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タイトル 「シベリア抑留を体験」 番組名 [BS1スペシャル]長い旅路 ~日本兵になったアメリカ人~ 放送日 2013年8月15日、16日
氏名 サトル・トヨダさん(アメリカの日系人 戦地 アメリカ合衆国(カリフォルニア) シベリア  収録年月日 2013年6月15日

チャプター

[1] チャプター1 シベリア抑留を体験  03:01
[2] チャプター2 アメリカの日系2世  02:23
[3] チャプター3 貧しい戦後日本の生活  03:11
[4] チャプター4 帰米後の生活  03:21
[5] チャプター5 日本国籍を抜いて帰米を果たした  01:45

再生テキスト

昭和18年か、大連に行って、大連の学校出て、そしてあそこで召集されたんですよ。あのときが19歳です。それから、ハイラル、いちばん寒いところですよ。もう、ソ連と本当国境近い、あそこで収容所に入って、それからソ連に送られたんですよ。とにかく、あの収容所の汽車に乗ったらね、ずっとシベリアまで連れて行かれたわけですよ。途中途中でね、やっぱり日本の軍隊の兵隊はね、プラットホームで手を振っているんですよ。わたしらはもう「帰るぞ!」って言ったらね、「ユー(You)らは、だまされてる」っていうことを言うてるわけですよ。なんていうことはない、チタでね、ひどい目に遭いましたよ。食べ物もなくて、つつじをね、歩きながら食べながらね。馬もね、伐採をやってたから、馬で切ったまきを重ねて馬に(積んで)、そりで下まで持って行くんですよ。そして、馬がもう無理きてね、痩せて死んでしまうわけですよ。その死んだらね、山奥でね、馬を焼いてるわけですよ、ソ連の兵隊が。そうしたら、煙が見えるから走ってってね、夜遅く行って、脚を担いできてそれを食べてたんですよ。

Q:食べ物がなくてね・・・

バタバタ死にましたよ。亡くなる前はね、その兵舎、収容所の中でね、ストーブがあるんですよ。二か所かね、みんな亡くなる前に、あぶってるんですよ。もうしらみがいっぱいついてるのが分かるんですよ。もう、この人は長くないなぁって・・・。だから、何万っていう兵隊が死にましたよ。

引き揚げるときにね、とにかくナホトカから佐世保にね、引き揚げてくるときね、引き揚げ船を沖のほうに止めるんですよ。いろんな検疫検査するわけですよ。検疫検査にボートに乗ってくるそのね、みんな二世なんですよ。そして、一人一人を部屋に呼んで、みんな二世の兵隊が。私も二世でしょう。「はい、チューインガム食べなさい。チョコレート食べなさい。」あのころはアメリカは豊国だった。日本は何にもないころだったでしょう。だからそれで、質問される方がナホトカから、シベリア・・・あそこはチタ、チタからね、佐世保に来るまで、途中で何を見たか、どこで何を見たか、そういうのをいちいちアメリカの何は調べるわけですよ。どこどこに工場があっただろう、飛行場があっただろうとそういうことを聞くんですよ。

Q:それは二世の・・・

うん、二世の兵隊、日本人の。私も日本人でしょうが。だから変な気持ちだったですよ。

Q:やっぱり変な気持ちだったですね。こっちは日本兵・・・

はい、日本兵の二世だからね。

Q:そのとき初めて意識したわけですね。その二世の兵隊さんを見たときに、話しかけたいなぁとか、そういう気持ちにならなかったですか?

ならないですね。とにかく敵国だからね。「この野郎が」、という感じですよ。

Q:豊田さんは進駐軍で何の仕事をしてたんですか?

エンジニア。冷蔵庫とかああいうのを直しておったんです。それで冷蔵庫、進駐軍は物持ちでしょう、あのころのアメリカね、冷蔵庫を開けるとね、いっぱいごちそうが入ってるわけですよ、肉なんか。肉を持ってうちに帰る。すると検閲があるんですよ、するとね5年も、何年も、もう知ってるから、“Ok, go ahead”「行け行け」って。持ってうちに帰って。戦後なにも食べるのがないでしょうが。大分持って帰りましたよ。

Q:やっぱりお腹すいてた時代ですね。

そうですよ。引き揚げできたときはね、パン1つと洋服、予科練の洋服そして千円、それだけもらったんですよ。舞鶴で、千円ですよ、あのころは千円ですごかったと思いましたよね。終戦後。

Q:千円をもらえたんですね。

皆一連で、皆千円ずつ渡しました。「ご苦労さん」いうて。

Q:そういう復員の手続きするわけですよね。

でもそのころはね、やせとるでしょうが。栄養失調ってね、腹ばっかりこんな出るんですよ。そしてここから下はこんな細いですよ。だから元に戻るまで何年ってかかりましたよ、栄養失調で。だから、「ご苦労様」って、千円をもらって帰ったけどね。

Q:進駐軍で働くきっかけはどういうきっかけだったんですか?

きっかけはね、私がこっちの二世だから、すぐ入れたんですよ。だからあそこのエンジニアに入って5年間働きましたよ。

Q:5年間で働いて、その後、アメリカに帰ろうと思ったんですか?

うん、ママが、終戦当時は仕事もなくて、進駐軍も5年働いてたから、そのころでも仕事がなかったからね。それで、そろそろアメリカに籍があるんだからアメリカに行ったほうがいいよって言って、こっちに来たわけですよ。

こっち(アメリカ)に来たときは苦労しましたよ。もう、とにかく仕事がなくなったから日本、こっちに来たら仕事いっぱいあるんですよ。それだからね、もう夜も昼も働いて三つぐらい、一日三つぐらいの会社を変わって、夜、昼。そして、食べ物は日本人経営のレストランに行ってね、そこで食べさせてもらって。そうしたらね、一世のコックさんが、「あんたあんまり食べすぎるよ」って言ってね、「俺が作ってやる」って言って・・・もう、とにかく乞食の入るこの浮浪者相手のレストラン。だから、もうお金をもうけてるんですよ。アキレストランっていうて、広島の人。だから私もそこに入って、とにかく私はよく食べるもんだから、じゃ一世のおじいさんが、「あんた食べすぎるよ」って、「あんたみたい食べたらうちは商売が上がったりよ」って言うじゃないですか。で私がいろいろ作ってやるって、ハンバーガーね、食べさせ(てくれ)た。そうしたら、ハンバーガーの腐りかかったハンバーガー。ここの大きいホルスタインがいっぱいいるんですよ。でも苦労しましたよ。仕事は三つぐらい働いて、お金はぼんぼん入りました。あのころ、360円だからね1ドルが。

Q:もし、じゃ戦後日本の経済状態もっとよかったら、日本で暮らしたかったですか?

もう、やっぱし仕事がなかったでしょう、戦後ね。進駐軍で働いてもう、大概で進駐軍も辞めて、もうアメリカに行っていいよって。もうそのころは仕事がなかったんですよ。だからアメリカに来て。

Q:アメリカに対しては、やっぱり敵という気持ちはあったんですか?

でも・・・アメリカに世話になってるからね。

Q:アメリカに世話になっている・・・

でも、やっぱしね、こっちのほうがいいですよ。雨も降るじゃないし、ここね。地震があるじゃないし、風が吹くじゃないし、最高ですよ、やっぱし。だから日本にはいつも行ってますよ。去年も行って、今年もまた行ってこようと思ってね。墓参りよ。靖国神社に行って、今靖国神社行ったらもうお参り客が少ないですね。もうびっくりするほど少ないんですよ。私はあそこに行ったたびにお参りするけどね。

二重国籍って、アメリカの(日本の)籍は抜いたんですよ。

Q:いつ?

こっち来るのに。こっち来る前にね、お前は日本で選挙もしているし、いろんな面で、やっぱり籍を抜かないとアメリカに行かれないよっていうことで、だから裁判をかけて籍抜いて。籍を抜いたばかりにこんな随分二重国籍だったらいいこといっぱいあったけどね、籍を抜いたから随分苦労しましたよ。

Q:アメリカの国籍を抜いたんですか?

ノーノー、日本の国籍を抜いた。二重国籍をね。

声・奥さん:結局その時代はね、二重国籍はアメリカに来られないから。

来られなかったんです。だから、裁判にかけて・・・

Q:終戦後は二重国籍のままだったんですか?

うん、ずっと。戦後ね、こっち(アメリカ)に来るのに、あんたの場合は日本の選挙もしてるしね、だからね、行かれないよって裁判にかけて、だから仕方ない籍を抜かん(といかん)って言って、やっぱし二重国籍を抜いたわけです。

Q:今はじゃアメリカの国籍を持って。

はい、今はアメリカの国籍。

Q:じゃあ日本に帰るときはアメリカ人として。

そう、アメリカ人として。

出来事の背景

【日本兵になったアメリカ人】

出来事の背景 写真 昭和16年(1941年)12月8日、日本軍による真珠湾攻撃で運命が大きく変わった人たちがいます。日系アメリカ人です。太平洋戦争が始まった当時、日本には、4万人を超える日系アメリカ人がいました。その多くは、日本で教育を受けるため一時的に滞在していた二世の若者たちです。日米の開戦によって彼らはアメリカに帰る道を閉ざされました。その上、アメリカだけでなく日本の国籍も持つ日系二世は、日本軍に徴兵されて母国アメリカと戦うことを強いられました。戦艦大和の沖縄特攻作戦に参加して大和とともに海に沈んだ若者、中には兄弟で敵味方に分かれて戦った人達もいます。

 日本の敗戦後、進駐軍がやってくると、彼らは新たな困難に直面します。敵国の軍隊に加わったとして、アメリカの市民権を剥奪されたのです。中には、死刑判決を受け、監獄の島に収容される人もいました。

証言者プロフィール

1925年
ロサンゼルスに生まれる
 
4歳のとき、母と妹と共に来日し熊本へ。鎮西中学(現・熊本市立鎮西高等学校)で学んだ後、大連高等工業技術専門学校に進学
1943年
卒業し、関東軍第515部隊225連隊 入隊
1945年
満州(現・中国東北部)で終戦を迎え、シベリアに抑留される
1948年
復員。その後、進駐軍の基地でエンジニアとして働く
1956年
帰米。ロサンゼルスで飲食業に従事。熊本県人会会長などを歴任

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