプター8 ブレインウォッシュ(洗脳)  06:30
[9] チャプター9 米軍に志願していた兄  09:01
[10] チャプター10 シベリア抑留  10:46
[11] チャプター11 舞鶴で  05:01
[12] チャプター12 シベリア帰りの日系人  05:08
[13] チャプター13 検閲  05:22
[14] チャプター14 帰米への道のり  05:23
[15] チャプター15 日系人への風当たり  06:22
[16] チャプター16 空襲の記憶  03:10
[17] チャプター17 日本庭園  03:03

提供写真

再生テキスト

Q:39年。(昭和)14年。

その年に行って、それから8月過ぎて、正月まで家おって、それから東京行って、それから最初の夏休み家帰って、その後の夏休みはほとんど帰らなかった。ちょっと行って2~3日来たらいいっていうので、先生の家に下宿してて、東京におって勉強すべきだって言うので、あんまり、日本の親とは住む機会もなかったですね。

Q:立正中学に行ってらっしゃったんですよね。

そうですよ。あれは、日蓮宗の学校ですよ。何か女学校もありましたよ。中学があって女学校があって幼稚園もあって、それから大学がありました。

Q:その立正中学に進学されたのは、誰かのそういう紹介があったんですか?

そう、日蓮宗でしょ。立正は日蓮宗の学校です。そして、うち鈴木の家は日蓮宗だったです。それから、交友関係だと思います。うちの坊さん、何て言うんですか、そのお経読みに来る人ね。

Q:お坊さん。

お盆のときに。それから、死んだら何かやる。その坊さんが日蓮宗で、やっぱり日蓮のその学校の校長や何かと連絡があったです。だから頼みやすかったですね。それで頼んで、入れてもらったです。それからあそこの、あれは関係ないけど、立正女学校の校長はうんとやり手で、何か、あとのほうになったら文部省の何か上の人になって大臣にはなれなかったけど、何かその上のほうのことやったりした人だったらしいです。

Q:立正中学っていうのは、アメリカから帰った二世の子どもさんって多いんですか?

ノー。普通はね、青山学院行くの皆。青山学院行った、私の一緒に生まれた所の友達で、青山さんていうけどその青山さんの、ゴウっていうのが私と同年だったです。彼は日本へ行ったです、私より2年先に。そして、そのMr. and Mrs. 青山は「もうどうせ日本行くなら早く行った方が良い、早く」って私をほとんどど引っ張って行ったですよ。そしてその人はやっぱり青山学院行ってたです。それから当然行く(はず)だった、青山学院行くのはほら、(養子先が)仏教の家でしょ。私を、クリスチャンから、離そうとしたと思うんだ。だから、ハシモト先生っていう所へ私下宿してたけど、私が東京行った、最初の年はよく週末か何か、暇があったら遊びに行ったです。そしたらハシモト先生まだ覚えてます。ハシモト先生が私に、「お前が行くことも寂しいから良いだろうけど、親があんまり賛成しないって思うから、できるだけ考えて遠慮した方がいい」って私に言ったです。それから私もあんまり連絡しなかったです。その青山学院の友達に。しかし、大勢行ってたです。

Q:そうですよね。

うちの学校では、立正には兄弟2人しかいなかったです。二世が

Q:兄弟、サノさんの兄弟ですか?

ノー。他の、ファミリーの兄弟が、1兄弟。

Q:2人

2人おったです。私より、上だったけどクラスが。

そして一つ私が覚えているのは、仏教で習ったのが「前世のことわり」っていう言葉がある。この世の中で何か、こういうふうになったのは、こういうふうになっているのはこの前の世の中でこういうことがあっただからこういうふうな。ただ、ただポツンてこういうふうには。ですからそれハシモト先生がよく私に言った、「俺とお前はこうやって一緒に、お前はそのアメリカからひょっと来て、それから私は全然知らなかった、ユーも私は知らなかった。しかし、アメリカから来て私の家へ入って来て、一緒に住んでるということは前世のことわり、何か前の世の中で我々は兄弟だったかも知れない、我々は親子だったかも知れない、だからこういうふうになっているんだ」っていうこと、それが何だか私の、おもしろい、良い考えだなと思ってね。

Q:14歳ですかね?日本に来たときは。14歳ですね

15。

Q:15歳。まだ慣れなくて、色んな親戚の家を行くといつも熱いお茶が出てくるんだけど、口に合わないし・・・

そう慣れてないから。うちでは飲んでました。ママたちがお茶を。ですから、お客さんたちにお茶を出したりしましたです。しかし、それからちょっと何か入れますけど、ですから日本語も、日本語学校行ってましたです。教会でやりましたから。しかし私が日本へ行ったときには、先生を頼んで私東京行くまでうちで家庭教師で日本語の勉強しましたけど、そのときには、もうすぐこれは全然何も知らないように、見て始めたほうがいいっていうの。だから、あの頃の巻の一に「サイタサイタサクラガサイタ」って書いてありますね。あの本から始めたです。

戦争終わってからアメリカでも、親も知ったです。私がシベリア行っちゃったって、捕えられて行ったっていうことを。そのときママ、何て言うのかね?日本語で。神様と誓いをしたです。私を無事に帰してくれたら、それまでママはもうお茶も飲まないって言って。パパは飲めなかったの、パパはあんまり心臓が何か、弱いようなことがあって、パパはお茶を飲まなかったけど、ママはお茶飲んだけど、そのお茶をやめたんです。

Q:佐野さんが帰ってくるまで。

帰る(まで)、それから一生やめちゃったらしい。私が帰って来ても、もうあんまり飲まなかったから。そういうことがあります。関係は・・・

Q:それ後から聞いた話ですね?

そうです、帰って来てから。

日本のお父さんが連れてってくれたです、東京へ。そのときに、彼の家に泊まって彼が、東京見物に宮城へ行ったです。それ、書いてあるですかね、本に。行って、ほら宮城前で頭を下げるでしょ、二重橋で。あれがもうやりにくくてね、何で何もないのに橋だけでね、ここで頭を下げなきゃ、私が、あれも本に書いてある。それからおまわりさんも立ってるしね、あのとき。しかし、

友達が私に言うです。「いややらなくちゃいけない、そんなおまわりさんもいるから。皆やるんだよ、ただ頭を下げればいい」って言うんだから、頭を下げたんだ。

Q:天皇陛下に対して、そういうおじぎしなきゃいけない。

そう、そう。

Q:忠誠心。

あれは私も慣れなかった。一生慣れられない、慣れなかった。

Q:立正中学では、何ですかその当時、例えば教育勅語みたいなもの、ああいうものを学校の校庭に・・・

やりました。そうです、ちゃんと出してきてね。皆頭下げて、そうです。あれはやりましたよ。

Q:やらなきゃいけないんですね。

そう。

Q:そのときもちょっと、抵抗感を感じながら。

そうね、自然じゃなかったですね。もう意識してたんだね、ああいうときには。ああしなくちゃいけないって思って。

これはまだ戦争前、戦争前っていったら真珠湾の前、いつか日本の飛行機がうんと飛んだです、空を。そしたら先生が許したんだ、我々皆窓の方に飛び込んで見たです。そのときまだ覚えてる。私も窓の所行ってこう見てたら、一人同級生が後ろこう向いて、私を見て、「どうだ俺たちの飛行機の方がすごいだろう」って。「あれ数を見ろ」か何か言って。何か私が日本人でないって言うように。俺の飛行機はほらお前のよりすごいだろっていうような言い方してるのが私は、うんとつくづく感じたね。そういうこと言われるの。それからどっか勤労奉仕でどっか芝浦かどっかのほうへ行ったら、色んなものがガソリンが積んであったですよ。それを見て、日本もこんなにガソリンが置いてあるから、敵なんかやっつけられるようなこと言うのね。それから私に、「お前よりも、物が優れてる、お前より多いから」っていうふうに言うのね。あれ、うんと感じたんですね、私は。それアメリカにいたときは反対。私もアメリカ人に取り扱われ、白人、友達、私もこれも書いてある。ちょうどノモンハンが始まったの。そしたら私良い友達が一人、白人の友達がおって、それからよく彼のうちに行って勉強したりしたんだね、同級生だったから。そしたらある夜勉強してるとき彼が、「おお、日本とロシアが今度は戦争してる。お前は今度はやっつけられるぞ」って言うのよ。支那事変(日中戦争)はもう起こってるんだけど、ノモンハンがあったから。ああいうことがうんと私、感じたんだね。良い友達で映画を一緒に見に行ったり一緒に勉強したりなんかするのに、何かになると私はアメリカ人だけどアメリカ人じゃない。俺は日本人だっていうふうに取り扱われて。 ですから日本行ったら今度は反対に、私は日本人だけどノー日本人じゃない、お前はアメリカ人。ああいうふうに取り扱われるのが私は、響いたんだね。それ普通かどうか知りませんけど。だから一生懸命日本人になろうとしたんですね。

ひとつは、真珠湾爆撃したときの新聞は取ってあった。それから香港が陥落したときの新聞、それからマ二ラが陥落した、シンガポール取ったとき、そのときの毎日取っとけないけどね。紙が大事だからその時代は。特に田舎ではあれを便所紙に使ったから、新聞を。だから新聞全部取っといて。それから、それだけやっぱりうちと関係なかったね、私がアメリカ帰ってくるときに、他のこともあったけどあれは、新聞はそう。私帰って、ミスターゲルナー、関東部の働くようになったら、彼に私こういう新聞があるって言ったら、「欲しいな譲れるか」って言って私あげたんだけどね。ああやって新聞をとってた、私。

Q:どうしてとってたんですか?

記念になると思って。日本の新聞が、真珠湾のあくる日号外が出たんです。私、ああいう物集めるの好きだった。大宮って知ってる?

富士宮だ、それ変わった。昔大宮って言ったんだね。あれが表口。そこへB29が落っこったんだ。それから私一週間したらあそこへ行って、縄張ってたんだけど、そこを潜ったら、どっかのおばさんが、「こらこら何してるのか!」って私ignore(無視)してね、行って、かけらを拾って来て、こんなのピースがあったんだけど、今あったらいい記念になるなと思ったけど。家に置きっぱなしで。

Q:新聞記事を集めてるときは、日本が勝ってると思ってうれしい気持ちだったんですか?

ただ大きなニュースだからって思ってね。まぁ勝ってると思ったもんね。あの頃は勝ってたから、真珠湾のあんな大勢沈めて、そして香港の陥落、シンガポールの陥落、マニラの。

その頃はもちろん私、私の兄貴がフィリピン来てるとは知らなかったけど、・・しかないアメリカの兵隊が、誰が兵隊行ってるか何にもそういうことは分かんないけど、アメリカが敵だから、アメリカ人友達、日本人でも白人でも皆行ってるとは思ってたんだけどね。あの時、もしも南方送られたらどうだろうなって、送られたらどう・・・、ただ私本に書いたんだけどよく覚えてないけど、私書いたのは、満州行ったときにはほっとしたって書いてあると思うね。

確かにそう書いてあると思うけど、南方じゃなくて満州だからいいなぁって、これは。

Q:それどういう意味ですか?

アメリカと鉄砲を撃ち合わなくてもいいから。ここなら。それ本当にそのとき考えたのか、後から考えたのか。覚えがないね、本当は。そう書いてあっても。

Q:やっぱりそういう気持ちってなかなか記憶に、思い出すの難しい・・・

誰も、ただそれに関係したような質問は、満州へ着いた日、ごめんなさい。

その夜一人ひとり、うちの班には16人か8人か、同じ班に入ったの。そして、あれは軍曹だったかね?一番、班長じゃなくて人事係みたいな人がおって、それが一人一人皆、面会したのよ。

そう、そしてそのときいろんな質問した時に、彼も分かってたんだね。私がアメリカで生まれたから。そして、それを注意したです。「お前アメリカ生まれたから、特に一生懸命日本の兵隊として訓練も、戦わなくちゃいけない」って言ったのを覚えてます。

ただ私団体生活がもう全然つらくて、自分の体がどんどんどんどん弱くなっていくのは感じたけどね。私学校行ってるときでも皆と、相撲か何か取るときよく勝ったですよ。背もクラスでも3番目か何かで背が大きかったし何でも。だから、アドバンテージがあったけど。軍隊入っても、最初私16貫(約60キロ)だったかね。わりあい体が丈夫で強かったけど、団体生活が私は起床ラッパなんか必要なかった。もう前から起きて待ってたんだ、起きてもいいまで。すぐ起きられないからね、待ってなければ。それから消灯ラッパでも皆、やっとそれ鳴ってからしばらくは寝られないし、もう団体生活本当につらかったです。だけど、大変でした。だからどんどんどんどん弱くなっていった。兵隊で。

まったく日本が勝ってると思ってたんですね。あんなに、もうあの頃はサイパンが落っこって、それからアッツ島が取られたり、ああやってどんどんどんどん負けてるときでも、ああいう所が取られていることを知ってても、日本では負けたとは新聞には出てないでしょ。そういう言葉使ってない。だからこっちも、日本がいったん占領して取ったのを取られても負けたって聞いてないから、負けたと思ってもいないのね。本当に満州おって、日本が負けたって、鉄砲取られたときはほら、武器返納って言ったです。本当は、英語ではsurrenderするっていうのね、何て言うのかね?日本語では・・・

Q:降参ですか?降参する

そう、surrender降参、そう。しかし武器は返納したら、ただ返したって言うでしょ。取られたんじゃないんだね。しかしあのとき本当に。

日本だけじゃないですよ。皆きっと負けるときには負けたって言わなくで終戦って言ったりね。敗戦のに。

Q:そうですよね。

いまだに、終戦記念日か何かって言うんじゃないですか?

Q:たまにね、抵抗してる人はやっぱり敗戦だって。

うん、そうだけどね。私あんな本を見てるけどまったく。イワタさんがあんなに本送ってくれた彼、私の本には「捕虜」って書いてあった。彼あれうんといやがったらしい。私に言ってた。「我々は捕虜じゃなかったんだ」って。戦争、もう終戦になって捕られていったんだから、「prisoner of warじゃない」って言うの彼は。「捕虜じゃない」って言ってね。「Prisoner after the warかなんかって言うべきだ」って言うの。我々が捕えられたのはもう、日本戦争終わってからだから。何かそんなことを私に言ったりしましたよ、彼。

Q:やっぱり日本の軍隊の感覚だとね、捕虜っていうと本当にいちばん・・・いちばんの恥。

恥だね、そうでしょ。まあそれは日本の考えね。

私も分かんないのは、天皇陛下がどうして、ラジオがよく聞こえなかったってもうみんな言うね。ガーガーガーガーして。我々もちろん全然、聞かなかったです、そんなこと。満州でもある所ではちゃんとみんな集合して、「大事な放送があるから皆聞け」って言って集めたりしたんだけど、我々そんなことなくて本当に私は2~3日たってからやっと、日本が負けたっていうことを知った。鉄砲をみんな持ってって、投げたです、あれ病院だったですね。ああいうことされても負けたって知らなかったです。感じなかった。それから私が書いてあるのも、チチハルに行って門の中入って戸を閉めたときに、そのときに捕虜になったから、負けたってことを知って。だからもうあれはもう3日、私だったら15日から、18日か19日か何かだったですね、それまで。

Q:門を閉めたっていうのは・・・

ロシアの兵隊が、我々が中入ったら門を閉めちゃって。それからその晩から鉄砲の音を聞いたりしたです。誰かが飛び出たか何か。それまでロシアの兵隊も見たです。チチハル、山から興安嶺から下りてきて汽車に乗ったです。そのとき汽車に乗ったときには、空いた汽車ですね。客車でも何でも、荷物の汽車で空いてるので。それから日本の女や子どもがいっぱい乗ってるです。

それ我々銃を持ってですね、そのときにね、誰かが、駅、次の駅かどっかで止まって我々に飛び降りて何か買おうとしたです。そのときに、これも本に書いてあります。日本の若い男らが、もう若いって言っても二十歳か過ぎてる、30ぐらいの男が、日本刀を挿してそれから鉄砲を持ってて、彼がちょっとまたよく聞こえなかった。よく聞こえませんでしたけど、何か天皇陛下のラジオ放送があったっていう話、それから日本が負けたか何かってことをふっと聞いたんだ。それから私が、また汽車が出かけるから、また飛び乗って、それから他の兵隊に「何か日本が負けたっていうようなこと言ってるじゃない」て(言ったら)その人が怒っちゃって、「そんなバカなことはない」って。それっきり聞いてない。

それから、降りてフラルギって小さい町へ降りてそこで、いろんなもの散らかってるんですね。軍隊の後、何か病院じゃないけど体の弱い人が病院から出てきて、健康のためいろんな百姓か何か、そういう仕事をしながら体を鍛えるような所だった。そこ行ったら物が散らかったりしてて、それからそこから、明くる日だったかね? 一晩泊って。それから明くる日、武器返納っていうか何かって行ってやって。そんなことがあってそれから、その晩でしたかね?歩き出すの。チチハルに行くっていうので歩いて。それから、夜だから暗くなって歩いて、これ全部書いてあります。人が殺されたのを見たしね、体。ですから、馬が引っ張る車が何か燃えたりしてるのを見るです。それから明くる日、朝、日が出てから、ロシアの兵隊がうんと通るんです。我々がこう、道からよけろって言って我々がこっち止まってたら。どんどん通ってくロシアの兵隊。そんなのみんな見てもまだ負けたって、感じないで、誰も言わないし感じないのね。それからやっとチチハルに着いて、チチハルって大きな街です。そこ行って、しばらくすると門開いて我々中入って門閉められて、そのときに感じた、負けたって。我々は捕虜だっていうことを。

もう、だから本当に日本が負けるとは考えなかったのね。ですから、どうしてあれだけ頭がもう、何て言うの、軍隊の宣伝で洗われ、洗うって言うの? 英語で言えば・・・

Q:Brainwash.

Yes, もう、brainwashされてて・・・

Q:洗脳ですね。

そう言うんですか。ブレインウォッシュ、いやブレインって脳。洗われた。軍隊が欲しいように、染めちゃって。

Q:今思い出すとそうなってたなぁって?

Yeah. どうして分かんなかったのかって。

ただ戦争中、何かのことでちょっと家帰ったときに、私の日本のお父さんは、早くに仕事辞めたです。おばあさん、彼の親ですね、母親が大阪へどうしても出てこないから。連れてっても、「大阪なんかいやだ」って言って家帰っちゃう田舎帰っちゃう。だから彼は40何歳のときにもう辞めちゃったの、仕事。時々、呼ばれて行ったりしてたけどね。 そのときに私がたまたま、何かでうちに帰ったときに、どっかの知らない人が来て話しているときに、「どうもお父さんがね、大阪行ってると、何だかどうも日本のこの戦争をよく言ってない」っていうようなことを、こたつに座りながら話してるのがふっと聞いたことが一回あるんですね。そのとき何とも思わなかったけどね。そういうことがあったの、思い出します。しかし本当に日本、我々はもう、ブレインウォッシュされてたんだね。日本は絶対負けないって。

アメリカで生まれてアメリカで育ったんだけど、普通の日本人、ある意味からみれば、もっと日本人だったっていうところがあったと思います。私が例えば、満州行く前にも兵隊が迎えに来たですね。将校が。その人は、世田谷に一週間おったけど、そのときにいろんな訓練してるの、我々も見てたです。そしたら、将校がね、「お前らの練習はあんなもんじゃないぞ。」満州行ったら、この練習は戦車に対しての戦いの仕方。何かその手りゅう弾を投げる練習みたいのやってたんです。そしたら事実、満州行ったら我々は箱を持って、それ砂で重くしてあったんだけど、いざっていう場合はそこに火薬っていうの? 爆発するものを入れて、この箱を持って敵の戦車へ飛び込むって言うのよ。私はそれが、当然やるべきことだっていうふうに考えたですね。私、他の兵隊に「え?そんなことやるか?」ってったら、今だったらそういうね。いざという場合がああいうことやるべきかなって思う。全然問わなかったですね。一回私、他の聞いたりしてると、やっぱり、独り者だから責任がない。命やるのはもう当然だって思う。日本の兵隊はそういうことやるのが当然だっていうふうに何回も聞いてるから。そして私も、全然反対しなかったね。だからそういう点で、まだ覚えてる。何の時間だったか、先生がまだ学校行ってるときにね、こんな話をしたんだ。「ドイツでは兵隊が、命令が出て朝、花に水をやるべきだって。何時から何時まで花(に水)をやるべきだ、そしたら雨がじゃんじゃん降り出しても、命令が出たから水をやるって。それがドイツの兵隊だ」って。絶対、絶対服従。 問わないんだ。雨が降ってるんだから、じゃあ行って聞いてみよう、水をやるべきかって。そうじゃないんだって。命令は水をやれって、時間が来たから水をやる。それをやると、「それが本当の、兵隊のやり方だ」って言うんだね。私もそういうふうに、学校でそれ、教練の時間じゃないですよね? 何か、修身か何かの時間だと思いました。しかし、それ飲み込んだんだね。

私の兄もアメリカの兵隊だった。反対側だったけど。

彼は大学行って、そして、大学卒業したら志願して、MIS(陸軍情報部)っていうのがあるんです。聞かれたかどうか知りませんけど、これは。

Q:インテリジェンス(情報部)の?

そうです。そのそれ、それかヨーロッパに送れるかので、自分で選んだわけじゃない。ただ、たまたま志願したらそこに入れられて、それからどっかこちらで少し学校行って、それからフィリピンに送られて。もう日本、フィリピンに着いた途端ぐらいだったの、日本降参したんです。

そっから沖縄通ってですから北海道行って、彼は地質学を勉強してたんです、兄貴は。だからそのことで、北海道で、何か日本の鉄道、2~3人だけで大きいグループじゃなくて2~3人ぐらいで、鉄道関係の仕事を北海道でして。だからもう帰ってもいいってときにはすぐ帰って来ちゃったです。そしてまた大学へ、また戻ってもう少し勉強したんだ。ちょっと余計な話だけどそのとき彼、それから、大学院行って勉強して、それから仕事を探しに行ったんだ。そしたら彼は、油会社で仕事したがったです。だからアメリカの油会社、油会社ってこう仕事を探して歩いてた。だから、どうしても受け取らないんです。だからテキサスの油会社行ったときにたまたま、自分のネブラスカ大学の同級生じゃなくて同じ学校の先輩が人事係だったです、その油会社で。そして兄を呼んで、俺もお前と同じようにネブラスカ大学行って、「俺はお前にはそういう時間を費やし、無駄にしてるの見るの黙っておられないから言うけど、絶対に油会社では仕事もらえない」って言うの。「何でおれは大学院まで行ったのにもらえないのか」って言ったら、いや日本人だからダメだって言われたんだ。それはもう戦後でしょ? だから40・・・戦争は45年終わって彼は大学、大学院や何か行ったのは、もう48年か何かでしょ。まだそんな時代だった。だから彼は、army core engineer っていうので、政府の方で、そういう仕事を見つけてそう言われたです。その人に、言われた。「俺は大学院に行っても仕事ないのか」っていったときに「じゃ何するのか」って言ったら、この「army core engineer行って探せばいい」って行ったらすぐあって、そしてオレゴン州って北の方、オレゴン州のdamって言うの、何て言うの?ダー、水を止める・・・

Q:ダム、湖ですね。ダム。

ダム、水を止める川に作る、水が止めるように、ですから、それをそういう造る仕事をして、彼うんとそれが好きだったです。

Q:でも戦争が終わっても、やっぱり日系人ていうのは難しい・・・

そう。

Q:日本人っていうのは、日系人っていう意味ですね?

そうです。

Q:お兄さんは帰米だったんですか?

ノー。全然日本、日本行ってない。ただ進駐軍で行ったっきり。

Q:でもそのMISに配属されたっていうことは、多分比較的日本語が上手だったんでしょうね?

まぁある程度いったけど、やっぱり学校行って勉強しなきゃならなかったです。

これ古いアルバムですね?

そう。これ日本行くときの

Q:さっきの船。写ってますか?

これは入ってませんね。これは入ってるね。

Q:これですね。サノさんですね。

そう、これ私と私の妹の。妹と、これが私の日本のお母さん。

Q:鈴木の家の。

そう。それから・・・、これはもう帰って来て、戦争から帰って来てから。これは行く前ですね。

これは帰って来てから。これは、山梨のときに働いてたときの私のボス。

Q:このときからもう軍政部ですか?

軍政部です。どうぞ。

Q:ちょっと前から見てもいいですか?

Q:これはサノさんどこですか?

これ、Westmorlandて、グラマースクールでこれ2年生かね、2年生か1年生のときの。

Q:日系人はそんなに多くないんですね。

そう。ここに一人いる。これも日本人だと思った。これもそう。これ日本人ね。これ。2年生か1年生か何かだよ。

Q:これは日本に来る前ですね?

そう。これは私が、8年生かね。

これが浅間丸で帰ったときの、船乗ってた他の人たち。

Q:ここには写ってないんですね。

私が写したんだね、これは。

Q:これがそうですね。

サノそうです、そう。

Q:このときはまだ髪も長くて・・・

そうです。ですからアメリカでは顔そらないでしょ? 子どもは。

日本では、床屋行けば顔もそる。だから私日本行ったときに、15歳でしょ。もうあったのよ、少し。

Q:ひげが。

日本人が「偉くなってひげ出してきてるから」そんなこと言われたらしい。言ったらしい。冗談にね。

これ私。私の兄。これが立正でこれが私。3番目。書いてないね。41年。戦争が始まる・・・。

Q:これサノさんですか?

そう。駅か何かで視聴行ったときだね。ジャージさんだから。最初のボスだったんだ。

シベリア行ったときです。シベリア行ったらちょっと落ち着いた。一週間か何かしたら皆履歴書を書いたんです。生まれた所。そのときにうちの班長かそういう人が、「おう鈴木、お前アメリカで生まれたって書かない方がいいと思う」って。「ただ日本に生まれて、日本で学校行ってそれから軍隊入ったってそう書いとけ」って言ったら、私そうか、何気なしに私そうしたです。2回か3回そういうことあったです。履歴書を書かなくちゃいけないの。何かformじゃなくて自分でただ書くだけ。生まれ、名前、年、生まれた年、それからそういうことを書くの。

アメリカ生まれっていうことが分かったらすぐどっか、炭鉱かどっかひどい仕事の所へ送られた。そして、そういう問題があったんです。そしておもしろいことに私がアメリカに来ようとして移動の手続きした最後にね、アメリカ人の名前何かあげたんだ、アメリカ軍の方が私にこの人の名前やったら、彼の所へ行ってこの人間はどういう人間かって聞くように、何人か私。そのときに、ですから全部終わったら呼び出されたんだ。許可をあげるから来いっていうのに。しかしいろんな質問したら、そのうちに彼が私の・・・、「おい、お前は一年早く帰還したようだ」って言うのよ。「いや私マラリアだったから病人の名前で送られた、帰って来られた」って言ったら、彼、「そうじゃない。何か他の問題、理由で帰って来たんじゃないのか」って。私質問が分からないって言ったんだ。事実マラリアで帰ってきたから。「どういう意味ですか?」って、彼がこう言いだった。「シベリアでお前はアメリカ生まれっていうことをソビエトで(が)探した、見出した。だからユーが呼び出されて、ユーはアメリカ生まれだから英語を知っているだろう。英語を知ってるんだから日本に帰って、お前は進駐軍に働け。そしてアメリカ人がいろんなことを話をしてソビエトの悪いことを言って、それをひっくり返してソビエトの方の政治が良くて、アメリカの方の政治がまずいっていうふうにひっくり返せって。そういう約束をして同意だった(か)らユーは今日本へ帰してあげる。もちろん、日本に帰ったって我々もちゃんと人がいるからユーの後をついて、約束を守ってるかどうか調べている。そういう契約でお前は早く帰って来たんじゃないのか」って。何でも合うからね、早く帰って来て、進駐軍で働いて。ですからそこはどうだか。アメリカの方でそう考えてたの。

Q:その話は誰に言われたんですか?

誰が?

Q:その今の話、誰に聞かれたんでした?

そのアメリカの二世の兵隊、私を調べた。いちばん最後にもう、私が名前をあげて、彼らにこういう人がアメリカの、アメリカ行きたい・・・、アメリカ生まれで籍あったけど兵隊行ったから、ダメになった。ですからシベリア行ったって、そういうことを全部彼(情報を)持ってたんだ。しかしただ持ってないのは私がそういう、契約をした。契約っていうの?ソビエト…

Q:取引。

イエス。そういう、交渉をして早く帰って来られたっていうふうに彼は言ったの。私、「絶対そんなじゃない。」そしたら彼がお前と同じように、テキサスから一人二世が来て、やっぱりシベリアに行って、ユーと同じようにアメリカに帰りたいって言ったけど、調べたところが彼は、こっちの方でお前は何か、ソビエトと交渉したんじゃないのかって。「絶対そんなことはない」って彼は言ったから。そしたら、何て言うの? そういう機械があるのよ。うそをついたら、こうやってやったらうそを言うと何か心臓(の鼓動)が早くなるから、明かりがつくから何かそういうのライディテクター(嘘発見器)って言うのよ、英語では。そのライディテクターやったら彼2回か3回やったけど、全然パスしなかったって。それでもう我々は取っとけない、それだけの理由では止められないから帰したけど、今テキサス帰ってるんだけどFBIに名前が載ってて、あの人はもうちゃんと見られてるんだって。「お前そんなことやりたくないんだろう」って。私「テストしてもいいよ」って言ったら、それで終わったんだ。

Q:今の取り調べっていうのは、シベリアから帰って来てすぐですか?

ノー。私がアメリカへ帰ってくるとき、だから私52年帰ってきたでしょ。

Q:そのときに、そのアメリカに帰ってくるときの取り調べ?

手続き、イエス。まだそのときパスポートも何も持ってない頃。

Q:まだアメリカの市民権戻ってなかったんですか?

ノー。アメリカの市民権はアメリカ帰って来てから取った。

Q:その軍政部とか、そういう所で仕事しているときは・・・

日本人だった。

Q:日本人として。

あれ、進駐軍ではね、進駐軍からの人で、ドルで払われて。そして、GSだったかね? 何か階級があったのよ。多分GS何番何番て、あるのよ。課長はGS15か何かって言って、あのときはああいう人はちゃんとした会社、住んだり独り者だったら第一ホテルかいい所泊まれて、それからっずーっとG2まで下がるのよ、15から。ずっと。これはもう兵隊だったらいちばん下っぱだ。そういう、GS確かにGSだと思った、の位を持ってる人。それからアメリカの、雇いね。その他に外人のがおったの。これは、円でペイされるの。それは日本、本当お金はちゃんと日本の戦争負けた金から来るんでしょうね。そういう、階級の人があったの、外人。外人っていたのね。それから、アメリカの籍持ってる人も、二世で兵隊行かなかった人か何か、そういう人。 それから日本人。いちばん下。この上の二つはPXの入ったりできるの。それからいちばん下が日本人。これは円でペイされて、東京のオフィスでは便所まで違うんだ。日本人の便所があって、白人の便所は入れないの。進駐軍の便所は入れなかった。そんな、差別があったの。

Q:サノさんはどこの?

日本人。

Q:日の丸が。日の丸で万歳ですね。

そう、これは兵隊出てくところ。黒くなってるのが私なの。全部見て行くと、誰もいない

Q:メガネを。

そう。ここでほらちゃんと、これやるときにこれは15パーセント縮めたっていうの書いてあるの。その程度あなたが考えてたか知らないから私。
これ私も入ってない、これ私と今井と、サイトウが死んだっていうのも、まだ兵隊のときに。

Q:これがさっきの武器を返納した・・・

そう、武器返納。

便所に行こうとしたんです。そしたら列のところから離れちゃいけないって言われて、だからあとのこととそのときのことを一緒にしてああいうふうに書いたですね。なんだ今までロシアの兵隊に、これやったらいけない、これやれあれやれって何でも言われたように今度はそのかわりに今度は進駐軍さんが、の許可がなければものできないのか、って。

Q:そういうふうに感じたんですね。女性は何て言うふうに注意したんですか?

私たち降りて来たら、今度兵隊はどこどこへ行けって言われたんですね。ですから私そっから離れて便所へ行こうとしたら、「いけない」って言われた。列に「並んでいるべきところへ立っておれ」って言われたんです。

Q:進駐軍さんのいうこと聞かなきゃいけない、進駐軍の命令だっていうことはあったんですか?

そう、我々が船から降りてくるときには日本人と進駐軍の人がそこに立ってたです。ただもうそこにおったんですね、進駐軍が。どういう規則になってたか、それは私知りませんけど、ああいうことを言われるのには、ただ進駐軍がここで舞鶴でこういうふうにやれこうやれああやれって、進駐軍が命令してたんじゃないんですか。

Q:サノさんにとっては支配者が変わったっていう。

そう。そして何でも自由がない日本に帰って来たら、これも全部終わったから捕虜でもない、何でも自由なはずが、今度は全て進駐軍に言われたふうにものをしなくちゃいけないのかって、ちょっと感じたですね。

Q:そのとき舞鶴の復員局とか、舞鶴のところにはアメリカ軍の二世の兵隊さんっていたんですか?

そうですね。それ気がつきました、そして、何人おったか、あるいは白人のアメリカの兵隊が何人おったか日本の2世が何人おったかそういうこと全然知りません、ただ二世もおったですね。

Q:そのときサノさんから見ると、普通の日本人の兵隊さんだったら、どうしてそんなアメリカ軍なのに、アメリカ軍の制服着た日本人なのかしらとか、不思議に思ったと思うんですけど、サノさんはやっぱり、自分と同じアメリカの日系人だっていうふうに理解されたんでしょうね。

まだ戦争中は日本の兵隊、2世の兵隊があるかないかも知らなかったですね。私の兄貴が日本の兵隊、アメリカの兵隊になったの、そんなこと全然知らなかった。そしてどういう、今はMISってのが分かっておったっていうのは知ってるけど、その時代はもちろん何も知らなかったです。ただ日系人でアメリカの兵隊だってことは気がついて、どういう兵隊かも何も知りませんでした。それをあとから聞いて分かりましたけど。

Q:終戦後はアメリカの市民権はどうなったんですか?

それ本にも書きましたけど、山梨県のうちの課長、ミスター・ジョージって人が、俺東京行くから一緒に連れてってあげる、そして籍の事情を調べてきたらいいって横浜の領事館に連れてってくれたです。そのとき私、もう一人進駐軍で働いてたオオスガさんて人がおったです。彼も誘って二人で行ったです。

Q:ジョージさんなんていったんですか?何かアドバイス受けて?

そうです、「お前の籍はどうなってるのか分からないから行って調べたらいい」って彼が話してくれたです。それからオオスガさんと私と二人で行ったです。そして、余計なことですけど、そこ行って待ってたら「入ってこい」って言われたからオオスガさんが先入ってった私が待ってた。そしたら彼が顔を真っ赤にして怒って出てきたです。「なんしたのか」ってったら、後で話したら今は入ってかなくちゃ行けないけど、「ばかなことを聞いてるぞ」って。それから入ってったらばかなことってのはね、色んなこと、「お前は日本の兵隊なったってことだ」って。「そうだ」って言って。日本の兵隊に呼ばれたときに何か反対したかって、したら「そんなことはできないからしなかった」って。「じゃあ中入ってから逃げようとしたか」って。「いや逃げようとしたら逃げたら殺されて、そんなことはできない」ってったらね。それからそのときに言われた。お前はもう籍が無いって、アメリカの籍。アメリカの法律では外国の兵隊になったらAutomatically、籍が無くなっちゃうから「お前はアメリカの籍が無い」って言われたです。

Q:さっきの領事館の応対してくれた役人はアメリカ人ですか?

アメリカ人です。白人です。

Q:やっぱりちょっとこう感情的なあれがありますね。日系人で日本の軍隊入ったってことに対して、ちょっと厳しい、ね。

そうね。それでオオスガさんは怒ったのよ、ばかな質問して。逃げようとしたら殺されちゃうって。少なくともろう屋に投げ込められるなんてね、反対したら。

Q:言われたときはサノさんはどう感じたんですか?

オオスガさんみたいに私は怒らなかったけどね。アメリカ人としてはそんな質問すると思いますね、アメリカ人は反対した人もいますから。例えばベトナムのときなんかもいよいよ大勢反対して。よく言えばそういういいところがあったんだね、アメリカでも。

Q:でもさっきの領事館の窓口の人、お前たちは自動的にアメリカの市民権なくなったって言われたわけですね。それは重大なことですよね?

そうです、だけどそう言われたときに私はこれで一生日本におるって気持ちになったですね。しかたがない、アメリカには帰れないと思ったですね。

Q:GHQ、進駐軍で仕事されてましたよね? それはシベリアから帰ってどれぐらいたってからですか?

GHQで働いて、そう。あれGHQったらgeneral headquarterです。しかし、私が帰ってきた48年、49年までだったかね? 各県にあったんです。軍政部って言ったんだ、日本語では。Military government teamって言って。軍政部で大体一番上には大佐がおったんだね、大佐か中佐が。それから各課があったんだ。色んな法律の課、それから私たち関係してたCIEっていってcivil information and education、CIEです。民間教育情報部? そしてそのうちの情報部に入ったの。

そうして我々関係は、新聞との関係。その頃、censorshipって日本語では何ですか? 英語で分かります?

例えば映画でもそう。こういう映画は作れないっていうような、こういう本は出せない。censor(検閲)するの。それから日本では、進駐軍はやった後censorするのがあったの。

検閲、そうらしいね。そういう中で、新聞が、関東の新聞が入ってくるの。それから日本の新聞はほら、4つ・・・。 ですからその小さい県の版あるけど、ページが一つ千葉県だったら千葉の小さい欄があるけど、そういう新聞がどんどん入って来て、それを・・・

Q:チェックして?

日本人が見て、これがちょっとおもしろい関係があるからそれを、簡単に翻訳して、それからアメリカ人が見て、これをもっと全部、関係あるらしいからもっと全部会社来てくれって。そういう、post censorship やってたの。

映画、新聞それからラジオ、その頃はTVなんかなかったからTVはやらなかったけどね。

Q:その検閲ですね。検閲する目的っていうのは、日本が軍事的な国から民主化するようにっていう、そういうことですよね?

そう。例えば、こういうことあった。変だけど忘れちゃったけどね、あのときに、アメリカの映画にもあったけど小説があったの。何か『South pacific(南太平洋)』か、何だか戦争中の小説があったんだ、アメリカで作ったの。それが日本の方でね、censorしちゃったの。出すなって言ったんだこれを。こんな本は悪いから。Too much sexか何かみたいだったのよ。そしたらアメリカ人は怒ってね。アメリカ人が出してるんだから。そうして、どうしてこれをやったって日本の、そういうのは日本人には合わないからって何かって言ってたけど、どうしてもそれを間違ってるって言って消さしたんだ。そしたら、日本の方では怖がって今度『Lady Chatterley’s lover(チャタレイ夫人の恋人)』ってフランス(イギリス)の小説が出たの。何か、庭師か何かが金持ちのフランスの女の人と関係か何かしてるの。

Q:チャタレイ夫人ですか。

そう、Lady Chatterley’s lover。それを、アメリカではダメだって言ったのを日本では一回、どうしてそんなの止めるのかって言ったからそれを出したの。そしたらアメリカで困っちゃったんだ。今度、あれどうなったのかね?だから消せって言ったと思う、日本には。

しかし私アメリカへ帰ろうとしたでしょ。そのときにまず、ビザをもらわなくちゃいけない。それからパスポートもらわなくちゃいけないから外務省へ行って私、日本のパスポートもらったです。それを持ってって、東京の領事館へ行ってビザをもらおうとしたわけです。手紙も持ってったです。サンノゼの大学で入れてくれるっていう、それビザを、学生の許可をもらおうとしたら、向こうのほうではアメリカ生まれってなってるでしょ、「お前は日本のパスポートなんかだめだ」って言うんです。「私はアメリカの籍無い」って言った。そしたら日本のパスポートでアメリカ行けないって言うんだよ。だから1枚の紙を作ってくれたです。私持ってます。それ、記念にとってあって。写真があって、いろいろどこで生まれて全部書いてあって、その紙を持って日本のパスポート使えないからその紙を持ってアメリカに帰ってきたです。

Q:何のためにサンノゼ大学に申請したんですか?

ママが、教育やらなくちゃいけない、兄弟みんなやったしね、私も学校行かなくちゃいけないってママが。

これがパスポートのかわりに。これです。Affidavit of identity身分証明書。日本のパスポートもとっとけばよかったけど。「使えない」って言われたから日本に捨てて来ちゃったと思います。

Q:これは何を証明するものなんですか?

パスポートと同じ、パスポートの代わりに。アメリカのパスポート無かったし、日本のパスポートも無い。

Q:アメリカの市民であることを証明する?

ノー、アメリカの市民ではなく。ほらこれ、パスポート、日本ではパスポートは正式なパスポートはもらえないからって書いてあるですね。

このときに東京で、これが誰々であるということを手をあげてやったんですよ。それやった日です。これ発行した日です。3月7日に。それからこれを持ってパスポートのかわりに来たの。

Q:今日本の国籍は持ってらっしゃるんですか?

ノー、そしてそのときにはですねよく他の人全然そんなしない人の方が多いらしいけど日本の政府では二重国籍は認めないです。だからあの、いつかね、どうやって知らせられたのか、日本の外務省からきたのか領事館からきたのか知りませんけど、アメリカの国籍をとったから日本の国籍を抜けって来たです。そして私正直に手続きして抜いたです。私知ってる人たちは皆ほっといて両方持っているんですよ。アメリカでは認めるんです。二重国籍を。

Q:サノさんも正直に放棄しなければ。

そう。そしたらあれももらえたよ。

Q:恩給?

捕虜いった人はもらえたんでしょ。私に来た手紙のなかに入ってる。

Q:シベリア補償金とか。

そう。あれ、アメリカの国籍をとった人はもらえないっていうふうになってるんです。

Q:戦争が終わってからサノさんと同じように1952年頃から日本に残ってた人たちがたくさんまた帰米しましたよね? そういう人たちに対して、アメリカの社会とか政府が警戒してたっていうところはなかったですか?

私は全然そんな経験はしてないですね。ただ、私のファミリーとして経験したのは、私のdaughter(娘)ですね。日本語でなんて言うのか・・・私の娘がまだ小学校2年か3年ごろだったかね。日本の鯨を捕るのが大きな問題になりましたよね。そしたら彼女が学校行ったら、同級生がね、責めるんですって。「お前は鯨を捕ってる」って。私が大きくなる頃と同じような、そういうことも経験したんですね。

それが反対のもっと後になってから、彼女がまだ小学校か、それともハイスクール入ってからかね、夏休みにノルウェーに行ったんです。そのときにノルウェーでは確かに鯨を捕ったね。自分はノルウェー行ったときは一人で行ったでしょ。どうやって探したか知らないけど、ノルウェー人の家庭に夏休み何週間か泊まったです。そこでその問題が出てきたのね。鯨の。そしたら反対側にうちのメアリーが鯨を捕ることをノルウェーの人と争ったってね、意見が、自分は鯨を捕ったらいけないって立場をとって争って。そんなメアリーが自分が子どものときには反対に日本人の顔をしてるから責められたのに、うちに泣いて帰っては来なかったけど、悲しんで帰ってきたことがあったです。

しかし私、友達が遠慮してるのかどうか知らないけど、日本の兵隊だったってことで私、責められた経験はないですね。ただ仕事してるときに外で働いてる男が一人私にこんなこと言ったです。「俺はお前たちみたいな人を殺したら勲章をもらった時代を知ってる」って言われたのね。それは彼は冗談半分に言ってたんだけどね。ただ、分かります? 兵隊として行って、日本人を殺すと手柄だったから、勲章をもらえたっていう時代を知ってるって、彼が言ったから。

Q:それはどういう人ですか?

ただの外、私はオフィスの中で働いてたでしょ、外で百何人か働いてるの。いろんな機械で何かやったり。そういう仕事してる人。別にそれでけんかするも何も。 そしてもう一人こういう人がおったよ。日本人をキャンプ(収容所)に入れたのも、いろんな日本人もスパイみたいなこと、アメリカにおった日本人がスパイみたいなことやったんだからって。当然キャンプにいれるのは正しかったって。それはもう本当。1950~60年時代だからね。まだこれ解決してない頃。このキャンプいった人は弁償もらったでしょ?

Q:そのキャンプに行ったのはどういう人ですか?

同じようにあそこでただ働いてた人たちと一緒。

Q:聞いたときはどんな気持ちになりました?

まあ、私が遠慮した。別に何の関係もないけどね。別に私は争おうともしなかったけどね。まあ、それがいけないかもしれませんけど。私そんなにシリアスに取らなかったね。そういう気持ちを持ってる人はいくらでもいるしね。その通りだと思ったしね。その人と争う経験にはならなかったです。

Q:そんないちいち感情的に取り合ってたら大変なんですか?

そう、まあ本当だったらやるべきだったかもしれませんけど、別に。

妻・みな子さん:でもあの頃、私東京にいたんだけど、空からね飛行機が偵察機か何かがアメリカの偵察機がね、富士山の方からずーっと来て東京行ってね、ビラをまくの。そしてビラがね、今度新しく作ったすごく強い爆弾を落とすからね、それが嫌いだったら早く降参しなさいって書いてあったのね。そんなの、東京でやったことなんですけど、あの頃はアメリカ人を嫌うっていうよりももう、日本の人たちは皆、日本の天皇陛下のために死ぬっていうことがもう当たり前。我々は皆そう思ってたでしょ。だから全然、そういう質問にはちょっと直接に、イエスorノーって答えられなかったですけどね。そんなときをみんな過ごしてきたのよね。本当に死ぬ、あなたのの中でおじいさんですか。それが当たり前だったから。ひどいときでした、本当に。

サノさん:私が言うのはそういうビラが落ちてきたけど、もうその頃は、普通の爆弾でも大勢死んでるから新しい・・・

みな子さん:毎日、本当爆弾されてるのにもう新しくても古くてもそんなこと、That’s no difference. そう思ったですよ、本当に。

サノさん:あれ3月10日でしょ。大きい、私は東京に3月1日に行ったです。それから一週間おったです。それから一週間おってそれから、九州行ってそれから船乗って朝鮮行って満州行ったんだけど、ちょうどいい所に出たんですね東京を。

みな子さん:恐ろしかったのよね。

Q:何回も空襲が来るんですよね。

だって私が、復員して山梨で働いてそれから東京移って東京住んでるときでもまだ上野公園には、いや新橋の駅の所へ子どもが靴磨きやったりしてたね、孤児が。それからあそこの上野の公園行けばパンパンがまだ、うんとおって。駅の。

Q:未亡人とかね。

サノさん:そうね。

みな子さん:そういうときだったです。

まったく。

Q:これどうしてこういうお庭を作られたんですか?

もとはここは草、芝生だったんです。Dichondra(ダイカンドラ)といった芝生をやって、全然私は刈りもしなかったです。ただ水をやってどんどん伸びていたのを。そして1970年頃、雨が降らない、水が足りないことが2年、3年続いたんです。そのときにダイカントラうんと水が必要だったので、水が使えないようになったから、そのときに芝生が死んじゃった。死んだので、これに変えたわけです。

Q:どうして京都のお寺みたいなこういうスタイルに?

別にただ他にも何も考えもなかったけど、これからよく人が何か褒めてくれますけど私、ことわるですよ。これは本を勉強して、日本の庭を作ったことないから。分かってる人が見れば、なんだ、石の数が少ない多いか、並べ方が間違っていると言われると思いますけど、私はことわります。人が褒めてもねえ。勉強して作ったわけではないから。事実そう思っています。分かりませんです。ある人は見てもどういう意味か知りませんけど、ただ、いいなあって言うけど私、これは私は海のつもりで、これは水で、石は島で。だからこうやって、線もこうやって、自分でそういう気持ちで、そういう意味で線を引いたって説明をしてると、ただ違っているなと、けど水ともみないですね。日本の本当は水を意味しているのか、それもはっきり読んでいませんけど、私はそう思ってやっているんです。

出来事の背景

【日本兵になったアメリカ人】

出来事の背景 写真 昭和16年(1941年)12月8日、日本軍による真珠湾攻撃で運命が大きく変わった人たちがいます。日系アメリカ人です。太平洋戦争が始まった当時、日本には、4万人を超える日系アメリカ人がいました。その多くは、日本で教育を受けるため一時的に滞在していた二世の若者たちです。日米の開戦によって彼らはアメリカに帰る道を閉ざされました。その上、アメリカだけでなく日本の国籍も持つ日系二世は、日本軍に徴兵されて母国アメリカと戦うことを強いられました。戦艦大和の沖縄特攻作戦に参加して大和とともに海に沈んだ若者、中には兄弟で敵味方に分かれて戦った人達もいます。

 日本の敗戦後、進駐軍がやってくると、彼らは新たな困難に直面します。敵国の軍隊に加わったとして、アメリカの市民権を剥奪されたのです。中には、死刑判決を受け、監獄の島に収容される人もいました。

証言者プロフィール

1924年
カリフォルニア州ブロウリーに生まれる
1939年
15歳のとき親戚宅に養子縁組みのために来日。立正中学2年に編入
1945年
3月、中学卒業後召集され陸軍へ。満州(現・中国東北部)に派遣され、チチハルで終戦を迎える
 
シベリアへ。収容所はクラスノヤルスク
1948年
5月、舞鶴で復員。その後、進駐軍・民間情報部で働く
1952年
帰米。建築家になる

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