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タイトル 「語学に助けられた人生」 番組名 [BS1スペシャル]長い旅路 ~日本兵になったアメリカ人~ 放送日 2013年8月15日、16日
氏名 マイク・イワサキさん(アメリカの日系人 戦地 アメリカ合衆国(カリフォルニア) シベリア 朝鮮  収録年月日 2013年6月28日

チャプター

[1] チャプター1 海軍へ  07:54
[2] チャプター2 昭和20年(1945年)5月に結婚  04:50
[3] チャプター3 アメリカを恐れたソ連兵  04:45
[4] チャプター4 復員後の仕事  04:41
[5] チャプター5 アメリカ市民権の回復  10:03
[6] チャプター6 帰還の喜び  03:28

再生テキスト

子どものころ日本に帰ってたんですけどね、日本の国籍がないので軍隊に行けなかったんですよ。祖父が心配して出生届けを出したんです、日本で。それで日本の国籍入った。それまで日本の国籍なかったんです。国籍入って、いわゆる徴兵検査があって、陸軍っていうことになったんですよ。もう陸軍なんて、テクテク歩いて殺されちゃうってんで海軍志願して、飛行予備学生、飛行機乗りになって、予備学生として、終戦まで、シベリア抑留されるまで、日本の海軍で、終戦時は海軍中尉で。索敵、羅津(北朝鮮)で終戦になって、元山で捕虜になって、シベリアに3年抑留されて、抑留後3年たって、日本に帰国して。日本の国籍はなかったんだけど。おじいさんが出生届けを出してるんですよね。私はアメリカ人だから日本の国籍なかったわけ。いろいろあって良かったか、悪かったか。国籍がなくてよかった場合、あったから良かった場合。いろいろありましたけどね。生き長らえて91歳の齢を保つことができました。

陸軍のほうに行くようになったんですけど、陸軍の方はてくてく歩かされて嫌だから。予備学生、海軍、飛行の予備学生に志願したんです。どういうわけか知らんけど、上から5組ある中で6番目ということは、1番の5組の一等星だけは、これはもう指名なんだ。歳もとってたし、都合よく2番で入隊して海軍生活送った。私は人よりも1つ年上だったから非常に都合よかったと思うんですよね。

Q:予備学生の何期ですか?

13期飛行予備学生。陸軍予備士官学校、陸軍に行けば、学徒関係で任官できたんだけど、もう陸軍なんて嫌だから、海軍に志願して。でも海軍も人よりも1つ年上でしたからね。案外、順調に。早く少尉に任官して。少尉になると軍人っちゅうのは階級が上になると楽ですからね。

Q:海軍に入隊したときは、上官はイワサキさんがアメリカ生まれということはご存知だったんですか?

上官はアメリカ生まれ、使い道があるっていうことは知ってたらしいんですよ。英語が分かるし日本語が分かるし。だから本当に予備学生時代から私は楽をしました。普通の予備学生みたいに鍛えられずに、順調にあがって。終戦時は海軍中尉。シベリア抑留されて、でも英語がしゃべれたのと、ロシア語も早く覚えたし。非常に振り返ってみると、捕虜にしては楽な生涯を送ったと思うんですよ。言葉のありがたさというのがよく分かりましたよね。だけどシベリアでは毎日、7人から10人友達が死んでいくんですよ。捕虜大臣が最後に、どうしてこんな死ぬるかということ。我々の糧まつ横流してたんですよ、所長が。彼を裁判にかけてカムチャッカかどこか送られることになったんで、それが嫌で自殺して死んじゃった。

Q:ソ連の?

ソ連の将校でね。ソ連で抑留されたりしたら大変なことに。生きてるより死んだほうがマシだっていうんで。自殺して死んじゃったんですよ。全て、こうして生かされてることには感謝してますよ。こんなことしゃべれるのも生きてるからこそね。

Q:軍隊にいらっしゃるときに命の危険は感じることはあったんですか?

何回もありますね。香港でB24に追っかけられて、これはもう大変だって言うんで。香港の裏っかわにはトウシャ島って島があるんですよ。島影に逃避して。そのときに急に折りたたみ、フロートを折っちゃったんです。フロート2つ付いてる。このままだとひっくり返るから、もう全速でバーと飛ばして陸に上がって、陸に押し上げて命拾いしたことがあるんですけどね。香港から内地、特攻要員として内地に引き揚げたんですかね。特攻隊にも行かなくて、朝鮮のほうに。カネダ大尉っていう指揮官でね。「イワサキ、貴様ついて来い」って言ったから、羅津に、朝鮮の羅津に連れて行かれたんです。それで命拾いしたわけですけど、人間の運命って分かりませんよね。

奥さん・栄子さん:10歳で帰ってきて、6年生を2回やって、そして熊商に入りまして、熊本高等商業(現・県立熊本商業高等学校)にね。そこから熊本高等商業をですから・・・。一応5年間で商業学校は昔、終わってましたから。そしたら福岡高商(現・福岡大学)に行きたいと言うことで。

どうしても私とのご縁があるためかなにか、その年、福岡高商はね2千人の受験生があったんですよ。ここに今度はいる人優秀な人ばっかり入るだろうな、なんて私思ってたんですよね。

既に私の家に来るときが・・・まだ19歳のときですから17年ですよね。17年の12月8日に私の家にきたんです、主人は。海軍に行くまで、兵隊に行くまで、2年半くらいおりましたでしょうかね。下宿してたと思います。それで結局、お父さんはアメリカだし、お母さんは亡くなっていないし。父が非常に同情して、兵隊に行くとき、お祝いなんかも皆父がしてくれまして。結婚したのが昭和20年の5月8日。朝鮮に行く前に結婚いたしましてね。

イワサキさん:結婚してなかったら沖縄特攻行ってるよ。

栄子さん:そうですね。沖縄特攻行くんだ言って香港から戻ってきて。そして博多海軍航空隊に一応おさまって。

イワサキさん:そして羅津に派遣になって。羅津で終戦になって元山で抑留された。

栄子さん:6月10日に行ったんですかね。羅津に。そして7月の始めに1日ごろ。飛行機ですから、すーっと向こうから。

イワサキさん:ごちそうもって。

栄子さん:朝鮮のすごく品の良いさば。活きさばのひとしお物と、それから棒だらの干したのとね、おみやげに持って帰ってくれまして。ちょうどもう何もないときでした。終戦前の7月の・・・14日頃帰ってきて。本当にうれしかったです。そのころ、日本は食べるもの全然ありませんし。7月ですからね。終戦が8月の15日ですか。

イワサキさん:それからね。羅津から元山まで部下を連れて歩いたんですよ。北鮮の人たちが日本人を敵視してましたからね。もう憎まれながらやっと元山まできて。元山で米国の収容所に抑留されて。それからナホトカ、シベリアで抑留生活が始まった。3年シベリア。将校だったけど英語がしゃべれたので、本当に兵隊が苦労して働いてても、私は歩哨が連れて行って、影でごちそうしてくれたりしてね。申し訳ないくらい楽をしたんです。

栄子さん:ロシアの兵隊からスパイだと言われたって?

イワサキさん:そうそう。わざわざ捕虜になってスパイを入れたんだってこと言われたんですけどね。7歳、8歳のときの子どものころにね、スパイなんて入れるわけがないって言ったら。それは「子どものころから訓練して、わざと捕虜にならせたんだ」って言われたんですよね。ソ連側でもロシア語も早く覚えたし、捕虜としては楽をしたほうですよ。いわゆる日本側の部隊の長としてね、優遇されたほうですよ。

栄子さん:でも炭鉱に行ったって言いました。

イワサキさん:炭鉱にはね。数を何名出せって言われるから、数をそろえるわけ。10名出せって。その中に自分も入るわけ。炭鉱の方ではね、オフィサー(将校)だから仕事させられないって文句言うわけよ。あとの9人だけ。うちは外側で日向ぼっこ、陽だまりで座って待ってた。悪いなって思ったけど軍人ってのは将校ってのはおかげさまで助かりましたよね。だけど炭鉱は中に入った方が冬は温かくていいんですよ。

Q:ソ連からアメリカのスパイじゃないかと疑われた話を詳しく話してほしいんですけれども。

イワサキさん:「まだ子どもだったからそんなことはしない」と言ったら。「いや、アメリカは子どものころからスパイ訓練でわざわざ抑留されたんだ」って言ったから。もう・・・ありえないって言ってから笑ったことがあるんですけどね。それほど疑ってたんですよ。わざと子どものころからロシア語を勉強して、ロシア語も早く覚えたんですよ。やっぱり英語に似たところがあるんですよね。だからやっぱり言葉というのは、そういう意味では助かりましたよね。

Q:英語で話すことは多かったんですか?

イワサキさん:英語で話すってわかってたと思いますよ。アメリカのスパイだなんて言われたこともありますしね。12歳のときに日本に帰ったんですから。英語はしゃべれても子どもの英語ですよね。それでもやっぱりだいぶ疑われましたよね。それほどアメリカを怖がってたんですよ。

Q:イワサキさんの本がありますね。『我が人生の記録』。あれを読みましたら・・・

イワサキさん:全て物忘れ人間は早いもので。記録があればと思って一生懸命書いたんです。だから内容は間違ってないと思います。今頃自分で読んで、こんなこともあったかなってくらいで。記憶が定かじゃないですよね。やっぱ人間って忘れることもいいことですよ。いいこと覚えて、忘れたいこと忘れちゃって。

栄子さん:あのブックはですね、主人がシベリアから帰りまして。終戦後ですから、お父さんがもうキャンプから出ておられたんでしょうね。そして一生懸命ずっと内容を書いて手紙をぜんぶ送っておったんですね。それがぜんぶお父さん持って帰ってきたんです。その資料を見て書きましたから間違いないわけです。

イワサキさん:兄貴が八幡製鉄で働いて。私の復員を待って。帰ったら福岡軍政部に仕事を探してくれたんです。そういう意味では失業することなく、右から左に進駐軍の仕事ができて。非常に助かりました。しまいにはうちはソ連がだね。どっかの特別通訳で行ったんだよ。福岡軍政部・・・ずっと軍政部かな。

Q:OSIですか?

栄子さん:OSIですね。柏原の方に。

イワサキさん:そうか。OSI(特別捜査局)、これはOffice of Special Investigation 機密資料を集めるいわゆるスパイ。アメリカのスパイですよ。それで日本語と英語が分かるので、重要なとこに私は派遣されて情報を集めをやらせられたんですよ。スパイ行為です。アメリカのスパイですよ。Office of Special Investigationって。

軍政部に勤めて、要するに対共産主義、対右翼主義とか言うのを。調査をだいぶ依頼されましてね。極右、極左ということは非常に警戒したし軍政部のために、引いては日本新政府のためにね。ある程度努力はしたと思います。

抑留経験、シベリアで抑留経験なんか、アメリカの軍政部に呼ばれて報告しましたけど、もう全て忘却の彼方に消え去ってしまって、何しゃべったか覚えていません。確かに占領軍にとっては貴重な資料だったと思います。覚えている範囲内。だけど3年間の抑留生活も将校であったためにね、楽なほうでした。だから苦しんだ経験あまりないの、抑留中も。常にソ連側の兵隊と一緒にどっか連れて行かれてごちそうなったりね。悪いけどみんなが作業が終わるころ、とことこ出てきて一緒に帰るとか。それから自由行動が許されるようになって、働いたらお金がもらえるんですよ。そのお金を集めて収容所帰りに出ていろいろ買い物をして帰ってくるっていう、そういう特権もありましてね。ロシア語も英語も発音がよく似てるし早く覚えたんですよ。言葉というものはそういう意味で助かりますよね。今でもハラショーとか、・・・英語に似た発音があるんで、同じ日本生まれがロシア語覚えるよりも私の発音が良かったと見えて通じたんですよね。言葉は身を助けるっちゅうことは本当。

アメリカ市民権回復って、アメリカ市民権しかなかったんですよ。郷里で戦後こちらでアメリカ市民のが有利だっていうので、勝手に私を日本の国籍に入れて軍隊に行かせた祖父が取り消しやったんです。そうするとアメリカ生まれですから、市民権が回復されて。やはりそのほうが得なんですよね。アメリカ市民である。日本国籍はないってことで。どうしてって言っても、祖父がその方が都合がいいからってことで、日本国籍放棄したと思うんです。アメリカ国籍は生まれながらにして国籍ですから、日本国籍を放棄さえすれば自然とアメリカ市民権は回復できる。

戦後やっぱりアメリカがいいなぁって言うんで、アメリカに暮らしたいって気持ちは強かったですね。日本は敗戦で惨めで食うや食わずの生活をしてたころですからね。こちらで暮らしたいと思ってましたよね。

日本ではやっぱり、みんな一般的には悲惨な生活をしてましたからね。アメリカというのは羨望の的だったしね。第一、私は日本の国籍無いんですよ、元々が。戦争中に祖父が出生届けを出して、日本人じゃないから日本にはおれない。アメリカで暮らしたほうが楽だよね。

栄子さん:そのときにまつわる話が私にもありましたね、この人がアメリカ市民権を回復したために、私どもこの人の籍に日本の籍に入っておりますでしょ。そしたら親子3人バツをもらってね、この人自分だけ市民権回復してアメリカに帰ってしまった。今度それから9か月たって呼んでくれたんですよ。そうしたらね、熊本の浜町の役所に市民権もらいに行ったんですよ。私こっちに来るために、日本の市民権でもって。子どもは主人が持っていますので別になにもいらなかったんですけども、私一人、市民権、里にもないし主人のとこにもバツもらってるからどうしようもないで無いって言うんですよ。

Q:国籍がなくなっちゃった?

栄子さん:なくなっちゃった。無国籍者になっちゃったんです、私が。それでね、役場、浜町の役場でね、とにかく今回一回でいいですから、そのバツがついたのでもかまいませんから・・・

イワサキさん:二度と帰りません。

栄子さん:市民権のその戸籍をくださいって、バツがついたままいただきまして、やっと福岡の領事館でしたかね、に行って、お話して、やっとパスポート作っていただいて、そしてこちらに来ました私。そしてこの人が結婚してから私を自分の籍に入れないで朝鮮の羅津に行ってしまいましたから、あの子が生まれた、でもね、戸籍の入れようがなかったんですね。それで生まれたときに、大急ぎでお兄さんに手続きしていただいて、主人はまだいませんからね、シベリアにいるから。それでイワサキの籍に。それで、この人の本当の生まれた日にちはずっと遅れて何かおかしな具合でね、下の子が生まれたときはこの人は帰ってましたから、よかったんですけど。

Q:混乱されてますね。

栄子さん:ええ、戦争のなんていうんですか、戸籍謄本みたらもうほんと、ててなし子ができたような具合に。おかしな具合になりました。

Q:大変ですね。

イワサキさん:だけどもマミーは日本の国籍はないわけでしょ?

栄子さん:ないです。もうとにかく「主人がアメリカに行ってますから。そちらに行きたいから、バツがついていても書いてください」って言って。「これで最後でいいですから」言ってね、いただいて、こっちに来て。そしてこちらの市民権をやっと取って、そしてアメリカ国籍になりました。

Q:今はお二人ともアメリカ国籍で?

栄子さん:親子4人こちらの国籍です。

Q:イワサキさんも日本の国籍はもう・・・

栄子さん:全然、私もないし。子どもたちの籍もないです、日本には。そしてもうひとつ兵隊に行きましたから恩給があるわけなんですね。シベリアにも3年も行きましたから、それが3倍になって全部で兵隊のときの恩給がいただけるアレがあるんですけども、アメリカ人だから、外国人だから、恩給は無いと。いうことで、いただけませんでした。いまだに。そしていただけたのは、シベリアから帰ってきて7年間分、アメリカに来るまでの間の、丸々7年間分の恩給をやっと去年からいただけるようになりましたかしら。おかげさまでね。

イワサキさん:今でも恩給はきてるんでしょ?

栄子さん:はい、その分の年金は来て、やっと去年の2月からいただきましたね。

イワサキさん:お金どこにあるの?

栄子さん:いつもアレを聞くんですよ。お金どこにあるの。みんな使っちゃったからもうないですよ。

イワサキさん:みんなヘソクリにしたの?マミーのヘソクリに。

栄子さん:そうですね、そんなお金とっくになくなっちゃった。

イワサキさん:こうして生かされてるから、冗談も言えるしね、ありがたいと感謝してます。91歳の老齢をむちうちながらがんばっています。

おかげさまでね、日英両語をしゃべれたっていうことと、いろいろな点で得しましたよね。派遣社員が、派遣の人が来てもやはり言葉っちゅうのは、思うように会話ができないから、日英両語を不自由なく話せたっていうのは本当に幸いでしたよ。

栄子さん:70歳まで完璧に働きましたので、おかげさまで楽をさせていただいています。

Q:すばらしいですね。

イワサキさん:軍隊に行ったことは当然日本の国籍だから入るのは当然で。しかも予備学生ですからね、一般の兵隊さんのように苦労もなかったし、いい経験だったと思いますよ。将校として部隊を指揮したりしてね。苦労は全くなかったです。日本の軍隊に行ったことはアメリカ人としては反逆罪かもしれないけど良かったと思いますよ。

ナホトカから船に乗ってロシアのカピタン、大尉の人で、と別れを惜しんだんだけど。良くしてくれた人が「ダモイだ、ダモイだ」って言ったから信用できないの。日本の船だから帰るんだ。「いや、ホントかまたこれからどっかに回されるんじゃないか」ってだいぶ心配したけど。ナホトカの港を出て初めて、あぁこれで帰れるなと思うた。うれしかったねぇ。舞鶴に入港して。

栄子さん:「お父ちゃん」言うて走っていったようでしたね。なんの抵抗もなく抱っこして涙をポロポロ出しました。

イワサキさん:あの子帰ったときが2つくらい?

栄子さん:2つ半でした。それがいま67歳。

イワサキさん:それから何十年になるの? ・・・65年になるか。早いもんですね。だけど同じ抑留された人間で生きてるのはほとんどいないんですよ。もうほとんど死んじゃってね。私なんて長生きさせてもらって、こういうお話ができるのも有難いと思うんですよ。あと何年生きるかな。

栄子さん:長生きしてください。100まで生きてくださいと言うんですけど。

Q:これイワサキさんどれですか?

イワサキさん:これね。

これが私が乗っていた飛行機です。戦後、みなこう駐留軍の関係、占領軍の関係こういうものを処分しちゃったんですよね。ただ私のよくとっとってくれたなあと思って。これが三羽がらすの仲いい3人。もうこれ2人死んでいないです。

出来事の背景

【日本兵になったアメリカ人】

出来事の背景 写真 昭和16年(1941年)12月8日、日本軍による真珠湾攻撃で運命が大きく変わった人たちがいます。日系アメリカ人です。太平洋戦争が始まった当時、日本には、4万人を超える日系アメリカ人がいました。その多くは、日本で教育を受けるため一時的に滞在していた二世の若者たちです。日米の開戦によって彼らはアメリカに帰る道を閉ざされました。その上、アメリカだけでなく日本の国籍も持つ日系二世は、日本軍に徴兵されて母国アメリカと戦うことを強いられました。戦艦大和の沖縄特攻作戦に参加して大和とともに海に沈んだ若者、中には兄弟で敵味方に分かれて戦った人達もいます。

 日本の敗戦後、進駐軍がやってくると、彼らは新たな困難に直面します。敵国の軍隊に加わったとして、アメリカの市民権を剥奪されたのです。中には、死刑判決を受け、監獄の島に収容される人もいました。

証言者プロフィール

1922年
カリフォルニア州ワッソンビルに生まれる
1933年
10歳のとき母が他界し、11歳で父と兄弟と来日し熊本へ
1943年
10月、福岡高等商業学校(現・福岡大学)を繰り上げ卒業し、三重海軍航空隊へ
1945年
5月、栄子さんと結婚。8月、朝鮮半島東北部の羅津で終戦を迎え、シベリアに抑留される
1948年
7月、復員。その後、福岡軍政部や警察予備隊、特別捜査局(OSI)などで通訳を務める
1955年
帰米、日系の銀行に就職

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