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タイトル 「シベリアの炭鉱で重労働」 番組名 [BS1スペシャル]長い旅路 ~日本兵になったアメリカ人~ 放送日 2013年8月15日、16日
氏名 カツミ・ヤナガさん(アメリカの日系人 戦地 アメリカ合衆国(ワシントン) 日本(福岡) 満州(奉天) シベリア  収録年月日 2013年6月20日

チャプター

[1] チャプター1 日本へ  08:05
[2] チャプター2 神社参り  05:38
[3] チャプター3 出征  05:56
[4] チャプター4 北上していく列車  08:34
[5] チャプター5 極寒のシベリアで  06:33
[6] チャプター6 過酷な抑留生活  05:41
[7] チャプター7 舞鶴へ  06:50
[8] チャプター8 日本とアメリカの間で  05:42
[9] チャプター9 大統領への手紙  07:22
[10] チャプター10 米空軍へ  05:41
[11] チャプター11 シベリア抑留を生き抜いて思うこと  03:44

提供写真

再生テキスト

Q:アメリカで生まれて、日本に初めて行ったのは何歳のときですか?

8歳です。

Q:8歳で。それまでは日本に行ったことはなかったですか?

なかったです。

Q:その8歳のときに日本に行ったのはどういう理由ですか?

ああ、両親が日本に帰って、帰ったというんですかねえ、一緒に帰ったんです。その100パーセント帰る気ではなかったですね。やっぱりいろいろと決して教育とあの、ゴールデンブリッジ、ゲートブリッジ(サンフランシスコ・金門橋)か。ベイブリッジか。建築、こういう時期だったんですよね、ポストが立ってから。それをまあ4時に船は出たから、まあ日のくれるまでゆっくりその柱のポストを見ながら、アメリカを去ったんです。

Q:その光景を覚えてるんですね。

覚えてますよ。

Q:兄弟もいらっしゃったんですか?

Yeah. 兄弟は4人います。兄が医科大学出てから医者で、僕は2番目で、僕は大学行くときは非常に迷ったんです。日本のいろんな科目の試験のことやらで。それであの、僕は仕事を一緒にとってから、卒業したらすぐ会社に勤められるように、もうアプリケーションいれるのをちょっと遅れたけど、入るだろうかと思ってこの会社に出したんですよね。そしたらちょうどまあコーテンションもよくて入社することが、正社員で入社することができたんですよ。その会社に。 それは僕はずっと兵隊におるに間も籍置いて、そこに務めたんですよ。そして除隊して帰ってきてシベリアに帰ってきてから僕は会社に1年ばかりおって、うちで勉強しながらまた大学に行きたいから、勉強1年くらいしだして、そして次の春に大学を受けて入学することができました。

Q:どちらの大学ですか?

福岡大学です。

Q:そうですか、卒業まで日本に?

Yeah. こっちの、日本の大学は卒業しました。

Q:そうですか。8歳で日本に帰られてから、日本人としての・・・

Yeah. はじめは日本語はちょっと日本語はちょっと、日本語というよか日本の文化、いろいろと覚えるのが始めはひどかったですね。先生も会話だけ力を入れてね、会話だけだろうと。でも僕たちは文化と両方を覚えなきゃいけないからですね。まあはじめちょっとそういう問題も・・・まあ1年したらまあ、まあまあやっていけるようになってからは大丈夫だったです。

Q:8歳のときですけども、アメリカの文化と日本の文化は全然違いますね?

違いますね。

Q:いちばん日本の文化で苦労したことってどこですか?

やっぱり、言葉が、発音がいちばん苦労したですよ。文化は、まあそんなにないけど、自然に覚えていったですよ。友達とよく話して、僕はスポーツをするのが好きだから。日本に帰ったらドッジボールやらアメリカは強かったから、日本で随分やってたんですよ、それを。それで僕は随分ボール投げるのが強いから、みんなそれで僕に友達が多くて。そして冬になってきたら、僕は走るのが速いから、あの山手に住んでおったから、坂道だったから、雪を固めてから、何もないけどそこを滑るようにしてから、みんなで固めて。走ってきて、僕も走ってって僕は助走がつけるから随分遠くまでいけるんですよ。みんな喜んでくれるんですよ。その点でやっぱり、みんな自然に日本の文化も一緒に、学校が休みのときはお宮に行ってから一緒に遊んだりして。やっぱりお寺にも、両親とはじめ一緒に行きましたよね。そういうふうにして、日本の文化を吸収していくことができたです。日本語もはじめはずいぶん笑ったしね、僕は日本と・・・しかし僕は、僕の父は「みんなに笑われても、そのことで怖じけたらダメ、読まないといけない」と、「手あげて読め」って言われてですね。父に。

Q:何をしなきゃいけないと?

「手を上げてから本を読め、発音が悪かっても。」それで、僕は父からずいぶん助けを受けてやってきました。

Q:笑われてもおどおどするなと。

Yeah. まあそれはしたですね。やっぱり、いろいろな面において。まあそれでシベリア行っても、なんちゅうか芯が強いから、やれてたんじゃないですか。僕はその例えば、食べ物がない、腹が減る。これはどうかしていかないと、もうよそへ行っても食べ物はない、何もないから、自分で我慢するよかないと思って、我慢だけしてから、ときどき収容所の中にごぼうやらが生えてると掘ってから食べたりしましたよね。まあ、今はやりのけたしね。病気はしてないし、全然。満州でもシベリアでも、シベリアでは全然、風邪もひいてないし。それでやり遂げたんですよね。そうしてよく頑張って、あの、破傷風あの凍傷にならないように。それ頑張ってから、今があります。

Q:そのころ、そのヤナガさんの家族は一度福岡に行かれて、その後アメリカに戻るつもりだったんでしょうかね?

いやあ、僕はそうじゃないと思いますよね。僕の父は、頭にあったのは、子どもを日本の学校に行って教育させなきゃいけないと。父も学校へ進学したかったけど、してないんですよね。

Q:お父さんの気持ちは、自分も学校に行きたかったけど行くこともできなかったし、子どもたちには教育を受けさせたい・・・

Yeah. そして「こうして勉強して、こうやったらやれるんだ」、と父はその意思をなかなか表明したんですよね。成績がどうだとは言わなかったですよね。「やり遂げないといけない」と。意思で、それでよかったと思いますよ。それでも僕は今そうやってなかなか頭が固い男だけどやってますよね。

Q:お父さんの教育がやっぱり残ってる?

残ってますよ。

Q:小学校を卒業されてからはどういう学校に進学したんですか?

小学校を卒業してから、僕はすぐは福岡県の県立のハイスクールに、小学校を卒業するときは優等生で出ることができたので、県立に入ることができました。

僕は戦争が始まったときは、中学校2年生のときです。いちばん盛んなときですよね、シンガポールが落ちたり、ものすごくたけだけしい。

Q:戦争が始まってからは、もともと生まれた国と日本が戦争を始めたわけですよね。それについてはどういうふうに感じましたか?

僕はまだ若いし、そんなにどちらの国ということもなかったですよね。それで、そこは問題はなかったです。それで、結局は日本におった間、やっぱり親が日本人だし、やっぱり日本のあれをいろいろ守っていたから、別にそんな偏見や、そんなものはなかったですよね。日本人もよくしてくれたし、小学校から。僕はそんな、あんないじめやあんなことは全然小学校のときも全然なかったから。僕はスポーツが好きだからね、陸上、特に運動会やら、とても楽しかったしね。僕は小学校のときは20メートルくらい遅れてからスタートしてたんだけど、でも僕は最後は1番に軽く1番になって。

子どものときは、僕は軍艦の数、人間の人数、いろいろそんなことを考えて、それがなかったら人力、equipment(機器類)の優秀さがなかったら戦争には勝たないとは思ってましたけどね。特に身に来たのは軍艦がミッドウェーとかガダルカナルでやられるし、随分、そのときはやっぱり考えましたよね。しかし、日本人は大和魂があるから大丈夫だろうと思いながら、またしかし疑問もあったですよね。どうして戦争をしたんだろうか、って思いながら。あとはずっと本を読んでいるとですね。日英同盟を日本が脱退した、あれもいろいろあるんですよね。他の同盟とか、侵略的に日独伊、あれも侵略的なんですよね。いろいろあと、みんな集めてみてから疑問に思ったですよね。僕はあの国が、あれとは思わんかった、僕はまだ子どもだから。

Q:やっぱりそのころは大和魂と、そういうことにこう、精神的には?

ありましたよ。なぜかというとですね、僕は学生のときはうちから通ったんだけど、休みのときはみんな村の人は武運長久やるでしょう? 僕はみんな集まって、何マイルか武運長久、朝早く起きてから神社参りやらやっておったですよね。

Q:武運長久ってどういうふうにやるんですか?

武運長久はですね、ある目的、神社を・・・。あの人は戦争の神様だから、その神社には戦争に勝つ竹があって、そんなところをこう参りながら、神様に頼みながら、往復して帰ってくる。平道ではなしに、山道を登ってから武運長久していくんですよ。

Q:神社にお参りして?

Yeah. 帰りお参りして帰ってくるんです。そして、夏休みやら僕はずいぶん体を訓練しましてね、水泳をやったり山登りしたりして。しかしそのわりに背は伸びなかったし。僕たちの学校の友達にもオリンピックで優勝した人が日本大学行って水泳したりして、ゴールド(メダル)とったりそんな人もおったから。やっぱりスポーツは好きだったけど、みんなはできないからね。僕は陸上競技だけにしたんですよね。それで僕は体がスポーツしたおかげで、このシベリアにもみんな耐えたと思うんです。僕は日本の兵隊に入隊したけど、日本の軍隊はとても厳しいですよ。なんていうんですか、時間がないのに、初年兵はずいぶん仕事、任務があるんですよね。それに耐えていく速さと気の強さと、それを組みしてからやって行ったら、初年兵も抜けるんですよ。僕もそれをできることができたし、あんまり打たれなかった。

あのハイスクール(旧制中学)を卒業するとき、あの日本の徴兵令が変わって20歳から19歳に下がったんですよ。それから僕はちょうど19歳だったからそのときは兵隊に出征するようになりました。

Q:じゃあ旧制中学の5年生のとき?

Yeah. 5年生卒業してまもなく。6か月後に僕は、その前に僕は会社に、職とれたから。もう会社、卒業してすぐ会社に勤めたんです。しかし勤めてる途中に、僕は兵隊に召集命令があったから、広島に入隊したんですよ。

広島の部隊。そこに行ったのはあんまりよくなかったけど、4~5日ですぐ満州の部隊に。これはちょっとおかしい話ですけどね。広島を晩の12時に出て、福岡に7時に着いて、そして瀬戸内海、あの・・・海峡を渡るんですね。そのときのあの船酔いはすごかったですよ。今まで見たことがないですよ、廊下、便所みんな汚くて歩かれないです。みんなが大船に乗っとるのに、そんなに揺れたんですよね。そして、7時・・・9時ころ出たか。そして釜山(プサン)に着いたときには無事やったけど、その僕は全然知らないから、水兵さんの人が「今日はよかったですよね、何も起こらなくて」ものすごいあのあれがあるんですよ、沈没が、魚雷やられて。僕たちはその中を抜けて釜山に着くことができた。それも運がよかった。途中は運はいいけど、最後はやっぱりシベリアに行くのが、ちょっと運がよくなかったですけど、しょうがないです。

Q:釜山についてからは、それからはどうしたんですか?

釜山からは僕は、汽車にのって京城(現・ソウル)まで行って、それから元山にいって、羅津西晋といって延吉のほうに、満州豆満江を来てるでしょう? あそこを渡ってからすぐ僕たちの部隊が石頭にあったから、そこに11時頃釜山を出て、夜の7時半ころ石頭に着きました。

Q:この部隊が石頭に行って、何の目的のためかご存知ですか?

それは機動部隊だから、そんなこと全然何も発表しないですよ。もとは近衛兵だ、天皇陛下を護衛する部隊だったんです。それが機動部隊に変ってからですね。あれあの、なんていうんですか、どんな人が選ばれるか分からんけど、僕は甲種合格で合格したんですけどね、兵隊は。あそこに行ったから、まあいい部隊だったんですよね。最後まで部隊がずっと武器があったですからね。

Q:やっぱり一般的には近衛師団に選ばれるというのはよっぽど優秀で、家柄も査定されるとかね?

僕はそんなとこまでは考えてなかったですけどね、任命されたところに行っただけで。

Q:先ほどの満州の石頭に着いてからはどうしたんですか?

石頭についてから僕は、初年兵だから訓練を受けなければいけないんです。初年兵のベーシックトレーニングを。それでその途中なんですよ、その途中で足のけがが、破傷風が入って、そこでだいぶちょっとやめて、そのおかげで僕は日本に帰れなかったんです。訓練中だったんです。ベーシックのトレーニング。日本のベーシックトレーニングはきついからですね。とても厳しいですよ。

Q:足を破傷風になって、陸軍病院に・・・

入ってからその薬の効果がないんですよ。もうますます悪くなる。それで日本から来られた軍医の方、たしか東京帝国大学の軍医さん、お医者さん、その人が来てから、なんかしてくれて、だんだん回復するようになってきて、除隊する、退院することができたんです。
それから僕はまたanother 街の機動部隊に転属になってます。もう普通の部隊は日本に帰ってるから。それでまあその部隊で、そこを四平街は奉天(現・瀋陽)の近くだからそこへしばらくおってまあ機動部隊だから、僕は砲兵隊、砲兵隊なんですよね。なぜ砲兵隊かといったら、僕は機動、機関銃中隊に初め入ったんだけど、「お前はその計算することができるから、砲兵隊へ行って、大砲を撃つとき戦車に撃つ、大砲を戦車に撃つときに計算してくれ」ということで、その班が変わって僕はあの砲兵、砲兵班に行った。

僕はちょうど終戦の日に、僕たちはmove(移動)してるんですよ。朝の12時、10時に出て奉天ってあんまり遠くないんだけど。四平街から遠くないんだけど。その日に、移動しているんですよね。それで、結局は僕たちは終戦の報告が、ほとんど政府からのあれは、聞いてないんですよ。そんな暇がなかった。そんな状態でとてもその終戦は、外国の終戦は満州は支那兵やら、ロシア兵、いろいろ満人、とても混み入ってね、もう駅なんかすごかったですよ。いろいろ、移民の方ですね、開拓団の方や。もういろいろ話してくれて、泣いてね、かわいそうだったですよ。もうみんなある人は南へ下がって、僕たちは北へ向いてるふうね。惨めなさまですよね。

Q:終戦は奉天で迎えたんですね。

ああ、奉天の東寧っちゅう、出てその日がちょうど奉天の東寧っちゅうとこ、場所はとてもいいとこなんですよ。とにかく金持ちの人が多くて、金箔でできた建物、みんなね。そして何もないんですよ、僕たちはただ広場に移動しただけで、そこに行ってももう終戦ですからね、兵隊の方も何もいないから。そしてそこへ2~3日おったですよね、みんなアメリカ、ロシア、日本、チャイナ、フランスのあちこちの国の方が集まって、どのようにして日本人をその日本に返すかという話があって、2日くらい僕たちはそこで駐屯しました。そしてあの、部隊はあのだいぶ別れてきたから、移動しましたよね。移動するときは何も命令が出ないんです。どこに行っていいか分からないんです、僕たちはもう下っ端でしょう、二等兵、ああ一等兵か、だから行軍して回るだけでどこに行ってるから分からないんですよ。

いちばん最後の日、23日、8月の23日の朝、起きて、僕は山を降りて行ったら記念碑が立っておったんですよね。203高地、乃木大将のうんぬんと書いてあった。おお、これは乃木大将の昔何回も203高地を落とすために戦ったところと・・何回でも落とした山なんですよ。ここを下ったからもう奉天に来てると思った。そして下に大きいハイウェイがはしってるじゃないですか。そこにとことこっと降りて、まあ悠々とまっすぐな道だったからいったらね、もう奉天に近いと思って行ったら、もう10時頃だったと思うんですけどね、ロシア兵がやってきてから、僕たちは機関銃、機関銃を僕たちに向けてね、もう「お前たちは日本兵か、トラックに乗れ」、と言ったんですね。
そのとき、ぼくは思ったんですよ、これはもう万事休すと。僕は殺されると思ったですね。でもまだ武器を持っているんですね。そしてその人たちが僕たちをまず武装解除するところに連れて行ってくれて、みんな武装解除してから。そしてそこで武装解除して、そこで別に泊まるところも何もないんですよ。家はあるけど、確かに昔の鉄道学院じゃなかったかいね、満州の。僕はそう覚えてるんですね。そこで、まあ食事は何もないんですよ。僕たちは乾パンのようなエマージェンシーフード(非常食)だけを、僕たちは食べ物を何も持ってないんですよ。それでそこへ行って、そこに着くまでは、これもちょっと話がもどるんですけど、あの衣服を、衣服廠(しょう)ちゅうのがあったんですよ。満州あちこち日本の、ずいぶんその衣服やらいろいろ残してね、みんな日本に帰ってるんですよね、兵隊さんが。そこにはね、エマージェンシーフードがあるんですよね。In the case, emergencyのためと思ってね、よくしてから、とってから、それが助かったんですよね。毎食食事はないけど、手につまみながら少しずつ食事の代わりにとってやっておったですよね。それで寝るときは僕たちは道に寝たり、墓場に、満州、支那人の墓場は山のようになっているからちょうどそこへ寝たらいいんですよね、何も恐ろしいとかそういうことは気にしなかった、眠たいからそこへ寝たんです。

Q:それからソ連の兵隊に連れてかれて・・・

Yeah. そこで武装解除があってその日に、この列車はついてるんですよね。「もうお前たちはダモイ(帰国)」、ダモイっていうたら日本にかえることって、「ダモイだ」っていうんですよね。しかし僕は考えてみたらこの列車は北を向いてるじゃないかと思ったんですよね。だから、出てこう日本に帰るのに北を向いて朝鮮のほうにハルビンから行くんですよね。これ、大連のほうに行ったら早く日本に船で帰れるから、どうして大連のほうに行かないんだと思って、こう思ったんですよね。しかし、そこに行ってその列車が明日の12時。ああ、12時半に出るっていうんですよね。その翌日、確かにそれが終戦が8月の20何日かと思ってるんですけど、ちょっと覚えてないですけど、それで出ました。そしてもちろん食料はない。いちばん初めに出た日、晩の8時にロシアからそのロシアからの給食で出たんですけどね。僕はもう寝たいからその晩飯を食べずに寝たんですよ。もうテントの中でね。そしてそれが1食で、僕はあとは乾パンやら、それやら自分の所持品を満人の人に売って交換物資、そんなことをしてからまあ今日にとりにきた・・・僕たち貨車に乗ってるから。貨車を二つに分けて、ダブルバンクにしてるから、だいぶ乗ってますからね。そうやって乗ってから、ずっと奉天ところに出て、ここを渡ってハルビンに行って、チチハル行って、満州里行ってからロシアの方行って、チタ行ってから、ロシア、あのなんていうんですか、ソビエト、鉄道に乗ってから。

Q:シベリア鉄道。

シベリアに乗ってから、もうそのときにこう思ったんです。僕たちはもう帰れない。汽車は西向いとるんですよ、ヨーロッパ向いて行きよるから。もうこれはだめだと思って。日本に帰れない。日本に帰れないならシベリア鉄道でもいいけど、日本海のほうに行かれるけど、ナホトカちゅうとか、ウラジオストクとか。それが北向いたから、これはもうダメと思って。それで3泊4日か、4泊5日くらいたってからそんなふうにして食べてから、人と交換してやってから収容所に着きました。

Q:かなり遠くまで行ったんですね。

そこに湖があるでしょ、それ世界一の湖なんですよ、ものすごい大きいんですよ。1650マイルくらいある、深さが1700マイルくらい。そこの湖畔で僕たちは最後のあの、あの給食をしたんですよ。そこから近いから。僕たちは・・・僕たちがおった収容所ですから。バイカル湖が近いから。

Q:そうですか、中央アジアですね。

寒いですよ、吹雪。あそこのモンゴリアのほうから吹き降ろしてくる北風で、すごい寒いです。だから北海道やらあの雪が多いんですよ、東北地方のようにね。あの山脈がなかったらもう日本は雪づめです。本当に、山のこっちに雪がみんな落ちたから。

Q:雪が降るところなんですね

Yes. 雪は積らないんですよ、風が吹くから、吹雪だから。寒いんですよ。まあ大体零下45度以上は仕事に行かないんですよね、シベリアは。満州が零下35度25度くらいです。それで、シベリアは、平均したら20、30度ちょっとくらいじゃないかな? 普通の日は。また天気が悪い日はものすごい寒いですよ。とにかく、吹雪にうたれてね、それを毎日25分くらい。僕は炭鉱で働いてたから。僕は炭鉱夫だったから。まあ初め1か月ちょっとは鉄道工事をしてたんですよね。あの地盤をつくるんですよ、鉄道、大きいところだから。炭鉱内に、汽車が貨車が回るんですよね。それであの、鉄道を敷くための地盤の、あのダイナマイトでみんな壊すから。それであの日本人がこうやって作るんですよね。

Q:石炭を運ぶために。

そこに線路を入れるんですよ。そしたら、仕事場が露天掘りと地下とあるんですよ。僕は初めは露天掘りでやってた。露天掘りというのは地層がいくつでもあるでしょ、それをこう高いところから下に行くんですよ。その、それの地層があるでしょ、その地層の露天の、なんていうんですか・・・ぼた・・・

Q:ボタ山?

ああ、ボタ山、ボタ山のあの泥を外した仕事をして、石炭のところを石炭にあたるでしょ?そしたらそれをロシア人がダイナマイトで外して、それを僕たちがあの貨車にのせる。それはなぜかというと、上、貨車は石炭は上に取れる、貨車は下に行くんですよ、一番下に。それで投げ下ろすんですよ。貨車に。Openだから。そんなふうにしてからあのOutside(外)の露天掘りのときは。そして僕は炭鉱は地下が長かったんですよ。地下は危ないですからね、気をつけてないと、なんにも知らない。それで僕はあそこへガスが出る、大水になる、いろいろ知ってから、心配してた。やっぱり水も出すからね。大水になったりしますからね、ガスが出たりするから。まあそこへ最後はそこへ勤めて、そして食べ物が無いから、僕たちもうみんな話は一つになります。食べ物は飯ごうの蓋があるでしょ。ご存知ですか、あの上の格好した、あれにご飯のようなものが一杯入るだけです。それに、あのさらに中にはいってる、あれにスープが一杯。肉がちょっと浮いてるくらいと野菜が、それが一食ですよ。それにその日に、あのパンのあの、まあこれくらいの高さか、そして固形か。まあこれくらいの高さのパンですよね。それを1日に1つくらい、それが1食です。それが・・・の1食。他2食は、あのご飯とスープだけです、ほかにないです。それが1日の食べ物です。何も他におやつやら何も。ほかにできることは仕事だけです。もう何も他に食べるとこもないし、水も出ないし。

Q:収容所は何人くらい収容されてた?

ああ、僕は、あの僕の収容所は小さい収容所じゃないんです。まあ中くらいの収容所で、4,000人くらい多いんじゃなかったかと思うんですよね。わりに大きい収容所で。しかし、僕たちの収容所には食堂なんかなかったんです。それがひどいですよね。キッチンはあるけど、キッチンにいないと兵隊と捕虜がみんな食堂に行ってから、あの酒だるにね、ご飯やらいろいろ詰めてくるから。割り当てでくるから。それを担いでから、朝早く5時から起きてから。あとはみんなは交代でするから、その誰でもする仕事だから。仕事もそのなんか1週間はあるけど、1日は休みなの、炭鉱管理だけど。その代りその部隊におるところの世話を全部やるんです。その人が。

僕はあの、シベリアで戦死した日本人の方の穴掘りに行ったんですよ、1回。それも交代で行くんですよ。確か・・・行ったんですよ。確かに1週間に1日は休みだから、そのときは休む。その代わりそのような使役いろいろなことをするんですよ。結局は休みじゃないんです。

Q:当時いちばん若いから労働も多いですよね?

その点は確かにありますけど、若いから体も若いから強いから骨折らないですよね。やっぱりあの、補充兵員やら、聞かれたですか? あの補充兵員やら年寄りの方が・・・

Q:終戦前にたくさん・・・

Yeah. そんな人たちはたくさんやっぱりもう歳だから、気候に絶えられずやっぱり早くみんな亡くなられましたですよね。気の毒ですよね、僕の友達もちょうど山口県から大学・・・行っておられたんですよね。途中から来てから、でもこの人は毎日あの食堂に、あのあれはあがってくるのにね、1週間に、2週間に1回か、まあ1か月に1回くらいね、当番が来るしね、その人ともそのときによく会うんですよね。

まあいろいろな話して、最後に僕に言われたのは、「もうヤナガくんもう僕はダメですよ、もう僕はダメと思う」、「ダメよ」、って僕は言うて「もうすぐ日本に帰れるから、もう頑張りなさい、両親が待っているよ、みんな弟、妹さんが待っているよ」、って励ましても、それでも何も頑張れない、やっぱり亡くなったですよね。かわいそうですよね。日本におったら死なんでいいのに。

Q:シベリアで、ソ連の管理してる側から尋問とか取り調べ・・・

僕たちのとこはなかったです。僕は炭鉱で忙しいんです。もう仕事したら帰ってきたら、自分の手の周りのこと・・湿ってるから、みんな乾かさないといけないんですよね。100パーセント乾いてないと凍傷にかかるんですよ。大変なことになるからね。みんな僕たちは12時に夜終わってから、帰ってくるときは12時半くらいになるんですよね。それから1時間くらいはそんなことして、してから寝るときはやっぱり1時半くらいになってから。その代わり朝は早く起きないでいいし、僕は4時から仕事だから3時ごろに出るからまあそうやってね。

Q:ソ連には何年くらいいらっしゃったんですか?

ソ連は、あれが2年、2年、10か月くらいじゃないかな? とにかく、何もないから長くおったような気がするんですよね。もう何もないんですよ、酒保もスナックバーも何もないんです。まあ一般の人が、あんまり裕福じゃないかと思うんですよね、見たとこ。まあみんな一生懸命仕事してますよ。

Q:日本人も労働のために連れてかれたわけですよね。

労働のためでもよくみんな計算してるみたいですよ。これだけ死ぬからこれだけ、それだけ死んでもここからすぐ持ってくるから、そんないろんなことをしてるんじゃないですかね。

Q:そういうことを感じました?

感じたですよね。まあ僕は知らないけどよくね、まあ毎日のことが忙しくて、onlyロシアにおっていいときは日が長くて、春、日が長いですよ。それで、temperatureも気候、あったかいんですよね。それでみんな外へ出たら朝まで寝てるんですよ。気持ちいいから。あの兵舎に帰っても何もない、初めのころ僕たちは本当、板間に寝てから自分の2つの毛布と1つのオーバーコートと、それだけ着てからあの軍服を着てるの。それだけで。
それで随分長く暮らしたんですよ。しかしやりだしたらなんでも耐えるですよ。一人誰でも、耐えるか、なんでも耐えるんですよ。間違いさえ起こさないでいればいいな、と僕は思うんですよね。やる気があったらやり通す。ちょっとひどいけど。

Q:帰ってきたのは1947年ですか?

Yeah. 1947年です。それは帰ってくるときは僕は、シベリアにおるときは、僕は身体検査を受けたときに、あの僕は身体がいい格好して、痩せてないからあんまり。それでいちばんで日本に帰国に選ばれたんですよね。それからなんとも返事がないから、どうなってるんだろうか、あそこpassするまでには収容所に2回くらいpassしないとできないと聞いていたんですけどね。なんともないから、それをずっと待っていたら、ある日、僕は何も知らないんですよ。全然意識がないから。収容所のどこ出たかも知らない。何の乗り物に乗ってから日本海まで行ったかも知らない。全然もう意識なしです。

Q:体調が悪くなっていたんですか?

僕は体調が悪いということは何もないんですよね、結局は栄養失調になったから、ようは頭の、脳の作用が変なふうになったんじゃないですかね。それはあるときはちょっと、シベリアは途中行くときは、まあちょっと汽車に乗ってるんじゃないかという、赤いのがちょっと見えたことは一回あったんですよね。それで来るとき、こっちへ送られてくるときちょっと赤いのが気のついたことはあるけど、まああそこじゃないだろうか。それで、でも僕は意識不明でナホトカちゅう、日本海をウラジオ(ストク)の近くにナホトカという港があるんですよね、そこにあの収容所があって、そこに着いたら僕は何も知らないから。着いてロシアの兵隊に護衛されてから、僕はナホトカの港のほうに行ってたんですよね。そのときにあの、いちばん初めに気づいたのは日本の旗ですよ。日本の旗、あの商船の船の後ろのほうについてる旗がひらめいてるんですよ。僕は一瞬か悪いけど、日本の旗(を見て)僕はああそうか、日本に帰れるんだと頭が来たんですね。そして、横向いたらみんな日本の捕虜の人たちが岸壁に待っているじゃないですか、いっぱい並んで。僕はその中、そのロシアの兵隊がその船のステップの前に連れていってくれて、船の中まで僕を連れて行ってくれて。僕は船員のちょっと偉い方に、ぼくを手渡してくれて、その日本の船員の方が「この船は今日の4時に出る、夕方出るから、あすの朝の7時に舞鶴に着く」と。それでそのとき僕は倒れたことは覚えてる。意識不明になって倒れました。そしてずっと寝てたら、朝7時、僕は目が覚めて、横を見たら、誰も一人も寝てないんですよ。みんなここで寝てから、「お前もここで寝るんだ」と。そして朝7時、これいかんと思って、僕は誰も護衛がおらんから、入国のあれが全然ないんですよ。紙もなにも持ってないから。それで僕は自分で考えて、僕は早く降りてから確かに移民局は大きい建物だろう、と思って、僕はいちばん大きい建物にめがけて行きましたね。そしたらそこに入ったら、ちょうど入り口の所に女の方がおられて、「自分はこうこうやって船に乗ってきた」と。「僕はなんにも入国の手続きの紙を持ってません、体ひとつで来た」と。そしたら、いろいろ質問されたから、みんな答えたつもりですよね。そしたら、そしてそのときにあの、ご飯を一杯食べさせてくれて、それがおいしかったですよね。そして僕はその昼のみんなで新しい洋服をもらうはずだったんですけど、僕は寝てたから起きられなかったんだろうと思うんですよね。もう、ぐっすり寝てるから。そして、色々してもらって、そして僕はちゃんと久留米に帰る汽車賃とバス代ももらって、みんなグループと一緒に東海道線に乗ってあの舞鶴から出て、あれを通ってから、東海道線に出たから。

Q:舞鶴についたときに、GHQや進駐軍の係の人たちはいなかったですか?

ノー、もう誰もおらなかったです。もう僕はもう誰もおらん日本人の捕虜の人ばかりです。それで僕は早く降りないと、とんでもないことになると思って、もうゲート、降り場見つけて少し開いてるから、人を横によけて一番、もう一番初めに船から降りたです。

Q:早く降りないと・・・

大変なことになると思って、僕は誰も護衛がおらないから。自分でやって、そしてみんなしてもらって、金全部もらって、まあ洋服は汚いままでうちに帰りました。

Q:大変なことというのは、どういう心配ですか?

やっぱり移民局の手続きのために、日本政府の法規があるでしょう? 外国から来た人はどうすべきだ、ああすべきだと。これを持ってないといけないと、それにひっかかったら大変と思ったんですよね。働いてた女の方が融通きかせてくれて、ずいぶん何もしないで僕は通って日本に帰ったんです。

Q:私が不思議に思うのは、ヤナガさんはもともとアメリカ生まれでアメリカの市民権と日本の市民権と二重国籍でいらっしゃるわけですけど。日本の軍人として外地から復員されて、戦争が終わってそういうときにそのね、もともとアメリカ生まれという気持ちはやっぱりどっかで、どこかのタイミングで思い出されてきたんじゃないかと思うんですけど?

僕はそんなことはなかったですよね。僕はどこへ行っても、日本人として、スムーズになんでもできたから。Only トラブルがあったのは、後であの市民権の、アメリカの市民権を取るとき、取り戻すときかな、ちょっとやっぱり手間がいいましたね。あとは別にそんなにはいじめ、そんなこともないもんだから、会社にもみんな入ることができて。まあみんなほかはよかったですね。

Q:ご自分の気持ちとしても、ずっと日本人であるという気持ちでずっと・・・?

日本におったときは、そうだったですよね。あんまり僕はアメリカ人だとそんな強い、時々はあったけど、あんまりはなかったですね。

Q:時々はあったんですか?

Yeah. やっぱりありましたね。

Q:どういうときに引っかかってくるんですか?

やっぱり何かしてるときでも、自分はアメリカ生まれなんだ、なんていうんですか優越感ですかな。そんなやっぱり誇りますよね。

兵隊のときに考えて・・・学生のとき、僕は考えたんですよね。英語は僕は小学校のときに100パーセント忘れた。僕は中学校(のときに)、これ英語は覚えとかなきゃダメだと思って、頑張ってしましたね。それから次は今度、英会話、conversationができないとダメだと思って、勉強しました。それを特に。そしてあの、日本、それでアメリカの兵隊に入ったんですよね。学生のときにも勉強したんですよね、それでも英語がよかった。しかしアメリカに帰るには英語が100パーセントよくないと困ると思って、今より力いれてやって。それはなぜかというたら、僕は家内と結婚して間もないんです。それで日本に、アメリカに帰ったら仕事にとらなきゃいけんと思って、すぐ。
それで僕は着いてすぐ、着いてすぐ航空会社に入ったんですよね。

Q:アメリカに帰ろうという気持ちはいつぐらいから芽生えたんですか?

やっぱり進駐軍に働き出して、もう僕は年だから日本では職はとれないだろうと思って、because大体みんな日当、若いときの年齢で出る人が4年なり5年ですね。その人たちがみんな仕事はとれるんですよね、日本という国は。僕はハイスクールも出てすぐ行ったから、まだ若いし、それでやっぱり入ったんでしょうね。あとでしたら大変ですよ。やっぱり口頭試問のときも変なふうになってくるから。まあそんなことがあってから行って。そして、英語を勉強してから、家内がすぐに妊娠して、金がすぐいる、そして仕事をとらないかんと思って頑張ってしたんですよね。そして僕は、あの会社にしばらく入って、一生懸命働いたんですよね、普通の会社より。なぜかというと僕は日本人なんですよね。アメリカの会社でも日本人だから、みんなに負けないように、うちの父が言ったように、みんなと一緒にしたらそれだけしかない、と。そんなふうにして評価される。一生懸命してから、上にいってから高い評価をもらえ、と会社で。それでやったんですよね、一生懸命やった。

Q:進駐軍の通訳だったときはどういうお仕事をされてたんですか?

進駐軍のときは、早い話言うたら将校の人ですね。上の幹部の人の通訳をするんです。いろいろ日本人のいろいろの、その人がするいろんなことを日本語で助けてやる、まあそれがメインといえばメインですよね。通訳はまあそんなものです。

Q:どこのセクション、どういう部署ですか?

その部署は、パブリケーションいうてから、あのあちこちから入ってくる兵隊の規約ですね。そんな規約、regulation(規制)というかね、それを扱うオフィスだったですよね。そんなとこやったですよね。

日本に軍隊に入ったんですよね。それは確かに市民権というのは外国に何年かありますよね期限。それ以上にいたら、失うんじゃないですか。それで僕は知らないけど、失ってるんですよね。それで僕は市民権、アメリカの市民権がほしいからっていうて・・・そしたら日本の市民権を落としてから、それは取れるっていうこと。なかなか難しかったですよ。

Q:日本の、横浜の領事館ですか?

ああ、それをしたのは福岡の領事館、総領事館ですね。

Q:福岡の領事館。その手続きしたのはいつですか?

ああ、あれは何年、何年くらいだったかな?

Q:福岡大学とか終わって?

まだ福岡大学が、大学の学生のときに、学部は福岡だから領事館にずっと行ってから、一緒というかね。催促したりして、してましたよね。それでもなかなかおりないから、僕はそのときの大統領が、プレジデントトルーマンだったんですよ。その人に手紙出したんです。おりなきゃ僕はアメリカの軍隊に、志願するから、市民権をおろしてくれって。そしたら僕の一般人の手紙がちょうど大統領のとこまでいって、それですぐ市民権がおりたんです。そういうふうにして僕はとったんです。なかなか忙しかったけど。まあ僕は・・・若いから。古い自転車もっておって、自転車であちこちいろいろなことする、できたから。まあよかったけど、まあすごくやり遂げたです。それで今ここにおるんですよ、アメリカに。

Q:復員されてから市民権を回復して、しかも大統領に手紙書こうと思った、そのへんの心境をお聞きしたいんですけど。

それで、僕はもう兵隊に入る、あの手続きとっていくとあれ下積みになって、もうあがってこない。僕はこれをしないと手段はない、と僕は思ったんです。それで僕は封筒でも捨てないように、すぐ見てから、一般の人からきておる手紙だから、これは大事な手紙、僕は目的があってこれを書いとる、ということを封筒の端に書いてから出したんですよね。それを赤い字で書いたんです。そしたらやっぱり見てくれたんですね。それでちょっと・・・

Q:大統領に手紙書こうというのはなかなかすぐ思いつかないアイデアだと思うんですけど。

それは、思いついたんですよね。ちょっと変わってますよね、僕は・・・

Q:誰かがそういう助言してくれたんですか?

ノー。誰もしない。とにかく下積みになっていくということは僕は知ってる。なかなか僕は条件が悪いからね、あのシベリアに行ってるでしょ、条件が悪いからなかなか・・・それだからひと月僕は考えた、このままほっぽらかしたらもう市民権はもらえないかもしれないと思って、それでやっぱり書いたんですよね。

Q:アメリカの市民じゃなくて、日本人としてそのまま生きていくのは難しいんですか?

そういうの、アメリカ人、ああ、日本人としてなら日本では大丈夫ですよ。日本に住むならば何も僕は問題ないです。しかし兵隊に志願するといったら、アメリカに市民権がないと兵隊に入れないんですよね。日本人の市民権じゃあダメなんです。そこなんですよね。

Q:どうしてアメリカの軍隊に志願しようと思ったんですか?

Well, 僕は考えたのは、アメリカに来たほうが将来性があるんじゃないかと思って。なかなか経済もまあ僕は学校に行ってるだけ、なかなか経済も難しいから。そうしたほうがいいんじゃないかと思って。しかし、そうでもなかったですよ、来ただけですよ。でも僕は行ってますよ、どなたでも外国に行ったら、たやすいものではない。それは一苦労しますよ。それは知ってる。
それは誰でも同じ、兵隊でも同じ。本国におったら一番、一番いい。外国に行ったら、これは苦労の初めですよ。僕たちも外国に行ったから結局はシベリアのとこ行って、日本にいたなら、戦争終わったらすぐ日本に帰れる。そんなのと違うんですよね。いろいろなことに影響するんですよね、やっぱり。

Q:手紙にはどういうことを書いたんですか?

手紙ですか。まあそれは書いただけですよ、市民権が欲しいから。1枚目は市民権はアメリカに帰りたいけど、手続きが長くとれるから。それを早くしてくれ。理由というのは僕はアメリカの空軍に志願するからと、それだけ書いたんですよ。Short sentenceで、短い。そしてちょっと封筒に・・・の角にこれはimportant 、大事な望みだから、読んでくれと書いた。

Q:じゃあ市民権が欲しいから、空軍に志願しますから市民権を回復したいと書いた?

そういうことです。

Q:こないだまで日本の軍人で?

まあ日本の軍人はもう終わったから、あんまりそこは頭にこなかったですね。先の方法を、日本の軍隊、軍隊って考えとってもダメなんですよね。僕も結婚して生活をアメリカで立てたい、それがあったからですね。やっぱり。まあアメリカに帰ってきてもね、やっぱりまあいろいろ考えたですけどね。

Q:もしその手紙を書いたときに、もう一回アメリカ軍隊に志願したらまた別の苦労をするということは考えなかったですか?

そういうことは、考えなかったですね、僕はまだ若いから。このいろいろと悪いほうを向くんじゃなく、善のほうに向いてから進んだんじゃないかと思うんですよね。ちょっと無理かもしれないけどチャンスですよね。

Q:そのころは朝鮮動乱は始まってなかったですか?

僕は空軍に入ったときはあの朝鮮動乱もありましたね。

Q:始まってた?

Yeah. 僕、しかし僕はアメリカの部隊におったけど、all the time,戦争には行かないでよかった。部隊の命令は出とるけど、僕はスタンバイっちゅうて、in the case あの兵隊があの足らんときは出なきゃいけないという、そのあれでよかったから僕は抜けたんです。それは抜けたんですよね。

Q:じゃあその朝鮮動乱の前線に行くかもしれないことも・・・

あんまり考えなかったですね。

Q:あんまり考えなかった。

そのときはまだほかに考えることがあるから、それまでいかなかったんじゃないかと思う。

Q:空軍では実際どういう仕事をされていた?

空軍ではあれですね、僕は日本から来てるからアメリカのことはあまり知らないんですよね。それで志願したから、これ、これは空いてるから、そのそれをふんだら、あのfiremanになれというんですよね、レスキュー隊というか、レスキュー隊というたら、救助隊ですよね。それがあのアメリカはあの消防の、消防の方に入ってるんですよ。それであの、トラックの運転したり、消防車をね。それでfireを消す、人を助ける、そんな訓練があってから。それがFire department。それで出てきたら消防夫は金もうけるんですよ、給料が高いから。そんな理由でいいじゃないかと思ってしたんですけどね。しかし、ぼくは体が小さいから、消防、背の大きい人、力の強い人じゃないとダメだからね、と思ったけど、もうやりだしたから除隊するまで頑張ろうと。しかし、まあ仕事もそんなにひどい仕事じゃなかったし、僕はよかったですよ。

Q:軍隊に、空軍に在籍してたのは何年間ですか?

4年間です。4年間。

Q:アメリカの軍隊に、空軍に志願されたときは、日本の軍隊にいたという経歴は何かとがめられなかった?

ノー。全然ない。そんなことはない。ただ、アメリカ生まれというだけで市民権持ってると。というだけでほかは何もないですよね。ただ、試験が簡単な入隊の試験がある。それを通らないと入れないから。それだけですよ。

Q:じゃあ入隊する前には市民権が回復したんですね?

そうです、それがないといけない、アメリカのあれには・・市民権を持ってる人、という条件があるから。

Q:じゃあさっきも日本から志願した、空軍に入隊した人がいるというのは、やっぱりヤナガさんと同じように、もともと市民権持ってる人ですか?

Yeah. そうですよね、もともと持ってる人ですよね。そして失って、大学行けてるか、僕のようにして日本の軍隊出てる人かね、そんな人じゃないですか。僕もよく知らないですけど。多いことはありますよね。おたく誰かご存知ですか、誰か?

Q:いやあ・・・

ねえ。おりますよ、数は少ないと思うんですよ。なかなか冒険的なあれなんですよね。考えてみたら、あれ、失敗したら大変なことと思います。

Q戦争が終わった時期って、時代がいろいろ変化してる時期だと思うんですけど・・・

そりゃ変化してますよ、ずいぶん。今も変化してますからね。

Q:それにしても私が疑問に思うのは、やっぱりこの間まで日本の軍隊にいて、今度日本とアメリカは戦ってたわけですから、日本と逆の立場の軍隊に行くというのはどういう気持ちなのかな、と思うんですけど。

だって、一番はじめにくるのは、economy、経済ですよね。やっぱりここに一番はじめきたら大変ですよね。何かしてないと、ただ学校出ました。日本の学校出ました。ここに来て、さあ、っていうことは冒険的ですよね、と僕は思うんですよね。僕もあまりいなかったけど、僕は非常に冒険的なことと思う。とてもできなかったんじゃないかと。大体、そんなふうだから僕は父親の影響で、シベリアに行っても耐えられるんですよね。

Q:8歳のときに日本に行かれて、慣れない日本語を一生懸命習得されて、日本の軍隊に入って満州からシベリアで苦労されて、そういった経験はそのあと役に立ちましたか?

経験ですか。その仕事関係やらいろいろですか。確かにあの、人間性というか、ちょっと人とつき合ういろいろ、その点では十分習いましたね。やっぱり。それは確かにひどいけど、シベリアあたり。それはシベリアの経済やらも考えてね、あそこもそんなに裕福なとこではないと思いますからね。そんなこと、どういうもんですかね。まあそれはもう一部でしょうけど、人間性はつけてくれたんじゃないですかね。そういうやり通すという。

Q:やり通す?

Yeah. 僕はあるときいちばん腹が減ったときに、どうしようか、人見ても何も食べるとこはない。部隊の中は何もない。しかしただ小さいパンと、少しのご飯とスープだけでやらなきゃいけない。そこには何もない、と思ったから。僕は決断するほかはなかった、我慢するほかなしと。そして、それがもう与えられたあれだ、と思って僕は。我慢してやって。しかし遠慮なって、あんなふうになったんですよね。いやあ、頭かどうかなったりして。無意識のうちにあの日本に帰ったんですよ。珍しいですよ、あっちの人。どっか無意識になったというか、僕は病院に入ってやったかどうかって、自分で疑問してるんですがね。どこからだか、僕は、僕の頭に覚えてるのは、僕の収容所にはない。そんなもの全然あたらない。それで、どこか違うところ出て、ひょっとしたら何かでね、何か病気のために注射してもらったか。そのために日本に返されたか。それはなんで僕だけそんな一人ロシアの兵隊が護衛してね、ナホトカまで送ってくれたかって僕は思うんですけどね。So manyの兵隊がおるで。僕は何もしてないのにですね。

Q:そういうシベリアに行った話とかそういう話って子どもさんとかにもされるんですか?

僕はそういう話、話すべきなんでしょうけどねえ。まあまあ聞くからちょっと話すだけで、そんなに喜ばしい話でもないですからね。やっぱり、まあまあ、まあ僕は話すほうでしょうね。

出来事の背景

【日本兵になったアメリカ人】

出来事の背景 写真 昭和16年(1941年)12月8日、日本軍による真珠湾攻撃で運命が大きく変わった人たちがいます。日系アメリカ人です。太平洋戦争が始まった当時、日本には、4万人を超える日系アメリカ人がいました。その多くは、日本で教育を受けるため一時的に滞在していた二世の若者たちです。日米の開戦によって彼らはアメリカに帰る道を閉ざされました。その上、アメリカだけでなく日本の国籍も持つ日系二世は、日本軍に徴兵されて母国アメリカと戦うことを強いられました。戦艦大和の沖縄特攻作戦に参加して大和とともに海に沈んだ若者、中には兄弟で敵味方に分かれて戦った人達もいます。

 日本の敗戦後、進駐軍がやってくると、彼らは新たな困難に直面します。敵国の軍隊に加わったとして、アメリカの市民権を剥奪されたのです。中には、死刑判決を受け、監獄の島に収容される人もいました。

証言者プロフィール

1925年
カリフォルニア州パロアルトに生まれる
1934年
8歳のとき来日。福岡県久留米で小学校2年生に編入
1944年
9月、陸軍に召集され広島から満州(現・中国東北部)へ
1945年
奉天で終戦を迎え、シベリアへ。イルクーツクの炭鉱で労働
1947年
復員(舞鶴)
1952年
福岡の米空軍基地でレスキュー隊員
1956年
フロリダへ転属した後、退役

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