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タイトル 「日米に引き裂かれた兄弟」 番組名 [BS1スペシャル]長い旅路 ~日本兵になったアメリカ人~ 放送日 2013年8月15日、16日
氏名 ドン・オカさん(アメリカの日系人 戦地 アメリカ合衆国(カリフォルニア) 日本(岡山)  収録年月日 2013年7月1日

チャプター

[1] チャプター1 日米に引き裂かれた兄弟  04:41
[2] チャプター2 日米開戦、そして入隊  07:14
[3] チャプター3 日本は勝てない  06:59
[4] チャプター4 MIS(陸軍情報部)での任務  04:13
[5] チャプター5 終戦  08:20
[6] チャプター6 案じ続けた弟の命  01:29
[7] チャプター7 マンガを描いて  07:05
[8] チャプター8 亡き弟への思い  04:36
[9] チャプター9 帰米2世と純2世の摩擦  07:49
[10] チャプター10 心の傷  08:04

提供写真

再生テキスト

僕はちょうど、17(歳)になってね、農業学校卒業して、僕アメリカに帰って大きな百姓で金もうけようと思って。(学校を)出てから「アメリカに帰る」と言ったら、お父さんがね、「アメリカに行くもんじゃない、もうアメリカは今からダメになるから、満州に」って。「満州に行くんだ」って、「自分が行く」と言って行ったのよね。僕も兄貴が2人、アメリカに帰っていた。それで来いと言うんだね。「アメリカだったら行くが、満州なんか行かない」って。それで僕、アメリカに帰りますってアメリカに帰ってきた。

Q:何歳のときに日本に行ったんですか?

Five years old(5歳)です。だから、何も知らなかったですね。日本に行ったらすぐ、みんなから、「アメリカの黒んぼが帰ってきた」と言ってね。黒かったんです、毎日、いちご畑でね、・・・という所で、日が照って。それでもう、みんなからばかにされてね、でも兄貴が2人おったですから、それが他の人に、そんなこと言うもんじゃないと。

Q:日本では、どちらに住んでいらっしゃったんですか?

岡山県です。農業学校、高松の農業学校。それまでは三須といって、小さい所で。First, half a year (始めの半年)ぐらい悪かったけど、それからね、僕学校もできるし、他の人も慣れてきたしね、とってもよかったですよ。みんな親切にしてくれて。

Q:ご兄弟は、お兄さん2人と、弟さんも?

2人。5人で行ったんです。それで、まだ僕より下が2人ですよ。僕、Five years old(5歳)。彼らどう思ったか、って考えてもちょっと・・・

Q:兄弟5人で、ご両親も一緒に日本に行ったんですか?

いえ、そしてお母さんが一人で行ったんだけど、帰って来て、僕らにね、「2~3年のうちに帰ってくる」と。誰も子どもおらんし、一生懸命で働いて、金もうけてくるから、そのあいだ我慢して、大きくなってくれるように言って。それで、母親はそれなりアメリカで亡くなって。子どもが2人できてね。

はい。子どもはもうアメリカに3人で、日本に4人おったんです。みんな僕より年下です。それで、next two they were(それから2人)兵隊に取られて、一人の方が、年(上)の方が海軍に入って。飛行士になって、それで亡くなった。もうそんなことは全然聞いてないんです。

Q:戦争終わるまでは?

はい。

Q:戦争中は、連絡つかなかったわけですよね?

Just hoping to pray that they don’t die, you know.(ただ、彼らが死なないことを願っていた。)もう、あれが亡くなってると聞いたときは、ビックリしたですね。もう生きてるかいがないと思って。とっても大きなshock(ショック)でしたね。

Q:戦争始まったときは、オカさんは何歳ですか?

18ぐらいですかね。ちょうど学校に行ってたの。はじめに英語を一生懸命で、小学校で習って。兄さんが、ロサンゼルスに来てたものだから、あそこに来て、「英語を習うのはいいが他のことも習わんといけん」。何か仕事でもね、あったら。それで僕はHigh school(高校)に入れてもらって、そこでまた英語を習って、そして一生懸命にやって。もういいかげんでなんか仕事考えんといけないって僕の兄貴が言ったんですよね。自分たちは農業やってるが、あんなことでは駄目だと。それから僕は学校を探した。それで一生懸命にやりおったから。High schoolの先生がね、「Art school(美術学校)に行きなさい」と僕に言った。YouはArtが上手だからと。それでArt schoolに入るように試験取ったら、入れて。それでOtis Art Instituteという有名な学校ですね、そこに入れてもらった。そこで始めたんですね。それも一年もたたんうちに戦争になってね。で、僕は、兵隊に取られたの。

Q:戦争、日本軍が真珠湾を攻撃したっていうニュースですね。それを聞いたとき、どんな状況でそのニュースが入ったんですか?

僕はまだそのとき、普通の日は学校に行ってるから何もないけど、Saturday(土曜日)とSunday(日曜日)は、兄貴がね、少しぐらい金もうけてもいいから、自分のところへ来て、日本人の店があるんですね。そこで仕事させてもらって、少しお金はもらっていました。日本が攻めてきたときにね、いっぺんにみんなが、みんなの考えが変わったような気がしたですよね。それで、僕もどうなるかとね。それでも考えてみたら、みんなわりに親切な人でしたね。よくしてくれました。

Q:そのときそのオカさんの弟さんとか、日本にいたわけですね。

はい。それも、もう全然話聞いてなかったですね。僕らよりみんな4人とも若いんでね。戦争になっても行かなかったらいいと思って、毎日のように拝んでいました。

Q:拝んでいるというのは?

戦争になっても入らないように。もうこっちから2人入ってるからね。僕と大きい、一番上の兄が入ってる。

その次の(兄)は、One enough time limit, don’t have to go, so he didn’t go till late.(猶予期限まで時間があり、かなり遅い時期に入隊しました。)でも僕はわりに早かったですね。でもそのとき、学校に行ってたんだけども 生徒がね、みんなパーティーやってくれてね。ドン、兵隊に行くんだから。帰ってくるように。この人たちはほとんど、人を見る目があるんですね。一つも悪いこと言わなかったですね。帰ってくるのを待ってるからって。

Q:オカさんは、戦争が始まってから、何か月ぐらいで軍隊に行くことになったんですか?

戦争が始まったのがDecember 7th(12月7日)ですね。僕が入ったのは、2月の16日。それで、入ってからちょっとして、みんながカリフォルニアから出るように命令が来たの。そしてもしも、自分から進んで出る人は、何日あるから、その日のうちに出るように。兄貴がそこに、その組に入って、ちょっとのうちに出たわけです、コロラドまでね。僕はそのとき、もう兵隊に入っていた。兄貴も兵隊に入っていました。

Q:軍隊に行く前は、キャンプ(収容所)には行かれたんですか?

僕は行ってないんです。

Q:キャンプに行く前に、軍隊に募集があったんですね?

僕が入って、6~7days(日)してキャンプに入れた。入らないんだったら、自分から。もう自分でmoveせんといけん。それでも、白人の人、全然知らなかったですね。僕らが兵隊に入ったときに、隣の大きなバラックに何百人って二世の人が兵隊がおったんだ。それだから、みんな、「どこに行くんですか」って僕らに言うから。どこに行くって、今引っ張ってこられたのに。you know,「君たちは」って言ったら。自分らは兵隊からkick out(追い出)されてって。みんな。で、僕らは引っ張り込まれたんだ。それがね、僕よく分かりませんって、僕らの将校に僕が言ったらね、自分もそれは分からないって、だから、言われる通りに、君たちは、アーカンソーまでけいこになるから、そこまで行ってくれって。

Q:オカさんたちは、志願したんですか? 徴兵ですか?

ノー。僕は、取られた。徴兵です。後から大勢、志願した人たちおりますがね。

Q:オカさんは、MIS(陸軍情報部)に行ったのは、何年ですか?

行ったのは、僕は、兵隊に入って1年ぐらいですね。そして行って、あそこで日本語を習うんだと言って。そして組があってね、1、2、20 or something(1,2,・・・20いくつか)。1は一番上手な人で。2,3,4・・・僕はまぁ、4くらいだったかね。そして勉強してたらね。6 months がat least(最低で6か月。)それから長いのもある。でも、3 month(3か月)でね。僕呼ばれて。二世がoverseas(海外)にいるからね、君とso many people (たくさんの人)で行くんだと。「おい、おい、僕らまだ3か月で何も習ってないです」もう、You know enough Japanese(十分に日本語を理解してる)って、それで引っ張られて。で行ったのがアラスカでした。

Q:それで、先ほどのキスカ島ですか。キスカ島に、アラスカに行ったんですね。先ほどのキスカ島の話とは、また別ですか?

キスカ、そこキスカに行ったの、僕らで。

Q:3か月で。

それと、その前の人は、アッツ(島)のほかの島に行ってね。ひどい目にあったらしいですね。だから、キスカ大丈夫だろうと思ったの。もう、それでも、あの調子なら分からんって言ってね。兵隊がおらなかったの。で、やれやれよね。

Q:でもさきほどもね、少しおっしゃいましたけども。やっぱり、日本の軍隊と戦うことに、ねぇ。やっぱり、自分が日本で暮らしてたわけですし。

Yeah.もう、いいかげんで。僕、そのとき思ったね、何か言えるんだったらね。日本人の隊長にね。もうやめた方がいいって言って。あの軍隊の、number(人数)と、heavy equipment (重装備)と見たら、僕勝てるはずないと思った。それだったら、もうやめた方が僕いいと思ってね。それでも、Nobody listened to me.(誰も聞かなかった)。

Q:でも話する機会もないですよねぇ。

そうですね。戦争なんかやるもんじゃないですね。僕、そう思ってた。もう済む前に、戦争なんかやらなくても、話をつけて、みんな平和にやったほうがいいと思うんですよ。それでもほかの兵隊は、喜んであっちやこっち行っているけど、僕はもういいかげんに。

Q:日系の方でも、自分から志願してアメリカのために戦う、というそういう方々もいたわけですよね?

そうですね。僕は引っ張っておられなかったら行ってないと思う。それでもね、僕入ってるときに、あの日本語習いに入ったときに、まだ始まらんときにね、大きなあれがEmpty(空)だったんです。誰もおらない。僕ともう一人、2人だけだったの。そしてone day(ある日)、ドアが開いて、みんなが歩いてね、入ってきて。兵隊の服も何も着てないんです、普通のあれで入ってきた。“Gee, what is these?”(彼らは何だ?)って言った。みんな若いのがね。キャンプから志願してきた、言うた(人たち)。ちょっと僕では考えられないですね。僕、その中に入ってないと思う。でも、彼らは、あんなyou know,あんな勢いで入ってきたんだから。僕、ちょっと感心したよね。一生懸命やるんだと言って。僕とその2人は、We looked at each other and ・・・我々は、顔を見合わせました。どう考えていいかね。それでみんな、一生懸命で勉強してましたよ。日本語を、一生懸命、本当に。僕はそれほどでもなかった、それでも3か月で僕は、overseaに送られるようになったんです。

Q:オカさんが、1942年の2月ですね。かなり早い段階でdraft(徴兵)されたのは、何か理由があったんでしょうかね?

ちょっとの間に送られた。それでもね、「日本語話す人が必要だ」と言って、いま。それでも、僕に言わせたら、もうちょっと立派な人がおったんじゃないかと思うけど、僕に。僕と、あの組が、隊で行ったんですよ。でも3か月、I mean僕そんなに読んでないよ、本。だからね、言っても僕、あの本のほうを読むよりか、よく絵を描いてたの。それで向こうの人がね、“Can you draw?” (描けるのか?)you know,なにか山なんかちょっとね。「できる?」っていうから“OK”って。アラスカのスカウトがね、somebody like you(君のような人が)必要だと言って。そのアラスカのスカウトが前の方に行くでしょう。そのときに誰かが、急に描いてくれたら、あそこあそこと。Enemy(敵)がおるところ。「やれるか?」って言うから「やれる」と。でも行ったときにEnemyがおらないから。そんなに僕はあっち行ったりこっち行ったりせんですんだ。そのアラスカのスカウトと一緒にall over(いろんなところ) 探していました。何もならなかった。

Q:MISの仕事というのは、どういうものなんですか?

MISの仕事は、敵がね、enemyをどんなにしてるか探して、もしもinformation(情報)が取られたら、取って、彼らにやめるようにと。やっぱし、アメリカが勝てるように次ぎから次ぎに。でも僕あまり一生懸命、ハワイにいたときでも日本の重工業の大きなあれ(本)がありましたよね、それをcapture(入手)したものだから。重工業の名前、重工業の何を作ってるか、何人が中におるかね、そんなことを全部書いて、アメリカの海軍の飛行部隊の隊長さんに持たせたの。その人たちがこれを見て、bomb(爆撃)すると言うの。だから、それはGood idea(いいアイディア)と思ったから、僕一生懸命でやったですね。金さんは僕の友達でも、あんなことはひとつもしなかった。ただ、時々捕虜の質問とかあんなのをやって。

Q:その重工業の、本ですか?

はい。Too big one(とても大きかった。)なかなか読んでも分からんところがあったから、そういうところを他の生徒と調べて、あれは大切な仕事だったと思うんですね。それでも、後から日本に上陸してね。やられてる所見るとね、次から次に全部やられてるでしょ。あんまり見てない。僕そう思ったですね。もうちょっとちゃんと見て、必要なところだけ。でもMaybeあれがやり方かも、よく分からんですね。

Q:重工業の工場じゃない、一般のところも爆撃していた。

そう。僕あれだけは、ちょっとがっかりしたですね。

Q:やっぱり、その重工業の工場が例えば岡山にあったら、そこを爆撃しなきゃいけないわけですよね。

そうです。で、東京なんかになるとね、ここ、ここ、とやるでしょ。後から聞いたのではね、東京は全部やられてる。even 自分の living places not manufactures(工場ではなく住宅街すら)もやられて無くなってしまった。あれにはもう僕、ちょっとがっかりしたですね。

Q:ハワイにいたときっておっしゃいましたけども、ハワイは訓練でですか?

ハワイは、あそこに行って、navy(海軍)と仕事してたんです。Navyには、英語が上手な人はだいぶいますよね。でも、それでは足らないと。それで僕らが行ったの。どっちかいうと海軍の人、上手な人もいますが、比べるとね、二世の方が上手だったと思う。

Q:オカさんは、最終的に階級は軍曹ですか?

Master Sergeant(曹長)にはなってなかったですよ。僕は、10人の人が一緒になって、僕がその10人のtopでね、そしてOfficer(将校)が上におった。そんなになって。どれぐらいおったかなぁ。日本人は60~70人ぐらいおったでしょうね。海軍の人は、20人ぐらいかな。

Q:さきほどの話、サイパンにいらっしゃったのは、何年ごろですか?

それは、テニアンと一緒でね。それで、僕らの仕事は、もう戦争はalmost over(ほとんど終結)ですよ。まだそれでも時々、撃ってね、やっていました。僕らは、一人ひとりdifferent assignment(違う任務)をやっていたの。

飛行機がね、ちょうどそれは、クリスマス1944年です。海軍の将校がね、僕を呼んでね。「一杯飲みなさいよ」ってね、大きなbottle(ボトル)を2つくれたの。持って帰ってね、「君たち何もないだろうから」って、喜んで僕、帰って来てね。僕は飲まないですけど、他の人はみんな飲んでた。その晩に、飛行機来たと言ってね。すぐevacuate(退避)するんで、どっか出ていきなさいと、ちゃんと入るところがあるんで、地下に、で、そこに入れって。行くときに見たらね、音がしてるし。日本の飛行機が飛んできました。穴に入ってちょっと待ってたら、もう“everything safe coming out”(もう出ていいと言われました。)そしたら飛行機もうおらなかったですね。

ビックリしたですね。たぶん原子爆弾のあれがあるからあそこに来たんだと思う。

Q:日本が、テニアン島の攻撃に来ていた?

たぶん、飛行機をやっつけようと思って来たんだと思う。

Q:日本がポツダム宣言を受諾して、日本が負けたとき、そのときはどちらにいらっしゃったんですか?

そのときは、ハワイにいたんです。それで、すぐ日本に行くように命令が来たんです。それはどうしてか言うと、普通のあれが、もしも続いてたらね、この組が一番に日本に行って、九州のwest side where landing(西側に上陸)ができるところに自分らが上陸して、日本の軍をいっぱいやっつけるようになっていたんですよ。よう考えてみたらね、海軍の船に乗ったらね、みんな自分はラッキーと思って下さいと。Because戦争が続いてたらね、これがアメリカの第一軍隊として日本を攻めるんだって言って。それでね、日本は待ってる、九州にいっぱい人を寄せて。だからイージーなもんだな、と言って。だからね、自分らはそんなことをしないで済んだからラッキーと思った。本当ですよね。僕そう思った。それで行ったら、砂の上にland(上陸)せずに、どこだったかな。長崎のどこか、そこにlandして。Someの人、あれが落ちたところにすぐ行ってみたんですね。僕は行かなかった。

Q:やっぱり、日本の九州に上陸するって言ったら、日本の人と戦わなきゃいけなくなるわけですよね。

そうですね。そしてあそこは、そのときに、日本軍がprotect(守る)するの、もうものすごいんですよ。みんなそこに来ると思った。アメリカとしては、そこに行ってやったら、マッカーサーは東京の方にlandする。大きな隊でね、上げたらいいと、とってもeasy(簡単)にできると思ってたの。僕らはそれで、行かんで済んだ。やれやれよね。そしてそこから、みんな一人ずつ、あっちやこっちに送られて。僕は下関のほうに送られて。

Q:山口県の。

はい。

Q:やっぱり、でも日本に上陸したときは、弟さんの消息を知りたいと思ってたんじゃないですか?

そう思ってたですね、どうしてるか。それでもね、僕、体の具合が、あまり良くなかったですね。あんなもう、こんな戦争やめてもらいたかった。向こうでも、自分たちは一番の仕事は、飛行場に行って、日本の飛行機が飛ばないように。そして、他の軍隊の人が来て、乗らないように注意しなさいと。それで用心しなさいと。だから飛行機は当分だめになったですね。

Q:オカさんは、占領軍、進駐軍の仕事で、日本には何年間いらっしゃったんですか?

僕はあんまり、3~4か月おっただけで。それで、僕にね、帰ってよろしい、と言って。Enough time spent in the army.(もう十分軍に勤めたと。)だから僕、喜んで他の人と帰ってですね。

Q:3~4か月で。

はい。たぶんfirst oneでしょ。それでハワイまで行くのにね、小さいアメリカの、なんていう船かね。Marineでいうんだから unitとか乗って、Marineの兵隊が大勢乗って、それらのほかの人らとそれに乗ったのはいいが。海が荒れて雨も降ってるし、あんなつらい船に乗ったことないですね。

僕がまだ、テニアンにおったときにね、飛行機が爆弾落としにきたでしょ。おらにゃいい、おらにゃいいと思ったら、あの中の一人が彼(弟)だった。それで帰る前に撃たれてね、海に飛行機が落ちて、亡くなったの。それは本当に、僕知らなかったんです、弟いるところ。アメリカに帰って、兄貴が日本に行って、長くおったの。僕はもう、sick(病気)だから帰ってきたの。もうEnough戦争(戦争はたくさん)、僕あそこに行って、お父さんやほかの人に会うのはさらさら無かったですね。で帰って。

Q:お父さんたちに?

みんな。チカラ(オカさん)が来るようにって。兄貴に言ったらしい。僕は行かなかった。会わなかった。

僕の体もね、どういうか普通のあれじゃなかった。自分がね、そんなfeelingなことあんまり知らなかったわけですね。自分はnothing wrong(異常なし)と思ってた。ただ、weaken ちょっと困ったと感じてね、病院に入れられて、彼らが言うのには、戦争に行ったあれもあるし、いろいろあるから、お医者に診てもらったらどうですか、と言って。いくら何があってもね、「君が損するようなことはない。君のためになることばっかりだから行ってごらんなさい」と言われて。仕方がないと思って行った。そしたら、その先生、何年か一緒になって、いろいろなこと話してくれたね。僕はとってもまじめで、いいことだと、人間として。それでも、普通の人間でもね、時々は、見方があると。まじめばっかりでも、それはいいことですよ、それでもそれだけでは通らないと言って。先生が僕に教えてくれたんです。本当でした。それで、ちょっとの内に、やっぱり7yearsもおったんだから出てきて。学校に行くのでも米国の費用で行かせてもらって。はじめはfull day(一日)行かれなかった。まだ弱いから半日ぐらいで毎日行って。だいぶようなって、一日になって。学校に3年か4年行ったらね、パスして卒業した。

Q:どちらの学校ですか?

Otis Art Instituteって学校があった。はじめはその学校に行って。それから次は、Schnadt Art Institute、これも美術学校です。そこを出て。

Q:7年間も入院してたっていうのは長いですよね。

そうですね。僕、もう出られないと思ってあきらめておった。But even in a hospital(病院の中でも)、やっぱし、僕好きなことをやって。Maybe I found some talent, becauseそこで、先生が言うのには、何をするにしてもね、自分が一生懸命でやるはいいです。Butその代わりに、自分のあれをやるよりか、こう、僕にしては、あんまりまじめすぎると言ってね。戦争で考えて、おもしろいこととかいろいろあるからね、そういうことを考えてやらんといかんと。それを習って、漫画なんか描いたのね。そしたら、何年かたって、5年ぐらいたって、僕にね、「漫画のコンテストがあるからね、入りなさい」と。ぼくは“Oh no, I can’t do that.”でもそういうattitude(姿勢)ではだめですから。やって。その漫画をdisabled veterans art cartoon contest. (入院中退役軍人漫画コンテスト)

Q:あれはオカさんの絵ですか?

病院で勝ったんですよ。

この人がね、真ん中の。Cartoon(漫画)の一番、隊長さんです、アメリカの。それが僕にね、ニューヨークに来られないと言ったら、何でもオカさんの要ること、言ってくださいと。だから僕ね、「できたらみんなにsignature(サイン)してもらって、頂きたい」と。それはNothing to it(簡単なことだよ)って。彼がこれ作ってきたの。これもらうときには、みんな描いた人5人の描いてる人、みんなアリゾナにおったの。その人らが来たの。

そして、この人が言ったんですけど、僕ほど、大勢有名な人がサインしたこんなのはどこにもない、世界中にない。褒めてくれた。

Q:すごいですねぇ。

僕もI’m proud(誇らしい)です。

学校でね、大きなあれがあったの、式が。

Q:1952年が退院した年ですか?

それは、cartoon contestが。

Q:なるほど。これがオカさんですか?

はい。

Q:入院中にずっと絵を描いてたから。

この人が描いた。この人は、アメリカの隊長さん、もう亡くなった。もうmost of(ほとんど)亡くなった。

それまで、こんなことするまで、前は、まじめなことばっかり考えていた。お医者さんが、「まじめなのはいいですけど、時々は笑うぐらいのジョークが言えるようにならなんとだめです」と言った。そうですか?

Q:ちょうどそのころ、1952年ごろ、戦争中日本にいた日系アメリカ人の方々がアメリカに帰ってこられるようになったらしいですね、1952年ごろ。そのころの状況って、何かご存じでいらっしゃいますか? 戦争中に、日本にいた人たち、日系アメリカ人の方が、戦争直後は、やっぱりアメリカに帰れなくて、ずっと日本で生活してて、それから1952年ごろから、法律が変わって、アメリカに帰れるようになったらしいんですけども。

よく、知らないですね。

Q:あまり身の回りで、誰か、オカさんの弟さんのように、戦争中やはり日本にいて、アメリカに帰れなくなって、終戦まで日本にいたっていう方はいらっしゃいましたか?

僕、あんまり聞かないですね。

Q:じゃ弟さん以外には、あまり知らないんでしょうかね。

でも、僕は良くなって、結婚して。まもなく日本に行って、靖国神社に参りました。

Q:オカさんが。

Most people said not to it. I don’t care. That’s how I feel.(反対する人は多くいましたが、私は気にしません、自分が思うことですから。)

Q:靖国神社に。どうしてですか?

弟が亡くなって、僕は弟と会って、すみませんでした、と。ことわり入れて。よくやったと。もう亡くなってるんだからと、あまり放っておくわけにはいかないですね。I think 彼は日本のためと思ってやったんだから、I was hoping, you know, he doesn’t have to go that far. (どうか死ぬことだけは免れてほしいと願っていました。)

Q:すみませんでしたというのはどういう意味ですか?

あれは、戦争なんかやるもんじゃない。だから。それでも、まだ若いし、みんなの命令だからやったんだろうけど、それでも僕らのような者がおらんかったら、やらんですんでると。

でも僕も戦争いうものはそんなにやるもんじゃない、と前から思ってますからねぇ。僕そんなに喜んで行ったのではなしに。やるように言われたから、命令に従ったたけで。できるだけのことはやった。だから彼には、死んでもらいたくなかったですね。

Q:そのオカさんが、自分のような人が、というのは、アメリカの軍隊、というそういう意味ですか? あの弟さんに対してね、自分のような人がいなければ、弟が戦争に、ってそういうお話でしたよね、先ほど。

そうですね。

Q:それは、オカさんが自分がアメリカの軍隊に入ったって、そういう意味ですか?

Yeah. 自分はそれでも、やっぱり兵隊に取られたんだからね、しかたなかったと思う。やれと命令された以上は。

二世の人と帰米の人が、あんまりよくいってないんですね。僕に言わせるとね、二世の人は、帰米の人が兵隊に行っても何にも役に立たなかったとかね、そんなこと話してるから、僕に言わせたらね、帰米の人がおったからこそ、大平洋の方で、いろいろ行ったことでヘルプしてね、なったんだからそういうこと言うもんじゃないって言っても、他の人に言っても、They don’t listen to me.(私の言うこと聞かない。)Because they think true 二世 is the only one that won the war.(純二世だけが勝利に貢献したと彼らは思っているから。)Even、あれですよ。大西洋の方でも、ほとんどみんな純二世の人がやったんで、帰米の人はあんまりやってないと思うね。太平洋の方に行った人はもう、純二世がね、あんまりためにならなかったとかね、言うの聞いたら、ノー、僕はね2つ違った組があっても、僕らが一生懸命に通訳した人にでもね、both一緒に一生懸命やったからできたんで、本当に帰米二世と純二世がね、一緒にならなかったら、たぶんそんなにいい仕事はできなかったと思う。言ってても、僕それを聞いてしゃくに触って。

戦争に行ってるときでも、彼らがおるから邪魔になるとかね。よくあんなこと言えるもんだと思うね。僕は、close to(近い) 純二世まで行けるようになってるからね、なかなか。僕には言わなくても、他の人に言ってるからね、そんなこと言ってはいけないと僕は注意するんです。本当に、純二世が、太平洋の方でね、帰米二世がひとつも役に立たなかったとか言うもんですからね、wrong(間違いだ)。僕、あんまり言わないですね、もう。でも本当にあれはwrongですね。

Q:そんなこと言われたらね、一生懸命戦った方々がね、報われないですね。

中に、そういう人一人か二人おるかも分からんですね。それでも、それはみんながそうだというあれを出さないほうがいいと思うんですね。命を懸けてやったんだからね。僕のfriendでもね、みんな戦争やって、済んでね、last assignment(最後の任務)僕の船に8人か10人ぐらいね、飛行機乗って行ってたらね、飛行機落ちてね、みんな亡くなった。あの中には、帰米二世と両方おったよ。僕はどういう因果か分からんが、乗らなかったですね。

Q:純二世の人は、なぜわざわざそんなことを言うんですかね。帰米の人に。

たぶん、あれでしょう。自分らは英語が上手だから。いばってるんじゃないかと思うんですよね。それでも、本当に僕、気にかかるのは、戦争で誰が勝った、誰が負けたって、そんないうあれはないと思うんですね。だって両方とも一生懸命で入ったんだからね。戦うようになったんだから。僕だったって、そんなあんま戦争好きではないですよね。それでも、やるだけやったんだから。僕そんな、人の悪口言うあれはないと思う。

Q:日系アメリカ人と帰米と呼ばれる日系の方たちの間の衝突は、どのようなものだったか、教えて頂けますか? どういったことが起きていて、なぜ衝突があるのか?

英語力の違いだと思います。純二世の英語力のほうが帰米二世より優れていました。彼らはうまく話すことができました。帰米二世は、スピーチの最中にあちこちで引っかかったりして苦労している。でも所どころ引っ掛かると言っても、それが何だというのでしょう。 彼らはベストを尽くしているならとやかく言う必要はありません。ベストを尽くすことが大事です。そして、もしできないなら、いつだって教えてあげればいいのです。

Q:では、純二世は英語力を非常に重要視していたのですね。だからこそ彼らが自分たちは優位だと感じていたわけですね。それをどう思いますか? どうして、彼らにとって英語力がそれほど重要だったんですか? 英語が話せなければアメリカ人ではないという感覚を持っていたのでしょうか?

そこまでは分かりません。恐らく英語が話せなければ、ある部分で劣っていると見なしたのです。でもそれは間違いです。他の技術や言語を知らないとどうやって分かるんですか? それだって、ただの単語や何かの誤りに過ぎません。そんなことで、人を格付けしたりするものではありません。その人間がベストを尽くしているかが重要なんです。

Q:最も大事なことは、人々がベストを尽くすこと、とおっしゃいましたね。それは、日本にいた弟さんも含みますか? 弟さんもベストを尽くしたと思われますか?

彼も自分の信義のもとでベストを尽くしたと思います。弟はばかではありません。正しいと信じたことはやり抜いたと思います。彼の忠誠心に疑いの余地はありません。彼は日本に対して忠実だったのです。そうあるべきでしたから、私には口出しできません。ですが、弟はすばらしい人間でした。弟は私より2歳年下で、長い間、日本で一緒に過ごしました。彼の死の知らせはあまりに耐え難かった。だからといって、私は弟の命を奪った日本人の誰も憎んではいません。弟は彼自身と祖国のために最善と思われることをしました。私にはどうすることもできませんでした。我々はそれぞれ別の人間なのですから。そういうものです。私はアメリカにとどまって、戦わずにいたかった。ですが命令を受けて戦地へ行きました。そしてそこで、私なりにベストを尽くしました。私を知る知人、誰に聞いてくれてもいいです。戦時中、私がどんな軍人だったかを。 自分以上にベストを尽くした人間はいないと思うくらいです。弟も私のように命令に従って行動したのです。しかし残念です。

Q:でも、敵側で戦いながら、弟さんのことを常に考えていましたね。そのときはどういう心理状態でしたか?

私にとってはそれは、常に心配の種でした。日本軍が攻撃されているのを目にすると、そこに弟がいないことを確信しておきたかった。戦争が終わるまで、何も知らなかった。彼が亡くなったことを聞かされました。私は弟の飛行機を見ました。でもそれが弟が乗っているとは知りませんでした。私は戦後に彼の死を知り、ひどいショックを受けて病気になりました。そして7年間も入院しなければならなくなりました。

戦争は最も悲惨なことです。もし戦争に行かずに済んだなら、どんなに幸せだったろうと思います。でも私は徴兵され、命令されたから行かざるをえませんでした。私はアメリカ人としてその任務を果たしました。戦地へ行った弟が、いつどこで戦っていたのかは分かりませんでした。実際に戦地にいたのかどうかも定かでなかった。しかし戦争がすべて終わり、弟が同じ地にいたと知りました。テニアンで見た飛行機の1機に弟は乗っていたのです。飛行機は墜落して弟は死にました。

Q:ショックですね。

そういう事例が、どのくらいあったのかは知りませんが、本当に悲劇です。傷つきました。何年もたった今でさえ、弟が生きていてくれたらと思います。

Q:弟さんのことを今でもよく思い出すのですね?

はい。

時々、話しをするほうがいいのです。かつての私は、あまり話しをせず、胸に秘めていました。しかし それは間違っていると病院で教えられました。医師は、私が正しいと思い込んでいたことを指摘してくれたのです。実際に医師に話した後、とても楽になりました。

Q:他の人に話すまで、自分の中にすべてをしまい込んでいた?

はい。

Q:深く傷ついたのですね。

はい。本当に・・・病院で指導されたものの、あまり試す気はなかったんです。ですが別の医師に「失うものはなにもない」と言われました。それで受け入れたのです。徐々に変わりました。ふざけた話もするようになりました。

Q:効果が出ましたね。

今では仕事の後でも冗談ばかりを言っています。周りにいる白人たちもみんな笑っていますよ。僕は「なぜ笑うんだ?」とみんなに聞くんです。

Q:何年もかかりましたね。

はい。

出来事の背景

【日本兵になったアメリカ人】

出来事の背景 写真 昭和16年(1941年)12月8日、日本軍による真珠湾攻撃で運命が大きく変わった人たちがいます。日系アメリカ人です。太平洋戦争が始まった当時、日本には、4万人を超える日系アメリカ人がいました。その多くは、日本で教育を受けるため一時的に滞在していた二世の若者たちです。日米の開戦によって彼らはアメリカに帰る道を閉ざされました。その上、アメリカだけでなく日本の国籍も持つ日系二世は、日本軍に徴兵されて母国アメリカと戦うことを強いられました。戦艦大和の沖縄特攻作戦に参加して大和とともに海に沈んだ若者、中には兄弟で敵味方に分かれて戦った人達もいます。

 日本の敗戦後、進駐軍がやってくると、彼らは新たな困難に直面します。敵国の軍隊に加わったとして、アメリカの市民権を剥奪されたのです。中には、死刑判決を受け、監獄の島に収容される人もいました。

証言者プロフィール

 
カリフォルニア州に生まれる
 
5歳のとき来日、岡山県へ
1937年
岡山県高松農業学校(現・岡山県立高松農業高等学校)を卒業後、17歳で帰米
1942年
2月、徴兵され入隊、その後MIS(陸軍情報部)へ
 
キスカ島へ。テニアン・サイパンなどで情報関係の任務に当たる
1945年
ハワイで終戦を迎える。日本に進駐(約4か月)した後、入院。退院後は美術デザイナーとして働く

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