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タイトル 「ソ連兵への恐怖と抑留生活」 番組名 [BS1スペシャル]女たちのシベリア抑留 放送日 2014年8月12日
氏名 齊藤 治さん(シベリア抑留 戦地 シベリア(ハバロフスク) 満州(佳木斯)  収録年月日 2014年05月30日、31日

チャプター

[1] チャプター1 満州の生活  05:18
[2] チャプター2 見習い看護婦として動員  03:35
[3] チャプター3 突然の爆音  03:27
[4] チャプター4 ソ連兵への恐怖  05:04
[5] チャプター5 信じられなかった敗戦の知らせ  02:24
[6] チャプター6 逃げてきた避難民たち  03:56
[7] チャプター7 連れ去られた仲間  03:34
[8] チャプター8 抑留の始まり  04:07
[9] チャプター9 帰れない  05:12
[10] チャプター10 義勇軍の少年たち  06:47
[11] チャプター11 つらい日々  03:50
[12] チャプター12 病に倒れる  04:59
[13] チャプター13 次々死んでいく患者たち  06:40
[14] チャプター14 不安な別れ  03:32
[15] チャプター15 帰国  02:36
[16] チャプター16 抑留者の労苦  01:45
[17] チャプター17 心に重く刻まれた抑留体験  02:51
[18] チャプター18 シベリア抑留を振り返って  04:11

提供写真

再生テキスト

齊藤さん:これ私です。

長女・横田明子さん:かわいい。

Q:ねぇ。このポーズがいいですね。
これ女学校の校庭で先生と。

これ弟の卒業、中学校。

Q:向こうの中学校ですか?

向こうの中学。

Q:佳木斯(ジャムス)の?

ええ、亡くなりました。少年義勇隊だかに、学校からやられて向こうから帰ってきたんだけど。

明子さん:この人たちがみんな行ったの? 看護婦さんになったの?

かもさんでしょ? みっちゃん、亡くなっちゃった。この人とこの人分かりません。どこいっちゃったか。この山梨で。弟さんが東北病院のお医者さんになってきたんですよ。帰ったけど、山梨に。

Q:ありがとうございます。

明子さん:みんなかわいい。ほんとみんなかわいい。

Q:満州に行ったのは小学校何年生のときですか?

小学校5年生くらいかな? 4年生かな? コウスケが1年生に入って私が、4年生です。

Q:5年生のときに肺炎になって・・・

1年間は向こうにいたんだけど、5年生終わるころ、こっちの祖父のところに来たんです。

Q:肺炎になった・・・

肺浸潤で。それで満州の空気が合わないからって帰って。日本の四季の、満州は乾燥してるんですって。こっちに1年間。

娘:1人で帰ってきたのね。

おじいちゃんのところに。母方の祖父のところに。

Q:山形ですか?

ええ、山形です。小さいときから私、初孫でかわいがられてたおじいちゃんなので何の抵抗もなくて大事にされて。

Q:満州の空気とか食べ物なんかはどうなんですか?

食べ物は、ご飯はまずいですよね。満州の。食べ物は豊富です。大豆とかトウモロコシとか。野菜はね、開拓団の人が言ってたけど肥料やらなくても育つって。土地が肥えてて。だから向こうの人はすっかり土地が悪くなると別のとこ耕して野菜作りするんだとか言ってました。私がしたわけじゃないけど。

Q:治(ハル)さんのおうちには、お手伝いさんみたいな人もいたんですか?

ええ、おりました。最初満人(中国人)の人来て、あとは韓国人の人が勉強しながらアルバイトみたいな形で住み込みでいたんでないかな? 住み込みだと思う。朝からいたから。昔ガスなんてないからね、日本と同じでかまど、石炭で炊事する。どこのうちも。電気なんてないし冷蔵庫も・・・

娘:電気ないなら冷蔵庫ないじゃん。

Q:冬は寒いですか?

寒いです。零下何十度ですね。シベリアほどじゃないけど(零下)20度くらいからひどいときは30度くらい。だから学校へ通うとここにこう氷はって。

Q:自分の息でもう?

自分の息で。みんな帽子こう、三角帽子みたいの被って、毛皮ついてる。足は防寒靴履いて、小学生はみんな。女学生もみんな。

Q:女学校入ってから看護婦さんの訓練始まったんですよね?

4年生のときかな? 学校の授業で学んだんですよ。軍の方の命令で。看護婦、祖国一致だからってみんな、小さくてもあれだって。女学校っていっても今の中学校だもんね。

娘:看護婦の訓練っていうのはどこでやったの?

授業と病院さ。満鉄病院ってあったの、学校の隣に。そこで。ただ見てるだけだけどね。だから終戦のとき、向こうに看護婦だなんてあれしたときそこでみんな・・・

娘:注射とかはできたの?

できた。自分で。

Q:看護婦の教育は、女学校で、どういうふうに・・・

女学校で。いちばん最初は授業で。みんなに参戦しなくちゃいけないって言われてみんなお国のために働きなさいって言われて、女学校でやった。実務検分は病院行って手術のとこなんか見て。私は貧血起こした。

Q:何の手術見たんですか?

足の切断です。ひ賊に襲われて、満州の人で満人だっ(て言って)たけどひ賊に追われて逃げてる途中で凍傷になって腐っちゃったんです。

Q:卒業して共立女子大ですよね? そちらの試験で決まったんですよね?

新京(現・長春)で全部東大から何から皆全部一緒に試験して、自分の希望校書くんです。その成績順にいい人、東大は1番上の人とか回して、私は共立(女子専門学校/現・女子大学)に回された。

Q:召集になって、軍のお手伝いですよね?

軍のお手伝いです。あと半分は軍の縫い物。雪のとき戦争するとほふく前進するとき白い布を被ってシーツみたいなのを縫うんです。両方行ったけど最初私たちそっち行ったんだけどあとでこっちに回す。交代でね。交代したとき終戦・・・陸軍病院で実務にはついてない。講習とか見学だけで。それで看護婦になって。

いちばん最初戦争になったとき、夜寝てて雷落ちたと思ったら星空だしあれーって思ったらソ連が不可侵条約一方的に破って侵攻してきて、司令部が陸軍病院の側にあったから。

Q:そこに爆撃?

ええ。でも軍の人はある程度分かってたんではないかな?

Q:何でそう思うんですか?

家族がみな先に引き揚げされてた、誰も残ってなかった。一般庶民の人だけ残ってた。飛行機で移したとかって話は聞いたけど誰もいないんだってっていう話です。

Q:夜中ですよね? 爆弾落とされてみんな結構。

全然騒がなかった。「雷かなー」なんてみんな言って。全然信用してたから。条約あるから絶対来ないって。だからこっちで訓練するんだなんて言ってたから。そのころには訓練生も来てなかったんじゃないかな? 私たち入隊してるころは。もう分かってたんではないかしらね。ある程度。

Q:みなさんソ連参戦して1回解散して家に帰ったんですよね?

帰って、そしたら部隊長が行く前に「できるだけ国のために尽くせ」って言われて、私たちは中学、女学校でも頭にたたき込まれて国のために。うちの母親止めたんです。「一緒に行こう」って。だけど「国のために働くから」って、お下げしてた髪をバツバツって切って「これ私の代わり」って置いて。その髪を両親が山形まで持って帰って毎日陰膳すえててくれたって言っていました。

Q:自分の骨が帰ってくる分からないからこれを置いていくって。

骨帰ってこないと思うからって。「髪の毛置いていく」って言って。昔そういうふうに言ってたんですよ。骨が、戦争行ったら体はね、帰ってこない、殺されて。髪の毛をね、マゲを。昔の侍時代からの名残ですよね。

Q:病院から出発するときにみなさん軍服支給されて。

軍服着た。あと赤十字の腕章つけて。

Q:全員つけたんですか?

全員。

Q:なんのためにつけるっていうことなんですか?

看護婦だからといって。特別、軍人ではないっていうあれでしょうね。かえってそれが夜逃げるとき白いと目立つでしょ?「それ取れ」って言われて。草むらの中に隠れたとき。

Q:畑の間逃げるときですよね?

畑の、道があって川があって、そこの大豆畑。そこの私はみっちゃんと2人で手をつないでた。

Q:ソ連のジープがどんどん後ろからくるんですよね?

来るんです。兵隊さん、護衛をする。向こうでソ連、3人が連れていくの、150人を。だから「いっぱいいるように声出せ」って言われる。少尉さんかな・・・「右へ寄れ!」とかワーとか大きい声で言って。最初のうちはよけてたんです。だけど危ないって捕まってからね、「散れー」って言われて畑の中に。私たち連れてかれた人と私手を繋いでたんだけど、体弱くて細かったんです私。ほんとに弱くて30キロぐらいしかなかったから。そしてみっちゃんも弱かったし2人で落後して、2人の脇ブーッてジープ行くんですよ。団体、真ん中人がいっぱいいるところにぴっと止めて連れて行った。私ら2人なんか目もくれないでそれで助かった。

Q:そのときみなさん青酸カリ持ってたんですよね?

持っていました。みっちゃんが「もう歩けないから飲もう飲もう」って言ったんだけど、「飲むのはいつでも飲めるからもう少し歩いてホントにダメだと思ったら飲みましょう」って飲まないで歩いて。そして向こうに着いたらいちばん最後だって。そこにいたときもテントにロシア兵が襲撃してみんなの大きい声出して後ろから押し倒された。騒いだから軍の幹部の人、将校連中いたから来て、その人たちが今度ロシア軍(ソ連軍)に、ロシアのほうに抗議申し込んで、そして来なくなった。

最初のうち毎晩くるんだもん。みんなそのたびに大きい声出して。

Q:どういうふうに叫ぶんですか?

ダメダメダメー。なんていったか分からない。声だけ大きい。

Q:実際引っ張られそうになった人もいるんですね?

います。入り口の方、カイコみたいに寝てたから。それをみんなが助けた。みんなで。そのテントの人がみんなで。2人ぐらいで来たね、ロシア人。

Q:ロシア兵が入ってくるんですか? 入り口から。入ってきて・・・

引っ張っていくんですよ。それを行かせまいとして、みんなで引っ張っておさえる。それで助かった。

Q:そのときはさらわれた人はいないんですね。

いなかったです。騒ぎを大きくしてロシアの上層部に言った。申し込んだって将校の人が言ってました。

娘:そのころは終戦って分かってたの?

終わったからそうして逃げた。方正行くとき8月18日に天皇陛下のお言葉聞いて死んだ人もいる。青年将校なんか自決した人もいる。戦争で負けたっていって。

娘:どこで聞いたの? そこで? みんなで?

若い方がコロって亡くなって何人亡くなったかは分からないよ。

Q:戦争負けたときどう思ったんですか?

そんなことないと思った。絶対勝つと思った。神風吹いて。神風を信じてました。神風特攻隊なんてね。あの方たちもみんな亡くなったでしょ? 学生で行ってね、学生で行くと見習い士官から将校になるんですよね?大学生だと。その方たちだと思うのね、うちにきたの。

Q:みなさん8月18日に戦争に負けたって聞いて。

部隊長が読んだんです。みんな泣いてね。私信じられなかったな。みんな力なくなったみたい、それまで国のためにって一途だったから・・・みんなそうでした、私だけでなくて。

方正、最初に集まるとこあったんですね。集合させられたんだけど。そこに1か月近くいたんじゃないかな。そのとき開拓団の人がぞくぞくぞくぞく来て大変な格好で来たんですよね。

Q:大変な格好ってどんな?

テレビで見るような、襲われて食うや食わずで逃げてきて。大変でした。食べ物もなくてかわいそう。そしたらちょうど山形の人がいたね。山形の開拓団。私も食料持たせられたから最初、乾パンとかね。あれ半分あげて食べたら喜ばれたけど、その人たちも生きて帰ってきたか、分かりません。そこの方正の村の人が先に行くって言ってハルビン方面目指して行ったんだな。そしたら10日ぐらいしたら戻ってきたのよ。それが3分の1もいないの。みんな、村に逃げていくでしょ? 村に入るとこっちを閉めてこっちを閉めて襲うんです。殺されたりして。「もう逃げられない」って言って戻ってきたの。その人たちが、私たちが行ったときにそこの奥さんが「私たちどうせあれだから」って言って「みんないるもの持っていきなさい」って言ってよこしてくれて、ご飯食べさせてくれたりあれしてくれた人だったんだけど逆になっちゃった。ひどいみじめな格好で帰ってきて、そのあとどうだか分からない。私たちは私たちで連れていかれたからね。

Q:子ども連れてこられなくて。

子どもはね・・・村で団長さんが「これから連れて行っても、のたれ、飢え死にする、歩いて行かなくちゃいけないから、殺せ」って言う命令。で、校庭で殺したんですって。みんな。そのときはもう、頭が少しみんなおかしくなってたからね。集団意識もあったでしょうね。子どもの方も覚悟して「お母さん、痛くないように殺してね」って。その校庭で殺してきたんですって。そういう話を聞いたんですよね、その開拓団。だけどそのうち落ち着いてきたら、子どもに悪い、気が狂っちゃってね。2~3人、川さ、松花江に飛び込んで、次から次と死んだんじゃないですか。

Q:みなさんの間でさらわれたのって一人だけですよね?

同級生です、私の。その人のお姉さんがね、私帰ってきたとき上野駅で今でいう大学生たちと一緒に引き揚げ者の面倒みてたんですよね。一生懸命聞いているけどみんな言えないんですよね。

Q:さらわれたとは言えないですよね。

だけどやっぱり現実だから誰か言ってくださったみたいです。

Q:さらわれていく場面は見たんですか?

わーってしてみんな騒いで引っ張ったりしたんだけどそのジープに3~4人乗ってたんですね。天井に銃をばばばばばーって、脅かしのね。将校がいちばん先、(宿舎にしていた建物が)長いでしょ? 走ってきたときはもうダメだった。その将校の方も必死になって来たんだけど、かばって。

上田房江さん。絵の上手な人でね。

Q:その人はそのとき声出さなかったんですか?

出したですよ。出して大騒ぎしましたよ。「薬飲みますよー」って言ってました。周りに、そばにいた人、私たちずっと遅れて2人だけぽつんと遅れてたから。本当は誰もいないところで普通の状態だったら誰もいないところでさらわれるんでしょうけど、戦争状態ですからね、多いところからっていうのでとったんでしょうね。

Q:薬を持ってるから。

「飲みます」って言ってました。言ったそうです。

Q:みんなに安心させようと思って言ったんですかね?

そういうあれはなかったでしょ。必死で。本能的に言ったんじゃないですか? 生きて帰らないってことを言った。私たちは青酸カリ渡されたとき「生き恥をさらすな」って。「もしそういうときあったら薬飲め」って言われて教育されたから。

Q:そういうふうに言われるとどう思うんですか?

そのときはそう。私たちも純真だから。今はあれだけども、純真でね。ホントに日本は絶対負けないと思ってたし。

カマバのとこから方正行って、方正から船に乗ったんでないかな? すし詰めの。帰すんだっていう話で。

Q:日本に?

そしたら兵隊さんが「これおかしいぞ。帰るんだったらこっちに行かなくちゃいけないのに上に上ってる」って。「これ帰すんじゃないな」って。そしてハバロフスクに降ろされたのかな? そこで歩いて集合地まで。何日?だから足丈夫だったんだろうし。3時間以上歩いたんじゃないかな。真っ暗なとこ。降りたばかりのとき、ロシアの子どもに「ジャポスキー、ジャポスキー」って、石投げられて。

Q:向こうの子どももそういう教育受けてるんですね?

受けてたんだね。上に立つ人がちゃんとしないと、下の人がいちばん迷惑かかるのが一般庶民じゃないでしょうか。

娘:着いたときはそんなに寒くなかったの?

だって8月だもん。8月に終戦聞いてそれに1か月だから。ちょっとだけあったかいの。仮収容所さ行って、そこさどのぐらいいたかな? 2~3か月。1か月かな。そこはちゃんとしたうちで。食べ物もちゃんと出ててたし。将校収容(所)、あれだって書いてあったですね。

そこから今度、車に乗せられてハバロフスクの奥地に連れていかれて、そこが地獄よ。

娘:労働力として捕虜にしたのかな? 労働力のために?

労働力。向こうの人は男女同権だから力仕事も男と同じ。タンバリン(マンドリン/ソ連の機関銃)で脅されてね。

Q:どういうふうに脅すんですか?

こうして、背中つつくんです。

こう丸いのしてこうやって持ってるの。

娘:通称タンバリン?

Q:そうですね。犬もいたとかってね。

すごい犬ね。シベリアで。子牛ぐらいの。どう猛でね。おっかないね。仕事してる周りでちょっとするとかみつく。だから犬がいないとこ、いないとこ。

Q:犬に警備させてる?

警備とタンバリンと。それで仕事する。男の人は石切り場で石切ってる。

Q:治さんも銃でこう。

何回もされましたよ。

ハバロフスクで入って収容所にやられるときその前に一軒家のあれだったです。そこで一糸まとわず全部裸にされて上からシャワー落ちてくるんです。だからみんな殺されるんでないかって一瞬思った。そこから入って出てきて服もらって外で真っ裸にさせられた。一糸まとわずだよ。みんな抵抗は何々だけさせてくれ、何々だけ履かせててくれって。ダメだって。

Q:何のためって説明はないんですね?

説明はない。だからおっかなかったよね。

Q:殺されるんじゃないかと思った?

ええ。だって一軒家ぽつんとあるんだもん。みんなまとまって裸で。

娘:着るものは返してくれたの?

何も。出てからか? 返してくれた。そこで消毒したってね。収容所入って何か月もシラミわいたら同じだよね。何も病原菌持ってくるとか。一応世間並みのことはするんでしょうね。でも捕虜たち仲間のうわさでね。日本人これだけひどい目にあってっけど、ドイツ人もね、ひどい目にあってるって言われて。馬糧コーリャンどころか水しか与えられないって。

Q:うわさ話で?

ええ、うわさ話。あっちのほうで水だけだって。まだまだバタバタ死んでいくって。

Q:誰かそっちの方見てきた人いるんですかね?

さぁそれは分からないけど。結局どっからか流れてきた人が、それともロシア兵が脅かすために言ったんだか。どうだか分からないけど。

Q:治さんはそのころ、いつごろ日本に帰れると思ってたんですか?

全然。もう。目先真っ暗。だってそれまで何回もだまされたんだもの。帰す帰すっていって奥にどんどんどんどん・・・

Q:ずっと帰れないかもしれない。

ええ。思ってました。みんなそうですよ。詩を作りしていて望郷の。帰る日が来る朝が来るとかってみんな歌って心の慰めにしてた。それをみんな歌ってね・・・

Q:いろんな歌あったかもしれないですね。

捕虜の仲間の口ずさみだった。あとよ。別な歌も作った人いた。ハシモトって・・いろんな歌作ってくれた。曲作ってそれ歌って慰めた。

Q:二度と帰れないかもしれないとか?

そう思いました。思ってた。だって、だまされだまされ、だまされてね。帰る帰る帰す帰すっていって、だんだんまだ奥地。こっから出て奥地に行った人もいたし、なんか仕事行ったんでしょうけど。きっと看護婦だから看護系の仕事させられたんでないかな。今になって思うと。

一緒のこっちのほうの兵舎にいた。やっぱり馬糧コーリャンだったでしょ? まして成長期の子ども食欲旺盛なの、栄養失調になるの当たり前なんですよね。栄養失調になって病気なって夜中に。病人になるとこっちの兵舎に集められて、そして夜中に「お母さん、お母さん」って。私たち隣の部屋で「1人死ぬんじゃないの」って。ホントにみじめですよ。

Q:亡くなった人も見たことあるんですか?

隣の部屋だけ。あとその遺体をどうしたか。どこか山の方持って行って埋めてるみたいでした。火葬はしないしね。あと耐え切れないで逃げる。

Q:脱走した人、義勇隊の、逃げようと思ったんですよね?

結局犬とタンバリンで追っかけて行って。凍るでしょ? 川。子ども心にその川越えていくと昔の満州にたどり着くと思って。満州がそうなってるって知らなかったんでしょうね。それで川の上で犬に追っかけられて射殺。それをラーゲリ、収容所の真ん中に見せておくんです。そこ通らないとトイレにいけない。カチカチ凍った遺体、そこさ飾っておいて。見えるように。見せしめに。「逃げるとこうなるんだぞ」って。何もそんなことまでしないでもね。死んだ人に。

かわいそうですよね。小、中学生かな? 私の弟と一緒の歳だからね。

Q:何歳ぐらいの人ですか?

だから中学生だから16~17じゃないかな? 15~16から16~17。開拓団に行って義勇隊にとられて。うちの弟も中学でとられて、だけど逃げて帰ってきたんだけど。要領いいんだな・・・。

娘:そんな子まで捕虜にとらなくてもいいのにね。

Q:ねー。

だから、やっぱり最後はお母さん。それが1人2人じゃない。その声、「お母さん」って切実なのよね。そして次の日あたり亡くなるんだよね。

娘:その人たちは栄養失調で亡くなるの?

栄養失調からいろんな病気になって。肺炎おこしたりね。寒いでしょ? 兵隊さんたち仕事行くでしょ? 帽子知ってる? 毛皮ついてる。鼻出るでしょ?ここ凍傷になるの。ほとんどの人凍傷。私たちもならないようにこうしてこすってあれしてるんだけど。でも女の人の方がね、脂肪があるかなんかそういうわりあい、強いんですよね。男の子の方が抵抗力ないみたい。体力あるでしょうけど。

Q:同じ食料でもね。男の人たちの方が消耗したみたいですね。

娘:学者さんみたいなのがみんな死んでったって言わなかった?

そうそうそう。インテリみたいな人がダメだった。

Q:体力的に弱い?

体力的に弱い。でも終戦後はみなあれだわ。終戦前はみな駆り出されて体力弱く関係なかったもんね。みんな男の人は働き、だから学生はね。子どもまで駆り出したんだから。結局子どもでしょ? 中学校あたりだと。

娘:魚は生のまま食べさせられたの?

それから少し良くなってきてそれが馬糧コーリャンあって、その次、1日1回ニシン1匹生のまま。それ食べるんだけど骨の尻尾まで残す人いなかった。餓死寸前だからみんな。

Q:そのころ気持ちとしてはこの先どうなるんだろうって思いますよね。

もう毎日毎日がいつ殺されても文句ないんだから。理由なんてなんぼつけられるんだから。死の恐怖っていうんですか? 死と紙一重っていうんですか? 私だけでないと思うんだけど毎日がその生活だった。

私が病気して、体、九死に一生得たでしょ?

娘:赤痢で。

そのときただでおかないから。 病み上がりの兵隊さんと一緒に材木の移動、積み込みさせられて、そのとき言うこと聞かないからってタンバリン背中に突き付けて「この材木持て」って言われて。そしたら日本の兵隊さんたちが、その人が気をそらせてそっちの方に何か言ったんですね。

ちょっと連れてった間に別の兵隊さんが、中空いてるのと交換して「重そうな顔して担げ」って。助けてもらった。ホントに私は助けてもらった。ありがたい。

娘:強運なんだね。

Q:そういう木用意してたんですね?

自分たち楽しようと思ってそういうの探してたんでしょうね。あの日、病みあがりだし。それを私によこした。

Q:そのまき拾いのときは兵隊さん方と一緒に作業してたんですね?

まき拾いのときは兵隊さんと一緒ではなかった。女の人だけ。暖房用のまき。こっちは材木の方は兵隊さんと一緒。

Q:材木運びもやったんですね。

うん。だから私重たくて持てないでしょ。2人がかりぐらいで持ったら「1人で持て」って。

Q:向こうはやっぱりいっぱい働かせようと思って。

肩に手をかけてあれしたからフェーってしたら、怒ってね。タンバリンを突きつけて「材木担げ」って言うね。若いから耐えられた。

Q:営倉に入れられたときもあったんですよね?

それはまき拾いのとき。まき拾いで毎日の燃料、各営舎の燃料のまき、山に行くんですよ。犬と一緒に。山だから逃げられると悪い。そしたら少ないって。持ってくるの。少ない人は私とスミさんもいたな。あとシライさんかな? あと2~3人いたな。営倉に入れられて寒いんですよね。営倉。真冬だから。

お風呂ないのよ。だからシラミわいてね。私たちばっかりでない。私だけでない、みんな。兵隊さんもみんなちょっと天気良いと日なた行って、今の子どもシラミ知らないでしょ?びっちり。髪の毛とかすとバラバラバラって。半年、1年近く風呂に入れないし。冬に行って夏頃までか。川見つけて川で洗ってうれしかったあのとき。だけど石けんないしね。女の人は生理に困るし。ないでしょ何も。だからシャツ破ってそれ使って川で洗って干して、それも時間決められてるからね。急いでしないと干してそれ使って。みんな若い人ばかりだし。それが困った、いちばん困った。

Q:物がないですもんね?

何もないですよ。自分の着るものも着の身着のままだから大事にしないといけない。何も支給なんて何もないし帰るまで。

Q:そのとき髪もなんか抜けちゃって。

あのときはそういう食事でしょ。赤痢なったんですよ。そしてダメだって言われた。ある日、寝てるうち夢の中で母親が「がんばれ、がんばれ」って言ってくれて。虹の向こうに母親が立ってるんですよ。ハッと目ついたら「あ、気づいたの?」って言われて「よかったね」って。それからしばらくして起きられるようになった。子どもたちがお母さんっていうのと私が母の顔見て虹の向こうの母を見て助かったのと同じじゃない? やっぱりお母さんて。お父さんの顔は出てこなかった。母の顔だけ。

Q:その虹の向こうに何か行こうとするわけですよね?

お母さんが立ってる。がんばれ、がんばれ。そのときがいちばん危篤だったそうです。私は分からないけど。薬がないんですもん第一。なんていうか、昔、名前覚えてたけど忘れた。スミの薬。

それからそのうち5人、10人てどこに行くとも言われないで移動させられて体の弱い人から移されてた。私も病み上がり、「すぐ移動だ」って言われて。そのときはみんな泣きの、殺されるかあれするか分からないですからね。どこに連れてかれるのかも分からない。駅について汽車に乗せられた。そしたら見世物みたい。ロスケがね。 何時間か乗って病院に着いた。

私が伝染病棟に行ったんです。伝染病棟は私1人しかいなくて、あとのとこは2人ずつ。したらそこにいたのよ。おたくのお父さん(次女の嫁ぎ先の義父のこと)が。最初は知らなかった。重症患者が5人並んでいた。いちばん重い順からこう並んでいる。そしたらいちばん重い方にきて、今日明日の命だった。そしたらさっきの血・・・

娘:重い人血を飲まされる。

お父さん。そしてその前に私がずっと見て患者さんと話してたら「君はどこ出身なの?」って聞かれたから「山形です」って言ったら、「おお、僕も山形だよ。山形の八文字(山形市の書店)って知ってる?」って「ええ、知ってます」って言ったら、本好きだから本読むの好きだった。「しょっちゅう行ってました」って言った。「そうか、生きて帰りたいな」って言った。そしてみんなと話してるうち段々よくなって。病気ってある程度気力もあるんでないかな?

Q:帰るって気持ちがあれば・・・

生きようって思う気持ちですね。あとの4人が負けちゃったのかな。

娘:血を飲まなかった?

飲まなかった。時間差あったけど最後には全部亡くなった。4人。あと立って軽い患者、軽傷患者、伝染病。だけどもこうしてしゃべってるでしょ?そのうちしゃべってて、がくってなってそれで終わり。簡単だよ、栄養失調で死ぬ。

Q:婦長さんがいろいろ気遣ってその人に励ましたりしてたって。

その人と副婦長さんかな。その下に偉い人いたのね。その人とすごく仲良かったの。その人も出るっていったらその婦長さん、その婦長さんの次の人も出るって一緒に出されちゃった。どこ行くか分からないんだから殺されるかどこに連れていかれるか分からないんだから。みんな出ていくときは私出ていくときみっちゃんもみんな泣いて泣いて。

娘:ユダヤの収容所みたいだね。どっかに連れてかれて殺されて。

泣いて泣いて。私のあれなんか走ってきて追いかけて車の中止められるのも振り切って追っかけて、手振って。でもそっちの病院の方が食事も出るし良かった。

Q:走って追いかけてくれるんですね?

映画みたい。

娘:病院に行くときに? 病院に勤務か分からなかった?

みんな。兵隊さんもみんな送ってくれた。どこ行くか分からない。兵隊さんもみんな出てきて送ってくれた。映画みたい。

Q:今考えればね。そのころは必死ですよね?

必死です。不安でいっぱいですよね。殺されるかあれされるか。殺される話なんか何回も耳にしてるしね。ちょっと悪いことすると悪いことはない、何も。

娘:石切り場でずっと最後まで働いてた人もいたの?

さぁ、分かんないな。私はいちばん早いうちに出されたから、病気して。死にそうになって。痩せてた上にまだ痩せてでしょ? 食べ物はろくなの食べてないし。

娘:病弱なのによく生き延びられたね。

白系露人の人がね。私たちのグループの中で誰か2人行ったんですよ。そしたら「かわいそうだねー若いのに」って。老夫婦だった。

Q:日本語話せるんですね?

話せないけど手振り身振りでね。「かわいそうだ」って。ある程度こっちも長くロシア人に囲まれてるとロシア語私ペラペラだった。これ全部忘れたんです。もうカルテまで書けるようになってたです。

Q:ロシア語で?

それが全部忘れた。

Q:カルテまで書いてたんですね?

書かせるんですよ。自分たち楽したいから。注射すると全部あれだし、本物の看護婦みたいだった。

娘:そのときはもう帰れるって分かってたの?

分かんない。だからみんな泣きの涙で送った。そうでしょ? どうなるか分からないんだから。ナホトカに来て日の丸見て、初めて「帰るんだ、これが本当なんだ」ってあのときの涙忘れない。

娘:そのときに一緒だった人は誰?

みっちゃんは別だし、離せられたし。スミさんとかシライさんとか。おじさーんて。だけどナホトカまで来て不届きあるとまた奥地。かわいそうだったよそこまできて。兵隊さんまた奥地に連れてかれてまた仕事させられて。すると何年か動けないでしょ。

Q:ナホトカで態度が悪かったから奥地に帰された人もいたんですね?

いた。ぞろぞろと、ほんとに気の毒だった。「戻れ、戻れ」って言われて、だから私たち必死になって「スターリン万歳、スターリン万歳」って。洗脳のあれで。洗脳が足りないんだからって連れてかれた。日本にも帰れると思って何か言ったんでしょ?

Q:スターリン万歳っていうの誰が指導するんですか?

ロスケ。どこでもスターリンの写真。部屋にもべたべたべた。

Q:看板みたいなおっきいやつとか。

大きいの。駅なんかいったら大きい看板スターリン。

Q:そんなの言いたくないですよね?

言いたくないみんな。船に乗ったとたんに「スターリンのバカー」。船に乗ったら落とされないもの。もう日本の船だから船は。日の丸貼ってあるしね。

Q:日本の領海とか行ったら安心なんでしょうね?

日本の国内。みんな言ったよ。私だけでなく。

Q:ロシアのほう向かって?

聞えたっていいもん。みんな言ったあのときは。誰も洗脳されていないよね。それだけひどい目にあって。

ナホトカで最後になった配給、おいしいの我慢して持って帰ったらみんなにびっくりされた。「こんなの食べてたの?馬の食べ物みたいだね。」って。でも黒パンって、ロシア人も食べてたから。でももっといいけど質が。

Q:ナホトカで食べないで持って帰ろうと思ったんですね?

一応日本の人に見せてあげようと思って。こういうもの食べてたんだよって。一切れ持ってきた。そしたらみんなにわーってびっくりされて。近所の人みんな集ってびっくりされて、「みんなこういうの食べて我慢して帰ってきたんだよ」って。帰ってくれば帰ってきたで今度山形は戦災に遭ってないから閉鎖的で、引き揚げ者でしょ。ここにも書いてあるけど引き揚げ者ってハーモニカ長屋に。私は祖父がいたから。

Q:帰ったときにもう軍服で帰ってきたから。

みんな涙で迎えてくれて。帰ってきて風呂に入っていっぱい、じいちゃんなんか涙流しながら「よく帰ってきた」って。帰りの汽車も上野からこっちくるまですし詰めで、学生さんですか?全部こっちに帰る人を案内する。送ってくれて。私たち座らせてみんな立ってましたからね。座れなくて。何時間もかかってつくんだよ、遅いから。8時間くらいかかったんでない? 上野から山形行くまで。

Q:日本に帰ってきてから引き揚げ者の人っていうとちょっとこう。

白い目で見られる。本当はご苦労様って言ってほしいんだけど。

Q:そんなに苦労してきたのに。

食べ物もないしね。私は幸せだった、祖父がいたから。祖父が肉屋さんでしたから。

Q:この間聞いた話で帰ってきたときに駅から歩いてくるときに格好も変わってるしみんなに見られたって。

見られた、みんなびっくりして見てた。女が。私病気した後で髪の毛ないでしょ?重病すると全部抜けるんですよね。髪。

娘:全然なかったの?

ぽよぽよぽよって赤ちゃんみたい。こうすっとズルズルってお岩様みたい。ずーってぬけて。シラミと一緒に。病院に行ってからシラミはいなくなった。頭にはね。

Q:帰ってきてからシベリアにいたとかソ連の捕虜になったとかそういう話ってあまり。

したってね、みんな興味ないです。

娘:志願したのにね。志願して看護婦さんになったのに。

Q:特に自分から隠そうとか人に知られないようにしようっていう気持ちはなかった?

ないです。だって隠しようないし狭い街だし。今より小さかったもの、山形市。あとじいちゃんのカバーがあったからね。

Q:お二人もこの間子どものときに夜中うなされてるときあったとかって。

私4~5年うなされた。

次女・五十嵐愛子さん:4~5年どころじゃない。ずっとうなされてた。私ずっと小さいから一緒に寝てたんですよ。

Q:どんなふうな?

何か疲れたりすると夢見るんですよ。そうするとソ連兵がタンバリン持って来て追っかけてきて。

愛子さん:このことは聞いちゃいけないと小さいながらにずっと思ってたから。絶対聞かなかった。

最近なんか全然見ないけどあのときはほんと恐ろしかった。

Q:そのうなされてるの見てて。

愛子さん:聞いててこれは聞いちゃいけないんだな。子どもながらにずっと思ってたから。絶対聞かなかったもんね? でも時々ぽろっていうのが怖くて。話が。

Q:例えばどういう話を聞くんですか?

愛子さん:さっきの少年兵の話とか。同じ年頃のときに。同じ年頃のときに「みんなお母さんお母さんって言って死んでったんだよ」って話されると。ふれちゃいけない。絶対ふれなかった。今回初めていろんな話聞けて。

Q:いちばん苦しかったときってどういうときですか?

いちばん向こうに行ったとき苦しかったです。本当にみんな餓死寸前みたいで。それで使役させられて。犬とあれでね。ちょっと働きが悪いと営倉に入れられるし。本当に大変でした。あのときは本当に生きた心地がしないというか。「殺されるのかしら、なにされるのかしら」って。みんながそう思っていたと思いますよ。口には出さない。でも話と言うと、みんな自分のふるさとの話。思い出して、みんなで話しするとかね。それがいちばんの慰めだった。毎日同じ話、あと食べ物の話。どこであれ食べたとか。結局人間って、見てもわかるけど、餓死するって大変ですよね。本当に。少年兵がかわいそうだったわ。今の子どもの、その時代の子どもの気持ち、でも最初はみんな国のためって張り切って出てきたんだけど。まさか負けると思わなかったしね。

Q:家族のことは心配になりませんでしたか?

みんな死んだって教えられた。日本もみな焼け野原で死んだって。だから私ナホトカに着いても、父の顔見るまで、信用できない。どこ行こうかって言って、私と一緒に病院に勤めた人が一緒に帰ってきて。その人と一緒に、そしたらナホトカについたらその人に手紙が来ていたの。「私のうちあるから、あなた私のうちに行きましょう」って言われて。だから私「お世話になるね」って。「うちさ行っても焼け野原で誰も生きていない」っていうから。って出てきたら父がいて。それから急展開したの。父がいたもんだからみんな元気ついてね。脇にいた兵隊さんまでお相伴してたわ。おにぎりいっぱい持ってきたんだもの。ご飯食べてないだろうって。

でもこのごろ思うんだけど、人の経験できなかったことをして、自分の一生を終えるんだから、いろんな経験してもらって、帰ってきてからは幸せに暮らして、幸せとどん底と両方味わえて。人間としては幸せだったな、と思ってます、最近は。何も知らないお嬢様で死ぬよりも、いろんな経験して、いろんな体験してそれだけ豊富でしょ。いろんな経験。幸せだなと思っています。今は。

出来事の背景

【女たちのシベリア抑留】

出来事の背景 写真 昭和20年8月9日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、150万を超す大兵力で中国東北部、満州へ侵攻を開始しました。満州を防衛する関東軍は弱体化していてソ連軍に対抗できず、規定の作戦計画に従って司令部を南へ後退させました。取り残された開拓団など民間人の多くは、現地住民の襲撃、混乱の中での集団自決、収容所での飢餓や病によって命を落としました。また57万の関東軍将兵や民間人が労働力としてソ連に連行され抑留を強いられました。いわゆる、シベリア抑留です。
 氷点下30度を下回る寒さの中、わずかな食糧しか与えられず、過酷な労働が強いられました。抑留された人の中には女性も含まれていました。女性の抑留者は、数百人に及ぶと考えられています。

 抑留された女性たちの多くは、日赤看護婦を始めとする「従軍看護婦」でした。戦時中、日本赤十字社は看護婦を養成し、軍の求めに応じて送り出していました。看護婦たちは、軍の部隊と行動を共にし、負傷兵の収容や看護に当たりました。ソ連軍に攻め込まれ撤退する際には、部隊は病院に火を放ち、看護婦全員に、青酸カリが配られました。「日本の女らしく、堂々と死になさい」という、いざというときの自決の準備だったのです。
 終戦後、ソ連軍から「日本に帰国させる」との説明があり、看護婦たちは、兵士たちと一緒に船に乗るよう命じられますが、船が着いたのはソ連のハバロフスク。シベリア抑留の始まりでした。昭和20年の冬から、少人数に分けられ、各地の収容所に送られます。酷寒のシベリアに送られた女性たち。その抑留生活は長期に及び、中には10年を超えて帰国を果たせない人もいました。

証言者プロフィール

1927年
山形市に生まれる
 
11歳のころ、家族で満州へ
1945年
佳木斯高等女学校卒業。佳木斯第一陸軍病院へ動員される
 
方正で終戦を迎える。シベリア・ハバロフスクへ
1947年
帰国

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シベリア(ハバロフスク)

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